本報告書は、戦国時代の越後国において守護の地位にあった上杉定実(うえすぎ さだざね、生年不詳 - 天文19年2月26日(1550年3月14日))の生涯と、彼をめぐる政治的動向、特に守護代長尾氏との関係や伊達氏との養子問題などを中心に、現存する史料に基づいて詳細に分析し、その歴史的意義を考察するものである。定実の時代は、室町幕府の権威が著しく低下し、各地で守護大名がその地位を脅かされ、家臣や国人による下剋上が頻発した戦国動乱期にあたる。越後国もその例外ではなく、守護上杉氏は守護代長옻氏の台頭により次第に実権を奪われていく過渡期にあった。上杉定実の生涯は、まさにこの時代の転換を象徴するものであったと言える。
上杉定実個人の事績は、長尾為景や後の上杉謙信といった著名な戦国武将の陰に隠れがちであるが、彼の存在と動向は、越後国における権力構造の変化、ひいては戦国大名長尾氏(後の上杉氏)の成立過程を理解する上で不可欠な要素である。また、伊達氏との養子問題は、奥羽地方の政情とも深く結びついており、当時の広域的な政治力学を読み解く上での重要な事例となる。
本報告書の巻末には、理解を助けるために「上杉定実関係主要人物一覧」および「上杉定実関連年表」を付す。これらは、本報告で詳述する複雑な人間関係や出来事の連続性を把握するための一助となるであろう。
上杉定実は、越後守護上杉房定の甥にあたるとされ 1 、より具体的には上杉房実の子であると記録されている 2 。彼は越後守護であった上杉房能(ふさよし)の養子となったとされるが 1 、この養子関係については確証がないとする見解も存在する 3 。文亀3年(1503年)に房能の養子になったとの記述もあり 2 、出自は上杉氏本流に近いものの、養子という形で家督継承の候補となったことは、彼の立場が当初から盤石ではなかった可能性を示唆している。
定実が守護職に就任した背景には、守護代長尾為景(ながお ためかげ)の台頭と、それに伴う越後国内の動乱、いわゆる永正の乱がある。永正3年(1506年)、為景の父である守護代長尾能景(よしかげ)が越中での戦いで戦死すると 4 、新たに守護代となった為景は、主君である守護上杉房能の統治方針に強く反発し、両者の対立は深刻化した 4 。永正4年(1507年)、為景は定実を擁して挙兵し、房能を急襲した。房能は敗れて関東へ逃れようとしたが、その途上で追手に包囲され自害に追い込まれた(天水越の合戦) 1 。これは守護代が守護を討つという、戦国時代を象徴する下剋上であった。
房能の死後、為景は定実を新たな越後守護として擁立し 1 、翌永正5年(1508年)11月には、定実は室町幕府から正式に越後守護として認められた 2 。しかし、この守護就任は定実自身の政治力や軍事力によるものではなく、完全に為景の画策によるものであった。この事実は、その後の定実と為景の力関係を決定づけ、定実が名目上の君主、為景が実質的な権力者という構造を生み出す端緒となった。為景にとって、房能の近親者である定実を擁立することは、自らの下剋上を糊塗し、国内の国人領主や関東管領上杉顕定(房能の実兄)からの反発を少しでも和らげるための大義名分として機能したと考えられる 4 。しかし、この行為は結果として、房能の実兄であり関東管領であった上杉顕定の強い反発を招き、顕定による大規模な越後侵攻を引き起こす直接的な要因となった 4 。定実の守護就任は、越後が外部勢力との深刻な対立に巻き込まれる運命の始まりでもあったのである。
上杉定実が越後守護に就任した後も、実権は一貫して守護代の長尾為景が掌握しており、定実は為景の傀儡に近い存在であった 2 。史料には、為景が実権を奪い「専制的な行政を行うようになった」との記述も見られ 6 、その権勢の強さがうかがえる。永正7年(1510年)、為景が関東管領上杉顕定を長森原の戦いで破り敗死させた際、定実は為景に協力し、その戦功を幕府に報告しているが 2 、これも実質的には為景の意向に従ったものと解釈される。守護という最高位にありながら、定実の権力基盤は極めて脆弱であり、擁立者である為景の意向に左右される状況であった。
しかし、定実も単に為景の専横に甘んじていたわけではなかった。永正10年(1513年)、定実は越後琵琶島城主の宇佐美房忠ら一部の国人領主と共に、長尾為景を排除しようと画策した 1 。この試みは、定実が守護としての権威を取り戻そうとする意志を持っていたことを示している。しかし、この計画は事前に露見し、逆に為景によって鎮圧され、定実は幽閉される結果となった 1 。この事件は、為景の権力確立における決定的な出来事となり、「定実の反抗を抑えて国政を完全に握った」と評されるように 5 、為景の支配体制はより強固なものとなり、定実の立場は一層弱体化した。
この定実による反抗の失敗後、為景は定実の権力をさらに制限し、越後の実質的な支配者としての地位を不動のものとした 2 。史料の中には、為景が「守護不在の状況をつくり一国を支配しようとした」と記すものもあり 5 、定実の守護としての権威が名目上も危うくなっていた可能性を示唆している。最終的に、為景は定実を隠居同然の状態に追い込んだとも考えられる 2 。為景は、主君殺しという下剋上を成し遂げた後、自らが擁立した守護をも抑え込み、守護代という立場を超えて国主としての権力を確立したのである。
この一連の出来事は、為景にとって定実の反抗が単なる「裏切り」ではなく、ある程度「想定内の抵抗」であり、むしろそれを制圧することで反為景勢力を一掃し、自らの権力基盤を強化する機会となった可能性を示している。定実の試みは、結果的に為景の支配体制を完成させるための最終段階として機能してしまったと言えるだろう。また、為景と定実のこのような関係性、すなわち「守護は名目、実権は守護代(あるいはその一族)」という統治構造は、為景の死後も越後の政治的常態となり、後の長尾景虎(上杉謙信)の権力掌握のあり方にも間接的な影響を与えた可能性が考えられる。景虎が兄・晴景に代わって国主となる際も、守護である定実の権威を一定程度利用しており 1 、為景が示した前例は、景虎が国内を統治する上での一つのモデルケースとなったかもしれない。
上杉定実には実子がおらず、後継者問題は越後上杉家にとって断絶にも繋がりかねない大きな課題であった 8 。この状況に着目したのが、奥羽の雄、伊達稙宗(だて たねむね)である。稙宗は、三男である伊達実元(さねもと、幼名:時宗丸)を定実の養子として送り込み、越後への影響力拡大を画策した 8 。この養子縁組の背景には、定実と伊達氏の間に複数の縁戚関係が存在したことがある。稙宗の母(実元の祖母)が越後上杉家の出身であった、あるいは実元の母が越後国人の有力者である中条藤資(なかじょう ふじすけ)の妹であったことなどが挙げられている 10 。また、永正7年(1510年)の上杉顕定との戦いにおいて、為景・定実が伊達氏に協力を要請した関係が、後の養子問題に繋がったとの指摘もある 4 。定実自身も、家が断絶するよりは伊達家の影響下に入る方が良いと考え、この申し出に前向きだったと伝えられている 8 。この養子縁組に際し、伊達氏の家紋「竹に雀」と名刀「宇佐美貞光」が実元に贈られた記録も残る 10 。
しかし、この養子計画は、伊達氏内部および越後国内に大きな波紋を広げることになる。天文11年(1542年)、伊達稙宗が越後に赴く実元に家中の精鋭100騎を随行させようとしたことが直接的な引き金となった 9 。これに対し、稙宗の嫡男・伊達晴宗(はるむね)が、伊達家の勢力が削がれることを恐れて強く反発。かねてより稙宗の集権的な政策に不満を抱いていた中野宗時・桑折景長ら重臣たちの支持も得て、父・稙宗を西山城に幽閉するという挙に出た 9 。これをきっかけに、伊達氏内部は稙宗方と晴宗方に分裂し、南奥羽全域を巻き込む大規模な内乱「天文の乱」(洞の乱とも)が勃発したのである 10 。この乱は天文17年(1548年)まで6年間に及び、伊達実元は父・稙宗方に属して戦ったものの、乱は晴宗方の勝利に終わり、実元も晴宗に降伏した 10 。
一方、越後国内においても、伊達氏からの養子受け入れに対しては強い反対の動きがあった。天文9年(1540年)には、この養子案に反対する揚北衆(あがきたしゅう)の本庄房長らが挙兵し、紛争へと発展していた 11 。当初この縁組を推進していたとされる長尾為景(あるいはその死後は子の晴景)も、伊達稙宗の軍事介入の動きを見て反対に転じたとされ、その方針は子の長尾晴景にも引き継がれた 11 。この「伊達時宗丸入嗣問題」は越後国内でも「享禄・天文の乱」と呼ばれる争乱を引き起こし、守護上杉定実、守護代長尾為景およびその子晴景の関係にも影響を与えた 14 。越後の国人領主たち、特に独立性の強い揚北衆などは、外部勢力である伊達氏の影響力が強まることを警戒し、養子縁組に反発したのである。中条藤資は、実元の母方の縁者でありながら、長尾氏を支持し定実に仕えたとされ 15 、複雑な立場にあったことがうかがえる。
最終的に、伊達天文の乱が晴宗方の勝利に終わったこと、そして越後国内でも入嗣反対派が抗争に勝利したことにより、伊達実元の上杉氏への養子入り計画は立ち消えとなった 10 。これにより、上杉定実の後継者問題は未解決のまま残され、越後守護上杉家の将来に暗い影を落とした。
この一連の養子問題は、定実が自らの家の存続を模索した主体的な行動の一端を示すものの 8 、結果として伊達家内部の深刻な分裂や越後国内の新たな内乱を誘発し 9 、彼自身にはこれらの広範な政治的波及をコントロールする力はなかったことを露呈した。また、伊達氏が天文の乱によって内部分裂し、越後への介入能力が著しく低下したことは、長尾氏にとって国内における主導権をさらに強化する好機となった可能性がある。実際に、長尾氏はこの混乱を「むしろ優位な状況で戦乱を収束させたとみられる」との研究もあり 14 、外部からもたらされた危機が、結果的に長尾氏の国内における覇権確立を一層促進したという側面も指摘できる。この問題の背景にある複雑な婚姻関係の存在 4 は、戦国時代の武家社会における同盟と対立の力学を如実に示している。
長尾為景の死後(天文11年(1542年)頃とされる 5 )、家督は嫡男の長尾晴景(はるかげ)が継いだ 6 。しかし、晴景は病弱であったと伝えられ 6 、その指導力に疑問を呈する者も少なくなかった 6 。為景というカリスマ的な指導者の死は、長尾家の統制力に一時的な空白を生じさせ、越後国内では為景が抑え込んできた国人領主たちの間で再び不穏な動きが見られ、晴景の統治は必ずしも安定していなかった 6 。
このような状況下で、晴景の統治能力への不満や、弟である長尾景虎(かげとら、後の上杉謙信)の武勇と台頭(14歳で初陣を飾るなど若くして軍事的才能を示した 6 )を背景に、兄弟間に対立が生じた 1 。この内乱状態を鎮められなかった晴景に代わって景虎が頭角を現すと、兄弟間の不和は深刻化し、越後国内は分裂の危機に瀕した 2 。
この長尾兄弟の争いを調停し、事態の収拾に重要な役割を果たしたのが、守護である上杉定実であった 1 。長尾為景によって実権を奪われ、傀儡に近い存在となっていた定実であったが、長尾家の内紛という状況下において、再びその「守護」としての権威が一定の役割を果たすことになったのである。研究によれば、長尾景虎は黒田秀忠との対立などを経て、越後守護上杉定実を背景に兄晴景から家督を譲渡させたと指摘されており 14 、定実が単なる受動的な仲介者ではなく、景虎の家督継承にある程度積極的に関与した可能性が示唆される。さらに、定実は単なる仲介者ではなく、対立した晴景を排除するために景虎擁立を画策した中心人物の一人とする見方も存在する 3 。
定実の調停(あるいは積極的な関与)の結果、景虎が兄晴景に代わって春日山城主となり、越後の国主としての地位を確立した 1 。景虎自身も、守護・上杉定実から討伐の同意を得ていることを強調しており 16 、これは定実の権威を利用して自らの行動を正当化しようとしたものと考えられる。定実は晩年、出家して玄清と名乗ったとされている 3 。
定実のこの行動は、越後の安定を希求する最後の「守護」としての役割意識と、景虎の台頭という現実的な判断が結びついた結果であった可能性がある。晴景の病弱さと統率力の欠如 6 に対し、景虎は若くしてその能力を示しており 6 、定実にとって、長尾家が分裂し内乱が長期化することを避けるためには、より強力な指導者として景虎に期待をかけることは合理的な選択であったかもしれない。自身の権威を利用して景虎を後押しすることは、定実にとって越後の秩序回復と、自らが擁立に関わった長尾家(ひいては越後)の将来を安定させるための、最後の主体的な政治判断だったとも解釈できる。この定実の支持は、景虎が兄から実力で家督を奪う形に近い権力移行の正当性を補強する上で、極めて重要な意味を持ったのである。
上杉定実は天文19年2月26日(グレゴリオ暦1550年3月14日)に死去した 1 。法号は永徳院天仲玄清と伝えられている 2 。その死因は病死であったとされる 3 。定実の死は、長尾景虎が越後の実権を掌握し、新たな時代が始まろうとするまさにその時期に訪れた。
定実には実子がおらず、先に触れた伊達実元の養子縁組も頓挫したため、彼の死をもって越後における守護上杉家は断絶した 2 。これは、越後の歴史における一つの時代の終わりを象徴する出来事であった。定実の死後、跡継ぎのいない越後守護家は断絶し、室町幕府13代将軍・足利義輝の命令により、長尾景虎が越後守護を代行することになったと記録されている 3 。
定実の死とそれに伴う越後守護家の断絶は、名実ともに越後における支配権が長尾氏、すなわち長尾景虎へと移行したことを象徴するものであった。これにより、守護代が守護の権能を代行し、やがてはその名跡すら継承するという、戦国時代における権力移行の一つのパターンが越後においても完成したと言える。
定実の死は、長尾景虎(後の上杉謙信)が名実ともに越後の支配者となるための最後の形式的な障害を取り除いたと見ることができる。定実が存命である限り、景虎はあくまで守護の家臣(あるいは守護代行)という立場であったが、定実の死によって越後守護職は空位となり、守護上杉家は名実ともに消滅した 2 。これにより、景虎は幕府の承認を得て守護代行となり 3 、事実上の国主としての地位を公的にも追認された。さらに後年、景虎が関東管領上杉憲政から上杉の氏と関東管領職を譲り受ける際、越後守護上杉家が既に断絶していたことは、景虎が新たな「上杉氏」の当主として越後及び関東に君臨する上で、旧守護家の存在を考慮する必要がないという状況を作り出した。皮肉にも、定実の死は景虎による「上杉氏」の継承とその後の飛躍を円滑にする地ならしとなったのである。
また、越後守護上杉家の断絶は、室町幕府の地方支配システムが越後において完全に終焉したことを意味する。守護職は元来、室町幕府が地方統治のために任命する役職であったが、定実の代には既にその権威は形骸化し、守護代長尾氏によって実権は奪われていた。それでも名目上の守護は存在し続けたが、定実の死による守護家の断絶は 2 、この名目上の繋がりすらも断ち切ったことを意味する。その後の長尾景虎の守護代行任命も 3 、実力者である景虎を幕府が追認したに過ぎず、幕府が主体的に越後の統治に関与する力はもはや失われていた。これは、越後が完全に自立した戦国大名領国へと移行したことを示す画期的な出来事であり、中央権力の後退と地方分権化という戦国時代の大きな流れを象徴している。
上杉定実は、戦国初期の越後において、守護という伝統的権威の象徴でありながら、守護代長尾為景の台頭と下剋上の波に翻弄され、実権を失った人物であった。彼の生涯は、擁立、傀儡化、権力回復の試みとその失敗、そして後継者問題による家の断絶という、時代の大きな転換期に生きた名目上の支配者の典型的な軌跡を辿ったと言える。
しかし、定実は完全に無力な存在であったわけではない。伊達実元養子問題においては、家の存続をかけて外部勢力との連携を試み 8 、長尾晴景・景虎兄弟の家督争いにおいては、その守護としての立場から調停役として一定の役割を果たし 1 、結果的に後の上杉謙信の登場に道を開くなど、歴史の節目において間接的ながらも影響を及ぼした。
定実の歴史的評価は、彼自身の主体的な業績よりも、彼を取り巻く長尾為景や上杉謙信といった傑出した人物たちの行動の文脈の中で語られることが多い。彼は、室町時代的な守護体制が崩壊し、実力主義の戦国時代へと移行する過渡期における、旧体制の最後の代表者の一人として位置づけられる。彼の存在と終焉は、越後における守護権威の失墜と、戦国大名長尾氏(後の上杉氏)による新たな支配体制の確立を象徴するものであり、越後が戦国動乱の主要な舞台の一つとなる前史を構成する上で重要な意味を持つ。
上杉定実は、ある側面では「受動的な時代の犠牲者」であったと言える。多くの場合、長尾為景の意向に左右され 6 、伊達実元養子問題では外部の力学に翻弄された 9 。しかし同時に、その存在自体が越後の権力構造転換の「触媒」として機能した側面も否定できない。彼が「守護」という名目上の最高権威者であったからこそ、長尾為景は彼を擁立する必要があり 1 、その後の権力闘争も守護の権威をめぐって展開された。後継者がいなかったという事実が伊達氏の介入を招き 8 、それが天文の乱や越後の内乱に繋がった 9 。長尾兄弟の争いでは、彼の「守護」としての立場が調停の根拠となり、景虎の台頭を助けた 1 。つまり、彼の存在、彼の状況(後継者不在)、彼の立場(守護)そのものが、周囲の人物たちの行動を引き出し、結果として越後の政治状況を大きく動かす触媒として作用したのである。
定実の生涯はまた、戦国時代における「権威」と「実力」の乖離、そして最終的に実力が権威をも取り込んでいく過程を如実に示している。定実は越後守護という最高の「権威」を持っていたが、実際の「実力」は守護代長尾為景が掌握し、定実の権威は名目的なものとなった 5 。これが権威と実力の乖離である。為景は、定実の権威を利用しつつ、自らの実力基盤を固めていった。最終的に定実が死去し守護家が断絶すると 2 、実力者である長尾景虎がその地位を継承し(守護代行を経て、後に上杉の名跡を継承)、権威と実力が新たな形で統合される。この過程は、日本各地で見られた戦国時代特有の現象であり、定実の生涯は越後におけるその典型例として、歴史的に非常に興味深い事例と言えるだろう。
巻末資料
1. 上杉定実関係主要人物一覧
人物名 |
フリガナ |
定実との関係性 |
備考 |
上杉房能(ふさよし) |
うえすぎ ふさよし |
養父(とされる)、越後守護(定実の前代) |
長尾為景により打倒される 1 。 |
長尾為景(ためかげ) |
ながお ためかげ |
定実の擁立者、守護代、後に定実と対立し実権を掌握 |
上杉謙信の父。越後の戦国大名化の基礎を築く 1 。 |
長尾晴景(はるかげ) |
ながお はるかげ |
為景の嫡男、定実の被後見者(守護代)、景虎の兄 |
病弱であったとされ、弟の景虎と対立 6 。 |
長尾景虎(かげとら) |
ながお かげとら |
為景の子、晴景の弟、後の上杉謙信。定実の調停(または画策)により家督を継承 |
定実の死後、越後国主としての地位を確立 1 。 |
伊達稙宗(たねむね) |
だて たねむね |
奥州の戦国大名。三男・実元を定実の養子にしようと画策 |
この養子問題が天文の乱の一因となる 8 。 |
伊達実元(さねもと) |
だて さねもと |
稙宗の三男、定実の養子候補(時宗丸) |
養子縁組は天文の乱と越後国内の反対により頓挫 3 。 |
上杉顕定(あきさだ) |
うえすぎ あきさだ |
関東管領、房能の実兄 |
弟・房能の仇として為景と敵対し、越後に侵攻するも敗死 4 。 |
宇佐美房忠(ふさただ) |
うさみ ふさただ |
越後琵琶島城主。定実と共に為景排除を試みるも失敗 |
定実の反為景活動に同調した国人 1 。 |
中条藤資(ふじすけ) |
なかじょう ふじすけ |
越後の有力国人(揚北衆)。伊達実元の母の縁者(実元の母が藤資の妹)とされるが長尾氏を支持 |
伊達氏との養子問題では複雑な立場にあったが、長尾方として活動 10 。 |
本庄房長(ふさなが) |
ほんじょう ふさなが |
越後の有力国人(揚北衆)。伊達実元の養子縁組に反対し挙兵 |
越後国内における養子問題反対派の代表格 11 。 |
2. 上杉定実関連年表
年代 |
主な出来事 |
関連人物・事項 |
典拠 |
生年不詳 |
上杉定実、生まれる。 |
上杉房実の子、房定の甥 |
1 |
文亀3年(1503年) |
上杉房能の養子となる(とされる)。 |
上杉房能 |
2 |
永正3年(1506年) |
長尾能景(為景の父)戦死。長尾為景が越後守護代を継承。 |
長尾能景、長尾為景 |
4 |
永正4年(1507年) |
長尾為景、上杉房能を追放し自害させる(天水越の合戦)。上杉定実を新守護として擁立。 |
長尾為景、上杉房能 |
1 |
永正5年(1508年) |
定実、室町幕府より越後守護に正式任官。 |
室町幕府 |
2 |
永正6年(1509年) |
関東管領上杉顕定、為景討伐のため越後に侵攻。 |
上杉顕定、長尾為景 |
4 |
永正7年(1510年) |
長尾為景、上杉顕定を長森原の戦いで破り敗死させる。 |
長尾為景、上杉顕定 |
2 |
永正10年(1513年) |
定実、宇佐美房忠らと長尾為景排除を試みるも失敗し幽閉される。 |
宇佐美房忠、長尾為景 |
1 |
天文年間初頭 |
伊達稙宗、三男・実元(時宗丸)を定実の養子とする計画を進める。 |
伊達稙宗、伊達実元 |
8 |
天文9年(1540年) |
越後で本庄房長ら揚北衆が伊達実元養子縁組に反対し挙兵(越後享禄・天文の乱の一端)。 |
本庄房長、伊達実元 |
11 |
天文10年頃(1541年頃) |
長尾為景死去(没年には諸説あり、天文5年(1536年)説、天文11年(1542年)説など)。長尾晴景が家督相続。 |
長尾為景、長尾晴景 |
5 |
天文11年(1542年) |
伊達稙宗の実元越後派遣計画が伊達氏内紛(天文の乱)の引き金となる。 |
伊達稙宗、伊達晴宗、伊達実元 |
9 |
天文11年~17年(1542~48年) |
奥羽で天文の乱。伊達実元の養子縁組計画は頓挫。 |
伊達氏 |
10 |
天文17年頃(1548年頃) |
長尾晴景と弟・景虎の対立激化。定実が調停し、景虎が長尾家の家督を継承し春日山城主となる。 |
長尾晴景、長尾景虎(上杉謙信) |
1 |
天文19年(1550年)2月26日 |
上杉定実、死去。これにより越後守護上杉家は断絶。法号:永徳院天仲玄清。 |
|
1 |
天文21年(1552年) |
長尾景虎、室町幕府13代将軍・足利義輝の命令で越後守護を代行(守護代行)。 |
長尾景虎、足利義輝 |
3 |