上杉顕定は関東管領。享徳の乱を収め、長享の乱を戦い抜くも、家臣の反乱や同族争いに苦しんだ。越後出兵で長尾為景に敗死。旧時代の秩序を守ろうとした悲劇の武将。
室町時代中期、日本の中心である京都が応仁の乱(1467-1477年)で荒廃するより以前、関東地方は既に深刻な戦乱の渦中にあった。享徳3年12月(1455年1月)、第5代鎌倉公方・足利成氏が、自らの補佐役である関東管領・上杉憲忠を鎌倉の邸宅に呼び出し、謀殺するという衝撃的な事件が発生した [1, 2, 3]。これをきっかけに、関東の政治秩序は崩壊し、以後28年にも及ぶ「享徳の乱」が勃発したのである [3, 4]。
この大乱により、関東は利根川を境として、東部の古河(茨城県古河市)に本拠を移した足利成氏率いる「古河公方」陣営と、室町幕府の後援を受ける上杉氏率いる「関東管領」陣営とに事実上二分された [3, 5]。両陣営は、武蔵国北部の五十子(いかっこ、埼玉県本庄市)に陣を構え、泥沼の長期対陣を続けた [3]。この終わりの見えない戦いの最中、寛正7年(1466年)2月、関東管領・上杉房顕が五十子の陣中にて後継者のないまま病没し、関東管領の宗家である山内上杉家は断絶の危機に瀕した [1, 6, 7]。
奇しくも、この享徳の乱が始まったまさにその年、享徳3年(1454年)に、一人の男児が越後の地で生を受けた。越後守護・上杉房定の次男、幼名を龍若といった [7, 8, 9, 10]。彼こそが、後にこの混沌とした関東の舵取りを託され、その生涯を戦乱と共に歩むことになる上杉顕定である。
したがって、上杉顕定という人物を理解する上でまず認識すべきは、彼が関東に戦乱を「創始」したのではなく、既に泥沼化していた大乱の渦中に、危機的状況を収拾する担い手として外部から「投入」された存在であったという事実である。彼の生涯における数々の決断は、常にこの「享徳の乱」という巨大な前提条件の下で行われた。彼の物語は、自らが望んだわけではない戦乱の時代に、名門の指導者としていかに生き、そしていかに散ったかの記録に他ならない。
西暦 |
元号 |
年齢 |
上杉顕定の動向 |
関東・越後・中央の主要な出来事 |
1454 |
享徳3 |
0 |
越後守護・上杉房定の次男として誕生 [8, 10]。 |
足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害。享徳の乱が勃発 [3]。 |
1466 |
文正元 |
13 |
関東管領・上杉房顕が陣没。幕府の命により山内上杉家の家督を相続 [6, 7]。 |
- |
1467 |
応仁元 |
14 |
関東管領に就任 [11]。 |
京都で応仁の乱が勃発。 |
1471 |
文明3 |
18 |
古河公方の本拠・古河城を一時占領 [7]。 |
- |
1473 |
文明5 |
20 |
家宰・長尾景信が死去。後任に景信の弟・忠景を任命 [6, 12]。 |
- |
1476 |
文明8 |
23 |
家宰職に不満を持つ長尾景春が、古河公方と結び反乱(長尾景春の乱) [7]。 |
- |
1477 |
文明9 |
24 |
五十子陣が陥落し、上野へ敗走 [6, 13]。 |
応仁の乱が終結。 |
1478 |
文明10 |
25 |
古河公方・足利成氏と和睦 [7, 11]。 |
- |
1482 |
文明14 |
29 |
幕府と古河公方の和睦(都鄙和睦)が成立し、享徳の乱が終結 [7, 13]。 |
- |
1486 |
文明18 |
33 |
扇谷上杉家家宰・太田道灌が主君・上杉定正に暗殺される。顕定の讒言が原因との説あり [14, 15]。 |
- |
1487 |
長享元 |
34 |
山内・扇谷両上杉家が全面対決。長享の乱が勃発 [16]。 |
- |
1488 |
長享2 |
35 |
実蒔原、須賀谷原、高見原の合戦(関東三戦)で扇谷上杉定正に敗北 [7]。 |
- |
1494 |
明応3 |
41 |
上杉定正が落馬により急死。伊勢宗瑞(北条早雲)が関東の争乱に介入 [7, 17]。 |
- |
1496 |
明応5 |
43 |
相模に攻め込み、伊勢宗瑞の弟が守る小田原城を一時攻略 [7]。 |
足利政氏の弟・顕実を養子に迎える [18]。 |
1504 |
永正元 |
51 |
立河原の戦いで今川・伊勢の援軍を得た扇谷上杉朝良に大敗 [7, 19]。 |
- |
1505 |
永正2 |
52 |
越後の実家からの援軍を得て反撃。扇谷上杉朝良を降伏させ、長享の乱が終結 [19, 20]。 |
- |
1507 |
永正4 |
54 |
実弟の越後守護・上杉房能が守護代・長尾為景に攻められ自害 [11, 21]。 |
- |
1509 |
永正6 |
56 |
弟の仇討ちと越後の秩序回復のため、大軍を率いて越後へ出兵 [9, 22]。 |
- |
1510 |
永正7 |
57 |
6月20日、越後・長森原の戦いで長尾為景に敗れ、戦死 [8, 10, 11]。 |
顕定の死後、養子の顕実と憲房が家督を争い、山内上杉家は内紛状態に陥る(永正の乱)。 |
関東管領・上杉房顕の陣没により、山内上杉家は存亡の機に立たされた。後継者を欠いたままでは、古河公方・足利成氏との抗争を続けることは不可能であり、家臣団は早急な対応を迫られた。家宰の長尾景信らは、房顕の従兄弟であり、上杉一門の長老として絶大な影響力を持つ越後守護・上杉房定に白羽の矢を立て、その子を養子として迎え入れることを画策した [7]。これは、強力な越後上杉家の支援を得ることで、山内上杉家の危機を乗り切ろうとする現実的な選択であった。
しかし、房定はこの申し出を当初、頑なに拒絶した [6, 7]。その背景には、山内上杉家の譜代の家臣たちの間に、外部、特に分家筋である越後からの養子受け入れに対する根強い抵抗感があったためとされている [1]。宗家としての誇りが、分家からの支援を素直に受け入れることをためらわせたのである。この膠着状態は、関東の戦況をさらに悪化させかねない危険なものであった。
事態を憂慮したのは、関東管領を任命する権限を持つ室町幕府であった。享徳の乱において上杉氏を支援してきた幕府にとって、山内上杉家の弱体化は対古河公方政策の破綻を意味する。時の8代将軍・足利義政は、自らこの問題に介入し、改めて房定の子を房顕の後継とするよう、強い命令を下した [7, 23]。幕府の権威を背景としたこの命令に、房定も、そして反対していた山内家の家臣たちも、もはや逆らうことはできなかった。結果として、房定の次男である13歳の龍若が、上杉顕定として山内上杉家の家督を継ぐことが決定した [6]。
この一連の経緯は、顕定の関東管領としてのキャリアの出発点に、二つの重要な特性を刻印した。第一に、彼の権力基盤が、山内上杉家内部からの熱烈な支持によるものではなく、「幕府の権威」と「実家である越後上杉家の威光」という二つの強力な外部要因に強く依存していた点である。このことは、彼の治世を通じて、家臣団の完全な掌握に苦慮し、時に強硬な手段に訴えざるを得なくなる一因となった。
第二に、この家督相続のプロセスが、上杉一族内の力関係に微妙かつ決定的な変化をもたらした点である。すなわち、「宗家(山内)が分家(越後)に助けられた」という事実が、それまでの家格の序列を覆し、実質的な力関係の逆転を生じさせた [24]。この事実は、単なる面子の問題に留まらなかった。後年、顕定が関東の支配を半ば放棄してまで実弟の仇討ちに固執し、越後へ大軍を率いて遠征するという、彼の運命を決定づける行動の伏線となる。彼の最期に繋がる悲劇の根源は、皮肉にも、彼自身が関東管領に就任した瞬間に、既に内包されていたのである。
関東管領に就任した若き顕定は、家宰・長尾景信や扇谷上杉家の家宰・太田道灌といった宿老たちの補佐を受け、宿敵・古河公方との戦いを継続した。文明3年(1471年)には古河城を一時占領するなど、戦果を挙げる場面もあった [7]。しかし、文明5年(1473年)、長年にわたり軍事と政務の両面で上杉家を支えてきた重鎮・長尾景信が五十子の陣中で病没すると、顕定は重大な岐路に立たされる [6, 25]。
家宰職の後継者として、誰もが景信の嫡男・長尾景春を想定していた。しかし、顕定は意外な人事を断行する。景春ではなく、その叔父にあたる惣社長尾家の長尾忠景を後任の家宰に任命したのである [11, 12, 13]。この決断は、単なる人事ミスや若さゆえの過ちとして片付けられるものではない。背景には、景信の代に強大化した白井長尾家(景春の家系)の勢力を削ぎ、関東管領としての自らの権力を強化しようとする、顕定の明確な政治的意図があったと考えられる [8, 25]。彼は、家臣団の権力バランスを再編し、自らが主導権を握る体制を構築しようと試みたのである。
しかし、この策は裏目に出た。当時まだ20歳前後であった顕定は、自らの権力基盤の脆弱さを顧みず、また家臣団内部の複雑な力学と感情を読み誤っていた [8]。家宰職を奪われた景春は、この処遇を屈辱として深く恨み、ついに反旗を翻す [6, 26]。文明8年(1476年)、景春はそれまで敵対していた古河公方・足利成氏と密かに手を結び、挙兵した。これに、上杉家の支配に不満を持つ関東各地の国人衆が呼応し、「長尾景春の乱」は瞬く間に関東一円を巻き込む大乱へと発展した [7, 13]。
景春の勢いは凄まじく、文明9年(1477年)正月には、18年間にわたって対古河公方戦線の拠点であった五十子陣が、内部からの手引きもあってあっけなく陥落 [6, 13, 27]。顕定は上野国への撤退を余儀なくされ、関東管領就任以来、最大の危機に直面した。
この窮地を救ったのが、分家である扇谷上杉家の家宰・太田道灌であった。景春の叔母を母に持つ道灌は、従兄弟である景春から同心を求められたが、これを毅然と拒絶 [25]。主君・上杉定正と共に顕定を支え、江戸城や河越城を拠点に各地を転戦し、景春方を次々と撃破していった [5, 13]。道灌の天才的な軍略の前に、景春の勢いは次第に衰えていった。
この一連の動乱は、皮肉な結果をもたらした。長尾景春という共通の脅威に直面したことで、長年敵対してきた上杉氏と古河公方の間に和睦の機運が生まれたのである [6]。文明10年(1478年)、顕定は成氏と和睦を結び、景春は梯子を外された形となった。さらに文明14年(1482年)、顕定の父・房定らの仲介により、幕府と古河公方との間にも正式な和睦(都鄙和睦)が成立。ここに、関東を約30年間にわたり引き裂いた享徳の乱は、ようやく終止符が打たれた [7, 11, 13]。
しかし、この結末は新たな火種を内包していた。一つの乱の終結が、次の乱の始まりを準備したのである。家臣の反乱という内部問題を収拾する過程で、太田道灌という一個人の武功と名声、そして彼が仕える扇谷上杉家の発言力と軍事力が飛躍的に増大した [14, 20]。古河公方という共通の敵を失った山内・扇谷両上杉家にとって、この新たなパワーバランスの不均衡は、もはや看過できない問題となっていた。顕定は、自らが引き起こした内乱の収拾の過程で、より深刻な一族間の対立という、次なる嵐の種を自ら育ててしまったのである。
享徳の乱の終結と長尾景春の乱の鎮圧は、関東に束の間の平和をもたらしたが、それは水面下での新たな権力闘争の始まりを意味していた。特に、一連の戦乱で最大の功労者となった太田道灌の名声は関東中に轟き、彼が家宰を務める扇谷上杉家の勢力は、宗家である山内上杉家を凌駕しかねないほどに伸長した [14, 20]。
関東管領として上杉一門の頂点に立つ顕定にとって、この状況は到底容認できるものではなかった。彼は、分家が宗家を凌ぐという秩序の乱れを正し、自らの権威を再確立する必要に迫られた。そこで顕定が用いたのが、武力ではなく権謀術数であった。扇谷上杉家の当主・上杉定正と、その家宰である道灌との離間を画策。「道灌に主家を乗っ取る野心あり」との讒言を流し、定正の猜疑心を煽ったとされる [14, 15, 28]。
この策謀は、定正の心の隙を見事に突いた。定正自身、家臣である道灌の名声が自らを上回ることに、以前から嫉妬と警戒心を抱いていた [20, 29, 30]。顕定から流された噂は、その猜疑心に火を注ぎ、ついに定正は取り返しのつかない決断を下す。
文明18年(1486年)7月26日、定正は道灌を自らの居館である相模国糟屋館(かすやのやかた、神奈川県伊勢原市)に招いた。主君からの招待に何の疑いも抱かず訪れた道灌に対し、定正は入浴を勧める。そして、道灌が丸腰で湯殿から出てきたところを、かねてより手配していた刺客に襲わせ、暗殺した [6, 14, 15, 31, 32]。稀代の名将は、信じていた主君の裏切りによって、非業の最期を遂げたのである。
顕定の謀略は、道灌を排除するという戦術的目標においては完璧に成功した。しかし、これは彼の生涯における最大の戦略的失敗であったと言わざるを得ない。彼は、道灌という「個」の力を削ぐことに集中するあまり、その死がもたらす関東全体のパワーバランスの崩壊という、より大きな構図を見失っていた。道灌は、単なる扇谷上杉家の家宰であるだけでなく、その卓越した軍事能力によって上杉氏全体の軍事力を支える重鎮でもあった。彼を失うことは、来るべき新興勢力、すなわち伊勢宗瑞(後の北条早雲)の台頭に対する、上杉氏全体の抵抗力を著しく削ぐ自殺行為に等しかった。
この暗殺事件は、顕定が依拠する「家格」や「血筋」といった室町時代的な旧来の権威秩序が、個人の「実力」や「名声」といった新しい価値観によって脅かされる、戦国時代の本格的な到来を象徴する出来事でもあった。顕定は、秩序を乱す「実力者」道灌を、旧来の権謀術数によって排除しようとした。しかし、その結果引き起こされたのは、もはや名分や家格では制御できない、実力と実力が赤裸々にぶつかり合う、より純粋な戦国的な争乱であった。彼は、自らの手で、かろうじて維持していた古い時代の扉を閉ざし、新しい時代の扉をこじ開けてしまったのである。道灌の死によって、扇谷上杉家を支持していた国人衆の一部は山内上杉家へと離反し、両家の対立はもはや修復不可能な段階に至った [6]。
太田道灌の死の翌年、長享元年(1487年)、山内・扇谷両上杉家の対立はついに全面的な武力衝突へと発展した。これより永正2年(1505年)までの18年間にわたる骨肉の争いは、「長享の乱」と呼ばれる [16]。
乱の緒戦において、顕定は苦戦を強いられた。道灌という大黒柱を失ったにもかかわらず、扇谷上杉定正は奮戦し、長享2年(1488年)に行われた主要な三つの合戦、すなわち相模国の実蒔原(さねまきはら) [33, 34, 35]、武蔵国の須賀谷原(すがやはら) [36, 37]、そして高見原(たかみはら) [38] において、顕定はいずれも手痛い敗北を喫した [7]。これら「関東三戦」と呼ばれる戦いで、扇谷上杉家の底力を見せつけられた形となった。
戦況が膠着する中、新たなプレイヤーが関東の争乱に足を踏み入れる。扇谷上杉定正が、当時駿河国を拠点としていた今川氏の客将・伊勢宗瑞(後の北条早雲)に援軍を要請したのである [7, 17]。宗瑞の参戦は、関東の政治情勢をさらに複雑化させた。しかし、明応3年(1494年)、高見原での合戦の最中、扇谷上杉軍を率いていた定正が荒川を渡る際に落馬し、その傷がもとで急死するという不慮の事故が発生する [7, 18, 39]。大将を失った扇谷・伊勢連合軍は撤退を余儀なくされた。
定正の死後、その甥である上杉朝良が扇谷上杉家を継いだが、当主の急死は大きな痛手であった。一方、顕定は宗家として、また関東管領として動員できる国力において、分家の扇谷上杉家を大きく上回っていた。彼はこの機を逃さず、それまで扇谷上杉家を支持していた古河公方・足利政氏を味方に引き入れることに成功する。長期戦の様相を呈するにつれて、国力に勝る顕定が次第に優位に立つようになった [7]。明応5年(1496年)には相模国へ攻め込み、伊勢宗瑞の弟・弥二郎が守る小田原城を一時的に攻略するなど、攻勢を強めた [7]。
そして永正元年(1504年)、乱の雌雄を決する戦いが訪れる。顕定は扇谷上杉家の本拠地・河越城に迫った。追い詰められた上杉朝良は、再び今川氏親と伊勢宗瑞に援軍を求め、武蔵国・立河原(たちかわら、東京都立川市)で顕定・古河公方連合軍と決戦に臨んだ [19, 40]。この「立河原の戦い」で、顕定軍は2000人以上もの死者を出すという壊滅的な大敗を喫し、命からがら本拠地の鉢形城へ逃げ帰った [19]。
しかし、顕定はここで屈しなかった。彼は、自らの権力の源泉でもある実家、越後上杉家に援軍を要請。越後守護代・長尾能景率いる大軍を得て勢いを盛り返すと、翌永正2年(1505年)、三度河越城を包囲した [19, 40]。度重なる敗戦と長期の籠城で兵糧も尽き、もはや抗う術のなかった朝良は、ついに降伏。江戸城への隠居を条件に和睦が成立し、18年にも及んだ長享の乱は、顕定の事実上の勝利という形で終結した [7, 19, 20]。
この勝利は、しかし、極めて高くついたものであった。18年間もの内戦は、両上杉家の本拠地である武蔵・相模を徹底的に疲弊させ、在地領主である国人衆の力を削ぎ、結果として関東に巨大な権力の真空地帯を生み出した。顕定が同族との「家格」を巡る争いに固執している間に、伊勢宗瑞は着々と伊豆を平定し、相模西部へと勢力を扶植し、この真空地帯に根を張る準備を整えていたのである [40, 41]。顕定の勝利は、旧時代の価値観の最後の勝利であり、彼の目が内側(一族)に向いている間に、外側から新しい時代の波が、音もなく、しかし確実に押し寄せていたのであった。
Mermaidによる関係図
長享の乱を終結させ、関東における権威を確立した顕定のもとに、永正4年(1507年)、故郷の越後から衝撃的な報せがもたらされた。実弟であり越後守護の職にあった上杉房能が、その家臣である守護代・長尾為景の下剋上によって攻められ、関東に落ち延びる途上の天水越で自害に追い込まれたというのである [9, 10, 11, 21, 42]。
この事件は、単なる肉親の死に留まらなかった。家臣による主君殺しは、室町幕府が築き上げてきた主従の秩序を根底から覆す大罪であった。関東の秩序を司るべき最高責任者、関東管領として、顕定はこの暴挙を断じて看過できなかった。弟の仇を討つという私的な動機に加え、関東管領の権威を天下に示し、自らのルーツである越後上杉家の秩序を回復するという公的な大義名分が、彼を越後への大規模な軍事介入へと駆り立てた [14, 43]。
この決断の背景には、より根源的な問題があった。顕定の関東管領としての権威は、元をたどれば越後上杉家の力と幕府の後ろ盾によって支えられていた。その権威の源泉である越後で起きた下剋上は、自らの足元を揺るがす深刻な事態であり、これを放置すれば、関東における自身の権威失墜にも直結しかねなかった。彼は、自らの権威の「名分」を守るために、その権威の「実体」である関東の支配を危うくしてでも、越後へ向かうことを選んだ。しかし、長年の戦乱で疲弊した関東を留守にし、地理的に不案内な越後へ深入りするという決断は、戦略的には極めて危険な賭けであった。
永正6年(1509年)、顕定は養子の上杉憲房を先遣隊として派遣し、自らも大軍を率いて越後へ出陣した [22]。当初、戦況は顕定に有利に進んだ。越後国内の反為景勢力を糾合し、為景を越中国(富山県)へと追放することに成功。顕定は越後の国府に入り、戦後処理と新たな統治体制の構築に着手した [14, 18]。一見、関東管領の威光が越後の秩序を回復させたかのように見えた。
越後の平定は、しかし、見せかけの成功に過ぎなかった。越中国へ逃れていた長尾為景は、決して再起を諦めていなかった。彼は巧みに勢力を盛り返すと、翌永正7年(1510年)には越後へ再上陸し、反撃に転じた [7, 21]。状況は一変する。当初、顕定に味方していた越後の国人たちも、関東からの直接支配を嫌い、また為景の執拗な巻き返しを目の当たりにして、次第に為景方へと寝返っていった [22, 44]。
越後国内で孤立した顕定軍は、関東への撤退を決断するが、時すでに遅かった。為景軍は執拗に追撃し、同年6月20日、越後国魚沼郡の長森原(ながもりはら、新潟県南魚沼市)で、ついに顕定軍を捕捉、両軍は決戦の時を迎えた [11, 45]。兵力では顕定軍が上回っていたものの、地の利は為景軍にあった。さらに、為景の外祖父にあたる信濃の豪族・高梨政盛が率いる援軍が、予期せぬ方向から顕定軍の側面を強襲したことで、戦況は一気に為景方へ傾いた [21, 45]。
乱戦の中、関東の最高権力者は、あまりにもあっけない最期を迎える。上杉顕定は、この戦いで討ち取られ、57年の波乱に満ちた生涯を閉じた [8, 9, 10]。一説には高梨政盛その人に討たれたとも、あるいは敗戦を悟り、敵兵の手にかかることを潔しとせず自刃したとも伝えられる [22]。いずれにせよ、現職の関東管領が、一介の守護代に過ぎない長尾為景に敗れ、戦死するという事態は、室町幕府の権威が完全に失墜したことを天下に示す、前代未聞の出来事であった。彼の亡骸は、現地の人々によって手厚く葬られ、その地は今も「管領塚」として、悲劇の武将の最期を伝えている [8, 45]。
顕定の生涯は、極めて皮肉な円環構造を描いて完結した。彼の関東管領としてのキャリアは、家臣である長尾景春の反乱によって最大の危機を迎えることから始まった。そしてその最期は、同じく長尾一族である長尾為景の反乱によって、命そのものを奪われる形で幕を閉じた。彼は生涯をかけて「下剋上」という時代の潮流に抗おうとしたが、最終的にその巨大な波に飲み込まれてしまったのである。
そして、歴史はさらに大きな皮肉を用意していた。顕定の死は、一つの時代の終わりであると同時に、新たな時代の始まりを告げるものであった。彼を討った長尾為景は、この勝利によって越後の実質的な支配者となり、その権勢を確固たるものにした。そして、この為景の息子こそが、後に顕定が守ろうとした「上杉」の名と「関東管領」の職を、全く異なる形で受け継ぐことになる 上杉謙信 その人であった [42]。顕定の死は、関東における山内上杉家の没落を決定づけると同時に、その遺産が、彼を殺した男の息子によって、越後の地で形を変えて再生されるという、壮大な歴史の伏線となったのである。
上杉顕定の突然の死は、関東の政治情勢に巨大な権力の空白を生み出した。彼が一代をかけてかろうじて維持してきた山内上杉家の権威は、その頂点に立つ指導者を失ったことで、一気に崩壊へと向かう。
顕定の死後、山内上杉家では、彼が生前に迎えていた二人の養子の間で、家督と関東管領職を巡る深刻な内紛が勃発した。一人は、古河公方・足利政氏との連携を強化するために迎えられた、政氏の実弟・上杉顕実 [18, 46, 47]。もう一人は、上杉一族としての血統を継ぐ上杉憲房であった [48, 49]。両者はそれぞれ支持勢力を集めて争い始め、関東は再び戦乱の時代へと逆戻りした [18, 21]。この内紛は「永正の乱」と呼ばれ、古河公方家の内紛とも連動し、関東の混乱に拍車をかけた。
顕定が生前、目先の権力バランスを保つために、異なる政治的意図をもって二人の養子を迎えたという政略が、彼の死とともに新たな火種として爆発したのである。彼の政治手法そのものに内包されていた構造的欠陥が、死後に一気に噴出した形となった。この内部抗争によって山内上杉家は致命的に弱体化し、その隙を突いて扇谷上杉家が息を吹き返し、そして何よりも、伊勢宗瑞とその子・氏綱が率いる後北条氏が、関東への本格的な侵攻を開始する絶好の機会を与えてしまった [21, 50]。
歴史的に見れば、上杉顕定の評価は複雑である。40年以上にわたり関東管領の地位を維持し、未曾有の大乱であった享徳の乱を終結させ、18年に及ぶ長享の乱に最終的な勝利を収めた手腕は、決して無為ではなかった。武人として生涯を戦場で過ごす一方、連歌や絵画にも通じた文化人としての一面も持ち合わせていた [8]。
しかし、その治世は失敗と限界にも彩られている。家臣団の掌握に失敗して長尾景春の乱を招き、同族との内戦に固執するあまり新興勢力への対応が遅れ、最終的には自らの権威の根源を守ろうとして、異郷の地で命を落とした。彼は、崩壊しゆく室町時代的な権威秩序の、最後の、そして最大の体現者であった。彼の生涯は、古い秩序を守るために奮闘し、その過程でかえって新時代の到来を早めてしまった、悲劇的な英雄の物語として記憶されるべきであろう。上杉顕定の死は、関東における上杉氏の時代の終わりと、後北条氏が支配する本格的な戦国時代の幕開けを告げる、関東戦国史における一大転換点だったのである。