甲斐の猛虎、最後の輝き:武田一門・一条信龍の生涯と実像
第一章:はじめに
一条信龍は、戦国時代にその名を馳せた甲斐武田氏の一族であり、武田信玄の異母弟として、また武田二十四将の一人に数えられる武将である。しかしながら、その生涯や具体的な事績、あるいは人物像については、兄である信玄や、武田家臣団の中でも特に名高い他の武将たちと比較すると、一般に広く知られているとは言い難い。信玄の影に隠れがちであり、断片的な逸話や評価が伝えられるに留まることも少なくない。
本報告書は、現存する史料や研究成果を丹念に渉猟し、一条信龍という武将の出自から、武田家における役割、主要な戦歴、そしてその壮絶な最期に至るまでを詳細かつ徹底的に調査・分析することを目的とする。さらに、彼に関する逸話や人物評を吟味し、史料的裏付けのある実像に迫ることを試みる。これにより、一条信龍という一人の武将の生涯を浮き彫りにするとともに、彼が生きた戦国時代の武田氏の動向や、その時代を生きた人々の姿をより深く理解するための一助としたい。
本報告書の構成は以下の通りである。まず第二章では、一条信龍の生誕や武田家における血縁関係、そして彼が継承した甲斐一条氏の歴史的背景について述べる。第三章では、武田信玄・勝頼の時代における信龍の具体的な活動、すなわち武田家臣団における地位や役割、主要な戦歴、特に駿河方面での活動に焦点を当てる。第四章では、信龍の人物像に迫るべく、「伊達者」と評された側面や、兄・信玄からの信頼の厚さを示す逸話などを紹介し、併せて史料批判の重要性にも言及する。第五章では、武田氏滅亡の引き金となった甲州征伐における信龍の動向と、その最期に関する諸説を比較検討する。第六章では、信龍ゆかりの史跡や遺産を紹介し、彼が後世に遺した影響の一端を探る。そして終章である第七章では、以上の調査・分析を踏まえ、一条信龍の歴史的評価、武田家における意義、そして今後の研究課題について総括する。
第二章:一条信龍の出自と甲斐一条氏
一条信龍の生涯を理解する上で、まず彼の出自と、彼がその名跡を継いだ甲斐一条氏の歴史的背景を把握することが不可欠である。本章では、信龍の生年や武田家における血縁関係、そして甲斐源氏の名門である一条氏の成り立ちと、信龍による継承の意義について詳述する。
生誕と武田家における血縁
一条信龍の生年は、天文8年(1539年)とされている記録が多い 1 。一部には享禄3年(1530年)とする説も存在するが 3 、天文8年説が比較的有力視されている。仮に天文8年生まれとすれば、異母兄である武田信玄(天文10年(1521年)生まれ)とは18歳の年齢差があり、これは単なる兄弟というよりも、むしろ親子に近い年齢差であったと言えるだろう 3 。この年齢差は、信玄から信龍への接し方や、信龍の信玄に対する敬慕の念のあり方に、少なからず影響を与えた可能性が考えられる。信玄が父・信虎を駿河へ追放し家督を相続したのは天文10年(1541年)のことであり、その時、信龍はまだ2歳という幼少期であった。この事実は、その後の武田家における信龍の立場形成に、信玄の意向が強く反映される素地となったと推測される。
父は甲斐の戦国大名・武田信虎であり、信龍は信虎の八男(あるいは九男とも)として生を受けたとされる 1 。母は信玄の母(大井の方)とは異なり、信龍は信玄の異母弟にあたる 1 。兄弟関係については、信虎の末子とされ、『系図類』では河窪信実の弟とされている。しかし、天正10年(1582年)に信龍の子である信就が右衛門大夫という官途を称しているのに対し、信実の子である河窪信俊が新十郎という仮名しか称していないことから、実際には信龍の方が信実よりも年長であったのではないかという指摘も存在する 4 。官途名の違いから年齢の上下を推測するこの見解は興味深く、今後の研究が待たれる点である。
名門・甲斐一条氏の継承
一条信龍がその名を歴史に刻む上で特筆すべきは、甲斐源氏の名門である一条氏の名跡を継承したことである。甲斐一条氏は、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の後裔で、武田氏の始祖とされる武田信義の次男・一条次郎忠頼を祖とする家柄である 7 。忠頼は平安時代後期に甲斐国山梨郡一条郷(現在の山梨県甲府市周辺)に拠点を構え、一条氏を称した。忠頼は一時期、甲斐源氏の惣領となるほどの勢力を誇ったが、元暦元年(1184年)、源頼朝による甲斐源氏弾圧の際に謀殺され、一条氏は一時断絶の危機に瀕した 8 。
その後、鎌倉時代に入り、頼朝の弾圧を免れた武田信光(石和信光)の子である一条信長(忠頼の甥にあたる)によって一条氏は再興された 7 。しかし、この再興された一条氏も室町時代に至って再び断絶していた 4 。武田信虎の子として生まれた信龍は、この名門でありながら絶えていた甲斐一条氏の名跡を継承することになったのである 4 。信玄が、名族一条氏の名跡が絶えることを惜しみ、異母弟である信龍にこれを継がせたとも伝えられている 11 。
信龍は一条氏を継承後、甲斐国西八代郡市川郷上野(現在の山梨県市川三郷町上野)に上野城(あるいは一条氏館とも)を築き、そこを本拠地とした 4 。また、甲府にも館を有していたとされる 8 。
信龍に名門・甲斐一条氏を継がせた背景には、単に空いていた名跡を活用するという以上の戦略的な意図があったと考えられる。第一に、由緒ある家名を一門の有力な者に継がせることで、武田家の権威と甲斐国内における支配の正当性を補強する狙いがあったであろう。第二に、信龍に独立した家とそれに伴う所領を与えることで、親族衆としての彼の立場を明確に確立し、武田宗家への忠誠心をより一層高める効果が期待された。そして第三に、信龍の居城となった上野が、富士川流域を押さえ、駿河方面への備えとなる戦略的要衝であったことも見逃せない。この地に信頼できる異母弟を配置することは、武田家の領国経営において重要な意味を持っていたのである。
以下に、一条信龍の生涯における主要な出来事をまとめた略年譜を示す。
表1: 一条信龍 略年譜
年代(西暦) |
和暦 |
年齢(数え) |
主要な出来事 |
典拠例 |
1539年 |
天文8年 |
1歳 |
生誕(有力説) |
1 |
1541年 |
天文10年 |
3歳 |
武田信玄(晴信)、父・信虎を追放し家督を相続 |
3 |
不詳 |
不詳 |
不詳 |
甲斐一条氏の名跡を継承 |
7 |
永禄年間~元亀年間頃 |
|
|
駿河田中城代に就任か(具体的な時期は不詳) |
4 |
1573年 |
元亀4年 |
35歳 |
武田信玄死去。勝頼の後見人の一人となる。 |
3 |
1575年 |
天正3年 |
37歳 |
長篠の戦いに参戦。佐久間隊を攻撃し馬防柵を破る活躍。 |
4 |
天正3年以降 |
|
|
駿河田中城代を子・信就に譲り、駿府城代に転任か(具体的な時期は不詳) |
4 |
1582年2月 |
天正10年2月 |
44歳 |
甲州征伐勃発。織田・徳川連合軍が武田領へ侵攻開始。 |
26 |
1582年3月2日 |
天正10年3月2日 |
44歳 |
徳川軍の駿河侵攻を受け、駿河を撤退し上野城へ帰還。 |
4 |
1582年3月7日または10日 |
天正10年3月7日または10日 |
44歳 |
最期。上野城にて徳川軍と戦い討死、あるいは捕縛され処刑されたとされる。 |
4 (諸説あり、第五章参照) |
第三章:武田信玄・勝頼時代における信龍
一条信龍は、武田信玄・勝頼の二代にわたり、武田家の中核を担う一員として活動した。本章では、武田家臣団における彼の地位と役割、主要な戦歴、そして特に武田家の重要戦略地域であった駿河方面での活動について詳述する。
武田家臣団における地位と役割
一条信龍は、武田信玄の異母弟という血縁から、武田家臣団の中でも特に高い地位である「御一門衆(御親類衆)」に列せられていた 4 。これは、武田家の政策決定や軍事行動において重要な発言力を持ち、宗家を支える中核的な存在であったことを意味する。
その軍事力については、史料によれば騎馬200騎を率いたとされ 4 、一部には100騎とする説もあるが 4 、いずれにしても御一門衆の中でも有力な兵力を有していたことがわかる。さらに、相備え組衆として依跡衆10騎、大津衆10騎を指揮下に置いていたとの記録もあり 4 、これは彼が単独の将としてだけでなく、他の小規模な武士団を統括する立場にもあったことを示唆している。騎馬200騎という動員兵力は、例えば信玄の同母弟で信頼も厚かった武田信廉(逍遙軒)の80騎と比較しても大きく 15 、信龍が武田軍の中で相当な戦力を提供し得る立場にあったことがうかがえる。
また、後世の顕彰ではあるものの、武田家を代表する24人の武将を指す「武田二十四将」の一人としても数えられている 1 。武田二十四将の選定には諸説あり、必ずしも同時代の評価をそのまま反映するものではないが、信龍がその一人として後世に記憶されていることは、彼の武名や武田家への貢献がある程度評価されていたことの証左と言えよう。
軍事面以外では、本願寺や松永久秀といった畿内の有力勢力との外交交渉を担当したという記録も存在する 4 。これが事実であれば、信龍は単なる武勇に優れた武将というだけでなく、政治的な駆け引きや交渉能力も有していたことになり、彼の多面的な能力を物語るものとなる。
信玄からの信頼は特に厚く、その遺言により、跡を継いだ武田勝頼の後見人の一人に指名されたと伝えられている 3 。これは、信玄が信龍の器量と忠誠心を高く評価し、武田家の将来を託すに足る人物と見なしていたことの何よりの証であろう。
特筆すべきは、『甲陽軍鑑』に記された信龍の役割である。同書によれば、武田家の御一門衆の中で、信玄の同母弟である武田信廉(逍遙軒信綱)と、この一条信龍のみが、「先方衆を相備にしていた」という 16 。先方衆とは、主に他国出身の国衆や、武田氏に服属した地域の武士団で構成される部隊であり、戦時には最前線で戦うことが多かった。これを「相備え」として自身の指揮下に置くことは、高い軍事指揮能力と、主君からの絶大な信頼がなければ任されない重責であった。この記述が事実を反映しているのであれば、信龍は単に血縁者として厚遇されただけでなく、実質的な軍事能力と統率力によって、武田軍の中核を担う極めて重要な軍事的役割を期待されていたことを示している。これは、他の多くの御一門衆とは一線を画す、信龍の特異な立場を浮き彫りにする。
主要な戦歴と武功
一条信龍の具体的な戦歴については、戦闘時には主に後衛を担当することが多かったためか、その武名は兄・信玄や山県昌景、馬場信春といった武田家の著名な猛将たちほどには華々しく伝わってはいない。しかし、『甲陽軍鑑』においては、山県昌景や馬場信春らを含む武田家の重鎮7人の武将の一人に数えられており 4 、これは彼の武勇や戦場における働きが、少なくとも武田家内部では高く評価されていた可能性を示唆している。後衛といっても、殿(しんがり)のような極めて重要な任務も含まれるため、決して軽視されるべき役割ではない。
信龍の武功が具体的に伝えられている数少ない例の一つが、天正3年(1575年)の長篠の戦いである 4 。この戦いで武田軍は織田・徳川連合軍の鉄砲隊の前に大敗を喫したが、その中で信龍は目覚ましい働きを見せたとされる。『甲陽軍鑑』などの記録によれば、信龍は織田方の佐久間信盛の陣に猛攻を加え、堅固に築かれていた二重の馬防柵を打ち破るほどの奮戦を見せたという 4 。武田軍が総崩れとなる中、信龍は同じく奮戦した馬場信春の部隊と共に戦場に踏みとどまり、主君である武田勝頼が無事に戦線を離脱するのを見届けた後に、ようやく退却したと伝えられている 4 。
長篠の戦いにおける信龍の行動は、単なる個人的な勇猛さを示すに留まらない。当時、織田・徳川連合軍が築いた馬防柵と鉄砲隊の連携は、武田の騎馬隊にとって大きな脅威となっていた。その中で馬防柵を突破したという信龍の戦果は、武田軍にとって数少ない局所的な成功であり、彼の部隊の戦闘能力の高さと、それを率いる信龍の指揮官としての力量を示すものであった。さらに、敗戦濃厚な状況下で主君・勝頼の退却を支援するために戦場に踏みとどまった行動は、総崩れを防ぎ、大将を保護するという、敗戦時における最も重要な任務の一つを忠実に果たしたことを意味する。これは、彼の武田家に対する強い忠誠心と、戦局に応じた冷静な判断力を兼ね備えていたことの表れと言えよう。
駿河方面における活動
武田信玄は、永禄11年(1568年)に今川氏真を攻撃し、駿河国への侵攻を開始した。この駿河経略において、そしてその後の駿河統治において、一条信龍は重要な役割を担ったと考えられる。
信玄による駿河国侵攻後、信龍は駿河国の重要拠点の一つである田中城の城代を務めたとされる 4 。田中城は、東海道の要衝に位置し、徳川領との国境にも近い戦略的に極めて重要な城であった。このような拠点の守りを任されたことは、信玄が信龍の軍事的能力と忠誠心を高く評価していたことの証左である。
さらに後には、この田中城代の職を子の信就に譲り、自身は武田信堯(信玄の弟・信友の子)と共に、今川氏の旧都であり駿河支配の中心地であった駿府城の城代に転じたとも伝えられている 4 。駿府を任されるということは、軍事的な責任のみならず、占領地の統治という政治的な側面においても重責を担うことを意味する。
信龍の主な任務は、甲斐一条氏の本拠地に関する記述と同様に、駿河方面の防備であったと推測される 8 。武田家にとって駿河は、長年の宿敵であった今川氏を駆逐して獲得した新たな領国であり、東海道を通じて織田・徳川という強大な勢力と直接対峙する最前線であった。特に、織田信長の勢力拡大に伴い、この方面での軍事的緊張は高まる一方であり、北条氏との関係も複雑に絡み合っていた。このような状況下で、信龍が田中城代、そして駿府城代という駿河における枢要な拠点の責任者を歴任したことは、彼が軍事・統治の両面で信玄および勝頼から絶大な信頼を寄せられ、武田家の駿河支配体制において極めて重要な戦略的役割を担っていたことを示している。彼は単なる一武将としてではなく、武田家の領国経営と対外戦略におけるキーマンの一人であったと言えるだろう。
第四章:人物像と逸話
一条信龍の人物像を伝える史料は限られているが、その中でも特に『甲陽軍鑑』には、彼の個性的な一面や、主君である武田信玄からの信頼の厚さを示す記述が見られる。本章では、これらの逸話を紹介しつつ、その背景や史料的な信憑性についても考察を加えることで、信龍の実像に迫る。
「伊達者」としての一面
一条信龍を特徴づける評価の一つに、「伊達者(だてもの)」であったというものがある。『甲陽軍鑑』には、「伊達者にして花麗を好む性質なり」との記述があり 4 、また別の箇所では、華美な衣装を好んで身に着けていたとも伝えられている 12 。
この「伊達者」ぶりは、単に外見を飾ることを好んだというだけでなく、彼の武具への並々ならぬこだわりにも表れていたようである。『甲陽軍鑑』には、武田家の重臣である山県昌景の言葉として、「一条殿は、馬鞍武具等、これほど忙しくともいつも新しく」と評した記述が残されている 4 。また、別の史料においても、信龍がいざ合戦に際して慌てぬよう、常日頃から武具の手入れや更新を怠らなかったと記されている 14 。
「伊達者」という言葉は、現代では単に派手好き、お洒落といった意味合いで使われることもあるが、戦国時代においては、人目を惹く華やかさや、常識にとらわれない大胆さ、そして粋な様を示す、ある種のカリスマ性を伴う評価であった。信龍の場合、その伊達者ぶりが、常に最新で質の高い武具を揃えるという形で現れていた点は注目に値する。これは、単なる美的趣味に留まらず、戦への備えを怠らない武人としての実直な側面と結びついていると言えよう。
信龍のこの「伊達者」としての振る舞いは、個人的な趣味嗜好の範疇を超え、戦略的な意図を含んでいた可能性も考えられる。常に最新・最高の武具を身にまとい、華麗な装いをすることは、自身の武威を周囲に示し、率いる兵たちの士気を高揚させる効果があったかもしれない。さらに、『甲陽軍鑑』には、山県昌景の先の言葉に続き、「しかも諸国の良い浪人を集めている」という評価も伝えられている 4 。また、市川三郷町の伝承にも、信龍が諸国の牢人の中から選抜した人材を召し抱えるよう心懸けていたとある 14 。これらの記述を併せ考えると、信龍の伊達者ぶりは、優れた人材を自らのもとに惹きつけるための一種の自己演出、現代で言うところのブランディング戦略の一環であったとも解釈できる。派手な外見と、それに裏打ちされた実力を兼ね備えることで、周囲に強い印象を与え、有能な者たちを自軍に引き入れようとしたのではないだろうか。戦国時代において、伊達政宗がその代表例として挙げられるように、「伊達者」であることは、時に政治的・軍事的な影響力を持つことがあったのである 20 。
武田信玄からの信頼
一条信龍は、異母弟という立場でありながら、兄である武田信玄から絶大な信頼を寄せられていたことが、いくつかの史料からうかがえる。
『甲陽軍鑑』には、「武田信玄が軍事面において、典厩信繁と大夫信龍を最も信頼していた」という注目すべき記述がある 4 。武田信繁は信玄の同母弟であり、知勇兼備の名将として知られ、信玄の右腕として武田家を支えた人物である。その信繁と並び称されるほど、信玄が軍事面で信龍を信頼していたというこの記述は、信龍が武田家の中でいかに重要な存在と見なされていたかを示している。
また、前章でも触れたように、信玄はその遺言により、跡を継いだ武田勝頼の後見人の一人に信龍を指名したと伝えられている 3 。これは、信玄が信龍の器量、忠誠心、そして武田家を支える能力を高く評価し、自らの死後も武田家の安泰を託すに足る人物と考えていたことの何よりの証左と言えよう。
さらに、信玄が甲斐源氏一門の名族でありながら断絶していた一条氏の名跡を、あえて信龍に継がせたという事実自体が、信玄の信龍に対する期待と信頼の大きさを物語っているとも解釈できる 11 。これは、信龍に一定の家格と勢力を与え、武田一門の有力な支柱として活躍させることを意図したものであったと考えられる。
その他の評価
信龍に対する評価としては、直接的な史料ではないものの、戦国時代を題材としたゲームの紹介文などにおいて、「馬場・山県と並ぶ武人として知られ」と言及されることもある 12 。これは、信龍の武勇がある程度一般にも認識されていることを示唆しているが、その具体的な根拠となる史料は必ずしも明確ではない。
一方で、一条信龍は「資料や記録に乏しい人物」であるとも指摘されている 4 。これは非常に重要な点であり、彼の事績や人物像に関する情報の多くが、特定の史料、特に『甲陽軍鑑』に依拠している可能性が高いことを示している。それゆえ、彼に関する記述を扱う際には、常に史料批判の視点を持つことが不可欠となる。
逸話の吟味と史料批判の必要性
一条信龍に関する逸話の多くは、江戸時代初期に成立した軍学書である『甲陽軍鑑』に見られる。例えば、「伊達者」であったこと、武具にこだわったこと、信玄から信繁と並ぶ信頼を得ていたことなどは、主に同書が出典となっている 4 。
『甲陽軍鑑』は、武田信玄・勝頼時代の軍略や家臣たちの言行を詳細に記述しており、武田氏研究において重要な史料の一つとされてきた。しかし、その成立過程や内容については、史実と異なる記述や後世の脚色が含まれている可能性が指摘されており、史料としての取り扱いには慎重さが求められる 22 。特に、武田家滅亡後に編纂されたという背景から、失われた武田家の栄光を理想化し、教訓的な物語として再構成しようとする意図が働いていた可能性も否定できない 24 。
『甲陽軍鑑』が信龍を「伊達者」でありながら信玄に深く信頼され、武勇にも優れた忠臣として描いている背景には、こうした編纂意図が影響していると考えられる。信龍の個性的なキャラクターは、武田家臣団の多様性と層の厚さを示す好例として、また、悲劇的な最期を迎える武田家の物語に彩りを添える存在として、積極的に取り上げられたのではないだろうか。彼の「伊達者」ぶりは、ともすれば画一的に描かれがちな武士のイメージに変化を与え、読者の興味を惹きつける要素となったであろう。
したがって、一条信龍の人物像や逸話を検討する際には、『甲陽軍鑑』の記述を鵜呑みにするのではなく、他の史料との比較検討や、同書の成立背景・編纂意図を考慮に入れた上で、慎重にその史実性を見極める必要がある。
第五章:甲州征伐と壮絶な最期
天正10年(1582年)、戦国時代の勢力図を大きく塗り替える出来事、すなわち甲州征伐が勃発する。これにより、かつて信玄のもとで隆盛を誇った甲斐武田氏は、滅亡の淵へと追いやられることとなった。本章では、この甲州征伐の概要と、その中で一条信龍がどのような動向を示し、いかなる最期を遂げたのかについて、諸説を比較検討しながら詳述する。
甲州征伐の勃発と武田領国の崩壊
天正10年(1582年)2月、織田信長は、同盟者である徳川家康、そして北条氏政と共に、武田勝頼が治める甲斐・信濃・駿河・上野の各領国への大規模な侵攻を開始した 26 。これは、長篠の戦い以降、勢力を減退させていた武田氏にとどめを刺すものであり、甲州征伐(武田征伐とも)と呼ばれる。
織田・徳川・北条連合軍の圧倒的な兵力の前に、武田軍は各地で敗退を重ねた。武田一門や重臣の中からも離反者が相次ぎ、勝頼は急速に窮地に追い込まれていく。同年3月には、勝頼は本拠地である新府城(現在の山梨県韮崎市)を自ら焼き払い、再起を図るべく東を目指すが、その道程は困難を極めた 27 。
信龍の動向と上野城での抵抗
甲州征伐が始まると、徳川家康軍は駿河方面から武田領へと侵攻した 4 。当時、駿河方面の防衛を担っていた一条信龍は、この徳川軍の攻勢に直面することになる。天正10年3月2日、信龍は駿河からの撤退を余儀なくされ、自身の本拠地である甲斐国上野城(現在の山梨県市川三郷町)へと帰還した 4 。
『甲陽軍鑑』によれば、興味深い逸話が伝えられている。主君である武田勝頼は、3月3日に新府城を放棄した後、小山田信茂の居城である岩殿城を目指す途中で、甲府にあった一条信龍の屋敷に立ち寄り、そこで休息を取ったというのである 4 。この逸話が史実であるとすれば、勝頼が絶望的な状況の中で最後に頼った人物の一人が、叔父にあたる信龍であったことを示しており、二人の間の信頼関係の深さをうかがわせる。
上野城に戻った信龍は、迫り来る徳川軍に対して籠城し、抵抗の意志を示したとされる 9 。武田家が崩壊しつつある中で、最後まで抵抗を試みた武将の一人であった。
最期の様相:諸説の比較検討
一条信龍の最期については、いくつかの異なる記述が史料に見られ、その詳細は必ずしも明確ではない。主な説としては、上野城での壮絶な討死説と、捕縛された後の処刑説が挙げられる。
まず 討死説 である。これは、信龍が上野城において、徳川家康が率いる三河勢の大軍に対し、わずかな手勢で果敢に突撃を敢行し、子の一条信就と共に壮絶な戦死を遂げたとするものである。この戦いの日付は天正10年3月10日とされ、信龍の手勢は300騎、対する徳川軍は1万騎であったと伝えられている 1 。この説は、寡兵よく大軍に立ち向かい、武士としての本懐を遂げたという、英雄的で悲劇的な最期を描写しており、後世の講談や物語などで好んで取り上げられやすい内容と言える。複数の記録が、信龍が上野城で戦死したと伝えている 9 。
次に 処刑説 である。この説の根拠となる主要な史料の一つが、織田信長の家臣であった太田牛一によって記された『信長公記』である。同書によれば、天正10年3月7日、甲府に入った織田信長の嫡男・信忠が、武田信玄の弟である武田信廉(逍遙軒)ら武田一門の者たちと共に一条信龍を捕縛し、処刑したと記されている 4 。『信長公記』は、その記述の具体性や同時代性から、戦国時代研究において一次史料に準ずる高い信頼性が置かれている史料であり 30 、この記述は処刑説の信憑性を高めるものである。
また、江戸時代後期に編纂された甲斐国の地誌である『甲斐国志』にも、信龍が処刑されたとする記述が見られる。同書によれば、天正10年3月10日、武田家から離反した穴山信君(梅雪)に先導された徳川家康軍が市川(現在の市川三郷町)に到達した際、上野城に籠城していた一条信龍は、長男の一条信就と共に捕らえられ、市川において処刑されたという 8 。処刑された場所については、『信長公記』が甲府とするのに対し、『甲斐国志』は市川としており相違が見られるが、捕縛後に処断されたという点では共通している。
さらに、少数意見ではあるが、 28 は『甲斐国志』が信龍は甲州征伐以前にすでに病死していたとする説も伝えていると紹介している。しかし、他の『甲斐国志』を引用する箇所では処刑説が採用されており 8 、この病死説の詳細は不明である。
嫡男である 一条信就の最期 についても、情報が錯綜している。父である信龍と共に上野城で討死したとする説 1 や、父と共に処刑されたとする説 8 がある一方で、『信長公記』で3月7日に斬首されたと記されているのは、信龍本人ではなく息子の信就の誤りであるとする説も存在する 1 。この場合、信龍と信就は甲州征伐の混乱の中で別行動を取っていた可能性も考えられる。
このように、一条信龍の最期に関する情報が錯綜している背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、甲州征伐という武田氏滅亡の混乱した状況下での出来事であり、正確な情報が記録されにくかったこと。第二に、記録を残した主体(武田方の伝承、織田・徳川方の記録など)の立場や情報入手経路の違いにより、記述内容に差異が生じたこと。第三に、後世に編纂された史料や物語において、英雄的な最期を求める傾向や、教訓的な意味合いを込めた脚色が加えられた可能性である。『信長公記』の記述は具体的であり、同時代史料としての価値は高いものの、壮絶な討死説もまた、武士の理想的な死に様として、あるいは悲劇の武将として語り継がれやすかった側面があるだろう。
以下に、一条信龍の最期に関する諸説を比較した表を示す。
表2: 一条信龍の最期に関する諸説比較
史料/伝承 |
時期 |
場所 |
最期の状況 |
子・信就の運命 |
備考(信頼性・特徴など) |
『甲陽軍鑑』に基づく説 4 |
天正10年3月10日 |
上野城 |
徳川軍1万に対し300で突撃、討死 |
共に討死 |
江戸時代初期成立の軍学書。物語性が強く、英雄的な描写が見られる。武士の鑑としての最期。 |
『信長公記』 4 |
天正10年3月7日 |
甲府 |
織田信忠により捕縛、武田信廉らと共に斬首 |
信龍と共に処刑された可能性あり |
太田牛一著。同時代に近い記録であり、史料的信頼性は比較的高い。簡潔な記述。 |
『甲斐国志』 8 |
天正10年3月10日 |
市川 |
徳川軍に捕縛され、処刑 |
共に処刑 |
江戸時代後期成立の甲斐国地誌。諸記録を集成。『信長公記』とは日付や処刑主体に差異が見られる。 |
異説( 28 が『甲斐国志』説として紹介) |
甲州征伐以前か |
不明 |
病死していた |
不明 |
28 による紹介。他の『甲斐国志』引用とは異なり、詳細は不明。少数意見の可能性。 |
異説( 1 による解釈) |
天正10年3月7日 |
甲府 |
『信長公記』で斬首されたのは信龍ではなく信就の誤り |
信就が斬首 |
『信長公記』の記述解釈の一つ。信龍と信就が別行動を取った可能性を示唆。 |
第六章:一条信龍に関わる史跡と遺産
一条信龍が生きた証は、彼が拠点とした城跡や墓所、そして彼にまつわる伝承などを通じて、現代にも伝えられている。本章では、これらの史跡や遺産を紹介し、信龍が地域史や文化にどのような足跡を残したのかを探る。
居城・上野城跡
一条信龍の主要な本拠地であった上野城(または一条氏館)は、現在の山梨県西八代郡市川三郷町上野にその跡が比定されている 4 。この地は富士川に近く、甲府盆地の南端に位置し、駿河方面からの侵攻に対する防衛拠点としての役割も担っていたと考えられる。
現在、上野城跡とされる場所は、蹴裂神社(けさきじんじゃ)の境内となっており、また、その周辺は歌舞伎文化公園として整備されている 9 。城郭としての明確な遺構は残存していないとの報告もあるが 28 、館跡として伝承され、地域の人々にとっては歴史的な場所として認識されている。蹴裂神社の境内には、一条信龍を祀る小さな祠も存在するとされ 9 、彼がこの地で活動し、最期を迎えた(あるいは最期に繋がる抵抗をした)記憶が息づいている。
歌舞伎文化公園内には「ふるさと会館」という施設があり、ここでは一条信龍ゆかりの品々や、戦国時代の甲冑、歴史的な文献資料などが展示されている 13 。このような展示は、信龍という武将が地域史の中で重要な存在として位置づけられ、その事績を後世に伝えようとする試みの一環と言えるだろう。
墓所
一条信龍の墓所については、いくつかの伝承地がある。最も有力とされるのは、彼の最期の地(あるいは処刑地)に近いとされる山梨県市川三郷町市川大門にある善福寺である 4 。この寺に信龍の墓が存在すると伝えられていることは、彼の終焉の地との関連性を考えると自然なことと言える。
また、前述の通り、居城であった上野城跡の蹴裂神社境内にも、一条右衛門大夫信龍の祠があるとされている 9 。居城跡にその城主が祀られることは、その地における影響力の大きさや、特に悲劇的な最期を遂げた場合に、その霊を慰め、記憶を永く留めるためによく見られることである。
その他の関連
一条信龍に直接関わるものではないが、彼に関連する興味深い伝承や史実も存在する。
その一つが、歌舞伎の市川團十郎家との関連である。一説によれば、一条信龍の家臣であった堀越十郎家宣という人物が、武田氏滅亡後に関東へ逃れ、その子孫から初代市川團十郎が出たという伝承がある 35 。この伝承の史実性は定かではないものの、信龍の家臣団を通じて、彼の存在が間接的に後世の文化に影響を与えた可能性を示唆するものであり、興味深い。
また、信龍は上野だけでなく甲府にも屋敷を構えていたことが知られている 8 。この甲府の信龍屋敷跡は、現在の甲府市北新一丁目に所在したとされ、武田氏滅亡後の天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こり、武田遺領を巡って天正壬午の乱が発生した際には、甲斐に入った徳川家康が一時的にこの一条信龍屋敷に本陣を移したという記録がある 4 。これは、信龍が甲府においても一定の規模の拠点を有していたことを裏付けるとともに、その屋敷が武田氏滅亡後も戦略的に利用価値のある場所であったことを示している。
一条信龍は、武田信玄や他の著名な武田二十四将の武将たちと比較すれば、全国的な知名度において決して高いとは言えないかもしれない。しかしながら、彼が本拠地とした山梨県市川三郷町においては、上野城跡の保存や顕彰、歌舞伎文化公園ふるさと会館における資料展示、さらには歌舞伎との関連伝承などを通じて、地域史を彩る重要な歴史的人物として記憶され、その存在が語り継がれている。これは、歴史上の人物が必ずしも全国的な名声や評価によらずとも、その人物が深く関わった地域社会との結びつきの中で、その存在意義を保ち続け、後世に影響を与え続けることを示す好例と言えるだろう。
第七章:総括
本報告書では、戦国時代の武将・一条信龍について、その出自、武田家における役割、主要な戦歴、人物像、そして最期に至るまでを、現存する史料や研究に基づいて詳細に検討してきた。最後に、これまでの分析を総括し、一条信龍の歴史的評価、武田家における意義、そして史料上の課題と今後の展望について述べる。
一条信龍の歴史的評価
一条信龍は、武田信玄の異母弟として、また武田勝頼の後見人の一人として、武田家の最盛期から滅亡期にかけて、軍事・統治の両面で重要な役割を果たした御一門衆の重鎮であった。甲斐源氏の名門・一条氏の名跡を継承し、甲斐国上野を本拠としつつ、駿河国の田中城代や駿府城代といった要職を歴任したことは、彼が武田家の領国支配と対外戦略において枢要な存在であったことを示している。
「伊達者にして花麗を好む」と評される個性的な人物でありながら 4 、主君である信玄からは武田信繁と並び称されるほどの信頼を得ていたとされる 4 。特に、長篠の戦いにおける奮戦や、甲州征伐における最後まで抵抗を試みた姿勢(あるいは潔く処刑に応じた様)は、彼の忠勇義烈な一面を物語っており、武田武士の精神を体現するものであったと言えよう。
その最期については、上野城での壮絶な討死説と、捕縛後の処刑説が存在し、史料によって記述が異なる。いずれの説を取るにしても、彼の死は武田家終焉の悲劇性を象徴する出来事の一つとして記憶されるべきである。
武田家における意義
一条信龍の存在は、武田家にとって多大な意義を持っていた。信玄の弟として、また勝頼の後見人として、彼は武田一門の結束を固め、宗家の安定に貢献した。特に、信玄亡き後の困難な時期において、勝頼を支える重鎮の一人としての役割は大きかったと考えられる。
甲斐一条氏という由緒ある名跡を継承し、上野に拠点を構えたことは、単に個人的な栄達に留まらず、武田氏の甲斐国内および周辺地域における支配体制を強化する一翼を担ったことを意味する。彼の軍事力(騎馬200騎)と、御一門衆の中で例外的に「先方衆を相備にしていた」可能性は 16 、彼が武田軍の重要な戦力として期待されていたことを示している。
また、彼の個性的な人物像は、武田家臣団が決して画一的な集団ではなく、多様な才能と個性を持つ人材によって構成されていたことを示す一例と言える。信龍のような人物が重用され、活躍できたことは、武田信玄の懐の深さや、人材登用の巧みさをも反映しているのかもしれない。
史料上の課題と今後の展望
一条信龍に関する研究は、いくつかの史料上の課題を抱えている。特に、彼の事績や人物像に関する情報の多くが、江戸時代に成立した軍学書である『甲陽軍鑑』に依拠している点は重要である。『甲陽軍鑑』は貴重な情報を含む一方で、史実との間に齟齬が見られる箇所や、編纂者の意図による脚色が含まれている可能性も指摘されており 22 、その記述の取り扱いには慎重な史料批判が不可欠である。
また、信龍が本願寺や松永久秀といった畿内勢力との外交を担当したとされる点 4 など、まだ十分に解明されていない活動領域も存在する。これらの点については、関連する一次史料のさらなる発掘や、既存史料の再検討を通じて、新たな事実が明らかになる可能性も残されている。
一条信龍のような、歴史の主役とされる人物の影に隠れがちな武将の生涯を詳細に研究することは、戦国時代の社会構造、武士団の組織、そして地域史を多角的に理解する上で極めて重要である。彼の人生は、血縁という宿命、戦国武将としての個性、主君への忠誠、そして時代の激しい潮流に翻弄される人間の姿を鮮やかに浮き彫りにする。それは、単なる過去の出来事の追跡に終わらず、歴史の複雑さと、そこに生きた人々のドラマを現代の我々に伝え、歴史理解をより豊かなものにしてくれるであろう。一条信龍の研究は、戦国時代史の深奥へと分け入るための一つの鍵となる可能性を秘めていると言える。