三雲定持は六角氏宿老で甲賀郡中惣の独立領主。明貿易で経済力を築き、三雲城を拠点に織田信長に抵抗。野洲川の戦いで討死し、六角氏抵抗の終焉を象徴。子孫は家名を存続させた。
戦国時代の近江国にその名を刻んだ武将、三雲定持(みくも さだもち)。彼の名は、多くの場合、主君である六角氏に最後まで仕え、元亀元年(1570年)の野洲川合戦において織田信長軍と戦い、壮絶な最期を遂げた忠臣として語られる 1 。しかし、この評価は彼の生涯の一側面に過ぎない。本報告書は、この「忠臣」という表層的なイメージの奥深くに分け入り、三雲定持という人物の多面的な実像を、彼が生きた時代の文脈、とりわけ「甲賀」という特異な地域社会の力学の中で解き明かすことを目的とする。
三雲定持は、単に主家に従う一介の武将ではなかった。彼は、甲賀武士団の連合体である「甲賀五十三家」の一角を占める、独立性の高い領主であった 1 。さらに、主家とは別に独自のルートで明との貿易を行い、室町幕府に寄付をするほどの経済力を有した交易者でもあった 1 。そして、主家が内紛で揺らげば、その調停に奔走する老練な政治家としての顔も持っていた 1 。
本報告書は、これらの複数の顔を統合し、一つの核心的な問いに迫る。「なぜ三雲定持は、一介の国人領主でありながら、主家である六角氏の命運を左右するほどの影響力を持ち得たのか」。そして、「彼の死は、なぜ近江における六角氏の組織的抵抗の終焉を決定づけるほどの画期となったのか」。これらの問いを解き明かすことで、戦国史の表舞台から埋もれがちな、しかし時代の転換点において重要な役割を果たした一人の武将の真の姿を浮き彫りにする。
まず、彼の生涯の骨格を把握するため、主要な出来事を年表にまとめる。
年代 |
出来事 |
生年不詳 |
三雲氏の当主として六角定頼、義賢に仕える |
永禄6年(1563年) |
観音寺騒動において、蒲生定秀らと共に調停に奔走し、事態を収拾する 1 。 |
永禄9年(1566年) |
浅井長政軍との合戦で、嫡男であった三雲賢持が討死する 1 。 |
永禄10年(1567年) |
家督を継いだ次男・成持と共に、六角氏の分国法である「六角氏式目」に連署する 1 。 |
永禄11年(1568年) |
織田信長の上洛軍に敗れた主君・六角義賢、義治親子を、自らの居城である三雲城に迎え入れる 1 。 |
元亀元年(1570年) |
野洲川の戦いにおいて、六角軍の主将の一人として柴田勝家・佐久間信盛らの織田軍と戦い、討死する 1 。 |
この年表は、三雲定持のキャリアが、奇しくも主家・六角氏の衰退期と完全に重なっていることを示している。家中の内紛から、織田信長という新たな時代の奔流との対峙、そして最後の抵抗戦に至るまで、彼は常に六角氏が直面する最も困難な局面の中心にいた。これは、彼が単なる家臣ではなく、運命共同体としての六角氏を最後まで支え続けた「最後の柱」であったことを強く示唆している。
三雲定持という人物を理解するためには、まず彼が根差した「三雲氏」という一族の成り立ちと、その本拠地である「甲賀」という土地の特殊性を知る必要がある。彼の独立性の高い行動原理は、この二つの要素に深く根差している。
三雲氏の出自については、後世に編纂された系図と、同時代の史料との間にいくつかの相違が見られる。
『寛政重修諸家譜』などの江戸時代の編纂物によれば、三雲氏は武蔵七党の一である児玉党の分かれであり、もとは武蔵国や上野国で活動していたとされる 3 。その後、明応年間(1492年~1501年)に三雲実乃(さねのり)なる人物が近江国甲賀郡に至り、三雲の地に住んだことから、はじめて「三雲」を称したと伝えられる 3 。その子・行定は三雲城を築き、六角定頼の家臣として重きをなしたとされる 3 。
しかし、これらの系図が示す内容は、学術的な検証においていくつかの疑問点が指摘されている。特に、同時代の信頼性の高い史料上では、系図に登場する実乃や行定といった人物の名は確認することができない 7 。むしろ、系図には見られない「資胤」といった名の人物が史料に登場するなど、三雲氏には複数の系統が存在した可能性も考えられる 7 。
一方で、三雲定持とその息子たちの名乗りは、彼らと六角氏との密接な関係を物語る有力な手がかりとなる。定持の「定」の字は主君・六角定頼から、嫡男・賢持の「賢」の字は六角義賢から、それぞれ一字を賜った「偏諱(へんき)」であると考えるのが自然である 4 。このことから、少なくとも「定持-賢持」という親子関係、そして彼らが六角氏の当主と直接的な主従関係を結んでいたことの蓋然性は非常に高いと評価できる。
結論として、三雲氏が他国から移住してきたとする伝承の信憑性は慎重に判断する必要があるものの、彼らが戦国期には甲賀郡に根を張る有力な土豪であり、代々六角氏の重臣として仕えてきた一族であることは疑いようがない。その系譜の詳細は不明な点が多いものの、偏諱という慣習は、彼らが六角氏の権力構造の中枢に組み込まれていたことを明確に示している。
三雲定持の行動を理解する上で最も重要な鍵となるのが、彼が属した「甲賀郡中惣(こうかぐんちゅうそう)」という特異な社会システムである。
甲賀郡には、戦国時代を通じて「甲賀五十三家」と総称される地侍・土豪たちが群居していた 9 。三雲氏もその有力な一角であり、特に和田氏、隠岐氏、池田氏、青木氏、山中氏といった大身の家々と共に、主家・六角氏の本城である観音寺城の在番を務めるほどの高い家格を有していた 2 。
これらの地侍たちが形成したのが、「甲賀郡中惣」と呼ばれる郡単位の一揆的な連合組織であった 10 。この組織の最大の特徴は、特定の強力な領主が頂点に立って支配するピラミッド型の権力構造ではなく、各家が「同名中(どうみょうちゅう)」と呼ばれる同族集団を単位とし、合議と多数決によって物事を決定する、極めて水平的な連合体であった点にある 9 。惣領家と庶子家(分家)も対等な立場で意思決定に参加し、決まらない場合は籤(くじ)を用いることさえあったという 10 。このような小領主たちの連合による自治的統治は、全国的に見ても極めて珍しいものであった。
この「郡中惣」の存在が、三雲氏と主家・六角氏との関係を、単純な主従関係とは異なるものにしていた。後藤氏や進藤氏のような六角氏の「根本被官(こんぽんひかん)」とは異なり、三雲氏を含む甲賀衆と六角氏との関係は、むしろ「ゆるやかな同盟関係」と評するのが実態に近い 3 。六角氏は甲賀武士団の精強な軍事力を必要とし、一方で甲賀衆は六角氏という守護の権威を後ろ盾とすることで、外部勢力からの干渉を排除し、郡内の自治を維持するという、相互依存の関係にあったのである。
この特異な関係性は、三雲定持の立場を単なる「家臣」という枠組みでは捉えきれないものにしている。彼は六角氏の家臣でありながら、同時に自らの領地と軍団に主権を持つ「独立領主」としての側面を色濃く有していた。彼の行動原理を理解するには、この「主権的家臣」とも言うべき視点が不可欠である。事実、永禄11年(1568年)に織田信長に敗れた主君・六角義賢親子を、定持が自らの居城である三雲城に「迎え入れた」という出来事は、この力関係を象徴している 1 。通常であれば家臣が主君の城に駆けつけるところを、逆に主君が家臣の城に庇護を求めているのである。これは、定持の忠誠が、六角家個人への絶対的な服従というよりは、甲賀の自治を保障してくれる六角氏の権力構造そのものを守るための、同盟者としての忠誠であった可能性を強く示唆している。
甲賀の独立領主という側面を持つ一方で、三雲定持は六角氏の政治の中枢においても極めて重要な役割を果たした。彼の権力は、軍事力、政治力、そして経済力という三つの要素が相互に作用し、増幅しあう強固な構造の上に成り立っていた。
三雲定持が単なる武辺者ではなく、高い政治手腕を兼ね備えた宿老であったことを示す最も顕著な事例が、永禄6年(1563年)に発生した「観音寺騒動」における彼の働きである。
この騒動は、六角氏当主・六角義治が、宿老の一人であった後藤賢豊(かたとよ)を観音寺城内で突如殺害したことに端を発する、六角家最大の内紛であった 12 。この暴挙に激怒した家臣団は結束して観音寺城に押し寄せ、義治と、隠居していた父・義賢を甲賀郡へと追放する事態にまで発展した 12 。主家存亡の危機に瀕したこの時、事態の収拾に奔走したのが、三雲定持と、同じく重臣であった蒲生定秀であった 1 。
彼らの懸命な調停活動により、最終的に義賢・義治親子は家臣団と和解し、観音寺城への帰還を果たす。この一件は、三雲定持が六角家中で絶大な人望と影響力を有し、分裂した家中をまとめ上げるだけの政治力を備えていたことを何よりも雄弁に物語っている。彼の存在なくして、六角氏の権威はこの時点で完全に失墜していた可能性さえある。
観音寺騒動によって露呈した家中の動揺を鎮め、家臣団との結束を再構築するために、永禄10年(1567年)に制定されたのが、六角氏の分国法(家法)である「六角氏式目」である。この式目の連署者に、三雲定持の名を見出すことができる。
特筆すべきは、彼が次男の三雲成持と共に名を連ねている点である 1 。この前年、永禄9年(1566年)に本来の嫡男であった賢持が浅井長政との戦いで討死したため、次男の成持が三雲家の家督継承者となっていた 1 。父子が揃ってこの重要な分国法に連署したという事実は、三雲家が後藤氏や蒲生氏などと並ぶ「六角六宿老」の一家として 4 、六角氏の法体系を承認し、その執行に責任を負う中核的な存在であったことを公式に証明するものである。これは、三雲定持個人のみならず、三雲家そのものが六角氏の権力構造において不可欠な構成要素と見なされていたことを示している。
三雲定持の権力を支えたもう一つの重要な柱が、その傑出した経済力であった。驚くべきことに、彼は主家である六角氏とは別に、単独で明(中国)との貿易を行い、そこから得た利益を室町幕府に寄付するほどの莫大な富を築いていたとされる 1 。
この独自の経済活動は、彼の権力基盤全体を支える原動力となっていた。例えば、後に詳述する居城・三雲城に見られるような、巨石を用いた堅固な石垣や先進的な枡形虎口といった高度な築城技術は、潤沢な資金なくしては実現不可能であった 16 。この経済力が強力な軍事力を生み、その軍事力が六角家中での政治的発言力を担保したのである。観音寺騒動での調停役や六角氏式目への連署といった政治的中枢での活躍は、こうした強固な経済・軍事基盤に裏打ちされていたと見るべきだろう。
甲賀の武士は、平時は農業に従事する傍ら、薬の行商などを通じて各地の情報収集や諜報活動を行っていたことが知られており、商業活動に長けていた 18 。三雲氏の貿易活動も、こうした甲賀の風土を背景に、独自のネットワークを駆使して行われたものと推測される。六角氏の宿老という政治的地位は、彼の交易活動に公的な信用を与え、近江国内の交通路や港湾の利用において様々な便宜をもたらしたであろう。また、幕府への寄付は、単なる慈善活動ではなく、中央とのパイプを構築し、さらなる商業的機会を創出するための戦略的な投資であった可能性も否定できない。
このように、三雲定持の力は、軍事・政治・経済という三つの要素がそれぞれ独立して存在するのではなく、互いに影響を与え、強化しあう一つの強固なサイクルとして機能していた。この権力の三本柱こそが、彼を単なる一国人領主から、地域の命運を左右するほどの重要人物へと押し上げた原動力だったのである。
戦国時代の勢力図を塗り替える織田信長の台頭は、近江の旧勢力である六角氏、そしてその重臣であった三雲定持の運命を大きく揺るがすことになる。この時代の大転換期において、定持は最後の輝きを放つことになる。
織田信長との対決において、三雲定持が持つ最大の切り札となったのが、彼の居城である三雲城であった。この城の戦略的価値を理解することは、六角氏の抵抗の軌跡をたどる上で不可欠である。
三雲城は、現在の滋賀県湖南市に位置し、野洲川の南岸から東海道を見下ろす標高334メートルの山上に築かれた、典型的な山城である 19 。この城の最大の役割は、主家・六角氏の本城である観音寺城が敵の攻撃に晒された際の、最終防衛拠点、すなわち「臨時本城」あるいは「奥城」としての機能であった 5 。
その歴史は古く、長享元年(1487年)に室町幕府将軍・足利義尚が六角氏討伐令を発した際にも、六角氏は観音寺城を離れてこの三雲城に立て籠もり、甲賀武士団と共に抗戦した記録が残る 5 。観音寺城と甲賀を結ぶ道は「観音寺道」と呼ばれ、六角氏にとって三雲城は、危機に際して必ず立ち返るべき最後の砦と認識されていた 5 。城内に六角家の家紋である「四目結」が刻まれた巨石が現存することも、この城と六角氏との特別な関係を物語っている 5 。
現存する遺構からは、その高い防御能力をうかがい知ることができる。特に、城の入口に設けられた巨石を用いた石垣造りの「枡形虎口(ますがたこぐち)」は、敵兵を直角に二度曲がらせることで勢いを殺ぎ、側面から攻撃を加えるための先進的な防衛施設であり、この城最大の見どころとされる 16 。主郭の周囲にも矢穴(石を割るための楔の跡)が残る石垣が巡らされ、斜面には敵の横移動を妨げる「竪堀(たてぼり)」が掘られるなど、戦国時代後期の高度な築城技術が随所に見て取れる 17 。
項目 |
概要 |
城の形式 |
山城(標高334m、比高約180m) 19 |
所在地 |
現・滋賀県湖南市吉永 5 |
主な遺構 |
石垣造りの枡形虎口、主郭周囲の石垣(矢穴あり)、八丈岩、竪堀、堀切 16 |
戦略的役割 |
観音寺城の「奥城」、六角氏の亡命拠点、対織田ゲリラ戦の基地 5 |
この堅固な要塞の存在こそが、三雲定持の軍事力の根幹であり、観音寺城を失った後も六角氏が抵抗を続けることを可能にした最大の要因であった。
永禄11年(1568年)、室町幕府の次期将軍候補・足利義昭を奉じて織田信長が美濃から京を目指して進軍を開始すると、その経路上に位置する南近江の支配者・六角義賢は信長と対立する道を選ぶ 1 。
しかし、織田軍の圧倒的な兵力の前に、六角軍は観音寺城の支城である箕作城や和田山城をわずか一日で攻略され、戦わずして本城の観音寺城を放棄せざるを得なくなる 22 。この時、歴史が繰り返されるように、城を脱出した六角義賢・義治親子が亡命先として選んだのが、三雲定持が守る三雲城であった 1 。
定持は主君親子を城に迎え入れ、ここを拠点として織田軍に対する抵抗戦を開始する。正面からの決戦を避け、山深い甲賀の地理を最大限に活用したゲリラ戦術へと移行したのである 1 。三雲城は、対織田抵抗運動の司令塔として、その真価を発揮することになった。
三雲城を拠点とする六角氏の抵抗は、織田信長にとって近江支配を不安定にさせる厄介な存在であり続けた。そして元亀元年(1570年)、事態は最後の決戦へと向かう。
この年、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、大坂の石山本願寺などが一斉に蜂起し、世に言う「信長包囲網」が形成される。この好機を逃さず、六角義賢は甲賀・伊賀の兵を糾合して再び南近江の旧領奪回を目指し、琵琶湖岸へと進出した 12 。
これに対し、信長は近江の防衛線を守る柴田勝家と佐久間信盛に迎撃を命じる。同年6月4日、六角軍と織田軍は野洲川の河原、落窪(おちくぼ、現在の野洲市乙窪)と呼ばれる地で激突した 26 。『信長公記』によれば、この戦いで六角軍の先陣を務めたのが三雲定持(三郎左衛門)と高野瀬秀澄であった 28 。戦闘は2、3時間で決着がつき、織田軍の勝利に終わったとされる 25 。
この戦いで、三雲定持は奮戦の末、討死を遂げた 1 。六角軍は定持をはじめとする重臣たちを失い、780名から800名余りという甚大な人的被害を被って、再び甲賀の山中へと敗走した 6 。この戦いは、柴田勝家が籠城戦の際に水瓶を叩き割り、兵の士気を鼓舞して勝利を得たという「瓶割り柴田」の逸話の舞台としても知られるが 25 、その逸話の背景には、三雲定持らが率いた六角軍の猛攻があったのである。
野洲河原の戦いは、単なる一合戦以上の意味を持っていた。これは、織田信長が推し進める中央集権的な「天下布武」の動きと、それに抵抗する近江の伝統的な地域連合(守護・六角氏と自治組織・甲賀郡中惣の同盟)との、事実上の最終決戦であった。信長の上洛は、旧来の守護大名体制を解体するだけでなく、その下で育まれた地域ごとの自立的な権力構造をも、自身の支配下に一元化する政治的プロジェクトであった。
六角氏が観音寺城を追われた後も2年近くにわたって抵抗を続けられたのは、ひとえに三雲城という物理的拠点と、三雲定持がまとめ上げる甲賀武士団という軍事・人的基盤があったからに他ならない。元亀元年の再蜂起は、この地域連合が信長包囲網という大きな潮流に乗って仕掛けた、最後の組織的反撃であった。
この決戦で、連合の中核であり、甲賀武士団を六角氏に繋ぎとめる「楔」であった三雲定持が戦死したことの衝撃は計り知れない。それは単なる人的損失以上に、抵抗運動の精神的支柱を失ったことを意味した。事実、この戦いの後、三雲一族を含む他の甲賀の土豪たちは次々と六角氏から離反し、織田信長に帰順していく 1 。三雲定持の死は、一人の武将の死であると同時に、近江における中世的な地域連合の時代が終わり、近世的な統一権力の時代が始まる画期を象徴する出来事だったのである。
三雲定持の死後、彼が築いた一族の運命は、時代の大きなうねりの中で様々な変転を遂げる。その軌跡は、戦国乱世から近世の安定期へと移行する時代の様相を、一つの家族史として凝縮している。
定持には、賢持(かたもち)と成持(しげもち)という二人の息子がいた。彼らの対照的な生涯は、時代の変化を色濃く反映している。
嫡男の 三雲賢持 は、主君・六角義賢から「賢」の字を賜った、将来を嘱望された後継者であった 4 。しかし、父に先立ち、永禄9年(1566年)に北近江の浅井長政との合戦において若くして戦死してしまう 1 。彼の早すぎる死が、弟である成持の人生、そして三雲家の運命を大きく変えることになる。
次男の 三雲成持 は、兄の死を受けて予期せずして家督を継ぐことになった 4 。彼は父・定持と共に「六角氏式目」に連署し、若くして六角家中の重責を担った 1 。しかし、父の戦死と主家・六角氏の事実上の滅亡により、所領と居城を失い、浪人の身へと転落する 3 。
しかし、成持は過去に固執しなかった。彼は新たな時代の流れに適応することで、一族の再興を図る。本能寺の変の後、織田信長の次男・信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは伊勢松ヶ島城に籠城するなど、武将としての活動を再開する 3 。その後、会津の蒲生氏郷に仕え、氏郷の死後は天下人となった徳川家康に召し出されるという、巧みな処世術を見せた 3 。
成持の子・三雲成長(なりなが)の代には、関ヶ原の合戦や大坂の陣での功績が認められ、ついに旗本として近江甲賀郡内の旧領の一部を取り戻すことに成功する 4 。三雲氏の嫡流は後に途絶えるものの、分家が旗本として江戸時代を通じて存続し、その血脈を後世に伝えた 14 。
父・定持が旧秩序と共に滅びる道を選んだのに対し、息子・成持は時流を読み、新たな権力者に仕えることで家名を存続させた。この父子の生き様は、個人の武勇や家格が絶対であった時代から、現実的な適応能力が求められる時代への移行を象'徴している。
三雲一族が後世に残した影響は、史実の世界だけにとどまらない。むしろ、大衆文化の世界において、より大きな足跡を残している。それは、戦死した嫡男・賢持の子「三雲佐助賢春」が、真田十勇士で最も名高い忍者「猿飛佐助」のモデルであるとする説である 3 。
この説は、江戸時代に編纂された近江の地誌『淡海故録(おうみころく)』や『茗渓事蹟(めいけいじせき)』といった文献にその源流を見出すことができる 30 。さらに、享保4年(1719年)頃に成立したとされる軍記物語『厭蝕太平楽記(えんしょくたいへいき)』には、大坂の陣で活躍した真田幸村が九度山に蟄居していた際、その供をした家臣として「三雲佐助賢春」の名が記されている 30 。これは、江戸時代中期には既に、甲賀武士である三雲氏と英雄・真田幸村を結びつける物語の下地が存在したことを示している。
この伝承が現代において広く知られるようになったのは、著名な歴史小説家である司馬遼太郎が、その作品『風神の門』の中でこの説を魅力的に描いた影響が大きい 30 。
甲賀武士団のリーダーであった三雲一族の武名と、その悲劇的な運命が、時代の経過と共に大衆の記憶の中で変容し、「忍者・猿飛佐助」という架空の英雄像に投影されていったと考えられる。史実の表舞台から消えた一族の記憶が、物語の世界で新たな生命を得て生き続けるという、歴史と文化の興味深い関係性をここに見ることができる。
三雲定持の生涯を多角的に検証した結果、彼を単に「六角家の忠臣」という一言で評することは、その実像を著しく矮小化するものであることが明らかになった。彼は、甲賀という特異な自治社会を基盤とし、政治力、軍事力、そして経済力を兼ね備えた、独立性の極めて高い「主権的家臣」であった。彼の権力は、これら三つの要素が相互に作用しあう強固な構造の上に成り立っており、それ故に主家の運命さえ左右するほどの影響力を持ち得たのである。
彼の生涯と死は、織田信長による天下統一事業が、単に守護大名という旧来の権力者を打倒するだけでなく、その下で育まれてきた「郡中惣」のような地域ごとの自立的な権力構造をも解体し、中央集権的な体制へと再編していく、時代の大きな転換点を象徴するものであった。野洲川の河原に散った彼の命は、近江における中世的地域連合の時代の終焉を告げる弔鐘だったのである。
しかし、三雲定持が遺したものは、滅びの物語だけではない。
彼の血脈は、息子・成持の現実的な処世術によって、徳川の世を旗本として生き抜いた。これは、時代の変化に適応し、家名を存続させるという、もう一つの戦国武士の生き様を示している。
そして、彼の一族の武名は、史実の枠を超え、「猿飛佐助」という伝説の中に昇華された。これは、失われた過去への人々のノスタルジアが、大衆文化の中で不滅の英雄譚として結実した稀有な例である。
史実における「死による忠義」、子孫の「適応による存続」、そして伝説における「物語による永生」。三雲定持と彼の一族は、これら三つの異なる形で戦国という時代を総括し、その記憶が後世にどのように受け継がれていくかを示す、非常に興味深い軌跡を我々に提示している。彼の存在は、戦国史の主要な出来事の背後に、いかに豊かで複雑な地域社会のドラマが隠されているかを教えてくれる、貴重な歴史の証人と言えるだろう。