本報告書は、戦国時代の武将であり、扇谷上杉家最後の当主となった上杉朝定(うえすぎ ともさだ)に焦点を当てる。その短い生涯、当時の関東地方における扇谷上杉家の置かれた立場、特に新興勢力である後北条氏との興亡、そして扇谷上杉家が滅亡に至る過程を、現存する史料に基づいて詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とする。
扇谷上杉家は、室町時代に関東管領を世襲した山内上杉家と並び、関東に大きな勢力基盤を有した名門であった 1 。武蔵国を主な活動領域とし、特に河越城を本拠地として、南関東に影響力を及ぼしていた 1 。しかしながら、上杉朝定が家督を継承した16世紀前半には、相模国から急速に勢力を拡大してきた後北条氏の圧迫を受け、その勢力は著しく衰退しつつあった。この名門としての伝統的権威と、後北条氏の現実的な武力・戦略によって侵食されていく領国という厳しい現実との乖離は、若き当主朝定の悲劇性を際立たせる要因の一つであったと言えよう。
なお、上杉氏には同姓同名の人物や、時代を近接して活躍した名のある武将が複数存在する。例えば、扇谷上杉家では上杉定正(1443年 - 1494年)などが知られている 2 。本報告書で対象とする上杉朝定は、大永5年(1525年)に生まれ、天文15年(1546年)に没した、修理大夫を称した人物であることを冒頭に明記しておく 4 。扇谷上杉家の衰退と滅亡は、単に一家の歴史的終焉に留まらず、関東全体の勢力図に連鎖的な影響を及ぼし、新たな時代の到来を告げるものであった。
上杉朝定は、大永5年(1525年)、扇谷上杉家当主であった上杉朝興(ともおき)の子として生を受けた 4 。幼名は五郎と伝えられている 4 。朝定が歴史の表舞台に登場する以前、父・朝興の時代から、扇谷上杉家は深刻な危機に直面していた。後北条氏(当時は伊勢氏を称し、後に北条氏綱が初代となる)の武蔵国への侵攻が激化し、大永4年(1524年)には、扇谷上杉家の重要な拠点であった江戸城(現在の東京)から、武蔵国の中心部に位置する河越城(現在の埼玉県川越市)へと本拠地を移さざるを得ない状況に追い込まれていた 1 。
この苦境にあって、朝興は甲斐国(現在の山梨県)の武田信虎と同盟を結び、後北条氏の勢力拡大に対抗しようと試みた 1 。天文2年(1533年)には、朝興の娘が武田信虎の嫡男である晴信(後の武田信玄)に嫁いでおり、この婚姻同盟は扇谷上杉家にとって重要な外交戦略の一環であった 1 。しかし、この同盟関係も長くは続かなかった。
天文6年(1537年)4月、父・上杉朝興が死去する 1 。これにより、朝定はわずか13歳(数え年)という若さで家督を相続し、扇谷上杉家の当主となった 4 。若年の朝定が相続した扇谷上杉家は、既に後北条氏の圧迫によって勢力を大きく削がれた状態であり、父の死は後北条氏にとって更なる攻勢をかける絶好の機会と映ったであろう 5 。事実、朝興の死の翌年である天文7年(1538年)には、かつての同盟相手であった武田信虎が後北条氏と和睦し、扇谷上杉家との同盟から離反してしまう 1 。この武田氏の離反は、単に軍事的な後ろ盾を失っただけでなく、関東における扇谷上杉家の外交的影響力の低下を象徴する出来事であり、朝定の立場を一層困難なものにした。
このような状況下で、朝定は後北条氏の脅威に対抗するため、武蔵府中(現在の東京都府中市)と深大寺(現在の東京都調布市)の地に深大寺城を新たに築いたとされている 4 。これは、本拠地であった河越城方面への圧力を少しでも軽減し、新たな防衛線を構築しようとする試みであったと考えられるが、13歳という若さで巨大な敵に立ち向かわなければならなかった朝定の苦悩は察するに余りある。この時期の朝定の意思決定には、難波田憲重をはじめとする宿老たちの補佐が不可欠であったことは想像に難くない。扇谷上杉家の弱体化は、同じく後北条氏と対立していた山内上杉家にとっても座視できない問題であり、後の両上杉家の連携へと繋がる遠因ともなった。
表1:上杉朝定 関連年表
年代 (西暦) |
和暦 |
主要な出来事 |
関連勢力の動向 |
典拠 |
1525年 |
大永5年 |
上杉朝定、扇谷上杉朝興の子として誕生。幼名五郎。 |
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4 |
1524年 |
大永4年 |
父・朝興、後北条氏の圧迫により江戸城から河越城へ本拠を移す。 |
後北条氏、武蔵への侵攻を開始。 |
1 |
1533年 |
天文2年 |
父・朝興、武田信虎の嫡男・晴信(後の信玄)に娘を嫁がせ同盟。 |
武田信虎、後北条氏と対立。 |
1 |
1537年4月 |
天文6年4月 |
父・上杉朝興死去。朝定、13歳で家督相続。 |
|
4 |
1537年7月 |
天文6年7月 |
北条氏綱、入間郡三木で朝定軍を破り、河越城を占拠。朝定は松山城へ逃れる。 |
北条氏綱、朝定の家督相続を機に攻勢。 |
5 , S10 |
1538年 |
天文7年 |
武田信虎、後北条氏と和睦し、扇谷上杉家との同盟を破棄。 |
扇谷上杉家、外交的に孤立。 |
1 |
(時期不詳) |
天文年間初期 |
朝定、後北条氏に対抗するため武蔵府中に深大寺城を築城。 |
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4 |
1541年7月 |
天文10年7月 |
北条氏綱死去、北条氏康が家督相続。 |
|
5 |
1541年10月-11月 |
天文10年10-11月 |
朝定、河越城奪還のため攻撃を仕掛けるが失敗。 |
北条氏康、籠城戦でこれを退ける。 |
5 , S26 |
(時期不詳) |
天文年間 |
朝定、山内上杉憲政と和解。 |
両上杉家、対後北条氏で協調へ。 |
1 |
1545年9-10月 |
天文14年9-10月 |
朝定、山内上杉憲政、古河公方足利晴氏と連合し、約8万の大軍で河越城を包囲。 |
北条綱成、約3千で河越城に籠城。 |
7 , S10 |
1546年4月20日 |
天文15年4月20日 |
河越夜戦。北条氏康の奇襲により連合軍大敗。上杉朝定戦死(享年22)。扇谷上杉家、事実上滅亡。 |
北条氏康、約8千の寡兵で勝利。関東の覇権を確立。 |
4 , S10 |
上杉朝定の家督相続は、扇谷上杉家にとってさらなる苦難の始まりであった。天文6年(1537年)4月に父・朝興が没すると、後北条氏当主の北条氏綱は、この機を逃さず扇谷上杉家への攻勢を強めた 5 。同年7月11日、氏綱は軍勢を率いて武蔵国入間郡三木(現在の埼玉県狭山市)において朝定軍を破り、ついに扇谷上杉家の本拠地であった河越城を占拠するに至った 5 。本拠地の失陥は、扇谷上杉家にとって経済的基盤、軍事的拠点、そして何よりも権威の象徴を同時に失うことを意味し、その打撃は計り知れないものであった。
河越城を追われた朝定は、比企郡吉見町に位置する松山城へと敗走した。氏綱は勢いに乗って松山城にも攻撃を仕掛けたが、この時は上杉方の松山城将であった難波田善銀(よしかね、後の憲重)の奮戦により、かろうじて陥落を免れた 5 。朝定は一時的にこの松山城に難波田憲重を頼り、再起の機会を窺うこととなる 6 。一方、河越城を掌握した北条氏綱は、その支配を確固たるものとするため、子息である北条為昌(ためまさ)、後には養子とした北条綱成(つなしげ)を城代として配置し、武蔵国支配の重要拠点として整備を進めた 5 。
本拠地を失った上杉朝定であったが、失地回復への執念は持ち続けていた。天文10年(1541年)に北条氏綱が病死し、その子・北条氏康が家督を継ぐと、朝定はこの代替わりを好機と捉え、間もなく河越城への攻撃を敢行した記録が残っている 5 。しかし、この攻撃は氏康の巧みな防衛によって失敗に終わり、朝定の抵抗の意思は示されたものの、後北条氏の支配体制の堅固さを改めて認識させる結果となった。
単独での後北条氏への対抗が困難であることを痛感した朝定は、新たな戦略を模索する。それは、父・朝興の時代には必ずしも良好な関係ではなかった関東管領・山内上杉憲政(のりまさ)との和解であった 1 。共通の敵である後北条氏に対抗するためには、かつての確執を乗り越えて連携する必要があるとの判断に至ったのである。さらに、下総国古河(現在の茨城県古河市)を本拠とする古河公方・足利晴氏(はるうじ)の支持を取り付け、反後北条連合の形成を目指した 5 。古河公方の権威を前面に押し出すことで、後北条氏討伐の大義名分を得ようとしたと考えられる。この一連の動きは、扇谷上杉家単独では後北条氏に対抗できないという厳しい現実認識に基づいた、当時の状況下では合理的な戦略であったと言える。しかし、それは同時に、扇谷上杉家が連合の中で主導的な立場を失い、相対的な地位が低下したことをも意味していた。この連合形成の動き自体が、後北条氏の強大化を何よりも雄弁に物語っている。
上杉朝定が山内上杉憲政、古河公方足利晴氏らと結んだ反後北条連合は、ついに決戦の時を迎える。天文14年(1545年)9月 7 、あるいは10月頃 5 、関東管領・山内上杉憲政を総大将とし、扇谷上杉朝定、そして古河公方・足利晴氏を加えた連合軍は、後北条氏の重要拠点である河越城を包囲した。この連合軍の兵力については、『北条記』や『関八州古戦録』といった後世の軍記物によれば約8万騎に達したとされ 7 、誇張が含まれている可能性も指摘されるものの、河越城を守る北条綱成の兵力がわずか3,000であったこと 7 を考慮すれば、圧倒的な兵力差であったことは疑いない。北条綱成は野戦での勝機なしと判断し、籠城策を選択した 7 。
連合軍は、この兵力差を背景に、長期の包囲による兵糧攻め、あるいは力押しによる城の攻略を意図していたと考えられる。一方、後北条氏当主の北条氏康は、当時、駿河国(現在の静岡県中部・東部)で今川義元との間に戦線を抱えており(河東の乱)、すぐには河越城の救援に向かうことができない状況にあった 8 。
しかし、天文15年(1546年)4月、氏康は今川氏との和睦を一時的に成立させると、約8,000の兵を率いて河越城救援へと急行した。氏康は、自軍の兵力が連合軍に比べて著しく劣ることを認識しており、正攻法では勝機がないと判断。そこで氏康は、連合軍に対して和睦を申し入れると見せかけて油断を誘い、奇襲攻撃を仕掛けるという大胆な策を用いた 9 。連合軍の諸将は、氏康からの和睦の申し出や、氏康が戦意を喪失したかのような噂に接し、勝利を確信して警戒を緩めたとされる。
そして、天文15年4月20日(1546年5月19日)の夜半 4 、世に名高い「河越夜戦」の火蓋が切られた。後世の軍記物によれば、氏康は兵士たちに音を立てさせないよう細心の注意を払わせ、鎧兜の金属音を防ぐために布を巻かせたり、馬の蹄に藁を履かせたりした上で、夜陰に紛れて油断しきっていた連合軍の本陣に迫ったと伝えられる。
不意を突かれた連合軍は大混乱に陥り、組織的な抵抗もままならないまま潰走を始めた。さらに、城内で好機を待っていた北条綱成も城から打って出て、内外から連合軍を挟撃したとされ、連合軍の崩壊は決定的となった。この乱戦の中で、扇谷上杉家当主・上杉朝定は奮戦空しく討死を遂げた。享年22(数え年)という若さであった。総大将の山内上杉憲政は上野国(現在の群馬県)の平井城へ、古河公方足利晴氏は本拠地である古河城へと敗走し、連合軍の損害は甚大を極め、一説には1万3千人以上が討死したとも伝えられている。
この河越夜戦における壊滅的な敗北により、扇谷上杉家は当主を失い、組織的な抵抗力を完全に喪失。事実上の滅亡に至った 10 。
河越夜戦の劇的な展開、特に北条氏康の寡兵による大軍撃破という筋書きは、主に江戸時代に成立した『北条記』や『関八州古戦録』といった軍記物によって広く知られるようになったものである。しかし、近年の歴史学研究においては、伝えられるような大規模な夜戦の実在性や、兵力差の正確性、具体的な戦術の詳細について疑問も提示されている。複数の小規模な戦闘の総称であった可能性や、後世の創作・脚色が多く含まれている可能性も否定できない。
とはいえ、この戦いの結果として、両上杉氏と古河公方が連合して臨んだにもかかわらず後北条氏に大敗を喫し、後北条氏が関東における覇権を確立する上で決定的な画期となったという歴史的意義は揺るがない。この戦いは、単に一つの合戦の勝敗に留まらず、関東における室町時代以来の旧体制(関東管領・古河公方体制)の終焉と、戦国大名による新たな支配体制の確立を決定づけた戦いであったと言える。
表2:河越夜戦における主要関係勢力と推定兵力・指揮官
勢力 |
主要指揮官 |
推定兵力(諸説あり) |
典拠(兵力) |
連合軍(包囲側) |
|
約80,000 - 86,000 |
7 , S26 (『北条記』等) |
扇谷上杉軍 |
上杉朝定 (†) |
(連合軍内数、詳細不明) |
|
山内上杉軍 |
上杉憲政 |
(連合軍内数、詳細不明) |
|
古河公方軍 |
足利晴氏 |
(連合軍内数、詳細不明) |
|
後北条軍 |
|
|
|
河越城救援軍(城外) |
北条氏康 |
約8,000 |
S10, S14, S26 |
河越城守備軍(城内) |
北条綱成 |
約3,000 |
7 |
注: 連合軍の総兵力は後世の軍記物に拠るものであり、実数はより少なかった可能性も指摘されている。
劣勢に立たされた扇谷上杉家と若き当主・上杉朝定を支えた家臣たちの中で、特に重要な役割を果たした人物として、難波田憲重(なんばた のりしげ)と太田資正(おおた すけまさ)の名を挙げることができる。
難波田憲重(善銀)
難波田憲重は、扇谷上杉家の重臣であり、松山城主および深大寺城主を務めた武将である 6 。史料によっては難波田弾正少弼とも記される。初名は正直(まさなお)と推定され、後に主君筋にあたる山内上杉憲政から偏諱(へんき、諱の一字を与えること)を受けて憲重と名乗ったとされる説がある。また、善銀(ぜんぎん)という法名、あるいは別名も伝えられている 6 。
憲重の活躍が顕著になるのは、天文6年(1537年)に上杉朝定が北条氏綱によって本拠地・河越城を奪われた際である。この時、憲重は朝定を自身の居城である松山城に迎え入れ、後北条氏との抗戦を続けた 5 。まさに扇谷上杉家の勢力挽回に尽力した中心人物の一人であり、朝定にとって最も頼りになる存在であった。天文10年(1541年)、北条氏綱が死去し氏康が後を継ぐと、憲重はこの機に乗じて河越城攻略を試みるが、氏康の堅固な守りの前に阻まれた 6 。その後、憲重は単独での勢力回復の困難さを悟り、関東管領である山内上杉憲政に救援を要請し、両上杉氏と古河公方による反後北条連合軍の形成に大きく貢献した 6 。『加沢記』には、信濃の村上義清に追われた真田幸隆(幸綱)が上杉憲政を頼って平井城を訪れた際、憲政の傍らに控える諸将の中に「難波田弾正少弼」の名が見え、当時の憲重が山内上杉家からも重んじられていた様子が窺える 6 。
しかし、その奮闘も虚しく、天文15年(1546年)の河越夜戦において、憲重は討死を遂げたとされる。一説には、乱戦の中で古井戸に馬ごと転落して最期を迎えたとも伝えられている 6 。彼の死は、扇谷上杉家にとって戦略的にも精神的にも大きな痛手であり、その後の同家の急速な崩壊を決定づけた要因の一つとなった。また、憲重は武勇だけでなく、和歌を通じた戦いの逸話である「松山城風流合戦」が伝えられるなど、文化人としての一面も持ち合わせていた 6 。
太田資正
太田資正は、扇谷上杉家の家臣であった太田資頼(すけより)の子として生まれた。太田氏は、江戸城を築城した太田道灌を輩出した名門であり、代々扇谷上杉家に仕えていた。資正も当初は父や兄・資顕(すけあき)と共に扇谷上杉氏に仕えていた。
父・資頼の死後、兄の資顕が家督を継いだが、資正は資顕と不仲であったため、本拠の岩付城を出て、舅にあたる難波田憲重が城主を務める松山城に身を寄せていたとされている。この時期、資正は上杉朝定や舅の憲重と共に、後北条氏との戦いに深く関わっていたと考えられる。河越夜戦にも参戦し、扇谷上杉方が敗北を喫した際に、舅の難波田憲重も戦死している。
上杉朝定の死と扇谷上杉家の事実上の滅亡後、太田資正の生涯は大きく揺れ動く。一時的に後北条氏に従属するも、後に離反して上杉謙信に仕え、さらに佐竹義重の元に身を寄せるなど、激動の戦国時代を生き抜いた。主家滅亡後、新たな主君を求めて流転するその姿は、戦国武将が家の存続と自らの武名を賭けて生き残りを図った典型例と言える。また、難波田憲重の婿養子として、一時的に難波田氏の家督を継承した時期もあったとされている 6 。
これら主要な家臣の他にも、上杉朝定を支えた武将たちがいたと考えられるが、史料的な裏付けが乏しい人物も多く、その詳細は不明な点が多い。例えば、 11 で言及される上杉義勝や難波田定重(憲重の子)といった人物は、創作物における描写や断片的な情報に基づいており、その実在性や具体的な活動については慎重な検討が必要である。劣勢の扇谷上杉家にとって、難波田憲重のような忠臣の存在は最後の支えであったが、彼らの奮戦も、時代の大きな趨勢や後北条氏の圧倒的な力の前に、最終的には及ばなかった。
上杉朝定の戦死とそれに伴う扇谷上杉家の事実上の滅亡は、単に一つの大名家の終焉に留まらず、関東地方の勢力図を一変させ、その後の歴史に大きな影響を与えた。
関東における勢力図の激変
河越夜戦における扇谷上杉家の壊滅的な敗北は、関東地方のパワーバランスを劇的に変化させた 10 。長年にわたり関東に大きな影響力を保持してきた名門・扇谷上杉氏が歴史の表舞台から姿を消したことで、特に武蔵国における後北条氏の支配は決定的なものとなった 10 。扇谷上杉家という「防波堤」が失われたことにより、後北条氏の勢力拡大は一層加速することになる。
また、この戦いで共に大敗を喫した山内上杉氏も、その勢力を著しく低下させた。関東管領であった上杉憲政は、本拠地である上野国平井城からも追われ、越後国(現在の新潟県)の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びることを余儀なくされた。これは、後の上杉謙信による関東出兵の直接的な原因の一つとなり、関東の戦乱をさらに複雑化させる要因となった。
後北条氏の覇権確立
河越夜戦の勝利は、北条氏康の名声を不動のものとし、後北条氏が関東の覇者としての地位を確立する上で、極めて重要な画期となった 7 。この戦いを経て、後北条氏は武蔵・相模を確固たる基盤とし、上野、下総(現在の千葉県北部・茨城県南西部)、常陸(現在の茨城県の大部分)など関東一円へとその勢力を拡大していくことになる。
室町時代的権威の失墜
扇谷・山内両上杉氏の敗北、そして彼らが擁立した古河公方足利晴氏の権威失墜は、関東における室町幕府以来の古い権威体制、すなわち関東管領体制や古河公方体制が、名実ともに関東の戦国大名によって取って代わられたことを象徴する出来事であった。上杉朝定の死と扇谷上杉家の滅亡は、単なる軍事的敗北以上に、関東における「古い時代」から実力主義が支配する「新しい時代(戦国時代本格化)」への移行を決定づけたと言える。血統や伝統的権威に依存した統治から、実力と戦略が雌雄を決する時代への転換点として、この出来事を位置づけることができる。
扇谷上杉家の名跡
扇谷上杉家の名跡は、上杉朝定の死後、一族の上杉憲勝(のりかつ)が継承したとされている 1 。永禄4年(1561年)、山内上杉家の家督と関東管領職を継承した長尾景虎(上杉謙信)が関東に出兵した際、憲勝は武蔵松山城主に据えられた。これは、上杉謙信による旧勢力の再興という大義名分の一環であったと考えられる。しかし、永禄6年(1563年)には、憲勝は後北条氏に降伏し、その後の詳しい動向は分かっていない 1 。この事実は、もはや扇谷上杉家が独立した勢力として再興することが不可能であったことを示しており、かつての名門の終焉を象徴している。
もし河越夜戦で連合軍が勝利していたならば、関東の歴史は大きく異なる様相を呈していたであろう。しかし、歴史に「もしも」はない。上杉朝定個人の能力や扇谷上杉家の戦略について、結果論だけでなく、当時の厳しい状況下での選択肢や制約を踏まえた多角的な評価が求められる。
上杉朝定は、名門扇谷上杉家の当主として、勃興する新興勢力・後北条氏からの強大な圧力に若くして直面し、一族の存亡をかけて果敢に抵抗を試みた。しかし、その努力も虚しく、天文15年(1546年)の河越夜戦において敗死するという悲劇的な最期を遂げた。享年22という若さであった。彼の死は、扇谷上杉家の事実上の滅亡を意味し、関東の勢力図を大きく塗り替える歴史的な画期となった。
上杉朝定の生涯と扇谷上杉家の終焉は、戦国時代という激動の時代における旧勢力の苦悩と没落を象徴する事例の一つとして捉えることができる。彼の個人的な運命は、関東地方全体の歴史的転換という大きな流れと分かち難く結びついていた。
上杉朝定や扇谷上杉家に関する史料は、後北条氏や山内上杉氏といった他の有力大名に比べて限定的であり、特に朝定個人の具体的な政策運営や内面については不明な点が多い。また、河越夜戦の具体的な経過についても、『関八州古戦録』をはじめとする後世の軍記物に依拠する部分が大きく、その記述の史実性については慎重な検討が必要である。これらの軍記物の記述と、より信頼性の高い一次史料との比較検討を通じた実像解明は、今後の研究における重要な課題と言える。
本報告書で試みた「徹底的な調査」も、現時点での知見に基づくものであり、歴史研究は常に新しい発見や解釈の可能性を秘めている。今後の研究によって、上杉朝定や扇谷上杉家に関する新たな事実が明らかになることが期待される。