戦国時代とは、足利将軍家の権威が失墜し、日本各地で地方の「国人領主」たちが自らの存亡をかけて激しく争った時代である。彼らの多くは、後世に名を残す大名たちの陰で、歴史の表舞台に名を留めることなく消えていった。本報告書で取り上げる美作国(現在の岡山県北部)の国人領主、三浦貞勝(みうら さだかつ)もまた、そうした人物の一人である。天文12年(1543年)に生を受け、永禄7年(1564年)にわずか22歳でその生涯を閉じた彼の人生は、当時の中国地方における勢力図の激変を凝縮した、まさに時代の象徴であったと言えよう 1 。
ユーザーによって提示された「美作の豪族。高田城主。貞久の嫡男。旧臣を糾合し、父の死により尼子家に奪われた高田城を奪還した。しかし、のちに三村家親の攻撃を受け敗北、自害した」という概要は、彼の生涯の骨子を的確に捉えている 2 。しかし、この簡潔な記述の裏には、なぜ本拠たる城を奪われ、いかにしてそれを取り戻し、そしてなぜ再び滅びなければならなかったのかという、より深く複雑な歴史的背景が存在する。それは、一人の若き武将の悲劇に留まらず、彼を取り巻く一族の宿命、周辺大国の思惑、そして地域の経済的・戦略的重要性といった、様々な要因が絡み合った物語である。
本報告書は、現存する『作陽誌』などの編纂史料や古文書、墓碑銘、そして近年の研究成果を総合的に分析し、三浦貞勝という人物の生涯を立体的に再構築することを目的とする。彼の生きた軌跡を詳細に追うことで、戦国時代という激動の時代を生きた一人の国人領主の実像に迫り、その歴史的意義を明らかにしたい。
三浦貞勝の生涯を理解するためには、まず彼が背負っていた「三浦」という名の重みと、彼が命を懸けて守ろうとした本拠地「高田城」の価値について知る必要がある。
美作三浦氏は、その出自を遠く関東に遡る。彼らは鎌倉幕府の創設に多大な功績を挙げた有力御家人、相模国の三浦義明の後裔と伝えられる 4 。具体的には、三浦義澄の弟である佐原義連の血筋であり、その子孫にあたる三浦貞宗が14世紀初頭の嘉慶年間(1387年~1389年)頃までに美作国へ入部し、高田城を築いたのが始まりとされる 5 。
この「鎌倉以来の名門」という出自は、戦国時代を生きる三浦一族にとって、単なる過去の栄光ではなかった。それは、周辺の国人領主に対する権威の源泉であり、度重なる滅亡の危機に瀕してもなお、再興を期して立ち上がる強靭な精神性の支柱となっていたと考えられる。事実、三浦氏は戦国期を通じて、滅亡と復興を幾度となく繰り返すのである 6 。
なお、注意すべき点として、江戸時代に美作勝山藩の藩主となった三浦家が存在するが、彼らは同じく三浦一族の血を引くものの、戦国期に高田城主であった貞勝らとは直接の血縁関係がない「同祖異系」の別家系である 9 。本報告書で扱うのは、あくまで戦国時代に高田城を拠点とした三浦氏である。
三浦氏の本拠地であった高田城(別名:勝山城)は、現在の岡山県真庭市勝山に位置し、旭川(当時は高田川と呼ばれた)が大きく蛇行する地点の如意山に築かれた、天然の要害であった 8 。川を自然の堀とし、山を利用した連郭式の山城は、堅固な防御施設であった 14 。
しかし、高田城の真の価値は、その軍事的な堅牢さ以上に、地理的な位置がもたらす戦略的・経済的重要性にあった。美作国を含む中国山地一帯は、古代より「たたら製鉄」が盛んな地であり、日本刀や農具、そして戦国時代には鉄砲の生産に不可欠な良質の鉄(玉鋼)を産出する、日本有数の製鉄地帯であった 16 。高田城は、まさにこの鉄資源の生産地と、それを畿内や瀬戸内海沿岸地域へ輸送するための旭川の水運、さらには山陰の出雲と山陽を結ぶ大動脈である出雲街道を押さえることができる、結節点に位置していたのである 8 。
近年の研究では、美作国のような強大な守護大名が存在しなかった地域において、三浦氏のような中小領主は、流通や経済の結節点を掌握することによって自立性を維持していたと指摘されている 22 。三浦氏が独立を保ち、大勢力に対して抵抗を続けられた力の源泉は、この「鉄」からもたらされる経済的利益にあった可能性が極めて高い。
同時に、この経済的価値こそが、三浦氏の悲劇の根源ともなった。出雲の尼子氏、安芸の毛利氏といった中国地方の覇権を狙う大勢力にとって、最重要戦略物資である鉄の生産と流通を支配することは、自らの軍事力と経済力を増強する上で死活問題であった。彼らが執拗に美作、とりわけ高田城の支配に固執した最大の理由は、この「鉄の利権」を掌握することにあったと考えられる。したがって、三浦貞勝が繰り広げた戦いは、単なる領土紛争という側面だけでなく、国家の存亡をかけた資源獲得競争、すなわち経済戦争の側面を色濃く帯びていたのである。この視座を持つことで、彼の短い生涯が持つ意味の重層性がより深く理解できる。
三浦貞勝が歴史の表舞台に登場する以前、美作三浦氏はすでに中国地方の覇権争いの渦中にあった。その中心にいたのが、出雲国から急速に勢力を拡大していた戦国大名・尼子氏である。
貞勝の父である三浦貞久は、天文7年(1532年)に家督を相続して以来、小勢力ながらも高田城に拠り、尼子晴久が率いる大軍の侵攻を幾度も撃退した、気骨ある武将として知られている 23 。その抵抗は、三浦氏の武威と高田城の堅固さを示すものであった。
しかし、その一方で、三浦氏は尼子氏と完全に敵対する一枚岩の関係にあったわけではない。当時の一次史料によれば、貞久の実弟である大河原貞尚は、尼子氏の重鎮・尼子国久の娘を妻として迎えており、婚姻関係を通じて尼子氏との間に従属的な関係を結んでいたことがわかる 23 。これは、美作国の多くの国人領主がそうであったように、三浦氏もまた、尼子氏の強大な軍事力を前にして、抵抗と従属を使い分けることで生き残りを図る、という極めて現実的な外交戦略をとっていたことを示唆している。事実、天文から永禄年間にかけての美作は、ほぼ尼子氏の勢力圏内にあったと見なされている 7 。
こうした緊迫した情勢の中、天文17年(1548年)9月16日、当主の三浦貞久が病によりこの世を去る 23 。この突然の権力の空白は、美作における尼子氏の支配を決定的なものにする好機となった。
父の死により家督を継いだ貞勝は、この時まだ幼少であった。その年齢については史料によって記述に揺れがあり、『作陽誌』などの記述を基にすると11歳 5 、生年(天文12年)から逆算するとわずか5歳であった 25 。いずれにせよ、自ら采配を振るうにはあまりに若すぎた。叔父である三浦貞尚、三浦貞盛らが後見人として幼い当主を支えたものの 5 、指導者を失った三浦家の動揺は隠せなかった。
尼子晴久はこの機を逃さなかった。彼は重臣の宇山久信を大将とする軍勢をただちに高田城へ派遣する 5 。宇山軍の猛攻の前に、三浦方の浦山城や沢の城といった支城は次々と陥落し、ついに本拠である高田城も包囲される。籠城戦の末、衆寡敵せず、高田城はついに落城。これにより、美作三浦氏は本拠地を失い、一時的に歴史の表舞台から姿を消すこととなった 5 。
『美作三浦氏の興亡』によれば、落城の際、幼い貞勝は叔父の貞尚に助けられ、備前国久米郡の岩屋城主であった中村五郎左衛門のもとへ落ち延び、雌伏の時を過ごすことになったと伝えられている 5 。名門三浦氏の嫡男として生まれながら、物心つくかつかないかのうちに故郷を追われるという、過酷な運命の幕開けであった。
故郷を追われた貞勝であったが、彼と彼を支える家臣団は再興の夢を捨ててはいなかった。雌伏の時は約11年に及んだが、その間に中国地方の勢力図は劇的に変化し、ついに三浦氏に好機が訪れる。
貞勝が高田城を失った頃、中国地方の覇権を握っていたのは尼子氏であった。しかし、永禄年間(1558年~1570年)に入ると、その勢力には大きな陰りが見え始めていた。安芸国から台頭した毛利元就が、厳島の戦いで陶晴賢を破って防長二国を平定すると、その矛先を尼子氏へと向けたのである。毛利軍は石見銀山を奪取し、尼子氏の本拠地である出雲・月山富田城に迫るなど、尼子氏は次第に防戦一方の状況に追い込まれていった 4 。
この情勢の変化は、三浦貞勝にとって千載一遇の好機であった。主敵である毛利氏との決戦に備えるため、尼子氏は美作国に割く兵力を減らさざるを得なくなった。高田城の守りも手薄になったに違いない。貞勝と彼を支える旧臣たちは、この機を的確に捉え、長年の悲願であった高田城の奪還を決行する。
永禄2年(1559年)、三浦貞勝はついに動いた。この奪還劇の主導的役割を担ったのは、牧兵庫助尚春や金田加賀守といった、三浦氏譜代の忠臣たちであった 4 。彼らは、各地に離散していた旧臣たちを糾合し、正統な当主である貞勝を旗頭として蜂起した。
その作戦は功を奏し、彼らは見事に尼子方の守備隊を打ち破り、高田城を奪い返すことに成功した 4 。この出来事は、三浦氏の主従関係が単なる支配・被支配の関係ではなく、苦難の時も主家を見捨てない強固な絆で結ばれていたことを雄弁に物語っている。また、在地領主や領民からの根強い支持がなければ、これほど見事な再起は不可能であっただろう。約11年ぶりに故郷の土を踏んだ貞勝は、名実ともに高田城主として返り咲き、三浦氏復興の第一歩を印したのである。
高田城主としての地位を確立した貞勝は、この栄光の時期に一人の女性を妻として迎える。それが、後に宇喜多直家の妻となり、豊臣政権の五大老・宇喜多秀家の母として歴史に名を残すことになる、お福の方(円融院)である 5 。
彼女の出自については諸説あるが、三浦氏の一族である三浦能登守の娘ともいわれる 31 。伝承によれば、彼女は世に聞こえた絶世の美女であり、貞勝は一目見るなり恋に落ち、妻に迎えたとされている 29 。永禄2年(1559年)頃に二人は結ばれ 30 、やがて嫡男となる桃寿丸が誕生した 1 。
城を奪還し、領国を再興し、美しき妻と世継ぎにも恵まれる。これは、貞勝の短い生涯において、最も輝かしく、幸福な時期であったに違いない。しかし、この束の間の栄光の裏では、中国地方の覇権を巡る新たな嵐が、刻一刻と美作の地に迫っていたのである。
高田城を奪還し、三浦氏を再興させた貞勝であったが、彼を取り巻く外部環境は決して安泰ではなかった。尼子氏の衰退は、新たな、そしてより強大な脅威の到来を意味していた。
永禄年間、中国地方の政治・軍事地図を塗り替えていたのは、安芸の毛利元就であった。尼子氏との長年の抗争に勝利し、その勢力を山陰・山陽に広げた元就にとって、中国地方の完全支配は目前の課題であった。その戦略上、美作国は極めて重要な位置を占めていた。
第一に、前述の通り、美作は鉄という最重要戦略物資の産地であった。第二に、美作は備前・播磨へと通じる東方への進出路であり、同時に山陰の尼子残党勢力と連携しうる地理的条件も備えていた。毛利氏にとって、この地を支配下に置くことは、自らの覇権を盤石にするために不可欠であった。
こうした中、高田城を拠点とする三浦氏は、依然として旧主である尼子氏寄りの姿勢を崩さない、毛利方から見れば敵対的な勢力であった 7 。元就が三浦氏を排除すべき障害と見なすのは、当然の帰結であった。
しかし、毛利元就は自らの本隊を直接美作に投入することはしなかった。当時、毛利氏は出雲における尼子氏との最終決戦や、豊後の大友宗麟との北九州を巡る対立など、複数の戦線を同時に抱えており、全力を美作に傾ける余裕はなかったのである 27 。
そこで元就が用いたのが、極めて巧妙かつ冷徹な戦略であった。彼は、自らの傘下に入った備中松山城主・三村家親を、美作侵攻の尖兵として利用したのである 1 。三村家親は、備中一円に勢力を張る有力な国人領主であり、自らの領地を美作方面へ拡大したいという野心を持っていた。元就は、家親に三浦氏の所領を恩賞として与えることを約束し、その野心を巧みに利用した。
この戦略は、毛利氏にとって一石二鳥の効果をもたらした。第一に、自軍の兵力を温存したまま、敵対勢力である三浦氏を排除できる。第二に、三村家親に手柄を立てさせることで、その忠誠心を確固たるものにできる。いわば、軍事行動の「アウトソーシング(外部委託)」であり、元就の卓越した戦略眼を示すものであった。
こうして、三浦貞勝と三村家親の戦いの幕が切って落とされた。しかし、その本質は、美作と備中の国人領主同士の私闘などではなかった。それは実質的に、中国地方の覇権を巡る「毛利対旧尼子方」の代理戦争であり、貞勝は、毛利元就という巨大な存在が描いた冷徹で計算高い地政学的戦略の前に、抗う術もなく追い詰められていくことになる。彼の運命は、大勢力の狭間で翻弄される「中間管理職」ともいえる、戦国国人領主の悲哀を象徴していた。
毛利氏という巨大な後ろ盾を得た三村家親の軍勢は、ついに高田城へと牙を剥いた。若き城主・三浦貞勝にとって、それは自らの命運を懸けた最後の戦いであった。
永禄7年(1564年)、三村家親は満を持して大軍を高田城へと進めた。迎え撃つ三浦貞勝は、譜代の家臣たちと共に城に籠もり、徹底抗戦の構えを見せた。攻防は熾烈を極め、約1ヶ月にわたって続いたと伝えられている 4 。
貞勝と三浦軍は、高田城の堅固な守りと士気の高さで善戦したと考えられる。しかし、三村軍は毛利氏の支援を受けた大軍であり、兵力差は歴然としていた。長期にわたる籠城戦の中で、城内の兵糧は尽き、兵士たちは疲弊し、士気も次第に衰えていったことであろう。外部からの援軍も期待できない孤立無援の状況で、貞勝は絶望的な戦いを強いられていた。
永禄7年12月、ついに抵抗の限界が訪れる。三村軍の猛攻の前に、高田城は陥落した。もはやこれまでと覚悟を決めた城主・三浦貞勝は、武士としての名誉を守るため、城中にて自刃して果てた 1 。
その最期の具体的な日付については、史料によって若干の差異が見られる。貞勝のものとされる墓碑銘や一部の記録では「永禄7年12月15日」(西暦1565年1月17日)とされており、これが最も有力な説となっている 1 。一方で、『作陽誌』に収録された「高田城主次第」などでは「永禄8年12月」とする記述もあり、研究者の間でも議論が残る 1 。
いずれにせよ、彼の生涯はあまりにも短かった。享年22 1 。その若さで、一国の命運を背負い、大国の思惑に翻弄され、壮絶な最期を遂げたのである。彼の法名は「称名院殿真月宗金」(または宗全)と伝えられている 1 。
城が炎に包まれ、主君が自刃する混乱の最中、一つの命が未来へと繋がれていた。貞勝の妻・お福の方と、まだ幼い嫡男・桃寿丸である。
彼らは、三浦氏の重臣であった牧一族の手によって、城から無事に脱出することに成功した 5 。『美作三浦氏の興亡』によれば、彼らは備前国津高郡の下土井村に落ち延び、身を隠したとされる 5 。この忠臣たちの決死の働きがなければ、三浦氏の血脈はここで完全に途絶え、後の宇喜多秀家の誕生という歴史の転換点も訪れることはなかった。主家が滅びるその瞬間まで忠義を尽くした家臣の存在は、三浦氏の主従の絆の強さを物語る、感動的な逸話として記憶されるべきであろう。
三浦貞勝の死と高田城の落城は、美作三浦氏にとって壊滅的な打撃であった。しかし、物語はここで終わりではない。皮肉なことに、貞勝の死は、彼に関わった人々の運命を大きく動かし、新たな歴史の歯車を回転させるきっかけとなった。
貞勝の死からわずか1年あまり後の永禄9年(1566年)2月、高田城を陥れた張本人である三村家親が、備前の梟雄・宇喜多直家によって暗殺されるという事件が起きる 5 。これは、備前・美作の覇権を狙う直家が、勢力を拡大する三村家親を危険視した結果の謀略であった。
この事件の後、歴史は驚くべき展開を見せる。夫・貞勝を死に追いやった勢力の長を討った宇喜多直家は、貞勝の未亡人となっていたお福の方を自らの妻として迎えたのである 29 。この結婚の背景には、直家がお福の方の類稀なる美貌に心を奪われ、彼女を手に入れるために仇である家親を暗殺した、という情熱的な逸話も伝えられている 35 。これが純粋な恋愛結婚であったのか、あるいは滅亡した三浦氏の旧臣を取り込むための政略であったのかは定かではない。しかし、この結婚は、戦で全てを失ったお福の方と遺児・桃寿丸にとって、新たな庇護者を得ることを意味した。
お福の方は、直家との間に一人の男子をもうける。元亀3年(1572年)に生まれたこの赤子こそ、後に豊臣政権の五大老にまで上り詰め、関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦うことになる宇喜多秀家である 30 。お福の方は出家して「円融院」と号し、直家の死後は幼い秀家を支える「女城主」として 36 、また豊臣秀吉にも一目置かれる存在として、歴史の表舞台で重要な役割を果たしていくことになる。
この一連の出来事を俯瞰すると、円融院は単に運命に翻弄された悲劇の女性ではないことがわかる。彼女は、自らの美貌や境遇、そして人脈を最大限に活用し、夫を死に追いやった三村氏の滅亡(結果的にではあるが)を見届け、さらには息子を大大名へと押し上げた、極めて優れた政治的才覚を持つ人物であった可能性が高い。敵方であった毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊が、秀吉との交渉において「(交渉がまとまっても)秀家の母が秀吉に手紙を書けば決定が覆ってしまう」と警戒する書状を残していることは 37 、彼女が単なる大名の母ではなく、中央政権に直接影響力を行使できる戦略家として認識されていたことを示す動かぬ証拠である。三浦貞勝の物語は、彼の死で終わるのではなく、妻・円融院を通じて豊臣政権の中枢へと繋がっていく、壮大な歴史叙事詩の一部なのである。
貞勝の死は、三浦一族の抵抗の終わりを意味しなかった。残された者たちは、執念ともいえる再興戦を繰り広げる。
三村家親が暗殺され、備中が混乱すると、その機に乗じて貞勝の叔父(父・貞久の弟)である三浦貞盛が旧家臣団に擁立され、高田城を一時的に奪還する 34 。しかし、この抵抗も長くは続かず、永禄11年(1568年)2月、毛利元就が派遣した軍勢の攻撃を受け、貞盛は討ち死にし、高田城は再び毛利の手に落ちた 34 。
だが、三浦氏の執念は尽きない。次に立ち上がったのは、貞勝の弟・三浦貞広であった。彼は、主家である尼子氏が滅亡し、流浪の身となっていた山中幸盛(鹿介)が率いる「尼子再興軍」と連携するという活路を見出す 6 。打倒毛利という共通の目的で結ばれたこの同盟は、元亀元年(1570年)、三度目となる高田城の奪還を成功させるなど、毛利軍を大いに苦しめた 14 。
しかし、この抵抗も長くは続かなかった。毛利氏と宇喜多氏という二大勢力に挟撃される形となり、天正3年(1575年)には宇喜多直家の仲介で毛利氏に降伏。高田城は明け渡され、戦国領主としての美作三浦氏は、ここに事実上滅亡した 4 。
一族が最後の抵抗を続ける中、三浦氏再興の最後の望みは、貞勝の唯一の遺児である桃寿丸に託されていた。彼は母・円融院とともに宇喜多氏の庇護下で養育されていた。
しかし、運命はあまりにも非情であった。天正12年(1584年)、京都に滞在していた桃寿丸は、大規模な天正地震に遭遇し、倒壊した家屋の下敷きとなって圧死するという、悲劇的な最期を遂げたのである 5 。これにより、鎌倉時代以来、美作の地に根を張った名門・三浦氏の嫡流は、その血脈を完全に絶たれることとなった。
三浦貞勝の生涯は、戦国時代という巨大な権力闘争の渦の中で、自らの「家」と「領地」を守るために戦い、そして若くして散っていった無数の国人領主たちの運命を凝縮している。彼の戦いは、一個人の野心や憎悪によるものではなく、出雲の尼子、安芸の毛利、備前の宇喜多という大国の思惑が激しく交錯する「境目の地」美作の、いわば宿命そのものであった。彼の抵抗と滅亡の物語は、戦国時代の地方社会が、いかに中央の覇権争いと不可分に結びついていたかを示している。
貞勝の死は、美作三浦氏という一族の滅亡の序章に過ぎなかった。しかし、その死が結果として妻・円融院を歴史の表舞台に押し上げ、宇喜多家の隆盛、ひいては豊臣政権の権力構造にまで間接的に影響を与えたことを考えると、彼の存在は単なる一地方領主の悲劇に留まらない、より大きな歴史の連鎖の中に位置づけられる。
我々は歴史を語る際、織田信長や豊臣秀吉、毛利元就といった勝者や大名の視点から物語を捉えがちである。しかし、三浦貞勝のような、歴史の主役とはなり得なかった人物の生涯を深く追うことによって、初めて見えてくる歴史の側面がある。それは、大名たちの華々しい戦いの陰で繰り広げられた、国人たちの必死の生存戦略、主家滅びてもなお忠義を尽くす家臣たちの姿、そして政略の駒とされることもありながら、自らの才覚で運命を切り拓いた女性たちの強かな生き様といった、より立体的で人間的な歴史像である。
三浦貞勝の22年という短い生涯は、乱世の非情さと、それに抗い、懸命に生きた人々の確かな息吹を、450年以上の時を超えて我々に伝えている。
年代(西暦/和暦) |
三浦貞勝・三浦一族の動向 |
周辺勢力(尼子・毛利・宇喜多)の動向 |
天文12年 (1543) |
三浦貞勝、誕生。 |
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天文17年 (1548) |
父・貞久が病死。貞勝が家督相続。尼子軍の攻撃により 高田城落城 、貞勝は備前に落ち延びる。 |
尼子晴久、三浦氏の弱体化に乗じ高田城を攻略。城代に宇山久信を置く。 |
永禄2年 (1559) |
毛利氏の尼子攻めの隙を突き、旧臣と共に 高田城を奪還 。城主となる。妻・お福の方(円融院)と結婚。 |
毛利元就、尼子氏の領国への侵攻を本格化。 |
永禄7年 (1564) |
毛利方の三村家親の攻撃を受け、高田城で籠城戦の末、 自刃(享年22) 。妻・お福の方と子・桃寿丸は脱出。 |
三村家親、毛利元就の命を受け美作へ侵攻、高田城を攻略する。 |
永禄9年 (1566) |
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宇喜多直家、三村家親を暗殺。お福の方を妻に迎える。 |
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叔父・貞盛が三村家親暗殺の混乱に乗じ、高田城を一時奪還。 |
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永禄11年 (1568) |
貞盛、毛利軍の攻撃を受け討ち死に。高田城は再び落城。 |
毛利元就、三浦氏の抵抗を鎮圧。 |
元亀元年 (1570) |
弟・貞広が山中幸盛率いる尼子再興軍と連携し、 三度目の高田城奪還 を果たす。 |
尼子再興軍、出雲で毛利軍に敗北(布部山の戦い)後、各地で抵抗を続ける。 |
天正3年 (1575) |
貞広、毛利・宇喜多両軍に攻められ降伏。高田城を明け渡し、 戦国領主としての三浦氏が滅亡 。 |
宇喜多直家、毛利氏と結び勢力を拡大。 |
天正12年 (1584) |
貞勝の遺児・ 桃寿丸、京都で天正地震に遭い圧死 。美作三浦氏の嫡流が断絶。 |
宇喜多秀家(貞勝とお福の方の息子ではない)、豊臣秀吉のもとで大名となる。 |
氏名 |
続柄・関係 |
簡潔な説明 |
三浦 貞勝(みうら さだかつ) |
本人 |
美作高田城主。尼子氏から城を奪還するも、三村家親に敗れ22歳で自刃した悲劇の将。 |
三浦 貞久(みうら さだひさ) |
父 |
貞勝の父。尼子氏の侵攻を度々撃退したが、彼の病死が三浦氏一時没落のきっかけとなった。 |
三浦 貞広(みうら さだひろ) |
弟 |
貞勝の弟。兄の死後も尼子再興軍と連携し、執念の抵抗を続けた。 |
三浦 貞盛(みうら さだもり) |
叔父 |
貞勝の叔父。貞勝の死後、家臣に擁立され高田城を一時奪還するが、毛利軍に討たれた。 |
桃寿丸(ももじゅまる) |
嫡男 |
貞勝とお福の方の子。三浦氏再興の最後の望みだったが、天正地震で夭折した。 |
お福の方(円融院) |
妻 |
貞勝の妻。絶世の美女と伝わる。夫の死後、宇喜多直家の妻となり秀家を産んだ。 |
牧 尚春(まき なおはる) |
家臣 |
三浦氏譜代の重臣。高田城奪還や、貞勝死後の妻子脱出で活躍した忠臣。 |
三村 家親(みむら いえちか) |
敵将 |
備中松山城主。毛利元就の命を受け高田城を攻め、貞勝を自刃に追い込んだ。 |
宇喜多 直家(うきた なおいえ) |
関係者 |
備前の梟雄。三村家親を暗殺し、貞勝の妻・お福の方を娶った。秀家の父。 |
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ) |
義理の子 |
お福の方と宇喜多直家の子。豊臣政権五大老。貞勝とは血の繋がりはない。 |
毛利 元就(もうり もとなり) |
黒幕 |
安芸の戦国大名。中国地方の覇者。三村家親を動かし、三浦氏を滅亡させた。 |
山中 幸盛(やまなか ゆきもり) |
協力者 |
通称は鹿介。尼子家再興を悲願とした武将。三浦貞広と連携し毛利氏と戦った。 |