最終更新日 2025-06-08

一栗放牛

「一栗放牛」の画像

表題:奥州の老雄 一栗放牛 ―葛西・大崎一揆に散った九十二年の生涯―

序論:老将・一栗放牛、乱世に死す

本報告書は、戦国時代の奥州にその名を刻んだ武将、一栗放牛(いちくりほうぎゅう)の生涯、特にその最期に焦点を当て、関連史料に基づき詳細な調査を行うものである。一栗放牛は、大崎家臣として一栗城主を務め、一栗高春の祖父と伝えられる。天正19年(1591年)、葛西・大崎一揆の渦中、九十二歳という高齢にも関わらず、一揆軍に身を投じ、佐沼城にて壮絶な戦死を遂げたとされる 1

天正18年(1590年)から翌19年にかけて奥州を震撼させた葛西・大崎一揆は、豊臣秀吉による天下統一事業の最終段階である奥州仕置に対する、旧領主層や在地武士、さらには農民層の激しい抵抗であった。この動乱の中で、一栗放牛が見せた生き様、とりわけその老齢にしての奮戦と死は、単なる一個人の武勇伝を超え、時代の大きな転換期における旧勢力の矜持と悲壮感を象徴するものと言えるだろう。秀吉による新たな支配体制に対し、滅びゆく秩序に殉じようとした人々の抵抗がいかに激しく、また悲痛なものであったか、放牛の生涯はその一端を雄弁に物語っている 3

本報告書では、まず一栗放牛の出自と彼が属した一栗氏、そしてその居城であった一栗城について明らかにする。次に、葛西・大崎一揆の勃発と、放牛がいかにしてこの戦いに身を投じたのかを考察する。続いて、彼が最期を迎えた佐沼城の攻防戦の詳細を追い、その壮絶な死を検証する。さらに、関連人物として孫の一栗高春の生涯にも触れ、放牛の死後の家系の動向の一端を示す。最後に、主要な史料における放牛像を検討し、その歴史的評価と記憶について総括する。

本報告書の理解を助けるため、以下に一栗放牛に関連する略年表を提示する。

年代(推定含む)

出来事

関連人物

備考

永正17年/大永元年(1500年頃)

一栗放牛、生誕か 2

一栗放牛

生年に関する確たる史料は乏しい

天文年間~永禄年間

大崎氏に仕官か

一栗放牛

大崎家臣としての活動詳細は不明

(不明)

一栗城主となる。後に隠居し、孫の高春が城主となる 8

一栗放牛

『岩出山町史』によれば、一栗城西館に「隠居放牛」が居住

天正18年(1590年)10月

葛西・大崎一揆勃発 5

奥州仕置、木村吉清父子の支配に対する反発

天正18年(1590年)

一栗放牛、孫の一栗高春と共に一揆に参加 1

一栗放牛、一栗高春

天正19年(1591年)7月3日

佐沼城陥落。一栗放牛、奮戦の末、戦死(享年92歳) 1

一栗放牛

多くの史料が佐沼城での戦死を伝える

天正19年(1591年)7月

一栗高春、佐沼城より脱出 1

一栗高春

慶長年間初期

一栗高春、出羽の最上義光に仕える 8

一栗高春

田川郡添川楯主となる

慶長19年(1614年)

一栗高春、最上騒動に関与し、鶴ヶ岡城下で志村光惟らを襲撃後、添川楯に籠城するも討死 10

一栗高春

第一部:一栗放牛の出自と一栗氏

  1. 一栗放牛の謎多き前半生
    一栗放牛の生年については、一部資料に1500年(永正17年/大永元年)との記述が見られるものの 2 、これを裏付ける確たる史料は乏しく、正確な生年は不明である。また、「放牛」という名は出家後の法名である可能性が高く、その俗名(本名)も伝わっていない 7 。大崎氏の家臣であったことは諸資料から確実視されるが 1 、具体的な事績、特に若い頃の経歴についてはほとんど知られていないのが現状である 7 。その生涯の多くは謎に包まれていると言わざるを得ない。
  2. 一栗氏と氏家氏 ―その血脈と所領―
    一栗氏の姓の読み方については、古くは「ひとつくり」と称されていたが、現在では「いちくり」と読むのが一般的であるとされている 8 。この一栗氏は、奥州の有力な国人であった氏家氏の一族、あるいはその分家であった可能性が極めて高い。その根拠として、放牛の孫である一栗高春(隆春)が「氏家兵部隆春」とも名乗っている事実が挙げられる 8 。さらに、『岩出山町史』によれば、一栗城主は「氏家(一栗)兵部隆春」と記されており、一栗氏と氏家氏の密接な関係がうかがえる 8
    この氏家氏の系譜を辿ると、陸奥国玉造郡には藤原北家宇都宮氏の流れを汲む氏家氏が下向し、在地において一栗氏のほか、上宮氏、湯山氏、狩野氏、一迫氏、清水氏といった諸氏と共に「氏家党」とも称される武士団を形成していたとの記録がある 12 。このことは、一栗氏が単独の小勢力ではなく、氏家氏を中心とした広範な武士のネットワークの一翼を担っていたことを示唆している。
    これらの情報を総合的に考察すると、一栗放牛の「一栗」という名は、氏家一族における彼の特定の所領、すなわち一栗城とその周辺地域を示しており、本姓は氏家であった可能性が高いと考えられる。孫の高春が「氏家兵部」を公称していること 8 、一栗城主が「氏家(一栗)兵部隆春」と併記されていること 8 、そして玉造郡の氏家党に一栗氏が含まれるという記述 12 は、この推測を強く裏付ける。放牛自身も本来的には氏家姓を名乗っていたが、一栗城主としての立場から「一栗放牛」として歴史に名を残したのではないだろうか。
  3. 居城・一栗城と放牛
    一栗放牛の居城とされる一栗城は、陸奥国玉造郡、現在の宮城県大崎市岩出山下一栗宿に存在した山城である 8 。城は樹林寺の北西に位置する山に築かれ、コの字形に延びる尾根を利用し、大きく四つの曲輪群から構成されていたと伝えられている 8
    『岩出山町史』には、この一栗城の具体的な城内配置についても言及があり、それによると城の西館(西の郭)に「隠居放牛」が居住していたとされる 8 。一方で、城の中心である中館(中の郭)には、城主である孫の氏家兵部(一栗高春)がいたと記されている 8 。この記述は、葛西・大崎一揆が勃発する直前の時期において、一栗放牛が家督を孫の高春に譲り、隠居の身であったことを示唆している。
    一栗城の麓には樹林寺という寺院が現存するが、これは孫の一栗高春(氏家兵部隆春)が開基したと伝えられており、境内には高春の供養塔も残されている 8
    一栗城における「隠居」としての放牛の立場は、彼が一揆に際して蜂起した際の並々ならぬ決意の強さを一層際立たせる。通常、隠居の身であれば、ましてや九十二歳という高齢であれば、戦の第一線に出ることは考えにくい。しかし放牛は、その立場と年齢にも関わらず、旧主大崎氏の改易と新領主への反発という事態に直面し、敢然と立ち上がった。そして最終的には、一揆軍の主要拠点であった佐沼城で戦死を遂げるのである 1 。この行動は、彼が抱いていた旧主への忠義心、武士としての矜持がいかに強固なものであったか、そして当時の奥州の武士たちが抱いた新体制への抵抗がいかに根深いものであったかを如実に物語っている。

第二部:葛西・大崎一揆と放牛の蜂起

  1. 奥州仕置と大崎氏の改易
    天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、小田原攻めに参陣しなかった奥州の諸大名に対し厳しい処分を下した。これが奥州仕置である。これにより、長年にわたり奥州に勢力を有した大崎氏は当主大崎義隆の代で改易され、その所領は没収された 4 。同様に葛西晴信も改易処分となった。
    大崎・葛西両氏の旧領には、新たに木村吉清とその子・清久が封じられた。しかし、木村父子による新たな支配は、強引な検地の実施や刀狩りなど、旧臣や在地領主、さらには農民たちの既得権益を脅かし、彼らの生活を圧迫するものであった 3 。この急激な変化と厳しい支配に対する不満と反発が、葛西・大崎一揆の直接的な原因となったのである。
  2. 放牛、九十二歳の決起
    このような状況下で、一栗放牛は孫の一栗高春と共に一揆への参加を決意する。旧主大崎氏への長年の恩義に報いるため、そして新領主による圧政から自らの所領と民衆を守るため、九十二歳という高齢を顧みず立ち上がったと考えられる 1
    この葛西・大崎一揆の展開には、伊達政宗の動向も複雑に絡み合っていた。政宗は表向き豊臣政権の命に従い一揆鎮圧軍の主力として活動したが、その一方で一揆を裏で扇動し、混乱に乗じて旧領回復や勢力拡大を狙っていたという説も根強く存在する 4
    放牛の決起は、単なる個人的な忠義心の発露に留まらず、大崎氏旧臣団全体の組織的な抵抗運動の一環であった可能性が高い。葛西・大崎一揆が広範囲にわたる計画的な反乱であったこと 3 、放牛と高春が共に蜂起している点 1 、そして彼らが一揆軍の主要拠点の一つである佐沼城に籠城したという事実は、彼らの行動が孤立したものではなく、一揆勢の中核的な動きと深く連携していたことを示している。放牛の豊富な経験と、その老齢にして衰えぬ気迫は、一揆軍の精神的な支柱となり、その士気を大いに高めたであろうことは想像に難くない。

第三部:佐沼城の攻防と放牛の最期

  1. 籠城地を巡る検討:一栗城か、佐沼城か
    一栗放牛が葛西・大崎一揆に際して籠城した場所については、いくつかの情報が存在し、検討が必要である。ユーザー提供情報および一部の資料 2 では、放牛は「居城(一栗城)に籠城して戦うが敗れ、戦死した」とされている。しかしながら、より多くの史料、特に孫の一栗高春に関する記述を含むもの 1 は、一栗放牛と高春が共に「佐沼城」に籠城したと明確に記している。
    この点について、『岩出山町史』の記述が重要な手がかりを提供する。同書によれば、一栗城においては、城主は孫の高春(氏家兵部)であり、放牛は西館に住む「隠居」の身であった 8 。この状況を考慮すると、九十二歳の高齢である放牛が、既に家督を譲った隠居城である一栗城で単独で戦ったとは考えにくい。むしろ、一揆勢の主要な結集拠点の一つであり、孫の高春も共に戦ったとされる佐沼城で、一揆軍の一翼を担い、その精神的支柱として奮戦したと考える方が自然であろう。一揆勃発後、一栗城から佐沼城へ移り、そこで指揮を執ったか、あるいは一武将として戦った可能性が高いと推察される。
    以下に、籠城地に関する諸説を比較のため提示する。

史料・情報源

籠城地

備考

ユーザー提供情報

居城(一栗城)

放牛が一栗城主であったとの認識に基づくか

2

居城(一栗城)

同上

1

佐沼城

孫の高春と共に籠城したとの記述が複数あり、信憑性が高いと考えられる

『岩出山町史』の記述

(一栗城)

放牛は一栗城の「隠居」であり、城主は高春。佐沼城での籠城を否定するものではない

  1. 佐沼城の戦い ―老雄、最後の奮戦―
    天正19年(1591年)、葛西・大崎一揆の鎮圧は新たな段階に入り、伊達政宗を主力とする討伐軍は、一揆勢の主要拠点の一つであった佐沼城(別名:鹿ヶ城、現在の宮城県登米市迫町佐沼)へと進軍した。佐沼城には、旧葛西・大崎氏の侍約500名に加え、近隣の百姓など約2000名、総勢2500名以上の一揆勢が立て籠もっていたと記録されている 4 。これは、この一揆が単なる武士の反乱ではなく、広範な民衆の不満を背景に持っていたことを示している。木村氏の統治に対する反発が、武士階級のみならず農民層にまで深く浸透していたことの証左であり、放牛のような旧臣が、これらの民衆を率いて抵抗した構図が浮かび上がる。
    同年6月から7月にかけて、伊達政宗率いる2万とも言われる大軍 17 が佐沼城を包囲し、総攻撃を開始した 4 。圧倒的な兵力差にも関わらず、一揆勢は頑強に抵抗したが、7月3日、ついに佐沼城は陥落した 4
    この佐沼城攻防戦において、一栗放牛は九十二歳という高齢にも関わらず、一揆軍の一員として最後まで奮戦したが、衆寡敵せず、城と共にその生涯を閉じた 1 。彼の死は、絶望的な兵力差(一揆勢約2500に対し、伊達軍2万以上)と、後に「撫で斬り」と称されるほどの殲滅戦という状況下でのものであった 4 。これは、降伏や投降が許されない過酷な戦況であった可能性を示唆しており、その中で戦いを選び、死に至った放牛の姿は、武士としての最後の意地と誇りを示したものと言えよう。
    佐沼城の陥落は悲劇的な結末を迎えた。城内にいた者の多くは、一部の逃亡者を除き、ことごとく討ち取られたと伝えられている。その様子は「城内は死体が積み重なり、下の地面が見えないほど」と描写されるほど凄惨を極めた 4 。討ち取られた一揆勢の首は、佐沼城近くに築かれた「首壇」と呼ばれる塚に葬られたとされ、その数は2500にも及んだという 4

第四部:関連人物 ―孫・一栗高春の道―

  1. 一揆後の流転
    祖父・一栗放牛が佐沼城で壮絶な最期を遂げる中、孫の一栗高春(隆春、兵部、豊後守とも称される 1 )は、城の陥落寸前に辛くも脱出に成功した 1 。放牛の犠牲が、高春の活路を開いたとも言えるだろう。
    一揆終結後、高春は追われる身となりながらも出羽国へ落ち延び、最上義光に仕えることとなった。最上家では田川郡添川楯主として千石の所領を与えられ、また鶴ヶ岡城の城番も務めるなど、新たな主君のもとで武将としての道を歩み始めた 8
  2. 最上騒動と高春の最期
    しかし、高春の後半生もまた波乱に満ちたものであった。主君・最上義光が没し、その子・最上家親が家督を継ぐと、高春はこの家督相続に異を唱え、反対の立場を鮮明にした 10
    この対立の背景には、最上家中の複雑な権力構造と、中央政局との関連があった可能性が指摘されている。最上家親は徳川家康の近侍を務めた経験があり、徳川将軍家との結びつきが強かった 21 。一方、高春の行動については、「(家親に代わり清水義親を擁立し)秀忠に仕えて徳川家に与する家臣を討ち取り、豊臣家に取り入ろうとした」という説が存在する 21 。時は大坂の陣を目前に控えた緊迫した時期であり、最上家内部にも親豊臣的な感情を持つ勢力が存在し、高春がその一派として行動を起こした可能性も否定できない。
    慶長19年(1614年)、高春はついに実力行使に出る。鶴ヶ岡城下の新関因幡守邸において、亀ヶ崎城主・志村光惟と大山城主・下次右衛門を襲撃し殺害するという事件を引き起こした。その後、自らの居城である添川楯に立てこもったが、最上家の討伐軍によって鎮圧され、討死を遂げた 10
    一栗高春の生涯は、旧主を失った戦国武将が新たな秩序の中で生き残りを図ろうとするも、結局は武力闘争の渦に巻き込まれ命を落とすという、戦国末期から近世初期にかけての武士の典型的な運命の一つを示していると言えるだろう。祖父・放牛が大崎氏に殉じたのとは対照的に、高春は一度は新たな道を歩み始めたが、仕官先の家中の内紛に翻弄され、自らも武力に訴えた結果、非業の最期を迎えた。これは、主家を失った武士たちが、新たな主君のもとで再び忠義を尽くそうとしても、当時の不安定な政治状況や家中の権力闘争によってその願いが阻まれるという、過酷な現実を物語っている。

第五部:史料に見る一栗放牛像

  1. 『岩出山町史』の記述
    一栗放牛に関する地域史料として特に重要なのが『岩出山町史』である。この史料は、一栗城の具体的な構造や、城内における放牛の「隠居」としての位置づけ(西館に居住)など、彼の晩年の生活状況を伝える貴重な情報を提供している 8 。また、孫である一栗高春(氏家兵部)との関係性や、高春による樹林寺の開基についても触れられており、一栗氏の地域における足跡を辿る上で欠かせない 8 。これらの記述は、放牛が単なる伝説上の人物ではなく、確かにその地に生きた歴史上の存在であったことを示している 27
  2. 『奥羽永慶軍記』などの軍記物
    一栗放牛が生きた時代とその最期を伝える可能性のある史料として、『奥羽永慶軍記』が挙げられる。この軍記物語は、天文年間(1532年~1555年)から元和年間(1615年~1624年)に至る東北地方の群雄割拠と争乱の模様を描いたものであり 30 、葛西・大崎一揆や佐沼城の戦いについても詳細な記述が含まれていると推測される 4
    『奥羽永慶軍記』は江戸時代に成立したとされるが、幕府に対するある種の反骨の気概や、東北地方の視点に立った客観性、そしてそこに生きた人々への温かな同情の眼差しを持つと評価されている 31 。このような性格を持つ軍記物語の中で、一栗放牛のような旧主に殉じ、悲劇的な最期を遂げた老将がどのように描かれているかは非常に興味深い。
    軍記物語は史実そのものではないものの、それが成立した時代の人々の価値観や英雄観、歴史認識を色濃く反映する。もし『奥羽永慶軍記』が東北の視点に立ち、同情的な筆致で描かれているならば、一栗放牛の姿は、滅びゆく勢力に最後まで忠義を尽くした悲劇の英雄として、あるいは老いてなお武士の鑑として、ある種の理想化を伴って語られている可能性がある。これにより、史実としての一栗放牛像に加え、後世の人々によって形成され、語り継がれてきた伝説・物語としての一栗放牛像の輪郭を垣間見ることができるかもしれない。

結論:一栗放牛の評価と歴史的記憶

一栗放牛の生涯を総括すると、彼は大崎氏の忠実な家臣として、戦国時代末期の奥州における激動の時代を生き抜き、九十二歳という常識では考えられないほどの高齢で葛西・大崎一揆に身を投じ、佐沼城において壮絶な最期を遂げた武将であったと言える。

彼の行動は、滅びゆく主家への揺るぎない忠誠心、武士としての誇り、そして豊臣政権による新たな支配体制への抵抗の象徴として評価することができる。その年齢と最期の状況は、人々に強い印象を与え、後世に語り継がれる大きな要因となったと考えられる。

彼の名は、『岩出山町史』のような地域に根差した史料や、『奥羽永慶軍記』のような軍記物語を通じて、断片的ではあるが現代に伝えられている。特に、孫の一栗高春が生き延びて新たな道を模索したのとは対照的に、放牛が旧秩序と共に潔く散ったその生き様は、戦国末期から近世初期への移行期における武士たちの多様な運命と価値観を鮮やかに示している。

一栗放牛のような人物の存在は、中央政権の視点から描かれがちな歴史に対し、地方の視点、あるいは敗者の視点から歴史を再考することの重要性を示唆している。豊臣秀吉による天下統一は、中央集権化を推し進める輝かしい業績として語られることが多いが、その過程においては多くの地方勢力が抵抗し、あるいは犠牲となった。一栗放牛の生涯を掘り下げることは、こうした歴史の多層性・多様性を理解する上で不可欠である。彼の物語は、中央の「正史」には大きく取り上げられることは少ないかもしれないが、地域の記憶として残り、歴史の複雑な側面を照らし出す貴重な事例と言えよう。

参考文献リスト(主要なもの)

  • 『岩出山町史』
  • 『奥羽永慶軍記』
  • その他、本報告書中で言及された各種史料・記録類

引用文献

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  2. 一栗放牛 - 信長の野望オンライン寄合所(本陣) https://wiki.ohmynobu.net/nol/index.php?%B0%EC%B7%AA%CA%FC%B5%ED
  3. japanmystery.com https://japanmystery.com/miyagi/kubidan.html#:~:text=%E8%8D%92%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D%E3%83%BB%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80,%E4%B8%80%E6%8F%86%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%82%92%E4%BD%9C%E3%82%8B%E3%80%82
  4. 首壇 - 葛西大崎一揆2500の首が埋まる塚 - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/miyagi/kubidan.html
  5. 大崎葛西一揆(おおさきかさいいっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E8%91%9B%E8%A5%BF%E4%B8%80%E6%8F%86-1512324
  6. 葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%8F%86-1153956
  7. 真実の日本史 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n7607ji/38/
  8. 陸奥 一栗城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/ichikuri-jyo/
  9. 葛西大崎一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%8F%86
  10. 一栗高春(ひとつくりたかはる):最上義光プロジェクト - samidare http://samidare.jp/mogapro/note?p=log&lid=322447
  11. 宮沢遺跡 宮沢城 小野城 湯山城 一栗城 葛岡城 磯田城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/miyagi/oosakisi02.htm
  12. 宮城県のご先祖調べ https://www.kakeisi.com/survey/survey_miyagi.html
  13. 大崎義隆- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E7%BE%A9%E9%9A%86
  14. 大條実頼(着座大條家第一世)【中】 - note https://note.com/oeda_date/n/n1b9ae068f593
  15. 首壇 - 「とめ日和」-宮城県登米市観光物産協会オフィシャルウェブサイト https://www.tome-city.com/smarts/index/21/
  16. 【首壇】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_04541af2170138532/
  17. 【感想】NHK 歴史探偵「伊達政宗の策略」を視聴しました|hayahi_taro - note https://note.com/hayahi_taro/n/n3b8c248a393d
  18. 旧葛西・大崎領で発生した一揆を領土拡大の好機と捉えた政宗は…〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5tqleQsyQic
  19. 郷土歴史倶楽部(葛西大崎一揆) https://tm10074078.web.fc2.com/history1060.html
  20. 僕のルーツ・中世への旅No19 - 無明舎出版 http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/07/medieval03.html
  21. 【江戸時代のお家騒動】最上騒動 3代にわたる改易への根深い藩内対立 - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2020/11/12/180000
  22. 最上家親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E5%AE%B6%E8%A6%AA
  23. 最上騒動とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E9%A8%92%E5%8B%95
  24. 最上義光歴史館 - samidare https://samidare.jp/yoshiaki/note.php?p=lavo&c=&off=888&kw=
  25. 最上家の武将たち:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=149233
  26. 志村光惟(しむらあきただ):最上義光プロジェクト - samidare http://samidare.jp/mogapro/note?p=log&lid=319905
  27. 一栗村とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%80%E6%A0%97%E6%9D%91
  28. 吾 妻 家 文 書 を 読 む 第 一 集 https://tohoku.repo.nii.ac.jp/record/2003342/files/%E5%90%BE%E5%A6%BB%E5%AE%B6%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80_%E6%9C%AC%E6%96%87.pdf
  29. 岩出山町史 - 大崎市 https://www.city.osaki.miyagi.jp/shisei/soshikikarasagasu/kyoikuiinkaijimukyoku/bunkazaika/1/iwadeyamatyousi/1915.html
  30. 奥羽永慶軍記 | 戸部一カン斎正直, 今村義孝 |本 | 通販 | Amazon https://www.amazon.co.jp/%E5%A5%A5%E7%BE%BD%E6%B0%B8%E6%85%B6%E8%BB%8D%E8%A8%98-%E6%88%B8%E9%83%A8%E4%B8%80%E3%82%AB%E3%83%B3%E6%96%8E%E6%AD%A3%E7%9B%B4/dp/4895443884
  31. 復刻 奥羽永慶軍記 http://www.mumyosha.co.jp/docs/05new/gunki.html