最終更新日 2025-06-08

一色義道

戦国期丹後の雄、一色義道の実像と丹後一色氏の終焉

1. はじめに

本報告書の目的と対象

本報告書は、戦国時代の丹後国守護、一色義道に焦点を当て、その生涯、事績、そして丹後一色氏の滅亡に至る過程を、関連史料の批判的検討と近年の研究動向を踏まえつつ、多角的に明らかにすることを目的とする。一色義道は、織田信長の勢力拡大期にあって、旧来の室町幕府体制との関わりの中で翻弄され、最終的にはその侵攻によって滅亡へと追いやられた丹後一色氏の当主として知られる。しかし、その実像については、軍記物語である『一色軍記』の記述に大きく依拠する部分が多く、史実との乖離も指摘されてきた。

特に、従来『一色軍記』等によって形成されてきた義道像に対し、一次史料や研究成果との比較を通じて、より実証的な人物像の再構築を試みる。義道個人のみならず、父とされる一色義幸、子の一色義定を含めた戦国末期の一色氏の動向を追うことで、中央の政権交代が地方の守護大名に与えた影響、そして戦国大名としての生き残りをかけた一色氏の苦闘と限界を浮き彫りにする。

一色義道をめぐる研究史概観と本報告書の位置づけ

一色義道およびその父・一色義幸、子・一色義定に関しては、軍記物『一色軍記』の記述が広く流布している一方で、これらの人物の実在性や具体的な事績について、一次史料との整合性の観点から疑問が呈されてきた経緯がある 1 。『一色軍記』は、江戸時代に成立したとみられ、その記述には物語的な脚色が多く含まれる可能性が指摘されており、史料としての取り扱いには慎重を要する 5

このような状況の中、近年、清水敏之氏らによる丹後一色氏に関する基礎的研究が進展し、一次史料の再検討や新たな史料の紹介を通じて、戦国期丹後一色氏の実態解明が進められている 8 。これらの研究は、従来の軍記物語に依存した一色氏像を見直し、より実証的な歴史像を構築しようとする試みである。本報告書は、これらの研究成果を積極的に援用し、一色義道に関する最新の知見を整理・提示することで、その人物像と丹後一色氏終焉の歴史的意義を再検討する。

主要史料と分析視角

本報告書では、主要な史料として、まず『一色軍記』を取り上げる。これは一色義道やその一族の動向を詳細に記述する唯一のまとまった物語であるが、前述の通り史料的価値については慎重な吟味が必要である。これに加え、細川家の記録である『細川家譜』や、江戸時代中期に編纂された細川家の公式史書『綿考輯録』 11 、さらには『信長公記』などの同時代史料、そして地方史誌である『宮津市史』 5 や『舞鶴市史』 13 の記述、古文書等の一次史料の断片的な情報を可能な限り参照する。

分析にあたっては、史料間の記述の異同を比較検討し、それぞれの史料が成立した背景や編纂者の立場、史料的性格を考慮する。特に、『一色軍記』の記述に関しては、他の史料との比較を通じて、どこまでが史実を反映し、どこからが脚色あるいは創作であるのかを慎重に見極める必要がある。これにより、一色義道という人物、そして彼が生きた時代の丹後国の実像に迫ることを目指す。

2. 一色義道の出自と戦国期丹後

2.1. 丹後守護一色氏の系譜と勢力基盤

一色氏は、清和源氏足利氏の支流であり、足利泰氏の子・公深が三河国吉良荘一色(現・愛知県西尾市一色町)を本貫としたことに始まるとされる 15 。室町幕府においては、侍所所司を務める四職の筆頭として重きをなし、若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した名門であった 3 。丹後国においては、足利尊氏に従った一色範光の子・満範が明徳の乱の功により守護職を得て以来、一色氏による支配が続いた 17

丹後国における一色氏の支配拠点は、加佐郡の八田(現・京都府舞鶴市)に置かれた守護所であり、有事の際には背後にそびえる建部山城(たけべやまじょう、八田城とも)を詰城として防衛の拠点とした 18 。この体制は、室町時代を通じて維持されたと考えられる。

しかし、戦国時代に入ると、守護の権威は次第に揺らぎ始める。応仁の乱以降、各地で守護大名の領国支配は動揺し、守護代や有力国人衆が実力を蓄え、時には主家を脅かす存在へと成長する、いわゆる下克上の風潮が強まった 20 。丹後国もその例外ではなく、一色氏の家臣であった守護代の延永氏が勢力を伸張し、主家である一色氏の支配を脅かす状況も見られた 1 。延永氏は、丹後水軍を率いて若狭国へ侵攻するなど、活発な軍事行動を展開しており 16 、その力は一色氏にとって無視できないものであった。このような国内状況は、一色氏の領国経営が盤石ではなく、内部に不安定要因を抱えていたことを示唆している。一色義道が家督を継承したとされる時期の丹後国は、名門守護家の権威が相対的に低下し、国内の求心力が弱まっていた可能性があり、これが後の織田・細川勢力による侵攻に対し、国衆を十分に結集できなかった一因となったとも考えられる。

2.2. 父・一色義幸をめぐる記録と「架空人物説」

一色義道の父については、『一色軍記』などの編纂物において一色義幸(左京大夫)とされ、永禄元年(1558年)に義幸が隠居し、子の義道が家督を継いだとの記述が見られる 1 。この義幸は、若狭武田氏の勢力を丹後から駆逐し、加佐郡の丹後守護所および建部山城に入ったとされ、守護代延永氏との関係も良好であったという 1

しかし、この一色義幸という人物については、近年の研究や資料批判の中で、その実在性に疑問が呈されている。具体的には、義幸の名は『一色軍記』といった後世の編纂物に主に見られるものであり、同時代の一次史料においてその存在を確証することが困難であると指摘されている 1 。Wikipediaの「一色義幸」の項目では、「義幸は架空の人物とされており、一色氏当主の座は一色義有 - 義清 - 左京大夫(義員か)と続いている」との記述がある 1 。同様に、「一色氏」の項目においても、義幸、義道、義定といった人物が『一色軍記』にしか登場しないため、架空の人物である可能性が示唆されている 3

この問題は、一色義道の出自や家督継承の正当性、さらには戦国末期の一色氏の系譜を正確に理解する上で極めて重要な論点となる。『一色軍記』が江戸時代に成立した軍記物語であり、物語としての面白さを追求する中で、登場人物や事績に脚色や創作が加えられた可能性は否定できない 5 。したがって、義道の父を義幸と断定するには慎重な検討が必要であり、本報告書においてもこの不確実性を踏まえて論を進める必要がある。この点は、戦国期の地方史研究において、軍記物語の記述と一次史料との比較検討がいかに重要であるかを示す好個の事例と言えるだろう。

2.3. 一色義道の基本情報

一色義道の生年については不詳であるが、没年は天正7年(1579年)とされている 22 。別名として義辰(よしたつ)、義通(よしみち、よしとう)といった名が伝えられている 22 。官位は式部大輔、左京大夫を称した 2

室町幕府における職位としては、丹後国守護を務めたことが確認される 2 。子には後に丹後一色氏の家督を継ぐことになる義定(よしさだ)がいた 22 。また、弟として昭辰(あきたつ)、義清(よしきよ)が存在したとの記録もある 22

表1:一色義道 関係人物一覧(仮説を含む)

人物名

続柄・関係

主要な事績・特記事項

関連 Snippet

一色義幸 (架空説有)

父(『一色軍記』による)

永禄元年に隠居し義道に家督を譲ったとされる。一次史料での確認は困難。

1

一色義有

父の可能性(清水氏研究など)

丹後守護。永正9年(1512年)没。

1

一色義清 (左京大夫)

父の可能性(義有の後継者、義員か)

丹後守護。石川氏に擁立された。

1

一色義定 (満信)

弓木城で抵抗後、細川藤孝の娘・伊也と婚姻。本能寺の変後、細川忠興に宮津城で謀殺される。

2

一色昭辰

(詳細不明)

22

一色義清 (越前守)

弟(『一色軍記』では義道の弟、奥丹後を指揮)

吉原山城により奥丹後三郡を指揮したとされる。

12

足利義昭

主君(室町幕府第15代将軍)

義道は義昭を擁護し、織田信長と対立。

2

織田信長

当初は主君、後に敵対

義道を当初信任するも、義昭との対立により丹後侵攻を命じる。

2

細川藤孝 (幽斎)

敵対武将(丹後侵攻軍大将)

信長の命で丹後を攻略。義道の居城・建部山城を落とす。後に娘・伊也を義定に嫁がせる。

3

細川忠興

敵対武将(藤孝の子)

父と共に丹後侵攻。本能寺の変後、義定を謀殺。

3

明智光秀

敵対武将(丹後侵攻に関与)

丹後侵攻に参加。義定と伊也の婚姻を仲介。本能寺の変を起こす。

12

中山幸兵衛 (沼田勘解由)

中山城主(『一色軍記』による義道の裏切者)

義道を中山城に迎え入れた後、裏切り自害させたとされる。史実性は要検討。

2

3. 一色義道の時代と丹後支配

3.1. 丹後国主としての統治

一色義道は、史料によれば永禄元年(1558年)に丹後国主となったとされる 12 。ただし、前述の通り、その父とされる一色義幸の実在性には議論があり、義道が家督を継承した具体的な経緯や時期については、なお検討の余地が残されている。

義道の丹後支配の実態について、『宮津市史』に引用される伝承によれば、義道の弟である一色義清(吉原越前守を名乗る)が奥丹後三郡(竹野郡・熊野郡・与謝郡の一部か)を指揮し、その善政によって領民の信頼を得ていたという 12 。この記述が事実であれば、一色家内において、当主である義道と弟の義清との間で、領国の分担統治が行われていた可能性が考えられる。あるいは、義道自身の直接支配が丹後全域に及んでおらず、特定の地域については一門の有力者に統治を委ねざるを得なかった状況を示唆しているのかもしれない。

戦国期の丹後国内には、守護代を務めた延永氏や、加悦地域を拠点とした石川氏といった有力な国人領主が存在した 16 。これらの国人衆は、それぞれが地域に強固な基盤を持ち、時には守護である一色氏の意向に必ずしも従わない自立的な動きを見せることもあった。特に延永氏は、守護代の立場から主家を凌ぐ勢力に成長したとされ 21 、一色氏の領国支配にとって潜在的な脅威となっていた可能性も否定できない。ある史料では、義道について「義理無道にして国人順わず」と、人望が薄く国人衆の支持を得られていなかった可能性が指摘されている 12 。こうした状況は、一色義道の丹後支配が一元的かつ強固なものではなく、一門による分治や有力国人の存在によって、構造的に脆弱性を抱えていたことを示している。この領国支配のあり方が、後の織田信長による丹後侵攻の際に、国内の抵抗勢力を十分に結集できなかった一因となった可能性も考えられる。

3.2. 室町幕府(足利義昭)及び織田信長との関係

一色義道が生きた時代は、室町幕府の権威が失墜し、織田信長が急速に台頭して天下統一へと向かう激動の時代であった。このような中央政局の変動は、丹後国の守護であった一色義道の立場にも大きな影響を与えた。

史料によれば、義道は当初、織田信長の信任を得ていた時期もあったとされる 23 。これは、信長が足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府の再興を掲げていた時期のことであろう。当時、多くの守護大名が信長の実力を認め、その傘下に入ることで自領の安堵を図ろうとしていた。義道もまた、信長との関係を構築することで、丹後支配の安定化を目指したと考えられる。

しかし、やがて織田信長と将軍・足利義昭との関係が悪化し、両者が対立するようになると、義道は義昭を擁護する立場を取った 3 。これは、一色氏が代々足利将軍家に仕えてきた名門守護としての意識の表れであったのかもしれないし、あるいは信長の急速な勢力拡大に対する警戒感があったのかもしれない。いずれにせよ、この選択は義道にとって、そして丹後一色氏にとって、運命を左右する重大な岐路となった。

義道の主君は、足利義輝、足利義栄、足利義昭、そして一時的に織田信長へと変遷したと記録されている 2 。これは、中央政局の目まぐるしい変化に翻弄されながら、自らの立場を維持しようとした地方守護の苦悩を如実に示している。結果として、足利義昭を支持したことは、織田信長との決定的な対立を招き、丹後侵攻という破局へと繋がることになる。同時期に、かつて義昭に仕えていた細川藤孝が、義昭を見限って信長に仕える道を選び、後の丹後支配の足がかりを築いたこととは対照的である 26 。一色義道の政治的決断は、伝統的な価値観に殉じたとも言えるが、戦国乱世の現実の前には、それが一族の滅亡を早める結果となった可能性は否定できない。

4. 織田信長による丹後侵攻と一色氏の抵抗

4.1. 丹後侵攻の背景と経緯

一色義道が足利義昭を支持し、織田信長と対立する姿勢を明確にしたことは、信長による丹後侵攻の直接的な引き金となった。天正3年(1575年)頃から本格化した信長の丹波攻略が進展する中で、丹後もまたその次の標的として見据えられていた。

史料によれば、天正5年(1577年)10月、織田信長は丹波平定に功のあった明智光秀と、長年足利義昭に仕えながらも信長方に転じた細川藤孝(幽斎)に対し、丹波平定後には丹後国を攻め、丹波を光秀に、丹後を藤孝に与えるという約束をしたとされる 12 。これは、信長政権下における論功行賞の一環であり、丹後一色氏の排除が既定路線であったことを示している。

この信長の命を受け、天正6年(1578年)4月、細川藤孝・忠興父子は明智光秀の支援を受けつつ、丹後への侵攻を開始した 12 。この丹後侵攻において、一色氏側は不利な状況に立たされていた。前述の通り、義道の人望が薄く、丹後国内の国人衆の支持を十分に得られなかった可能性が指摘されている 12 。これに対し、細川・明智連合軍の背後には、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長の強大な軍事力と政治的権威が存在した。丹後国内の国人衆の中には、旧守護である一色氏よりも、中央の新興勢力である織田信長とその麾下の武将に将来を託そうと考える者もいたであろう。

4.2. 建部山城(八田城)の攻防と落城

丹後守護一色氏の伝統的な本拠地は、加佐郡八田の守護館であり、その背後に位置する建部山城(八田城とも称される)が、戦時の際の詰城として機能していた 18 。細川・明智連合軍による丹後侵攻が始まると、一色軍は各地で敗退を重ね、一色義道は最終的にこの建部山城に籠城して抵抗を試みたとされる。

しかし、織田軍の攻勢は激しく、天正7年(1579年)1月(一部史料では異なる年紀も見られるが、ここでは『講談社 日本人名大辞典+Plus』 23 の記述に従う)、建部山城はついに落城した 19 。『信長公記』の記述として、天正3年(1575年)10月に明智光秀が一色義道の建部山城を落城させ、丹波・丹後の両国をほぼ平定したというものもあるが 29 、これは丹波平定の文脈で語られており、丹後守護の本拠地としての建部山城の最終的な陥落時期とは分けて考える必要があるかもしれない。いずれにせよ、丹後支配の中枢であった建部山城の失陥は、一色義道にとって致命的な打撃となった。

4.3. 一色義道の最期 – 諸史料に見る記述の比較検討

建部山城落城後の一色義道の最期については、諸史料の記述に異同が見られ、その詳細は必ずしも明らかではない。

最も広く知られているのは、『一色軍記』やそれに類する記録に見られる説である。それによれば、建部山城を脱出した義道は、中山城(現・舞鶴市中山)の城主であった中山幸兵衛(沼田勘解由とも呼ばれる)を頼った。しかし、中山幸兵衛は織田方に内応し、義道を裏切ったため、義道は進退窮まり自害したと伝えられている 2 。この時、義道に従っていた主従三十八騎も共に討死したともいう 12

一方で、細川家の記録である『細川家譜』には、義道は丹後平定戦の最中に病死したと記されている 2 。また、同じく細川家の公式史書である『綿考輯録』では、中山城主を一色方の武将・貫幸兵衛とし、「山中」(中山)で激戦があり、その結果として一色義道は戦死したと記述されているが、中山幸兵衛(沼田勘解由)による裏切りについては触れられていない 30

これらの記述を比較検討すると、『一色軍記』に見られる家臣の裏切りによる悲劇的な自害という筋書きは、物語性を高めるための脚色である可能性が指摘されている 5 。特に、沼田幸兵衛の裏切りというエピソードは、他の信頼性の高い史料では確認が難しく、軍記物特有の創作の要素が強いと考えられる。天正7年1月のこの戦い自体が、他の資料では確認できないという指摘もある 5

一色義道の具体的な最期がどのようなものであったかを確定することは困難である。しかし、複数の史料が異なる情報を伝えているという事実は、歴史上の出来事が後世にどのように語り継がれ、解釈されていくかという「歴史叙述」の問題を浮き彫りにする。義道の悲劇的な最期は、滅びゆく名門守護の象徴として、特に『一色軍記』のような物語の中で強調され、記憶されてきた可能性が高い。

表2:一色義道の最期に関する諸説比較

史料名

義道の最期に関する記述

備考(史料的性格など)

関連 Snippet

『一色軍記』

建部山城陥落後、中山城にて城主中山幸兵衛(沼田勘解由)の裏切りにより自害。

江戸時代成立の軍記物語、脚色が多いとされる。

2

『細川家譜』

丹後平定戦の最中に病死。

細川家の記録。

2

『綿考輯録』

中山城主は一色方の貫幸兵衛。「山中」(中山)での激戦の末、一色義道は戦死。裏切りには言及なし。

細川家の公式史書(江戸中期編纂)。

11

講談社日本人名大辞典+Plus

天正7年1月、居城の八田城をおとされ自害した。

辞典の記述。

23

Wikipedia (一色義道)

但馬への亡命途中、中山城で沼田幸兵衛に裏切られ自害。子の満信に家督を譲ったとされる。

複数の説を併記。

2

この表は、一色義道の最期という重要な出来事に関して、主要な史料がそれぞれどのように記述しているかを一覧で示すものである。これにより、読者は諸説を容易に比較検討でき、各史料の性格や成立背景を考慮することで、どの情報がより信頼性が高いか、あるいはどのような解釈の可能性があるかを判断する一助となる。義道の最期が単純な事実としてではなく、多様な語り口が存在する歴史的論点であることを明確に示し、報告書全体の学術的な信頼性を高めることを意図している。

5. 嫡男・一色義定と丹後一色氏の終焉

5.1. 弓木城での抵抗と細川氏との一時的和睦

父・一色義道の死後、あるいは建部山城の落城後、その子である一色義定(よしさだ、満信(みつのぶ)とも呼ばれる 2 )が丹後一色氏の命運を担うこととなった。義定は、父祖伝来の拠点である建部山城を失った後、丹後国内の与謝郡に位置する弓木城(ゆみのきじょう)に籠城し、織田・細川連合軍に対する抵抗を続けた 27 。弓木城は、もともと一色家の家臣であった稲富氏によって築かれた城であり 27 、丹後における一色氏の残存勢力の拠点となった。

織田・細川軍は、この弓木城の攻略に手間取ったとされ、力攻めだけでは決着がつかない状況となった。そこで、外交交渉による解決が図られることになった。天正9年(1581年)5月、明智光秀の仲介により、一色義定と細川藤孝との間で和睦が成立した 19 。この和睦の条件として、義定は細川藤孝の娘である伊也(いや、または弥)姫を正室として迎え入れ、以後は弓木城を居城とすることが認められた 19

この和睦の結果、丹後国は事実上一色氏と長岡(細川)氏によって二分される形となった 19 。義定は織田信長から2万石の所領を与えられたとも伝えられている 15 。この政略結婚は、戦国時代においてしばしば見られた、敵対勢力間の緊張緩和や一時的な勢力均衡を図るための手段であった。一色氏にとっては、これにより一時の命脈を保ち、丹後における一定の支配権を維持することができた。しかし、この婚姻関係が、後に起こる本能寺の変という未曾有の政変の中で、一色氏の立場を守るには至らなかった。細川氏側から見れば、この和睦と婚姻は、丹後国全域の完全支配に向けた戦略の一環であり、一色氏を懐柔し、あるいは油断させるための時間稼ぎであった可能性も否定できない。

5.2. 本能寺の変と一色義定の最期

天正10年(1582年)6月2日、京都の本能寺において明智光秀が織田信長を討つという、日本史上屈指の大事件「本能寺の変」が勃発した。この政変は、全国の諸大名の勢力図を大きく塗り替える契機となり、丹後の一色義定の運命にも決定的な影響を与えた。

本能寺の変に際し、一色義定(一色氏)は、舅である細川藤孝とは袂を分かち、明智光秀側に与したとされている 15 。これは、義定の妻が細川藤孝の娘であったことを考えると、複雑な判断であったと言える。しかし、明智光秀は義定と細川家の和睦を仲介した人物でもあり 31 、また、織田信長の強圧的な支配に対する反発が一色氏内部にあったとしても不思議ではない。

一方、細川藤孝・忠興父子は、明智光秀の誘いを拒絶し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に与する道を選んだ 15 。これにより、かつて婚姻関係を結んだ一色氏と細川氏は、再び敵対関係へと転じることになった。

本能寺の変後の混乱の中、細川忠興は、義定が明智方に加担し、細川領に攻め込んでくることを予見(あるいは口実として)、先手を打って義定を排除する行動に出た。天正10年(1582年)、忠興は義定を宮津城(細川氏の居城)に招き寄せ、そこで謀殺したと伝えられている 3 。ほぼ時を同じくして、義定の居城であった弓木城にも細川軍が派遣され、これを攻め落とした 28

この一色義定の謀殺によって、丹後国の守護大名として長らく君臨してきた一色氏は、その歴史に終止符を打つことになった 3 。戦国時代の婚姻同盟の脆弱性と、一度敵対すれば容赦のない、強者の論理が支配する非情な現実を示す結末であった。

5.3. 丹後一色氏滅亡の意義

丹後一色氏の滅亡は、単に一地方守護大名の終焉に留まらず、より大きな歴史的文脈の中で捉えることができる。まず、織田信長が進めた中央集権化政策と、それに続く豊臣秀吉による天下統一事業の中で、旧来の室町幕府体制下で勢力を保持してきた守護大名が、新興勢力によって次々と淘汰されていく過程を象徴する出来事の一つと言える。一色氏は、足利氏一門という名門の出自を持ちながらも、戦国乱世の激しい権力闘争の中で生き残ることができなかった。

また、一色氏の滅亡により、丹後国は完全に細川氏の支配下に入ることになった。細川藤孝は、丹後国を基盤として近世大名としての地位を確立し、その後の細川家繁栄の礎を築いた。丹後国は、守護領国から近世的な大名領国へと再編されていく画期を迎えたのである。この過程は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本社会の大きな変革の一端を示すものと言えるだろう。

6. 史料に見る一色義道像の再検討

6.1. 『一色軍記』の史料的価値と限界

一色義道やその子・義定の事績を伝える上で、最も詳細かつ物語性に富む文献は『一色軍記』である。この軍記物は、丹後一色氏の終末期における動向、特に織田・細川勢力との戦いや、義道の最期、義定の悲劇などをドラマチックに描いている。しかし、その史料的価値については、慎重な評価が求められる。

『一色軍記』は、江戸時代に成立したとみられる軍記物語であり、歴史的事実を忠実に記録することよりも、物語としての面白さや教訓性を重視して編纂された可能性が高い 5 。そのため、記述内容には史実とは異なる脚色や創作が相当数含まれていると考えられている。例えば、一色義道の最期における中山幸兵衛の裏切りや、一色義定の妻・伊也姫(細川藤孝の娘)の悲劇的な逸話などは、物語を盛り上げるための創作である可能性が研究者によって指摘されている 6

実際に、『宮津市史』などの地方史研究においては、『一色軍記』は「脚色の濃い軍記物」と評価され、歴史的事実を必ずしも正確に伝える史料ではないとの見解が示されている 5 。丹後郷土資料館の調査だよりにおいても、義道が天正7年1月に八田城を引き払い中山城で自害したという『一色軍記』の記述について、この戦い自体が他の資料では確認できないと指摘されている 5

しかしながら、『一色軍記』を完全に無価値なものとして退けるべきではない。この軍記物が江戸時代のある段階において編纂されたという事実は、当時の人々が一色氏の歴史、特にその滅亡の経緯に対して一定の関心を持ち、それを物語として語り継ごうとした動機があったことを示唆している 5 。また、史実とは異なる部分があったとしても、当時の丹後地域において一色氏に関してどのようなイメージや伝承が存在したのかを反映している可能性も考慮に入れる必要があるだろう。

6.2. 一色義道・義幸・義定の実在性に関する議論

『一色軍記』の史料的限界と関連して、一色義道、その父とされる義幸、そして子である義定といった主要人物の実在性についても、学術的な議論が存在する。これらの人物の具体的な活動や存在を、同時代の信頼性の高い一次史料によって十分に裏付けることが難しい場合があるためである 1

Wikipediaの「一色氏」の項目では、「以下の人物は軍記物語の『一色軍記』にしか登場せず、一次史料では確認できないため架空の人物である可能性がある」として、一色義幸、一色義道、一色義定、そして義道の弟とされる一色義清(越前守)の名が挙げられている 3 。これは、これらの人物像が『一色軍記』という特定の物語に大きく依存していることへの警鐘と言える。

ただし、これらの人物が完全に架空であると断定することもまた早計である。例えば、一色義定については、愛知県知多市に現存する臨済宗の法音山慈光寺や龍雲山大興寺に残されている一色氏の系図の中に、一色義遠の末裔で一色左京大夫義員(よしかず)の子として「義定」の名前が見えるとの情報がある 4 。この「義員」という人物が、『一色軍記』における義道と同一人物であるのか、あるいは混同されているのか、または全く別の系譜を指すのかについてはさらなる検討が必要であるが、少なくとも「義定」という名の人物が何らかの形で一色氏の系譜に連なっていた可能性を示唆している。

一色義道らの実在性に関する議論は、単純な「実在/架空」の二元論で割り切れるものではなく、史料の性質や伝承の過程を丹念に検証し、多角的な視点からアプローチする必要がある。『一色軍記』は、史実をそのまま記録したものではないとしても、何らかの歴史的な核となる出来事や、一色氏に関する地域社会における「記憶」や「伝承」を反映している可能性は否定できない。近年の研究は、これらの人物を単に架空と断じるのではなく、断片的ながらも現存する史料を手がかりとして、その実像に迫ろうとする試みであり、今後の研究の進展が大いに期待される。

6.3. 近年の研究動向 – 清水敏之氏の研究を中心に

戦国期の丹後一色氏に関する研究は、近年、清水敏之氏らによって新たな進展を見せている。清水氏は、論文「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」(『戦国史研究』第82号、2021年8月発行) 4 などを通じて、従来不明確な点が多かった戦国期丹後一色氏の当主の系譜や具体的な活動について、一次史料に基づいて実証的な解明を進めている。

清水氏の研究によれば、戦国初期の丹後守護として一色義有(いっしきよしあり、長享元年(1487年)生 - 永正9年(1512年)7月9日没、享年26) 8 の存在が確認される。義有の死後、その跡を継いだと考えられるのが一色義清(いっしきよしきよ、左京大夫)であり、この義清の実名は「義員(よしかず)」ではないかと推定されている 1 。そして、この義清(義員か)の子として、一色義定(いっしきよしさだ)が位置づけられる 4

これらの研究成果は、『一色軍記』の記述に大きく依拠してきた従来の丹後一色氏像に対し、一次史料に基づく新たな視点を提供するものである。特に、従来「一色義道」として知られてきた人物が、実際には清水氏の指摘する「一色義清(左京大夫、実名義員か)」に相当する可能性、あるいは『一色軍記』が複数の人物の事績を「一色義道」という一人の人物に集約して描いた可能性なども視野に入れた再検討が必要となる。

清水氏らの研究は、軍記物語の記述と一次史料との間の溝を埋め、より実証的な戦国期丹後一色氏の歴史像を構築しようとする重要な試みである。これにより、一色義道という人物(あるいはそのモデルとなった可能性のある人物)を歴史の中に正確に位置づけ、その時代背景や行動原理を理解する上で、極めて重要な示唆を与えている。今後の研究の進展によっては、私たちがこれまで抱いてきた「一色義道」像が大きく修正される可能性も秘めており、歴史研究のダイナミズムを示す好例と言えるだろう。

7. おわりに

一色義道の生涯と丹後一色氏滅亡の歴史的意義の総括

本報告書では、戦国時代の丹後国守護、一色義道(および関連する可能性のある一色氏当主)に焦点を当て、その出自、統治、織田信長との対立、そして丹後一色氏の滅亡に至る過程を、関連史料の批判的検討と近年の研究動向を踏まえながら考察してきた。

一色義道(あるいは『一色軍記』においてその名で語られる人物)は、織田信長の急速な台頭という、戦国時代における最大の転換期を生きた武将であった。彼は、室町幕府の権威が失墜し、旧来の守護大名体制が解体されていく中で、伝統的な価値観と新たな時代の潮流との狭間で苦悩し、最終的には新興勢力によって淘汰される運命を辿った。足利将軍家への忠義を貫こうとした(あるいは、軍記物語においてそのように描かれた)その姿勢は、結果として時代の大きな流れに抗しきれず、一族滅亡という悲劇的な結末を迎えることになった。

丹後一色氏の滅亡は、単に一地方勢力の終焉を意味するだけでなく、丹後国が織田・豊臣政権という中央の強力な権力構造の中に組み込まれ、近世的な領国支配体制へと移行していく画期的な出来事であったと言える。それはまた、足利氏一門という名門の出自だけでは生き残ることが困難であった戦国乱世の厳しさと、旧勢力が新勢力に取って代わられる歴史のダイナミズムを象徴している。

『一色軍記』によって形成された義道像は、悲劇の武将としての側面が強調されがちであるが、近年の実証的研究は、より複雑で多面的な歴史像を提示しつつある。義道個人の資質や判断のみならず、当時の丹後国内の政治状況、中央政局との関わり、そして敵対勢力との力関係など、様々な要因が絡み合って一色氏の運命を決定づけたことが明らかになってきた。

今後の研究課題と展望

一色義道および戦国期丹後一色氏に関する研究は、なお多くの課題を残している。

第一に、一次史料のさらなる発掘と精密な分析を通じて、一色義道(および義幸、義定、義員といった関連人物)の実像をより明確にすることが求められる。特に、軍記物語の記述に頼らざるを得ない部分について、同時代史料による裏付けや再解釈を進める必要がある。

第二に、『一色軍記』という史料そのものに対する研究の深化も期待される。その成立背景、編纂意図、依拠した可能性のある伝承や史料、そしてそれが後世の地域社会における歴史認識にどのような影響を与えたのかを多角的に分析することは、一色氏研究のみならず、戦国期の軍記物語研究全体にとっても意義深い。

第三に、丹後地域における国人衆の具体的な動向や、一色氏による領国経営の実態(経済基盤、家臣団構成、寺社政策など)についても、より詳細な解明が必要である。これにより、一色氏が置かれていた政治的・社会的環境をより深く理解することができるだろう。

これらの研究課題に取り組むことを通じて、一色義道という人物、そして彼が生きた戦国時代という時代の特質について、より豊かで nuanced(ニュアンスに富んだ)な歴史像が構築されていくことが期待される。

引用文献

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