結城秀康は家康次男、秀吉養子、結城家継承者。徳川で冷遇も秀吉寵愛で武将開花。関ヶ原で大役果たし越前68万石を得て福井藩礎を築く。豪勇と情を兼ね備えた人物。
日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、その生涯が最も数奇な運命に彩られた武将の一人に、結城秀康がいる。彼は、天下人となった徳川家康の次男として生まれながら、関白豊臣秀吉の養子となり、さらには関東の名門・結城晴朝の後継者として家督を相続するという、三人の「父」を持つ稀有な経歴の持ち主であった 1 。この特異な出自こそが、彼の生涯を貫く葛藤と栄光の源泉となった。
秀康の人物像は、しばしば二つの対照的な側面から語られる。一つは、その武勇抜群にして剛毅な性格であり、父・家康や養父・秀吉からもその器量を高く評価された猛将としての一面である 3 。もう一つは、徳川家の後継者争いから外され、政略の駒として他家を転々とさせられた悲運の貴公子としての一面である 5 。
本報告書は、これらの断片的なイメージを統合し、彼が直面した時代の荒波と、その中で形成された複雑な人間性を深く掘り下げることを目的とする。父たちとの関係、二度の養子縁組が彼に与えた影響、そして彼が自らの力で築き上げた功績を丹念に追うことで、単なる「家康の次男」や「悲劇の武将」という枠を超えた、結城秀康という一人の人間の実像に迫る。
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
当時の姓名・官位など |
1574年(天正2年) |
1歳 |
2月8日、遠江国宇布見村にて誕生 7 。 |
於義丸(おぎまる) |
1579年(天正7年) |
6歳 |
異母兄・松平信康が自刃。徳川家の後継者問題が浮上する。 |
於義丸 |
1584年(天正12年) |
11歳 |
小牧・長久手の戦いの和睦条件として、羽柴秀吉の養子(人質)となる 8 。 |
羽柴三河守秀康 |
1587年(天正15年) |
14歳 |
九州征伐に初陣。豊前岩石城攻めなどで武功を挙げる 9 。 |
羽柴秀康 |
1589年(天正17年) |
16歳 |
秀吉に実子・鶴松が誕生。豊臣家の後継者としての立場が微妙になる 9 。 |
羽柴秀康 |
1590年(天正18年) |
17歳 |
小田原征伐に参陣。秀吉の命により、結城晴朝の養子となり結城家を継承 7 。 |
結城秀康 |
1592年(文禄元年) |
19歳 |
文禄の役に参陣。 |
結城秀康 |
1595年(文禄4年) |
22歳 |
結城領の検地(文禄検地)を実施し、石高を10万1千石と確定させる 8 。 |
結城秀康 |
1598年(慶長3年) |
25歳 |
結城城下の新たな町割りを完成させる 8 。 |
結城秀康 |
1600年(慶長5年) |
27歳 |
関ヶ原の戦いにおいて、家康の命で宇都宮に布陣。上杉景勝の抑えという大役を果たす 3 。 |
結城秀康 |
1601年(慶長6年) |
28歳 |
戦功により、越前北ノ庄68万石を与えられる。福井城の築城と城下町整備に着手 5 。 |
結城秀康 |
1604年(慶長9年) |
31歳 |
名字を松平に改める(諸説あり)。 |
松平秀康 |
1605年(慶長10年) |
32歳 |
権中納言に昇進。弟・秀忠が第二代将軍に就任 1 。 |
越前中納言 |
1607年(慶長12年) |
34歳 |
閏4月8日、病により越前で死去 1 。 |
越前中納言 |
結城秀康、幼名・於義丸は、天正2年(1574年)、遠江国宇布見村(現在の静岡県浜松市)で生を受けた 7 。父は徳川家康。母は、家康の正室・築山殿に仕える侍女であったお万の方(長勝院)である 4 。この出自そのものが、彼の生涯に影を落とす最初の要因であった。
お万の方は身分が低く、さらに家康が彼女に手を付けたことは、正室である築山殿の承認を得ていなかった。当時の武家の厳格な家格秩序において、正室は側室を公認するか否かの権限を有しており、築山殿の許可なく子を身ごもったお万の方は、その権威を侵す存在と見なされた 4 。嫉妬深い築山殿の怒りを恐れた家康は、お万の方を浜松城から退去させ、重臣の本多作左衛門重次にかくまわせ、その庇護のもとで秀康は密かに出産された 3 。
さらに、秀康の誕生には「双子説」という不吉な影がつきまとう。彼は双子として生まれ、弟は永見貞愛となったという説である 6 。当時、双子は「畜生腹」などと呼ばれ、武家社会では忌み嫌われる傾向にあった。この説が事実であれば、家康が秀康を遠ざけた理由の一つとして、十分な説得力を持つ。彼の誕生は、祝福されるべきものではなく、当初から隠され、忌避されるべき秘密として扱われたのである。
秀康は、生涯を通じて「自分は父親に嫌われている」という意識を抱き続けたと言われる 3 。その根拠は、彼の幼少期の扱いに色濃く表れている。幼名の「於義丸」は、一説には顔がナマズ(当時の呼び名でギギ)に似ていたためとされ、父からの愛情の欠如を物語る逸話として伝えられている 6 。
事実、家康は秀康が生まれてから満3歳になるまで、一度も顔を合わせようとしなかった 4 。この冷遇を不憫に思ったのが、16歳年上の異母兄・松平信康であった。信康が父・家康を説得し、ようやく父子の対面が実現したという 4 。この逸話は、家康の冷淡さだけでなく、信康の温情と、幼い秀康が徳川家の中でいかに孤立していたかを浮き彫りにする。信康という唯一の庇護者の存在は、秀康にとって束の間の光であったが、この兄の存在こそが、後の彼の運命をさらに複雑にすることになる。
この「家康に嫌われた」という通説は、単なる個人的な感情の問題として矮小化されがちであるが、その背景にはより複雑な政治的判断があったと見るべきである。築山殿との関係、双子という不吉な噂、母の身分の低さ。これら全てが、家康にとって秀康を公式に認めることを躊躇させる要因となった。家康の冷遇は、個人的な嫌悪というよりは、自らの家中の安定を優先した結果の、政治的な振る舞いであった可能性が高い。
天正7年(1579年)、秀康の運命を大きく左右する事件が起こる。兄・信康が、武田勝頼との内通疑惑を織田信長にかけられ、家康の命により自刃に追い込まれたのである 6 。徳川家の嫡男が不在となり、序列から言えば、次男である秀康が後継者となるのが自然な流れであった。
しかし、家康が後継者として選んだのは、秀康の弟である長松、後の徳川秀忠であった 2 。通説では、秀康の母の身分が低かったことがその理由とされる 2 。しかし、秀忠の母・西郷局もまた側室であり、この理由は決定的なものとは言えない。むしろ、秀康の出自にまつわる一連の不都合な事情、すなわち築山殿との確執や双子説といった「穢れ」のイメージが、家康に彼を後継者とすることをためらわせたのではないか。信康の死によって、秀康は「厄介者」から「後継者候補」へと立場が変わったが、それは彼を徳川家の中でさらに扱いにくい存在にしただけであった。家康にとって、より「清廉」な出自を持つ秀忠の方が、徳川家の未来を託すにふさわしいと考えたとしても不思議ではない。こうして秀康は、徳川家の後継者という道から、完全に外されることとなった。
天正12年(1584年)、織田信雄と組んだ家康は、天下統一を目指す羽柴秀吉と小牧・長久手の戦いで激突する。戦いは膠着状態に陥り、やがて和睦交渉が開始された。その和睦の条件として秀吉が要求したのが、家康の子を人質として差し出すことであった 8 。これは「養子」という体裁をとってはいたが、実質的には臣従の証としての人質に他ならなかった 5 。
この時、家康が人質として選んだのが、11歳の秀康であった。当時、嫡男信康は既に亡く、秀康の下には6歳の秀忠がいたが、家康は年長の秀康を差し出すことを決断した 3 。一説には、家康は当初、異父弟の松平定勝を送ろうとしたが、母・於大の方の猛反対にあい、断念したという 9 。この経緯は、徳川本家における秀康の立場がいかに軽んじられていたかを如実に物語っている。彼は、徳川家にとって最も「差し出しやすい」駒だったのである。
大坂へ送られた秀康は、秀吉から養父・秀吉の「秀」と実父・家康の「康」の字を与えられ、「羽柴三河守秀康」と名乗ることになった 3 。家康は餞別として名刀「童子切安綱」を授けたとされるが 4 、この行為が父としての愛情の表れだったのか、あるいは徳川家からの正式な離別を意味する儀礼だったのかは、解釈が分かれるところであろう。
徳川家では冷遇された秀康であったが、意外にも養父・秀吉からは実の子のように可愛がられたという 16 。秀吉のもとで元服した秀康は、武将としての才能を開花させる機会を得る。天正15年(1587年)の九州征伐では初陣を飾り、豊前国岩石城攻めで先鋒を務めるなど、目覚ましい武功を挙げた 9 。その後も小田原征伐(1590年)や文禄・慶長の役にも参陣し、着実に武将としての名声を高めていった 1 。
彼の激しい気性と、それを許容した秀吉の寵愛ぶりを示す逸話が残っている。16歳の秀康が伏見の馬場で乗馬を楽しんでいると、秀吉の家臣が競い駆けを仕掛けてきた。これを無礼と見た秀康は、その家臣を即座に斬り捨ててしまったのである 3 。通常であれば厳罰は免れないところだが、報告を受けた秀吉は「我が養子をないがしろにするのは、この秀吉への無礼と同じこと。秀康の処置は天晴れである」と述べ、一切罪に問わなかったという 4 。
この出来事は、単なる若さゆえの血気とは片付けられない。人質という不安定な立場にあった秀康にとって、周囲からの侮りは自らの権威の失墜に直結する。彼は、この過激な行動によって、自らが秀吉の威光を背負う特別な存在であることを、豊臣家中に明確に示したのである。そして秀吉の追認は、その政治的な示威行動を成功させた。皮肉なことに、実父に疎まれ差し出された先で、秀康は天下人から認められ、武将として成長するための最高の環境を手に入れたのであった。
豊臣家の養子として、秀康は一時的に天下人の後継者候補という立場にさえあった。しかし、その運命は天正17年(1589年)に大きく転換する。秀吉に、待望の実子・鶴松が誕生したのである 6 。
血を分けた後継者が現れたことで、政略的な養子であった秀康の存在価値は、豊臣家において著しく低下した。秀吉の愛情は鶴松に集中し、秀康は再びその居場所を失うことになった。この出来事が、彼の次なる養子縁組、すなわち結城家への入嗣を直接的に引き起こすことになる。彼は再び、天下人の都合によってその運命を左右される駒となったのである。
豊臣家に実子・鶴松が誕生し、秀康の立場が宙に浮いた頃、関東の名門・下総結城氏の当主である結城晴朝が、自家の存続をかけた一手を打った。晴朝には男子がおらず、後継者問題に悩んでいたのである 7 。
天正18年(1590年)の小田原征伐の際、秀吉が宇都宮に陣を進めると、晴朝はこれを好機と捉えた。秀吉を丁重にもてなし、その席で「秀吉公の御一族から養子を迎え、家名を存続させたい」と願い出たのである 4 。これは、晴朝の老練な政治判断であった。天下人となった豊臣家、そして関東に移封され新たな支配者となる徳川家。その両方と縁戚関係を結ぶことができる秀康を養子に迎えることは、結城家にとって最高の安全保障策であった 17 。
秀吉はこの申し出を快諾。こうして秀康は17歳にして、晴朝の養女(江戸重通の娘)・鶴姫と婚姻し、結城家第18代当主として、下総国結城10万1千石の領主となった 7 。徳川家康の次男が、豊臣秀吉の養子を経て、関東の名族の当主となる。前代未聞の経歴を持つ大名が、ここに誕生した。
領主となった秀康は、単なる名目上の当主ではなかった。彼は優れた統治能力を発揮し、領国経営に手腕を見せた。
まず、文禄4年(1595年)には、結城領全域にわたる大規模な検地(文禄検地)を実施した。これにより、領地の石高を10万1千石と公式に確定させ、安定した統治と税収の基盤を確立した 8 。これは、領主としての支配権を明確に示すための基本的な、しかし極めて重要な事業であった。
さらに、城の西側に新たな城下町を建設するという、大規模な都市計画にも着手した。慶長3年(1598年)に完成したこの町割りは、碁盤の目状に整備された合理的なもので、その区画は現在の結城市北部市街地の骨格として今なお残っている 8 。これらの実績は、秀康が武勇だけでなく、領民の生活を支える内政の才も兼ね備えていたことを証明している。彼が後年、より広大な越前福井藩で成功を収めたのは、この結城時代に培った実践的な統治経験があったからに他ならない。
結城家の当主となっても、秀康の立場は依然として複雑であった。彼は豊臣政権下において「羽柴結城少将」と呼ばれていた 1 。この称号は、彼が結城家の当主であると同時に、依然として豊臣家の一門として扱われていたことを示している 12 。
このため、彼は二重の主従関係の中に置かれることになった。豊臣家の家臣であり、結城家の当主でありながら、軍事的には実父・家康の指揮下にもあった。例えば、奥州で葛西大崎一揆が勃発した際、鎮圧にあたっていた蒲生氏郷らから援軍要請を受けた家康は、秀康に出陣を命じている 12 。これは、秀康が独立した大名というよりは、関東における徳川軍団の一部として機能していたことを示唆している。徳川、豊臣、そして結城。三つの家に属する彼の立場は、天下の情勢が安定しない限り、常に危ういバランスの上に成り立っていたのである。
秀吉の死後、天下は再び騒乱の様相を呈し始める。この不安定な情勢の中で、秀康は徳川・豊臣双方に連なるその特異な立場を活かし、重要な役割を果たした。
慶長4年(1599年)、加藤清正ら武断派七将が石田三成を襲撃した際、三成の身柄を保護し、居城である佐和山城まで無事に送り届けるという難しい役目を果たしたのが秀康であった。これは父・家康の命によるものであり、秀康の顔が豊臣恩顧の大名たちにも利くことを見越した人選であった。この時の恩義に感じた三成は、名刀「石田正宗」を秀康に贈ったと伝えられている 4 。
また同年、前田利長に家康暗殺の嫌疑がかけられた際には、伏見城にいた家康の護衛を命じられた。この時、秀康は全軍を家康の護衛に充てるのではなく、一部の兵力を伏見城の守備に残すという判断を下した。万が一、暗殺計画が実行された場合、手薄になった城が別の敵に狙われる可能性を考慮したのである。後にこの判断を知った家康は、秀康の先を見通す洞察力と冷静な判断力を高く評価したという 7 。これらの逸話は、秀康が単なる猛将ではなく、複雑な政治状況を読み解く知略をも兼ね備えていたことを示している。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。西上する家康は、秀康に極めて重要な戦略的任務を与えた。それは、徳川軍本隊には加わらず、下野国宇都宮に留まり、北方の上杉景勝と、去就が不透明な伊達政宗ら関東・奥羽の諸大名を牽制する「関東の抑え」という大役であった 3 。
この任務は、家康の秀康に対する信頼が、もはや揺るぎないものになっていたことの証左である。徳川の本拠地である関東の守りを任せることは、絶対的な忠誠心と卓越した軍事能力を持つ将でなければ不可能であった。家康が伊達政宗に対し「秀康とよく相談の上、上杉に備えるように」と書状を送っていることからも 6 、秀康が独立した方面軍司令官として全権を委ねられていたことがわかる。
下野国小山における軍議(小山評定)の席上、秀康自らがこの困難な役目を買って出たとも言われ、その申し出に家康は感涙したと伝えられる 7 。かつて冷遇した我が子が、今や徳川家の命運を左右する重要な局面で、最も頼りになる存在となっていた。秀康はこの大役を見事に果たし、上杉軍を関東に釘付けにし、家康が西での決戦に集中できる状況を作り出した 19 。これは、関ヶ原における東軍勝利の隠れた、しかし決定的な貢献であった。
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、論功行賞が行われた。秀康の功績は絶大と評価され、彼は破格の恩賞を受けることになった。下総結城10万1千石から、一挙に越前国北ノ庄68万石(一説に67万石)へと加増移封されたのである 3 。これは、関ヶ原後の加増幅としては最大級のものであり、家康の秀康に対する評価の高さを物語っている。
しかし、この大加増は単なる父から子への温情ではなかった。それは、家康の冷徹な天下統一戦略の一環であった。越前は、豊臣恩顧の最大の外様大名であり、加賀百万石を領する前田氏の領国と境を接する、極めて重要な戦略拠点であった 3 。家康は、この地に自らの子であり、武勇に優れた信頼できる将を置くことで、前田氏を牽制し、北陸道と畿内への睨みを利かせようとしたのである 3 。68万石という巨大な石高は、前田氏に対抗するための軍事的・経済的基盤として不可欠なものであった。秀康は、徳川政権の安定を担う「藩屏」、すなわち国家の盾としての役割を期待され、越前の地へと赴いたのである。
慶長6年(1601年)、秀康は新たな領国である越前に入封した。この移封は、単なる領主の移動ではなかった。彼は結城から家臣団だけでなく、彼らに仕える商人や職人、さらには結城家ゆかりの寺社までをも引き連れて越前へ移った。この大規模な集団移住は、後世「結城引っ越し」と呼ばれ、語り継がれている 8 。これにより、秀康は新たな領国経営の核となる、忠実で技術力のある人的資源を確保したのである。
越前福井藩の家臣団は、多賀谷氏や山川氏といった結城家以来の譜代家臣(結城四老など)と、家康から付けられた本多富正をはじめとする徳川系の家臣たちから成る、複合的な集団であった 25 。秀康という強力なカリスマの下ではこの体制は機能したが、彼の死後、この二つの派閥間の対立が藩政の不安定要因となっていく。
越前に入った秀康は、直ちに領国の中心地となる城と城下町の建設に着手した。かつて柴田勝家が築き、焼失していた北ノ庄城の跡地に、大規模な改修と拡張を行い、新たに「福井城」と命名した 10 。この築城は、全国の諸大名に工事を分担させる「天下普請」として行われ、6年の歳月をかけて慶長11年(1606年)に完成した 28 。
完成した福井城は、4層5階の壮大な天守閣を持ち、幾重にも堀を巡らせた巨大な城郭であった 5 。これは、隣国の大大名・前田氏を威圧し、徳川家の権威を北陸に示すための、まさに要塞であった。同時に、秀康は城下町の整備も進め、軍事的な防御機能を備えた町割りを計画した。この時に築かれた都市の骨格が、現在の福井市の基礎となっている 19 。
秀康の領国経営における最大の功績の一つが、治水事業である。彼は、家老の本多富正に命じ、九頭竜川から城下へと水を引くための大規模な用水路「芝原用水」を掘削させた 5 。
この用水路は、福井城の堀を満たすだけでなく、城下の武士や町人のための飲料水を確保し、さらには周辺の田畑を潤す農業用水としても利用された 33 。清浄な水の安定供給は、都市の発展と民生の安定に不可欠であり、芝原用水の建設は、秀康が優れた領国経営者であったことを示す不朽のモニュメントと言える。
慶長10年(1605年)、弟の徳川秀忠が第二代将軍に就任すると、秀康と彼が興した越前松平家は、幕府から「制外の家(せいがいのいえ)」という特別な家格を与えられた 2 。これは、通常の諸大名に適用される法度や規則の一部が免除されるという、破格の待遇であった。
この特別な扱いは、将軍秀忠の兄・秀康に対する深い敬意の表れであった。武将としての器量や名声では兄に及ばないと自覚していた秀忠が、そのプライドを傷つけないように配慮した結果ともいえる。ある時、秀康の行列が禁制の鉄砲を江戸に持ち込もうとして関所で止められた。報告を受けた秀忠は、役人たちに「(兄上に)成敗されなくて幸いであったな」とだけ言い、不問に付したという逸話が残っている 9 。この逸話は、秀康の豪放な性格と、それを許容した兄弟間の特別な関係性を象徴している。この「制外の家」という地位は、秀康の潜在的な不満を和らげ、徳川宗家への忠誠を確固たるものにするための、秀忠による巧みな政治的配慮でもあった。
コード スニペット
graph TD
subgraph 徳川家
Ieyasu[徳川家康]
Oman[お万の方<br/>(長勝院)]
Nobuyasu[松平信康<br/>(異母兄)]
Hidetada[徳川秀忠<br/>(弟)]
end
subgraph 豊臣家
Hideyoshi[豊臣秀吉<br/>(養父)]
end
subgraph 結城家
Harutomo[結城晴朝<br/>(養父)]
Tsuruhime[鶴姫<br/>(正室)]
end
subgraph 越前松平家
Hideyasu[結城秀康]
Tadanao[松平忠直<br/>(長男)]
Tadamasa[松平忠昌<br/>(次男)]
Naomasa[松平直政<br/>(三男)]
Naomoto[松平直基<br/>(五男)]
Katsuhime[勝姫<br/>(秀忠の娘)]
end
Ieyasu -- 実子 --> Hideyasu
Oman -- 実子 --> Hideyasu
Ieyasu -- 親子 --> Nobuyasu
Ieyasu -- 親子 --> Hidetada
Hideyoshi -- 養子 --> Hideyasu
Harutomo -- 養子 --> Hideyasu
Tsuruhime -- 夫婦 --> Hideyasu
Hideyasu -- 親子 --> Tadanao
Hideyasu -- 親子 --> Tadamasa
Hideyasu -- 親子 --> Naomasa
Hideyasu -- 親子 --> Naomoto
Tadanao -- 夫婦 --> Katsuhime
Hidetada -- 親子 --> Katsuhime
注:上記は主要な人物関係を抜粋した略系図です。秀康には他にも多くの子女がいました。
結城秀康は、体躯に恵まれ、武勇に優れた剛毅な人物として知られている 4 。彼の威厳と統率力を示す最も有名な逸話が、相撲見物の一件である。
秀康が父・家康と弟・秀忠を自らの屋敷に招き、相撲を催した時のこと。取組に熱狂した観客たちが興奮のあまり騒ぎ出し、役人の制止も聞かない状態となった。すると、秀康がおもむろに立ち上がり、無言で観客席を鋭く一睨みした。その瞬間、あれほど騒がしかった会場は水を打ったように静まり返り、観客は皆平伏したという。その圧倒的な存在感には、父である家康さえも感嘆したと伝えられている 4 。この逸話は、彼が戦場だけでなく、平時においても人々を従わせる並外れた威厳の持ち主であったことを物語っている。
一方で、秀康はただ荒々しいだけの人物ではなかった。部下や弱者に対する深い情や、礼節を重んじる一面も持ち合わせていた。
関ヶ原の戦いの前哨戦、上杉景勝を宇都宮で抑えていた際、兵糧が不足し兵たちが飢え始めた。役人が「万一の備えのため、今は配給できない」と報告すると、秀康は「今まさに飢えている兵に、後の備えなどあるか」と一喝。自ら米俵を解き、兵一人ひとりに米を分け与えたという 36 。また、家臣が子を亡くした際には、心からの哀悼の意を示す手紙を送るなど、情の深い一面も見せている 4 。
さらに、秀忠の将軍就任を祝う宴席でのこと。将軍の兄である秀康は上座を勧められたが、同席していた上杉景勝の方が官位の先達であり年長であるとして、固辞し続けた。二人が席を譲り合う状況となり、最終的には将軍秀忠の裁定で秀康が上座に着いたが、彼の驕らない態度は多くの大名を感心させたという 20 。これらの逸話は、秀康が戦国武将らしい豪胆さと、新しい時代の秩序を重んじる礼節を併せ持った、懐の深い人物であったことを示している。
秀康の心の中には、養父・秀吉と豊臣家への強い想いが常に存在していた。徳川の世が盤石になりつつある中でも、彼は豊臣家への義理を忘れなかったと言われる。
徳川家の重臣・本多正信が、秀吉の遺児である豊臣秀頼を攻めるべきだと家康に進言しているという噂が流れた際、秀康は激怒したと伝えられる。彼は正信に直接詰め寄り、「秀頼は自分にとって弟のような存在だ。もし秀頼公に危害を加えようとする者がいれば、相手が誰であろうとこの秀康が許さない」と啖呵を切ったという 9 。この逸話の真偽は定かではないが、彼が徳川の一員でありながら、豊臣家に対しても強い恩義と情を感じていたことを示すものとして、広く知られている。彼の生涯は、徳川と豊臣という二つの巨大な存在の狭間で、常に忠誠と情愛の葛藤を抱えていたのである。
秀康の複雑な内面を最も象徴するのが、彼の有名な嘆きの言葉である。ある時、当代きっての人気を誇った芸能者、出雲阿国の歌舞伎踊りを見物した秀康は、その見事な芸を絶賛した後、深くため息をついてこう漏らしたという。
「天下に幾千万の女はあれど、天下一と呼ばるるはこの女なり。我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたるは無念なり」 4 。
この言葉は、一般的に、徳川家の後継者、すなわち将軍になれなかったことへの無念を述べたものと解釈されている。しかし、その意味はさらに深いところにあるのかもしれない。出雲阿国は、自らの才覚一つで「天下一」という誰にも揺るがすことのできない評価と自己を確立した。一方、秀康は家康の子、秀吉の養子、結城家の当主と、常に他者の都合によってその名と立場を変えられてきた。彼の人生は、自らの意志で切り拓いたものではなく、常に誰かの「子」や「後継者」という枠の中にあった。彼の嘆きは、単に将軍という地位への渇望だけでなく、生涯を通じて「自分自身の名」で立つことができなかったことへの、根源的な魂の叫びであったとも考えられる。
越前福井藩の藩主として、まさにこれからその手腕を存分に発揮しようとしていた矢先、秀康は病魔に侵される 14 。慶長11年(1606年)、伏見城の留守居役を命じられたものの、病状が悪化 9 。翌慶長12年(1607年)、領国である越前に戻った後、閏4月8日に34歳という若さでその波乱の生涯を閉じた 1 。
その死因は、当時流行していた梅毒であったと広く信じられている 37 。病状はかなり進行しており、末期症状として鼻が欠けるなどの容貌の変化もあったと伝えられる 37 。
息子の訃報に接した父・家康は、人目もはばからず深く嘆き悲しんだという 39 。かつては冷たく突き放した我が子であったが、今や徳川政権の安泰に不可欠な「盾」として、誰よりも頼りにしていた存在であった。その早すぎる死は、家康にとって大きな衝撃であり、個人的な悲しみであったと同時に、国家的な損失でもあった。父と子の複雑な関係は、拒絶に始まり、信頼と、そして最後は深い悲しみをもって終わりを告げたのである。
秀康の死後、越前松平家の家督と広大な領地は、嫡男の松平忠直が継承した 4 。一方、秀康の遺言により、関東の名門・結城家の家名は五男の直基が継ぐことになった 4 。
父の武勇と激しい気性を受け継いだ忠直は、大坂の陣で真田幸村隊を壊滅させるなど、輝かしい武功を挙げた。しかし、彼は父が抱えていた幕府への屈折した感情もまた色濃く受け継いでいた 42 。将軍の兄の子という高いプライドと、幕府の統制に対する反発から、忠直の言動は次第に常軌を逸していく。父・秀康の権威によって抑えられていた家臣団の内部対立(越前騒動)も再燃し 26 、藩政は混乱を極めた。最終的に忠直は、その「不行跡」を理由に幕府から隠居を命じられ、豊後国へ配流されるという悲劇的な末路を辿る 43 。これは、父・秀康が生涯抱え続けた葛藤が、次代で破綻をきたした結果とも言える。その後、越前福井藩は減封され、秀康の他の子らが継承したが、宗家の血筋は後に途絶え、他家から養子を迎えることとなった 43 。
秀康の最も永続的な遺産は、彼が築いた街並みである。彼が城下町の基礎を築いた茨城県結城市と福井県福井市は、今なおその恩恵を受けている 8 。福井城址に残る壮大な石垣や、今も福井市に水を供給する芝原用水は、彼の統治を現代に伝える貴重な史跡である。
その劇的な生涯は、今なお多くの人々を惹きつけてやまない。令和6年(2024年)には生誕450周年を迎え、ゆかりの地である茨城県結城市と福井県の博物館が連携して大規模な展覧会を開催するなど、彼の歴史的重要性は時を超えて再評価され続けている 44 。
結城秀康の生涯は、徳川家康と豊臣秀吉という、戦国時代の二人の巨人の間で翻弄され続けたものであった。徳川家の後継者という道を閉ざされ、政略の駒として他家を渡り歩いたその前半生は、まさに悲運であったと言える。しかし、彼はその逆境をバネに、類まれな武才と統率力を開花させ、自らの力で武将としての地位を確立した 48 。
秀康が最終的に果たした歴史的役割は、徳川幕府の「藩屏」、すなわち国家を守る最大の盾となることであった 3 。親藩筆頭として、最大の外様大名・前田氏を抑えるべく北陸の要衝に配された彼の存在は、初期徳川政権の安定に不可欠な重石であった。家康が自らの一族をいかに戦略的に配置し、天下の支配体制を構築していったか、秀康の生涯はその最も典型的な事例と言える。
結論として、結城秀康を「将軍になれなかった失敗者」として評価するのは一面的に過ぎる。彼は、与えられた運命の中で、自らに課せられた役割を完璧にこなし、偉大な藩祖として後世に名を残した成功者であった。彼の人生は、戦乱の世から泰平の世へと移り変わる時代の矛盾そのものを体現していた。もし、この有能でカリスマ性に富み、同時に激しい気性を秘めた武将が、あと10年、20年長く生きていたならば、大坂の陣の行方、そして江戸時代初期の歴史は、大きく異なる様相を呈していたかもしれない 20 。その早すぎる死は、徳川家にとって、そして日本の歴史にとって、大きな損失であったと言えるだろう。