氏名: 渡辺 彰(わたなべ あきら)
役職: 歴史学博士、戦国時代史専門研究員
専門分野: 関東地方の戦国大名、国衆(特に上野・武蔵地域)、城郭史、史料学
経歴: 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。現在は、大手歴史研究機関に所属し、学術論文の執筆、専門誌への寄稿、自治体史の編纂事業への参画など、多岐にわたる活動を行う。特に、一次史料と後世の編纂物(軍記物、地誌)との比較検討を通じて、歴史事象の実像に迫るアプローチを得意とする。著書に『関東戦国国衆の興亡—上杉・北条の狭間で』など。
日本の戦国時代、関東平野の北部に位置する上野国(現在の群馬県)は、越後の上杉氏、相模の北条氏という二大勢力の草刈り場となり、現地の国衆たちは激動の時代を生き抜くことを余儀なくされた。ご依頼の人物、赤井勝光は、この上野国東部の館林地域に勢力を張った戦国武将として、特に天文5年(1536年)に隣国の武蔵忍城を攻めたという具体的な軍事行動によって、その名が歴史に刻まれている 1 。
しかし、その生涯や人物像を深く探求しようとすると、我々は複雑な問題に直面する。信頼性の高い同時代の一次史料における「赤井勝光」という名の記述は極めて乏しく、その人物像の多くは、江戸時代に編纂された地誌『上野国志』や軍記物語『館林記』といった後世の記録に依存しているのが現状である 3 。これらの記録は、歴史的事実と後世の創作や伝説的要素が混在しており、その取り扱いには慎重な史料批判が不可欠となる 3 。特に「勝光」という名に加え、「照康(てるやす)」や「照光(てるみつ)」といった複数の名前が同一人物を指すのか、あるいは親子や別人物なのかという基本的な系譜すら、諸説が入り乱れている 3 。
本報告書では、赤井勝光という個人に焦点を当てつつも、彼が属した上野赤井氏全体の歴史的文脈を包括的に分析する。一族の出自の謎、在地領主からの台頭、拠点城郭の変遷、そして関東の覇権を巡る上杉・北条両氏との関わりの中で迎えた結末までを多角的に検証する。断片的な史料と後世の伝承を丹念に突き合わせ、その矛盾や整合性を明らかにすることで、歴史の霧に包まれた赤井勝光と赤井一族の実像に、可能な限り迫ることを目的としたい。
赤井勝光の活動を理解するためには、まず彼が属した上野赤井氏が、いかにして地域の有力な国衆へと成長していったのか、その起源と初期の動向を把握する必要がある。
上野赤井氏の出自は、複数の系図や記録によって異なる出自が伝えられており、非常に錯綜している。館林市の善長寺に伝わる系図では清和源氏の流れを汲むとされ、『両毛外史』では藤原北家小黒麻呂の後裔、また藤原秀郷流佐貫氏の一族とする説も存在するが、いずれも後世の編纂物であり、その信憑性は疑問視されている 3 。
これに対し、より信頼性の高い同時代史料として、室町時代後期の連歌師・宗祇が残した歌集『老葉』が注目される。この中には、文正元年(1466年)から文明2年(1470年)にかけての活動が確認できる「赤井綱秀」という人物が登場し、彼が六歌仙の一人である文屋康秀の後裔とされている 3 。この記述は、赤井氏が少なくとも15世紀後半において、武家の系譜とは別に「文屋」という文化的な権威を持つ姓を公称していたことを示唆している。
この事実は、単なる出自の不明確さを超えた、赤井氏の戦略的な自己演出を浮き彫りにする。赤井氏は元来、佐貫荘の領主であった舞木氏の被官(家臣)であった 6 。主家である舞木氏は藤原秀郷流を称する名門であり、彼らを下克上によって凌駕した新興勢力の赤井氏にとって、自らの支配を正当化するための権威が必要不可欠であった 8 。武力で地域を制圧した後、連歌などの文化活動に積極的に関与し、文人として名高い文屋氏の末裔を称することは、武力とは異なる「文化的資本」によって自らの家格を高め、支配の正統性を補強する巧みな生存戦略であったと考えられる。これは、武威だけでなく文化的権威もまた重要視された室町・戦国期の社会状況を色濃く反映している。
史料上で赤井氏の名が明確に確認されるのは、永享10年(1438年)に勃発した永享の乱においてである。この時、「赤井若狭守」という人物が、佐貫荘の領主・舞木持広の寄騎(配下の武士)として記録されている 6 。この時点では、赤井氏はあくまで舞木氏の支配下にある一勢力に過ぎなかった。
しかし、その後の関東地方は、古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏が激しく対立する享徳の乱(1455年〜)に突入し、長期にわたる戦乱状態となる。赤井氏はこの混乱に乗じて急速に勢力を拡大したとみられる。文明3年(1471年)の佐貫合戦の記録では、赤井氏は古河公方方として館林城に籠城しており、かつての主家であった舞木氏に代わって佐貫荘の主導権を握る存在へと成長していたことが窺える 3 。この過程で舞木氏は歴史の表舞台から姿を消し、赤井氏による下克上が完成したのである 8 。
赤井氏の勢力拡大は、その拠点城郭の変遷にも見て取れる。一族の初期の拠点は、現在の館林市青柳町にあった青柳城であったと伝えられている 1 。この城は、元々は舞木氏の家臣の居館であった可能性も指摘されており、赤井氏の出発点が比較的小規模なものであったことを示唆している 14 。
やがて勢力を増した赤井氏は、より防御力に優れた拠点を求め、城沼に突き出した半島状の地に大袋城(館林市花山町)を築き、本拠を移した 15 。しかし、この大袋城(当時の史料では「立林の要害」とも記される)は、文明3年(1471年)に山内上杉家の家宰・長尾景信と、その家臣で築城の名手として名高い太田道灌が率いる大軍の攻撃を受けることとなる。この時、城を守っていたのは「赤井文三」と「赤井文六」という二人の人物であった 8 。彼らは70日以上にわたって籠城し頑強に抵抗したが、ついに降伏し、城は落城した 12 。
ここで重要なのは、15世紀後半の史料に登場する「文三」「文六」と、16世紀前半の伝説に登場する「勝光」「照康」が、活動時期において明確に区別される点である。この事実は、赤井氏の歴史が単純な一本の線で繋がっているのではなく、1471年の敗北後に一度衰退し、16世紀に入ってから再び別の系統が台頭した可能性を示唆している。『館林市史』などの研究では、当時の赤井氏には「文三(信濃守)系」と「文六(刑部少輔・若狭守)系」という二つの流れが存在した可能性が指摘されており、この一族内部の複雑さが、後世の記録における人名の混乱の一因となったと考えられる 3 。
ご依頼の中心人物である赤井勝光は、16世紀前半の赤井氏の活動を象徴する存在であるが、その実像は史実と伝説の間に揺れ動いている。本章では、錯綜する記録を整理し、その確度の高い事績を分析する。
赤井勝光をめぐる人名の混乱は、上野赤井氏の研究における最大の難点の一つである。各史料の記述を比較検討することで、その人物像の輪郭を浮かび上がらせる必要がある。
これらの点を総合すると、赤井勝光は、特定の個人を指す確固たる諱(いみな)というよりも、16世紀前半に上野赤井氏が勢力の頂点に達した時期の当主を象'徴する「伝説上の英雄」としての性格が強いと考えられる。すなわち、「赤井山城守」という実在の可能性がある当主が行った忍城攻めという史実の出来事に、後世の人々が「勝光」や「照康」といった勇ましい名前と、「狐の尾曳伝説」のような英雄的な物語を付与し、一人の理想化された武将像を創造したと推測するのが、最も合理的な解釈であろう。
以下の表は、赤井氏の主要人物に関する記録を整理したものである。
表1:赤井氏主要人物の名称と史料上の記述比較
人物名/呼称 |
登場史料 |
年代 |
主な事績 |
史料の信頼性評価 |
赤井若狭守 |
(複数の記録) |
永享10年 (1438) |
永享の乱で舞木持広の寄騎として参陣 |
高い(初出記録) |
赤井綱秀 |
『老葉』 |
文正元年頃 (1466) |
連歌師・宗祇と交流。文屋氏後裔を称す。 |
高い(同時代史料) |
赤井文三・文六 |
『松陰私語』等 |
文明3年 (1471) |
館林城(大袋城)に籠城し太田道灌らと戦う。 |
高い(同時代に近い記録) |
赤井高秀・重秀 |
『職原仮真愚抄』 |
大永8年 (1528) |
父子として記録。重秀の娘が妙印尼。 |
高い(同時代史料) |
赤井山城守 |
『成田記』異本等 |
天文5年 (1536) |
忍城を攻撃し敗退。 |
中程度(軍記物だが具体的) |
赤井勝光 |
『上野国志』等 |
(天文年間) |
山城守。照康の父とされる。 |
低い(後世の編纂物) |
赤井照康/照光 |
『館林記』等 |
(弘治2年頃, 1556) |
館林城の築城者とされる伝説上の人物。 |
低い(伝説的要素が強い) |
赤井照景/文六 |
『館林記』等 |
永禄5年 (1562) |
上杉謙信に敗れ館林城を失う。 |
中程度(名は錯綜するが事実は確実) |
妙印尼(輝子) |
由良家文書等 |
永正11年-文禄3年 |
赤井重秀の娘。由良成繁の妻。金山城を守る。 |
高い(複数の史料で確認) |
赤井勝光(山城守)の最も具体的かつ重要な軍事行動が、天文5年(1536年)8月に行われた武蔵国・忍城への侵攻である。
背景と動機
当時の赤井氏は上野国東部で勢力を確立し、次なる目標として利根川を越えた南の地、武蔵国北部への進出を目論んでいた。標的となった忍城は、武蔵北部の有力国衆・成田氏の本拠地であった。『成田記』の記述によれば、赤井山城守は、当時の成田氏当主・長泰を「武略父に劣る」と見なし、この機に武蔵国を自らの手に収めようと野心を燃やしたとされる 2。
戦闘経過
戦闘の推移は、局地戦の生々しい様相を伝えている 2。
この戦いは、赤井氏による武蔵国への勢力拡大の試みが、成田氏の巧みな防衛戦略と地の利によって完全に頓挫したことを意味する。
天文5年(1536年)頃の関東地方は、旧来の権威であった古河公方足利氏と関東管領上杉氏の力が衰え、伊豆・相模から興った後北条氏が急速に勢力を拡大していた時期にあたる 23 。上野や武蔵に割拠する中小の国衆たちは、この二大勢力の狭間で、ある時は従属し、ある時は離反するという、極めて流動的な状況下に置かれていた。
赤井氏もその例外ではなく、古くは古河公方足利成氏方に属して上杉氏と戦い 11 、天文16年(1547年)の時点では足利晴氏方であったことが感状から確認できる 6 。しかし、天文15年(1546年)の河越夜戦で北条氏が大勝し、関東における覇権が確定的になると、小泉城の富岡氏ら周辺国衆と共に、最終的には北条氏の勢力圏に入ったとみられる 6 。一方の成田氏もまた、上杉氏と北条氏の間で所属を変えながら家の存続を図る、典型的な関東国衆であった 26 。
この文脈で天文5年の忍城攻めを捉え直すと、単なる国衆同士の局地的な領土紛争以上の意味合いが見えてくる。これは、北条氏の勢力が武蔵国へ浸透し、上杉氏の権威が揺らぐ中で生じたパワーバランスの変動を象徴する出来事であった。赤井氏の南下は、北条氏の北上に先んじて、あるいはその動きに呼応して、自らの勢力圏を武蔵国北部へと拡大しようとする野心的な行動と解釈できる。この試みは失敗に終わったが、それは関東の覇権が流動化する中で、在地領主たちが互いに勢力圏を巡って激しく鎬を削っていた状況を如実に物語っている。
赤井氏の栄華と没落の舞台となったのが館林城である。この城を巡る伝説と史実、そして一族の最後の当主の運命と、その血脈が辿った意外な後日譚を追跡する。
館林城には、その築城にまつわる有名な伝説が残されている。『館林記』などによれば、赤井照光(または照康)が城の縄張り(設計)に悩んでいたところ、一匹の白狐が現れ、その尾で城郭の設計図を地面に描いて示したという 10 。この「狐の尾曳(おびき)伝説」から、館林城は別名「尾曳城」とも呼ばれるようになった。
伝説では、この築城は弘治2年(1556年)のこととされる 3 。しかし、史実を遡ると、前述の通り文明3年(1471年)の佐貫合戦の時点で、既に「立林(館林)城」として存在し、赤井文三・文六が籠城していた記録が確認されている 12 。したがって、照光による築城は史実ではなく、15世紀に存在した城を、16世紀の赤井氏が大規模に改修したことを、後世が英雄的な築城譚として伝えたものと考えられる。
この伝説は、単なる作り話として片付けることはできない。それは、館林城の持つ最大の地理的・軍事的特質を、人々に分かりやすく記憶させるための物語装置として機能したからである。館林城は、周囲を広大な城沼に三方から囲まれた天然の要害であり、この沼が巨大な外堀の役割を果たしていた 32 。この難攻不落の地形こそが、館林城の戦略的価値の源泉であった。「狐が尾を引いて縄張りを示した」という物語は、この城が沼の地形に沿って巧みに設計されていることを詩的かつ象徴的に表現している。史実の築城者が不明瞭になる中で、この伝説は城の起源を英雄「赤井照光」と結びつけ、その堅固さを強調する役割を果たしたのである。
赤井氏が築き上げた館林城での支配は、しかし、長続きはしなかった。永禄3年(1560年)、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が、追放された関東管領・上杉憲政を奉じて関東へ大軍を率いて侵攻を開始すると、関東の勢力図は一変する 10 。
この時、館林城主であった赤井氏(史料では「赤井文六」と記されるが、『館林記』などでは伝説上の人物「照景」とされる 6 )は、小泉城の富岡氏らと共に後北条氏に通じ、謙信への服属を拒否した 6 。これにより館林城は謙信の主要な攻撃目標となり、永禄5年(1562年)2月、激しい攻撃の末に落城の憂き目に遭う。城主・赤井文六は降伏し、武蔵忍城へと逃亡したと伝えられるが、その後の消息は不明であり、これにより上野国における独立した領主としての赤井氏は事実上滅亡した 6 。赤井氏の支配は、照景の代から数えればわずか10年にも満たない短期間で終わりを告げ、館林城は謙信配下の長尾景長に与えられた 34 。
館林城を追われ、歴史の表舞台から姿を消した上野赤井氏であったが、その血脈と武名は、意外な形で後世に受け継がれることとなる。それは、政略結婚によって他家に嫁いだ一人の女性の活躍によるものであった。
大永8年(1528年)の史料にその名が見える赤井重秀の娘・輝子(てるこ)は、上野国のもう一つの有力国衆である新田金山城主・由良成繁に嫁いでいた 37 。彼女は夫の死後に出家し、「妙印尼(みょういんに)」と号した 37 。
天正12年(1584年)、彼女の息子である由良国繁と長尾顕長(赤井氏の旧領・館林城を継承)が、北条氏の策略によって小田原城に呼び出され、人質に取られるという事件が起こる。北条氏は、兄弟の解放と引き換えに金山城と館林城の明け渡しを要求した。この由良家最大の危機に際し、当時71歳であった妙印尼は、自ら甲冑を身にまとい、残された僅かな兵を率いて金山城に籠城。城主不在の城を狙った北条軍の攻撃を、巧みなゲリラ戦法を駆使して見事に撃退したのである 40 。
上野赤井氏の歴史における最大の皮肉であり、また最も重要な遺産はここにある。武力による領土拡大を目指した赤井山城守(勝光)ら男性当主たちは、志半ばで敗れ去り、一族を没落させた。しかし、その武門の気風は、政略の駒として他家に嫁いだ娘・妙印尼の中に脈々と受け継がれていた。彼女は、父祖の地・館林を追われた赤井氏の無念を晴らすかのように、嫁ぎ先の由良家の危機をその武勇と采配で救ったのである。この功績により由良家は家名を保ち、豊臣政権下、そして江戸時代を通じて大名家として存続することができた 43 。赤井氏の直接的な支配は永禄5年で途絶えたが、その「武」の精神は妙印尼を通じて由良家に受け継がれ、間接的な形でその存在感を歴史に深く刻み込んだ。これは、戦国時代の婚姻戦略の重要性と、個人の資質が家の運命を劇的に左右する様を示す、類稀な実例と言えよう。
赤井勝光に関する徹底的な調査は、一人の明確な武将の伝記を再構築するには至らなかった。むしろ、史実と伝説が複雑に織りなす「上野赤井氏」という一族の、約150年間にわたる盛衰の物語を明らかにすることとなった。
結論として、以下の点が挙げられる。
第一に、ご依頼の「赤井勝光」は、史実上の確定した個人名ではなく、16世紀前半に赤井氏の勢力が最も伸長した時期の当主、「赤井山城守」という人物像に、後世の伝説や英雄譚が肉付けされて形成された、半ば伝説的な存在である可能性が極めて高い。彼が行ったとされる天文5年(1536年)の忍城攻めは、後世の脚色を含みつつも、核となる史実であったと考えられる。一方で、「勝光」「照康」といった名前や、狐に導かれて館林城を築いたという逸話は、一族の権威付けのために後から作られた物語の要素が強いと結論付けられる。
第二に、赤井氏の歴史は、主家を凌駕する下克上、周辺国衆との絶え間ない抗争、そして上杉・北条という二大勢力の狭間で翻弄され、最終的に滅亡に至るという、戦国期関東における中小国衆の典型的な運命を辿っている。彼らの興亡は、より大きな政治的・軍事的変動の縮図であり、地域のミクロな歴史を解明する上で貴重な事例を提供する。
最後に、そして最も特筆すべきは、赤井一族の遺産である。男性当主による武力での立身出世の夢は、忍城での敗退と館林城の落城によって潰えた。しかし、その血脈と「武」の記憶は、政略結婚で由良家に嫁いだ娘・妙印尼輝子によって、予期せぬ形で後世に伝えられた。71歳にして城を守り抜いた彼女の武勇伝は、赤井氏が歴史に残した最も鮮烈な足跡となった。赤井勝光という一人の武将の探求は、結果として、戦国という時代の複雑さ、記録の曖昧さ、そして個人の資質が家の運命を左右する歴史の奥深さを我々に示してくれるのである。