最終更新日 2025-06-10

上田政広

戦国武蔵の武将 上田政広の生涯と実像

はじめに

上田政広という人物の概要と本報告書の目的

本報告書は、戦国時代の武蔵国においてその名を刻んだ武将、上田政広(うえだ まさひろ)について、現存する史料に基づき、その生涯と実像を明らかにすることを目的とする。上田政広は、扇谷上杉氏の家臣であり、武蔵松山城主を務め、後に後北条氏に属したとされる人物である。特に、その息子である上田朝直(ともなお)も同時代に活躍した武将であり、両者の事績の区別は、彼らを理解する上で重要な点となる。

利用者におかれては、上田政広について「扇谷上杉家臣。上田朝直の父。松山城主。河越城合戦で、敗れた上杉朝定が落ち延びてくると匿うが、後に北条家に降る。上杉謙信との戦いで討死した」という概要を既に把握されている。本報告書では、これらの情報について史料に基づいた検証を行い、より詳細かつ多角的な視点から上田政広の人物像を提示することを目指す。

調査の範囲と主要参考文献の概観

本調査の範囲は、上田政広の出自、扇谷上杉家臣としての活動、後北条氏への帰順、そしてその最期に至るまでの生涯を対象とする。特に、息子である上田朝直との事績の区別、及び「上杉謙信との戦いで討死した」とされる伝承の真偽については、慎重な検討を加える。

主要な参考文献としては、『新編武蔵風土記稿』、『関八州古戦録』、『鎌倉大草紙』、『北条五代記』といった江戸時代に編纂された軍記物や地誌、上田氏の菩提寺である浄蓮寺(埼玉県東秩父村)に残された記録(特に『松山城主上田家過去帳』を含む)、さらには黒田基樹氏をはじめとする現代の歴史研究者による研究成果などを参照する。これらの史料を比較検討することで、上田政広の実像に迫りたい。

以下に、上田政広の生涯における主要な出来事をまとめた年表を提示する。

表1:上田政広 関連年表

年代(和暦)

出来事

備考(関連史料等)

生年不詳

武蔵七党西党の流れを汲む上田氏の一族として生まれる。

1

天文年間前半か

扇谷上杉氏に仕え、武蔵松山城主となる。官途名は上野介を称したか。

1 (上野介)、 3 (松山城主)

天文15年(1546年)

河越夜戦。扇谷上杉朝定戦死。政広も参戦し、敗戦後、松山城へ退避したとの記録あり。

4 (『新編武蔵風土記稿』)

天文16年(1547年)

嫡子・上田朝直に家督を譲り隠居。入道し、安楽斉(または闇楽斉、安独斎蓮好)と号す。

6 (安楽斉)、 1 (安独斎蓮好)

元亀2年(1571年)

8月1日、死去。

1

不明

菩提寺は埼玉県東秩父村の浄蓮寺。同寺に墓所が現存。

7

第一章:上田政広の出自と一族

上田氏の系譜:武蔵七党西党の流れを汲む名族

上田氏は、中世武蔵国に勢力を有した武士団である武蔵七党の一つ、西党の系統を引くとされる 1 。武蔵七党は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて武蔵国に盤踞した同族的武士団の総称であり、それぞれが広大な所領を有し、地域の支配に大きな影響力を持っていた。西党もその有力な一支族であり、多摩川流域を中心に勢力を張っていた。上田氏がこの西党の流れを汲むということは、彼らが新興の武士ではなく、古くから武蔵国に根を下ろした在地領主としての家柄であったことを示している。

軍記物である『松陰私語』には、戦巧者として「道灌父子(太田道灌とその父・道真)、上田・三戸・萩野谷」の名が挙げられており 2 、上田氏が武勇に優れた家として古くから認識されていた可能性がうかがえる。このような家柄は、上田氏にとって在地における影響力の源泉であったと考えられる。しかし同時に、戦国乱世の激動期において、扇谷上杉氏や後北条氏といった巨大勢力の狭間で独自の勢力を維持していくことの困難さも伴っていた。彼らは単なる従属的な被官というよりも、一定の自律性を保持しようとする国衆(くにしゅう)としての性格を強く有していたと推察される。武蔵七党という古くからの家柄に連なるという自負は、彼らが仕える大名が変わっても、在地領主としてのアイデンティティを保持し続ける要因となったであろう。そして、その立場ゆえに、戦国時代の勢力争いの中で、自家の存続を賭けて帰属先を戦略的に変更することもあった。上田氏の扇谷上杉氏への臣従、そして後の後北条氏への帰順といった動向は、単に「裏切り」や「変節」といった言葉で片付けられるものではなく、在地名門としての生き残りをかけた戦略であったと解釈することができよう。

上田政広と息子・上田朝直:父子関係の明確化

本報告書の主題である上田政広は、同時代に活躍した武将・上田朝直の父である 1 。史料において、政広は上野介(こうずけのすけ)の官途名で呼ばれることがあり 1 、入道してからは安楽斉(あんらくさい)、あるいは闇楽斉(あんらくさい)と号し 6 、法名を安独斎蓮好(あんどくさいれんこう)といった 1

一方、息子である上田朝直もまた、父と同様に歴史の舞台で名を残した。朝直は通称を又次郎(またじろう)といい 1 、左近大夫(さこんたいふ)や能登守(のとのかみ)の官途名も伝えられている 9 。その法名は安独斎宗調(あんどくさいそうちょう)であった 1

ここで注目すべきは、父子ともに「安独斎」という号を用いている点である(政広は蓮好、朝直は宗調)。また、「上野介」という官途名は、松山城主上田氏が代々名乗った可能性も指摘されている 2 。親子で類似の号や官途名を用いること自体は珍しいことではないが、記録が断片的になりがちな戦国時代の武将の場合、これが後世の史料解釈や研究において、父子の事績が混同される一因となることがある。特に「安独斎」という号については、両者を区別する上で注意深い史料読解が求められる。本報告書においても、この点を常に念頭に置き、両者の活動を明確に区別して記述することを心がける。

当時の武蔵国における上田氏の立場

上田氏は、室町時代後期から戦国時代前期にかけては、扇谷上杉氏の宿老(しゅくろう)として重きをなしたとされている 3 。宿老とは、家中の最高幹部であり、主家の政策決定にも深く関与する立場である。このことからも、上田氏が扇谷上杉家中で重要な地位を占めていたことがわかる。

戦国時代後期に入ると、上田氏の庶流家が武蔵松山城(現在の埼玉県比企郡吉見町に所在)の城主となり、同城を中心とした「松山領」と呼ばれる領域を支配する国衆として展開していった 3 。この松山領の範囲は、現在の埼玉県比企地域とほぼ一致すると考えられている 12 。この松山城を拠点とした上田氏の家系は、特に「松山上田氏」と称される 3 。上田政広も、この松山上田氏の当主として活動した人物である。

第二章:扇谷上杉家臣としての上田政広

松山城主としての活動開始

上田政広が具体的にいつから松山城主であったか、その正確な時期を史料から特定することは難しい。しかし、後述する河越夜戦(天文15年、1546年)以前から、彼が松山城の城主、あるいは城代として深く関与していたことは複数の史料からうかがえる。

江戸時代後期の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、河越夜戦の際の記述として「此城は扇谷宿老武州安戸城主上田左衛門大夫築て、家人難波田弾正左衛門を置けるか、此度の夜軍に上田又次郎政広も僅九騎にてはう々々松山へ籠けるか」とある 5 。この「上田又次郎政広」が本報告書の対象である上田政広を指すと考えられ、彼が河越夜戦の敗戦後に松山城へ退避したことを示唆している。ただし、息子の朝直の通称も又次郎であるため 1 、この記述が政広本人を指すのか、あるいは当時まだ若年であった可能性のある朝直との関連で記されたものかについては、慎重な解釈が求められるところであるが、『新編武蔵風土記稿』が「政広」と明記している点から、ここでは政広の事績として捉えたい。

河越夜戦(天文15年、1546年)と上田政広

天文15年(1546年)4月、武蔵国の覇権をめぐり、関東の勢力図を大きく塗り替える戦いが起こった。これが河越夜戦である。この戦いは、武蔵国の要衝であった河越城(現在の埼玉県川越市)を舞台に、城に籠る北条綱成(ほうじょうつなしげ)に対し、扇谷上杉朝定(おうぎがやつうえすぎともさだ)、山内上杉憲政(やまのうちうえすぎのりまさ)、そして古河公方足利晴氏(こがくぼうあしかがはるうじ)の連合軍が包囲攻撃を仕掛けたものであった 4 。しかし、北条氏康(ほうじょううじやす)率いる後詰の軍勢による巧みな夜襲によって連合軍は大敗を喫し、扇谷上杉朝定はこの戦いで討死、扇谷上杉家は事実上滅亡するという結果に至った 4

上田政広の動向については、前述の『新編武蔵風土記稿』の記述に基づけば、この河越夜戦に扇谷上杉方として参陣し、敗戦の混乱の中でわずかな手勢とともに命からがら松山城へ退避したと考えられる 5 。主家滅亡という未曾有の事態に直面し、政広もまた苦境に立たされたことは想像に難くない。

利用者情報の検証:「敗れた上杉朝定が落ち延びてくると匿う」について

利用者においては、上田政広が「敗れた上杉朝定が落ち延びてくると匿う」という情報を事前に把握されている。しかしながら、史実として上杉朝定は河越夜戦において戦死しており 4 、政広が戦後に朝定を松山城で匿ったという事実は確認できない。

この種の伝承は、主君の戦死という衝撃的な出来事と、家臣の忠節を期待する後世の人々の心情が結びついて形成された可能性が考えられる。あるいは、上田氏が扇谷上杉家の旧臣として、滅亡後も何らかの形で旧主家縁者に対して一定の役割を果たしたことを象徴的に示す逸話として語り継がれたのかもしれない。例えば、朝定以外の扇谷上杉家関係者を一時的に保護した話が、時を経て朝定本人を匿ったという形に変化した可能性も否定できない。しかし、具体的な史料的裏付けがない以上、上杉朝定を匿ったという伝承は、史実とは異なるものと判断せざるを得ない。

第三章:後北条氏への帰順と隠居

河越夜戦後の情勢と後北条氏への帰順

河越夜戦における扇谷上杉家の滅亡は、武蔵国を中心とする関東の勢力図を一変させた。扇谷上杉氏という大きな後ろ盾を失った上田政広をはじめとする旧家臣たちは、急速に勢力を拡大する後北条氏の威光の前に、極めて厳しい立場に置かれた。このような状況下で、多くの国衆がそうであったように、上田氏もまた後北条氏へ帰順するという道を選択することになる。

その具体的な時期や経緯を詳細に記した史料は乏しいものの、河越夜戦からそれほど遠くない時期に、上田氏は後北条氏の支配体制下に組み込まれていったと推測される。これは、単に軍事的な圧力だけでなく、後北条氏による巧みな調略や、国衆の自立性をある程度認める政策なども影響した可能性がある。

天文16年(1547年)の家督相続と入道

河越夜戦の翌年である天文16年(1547年)、上田政広は嫡子である上田朝直に家督を譲り、自身は入道して安楽斉(または闇楽斉)と号したと記録されている 6 。法名は安独斎蓮好である 1 。この家督相続と隠居は、単に個人的な理由によるものだけではなかったと考えられる。

主家である扇谷上杉家の滅亡という大きな転換期において、当主がその責任を負うような形で隠居し、若い世代に新たな支配体制下での家の舵取りを委ねるという対応は、戦国時代の武家においてしばしば見られる戦略であった。政広の隠居は、旧体制との区切りをつけ、後北条氏という新たな支配者との関係を円滑に構築するための政治的な判断であった可能性が高い。旧体制の中心人物が表舞台から退くことで、上田家が新体制へスムーズに移行し、家の存続を図ろうとしたものと解釈できる。この世代交代は、上田氏が後北条氏の家臣として新たな道を歩み始める上での重要な転換点であったと言えよう。

息子・上田朝直の台頭

家督を継承した上田朝直は、父・政広に代わって松山城主として本格的な活動を開始する 1 。朝直の時代、松山城をめぐる情勢は依然として複雑であった。特筆すべきは、同じく旧扇谷上杉家臣であった太田資正(おおたすけまさ)との関係である。朝直は一時、太田資正と協力して松山城を後北条氏から奪回する動きを見せるが、その後、資正から離反し、松山城ごと後北条氏に再属するという経緯を辿っている 1 。この時期の松山城をめぐる攻防は、主に朝直の事績として記録されている。

上田朝直は行政手腕にも長けていたとされ、後北条氏当主である北条氏康からの信任も厚く、独自の領国経営をある程度許されていたとの評価もある 1 。これは、上田氏が後北条氏の支配体制下において、単なる被官ではなく、一定の自立性を有する国衆として扱われていたことを示唆している。

第四章:上田政広の最期

隠居後の動向

天文16年(1547年)に家督を息子・朝直に譲り、安楽斉(安独斎蓮好)として入道した上田政広の、その後の具体的な活動に関する記録は乏しい。隠居の身として、どのように過ごしていたのか、詳細は不明である。しかし、戦国の世にあって、一線を退いたとはいえ、完全に俗世と離れて暮らすことは難しかったであろう。上田家の菩提寺である浄蓮寺との関わりや、一族の後見的な役割を担っていた可能性も考えられる。

元亀2年(1571年)8月1日の死去

複数の史料において、上田政広(安独斎蓮好・上野介)は元亀2年(1571年)8月1日に没したと記されている 1 。これが、現在最も確実性の高い政広の没年・没日であると考えられる。

「上杉謙信との戦いで討死」という伝承の検証

利用者においては、上田政広が「上杉謙信との戦いで討死した」という情報を事前に把握されている。この伝承について、政広の没年とされる元亀2年(1571年)当時の上杉謙信の関東における動向と照らし合わせて検証する。

上杉謙信は元亀年間にも関東へ度々出兵しているが 17 、政広の没日である元亀2年8月1日時点で、謙信が直接上田政広と交戦し、政広が討死するような大規模な戦闘が関東であったという明確な記録は、提供された史料からは確認できない。上杉謙信の元亀2年における関東への本格的な侵攻は、主にその年の11月以降であり、佐竹義重と結んだ武田信玄に対抗するため、小田氏治を援助する目的であったとされている 17 。これは政広の没後である。また、同年2月には謙信は越中国へ出陣している記録もある 17

一部の二次創作的な資料 19 には、上杉謙信(関東管領)に味方する可能性のある諸将の一覧の中に「上田政広」の名が見えるが、これは敵対関係を示すものではなく、また史料的価値も低い。

これらの状況を鑑みると、「上杉謙信との戦で討死」という伝承は、いくつかの要因が複合的に作用して形成された可能性が考えられる。まず、政広の没年である元亀2年前後に、実際に上杉謙信が関東で軍事活動を展開していたという史実が存在する。そして、上田氏が最終的に後北条氏の配下にあったことから、後世において、北条方の武将であった政広が謙信との戦いで命を落としたという物語が結び付けられやすかったのかもしれない。あるいは、上田一族の誰かが、謙信方との小規模な戦闘や小競り合いで命を落とした話が、時を経て当主である政広の逸話として誤伝されたか、あるいは軍記物などで劇的に脚色された可能性も否定できない。

しかしながら、元亀2年8月1日という具体的な没年月日が記録されている以上 1 、その日に上杉謙信との直接戦闘によって討死したとするには、より明確な史料的裏付けが必要となる。菩提寺の記録などに死因に関する記述があれば有力な手がかりとなるが、現時点では不明である。したがって、この「討死」伝承は、その存在を認識しつつも、史料的な確証は薄いと結論付けざるを得ない。

菩提寺・浄蓮寺と上田一族の墓所

上田氏の菩提寺は、埼玉県秩父郡東秩父村に現存する日蓮宗の寺院、浄蓮寺である 7 。この浄蓮寺の寺伝によれば、天文年間(1532年~1555年)に松山城主であった上田朝直が病に罹った際、浄蓮寺に祈願したところ平癒したという霊験があり、これを機に上田一族は日蓮宗に改宗し、浄蓮寺の檀家になったと伝えられている 21

浄蓮寺の境内には、上田政広、その子・朝直、そして朝直の子である長則(ながのり)の三代の墓が現存しており、これらは政広の曾孫にあたる上田憲定(のりさだ)によって建立されたものと考えられている 7 。これらの墓石や、浄蓮寺が所蔵する上田氏関連の古文書(例えば、上杉朝興から浄蓮寺へ宛てられた寺中諸公事を赦免する旨の書状や、上田宗調(朝直)が浄蓮寺への寄進を約束した書状など 24 )は、上田氏の歴史を研究する上で非常に貴重な史料群であると言える。

第五章:歴史的評価と考察

史料に見る上田政広の人物像と事績の再確認

上田政広に関する史料は断片的であり、その全貌を詳細に描き出すことは容易ではない。しかし、現存する記録からは、扇谷上杉家の家臣として、また武蔵松山城主として活動し、河越夜戦という関東戦国史における大きな転換点を経験し、その後は後北条氏に属し、子・朝直に家督を譲って隠居、元亀2年(1571年)にその生涯を閉じた武将の姿が浮かび上がってくる。

その事績は、著名な息子である上田朝直の陰に隠れがちであり、混同されることも少なくない。しかし、政広が生きた時代は、扇谷上杉氏の勢力が衰退し、代わって後北条氏が関東に覇権を確立していく激動の過渡期であった。そのような中で、在地領主・国衆として、上田家の存続と勢力維持に努めた人物として評価することができる。

以下に、上田政広とその息子・上田朝直の経歴を比較する表を掲げる。これにより、両者の活動時期や事績の違いが一層明確になるであろう。

表2:上田政広と上田朝直の経歴比較

比較項目

上田政広

上田朝直

続柄

上田朝直の父

上田政広の子

主な活動時期

戦国時代前期~中期(天文年間中心)

戦国時代中期~後期(天文年間~天正年間)

通称

上野介、安楽斉(闇楽斉)

又次郎、左近大夫、能登守

号・法名

安独斎蓮好

安独斎宗調

仕えた主家

扇谷上杉氏 → 後北条氏

扇谷上杉氏 → 後北条氏 → (一時)長尾景虎(上杉謙信) → 後北条氏

主な拠点(城)

武蔵松山城

武蔵松山城

重要な戦いや出来事

河越夜戦への参加、後北条氏への帰順、隠居

河越夜戦後の松山城奪回、太田資正との連携および離反、後北条氏家臣としての領国経営、長尾景虎(上杉謙信)への一時的帰順、池上本門寺山門寄進 1

生年

不詳

大永4年(1524年)または永正11年(1494年)説あり 9

没年

元亀2年(1571年)8月1日 1

天正10年(1582年)10月3日 7

この表からもわかるように、父子ともに「安独斎」を号し、松山城を拠点とした点は共通しているが、その活動内容や生きた時代背景には差異が見られる。

戦国期武蔵国における上田氏(特に政広)の歴史的意義

上田政広の生涯は、戦国期武蔵国における国衆の動向を理解する上での一つの事例として捉えることができる。扇谷上杉氏の衰退と後北条氏の関東支配確立という大きな歴史的転換点において、上田氏は在地勢力として生き残りを図るため、帰属する大大名を変更するという選択を迫られた。これは、上田氏に限らず、当時の多くの国衆が経験したことであった。

政広の時代は、まさにその激動の始まりであり、彼の決断と行動は、その後の松山上田氏の方向性を決定づけるものであったと言える。後北条氏の支配体制下で、息子・朝直が巧みな領国経営を展開できた背景には、父・政広による困難な時期の舵取りがあったと評価できるかもしれない。

上田政広と上田朝直の事績の区別と関連性の重要性

本報告書を通じて繰り返し強調してきたように、上田政広とその息子・上田朝直の事績を明確に区別することは、彼らの歴史的評価を行う上で極めて重要である。特に、類似した号(安独斎蓮好と安独斎宗調)や共通の活動拠点(松山城)、そして「上野介」という官途名が上田氏によって襲名された可能性などから、両者の事績は混同されやすい。

しかし、政広の隠居が朝直の本格的な活動の開始点となり、上田家が後北条氏という新たな支配者のもとで新たな時代を切り開いていくという点では、父子の間には明確な連続性と関連性が見られる。政広の時代に培われた基盤が、朝直の時代にどのように継承され、あるいは変容していったのかを考察することは、戦国期における在地領主の存続戦略を理解する上で興味深い視点を提供するであろう。

おわりに

上田政広に関する調査結果の総括

本報告書では、戦国時代の武将・上田政広について、現存する史料に基づいてその生涯と実像の解明を試みた。その結果、上田政広は武蔵七党西党の流れを汲む上田氏の出身であり、扇谷上杉家の宿老として、また武蔵松山城主として活動した人物であったことが確認された。天文15年(1546年)の河越夜戦という関東戦国史における一大転換点を経験した後、後北条氏に属し、天文16年(1547年)には子・朝直に家督を譲って隠居、安独斎蓮好と号し、元亀2年(1571年)8月1日に没したというのが、史料から追える政広の生涯の骨子である。

利用者が事前に把握されていた「上杉謙信との戦いで討死した」という伝承については、政広の没年とされる元亀2年8月1日時点での上杉謙信の具体的な動向と照らし合わせた結果、史料的な裏付けは乏しいと判断された。また、「敗れた上杉朝定が落ち延びてくると匿う」という伝承についても、上杉朝定が河越夜戦で戦死していることから、史実とは異なると考えられる。

今後の研究課題と展望

上田政広に関する史料は、息子・朝直と比較して限定的であり、その具体的な活動内容、特に扇谷上杉家臣時代の詳細や、隠居後の生活については、未だ不明な点が多い。今後の研究においては、新たな史料の発見、特に一次史料の探索が期待される。

また、上田氏の菩提寺である浄蓮寺には、現在も上田氏関連の古文書や記録が残されている可能性があり 24 、これらの詳細な分析が進めば、上田政広を含む松山上田氏一族のより詳細な人物像や、当時の比企地域における彼らの活動実態が明らかになる可能性がある。特に『松山城主上田家過去帳』 1 の内容の精査は、一族の没年や法名、さらには人間関係などを解明する上で不可欠であろう。

戦国期の武蔵国における国衆の動向は、関東全体の戦国史を理解する上で重要なテーマであり、上田政広とその一族の研究は、その一翼を担うものとして、今後のさらなる進展が望まれる。

引用文献

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