本報告書は、日本の戦国時代に武蔵国で活動した武将、上田朝直(うえだ ともなお)の生涯と事績について、現存する史料に基づき、その実像を多角的に明らかにすることを目的とする。上田朝直は、扇谷上杉氏の重臣として歴史の舞台に登場し、後に後北条氏に仕えて武蔵松山城主を務めるなど、関東地方の戦国動乱期において重要な役割を果たした人物である 1 。しかし、その出自や具体的な活動、特に生年を巡る問題や、複雑な主家の変遷の背景、統治者としての側面、そして彼自身の信仰心に至るまで、詳細な検討を要する点も少なくない。
上田朝直の経歴は、当時の関東地方における地域領主(国衆)が、大大名間の激しい勢力争いの中でいかにして自らの勢力を維持し、あるいは拡大しようとしたかを示す好個の事例と言える。関東地方は、扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方といった旧勢力と、急速に台頭した後北条氏、さらには越後の長尾景虎(上杉謙信)や甲斐の武田氏といった外部勢力の介入が複雑に絡み合い、常に流動的な情勢にあった。このような状況下で、上田朝直のような国衆は、時には主家への忠誠を尽くし、時にはより有力な勢力へと帰属先を変えるといった、現実的な判断を迫られることが常であった。本報告書では、これらの点を踏まえつつ、上田朝直の生涯を追うことで、戦国期関東の一断面を浮き彫りにすることを目指す。
上田氏は、武蔵国に古くから勢力を有した武士団である武蔵七党(むさししちとう)の一つ、西党(にしとう)の流れを汲むとされている 2 。武蔵七党は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて武蔵国で活動した同族的武士団の総称であり、それぞれが広範囲な地域に影響力を持っていた。西党はその中でも有力な一派であった。中世の軍記物や史料にも上田氏の名は散見され、『松陰私語』においては、太田道灌父子(太田道真・道灌)と並んで「上田・三戸・萩野谷」が戦巧者として挙げられており 3 、古くから武勇に優れた家柄として認識されていたことがうかがえる。この武蔵国における伝統的な武士としての家格は、上田朝直が地域社会において一定の正統性と影響力を持つ上で、少なからぬ基盤となったと考えられる。
上田朝直の父は、上田政広(うえだ まさひろ)、法名を安独斎蓮好(あんどくさいれんこう)といい、元亀2年(1571年)8月1日に没したと記録されている 2 。母については、扇谷上杉氏の重臣であった難波田弾正少弼憲重(なんばだ だんじょうしょうひつ のりしげ)の姉妹であったとされる 2 。この難波田氏との姻戚関係は、上田朝直の初期のキャリア、特に扇谷上杉氏への仕官とその中での地位形成において、極めて重要な意味を持ったと考えられる。難波田憲重は、扇谷上杉氏の宿老として知られ、武蔵松山城の守備にもあたった有力な武将であった 2 。このような有力な外戚の存在は、朝直が扇谷上杉氏の家臣団の中で足場を固め、その後の活動を展開していく上で大きな助けとなったであろう。
上田朝直の生年については、主に二つの説が提示されており、現在も確定を見ていない。
第一の説は、明応3年(1494年)生まれとするものである。この説の根拠は、朝直が元亀2年(1571年)に武蔵国松山(現在の埼玉県東松山市)の清正公堂境内に建立した青石塔婆(題目板碑)の銘文にある「生年七十八」という記述である 2 。これを文字通り78歳と解釈し逆算すると、明応3年(1494年)の生まれとなる。この場合、一般的な没年とされる天正10年(1582年)に没したとすると、享年は89歳 1 、あるいは東松山市の案内では90歳 5 という長寿を全うしたことになる。
第二の説は、永正13年(1516年)生まれとするものである。この説は、黒田基樹氏が執筆を担当した『戦国人名辞典』などで採用されている 2 。この説に基づけば、天正10年(1582年)に没した際の享年は67歳となる。
これら二つの説の間には22年もの開きがあり、どちらの説を採るかによって、朝直が経験した歴史的事件、例えば扇谷上杉氏の滅亡(天文15年、1546年)や後北条氏への臣従といった画期における彼の年齢、つまり経験や成熟度が大きく異なってくる。1494年生まれであれば、河越夜戦の時点(1546年)で52歳という老練な武将であったことになり、一方1516年生まれであれば30歳であり、経験豊富な武将ではあるものの、前者とは人物像の印象が大きく変わる。
生年に関する議論では、1494年説が石碑という具体的な物的証拠に基づいているのに対し、1516年説は高名な研究者の著作に見られるものの、その直接的な典拠が必ずしも明確ではない点が指摘されている 6 。史料的価値としては、同時代に近い石碑の記述が重視される傾向もあるが、銘文の解釈(例えば「七十八」を「五十八」の誤記や別の意味と捉える可能性など)も関わってくるため、単純な比較は難しい。この生年に関する問題は、戦国時代の特に大大名以外の武将に関する基礎的な伝記事項を確定させることの難しさ、そして金石文のような一次史料に近いものと、後世の研究成果との間で、どのように評価の軽重を置くかという歴史学的な課題をも示していると言える。
以下に、上田朝直の生没年に関する諸説をまとめた表を提示する。
表1:上田朝直の生没年に関する諸説
説 |
生年 |
没年 |
享年 |
根拠 |
備考 |
1494年説 |
明応3年 (1494) |
天正10年 (1582) 10月3日 |
89歳 1 または 90歳 5 |
清正公堂題目板碑の銘文「生年七十八」(元亀2年時点) 2 |
菩提寺の石碑の記述に基づく。 |
1516年説 |
永正13年 (1516) |
天正10年 (1582) 10月3日 |
67歳 2 |
『戦国人名辞典』(黒田基樹氏執筆)など 2 |
学術的著作によるが、直接的な一次史料上の論拠は不明確とされる。 |
没年異説 |
不明 |
天正18年 (1590) 5月3日 |
不明 |
妙賢寺(埼玉県東松山市)蔵『松山城主上田家過去帳』 2 |
この場合、小田原征伐の直前まで存命していたことになるが、他の史料との整合性が課題。 |
上田朝直は、その経歴の初期において、関東管領を輩出した上杉氏の一方の雄である扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)に重臣として仕えていた 1 。彼の父・政広も扇谷上杉氏の家臣であった可能性が高く、朝直はその家督と立場を継承したと考えられる。加えて、前述の通り、母が扇谷上杉氏の宿老である難波田憲重の姉妹であったことは、朝直と扇谷上杉氏との結びつきを一層強固なものにしたであろう 2 。この血縁関係は、彼が家臣団の中で重きをなす上で有利に働いたと推測される。
上田朝直が扇谷上杉氏に仕えていた時期は、同氏にとって極めて困難な時代であった。相模国を拠点として急速に勢力を拡大した後北条氏(ごほうじょうし)との間で激しい抗争が繰り返され、扇谷上杉氏は次第に劣勢に立たされていた 2 。この時期、朝直の伯父にあたる難波田憲重は、武蔵国の戦略的要衝である松山城(現在の埼玉県比企郡吉見町)の守将を務めていた 2 。しかし、扇谷上杉氏は後北条氏の攻勢の前に河越城(現在の埼玉県川越市)を奪われるなど、軍事的に追い詰められていき、一時は松山城を事実上の本拠地として抵抗を続ける状況にあった 2 。このような主家の存亡に関わる危機的状況において、上田朝直も一武将として、また難波田氏との緊密な連携のもと、扇谷上杉氏の防衛戦に深く関与し、軍事的な経験を積んだと考えられる。衰退しつつある名門に仕えるという経験は、彼にとって戦国乱世を生き抜く上での厳しい教訓となり、後の政治的判断や軍事行動に影響を与えた可能性は否定できない。
天文15年(1546年)、関東の勢力図を大きく塗り替える戦いとなった河越夜戦において、扇谷上杉氏当主の上杉朝定(うえすぎ ともさだ)が討死し、扇谷上杉氏は事実上滅亡した 1 。この歴史的な敗北は、武蔵国を中心とする多くの国衆にとって、新たな主君を選択せざるを得ない状況を生み出した。上田朝直もまた、この変動の中で、関東に覇を唱えつつあった後北条氏の当主・北条氏康(ほうじょう うじやす)に仕える道を選んだ 1 。これは、当時の武蔵国人衆の多くが辿った道であり、生き残りのための現実的な選択であったと言える。
扇谷上杉氏の滅亡後、上田朝直と姻戚関係にあった太田資正(おおた すけまさ)が一時的に武蔵松山城を奪取し、朝直もこれに協力して松山城に在城したと伝えられている 1 。しかし、その後、資正が城を不在にした隙を突いて、朝直は後北条氏に内応し、松山城を後北条氏の支配下に置くことに貢献した 1 。この功績が認められ、朝直は後北条氏のもとで正式に松山城主に任じられたと考えられる。武蔵松山城は、関東平野のほぼ中央北部に位置し、武蔵国の大半を制圧する上で、また上野国(現在の群馬県)方面への進出拠点としても極めて重要な戦略的価値を持つ城であった 8 。朝直がこの松山城を得たことは、単に旧主から新主へ乗り換えたというだけでなく、彼自身の戦略的な判断と行動が直接的な結果として結実したものであり、後北条氏の勢力下における彼の地位を確固たるものにした。後北条氏にとっても、現地の事情に明るく、かつ能力のある朝直を松山城主に据えることは、武蔵国支配を安定させる上で大きな利点があった。
太田資正とは、当初、同じく扇谷上杉氏の旧臣として、また姻戚関係(資正の妻が朝直の縁者、あるいはその逆など諸説あり)を通じて協力関係にあったと見られる 1 。しかし、松山城の支配権を巡っては両者の利害が対立し、前述の通り、朝直が後北条氏に内応する形でその関係は決裂した。その後も、太田資正は上杉謙信の関東出兵に呼応して松山城を一時的に奪還するなど 2 、両者の間では松山城をめぐる攻防が繰り返されることとなった。この朝直と資正の間の協力と対立は、単なる個人的な確執に留まらず、当時の関東地方における国衆間の複雑な人間関係や、より大きな勢力図の変動に翻弄される地域権力の様相を象徴している。特に武蔵国は、諸勢力の草刈り場となることが多く、国衆たちは常に厳しい選択を迫られていたのである。
永禄2年(1559年)頃、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東管領上杉憲政(うえすぎ のりまさ)を奉じて大規模な関東出兵を開始すると、関東の諸将の多くがこれに呼応した。上田朝直もこの時、一時的に後北条氏を離反し、景虎方に与したと記録されている 2。この結果、永禄4年(1561年)には、景虎(この頃、上杉憲政から名を譲られ上杉政虎、後の輝虎・謙信と名乗る)によって太田資正が松山城主に任じられている 2。
しかし、上杉謙信の関東における支配は必ずしも永続的なものとはならず、彼が越後へ引き上げると後北条氏が勢力を回復することが常であった。上田朝直も、このような情勢の変化を見極め、再び後北条氏に帰属し、松山城主に復帰したものと考えられる。この時期の松山城は、後北条氏と上杉氏という二大勢力の衝突の最前線の一つであり、その領有を巡って激しい争奪戦が繰り広げられた 7。朝直の謙信への一時的な離反は、謙信の関東出兵が後北条氏の支配を深刻に脅かすと判断した上での、計算された危険回避行動であった可能性が高い。彼が最終的に後北条氏に復帰し、再び松山城を任されたという事実は、彼の政治的な機敏さを示すと同時に、後北条氏が「他国衆」である彼の能力や地域における影響力を重視し、一時的な離反を許容するだけの現実的な判断を下した結果とも解釈できる。このような動きは、後北条氏の譜代家臣ではない外様の国衆にとっては、時に生き残りのための常套手段でもあった。
上田朝直は、単なる武勇に優れた武将であっただけでなく、行政手腕にも長けていたと評価されている。特に、後北条氏の全盛期を築いた北条氏康から信任を受け、ある程度の独自の領国経営を許されていたと伝えられる 2。これは、彼が後北条氏の家臣団の中で「他国衆」(たこくしゅう)として位置づけられていたことと深く関連している 1。「他国衆」とは、元々は後北条氏とは別の独立した領主であったが、後にその支配下に組み込まれた者たちを指し、譜代の家臣とは異なる一定の自律性が認められることがあった。
永禄2年(1559年)に作成された『小田原衆所領役帳』によれば、上田朝直は相模国東郡粟船郷(現在の神奈川県鎌倉市付近か)や武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市野本)・福田(現在の埼玉県比企郡滑川町福田か)などで合計471貫余の所領を有していたことが記録されている 1。また、松山衆として81貫の軍役を負担した記録もあり 1、松山城を中心とする彼の支配領域と経済力の大きさがうかがえる。後北条氏が、元々その地の領主であった朝直にこのような広範な支配と一定の自治を認めた背景には、彼の統治能力への信頼と、現地の事情に精通した彼を通じて地域を安定的に支配する方が効率的であるという、後北条氏の現実的な統治戦略があったと考えられる。
上田朝直の具体的な統治行動を示す史料として、彼が発給した文書がいくつか現存している。天文19年(1550年)12月晦日付の浄蓮寺(じょうれんじ)宛寄進状から、天正3年(1575年)12月11日付の正法寺(しょうぼうじ)護摩堂宛制札(せいさつ)に至るまで、少なくとも7通の発給文書が確認されている 1 。これらの文書には、寺社への所領寄進や特権安堵、領民に対する法令の発布などが含まれており、彼が領内の寺社保護政策や民政に積極的に関与していたことを示している。例えば、制札は領民が守るべき規則を公示するものであり、彼の行政権が具体的に行使されていた証左である。また、「上田家文書」として、北条氏邦(ほうじょう うじくに)から宝積坊(ほうしゃくぼう)に宛てられた朱印状の存在も指摘されており 11 、上田氏が関わる文書群が一定程度まとまって伝来していた可能性を示唆している。これらの文書は、彼の統治者としての一面を具体的に伝える貴重な史料と言える。
上田朝直は、後北条氏の主要な軍事行動にも参加しており、一廉の武将としての評価を得ていた。その代表的な例として、永禄12年(1569年)に武田信玄と後北条氏が激突した三増峠(みませとうげ)の戦いにおいて、北条軍に参陣した武将の中に上田朝直の名が見える 12。この戦いは、後北条氏にとって極めて重要な防衛戦であり、そこに彼が動員されていたという事実は、単に松山城の守将に留まらず、後北条軍の中核をなす戦力の一つとして期待されていたことを示している。
また、前述の通り、上田氏の家系は古くから「戦巧者」として評価されており 3、その血筋を受け継ぐ朝直自身も、個人的な武勇や部隊指揮官としての能力に長けていた可能性が高い。松山城という戦略的要衝を長期間にわたり保持し続けたこと自体が、彼の軍事的な能力と政治的なバランス感覚の高さを示していると言えるだろう。
既に触れたように、上田朝直は後北条氏の家臣団において「他国衆」として扱われた 1。これは、元々独立した国衆であった者が後北条氏の支配体制に組み込まれた際に与えられる地位であり、譜代家臣とは区別される外様的な立場を意味する。他国衆は、一定の旧領における支配権や軍事指揮権を保持することが多く、後北条氏の領国拡大と安定化に貢献した。
朝直にとってこの「他国衆」という立場は、一定の自律性を保ちながら後北条氏という強大な後ろ盾を得るという利点があった一方で、その忠誠心は常に試され、主家の信頼を維持し続けるためには継続的な貢献が求められるという、ある種の緊張感を伴うものであった。彼が許された「独自の領国経営」2 や、上杉謙信への一時的な離反とその後の復帰 2 といった事象は、この「他国衆」という彼の立場が持つ両義性――すなわち、ある程度の行動の自由と、それゆえの不安定さ――を反映しているのかもしれない。後北条氏としても、有用な他国衆に対しては、多少の揺らぎがあっても現実的な判断で再統合を図ることが、勢力維持のためには不可欠であった。
上田朝直は、信仰心の篤い人物であったことを示す事績が複数伝えられている。その一つが、天文17年(1548年)に、上田氏の菩提寺であった浄蓮寺の僧・日如(にちにょ)と共に、日蓮宗の総本山の一つである池上本門寺(現在の東京都大田区)に山門(仁王門)を寄進したことである 2。この事実は、同門に安置されている金剛力士像の胎内から発見された銘板によって確認されており、彼の広域にわたる宗教的ネットワークと財力を示唆している。
さらに、元亀2年(1571年)には、それまでの戦乱で命を落とした一族や家臣たちの冥福を祈るため、武蔵松山城下に青石塔婆(あおいしとうば)、いわゆる題目板碑を建立した 2。この石碑は総長273センチメートルにも及ぶ大規模なものであり、埼玉県指定史跡となっている 5。これらの大規模な宗教的寄進や慰霊事業は、単に個人的な信仰の発露であるに留まらず、領主としての権威と慈悲心を示し、家臣団や領民の結束を高めるという社会的な意味合いも持っていたと考えられる。特に、戦死した家臣たちのために大規模な慰霊碑を建立する行為は、現存する家臣やその家族に対し、彼らの忠誠と犠牲が無駄にならないことを示すものであり、領主としての求心力を高める効果があったであろう。
上田朝直は、天文19年(1550年)頃に「安独斎宗調(あんどくさい そうちょう)」または「案独斎宗調」と号するようになった 1 。これは入道名であり、仏門に入ったことを示す。一般的には、武将が入道するということは隠居、あるいはそれに近い立場になったことを意味するが、朝直の場合、安独斎と号した後も引き続き活動が見られるため、完全な隠遁生活に入ったわけではないと考えられる。彼の戒名は「光賢院殿宗調日義大居士(こうけんいんでんそうちょうにちぎだいこじ)」と伝えられている 2 。なお、一部資料 1 では「宗鑑(そうかん)」と号したとの記述もあるが、多くの史料では「宗調」とされており、こちらが一般的である。
上田朝直の晩年において、家督は子の長則(ながのり)に譲られた。天正年間初期、具体的には天正3年(1575年)頃から、長則が独自に定書(さだめがき)などの公的な文書を発給する事例が見られるようになる 1 。これは、この時期に家督相続が行われ、朝直が隠居、あるいは実質的な統治の第一線から退いたことを示唆している。朝直自身が発給した文書で年紀が確認できる最後のものは天正3年(1575年)のものであり 1 、これ以降は長則が主体となって領国経営にあたったと見られる。一部には永禄10年(1567年)12月に隠居したとの記述もあるが 1 、文書の発給状況からは天正初年頃の家督移譲がより実態に近いと考えられる。このように、当主が存命中に後継者が文書を発給し始めるケースは、後継者への権限委譲を徐々に進め、統治の円滑な移行を図るためのものであった可能性があり、戦国時代の武家においてはしばしば見られる措置であった。これにより、後継者は経験を積み、当主は後見的な立場から補佐することが可能となる。
上田朝直の没年については、最も一般的に受け入れられているのは、天正10年(1582年)10月3日(旧暦)である 1。この日付は西暦に換算すると1582年10月19日にあたる。享年については、前述の生年説によって異なり、1494年生まれ説を採れば89歳または90歳 1、1516年生まれ説を採れば67歳となる。
東松山市の資料では、天正10年(1582年)に90歳の高齢で他界したと記されており 5、これは1494年生まれ説と整合する。
一方で、異説も存在する。埼玉県東松山市にある妙賢寺(みょうけんじ)が所蔵する『松山城主上田家過去帳』には、朝直の没年を天正18年(1590年)5月3日とする記録がある 2。もしこの記録が事実であれば、朝直は豊臣秀吉による小田原征伐の直前まで存命していたことになり、後北条氏の滅亡という歴史的転換点を目の当たりにしたことになる。しかし、この天正18年没説は他の多くの史料との整合性において課題があり、現時点では天正10年没説が有力とされている。もし彼が1590年まで生きていたとすれば、その最晩年の関東の激動に対する彼の思いや行動は非常に興味深いものとなるが、現在のところそれを裏付ける具体的な史料は提供された範囲では見当たらない。
上田朝直の家督は、嫡男である上田長則(うえだ ながのり)が継承した 1 。長則は父の隠居後、松山城主として領国経営にあたった。長則の没年については天正11年(1583年)とする情報がある 13 。長則の後は、その弟(または子、史料により関係性の記述に若干の揺れが見られるが、 13 では長則の「兄」憲定が継いだとある。しかし、長則が朝直から家督を継いだ時期や没年から考えると、憲定が長則の兄であるというのは時系列的に考えにくく、弟もしくは子、あるいは長則が早世したため別の近親者が後を継いだ可能性などが考えられる)とされる上田憲定(うえだ のりさだ)が家督を継ぎ、引き続き松山城主として活動した 13 。憲定は城下町を整備するなど、領国経営に力を注いだと伝えられている 13 。
天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が後北条氏を討つために小田原征伐を開始すると、関東の情勢は一変する。この時、松山城主であった上田憲定は、後北条氏の当主・北条氏政(ほうじょう うじまさ)、氏直(うじなお)親子が籠る本城の小田原城に馳せ参じ、籠城軍の一翼を担った 13。これは、後北条氏の主要な家臣や国衆が小田原城に集結し、総力戦で豊臣軍を迎え撃つという後北条氏の基本戦略に沿った行動であった。
主君不在となった松山城は、家臣の山田直安(やまだ なおやす)らが中心となり、約2,300名の兵で守備にあたった 14。しかし、豊臣方の大軍(前田利家や上杉景勝の軍勢が主力であったとされる)に包囲され、激しい攻防の末、開城を余儀なくされた 8。小田原城もまた長期の包囲の末に開城し、後北条氏は滅亡。これにより、後北条氏の家臣であった上田氏もまた、松山城とその所領を失うこととなった。この小田原征伐は、上田朝直以来の武蔵松山城主としての同家にとっては、まさに時代の終焉を意味する出来事であった。
武蔵松山城主であった上田朝直の系統が、小田原征伐後にどのような運命を辿ったのか、提供された史料からは明確な動向を詳らかにすることは難しい。後北条氏の滅亡に伴い、多くの旧臣が所領を失い、あるいは新たな主君を求めて離散した。
参考情報として、江戸時代には上田姓を名乗る旗本が複数存在したことが確認できる 3。例えば、上田元俊(うえだ もととし)は徳川家康に仕えた旗本である 15。しかし、これらの旗本上田氏と、武蔵松山城主家の上田朝直の系統との間に直接的な血縁関係や家系的連続性があるかどうかは、これらの史料だけでは断定できない。また、信濃国の上田を本拠とし、真田氏との上田合戦で知られる上田氏は、系統の異なる一族である 16。
戦国時代の敗者となった大名や国衆の家系が、その後歴史の表舞台から姿を消したり、あるいは細々と家名を繋いだりする例は数多く見られる。上田朝直の直系子孫がどのような道を歩んだのか、その詳細は今後のさらなる史料の発見と研究に待たれるところである。提供された情報からは、松山城主上田氏のその後の明確な足跡を追うことは困難であり、その遺産は断片的なものとなっている可能性が高い。
上田朝直は、戦国時代中期の関東地方における激動の時代を、扇谷上杉氏の家臣から後北条氏の有力な「他国衆」へとその立場を変えながら、巧みに生き抜いた武将であった。彼は武蔵松山城主として、地域の支配と安定に貢献し、単なる武人としてだけでなく、行政手腕にも長けた統治者としての一面も持っていた。永禄2年(1559年)の役帳に見られる所領の規模や、彼が発給した複数の文書は、その支配の実態と統治能力を物語っている。また、池上本門寺への山門寄進や、戦没した一族家臣のための大規模な慰霊碑建立といった行為は、彼の篤い信仰心と、配下への配慮を示すものであり、文化的な側面も持ち合わせていた人物であったことがうかがえる。
上田朝直の生涯は、大大名間の絶え間ない勢力争いに翻弄されつつも、在地領主としての一定の自立性を保ちながら生き残りを図ろうとした、戦国期関東の国衆の典型的な姿を映し出していると言える。彼の主家の変遷は、当時の関東における力の均衡がいかに流動的であったか、そして国衆たちがいかに現実的な状況判断に基づいて行動していたかを示している。彼が武蔵松山城という戦略的要衝を長期間にわたり保持し、領国経営において実績を上げたことは、後北条氏の関東支配体制の一翼を担う上で重要な役割を果たしたと評価できる。
生年や晩年の詳細についてはなお研究の余地が残されているものの、上田朝直は、その巧みな処世術、統治能力、そして武将としての力量をもって、戦国乱世の関東に確かな足跡を残した人物である。彼の存在は、後北条氏のような巨大勢力の支配構造を理解する上でも、また、その下で活動した地域権力の実態を探る上でも、戦国期関東の地域史を研究する上で欠かせない人物の一人と言えるだろう。彼の生き様は、戦国という時代における国衆の生存戦略と、地域社会における彼らの役割の重要性を我々に教えてくれる。