戦国時代の越後国(現在の新潟県)を語る上で、上杉謙信、そしてその父である長尾為景の存在はあまりにも大きい。為景は守護代の身から主君を討ち、実力で国主の座に迫った「下剋上」の体現者として知られる。その為景の覇権確立の過程で、最大の抵抗勢力として立ちはだかったのが、上条上杉家の当主、上条定憲(じょうじょう さだのり)である。
一般的に上条定憲は、為景の前に敗れ去った旧勢力の代表格として、歴史の敗者の烙印を押されがちである。彼が率いた反乱軍が、天文5年(1536年)の三分一原(さんぶいちはら)の合戦で為景軍に大敗を喫し、定憲自身もその戦いが原因で命を落としたとされることが、その評価を決定づけてきた 1 。しかし、この見方は事象の一側面に過ぎない。彼が起こした「享禄・天文の乱」は、享禄3年(1530年)から8年もの長きにわたり越後全土を揺るがし、国内の国人領主のみならず、伊達氏や蘆名氏といった隣国の大名までを巻き込む大乱へと発展した 3 。そして最も注目すべきは、軍事的勝者であるはずの為景が、合戦勝利からわずか数ヶ月後に隠居へと追い込まれるという、逆説的な結末を迎えた点である 1 。
この事実は、定憲の行動が単なる時代への抵抗に留まらない、重大な歴史的意義を持つことを強く示唆している。彼はなぜ、そして何を大義名分として、強大な為景に挑んだのか。彼の反乱は、なぜ越後全土を巻き込む大乱へと発展し得たのか。そして、なぜ軍事的敗北が政治的勝利とでも言うべき結末を導いたのか。
本報告書は、これらの問いに答えるべく、上条定憲の生涯を、その出自である名門・上条上杉家の歴史から説き起こし、彼が身を投じた「享禄・天文の乱」の全貌を、複雑な勢力図の変遷、国外勢力の介入、そして決戦「三分一原の合戦」に至るまで詳細に追跡する。さらに、合戦の軍事的結末とは裏腹の政治的帰結の謎を解き明かし、定憲の行動が後の長尾晴景、そして上杉謙信の時代に与えた影響を分析することで、彼を越後史の転換点に位置する重要人物として再評価することを目的とする。
上条定憲という人物を理解するためには、まず彼がどのような時代背景と政治的環境の中に身を置いていたかを知る必要がある。彼の行動原理の根幹には、自らが属する「上条上杉家」という名門の権威と、それと対峙する守護代「長尾氏」の台頭という、当時の越後国が抱えていた構造的な対立が存在した。
上条上杉家は、室町時代に越後守護であった上杉房方の子、清方が創始した家系である 7 。清方は、刈羽郡上条(じょうじょう)の地(現在の新潟県柏崎市)に上条城を構え、上条上杉を称した 7 。この家系は単なる守護の分家ではない。祖である清方は、永享の乱後に隠棲した兄、関東管領・上杉憲実の代行を務めるなど、上杉一門の中でも極めて高い家格と政治的地位を誇っていた 4 。その後も、この家からは越後守護となった上杉房定や、山内上杉家の家督と関東管領職を継いだ上杉顕定を輩出しており、守護家に次ぐ「筆頭一族」としての権威を確立していた 7 。
その本拠地である上条城は、国府が置かれた直江津(現・上越市)から中越・下越地方へと通じる交通の要衝に位置していた。この地は、守護家にとって、在地支配を強める有力な土豪たちを牽制し、情報を収集するための戦略的拠点であり、上条上杉家の存在そのものが、守護上杉家の権威を越後全体に及ぼすための「楔」としての役割を担っていたのである 4 。上条定憲は、このような由緒と権威を背負う家の当主として、歴史の表舞台に登場することになる。
上条定憲が対峙した長尾為景は、守護代の家柄でありながら、実力で主家を凌駕し、越後の実権を掌握した人物であった。為景の父・能景が越中の一向一揆との戦いで戦死した後、家督を継いだ為景は、永正4年(1507年)、主君である越後守護・上杉房能を攻め、自刃に追い込んだ 5 。そして、房能の養子であった上杉定実を新たな守護として擁立する 5 。これは、家臣が主君を討ち、自らの意のままになる傀儡を立てるという、戦国時代を象徴する「下剋上」の典型であった。
為景の野心はそれに留まらなかった。房能の死に報復すべく、その実兄である関東管領・上杉顕定が越後に大軍を率いて侵攻すると、為景はこれを迎え撃ち、永正7年(1510年)の長森原の戦いで顕定をも敗死させてしまう 5 。二代にわたる主筋を葬り去ったことで、為景の権力は越後国内において絶大なものとなった。しかし、その強引な権力掌握は、室町時代以来の伝統的な秩序と権威を重んじる勢力から、強い反発と憎悪を招く土壌を形成することにもなったのである。
上条定憲の挙兵を理解する上で決定的に重要なのが、為景が傀儡として擁立した守護・上杉定実との関係である。定実の実家は、まさしく上条上杉家であった 7 。定憲と定実の具体的な血縁関係については、史料によって「甥」 3 、あるいは「兄弟」 1 と記述が分かれるものの、定憲が守護家と極めて密接な関係にあったことは疑いようがない。
この血縁関係こそが、定憲の挙兵に「主君(定実)を傀儡とし、国政を壟断する逆臣・為景を討つ」という、絶対的な大義名分を与えた 1 。当初、定実自身も為景の専横に反抗を試みたが、逆に幽閉されるなどして失敗に終わっている 12 。定憲の反乱は、政治的に無力化された守護・定実に代わり、その実家である上条家が「守護への忠誠」という旗印を掲げ、為景の築いた覇権に正面から挑んだものと位置づけられる。
このように、上条定憲の反乱は、単なる個人的な権力闘争ではなかった。それは、守護家を筆頭とする上杉一門という「旧秩序」の守護者と、実力でのし上がった守護代・長尾為景という「新潮流(下剋上)」の体現者との間の、構造的で不可避な対立が越後国で顕在化したものであった。定憲は、自らの家門の権威と、守護家との血縁を背景に、時代の大きな転換点に身を投じたのである。
享禄3年(1530年)に始まった上条定憲の反乱は、やがて越後全土を巻き込み、隣国をもその渦中に引き込む「享禄・天文の乱」へと発展していく。当初は為景優位に進んだ戦局が、いかにして逆転し、長期にわたる大乱へと変貌していったのか。そのダイナミズムを、勢力図の変転から追う。
享禄3年(1530年)10月、上条定憲は本拠地の上条城にて、ついに為景打倒の兵を挙げた 3 。長尾為景は、この反乱の原因を守護の奉行であった大熊政秀が両者の間を裂くための策謀を巡らせたためと釈明しているが 1 、その根底には、為景による長年の強権的な支配に対する国人領主たちの根強い不満があったことは想像に難くない。
しかし、蜂起当初の定憲は孤立していた。阿賀川以北に割拠する独立性の強い国人領主連合「揚北衆(あがきたしゅう)」をはじめ、越後国人の多くはすぐには定憲に同調しなかった 1 。政治巧者であった為景は、室町幕府に働きかけ、将軍・足利義晴から定憲への加担を禁じる御内書(ごないしょ)を得るなど、巧みに幕府の権威を利用して定憲を追い詰めた 1 。さらに享禄4年(1531年)1月には、為景の主導のもと、揚北衆の諸氏や刈羽郡の北条氏、上杉一門の山本寺氏ら18名の国人領主が参加する軍事同盟(一揆契約)である『越後国人衆軍陣壁書』を締結させる 16 。これにより、為景は反乱を局地的なものに封じ込め、定憲に対する強力な包囲網を形成することに成功したかに見えた。
為景優位で進むかに思われた戦局は、中央政局の変動をきっかけに劇的な転換を迎える。享禄4年(1531年)6月、為景が中央における強力な後ろ盾としていた幕府の実力者、管領代・細川高国が、政敵であった三好元長らとの戦いに敗れて自刃する(大物崩れ) 1 。この事件は、遠く越後の政治情勢にも決定的な影響を及ぼした。為景がこれまで利用してきた幕府の権威が大きく揺らぎ、それに伴い越後国人に対する求心力も著しく低下したのである 16 。
この機を逃さず、定憲は勢力の巻き返しを図る。為景の権威失墜を見た国人衆は、次々と為景から離反し、定憲方へと鞍替えしていった。特に、独立志向の強い揚北衆は、当初為景と一揆契約を結んでいたにもかかわらず、天文期(1532年以降)に入るとその多くが定憲方に転じ、反為景勢力の中核を担うようになった 16 。彼らの動向は、為景や定憲への忠誠心ではなく、自らの独立性を維持するための極めて現実的な損得勘定に基づいていた。越後国内の権力者が一人勝ちすることを嫌い、常に弱い側に付くことで勢力の均衡を図り、自らの自立性を確保しようとする、戦国期の国人領主の典型的な生存戦略であった。
天文2年(1533年)に定憲が再び挙兵すると、乱はもはや越後国内の問題に留まらなくなった。定憲は、会津の蘆名氏、出羽の大宝寺氏、そして陸奥の大大名である伊達稙宗といった隣国の有力大名とも連携し、為景を外交的にも軍事的にも圧迫した 3 。これにより、争乱は越後の覇権をめぐる地域間戦争の様相を呈し、かつて越後に覇を唱えた長尾為景は、四面楚歌の状態に追い込まれていったのである。
カテゴリ |
人物名 |
勢力 |
役割・動向 |
関連史料 |
反乱主体 |
上条 定憲 |
定憲方(主導) |
守護上杉家の権威回復を掲げ、約8年間にわたり反為景勢力を糾合。 |
1 |
対抗勢力 |
長尾 為景 |
為景方(主導) |
守護代として実権を掌握。当初は幕府の権威を背景に優位に立つが、次第に国人の離反を招き、苦境に陥る。 |
5 |
名目上の主君 |
上杉 定実 |
中立(傀儡) |
為景に擁立された越後守護。定憲の実家筋であり、乱の大義名分となるが、自身は為景に幽閉されるなど政治的実権を失っていた。 |
2 |
定憲方主要武将 |
宇佐美 定満 |
定憲方 |
当初為景方だったが離反。定憲方の中心武将として活躍し、三分一原の戦いでは為景をあと一歩まで追い詰めたとされる。 |
25 |
|
上田 長尾房長 |
定憲方(途中から) |
長尾一門だが為景と対立。定憲方に加担し、為景を苦しめた。 |
3 |
|
揚北衆 |
為景方→定憲方 |
当初は為景と一揆契約を結ぶが、為景の権威が揺らぐと定憲方に転じ、乱の長期化・大規模化の主因となる。 |
3 |
介入した外部勢力 |
伊達 稙宗 |
定憲方 |
越後への影響力拡大を狙い、定憲を支援。この介入が後の「天文の乱(伊達氏内紛)」の一因ともなる。 |
3 |
|
蘆名氏 |
定憲方 |
会津の隣国として越後情勢に介入。 |
3 |
8年近くに及んだ越後の大乱は、天文5年(1536年)に一つのクライマックスを迎える。軍事的な決着点となった「三分一原の合戦」と、その直後に起こった不可解な政治的変動は、この乱の複雑な性格を象徴している。本章では、この決戦の経過と、その逆説的な結末の謎に迫る。
天文5年(1536年)4月10日、長年にわたる抗争の雌雄を決するべく、上条定憲率いる反為景連合軍と、長尾為景軍が激突した。決戦の地となった三分一原は、為景の本拠地である春日山城からわずか5キロメートルほどの地点であり、為景がまさに滅亡寸前まで追い詰められていたことを物語っている 2 。越後の国人領主の多くを敵に回し、国外勢力の圧力にも晒された為景は、絶体絶命の窮地に立たされていた。
合戦の詳細は謎に包まれている部分も多いが、戦況は為景方にとって極めて不利であったと推測される 2 。しかし、この土壇場で劇的な逆転劇が起こる。激戦の最中、上条方の有力武将であった平子右馬允(ひらこうまのじょう)という人物が、突如として為景方に寝返ったのである 2 。この裏切りが決定打となり、統制を失った上条軍は総崩れとなり、壊滅的な大敗を喫した。これは為景にとって、まさに起死回生の大勝利であった。
三分一原での敗北は、反乱の首謀者であった上条定憲の運命を決定づけた。彼の最期については、いくつかの説が存在し、情報が錯綜している。
最も広く受け入れられているのは、三分一原の合戦で深手を負い、まもなく死去したとする説である 1 。この説を強力に裏付けるのが、高野山清浄心院に伝わる『越後国供養帳』という同時代史料の記録である。そこには、戒名を「常泰泰林永安」とする人物が「天文五年四月廿四日」に死去したと記されており、この人物が官途名や活動時期から上条定憲に比定されている 1 。合戦の日付が4月10日であることから、その2週間後に戦傷が元で亡くなったと考えるのは極めて自然である。
一方で、一部の記録には天文8年(1539年)まで定憲が生存していたことを示唆するものも存在する 3 。しかし、これは同名の別人や、後世に編纂された系図などの誤記である可能性も否定できない。信頼性の高い一次史料である『越後国供養帳』の記述の重みを考慮すれば、その蓋然性は低いと言わざるを得ない。
以上の検討から、本報告書では、 上条定憲は三分一原の合戦で敗北し、その際に負った傷が原因で天文5年(1536年)4月24日に死去した という説を、最も妥当性の高い結論として採用する。
上条定憲の死と反乱軍の壊滅。三分一原の合戦は、長尾為景の完全勝利に終わったかに見えた。しかし、その直後に越後の政治状況は誰もが予期せぬ展開を見せる。合戦からわずか4ヶ月後の同年8月、勝者であるはずの長尾為景が、突如として家督を嫡男・晴景に譲り、隠居に追い込まれたのである 1 。これは、享禄・天文の乱における最大の謎であり、この乱の本質を解き明かす鍵となる。
なぜ軍事的勝者が政治的に失脚したのか。その理由は複合的であったと考えられる。
第一に、政治的権威の完全な失墜である。為景は8年にも及ぶ大乱を自力で収拾できず、国外勢力の介入まで招いた。これにより、彼の統治者としての権威と求心力は、もはや回復不可能なまでに失墜していた。三分一原の勝利はあくまで軍事的なものであり、失われた政治的信頼を取り戻すには至らなかった 2。
第二に、国人衆による引導の可能性である。長年の戦乱に疲弊しきった越後の国人衆は、これ以上の争いを望んでいなかった。彼らにとって、乱の元凶ともいえる為景の存在そのものが、和平への障害であった。そこで、国人衆が一致して、和平の実現を条件に為景の引退を後継者である晴景に迫り、為景もそれを受け入れざるを得ない状況に追い込まれたという筋書きが考えられる。
第三に、晴景によるクーデター説も指摘されている。穏健派であった晴景が、父の強権的な政治手法に反発する反為景派の国人衆と結び、三分一原の勝利という好機を捉えて父から実権を奪ったとする見方である 5。
これらの要因が絡み合い、為景を隠居へと追い込んだのであろう。三分一原の合戦は、上条定憲の「政治的目的(為景の排除)」と長尾為景の「軍事的目的(反乱の鎮圧)」が、それぞれ達成されるという極めて稀有な結末を迎えた。これは、戦国初期の権力闘争が、単なる兵力の優劣だけでなく、国人連合の動向や大義名分、政治的求心力といった複合的な要因によって決着することを示す、象徴的な事例と言える。定憲は戦場で命を落としたが、彼の掲げた目的は達成された。為景は戦場で勝利したが、彼の築いた権力は終焉を迎えたのである。
年月 |
出来事 |
影響・意義 |
関連史料 |
享禄3年 (1530) 10月 |
上条定憲、上条城にて挙兵。享禄・天文の乱が勃発。 |
当初は同調者が少なく、限定的な反乱に留まる。 |
3 |
享禄4年 (1531) 1月 |
長尾為景、『越後国人衆軍陣壁書』を結び、定憲包囲網を形成。 |
為景が幕府の権威を背景に、国人衆を掌握していることを示す。 |
16 |
享禄4年 (1531) 6月 |
為景の後ろ盾、細川高国が「大物崩れ」で自刃。 |
為景の中央における権威が失墜。越後国人衆が為景から離反し始める転換点。 |
1 |
天文2年 (1533) 9月 |
定憲、再び挙兵(再乱)。 |
為景から離反した上田長尾氏や揚北衆、国外の蘆名氏なども加わり、乱が越後全土・隣国を巻き込み拡大。 |
1 |
天文5年 (1536) 4月10日 |
三分一原の合戦 。平子の寝返りにより、上条定憲軍が大敗。 |
軍事的には為景方の決定的勝利。 |
2 |
天文5年 (1536) 4月24日 |
上条定憲、死去(『越後国供養帳』による)。 |
反乱軍の象徴を失うが、乱の目的は達成される方向へ。 |
1 |
天文5年 (1536) 8月 |
長尾為景、隠居 。家督を嫡男・長尾晴景に譲る。 |
軍事的勝者が政治的に失脚。乱の逆説的帰結であり、為景の権威が完全に失墜したことを示す。 |
1 |
天文5年 (1536) 以降 |
長尾晴景、宥和政策を推進。上杉定実を守護として復権させる。 |
為景の強権政治が終焉し、越後は和平へ向かう。 |
2 |
上条定憲の死と長尾為景の失脚という形で幕を閉じた享禄・天文の乱は、その後の越後史の展開に決定的な影響を与えた。定憲の行動は、一見すると敗北に終わった旧勢力の抵抗に過ぎないように見えるが、その結果として生まれた新たな政治状況は、皮肉にも彼の宿敵であった長尾家の次代の飛躍を準備することになる。
父・為景の跡を継いで長尾家の当主となった長尾晴景は、父の強権的な路線を完全に放棄し、国内の国人領主たちとの融和を図る宥和政策へと大きく舵を切った 2 。その象徴的な政策が、為景によって長年傀儡化され、幽閉同然であった守護・上杉定実を名実ともに守護として復権させたことであった 2 。さらに、乱を通じて為景と激しく敵対した上田長尾家とも婚姻関係を結ぶなど 2 、国内の安定を最優先する姿勢を明確に示した。
この晴景の政策転換は、上条定憲の反乱がもたらした直接的な帰結であった。定憲の8年間にわたる不屈の抵抗 10 が、為景の独裁的な支配体制を崩壊させ、越後の政治勢力図を一度リセットさせたのである。この晴景による国内融和の時代がなければ、その弟である長尾景虎(後の上杉謙信)による急速な権力掌握と越後統一は、より多くの困難に直面したであろう。その意味で、上条定憲の行動は、意図せずして謙信時代の礎を築く一助となったと評価できる。
享禄・天文の乱によって当主・定憲を失い、没落した上条上杉家は、その後しばらく歴史の表舞台から姿を消す。名門の血筋は、一時的に断絶したかのように見えた。
しかし、元亀2年(1571年)、かつての宿敵・長尾為景の子である上杉謙信の命によって、上条政繁がその名跡を継ぐことが許され、上条家は再興を果たす 4 。これは、越後を完全に統一した謙信が、父の代からの宿敵であった名門・上条家を取り込むことで、自らの権威をさらに補強し、国内の完全な融和を内外に示すための、高度な政治的判断であったと考えられる。父が実力で破壊しようとした旧来の権威を、子は自らの権力基盤の一部として再利用したのである。この事実もまた、上条家が越後においていかに重要な存在であったかを物語っている。
上条定憲の生涯を総括するにあたり、我々は彼をどのように評価すべきであろうか。三分一原の合戦で敗死したという事実だけを見れば、彼は紛れもなく「敗者」である。しかし、彼の8年間にわたる抵抗は、越後国人衆の心を動かし、下剋上の体現者として越後に君臨した長尾為景を政治の舞台から引きずり下ろすという、当初の目的を達成した。その意味において、彼は「政治的な勝者」であったとも評価できる 26 。
上条定憲は、滅びゆく旧秩序、すなわち守護を中心とした室町時代的な公権力体制に最後まで忠誠を尽くし、それに殉じた、気高い精神の持ち主であった。彼の行動は、軍事的には敗北に終わったものの、為景の独走に終止符を打ち、越後の政治体制を一度白紙に戻すという重要な役割を果たした。そして、その結果として生まれた新たな政治状況が、宿敵の子である上杉謙信の飛躍を準備するという歴史の皮肉を生んだ。
したがって、上条定憲は単なる反逆者や時代遅れの抵抗者ではない。彼は、越後が守護・守護代体制の時代から新たな戦国大名領国へと移行する際の、重要な触媒として機能した「時代の転換者」として、歴史にその名を記憶されるべき人物である。彼の気高い反逆なくして、その後の越後の歴史は大きく異なったものになっていたであろう。