一条房冬公に関する調査報告書
序章:一条房冬とその時代
一条房冬(いちじょう ふさふゆ)は、日本の戦国時代に土佐国(現在の高知県)に勢力を有した公家大名、土佐一条氏の当主である。彼が生きた時代は、室町幕府の権威が失墜し、日本各地で戦乱が頻発した後期戦国時代にあたる。中央政権の統制が弱まる中で、地方では守護大名やその家臣、あるいは新興の国人領主たちが実力で勢力を拡大し、独自の領国経営を展開した。土佐国もまた、中央から地理的に隔絶していたこともあり、中央政権の影響力が及びにくい地域であった。そのため、在地領主たちが割拠し、複雑な権力関係が形成されていた 1 。
このような時代背景の中で、土佐一条氏は特異な存在であった。五摂家筆頭という京都の最高位の公家である一条家の分家が、土佐の地に下向し、在地領主化したのである 1 。この土佐一条氏の成立自体が、応仁の乱(1467-1477年)以降の足利幕府を中心とする中央権力の弱体化と、それに伴う社会の流動化を象徴する出来事であったと言える。応仁の乱は京都を焦土と化し、多くの公家や寺社が経済的基盤を求めて地方の所領へ避難、あるいは積極的に経営に関与する動きを見せた。一条房冬の祖父にあたる一条教房が、この動乱を機に土佐の幡多荘へ下向したことは 1 、単なる避難に留まらず、荘園経営の強化という積極的な目的があったとされている 1 。結果として、中央の名門公家が地方に土着し、独自の勢力を築く「公家大名」という、戦国時代においても稀有な存在が誕生した。これは、中央集権体制の崩壊と地方分権化、そして実力主義の台頭という戦国時代の大きな潮流の中で理解されるべき事象である。本報告書では、この一条房冬という人物について、その出自、治世、人物像、そして歴史的評価を、現存する資料に基づいて詳細に検討する。
第一章:一条房冬の出自と土佐一条氏
第一節:土佐一条氏の成立と特質
土佐一条氏の祖は、関白・太政大臣を務め、当代随一の碩学として知られた一条兼良の長男、一条教房である 3 。教房は、応仁の乱による京都の荒廃と社会不安を背景に、一条家伝来の荘園であった土佐国幡多荘の経営安定化と強化を目的として、応仁2年(1468年)に同地に下向した 1 。この下向は、戦乱からの逃避という消極的な理由だけでなく、所領経営への積極的な関与を目指したものであった点が重要である 1 。教房は幡多郡の国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には中村に館(中村御所)を構え、土佐一条氏の基礎を築いた 1 。
土佐一条氏の拠点となった中村(現在の高知県四万十市)は、京都を模した都市計画がなされ、碁盤の目状の街路が整備されたと伝えられている。四万十川を京都の桂川に、後川を鴨川に見立てるなど、その地名や景観にも都の面影が投影され、「土佐の小京都」と称されるほどの文化的発展を見せた 1 。これは、一条氏が中央から持ち込んだ高度な文化と、土着の在地勢力との融合を示す象徴的な事例と言えよう。
土佐一条氏は、摂家という公家社会の頂点に立つ家柄の分流であり 1 、その高い家格と朝廷から授与される官位(房冬自身も正二位という極めて高い位階に昇っている 1 )を権威の源泉とした。一方で、幡多郡を中心とする広大な荘園を支配し、在地領主として領域経営を行うという、武家的な側面も併せ持つ「公家大名」としての特異な性格を有していた。
土佐一条氏が土佐国において有した影響力は、他の戦国大名のように強大な直接的軍事力にのみ依存していたわけではなかった。むしろ、その名門としての家格や朝廷との緊密な繋がりが、在地勢力に対する大きな権威として作用したと考えられる 1 。さらに、後述する対明貿易などの経済活動を通じて、領内および周辺の在地領主層の経済的利益を擁護し、彼らの支持を得ることによって、その勢力は維持・拡大されたと推察される 1 。これは、武力一辺倒ではない、公家大名ならではの複合的な権力基盤であったと言えるだろう。土佐国内の国人衆にとって、一条氏は「土佐七雄」の盟主的な立場にあり 1 、それは軍事力による支配というよりも、調停者や上位の権威としての役割が大きかったことを示唆している。
第二節:一条房冬の系譜と家族
一条房冬は、明応7年(1498年)、土佐国中村において誕生した 4 。父は土佐一条氏第2代当主の一条房家である。房家は、母が地元の実力者である加久見氏の娘であったこともあり、幡多の国人たちに請われて中村に留まり、中村を京都に見立てた街づくりを推進し、幡多荘を安定的な荘園として発展させ、土佐一条氏の全盛期を築いた人物として高く評価されている 3 。房冬の母は、前参議従二位であった平松資冬(藤原資冬とも)の娘である 3 。
房冬には複数の兄弟がいたが、特筆すべきは弟の一条房通(ふさみち)である。房通は、京都の一条本家当主であった大叔父の一条冬良の養嗣子となり、後に一条家第11代当主として関白、左大臣、内覧といった朝廷の最高位にまで昇進した 1 。この房通の本家相続は、土佐一条氏にとって重要な意味を持っていた。五摂家のような名門公家においても、後継者の確保は常に課題であり、土佐のような血縁の近い分家は、その有力な供給源となり得たのである 11 。房通が本家を継ぎ、関白という最高職に就いたことは、土佐一条氏にとって中央政界との強力なパイプを持つことを意味し、土佐における一条氏の権威を間接的に高め、在地勢力に対する優位性を確保する上で有利に働いたと考えられる。
房冬の正室は、伏見宮邦高親王の王女である玉姫であった 3 。玉姫は永正18年(1521年)に房冬に嫁いだとされる 3 。伏見宮家は、皇位継承資格を有する四親王家の一つであり、極めて高い家格を誇る皇族である。このような皇族から正室を迎えることは、土佐一条氏の公家としての格式を一層高め、他の武家出身の地方領主とは一線を画す存在であることを内外に示す、戦略的な意味合いが強かったと推察される。この婚姻は、土佐国内の国人衆に対する威光を高めるだけでなく、中央政界や他の有力大名との関係においても、一条氏の特別な地位を印象づける効果があったと考えられる。玉姫は大変美しい姫であったと伝えられ、現在でも四万十市民に慕われているという記述は 3 、この婚姻が地域に与えた文化的影響の大きさを物語っている。
側室には、周防国(現在の山口県東部)を本拠とする有力戦国大名・大内義興の娘がいたことが記録されている 1 。大内氏は当時、西日本最大級の勢力を誇り、勘合貿易(日明貿易)や日朝貿易を掌握していた。土佐一条氏もまた、中村を拠点として対明貿易を行い、経済的利益を追求していたことから 3 、大内氏との姻戚関係は、これらの貿易ルートの安全確保、情報交換、さらには政治的・軍事的な連携の可能性も視野に入れた、重要な外交政策であったと考えられる。実際に、大内氏や大友氏のような貿易に積極的な大名との婚姻は、貿易路確保の側面があったと指摘されている 1 。また、後に悲劇的な運命を辿ることになる家臣・敷地藤安の娘も房冬の側室となっていた 4 。
房冬の子としては、嫡男で後に家督を継ぐ一条房基(ふさもと) 3 、大内氏との関係をうかがわせる名を持つ大内晴持(母が大内氏出身であった可能性、あるいは大内氏への配慮からの命名か)、そして仏門に入った真海などが知られている 4 。
以下に、一条房冬の主要な関係人物を一覧として示す。
表1:一条房冬 関係人物一覧
関係 |
氏名 |
備考 |
典拠 |
父 |
一条房家 (いちじょう ふさいえ) |
土佐一条氏第2代当主 |
3 |
母 |
平松資冬の娘 (ひらまつ すけふゆのむすめ) |
前参議従二位 |
3 |
弟 |
一条房通 (いちじょう ふさみち) |
一条本家第11代当主、関白 |
1 |
正室 |
玉姫 (たまひめ) |
伏見宮邦高親王の王女 |
3 |
側室 |
大内義興の娘 (おおうち よしおきのむすめ) |
|
1 |
側室 |
敷地藤安の娘 (しきち ふじやすのむすめ) |
|
4 |
嫡男 |
一条房基 (いちじょう ふさもと) |
土佐一条氏第4代当主 |
3 |
子 |
大内晴持 (おおうち はるもち) |
|
4 |
子 |
真海 (しんかい) |
僧 |
4 |
主要家臣 |
敷地藤安 (しきち ふじやす) |
房冬の傅役、後に讒言により自害 |
4 |
この表は、房冬を取り巻く人的ネットワークの概要を示しており、彼の政治的・社会的な立場や、彼がどのような人間関係の中で活動していたのかを理解する上で重要である。特に、皇族や有力大名との婚姻関係は、当時の外交戦略の一環であり、また、家臣との関係は彼の治世における重要な出来事と深く関わっている。
第二章:一条房冬の治世と政治的活動
第一節:家督相続と初期の活動
一条房冬は、父・一条房家の死去に伴い、天文8年(1539年)に土佐一条氏の家督を相続した 4 。しかし、彼自身が天文10年(1541年)11月6日に44歳(数え年、満年齢では43歳)で病死したため 3 、当主としての公式な治世は実質的にわずか2年間という非常に短いものであった。
この短い治世期間だけを見ると、房冬が独自の政策を大きく展開する時間は限られていたように思われる。しかしながら、ある資料には「治世は2年ですが、実質は一條家の繁栄の時代を京と行き来して過ごし」との記述があり 3 、これは家督相続以前、すなわち父・房家の治世の晩年から、房冬が一族の重要人物として、特に京都との外交交渉や経済活動に深く関与していた可能性を示唆している。土佐一条氏の「繁栄の時代」において、彼が京都と土佐を往来していたという事実は、彼が単に父の遺産を継いだだけでなく、その繁栄の形成にも一定の役割を果たしていた可能性を物語る。若年から中央との折衝といった重要な任務を担い、経験を積んでいたことは、短い治世ながらも彼が一定の政治的基盤を有していたことをうかがわせる。
第二節:朝廷との関係:官位と献金
一条房冬は、在国していた公家としては異例とも言える、正二位左近衛大将、さらには権中納言という極めて高い官位に昇った 1 。これは、土佐一条氏が摂家分流という高い家格を有していたことに加え、朝廷に対して多大な経済的貢献を行っていたことを反映したものと考えられる。
当時の土佐一条氏は、対明貿易などを通じて豊富な経済力を有しており、その財力を背景に、財政的に困窮していた朝廷へ多額の献金を行っていたことが記録されている 3 。これらの献金は、朝廷にとって貴重な収入源であると同時に、一条氏が朝廷内での発言力を維持し、その権威を背景に領国支配を円滑に進めるための重要な手段でもあった。
天文4年(1535年)、房冬が左近衛大将に任命された際には、朝廷へ銭1万疋を献上することを秘密裏に約束したものの、時の後奈良天皇がこれを拒否したという逸話が伝えられている 4 。戦国時代の朝廷の厳しい財政状況を考慮すると、この献金拒否は一見不可解に映る。しかし、この背景には、天皇の権威を維持しようとする意思の表れ、あるいは献金の申し出方や仲介した人物に何らかの問題があったなど、特定の政治的状況が存在した可能性が考えられる。例えば、あまりにも露骨な官位売買と見なされることを天皇が嫌った可能性や、特定の献金が朝廷内の他の勢力とのバランスを崩す、あるいは特定の派閥を利するように見られることを避けたという政治的配慮があったのかもしれない。また、「秘密裏の約束」という形式自体が問題視された可能性も否定できない。
一方で、他の資料では房冬の名前で多額の献金が朝廷に贈られていたことが確認されており 3 、この一件が彼の朝廷支援全体の否定を意味するものではない点には留意が必要である。したがって、この献金拒否は特定の状況下における例外的な出来事であり、房冬と朝廷の関係が険悪であったわけではないと考えられる。むしろ、このような駆け引きが存在したこと自体が、当時の朝廷と地方権力者の間の複雑で繊細な関係性を示していると言えるだろう。
第三節:領国経営と経済基盤
一条房冬の治世は、父・房家の功績をそのまま引き継ぐ形で、土佐一条氏が最も華やかで繁栄した時期であったと評されている 5 。その経済的繁栄の基盤となっていたのは、本拠地である中村が対明貿易の中継地として栄えたことであった 3 。
房冬は、文化的な活動にも関心を示し、京都大徳寺の高僧であった古岳宗亘(こがくそうこう)に帰依していたことが知られている [6, 8]。これは単なる宗教的信仰心に留まらず、禁裏(朝廷)との関係を一層深めるとともに、当時、大徳寺に集っていた他の有力大名や堺の商人たちとの人的ネットワークを構築することにより、政治的・経済的な利益を得ることを目的とした戦略的な行動であったと指摘されている [6, 8]。戦国期において、大徳寺のような有力な禅宗寺院は、多くの戦国大名や有力商人(特に堺商人)が帰依し、経済的支援を行う文化的・経済的拠点であり、茶の湯文化とも深く結びつき、一種の文化サロン的な役割も果たしていた。古岳宗亘のような高僧は、これらの有力者と深い繋がりを持っていたため、房冬が彼に帰依することは、これらの広範なネットワークへのアクセスを得ることを意味した。具体的には、他の大名との非公式な接触や情報交換の場となり得、堺商人との繋がりは貿易の拡大や新たな経済的機会をもたらす可能性があり、また京都や諸国の最新情報を得る上でも寺社ネットワークは重要であった。さらに、文化人としての名声を高め、公家大名としての権威を補強する効果も期待できたであろう。これは、武力だけでなく、文化や経済、宗教をも含む多角的なアプローチで勢力の維持・拡大を図ろうとした房冬の戦略的思考を示すものと評価できる。
第四節:土佐国内における立場
土佐一条氏は、土佐国内において、他の主要な国人領主たち、いわゆる「土佐七雄」と呼ばれる勢力に対して、盟主的な存在と見なされていた 1 。一条氏が幡多郡に有していた所領の規模は1万6千貫に達したとされ 1 、摂家という比類なき高い家格と広大な荘園を背景に、他の国人衆は一条氏に対して容易に逆らうことができない力関係にあったとされている 6 。
房冬の父・房家は、土佐国内の安定化に大きく貢献した。例えば、かつて本山氏によって本拠地を追われた長宗我部氏の遺児・国親(後の長宗我部元親の父)を保護し、元服の際には烏帽子親となってその後見を行い、旧領回復を助けたという逸話は有名である 6 。さらに、房家は長宗我部国親の娘を本山氏の子に嫁がせることで両者の和平を仲介するなど 6 、土佐国内の勢力バランスの維持に努めた。房冬もまた、こうした父の政策と、それに伴う複雑な人間関係や勢力バランスを継承し、その枠組みの中で領国を運営していったと考えられる。
しかし、土佐一条氏の「盟主」としての立場は、絶対的な軍事支配に基づくものではなく、その高い家格と経済力、そして時には調停者としての役割を果たすことによる、相対的な優位性の上に成り立っていたと推察される。このため、在地勢力との間には常に協調と緊張の関係が存在し、その支配基盤は必ずしも盤石とは言えなかった側面も持ち合わせていた。後に長宗我部氏が急速に台頭し、最終的に一条氏を凌駕するに至る歴史的展開は、この構造的な脆弱性を示唆している。房冬の短い治世では、この基本的な勢力構造を大きく変革することは困難であり、彼の死後、この構造の不安定さが徐々に露呈していくことになる。
以下に、一条房冬の生涯における主要な出来事を略年表として示す。
表2:一条房冬 略年表
年代 (西暦) |
和暦 |
年齢 (数え) |
主要な出来事 |
典拠 |
1498年 |
明応7年 |
1歳 |
土佐国中村にて誕生 |
4 |
1521年 |
永正18年 |
24歳 |
伏見宮邦高親王の王女・玉姫と婚姻 |
3 |
1535年 |
天文4年 |
38歳 |
正二位左近衛大将に叙任される。朝廷への1万疋献上を申し出るも、後奈良天皇に拒否されるとの逸話あり |
4 |
1539年 |
天文8年 |
42歳 |
父・一条房家死去。家督を相続し、土佐一条氏第3代当主となる |
3 |
1540年 |
天文9年 |
43歳 |
家臣の讒言により、傅役であった重臣・敷地藤安に自害を命じる |
|
1541年11月23日 (旧暦11月6日) |
天文10年 |
44歳 |
病死。戒名は円明院殿二品幕下明叟宗賢 |
3 |
この年表は、房冬の生涯における重要な出来事とその順序を明確に示している。特に彼の人生の後半、家督相続から死に至るまでの期間が非常に短く、その間に敷地藤安事件という重大な出来事が凝縮していることが視覚的に理解できる。
第三章:敷地藤安事件の真相と影響
第一節:事件の経緯
敷地藤安(しきち ふじやす)は、一条房家・房冬の二代にわたって仕えた老臣であり、土佐一条氏の確立と発展に大きな功績があった人物である。房冬にとっては傅役(教育係)も務めた重臣中の重臣であった 13 。房冬からの信任も厚く、当初は自らの娘を房冬の側室として差し出すなど、非常に重用されていた 4 。
しかし、天文9年(1540年)、事態は暗転する。藤安の大きな権勢を妬んだ他の重臣たちによる讒言を房冬が信じた結果、藤安は房冬から自害を命じられるという悲劇的な結末を迎えた [3, 4, 13, 4 ]。この讒言の具体的な内容については、提供された資料からは詳らかにされておらず、どのような言葉で藤安が陥れられたのかは不明である。
第二節:房冬の後悔と事件の影響
敷地藤安の死後、一条房冬は彼が無実であったことを知り、自らの判断の誤りを悟って激しく後悔したと伝えられている [3, 4, 13, 4 ]。そして、この悲劇的な事件の翌年、天文10年(1541年)に房冬自身も病のためこの世を去った 4 。彼の早すぎる死と、敷地藤安事件による心労との間に関連性があったのではないかと指摘する見方もあるが、直接的な因果関係を明確に示す史料は現存していない 4 。
敷地藤安事件は、土佐一条氏の家臣団内部に、潜在的な対立や深刻な権力闘争が存在したことを強く示唆している。房冬が、長年にわたり信頼し、傅役まで任せた重臣に対する讒言を信じてしまったという事実は、彼の指導力や判断力に何らかの隙があったのか、あるいは家臣団内の亀裂が房冬の想像以上に深刻であった可能性を物語っている。藤安ほどの重臣が他の家臣の讒言によって失脚し、自害に追い込まれたという事態は尋常ではなく、家臣団内部に藤安の権勢を妬む勢力が存在し、彼らが房冬の判断を誤らせるほどの影響力を行使できたことを意味する。房冬が讒言を信じた背景には、彼自身の性格的な弱さ、情報収集能力の限界、あるいは巧みな情報操作があった可能性などが考えられるが、いずれにせよ、この事件は一条家家臣団の結束が盤石でなかったことを露呈させたと言えよう。
房冬が深く後悔し、その翌年に44歳という若さで早世したことは、土佐一条氏にとって計り知れない打撃となったと考えられる。指導者層の相次ぐ喪失(藤安と房冬)、特に後継者である嫡男・房基が当時まだ19歳程度(天文元年(1522年)生まれとすれば 3 )と若年であったことを考慮すると、権力基盤の動揺や家臣団の士気低下を招いた可能性は否定できない。若年の当主では、経験豊富な家臣団を完全に統率するのは容易ではなかったであろう。敷地藤安という重鎮を讒言によって失い、当主自身もその後悔の中で早世したという一連の出来事は、家臣団に動揺や不信感を生み、土佐一条氏の権力に影を落とした。そして、この事件と房冬の死は、その後の房基の治世の困難さ(房基は最終的に28歳で自害するという悲劇的な最期を遂げている 3 )、ひいては土佐一条氏全体の衰退へと繋がる一つの遠因となった可能性が考えられる。
第四章:一条房冬の人物像と歴史的評価
第一節:人物像の考察
一条房冬の人物像を考察するにあたり、限られた史料からいくつかの側面が浮かび上がる。まず、父・一条房家が築いた土佐一条氏の繁栄を受け継ぎ、京都の中央政界や文化との連携を重視した活動的な人物であったと推察される 3 。正室に皇族の姫を迎え、また弟が本家を継いで関白にまでなったことは、彼の中央志向を物語る。
また、京都大徳寺の高僧・古岳宗亘に帰依し 8 、堺の商人との経済ネットワークの重要性を理解していたと思われる点からは 8 、単なる地方領主ではなく、文化的・経済的な視野の広さを持っていたことがうかがえる。
一方で、敷地藤安事件に見られるように、時には家臣に対して厳しい決断を下す冷徹さも持ち合わせていた。しかし、その後に自らの過ちを深く悔いたという伝承は 4 、彼が冷酷なだけの為政者ではなく、人間的な感情や良心の呵責も持ち合わせていたことを示唆している。
彼の治世は土佐一条氏の「最も華やかな時」と評されることがあるが 5 、これは主に父・房家の長年にわたる善政と領国経営の功績によるところが大きいと付記されており 5 、房冬自身の2年間という短い治世において、具体的な新規の政策や顕著な功績を史料から明確に読み取ることは難しい。おそらくは、父が敷いた路線の維持・継続が主であったと考えられる。
天文4年(1535年)の朝廷への献金未遂事件は 4 、彼の野心の一端、あるいは中央政界との交渉における何らかの計算違いや、当時の朝廷の複雑な内部事情を反映しているのかもしれない。
なお、一部資料に見られる「珊瑚礁」や「覇王樹」といった雑誌の創刊、歌集「地懐」の出版といった記述は 5 、時代背景や他の情報から判断して、戦国時代の一条房冬ではなく、後代(大正・昭和期)の一条家当主に関する情報である可能性が極めて高く、本報告書の対象とする房冬の事績とは区別して考える必要がある。
第二節:歴史的評価
一条房冬は、土佐一条氏の歴史において、その最盛期に位置づけられる人物である 3 。しかしながら、その治世がわずか2年と短かったこと、そして敷地藤安事件という家臣団内部の悲劇は、彼の歴史的評価に複雑な影を落としている。
父・房家が築き上げた経済的繁栄と文化的影響力を背景に、房冬は京都の中央政界や大徳寺、さらには堺の商人との連携を深めようとした 8 。この点は、戦国時代において武力以外の手段、すなわち文化的権威や経済的ネットワークを巧みに駆使して自らの勢力を維持・強化しようとした、公家大名としての先進的な側面を示すものとして評価できる。
しかし、一条房冬の生涯は、戦国時代における公家大名という存在が持つ強みと弱みの両側面を体現しているとも言える。高い官位や皇族との婚姻に象徴される文化的権威、中央との太いパイプ、そして対外貿易によってもたらされる経済力は、紛れもなく彼らの強みであった 1 。中村が「小京都」として繁栄したことは、その文化的影響力の現れであろう 3 。一方で、在地武士団の完全な掌握や純粋な軍事力の面では、実力でのし上がってきた新興の戦国大名に比べて脆弱性を抱えていた可能性が指摘できる。敷地藤安事件は、家臣団の掌握の難しさや内部対立の危険性を示唆しており 4 、土佐一条氏が「盟主」とは言え 1 、土佐国全体の絶対的な軍事支配者ではなかったことを物語っている。その権力基盤は、在地領主たちの支持ネットワークに少なからず依存しており 1 、それは時として不安定なものであった。かつて一条氏が庇護した長宗我部氏が、後に急速に力をつけ、最終的に一条氏を滅亡に追いやるという皮肉な歴史的展開は 6 、この構造的な弱点を浮き彫りにしている。房冬の時代は外見的には繁栄していたものの、その基盤は、純粋に武力による富国強兵を目指す他の戦国大名に比べ、軍事的には必ずしも強固ではなかったのかもしれない。
房冬の早すぎる死と、その結果として若年の房基へ家督が相続されたこと 3 は、土佐一条氏にとって大きな転換点となった。これは、緩やかながらも一条氏の衰退が始まる契機となり、後の長宗我部氏による土佐統一と覇権確立への道を開いた遠因の一つとなった可能性は否定できない。
終章:総括
一条房冬は、戦国時代の土佐国において、公家大名・土佐一条氏の当主として、短いながらも強烈な印象を残した人物である。父祖が築き上げた土佐一条氏の最盛期に活動し、中央の権威と地方の実力が複雑に交錯する時代の中で、京都の文化と経済的繁栄を背景に独自の地位を築こうとした。
彼の生涯は、摂家分流という高い家格、皇族との婚姻、そして朝廷からの高い官位に象徴される公家としての側面と、土佐の在地領主として領国経営を行い、時には家臣との厳しい対立に直面するという武家領主としての側面を併せ持っていた。この二重性は、戦国時代における「公家大名」という特異な存在の光と影を映し出している。
敷地藤安事件は、房冬の治世における最大の汚点であり、彼の判断の過ちを示すものであると同時に、土佐一条氏の家臣団内部に潜んでいた権力闘争や構造的な脆弱性を露呈させる重要な出来事であった。この事件と、それに続く房冬自身の早世は、土佐一条氏の権力基盤に大きな動揺を与え、その後の衰退へと繋がる一つの要因となったと言えるだろう。
一条房冬の時代は、土佐一条氏にとって繁栄の頂点の一つであったと評価される。しかし、その短い治世と彼の死は、結果として一族の将来に暗い影を落とし、戦国という実力主義の荒波の中で、伝統的な権威に依拠する公家大名が生き残ることの困難さを示す一例となった。彼の生涯は、戦国時代という変革期における、伝統と革新、中央と地方、権威と実力といった、様々に対立する要素の狭間で苦闘した一人の領主の姿を我々に伝えている。