最終更新日 2025-07-15

三淵光行

三淵光行は室町幕府名門の遺児。叔父細川藤孝の庇護下で育ち、関ヶ原の戦いで忠節を示し、徳川旗本として三淵家を再興した。
三淵光行

乱世を渡る名門の血脈 ― 旗本・三淵光行の生涯とその系譜

序章:時代の転換点を生きた武将

日本の歴史において、戦国時代から江戸時代への移行は、単なる政権交代に留まらず、社会構造、価値観、そして武士の生き方そのものを根底から変革した一大転換期であった。この激動の時代を、一人の武将の生涯を通して見つめることで、我々はその変化のダイナミズムをより深く理解することができる。その人物こそ、三淵光行(みつぶち みつゆき)である。

一般に、三淵光行は「細川藤孝の甥であり、関ヶ原の戦いに際して丹後田辺城に籠もり、その功績を徳川家康に賞されて所領を得た」武将として知られている。この情報は光行の生涯の重要な局面を捉えているが、その背景には、室町幕府の名門一族の没落という悲劇、複雑に絡み合う血縁と恩讐、そして時代の潮流を読み解き、家名を再興するための周到な生存戦略が存在した。

本報告書は、三淵光行という一人の人物の生涯を、断片的な情報の集合体としてではなく、時代の大きなうねりの中で捉え直すことを目的とする。足利将軍家に仕えた名門の遺児が、いかにして庇護者の下で雌伏の時を過ごし、一世一代の好機を掴んで徳川幕府の旗本として家名を再興したのか。その軌跡を丹念に追うことは、戦国乱世の終焉と、それに続く新たな武家社会の秩序形成を象徴的に描き出す試みに他ならない。本稿では、光行の出自からその最期、そして彼が遺した血脈の行方までを、現存する史料を基に徹底的に掘り下げ、その実像に迫る。

表1:三淵光行 略年表

年代(西暦)

出来事

出典

元亀2年(1571年)

三淵藤英の次男として誕生。

1

天正2年(1574年)

父・藤英と長兄・秋豪が織田信長の命により自害。当時3歳の光行は、叔父の細川藤孝(幽斎)に引き取られ、養育される。

1

慶長5年(1600年)

関ヶ原の戦いに際し、東軍方として叔父・幽斎、従兄弟・幸隆らと共に丹後田辺城に籠城。西軍1万5千の兵を約50日間足止めし、東軍勝利に貢献する。

2

慶長14年(1609年)

田辺城での忠節を徳川家康に高く評価され、近江国神崎郡に1,000石の知行を与えられ、旗本として三淵家を再興する。

1

元和9年(1623年)

11月8日(旧暦9月16日)、死去。享年53。

2

第一部:没落と庇護 ― 三淵家の悲劇と光行の幼少期

三淵光行の生涯を理解する上で、その出発点が栄光ではなく、一族の没落という悲劇にあったことをまず認識しなければならない。彼の幼少期は、名門三淵家の崩壊と、叔父である細川藤孝による庇護という、光と影が交錯する時代であった。

第一章:足利将軍家譜代の名門、三淵氏

三淵氏は、清和源氏足利氏の庶流に連なる、室町幕府において由緒ある家柄であった 7 。その祖は足利義満の子・持清とも伝わり、代々将軍に直接仕える奉公衆として幕政の一翼を担っていた 1 。奉公衆は、将軍の親衛隊であると同時に、幕府の意思を各地に伝える役割も担うエリート集団であり、三淵家はその中でも高い家格を誇っていた。この「足利一門」という血統の権威は、後に徳川家康が光行を取り立てる上で、重要な意味を持つことになる。

光行の祖父・三淵晴員は、和泉上半国の守護であった細川元有の子として生まれ、母方の縁で三淵家に養子に入った人物である 2 。そして、晴員の異母弟にあたるのが、後に光行の運命を大きく左右することになる細川藤孝(幽斎)であった 3 。藤孝は、晴員の兄・細川元常の養子となり、細川姓を名乗ったとされる 2 。このように、三淵家と細川家は養子縁組を通じて複雑かつ密接な血縁関係にあり、この繋がりこそが、三淵本家が滅亡の淵に立たされた際、幼い光行にとって唯一の命綱となったのである。

第二章:父・藤英の忠義と非業の最期

光行の父・三淵藤英は、室町幕府末期の動乱を駆け抜けた、文武に優れた武将であった。将軍・足利義輝(初名・義藤)から「藤」の字を賜るほど信頼が厚く、永禄の変で義輝が三好三人衆らに討たれると、弟の細川藤孝らと共に義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)を奈良から救出し、将軍擁立のために奔走した 2

義昭が織田信長の助力を得て上洛し、第15代将軍に就任すると、藤英は幕府の奉公衆として返り咲き、伏見城周辺の守備を任されるなど、義昭政権の中核を担った 3 。本圀寺の変では、義昭の仮御所に攻め寄せた三好三人衆の軍勢を、藤孝らと共に撃退する武功を挙げるなど、その活躍は目覚ましいものがあった 11

しかし、やがて義昭と信長の関係が悪化すると、藤英と藤孝の兄弟は異なる道を歩むことになる。時代の潮流を冷静に見極めた藤孝が、早々に義昭を見限り信長に接近したのに対し、藤英は最後まで将軍家への忠義を貫いた 2 。天正元年(1573年)、信長によって義昭が京から追放され、室町幕府が事実上滅亡した後も、藤英は信長に抵抗を試みた。しかし、翌天正2年(1574年)、ついに信長の勘気を蒙り、明智光秀の居城である坂本城に預けられた末、長男の秋豪と共に自害を命じられた 1 。大河ドラマ『麒麟がくる』では、光秀の助命の申し出を断り、誇り高く最期を遂げる姿が描かれている 14

藤英の死は、旧時代の価値観である「主君への忠義」に殉じた結果であった。一方で、弟の藤孝は「時代の潮流を読む先見性」という新時代の価値観に基づき、生き残りと勢力拡大の道を選んだ。この対照的な兄弟の選択は、戦国末期の武士が直面した過酷な現実を象徴している。藤孝が、袂を分かった兄の遺児である光行を引き取って養育した背景には、単なる血縁の情だけでなく、滅びゆく三淵家の血統を自らの庇護下に置くことで、細川家の権威を高めようとする政治的な計算も含まれていたと見るべきであろう 13

第三章:離散した兄弟たち

父・藤英と長兄・秋豪の死により、三淵家は壊滅的な打撃を受けた。当時わずか3歳であった光行は叔父・藤孝に引き取られたが、他の兄弟たちの消息は錯綜しており、その全貌を解明することは容易ではない。

一般的に、光行の兄弟としては、父と共に自害した長兄・秋豪のほか、朽木家に養子に入ったとされる昭貞、昭知、昭長の名が挙げられる 3 。しかし、この兄弟構成には疑問点が指摘されている。光行は元亀2年(1571年)の生まれであり、父と兄が亡くなったのはそのわずか2年後の天正元年(1573年)である。この短い期間に、光行の下に3人もの弟が生まれることは、年齢的に見て極めて不自然である 15

近年の研究では、これまで知られていなかった兄の存在が明らかになっている。東寺の僧侶であった空盛(くうせい)である 15 。空盛は天文23年(1554年)生まれとされ、光行よりも17歳も年長であった。元亀2年(1571年)には、父・藤英と兄・秋豪の連署で、東寺にいる空盛(当時の名は真盛)宛てに寄進を行った書状が現存しており、父兄と弟との間に良好な関係が築かれていたことが窺える 15

これらの情報を総合すると、三淵藤英の子女の構成は、従来考えられていたものとは異なる可能性が高い。

表2:三淵藤英の子女に関する考察

序列(推定)

氏名

生没年・経歴

考察・根拠

出典

1

三淵 秋豪 (あきひで)

生年不詳 - 天正元年(1573年)没。藤英の嫡男。父と共に自害。

嫡男であることは各史料で一致。

3

2

空盛 (くうせい)

天文23年(1554年)生。東寺の僧侶。

近年の研究で存在が確認。生年から次男と考えられる。父兄からの寄進状が現存し、親子関係は確実。

15

3

三淵 光行 (みつゆき)

元亀2年(1571年) - 元和9年(1623年)。本報告書の主題。

空盛の存在により、従来「次男」とされてきたが、実際には三男以下の可能性が高い。

4

4

朽木 昭貞 (くつき あきさだ)

生没年不詳。朽木稙綱の養子。後に細川忠興に仕える。

弟とされるが、光行より年長であった可能性も指摘される。確実な息子の一人とされる情報もある。

15

-

朽木 昭知、昭長

経歴不詳。昭貞の子や弟など情報が錯綜。

藤英の子であるかについては確証が乏しく、系図上の混乱が見られる。

3

この表から明らかなように、光行が「次男」であるという通説は再検討を要する。彼が育った境遇は、単に父を失っただけでなく、離散した兄弟たちの中で、庇護者である叔父の下で生き残りを図らねばならない、より複雑で孤独なものであったと推察される。この経験が、後の彼の慎重で忠実な性格を形成する一因となった可能性は否定できない。

第二部:武功と立身 ― 丹後田辺城の戦い

没落した家の遺児として、叔父・細川藤孝(幽斎)の庇護下で雌伏の時を過ごした光行にとって、その後の運命を決定づける転機が訪れる。慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦い、その前哨戦として知られる丹後田辺城の籠城戦である。この戦いは、光行が養育の恩に報い、武士としての価値を証明する絶好の機会となった。

第一章:叔父・細川藤孝(幽斎)の下で

光行を養育した叔父・細川幽斎は、戦国時代を代表する知勇兼備の将であった。足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康と、主君を変えながらも乱世を生き抜き、その一方で、三条西実枝より和歌の奥義である「古今伝授」を相伝された当代随一の文化人でもあった 16 。和歌や連歌、茶の湯、囲碁、料理、さらには剣術に至るまで、あらゆる分野に深い造詣を持っていた 18

光行は、この非凡な叔父の下で成長した。武芸はもとより、幽斎が主催する歌会や茶会に参加する中で、武家としての教養を深く身につけたであろうことは想像に難くない。この文武両道にわたる薫陶は、光行が後に徳川旗本として求められる品格と能力を養う上で、計り知れない影響を与えたと考えられる。

第二章:天下分け目の前哨戦

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。細川家の当主・忠興(幽斎の子)は、いち早く家康方の東軍に与し、主力を率いて会津征伐に従軍していた 19

これに対し、挙兵した三成方の西軍は、家康に味方する畿内周辺の諸大名を制圧するべく、各地に軍勢を派遣した。その標的の一つが、主の忠興が不在の丹後細川領であった 16 。福知山城主・小野木重次を総大将とする西軍1万5千の大軍が、忠興の居城である丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市)に殺到した 17

この時、田辺城を守るのは、すでに隠居の身であった幽斎と、その子・幸隆、そして甥である三淵光行ら、わずか500の手勢であった 5 。兵力差は実に30倍。援軍の当てもなく、城の命運は風前の灯火であった。幽斎は決死の覚悟で田辺の町を焼き払い、籠城戦に臨んだ 17

第三章:籠城戦における光行の役割と結末

圧倒的に不利な状況の中、光行は叔父・幽斎、従兄弟・幸隆と共に籠城軍の中核として奮戦した。細川家の家伝である『綿考輯録』にも、幽斎、幸隆と並んで光行が城を守っていたことが記されている 6 。籠城戦における光行個人の具体的な武功を伝える詳細な記録は現存しないが 22 、指揮官の一人として、絶望的な戦況下で兵を鼓舞し、防衛線を支え続けたその忠節は疑いようがない。

籠城戦は約50日間にも及んだ 20 。これほど長く持ちこたえられた背景には、一つの特異な事情があった。西軍の将の中には、幽斎を歌道の師と仰ぐ者が少なくなく、師への攻撃を躊躇したため、攻め手は精彩を欠いたと伝えられる 16

しかし、衆寡敵せず、落城は時間の問題であった。この事態を最も憂慮したのは、朝廷であった。当代唯一の「古今伝授」の継承者である幽斎が戦死すれば、日本の文化にとって計り知れない損失となる。後陽成天皇は、幽斎の身を案じ、勅使を派遣して東西両軍に講和を命じた 5 。勅命を受けた幽斎はこれを受け入れ、ついに田辺城は開城された。

結果として城は明け渡されたものの、この籠城戦の戦略的意義は極めて大きい。西軍は、1万5千という大軍を約2ヶ月もの間、丹後の地に釘付けにされた 16 。この兵力が関ヶ原の本戦に参加できなかったことは、東軍の勝利に間接的ながら大きく貢献したのである。

この戦いは、光行にとって武士としての忠義を証明する場であった。父・藤英が旧主への忠義に殉じたのに対し、光行は養育の恩を受けた細川家への忠義を尽くすことで、自らの存在価値を示した。そして、この戦いの結末は、武力のみが支配した戦国の世が終わり、天皇の勅命という「権威」が再び力を持つ、新たな秩序の時代の到来を象徴する出来事でもあった。光行がこの戦いで示した「忠義」こそが、新たな天下人である徳川家康の目に留まることになる。

第三部:再興と安泰 ― 徳川旗本・三淵家の誕生

丹後田辺城での籠城戦は、三淵光行の運命を大きく好転させた。滅びた家の遺児から一転、彼の忠節は新たな天下人・徳川家康に認められ、徳川幕府直臣の旗本として、三淵家再興という悲願を達成する道が開かれたのである。

第一章:徳川家康による抜擢

田辺城での光行の働きぶりは、家康に高く評価された 3 。関ヶ原の戦いを制し、天下統一を目前にした家康にとって、新たな支配体制を盤石にするためには、武功のあった者を賞するだけでなく、主君への「忠義」を重んじる人材を登用することが不可欠であった。光行が絶望的な状況下で見せた忠節は、家康が求める武士の理想像と合致するものであった。

しかし、家康が光行を旗本に取り立てた理由は、単なる個人的な褒賞に留まらない。そこには、家康の巧みな人事政策と、新幕府の権威を確立しようとする深謀遠慮があった。三淵氏は、足利将軍家の血を引く名門である。このような旧体制下での名家を、滅ぼすのではなく自らの直臣団に組み込むことは、徳川幕府の支配の正統性を内外に示す上で極めて効果的であった 24 。戦国時代に滅亡した大名家や、旧家の次男・三男らを積極的に旗本として登用した家康の政策は、彼らの不満を吸収すると同時に、幕府の権威付けに利用するという、まさに一石二鳥の策だったのである。光行の抜擢は、この政策を象徴する一例であった。

第二章:近江千石の知行と旗本創設

慶長14年(1609年)、光行は田辺城での功績を認められ、家康から近江国神崎郡(現在の滋賀県)に1,000石の知行地を与えられた 1 。これにより、父・藤英の死によって事実上断絶していた三淵家は、徳川将軍家に直属する旗本として、見事な再興を遂げたのである。

江戸時代における「旗本」とは、将軍の直臣(直参)のうち、石高が1万石未満で、将軍への拝謁(御目見)が許される家格を持つ武士を指す 26 。1万石以上は大名、御目見が許されない下位の直参は御家人と区別された 28 。1,000石という知行高は、旗本の中では中堅クラスに位置し、幕府内で一定の格式と安定した地位を保証されるものであった。それは、幕府に反抗する力は持たないが、名誉と安定した生活は得られるという、絶妙な禄高であった。

第三章:1,000石旗本の格式と生活

旗本となった光行は、江戸に屋敷を与えられ、妻子や家臣と共に暮らすことになった 25 。1,000石の知行を持つ旗本は、幕府の軍役規定に基づき、戦時には一定数の家臣を率いて出陣する義務を負った。平時において、光行のような1,000石クラスの旗本が就く役職は、主に江戸城の警備や将軍の護衛を担当する「番方」であった 25 。具体的には、将軍の親衛隊である書院番や、江戸城の主要な門を警備する大番といった軍事職が中心であり、光行もこうした役職に就き、将軍への奉公に励んだと考えられる 29

生活面では、1,000石の知行高があれば、比較的安定した暮らしを送ることができた。知行地からの年貢収入は、四公六民と仮定すれば約400石となり、これを換金して生活費や家臣の俸禄に充てた。当時の1,000石旗本は、約30名ほどの家臣や使用人を抱えていたとされ、江戸の拝領屋敷で彼らの生活を支えていた 26 。一方、知行所である近江国神崎郡には、年貢の徴収や村の統治を行うために代官(陣屋役人)を派遣し、自らは江戸で勤務するというのが、一般的な旗本の生活様式であった 28

光行の後半生は、戦場で武功を立てて立身出世を目指す戦国武将の生き方から、幕府という巨大な官僚機構の一員として役職を忠実に務めることで家の安泰を図る、江戸時代の武士の生き方へと完全に移行した。父・藤英が「忠義」のために滅んだのに対し、子・光行は「忠義」によって家を再興し、安定した地位を得た。これは、忠義の対象が「将軍義昭」という個人から、「徳川幕府」という統治システムへと変化したことを明確に示しており、光行の成功は、まさに新時代への適応の結果であった。

第四部:血脈の継承 ― 家族と子孫

徳川旗本として三淵家を再興した光行の功績は、単に一代の立身に留まらなかった。彼は巧みな婚姻政策と、次世代への周到な布石によって、その血脈を未来へと繋ぎ、一族の安泰の礎を築いた。そこには、戦国乱世の過酷な経験から学んだ、巧みな生存戦略が見て取れる。

第一章:縁戚関係の妙 ― 郡宗保の娘・慶寿院との婚姻

光行の妻は慶寿院といい、豊臣家の家臣であった郡宗保(こおり むねやす)の四女である 4 。この婚姻は、光行の家政を考える上で非常に興味深い。義父となった郡宗保は、元は摂津の有力国人・伊丹氏の出身で、荒木村重に仕えた後、豊臣秀吉・秀頼に仕えた武将であった 34

慶寿院自身もまた、波乱の人生を送っている。彼女は姉を頼って細川家に身を寄せた際に、同じく叔父・藤孝の庇護下にあった光行と出会い、結ばれたとされる 36 。この結婚には、二人の純粋な愛情があったと同時に、藤孝が旧知の間柄である伊丹氏の血を引く娘を甥に娶せることで、旧来の人間関係を維持・強化しようとする政治的な意図も介在していたと考えられる 36

特筆すべきは、義父・郡宗保の最期である。彼は関ヶ原の戦いでは西軍に属して大津城を攻め、戦後は改易されたものの、最後まで豊臣家への忠義を貫き、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、豊臣家に殉じて自害した 35 。徳川旗本である光行の義父が、徳川家と敵対した豊臣家に殉じたという事実は、戦国から江戸への移行期における人間関係の複雑さと、時代の矛盾を象徴している。

第二章:次代への布石

光行と慶寿院の間には、少なくとも三人の男子が生まれた 4 。光行は、彼らの将来を見据え、一族の生存確率を高めるための巧みな布石を打っている。

嫡男の藤利(ふじとし、尚正とも)は、家督を継いで旗本三淵家の二代目当主となった 36 。藤利の代には、知行地が近江から美濃国および上総国に移され、さらに200石を加増されて1,200石の旗本となっている 7 。これは、三淵家が幕府への奉公を滞りなく務め、旗本家として順調に存続したことを示す何よりの証拠である。

一方、次男の藤正(ふじまさ)は、旗本家を継がず、大藩である肥後熊本藩主・細川家に仕官した 2 。そして、母方の祖父の姓である「郡」を名乗った 2 。これは極めて戦略的な一手であった。幕府直臣の旗本家として存続する一方で、大藩である細川家との強い繋がりを「家臣」という形で維持し続けることは、一種の保険となる。万が一、旗本家が改易などの危機に瀕したとしても、細川家という強力な後ろ盾があれば、家名や血脈が完全に途絶えるリスクを大幅に低減できるからである。一つの主君に全てを賭けるのではなく、複数の権力基盤に根を張るというこのリスク分散の思想は、光行自身が経験した一族没落の悲劇から得た教訓であり、また、養育者である細川藤孝の巧みな処世術から学んだものかもしれない。

第三章:旗本三淵家のその後

光行が築いた礎の上に、三淵家は江戸時代を通じて旗本として存続した。幕末期に至っても、本家である熊本藩主細川家とは「先祖以来縁故関係が深い」と認識されており、両家の密接な関係は続いていたことが確認できる 38 。熊本大学に所蔵される永青文庫の資料目録には、「三渕家系譜」や「三渕土佐守様より御系譜問合并御答」といった史料が存在し、両家の交流の跡を物語っている 39

そして、この血脈は近代においても日本の歴史に大きな足跡を残す。明治維新後、司法官の道を歩み、戦後、日本国憲法下で初代最高裁判所長官という重責を担った三淵忠彦は、会津藩士・三淵隆衡の子であり、その家系はまさしく三淵光行に連なるものであった 40 。一族滅亡の危機から家を再興した光行の血脈が、時代を超えて日本の司法の頂点に立ったという事実は、歴史の深遠さを感じさせる。

表3:旗本三淵家の歴代当主と知行の変遷

当主

禄高

知行地

備考

出典

初代

三淵 光行 (みつゆき)

1,000石

近江国神崎郡

慶長14年(1609年)、徳川家康より拝領。

1

二代

三淵 藤利 (ふじとし)

1,200石

美濃国安八・本巣・山県三郡、上総国山辺郡

寛永年間に采地替えとなり、200石を加増される。

7

三代以降

(『寛政重修諸家譜』等による)

1,200石

(同上)

江戸時代を通じて旗本として存続。

8

結論:乱世の終焉と武家の新生

三淵光行の生涯は、足利幕府に仕える名門の家に生まれながら、父・藤英の死によってわずか3歳で没落の悲劇を味わうところから始まった。しかし、叔父・細川藤孝という類稀な人物の庇護下で成長し、文武の道を修め、雌伏の時を過ごした。そして、天下分け目の関ヶ原合戦の前哨戦・丹後田辺城の戦いにおいて、養育の恩に報いるべく示した忠節が、新たな天下人・徳川家康の目に留まる。これにより、彼は徳川幕府の旗本として家名を再興するという、一世一代の偉業を成し遂げた。さらに、巧みな婚姻政策と、次男を大藩細川家に仕官させるというリスク分散によって、その後の家の安泰の礎を盤石なものとした。

光行は、歴史の表舞台で華々しい武功を立てた英雄ではないかもしれない。しかし、彼の人生は、戦国という旧世界の価値観(父・藤英が殉じた「忠義」)と、江戸という新世界の秩序(叔父・藤孝が体現した「現実主義」)の双方をその身に受け止め、時代の激しい変化の波を乗りこなし、一族の再生を成し遂げた、稀有な事例である。

彼の生涯は、戦国から江戸へと移行する時代を生きた、数多の武士たちの苦悩、選択、そして再生の物語を凝縮している。滅びゆく者と興る者、旧き忠義と新しき奉公が交錯する中で、自らの立ち位置を冷静に見極め、未来への道を切り拓いた三淵光行。彼の存在は、歴史の転換点における武家の生き様を理解する上で、誠に貴重な歴史の証言と言えるであろう。

引用文献

  1. 三淵光行(みつぶち みつゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%B7%B5%E5%85%89%E8%A1%8C-1112783
  2. 三淵藤英とその子孫 - 探検!日本の歴史 - はてなブログ https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/mitsubuchi
  3. 三淵藤英 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B7%B5%E8%97%A4%E8%8B%B1
  4. 三淵光行 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B7%B5%E5%85%89%E8%A1%8C
  5. 美談とされる細川幽斎が籠もった田辺城籠城の真相【前編】 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/3390
  6. 進士流|室町時代に始まった武家の包丁道 - 美味求真 https://www.bimikyushin.com/chapter_3/03_ref/shinji.html
  7. 三淵氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%89%E6%B7%B5%E6%B0%8F
  8. 三淵氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B7%B5%E6%B0%8F
  9. マイナー武将列伝・三淵藤英 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/bu_0011.htm
  10. 心の種 をのこす言 の葉 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/304/304toku_kiko.pdf
  11. 「三淵藤英」室町幕府最後の幕臣は悲運の武将でもあった! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/195
  12. 引き裂かれた兄弟 ~最後の幕臣 三淵藤英~ - Kyoto Love. Kyoto 伝えたい京都 https://kyotolove.kyoto/I0000211/
  13. 三淵邸の庭 / 論文紹介 - 細き川に溺れたい https://hohshoy.hatenablog.com/entry/daisenin_garden
  14. 【麒麟がくる】谷原章介、誇り高き最期を遂げた三淵藤英「出逢えて幸せでした」 | ORICON NEWS https://www.oricon.co.jp/news/2180511/full/
  15. 三淵藤英の息子たち - 細き川に溺れたい https://hohshoy.hatenablog.com/entry/mitsubuchifujihide_sons
  16. 田辺城の戦い〜教養は身を助く?細川幽斎の才覚をわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/982/
  17. 丹後の関ヶ原、田辺城の戦い - 迷い犬を拾った https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_tanabejou_tatakai.html
  18. 第3話 時の天皇が命を救った知勇兼備の武将・細川幽斎とは - 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2019/12/story3-hosokawayusai/
  19. 舞鶴物語 ~其の参~ 田辺城籠城戦記 - 舞鶴観光ネット https://maizuru-kanko.net/tanabejyo
  20. なぜ田辺籠城戦は手強かった? 京都・舞鶴に受け継がれる「幽斎への崇敬の念」 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10582
  21. 田辺城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%BE%BA%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  22. 田辺城の戦い ~細川幽斎の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/tanabe.html
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