最終更新日 2025-06-10

上杉定勝

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上杉定勝公に関する調査報告

1. はじめに

本報告書は、江戸時代前期の出羽米沢藩二代藩主、上杉定勝(うえすぎ さだかつ、慶長9年(1604年) - 正保2年(1645年))について、その生涯、藩主としての治績、文化的側面、そして歴史的意義を詳細に明らかにすることを目的とします。定勝が生きた時代は、戦国の動乱が終息し、徳川幕藩体制が確立していく過渡期にあたります。このような時代背景の中で、父・上杉景勝と重臣・直江兼続によって築かれた米沢藩の統治を継承し、その後の藩政の基礎を固めた定勝の事績を多角的に検証します。特に、初代の統治からの移行期における役割、藩政の安定化への貢献、そして文化人としての一面にも光を当てることとします。

定勝の生涯における主要な出来事を時系列で把握することは、本報告で詳述される各事績の時代的背景と連続性を理解する上で不可欠です。読者が報告全体の時間軸を念頭に置きながら読み進めることを助け、個々の出来事の位置づけを明確にするための基礎情報として、以下に略年表を提示します。

表1:上杉定勝 略年表

年代

主な出来事

典拠例

慶長9年 (1604)

5月5日、米沢城にて上杉景勝の長子として誕生。幼名は千徳。通称は喜平次。 1

1

慶長15年 (1610)

二代将軍・徳川秀忠に御目見。千徳の名を授かる。 2

2

元和9年 (1623)

父・景勝死去に伴い家督相続、出羽米沢藩30万石の二代藩主となる。 1

1

寛永15年 (1638)

領内総検地を実施。 1

1

寛永20年 (1643)

会津藩主・加藤明成の改易処理に関わる。 2

2

正保2年 (1645)

9月10日、米沢城にて死去。享年42歳。 1

1

2. 上杉定勝の生涯

2.1. 出自と幼少期

上杉定勝は、慶長9年(1604年)5月5日、出羽米沢藩の初代藩主である上杉景勝の長子として、米沢城で誕生しました 1 。幼名は千徳、後に喜平次と称しました 1 。生母は景勝の継室であった桂岩院で、公家の名門である四辻家の出身、四辻公遠(よつつじ きんとお)の娘です 2 。四辻家は羽林家(うりんけ)の家格を持ち、藤原北家閑院流の西園寺家の一門にあたります 2 。このような高貴な血筋は、後の定勝の文化的な素養や公家との交流に少なからず影響を与えたと考えられます。

しかし、母・桂岩院は定勝を出産後わずか100日余りでこの世を去ってしまいます 2 。そのため、景勝の信頼厚い重臣であった直江兼続と、その正室であるお船の方(直江夫人)が、幼い定勝の養育にあたりました 2 。特にお船の方は、実質的な母親代わりとして献身的に定勝を育て上げたと伝えられています。その功績は大きく、定勝が後に二代藩主となった際には、お船の方に対して三千石という破格の禄高を与えており、これは定勝の深い感謝の念と、お船の方の貢献がいかに大きかったかを物語っています 4 。名門の公家の血を引き、幼少期には当代きっての知将と評された直江兼続とその賢夫人によって養育されたという環境は、定勝が武家としての資質のみならず、高い文化教養を身につける上で非常に恵まれていたことを示唆しています。公家文化への親近感と、兼続による実学的な教育(武芸や統治論など)が融合し、後の「文武両道」の藩主としての姿や、公家との積極的な交流に繋がったと推察されます。

定勝の幼少期は、江戸幕府の支配体制が確立していく時期と重なります。上杉家は関ヶ原の戦いを経て徳川家に従属した外様大名であり、幕府との関係構築は極めて重要でした。慶長11年(1606年)、定勝は数え年3歳で江戸へ移り住み、父・景勝が亡くなる元和9年(1623年)までの期間を江戸で過ごしました 3 。これは、江戸幕府が大名統制の一環として進めた参勤交代制度の初期の形態であり、大名の子弟が人質として、また教育を受けるために江戸に居住する慣行の現れと言えます。慶長15年(1610年)には、7歳で二代将軍・徳川秀忠に御目見し、「千徳」の名を授かっています 2 。これは、上杉家と徳川幕府との主従関係を早期に確認し、次代の当主を幕府の膝元で教育することで、幕藩体制下での上杉家の安泰を図るという戦略的な意味合いがあったと考えられます。幼少期からの江戸での生活は、定勝に幕府の権威を肌で感じさせ、後の藩主としての行動規範、すなわち幕府への忠誠や参勤交代の遵守といった意識を醸成する上で、重要な役割を果たしたのではないでしょうか。

定勝の家族構成を以下に示します。彼の個人的背景、特に養育環境や後継者、そして他家との姻戚関係は、彼の人間形成や藩の外交政策を理解する上で重要な要素となります。

表2:上杉定勝 家族構成

関係

氏名

備考

典拠例

上杉景勝

米沢藩初代藩主

2

桂岩院

四辻公遠の娘、定勝出産後早逝

2

養育者

直江兼続

上杉家執政

2

養育者

お船の方(直江兼続正室)

定勝の母代わりとして養育

2

正室

市姫

肥前佐賀藩主・鍋島勝茂の娘

2

側室

生善院

近衛家家司・斉藤本盛の娘

2

子(嫡男)

上杉綱勝

米沢藩三代藩主、母は生善院

2

子(女子)

徳姫(長松院)

加賀大聖寺藩主・前田利治正室、母は市姫

2

子(女子)

虎姫(柳線院)

肥前佐賀藩主・鍋島光茂正室、母は市姫

2

子(女子)

亀姫(法泉院)

加賀大聖寺新田藩主・前田利明正室

2

子(女子)

三姫

旗本・吉良義央正室、母は生善院

2

正室に佐賀藩の鍋島家から市姫を迎え、また娘たちが加賀前田家や佐賀鍋島家、さらには後に赤穂事件で知られることになる吉良義央に嫁いでいることは、当時の大名間の婚姻政策の一端を示しています。特に吉良家との姻戚関係は、後の米沢藩の歴史に大きな影響を与えることになります。

2.2. 家督相続と米沢藩主就任

元和9年(1623年)、父・上杉景勝が江戸で死去したことに伴い、定勝は20歳で家督を相続し、出羽米沢藩30万石の二代藩主となりました 1 。藩主就任後、定勝は従四位下に叙せられ、侍従兼弾正少弼に任じられています 6 。その後、弾正大弼、左近衛権少将などを歴任しました 2 。これらの官位は、外様大名である上杉家の当主として、幕府から一定の格式を認められていたことを示しています。

3. 米沢藩主としての治績

上杉定勝の藩主としての治績は、戦国時代の遺風が残る上杉家を近世的な藩体制へと移行させ、その後の米沢藩政の安定した基盤を築いた点に集約されます。父・景勝と直江兼続というカリスマ的な指導者の後を継いだ定勝は、藩政のシステム化と領内支配の強化に注力しました。

3.1. 藩政の転換と基盤整備

定勝の藩政における最も顕著な特徴の一つは、父・景勝時代の直江兼続による専制的な執政体制から、藩の直臣たちによる合議的な政治体制への移行です 3 。これは、特定の重臣への権力集中を避け、より安定した藩運営を目指すものであり、江戸幕府の支配体制が安定期に入る中で、持続可能な統治体制を構築しようとする時代的要請に応えるものでした。この「静かなる変革」とも言える体制転換は、その後の米沢藩政の基礎を形作る上で重要な意味を持ちました。

藩主就任後の最重要政策として挙げられるのが、寛永15年(1638年)に実施された領内総検地です 1 。この総検地は、単に税収を確保するという目的だけでなく、より広範な意義を持っていました。中世的な荘園制の名残を排し、行政単位としての村の範囲を確定(村切)し、各村の石高(村高)を決定することで、年貢や諸役賦課の基準を明確化しました 7 。これにより、村全体で年貢を納入する村請制(むらうけせい)が確立され、藩の財政基盤と農民支配が強化されることになります 7 。これは、戦国時代的な在地勢力の自律性を弱め、藩主を中心とした中央集権的な統治体制を確立する上で不可欠な措置でした。

また、この総検地は、直江兼続時代から進められてきた新田開発や治水事業の成果を背景に、藩の実質的な生産力を正確に把握するという目的も有していました。兼続の時代には、積極的な開発によって米沢藩の表高(幕府が公認した石高)30万石に対し、実高(実際の収穫高)は51万石にまで達したとされています 9 。定勝による総検地は、この増大した実態を藩の公式な把握下に置き、藩の収益を安定させる上で極めて重要でした。

米沢藩は地理的に盆地に位置し、米の大量輸送による江戸や大坂市場へのアクセスという点では不利な面がありました。そのため、江戸時代以前から漆や蝋(漆の実から採れる木蝋)、そして麻糸の原料となる青苧(あおそ、カラムシ)などが特産物として知られていました 11 。定勝の治世下での藩政の安定と財政基盤の整備は、これらの伝統的な特産物生産を奨励し、後の時代に米沢藩の経済を支えることになる養蚕・織物業発展の素地を作った可能性も考えられます。

3.2. 領内統治と法令

定勝は、藩内の秩序維持と藩士の意識改革にも取り組みました。特に注目されるのは、米沢藩士に対して発布した法令です。その内容は、「他家の風をまねすることなく、万事質素律儀を作法を旨とし、衣服は小袖上下や桐袴などは無用であり、もっぱら文武忠孝に励むこと」というものでした 2 。これは、華美を戒め、質実剛健な気風を藩内に醸成しようとするものであり、単なる倹約令を超えて、米沢藩士としての行動規範、さらにはアイデンティティを形成しようとする意図が読み取れます。上杉謙信以来の「義」の精神を、泰平の世における武士のあり方として再定義しようとした試みとも解釈できるでしょう。この法令が、約130年後の藩主・上杉治憲(鷹山)が初入国の際に発した「御条目」の添書として用いられたという事実は、定勝の理念が時代を超えて藩政改革の精神的支柱の一つとなり得たことを示しており、彼の先見性を示唆しています 2

また、定勝の藩政においては、江戸幕府の基本政策に呼応する形で、キリシタンの取締りが強化されました 3 。これは、幕藩体制下の大名としての務めを果たすという側面と、藩内の宗教的統一を図るという側面があったと考えられます。

さらに、米沢城内の整備や家臣団の再編成も行われました 3 。これらは、藩都としての城郭機能の向上と、新しい統治体制に対応した効率的な家臣団の構築を目指すものであったと推察されます。

3.3. 寛永年間の課題と対応

定勝の治世は比較的安定していましたが、当時の日本各地と同様に、自然災害やそれに伴う飢饉のリスクとは無縁ではありませんでした。市立米沢図書館デジタルライブラリーに所蔵されている『凶荒録』という史料には、米沢藩が飢饉に対応して通達した法令や関連記録が編集されており、その記述は寛永19年(1642年)、すなわち定勝の治世末期にあたる時期の通達から始まっています 12 。これは、定勝の治世においても飢饉が発生し、藩として対策を講じていたことを具体的に示唆しています。当時の日本では、天候不順による凶作や、それに伴う飢饉は頻繁に発生しており、領民の救済と食糧備蓄は藩主にとって極めて重要な課題でした 13 。具体的な対応策としては、他地域の事例を参考にすると、救恤米(きゅうじゅつまい)の支給や炊き出しなどが行われたと考えられます 14

また、米沢藩の安定した農業生産を支える上で欠かせなかったのが治水事業です。父・景勝の代に直江兼続が主導して行われた最上川水系、特に米沢盆地を流れる松川の治水事業は画期的なものでした。谷地川原堤防の建設や、通称「直江石堤」と呼ばれる石積みの堤防の構築などにより、米沢城下の洪水被害を防ぎ、同時に新田開発を大きく進展させました 15 。これらの大規模な土木事業の結果、米の生産量は増大し、前述の通り、定勝の時代には実高が大幅に増加したとされています 9 。定勝の治世においては、これらの兼続時代に築かれた治水インフラを適切に維持管理し、その効果を最大限に引き出すことが重要な課題であったと考えられます。

3.4. 他藩との関わりと領内問題への対処

江戸幕府の確立に伴い、各藩は幕府の指示のもと、他の藩との連携や問題処理にあたることも求められました。寛永20年(1643年)、隣接する会津藩の藩主・加藤明成が改易された際、定勝はその処理に関与しています 2 。これは幕府の指示によるものであり、30万石の大藩である米沢藩主としての役割を果たした事例と言えます。

領内においては、宗教勢力間の対立への対処も見られます。上杉氏の菩提寺である林泉寺と、かつて直江氏の菩提寺であった徳昌寺との間で、僧録(寺院や僧侶を統括する役職)の地位をめぐって争いが発生しました。その結果、定勝は徳昌寺を破却するという断固たる措置をとっています 2 。これは、藩内の宗教勢力間の秩序を維持し、藩主家の権威を明確に示すための判断であったと考えられます。

4. 文化的側面と人物像

上杉定勝は、藩政の安定に尽力した有能な統治者であっただけでなく、豊かな教養と温かい人間性を備えた人物であったことが、残された記録からうかがえます。

4.1. 文芸活動と教養

定勝は文芸面に優れた才能を発揮し、漢詩や和歌(特に連歌)などを多く残しています 3 。これは、彼の生母が公家の名門・四辻家の出身であること 2 や、幼少期から青年期にかけて江戸で生活し、当代一流の文化に触れる機会が多かったことなどが影響していると考えられます。

『上杉家御年譜』などの記録によれば、定勝は飛鳥井家、勧修寺家、高倉家といった京都の公家たちと頻繁に交流を持っていたことが確認できます 3 。これらの交流は、単なる儀礼的なものに留まらず、文化的な刺激を受け、自身の教養を深める上で重要な役割を果たしたでしょう。定勝の文化活動は、個人的な趣味の範囲を超えていた可能性も指摘できます。徳川幕府初期において、外様大名、特にかつて豊臣方に近かった上杉家のような大名にとって、武力だけでなく文化的な素養を示すことは、幕府や他藩に対して洗練されたイメージを与え、家の格を高める一種の「ソフトパワー」戦略であったとも考えられます。武力衝突が抑制された泰平の世においては、文化を通じた威信の保持が、大名の新たな生存戦略の一つとなっていたのかもしれません。

さらに注目すべきは、定勝が近侍の家臣たちに中国古典の内容を講義していたという記録です 3 。これは、彼が高い教養の持ち主であったことを示すと同時に、藩主自らが知的リーダーシップを発揮し、家臣の知的レベルの向上を図ろうとしていたことを示唆します。単に自身の学識を誇るのではなく、学問を藩内に奨励し、家臣団全体の質を高めることで、より高度な統治を目指したのではないでしょうか。これは、先に触れた法令 2 で示した「文武忠孝」の「文」の実践を、藩主自らが率先して促すものであったと言えるでしょう。

これらの事績は、定勝が武人としての資質だけでなく、文化人としても優れた「文武両道」の藩主であったことを明確に示しています 3

4.2. 家族への想い

厳格な武家の当主という側面だけでなく、定勝の人間味あふれる一面も記録に残されています。参勤交代制度により、定勝は米沢と江戸を定期的に往復する生活を送っていました。その際、江戸に残した子供たちの様子を案じ、家臣との書状のやり取りを通じて、その健康を気遣う文面が散見されます 18 。例えば、上杉定勝が江戸家老の千坂伊豆守高信に送った年不詳正月晦日付の書状 6 なども、彼の筆まめさや家臣との密なコミュニケーションを物語るものですが、子供たちへの配慮を示す手紙は、彼が情愛深い父親としての一面を持っていたことをうかがわせ、その人間性を垣間見ることができます。

5. 徳川幕府との関係

江戸時代初期の大名にとって、徳川幕府との関係は藩の存続と繁栄に直結する最重要課題でした。上杉定勝もまた、幕府との良好な関係を維持しつつ、藩の自立性を保つという難しい舵取りを迫られました。

幼少期の慶長15年(1610年)に二代将軍・徳川秀忠に御目見したこと 2 は、幕府との関係構築における最初の重要な一歩でした。藩主就任後も、江戸城への登城や将軍への拝謁は、幕藩体制下の大名としての基本的な務めであり、これを忠実に果たすことで幕府への恭順の意を示しました。

上杉家は、慶長8年(1603年)に徳川家康から江戸屋敷を拝領して以降、参勤交代を開始しています 3 。定勝も藩主として、一年おきに江戸と米沢を往復し、妻子を江戸屋敷に居住させることが義務付けられました 3 。参勤交代は、幕府による大名統制の根幹をなす制度であり、藩にとっては多大な経済的・人的負担を強いるものでした。しかし、この制度は負の側面ばかりではありませんでした。藩主や重臣が定期的に江戸に滞在することにより、幕府の政策や中央の最新情報を直接収集し、他藩の動向を把握する貴重な機会ともなりました。また、幕閣や他藩の有力者との人脈を構築し、藩の立場を有利にするための交渉を行う場としても機能しました。定勝が公家と活発に交流できたのも 3 、江戸滞在がその機会を増やした一因と考えられます。このように、参勤交代という制度を通じて、上杉家は幕藩体制に効果的に組み込まれつつも、情報網を駆使して自藩の立場を維持し、発展させるための努力を続けていたと推察されます。

6. 後世への影響と評価

上杉定勝の治世は、父・景勝や直江兼続のような華々しい武功や逸話に彩られているわけではありませんが、米沢藩の歴史において極めて重要な時期であったと評価できます。彼の行った諸政策は、戦国時代の動乱期から近世の安定期へと移行する中で、藩の体制を整え、その後の発展の礎を築きました。

定勝の藩政は、直江兼続によるある種専制的な執政体制から、藩の直臣たちによる合議制へと移行させ、より持続可能な統治システムを構築しました 3 。また、寛永15年(1638年)の総検地の実施は、藩の財政基盤を正確に把握し、安定化させる上で決定的な役割を果たしました 1 。さらに、藩士に対して質素倹約と文武忠孝を旨とする規範を示したことは 2 、藩士の意識改革を促し、藩の気風を引き締める効果があったと考えられます。これらの施策は、戦国時代の遺風が色濃く残る上杉家を、近世的な幕藩体制下の藩へと円滑に軟着陸させ、安定した統治を実現するための重要なステップであったと言えるでしょう。この「基礎固め」がなければ、後の時代に米沢藩が深刻な財政難に直面した際 11 、上杉鷹山が行ったような抜本的な改革はさらに困難を極めた可能性があります。定勝が整備した統治機構や、ある程度の藩士の規律があったからこそ、鷹山のリーダーシップが効果的に発揮され得たとも考えられます。

特に注目すべきは、定勝が発布した質素倹約や文武忠孝を旨とする法令が、約130年後の名君・上杉治憲(鷹山)による藩政改革の際に参照され、「御条目」の添書として用いられたという事実です 2 。これは、定勝の理念が時代を超えて米沢藩の精神的支柱の一つとして認識され、尊重されていたことを明確に示しています。鷹山の改革が「試行錯誤と努力の連続」であり、「学問に導かれ誠意に溢れた」ものであった 20 という評価は、定勝が目指した文武両道や質実剛健の精神と深く通底する部分があると言えるでしょう。この意味で、定勝の治績は、鷹山改革成功の遠因の一つとなった可能性も十分に考えられます。

しかしながら、歴史の皮肉として、定勝が築いた藩政の基礎や蓄積も、その後の出来事によって大きく揺らいだ側面も指摘しなければなりません。定勝の死後、跡を継いだ息子の綱勝の代で、上杉家は嗣子問題から石高を30万石から15万石に減封されるという大きな打撃を受けました 21 。さらに、綱勝の妹・三姫が嫁いだ吉良家(旗本・吉良義央)への多額な財政支援が、米沢藩の財政を著しく圧迫したとされています 22 。直江兼続時代からの努力で実質石高51万石とも言われた藩の豊かさ 9 も、これらの出来事によって損なわれたと考えられます。定勝の治世は比較的安定していましたが、その死後に生じたこれらの問題が、結果として後の上杉鷹山による大改革を必要とする深刻な状況を生み出す一因となったという点は、歴史の複雑な綾を示すものと言えるでしょう。

7. おわりに

上杉定勝は、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続といった、戦国時代を代表する偉大な先人たちの後を受け、戦国の動乱から泰平の世へと移行する困難な時代に、米沢藩の統治体制を近世的なものへと転換させ、その後の藩政の確固たる基礎を築いた、極めて重要な藩主であったと結論付けられます。

彼の行った総検地の実施、藩士への規範を示す法令の発布、そして合議制への政治体制の移行は、藩の安定と持続的な発展に不可欠なものでした。これらの政策は、一見地味ではありますが、時代の変化に対応し、藩組織を近代化していく上で、先見の明があったと言えるでしょう。また、武人としての資質を備えつつも、漢詩や和歌に通じ、公家とも交流を持つなど文武両道に秀で、さらには家族への温かい情愛を示す人間味あふれる一面も持ち合わせていた定勝の姿は、近世初期における大名の一つの理想像を示しているとも言えます。

その治績と理念は、直接的ではないにせよ、後の名君・上杉鷹山の藩政改革にも影響を与え、米沢藩の歴史において見過ごすことのできない確かな足跡を残しました。本報告書が、上杉定勝という人物とその時代への理解を深める一助となれば幸いです。

引用文献

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