世瀬蔵人は伊達政宗に仕えたとされる忍者集団「黒脛巾組」の指揮官の一人。人取橋の戦いでの活躍が伝えられるが、その実在性や「彦山流」との関連は後世の創作の可能性が高い。
本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて伊達政宗に仕えたとされる人物「世瀬蔵人(よせ くらんど)」について、現存する史料や伝承を網羅的に調査・分析し、その実像に迫ることを目的とする。ユーザーが提示した「彦山流の忍者」「黒脛巾組の頭領」といった情報を起点としつつも、史料批判を通じて、史実として確定しうる事柄、蓋然性の高い推論、そして後世の創作によって付与されたイメージを峻別し、多角的な人物像を提示する。
世瀬蔵人に関する記録は、そのほとんどが江戸時代に成立した特定の二次史料に依存しており、彼の存在は、所属したとされる忍者集団「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」の物語と不可分である。この特異な状況は、調査における核心的な課題を提示する。すなわち、蔵人という個人を理解するためには、彼が組み込まれている黒脛巾組という組織、さらにはその組織の活躍を記録した史料そのものの性格と信憑性を徹底的に検証する作業が不可欠となる。本報告では、この課題意識に基づき、世瀬蔵人をめぐる史実と伝承の層を一枚ずつ剥がしていくように、その謎多き生涯を解き明かしていく。
世瀬蔵人の名を理解する上で、彼が所属したとされる諜報組織「黒脛巾組」の解明は避けて通れない。この章では、主要な史料に基づいて、この伊達家の影の軍団の成り立ちと組織体制を解説する。しかし、史料間には記述の相違が見られ、その矛盾点こそが、組織の実態を解き明かす鍵となる。
伊達政宗が父・輝宗から家督を継いだのは天正12年(1584年)、18歳の時であった 1 。若き当主は奥州の覇権を目指し、周辺勢力との熾烈な争いを繰り広げる中で、諜報活動の重要性を痛感していたとされる 1 。江戸時代中期以降に成立した編纂物『伊達秘鑑』によれば、政宗はこの戦略的必要性から、自身直属の隠密組織の創設を決意した 2 。
政宗は、家臣であり信夫郡鳥屋(現在の福島市周辺地域)の城主であった安部対馬守重定(あるいは安定)に命じ、「鼠になれたる者」、すなわち隠密行動や情報収集に長けた者を50人選抜させたとされる 3 。政宗は彼らに扶持(給与米)を与え、正式な部隊として組織し、これを「黒脛巾組」と名付けた 5 。その名称は、部隊の構成員が黒革製の脛巾(すねあて)を標章として身に着けていたことに由来するといわれる 2 。これは、派手で粋な装いを好んだ政宗の美意識、いわゆる「伊達者」の精神を反映した、意匠性の高い装備であった可能性が考えられる。
黒脛巾組の指揮系統については、参照する史料によって記述が異なり、単純ではない組織構造が浮かび上がる。
『伊達秘鑑』が描くのは、比較的簡潔な指揮系統である。これによれば、柳原戸兵衛(やなぎはら とへえ)と世瀬蔵人の二名が部隊の「首長(しゅちょう)」、つまり現場のリーダーとして任命された 5 。そして、組織創設を命じられた安部重定が、奉行として彼ら全体を統括(原文では「差引」)したと記されている 3 。
一方で、同じく江戸期の編纂物である『老人伝聞記』は、より複雑で広域的な組織構造を示唆している。同書によれば、黒脛巾組には「組頭(くみがしら)」と呼ばれる六人の責任者が存在した 3 。その名は、安部対馬(南担当)、清水沢杢兵衛(北担当)、佐々木左近(石巻担当)、気仙沼左近(本吉北方・気仙郡担当)、横山隼人(本吉南方担当)、そして逸物惣右衛門(佐沼担当)である 3 。この記述は、黒脛巾組が伊達領の各地に分散配置され、それぞれの組頭が担当地域の情報網を管理していたことを示している。
この二つの史料の記述の相違は、単なる矛盾として片付けるべきではない。むしろ、組織の多層的な実態を反映している可能性がある。例えば、『老人伝聞記』が挙げる六人の「組頭」は、各地域に根を張る土着の有力者であり、恒常的な情報ネットワークの管理者であったのかもしれない。それに対し、『伊達秘鑑』が記す柳原戸兵衛と世瀬蔵人の「首長」という役職は、特定の重要な作戦(例えば後述する人取橋の戦い)が発動される際に、各地から選抜された実行部隊を直接指揮する、作戦ごとの現場指揮官であったと解釈できる。
史料の編纂目的の違いも、この記述の差異を生んだ一因と考えられる。『伊達秘鑑』は、人取橋の戦いにおける黒脛巾組の劇的な活躍という「物語」を効果的に描くことを主眼としているため、その物語の主役である柳原と世瀬を「首長」として強調した可能性がある。対照的に、『老人伝聞記』は、より実務的・行政的な視点から組織の実態を記録した結果、地域ごとの責任者である六名の「組頭」をリストアップしたのではないだろうか。これらの記録を統合して考察すると、黒脛巾組は単一の固定的な忍者部隊というよりも、伊達領内の各地に根差した情報網を束ね、政宗の命令一下、必要に応じて作戦部隊が編成される、柔軟なネットワーク型の諜報組織であった可能性が浮かび上がってくる。
首長や組頭の下で実際に活動したとされる下忍(現場の忍者)として、いくつかの名前が史料に散見される。太宰金助(だざい きんすけ、金七とも)、そして大林坊俊海(だいりんぼう しゅんかい)などがその代表例である 5 。
特に太宰金助(金七)の名は、黒脛巾組の存在を考察する上で非常に重要である。なぜなら、彼の名は『伊達秘鑑』だけでなく、江戸時代中期の儒学者・新井白石が著した大名家の系譜書『藩翰譜』にも登場するからである 3 。『藩翰譜』によれば、天正18年(1590年)の小田原征伐の際、政宗は豊臣秀吉軍の動向を探るため、太宰金七という忍びを小田原に潜入させていたという。これは、伊達家を顕彰する目的で書かれた『伊達秘鑑』とは異なる、比較的客観的な第三者の史料による記述であり、伊達家が「太宰金七」という名の諜報員を実際に用いていたことを裏付ける強力な傍証となる。この一点をもって黒脛巾組全体の存在を証明することはできないものの、伊達家が専門的な諜報活動を行っていたという事実の信憑性を高めるものと言える。
史料、とりわけ『伊達秘鑑』は、黒脛巾組が単なる情報収集に留まらず、敵軍の攪乱や戦術的な破壊工作に至るまで、多彩な活動で政宗の覇業を支えたと活写する。この章では、彼らの具体的な活動内容を検証し、その戦国時代における役割を考察する。
黒脛巾組の最も基本的な任務は、諜報活動であった。彼らは商人、山伏(修験者)、行者など、諸国を往来しても怪しまれにくい様々な身分に変装し、敵対勢力の領内に深く潜入した 3 。山伏や行者といった宗教者の姿は、霊山への参詣などを口実に国境を越えることを容易にし、また商人として振る舞うことで城下町や宿場町の情報を自然に収集できたと考えられる。
彼らは潜入先で現地の人間と親交を結び、信頼関係を築きながら、敵国の政治情勢、軍事的な動向、城の構造、兵糧の備蓄状況といった機密情報を探り出した 3 。そして、得られた情報は速やかに政宗のもとへ密告され、政宗は敵の動きを事前に察知し、常に戦略的優位を確保することができた、と『伊達秘鑑』は強調している。
黒脛巾組の活躍が最も劇的に描かれるのが、人取橋の戦いである。この戦いは、二本松城主・畠山義継が政宗の父・輝宗を拉致し、その結果輝宗が死亡した事件に端を発する。父の仇を討つべく二本松城へ進軍した政宗に対し、佐竹氏、蘆名氏を中心とする南奥州の諸大名は、伊達家の急伸を脅威とみなし、3万ともいわれる大連合軍を結成して伊達領に侵攻した 2 。対する伊達軍の兵力はわずか7千。政宗は人取橋(現在の福島県本宮市)付近で連合軍に捕捉され、鬼庭良直(左月斎)をはじめとする多くの重臣を失う大敗を喫し、絶体絶命の窮地に陥った 3 。
この国家的危機を救ったのが、黒脛巾組の謀略であったと『伊達秘鑑』は伝える。政宗から密命を受けた安部重定は、指揮下にある柳原戸兵衛と世瀬蔵人に命じ、手勢の忍びを率いて混乱する連合軍の陣中に潜入させた 3 。彼らはそこで、巧みな流言飛語を広める作戦(反間の計)を実行した。「佐竹義重は伊達と裏で通じており、この戦の混乱に乗じて蘆名領を奪うつもりだ」あるいは「蘆名氏はすでに伊達に寝返った」といった偽情報が、兵士たちの間で囁かれるようになったのである 2 。
もともと、この南奥州連合軍は、伊達家と縁戚関係にある大名も含まれるなど、必ずしも一枚岩の強固な同盟ではなかった 3 。黒脛巾組が絶妙なタイミングで投じた疑心暗鬼の種は、この寄せ集め集団の脆弱な結束を内側から崩壊させた。結果、連合軍の筆頭であった佐竹義重が、自領が北方の敵に脅かされているとの報(これも黒脛巾組の流言であった可能性が示唆される)を口実に突如撤退を開始。これをきっかけに連合軍は統制を失い、勝利を目前にしながら総崩れとなって撤退していった、とされている 2 。
蘆名氏との雌雄を決した摺上原の戦いにおいても、黒脛巾組の活躍が伝えられている。この逸話は、『伊達秘鑑』ではなく、『小姓木村宇右衛門覚書』という別の記録に記されている点が興味深い 2 。これによれば、黒脛巾組は決戦の最中、敗走する蘆名軍の退路を断つため、敵の背後に回り込み、日橋川に架かる橋を破壊したという 2 。
当時、川は増水しており、退路を失った蘆名軍の兵士たちは川に行く手を阻まれて大混乱に陥り、次々と激流に飲み込まれた。これが伊達軍の決定的な大勝利に繋がったとされる 2 。この逸話は、黒脛巾組が単なる諜報員や謀略家だけでなく、橋梁破壊といった土木作業の知識や技術を持つ、工兵的な能力も有していた集団であったことを示唆している。
上記のような華々しい活躍譚の陰で、黒脛巾組はより地味ながらも重要な任務に従事していた。史料によれば、彼らは自軍の進軍に際して不案内な土地の道案内を務めたり、敵方が放った忍者の探索と排除を行ったりしていた 3 。さらには、兵糧、竹木、武器といった軍需物資の運搬にも携わっており、兵站(ロジスティクス)の面でも伊達軍を支える重要な役割を担っていたことがわかる 3 。
これらの活動は、戦国時代の「忍び」が、単なる暗殺者やスパイではなく、諜報、謀略、破壊工作、工兵、兵站支援といった幅広い専門技能を持つ、極めて多機能な特殊部隊であったことを示している。しかし、これらの活躍譚、特に人取橋の戦いにおける謀略の成功は、あまりにも劇的であり、後世の脚色の可能性を慎重に検討する必要がある。同時代の一次史料である『伊達天正日記』や、伊達成実の『成実記』などでは、連合軍の撤退理由は、佐竹領が北方の別の敵に脅かされるといった、より現実的な軍事・政治的判断によるものとされており、忍者の暗躍については一切触れられていない 3 。
この食い違いは、歴史的事実が後世にいかに物語化されていくかを示唆している。江戸時代に入り、伊達家の武威を後世に伝えるため、人取橋での絶体絶命の危機からの奇跡的な逆転劇は格好の題材となった。単に「敵の都合による幸運な撤退」では物語性に乏しいため、「政宗の深謀遠慮と、彼に忠誠を誓う忍者集団の超人的な活躍」という、より英雄的で魅力的な物語が、『伊達秘鑑』などの編纂過程で創作、あるいは大幅に脚色された可能性は極めて高い。世瀬蔵人を含む黒脛巾組の活躍譚は、史実そのものというよりは、「英雄・伊達政宗はいかにして危機を乗り越えたか」を説明するために後世に作られた「解釈」であり「物語」であると位置づけるのが、より客観的な見方であろう。
世瀬蔵人と黒脛巾組の存在を現代に伝える記述のほとんどは、特定の江戸時代の編纂物に依拠している。本章では、これらの史料を批判的に検討し、彼らの実在性について学術的な見地から深く考察する。これは本報告書の核心部分であり、史実と伝承を峻別するための不可欠な作業である。
世瀬蔵人および黒脛巾組に関する最も詳細な記述を含む『伊達秘鑑』は、その成立時期と性格を理解することが極めて重要である。この書物は、政宗が生きた戦国時代や安土桃山時代に書かれた同時代史料(一次史料)ではなく、彼の死から100年以上が経過した江戸時代中期以降に成立した編纂物、すなわち二次史料に分類される 2 。
その編纂目的は、伊達家の歴史、特に藩祖・政宗の武勇伝や興味深い逸話を収集し、後世の藩士や子孫に伝えることにあった 14 。そのため、客観的な歴史記録というよりも、伊達家、とりわけ政宗を英雄として顕彰する意図が強く反映されている可能性が高い 14 。例えば、伊達騒動(寛文事件)などで一度は揺らいだ藩の権威と結束を、藩祖の偉大な物語を再確認することで高めようとする、政治的な意図が背景にあった可能性も否定できない 15 。したがって、『伊達秘鑑』に記された逸話は、史実を伝えるというよりも、伊達家の理想像を反映した「物語」としての一面を色濃く持つと考えるべきである。
『伊達秘鑑』の記述の信憑性を検証する上で、他の信頼性の高い史料との比較は不可欠である。ここで注目すべきは、仙台藩が公式に編纂した正史『伊達治家記録』と、政宗の従兄弟で腹心の将であった伊達成実が著したとされる『成実記』である。
『伊達治家記録』は、藩祖・政宗から歴代藩主の治世を詳細に記録した、仙台藩の公式記録であり、その史料的価値は極めて高い 18 。しかし、この膨大な記録の中に、「黒脛巾組」という組織名や、「世瀬蔵人」「柳原戸兵衛」といった首長の名は一切確認することができない 21 。もし黒脛巾組が『伊達秘鑑』に描かれるように、政宗直々に創設され、扶持を与えられた50人規模の正式な部隊であったならば、藩の公式記録に何らかの形でその存在が記されているのが自然である。その完全な不在は、『伊達秘鑑』の記述の信憑性に対し、根本的な疑問を投げかける。
一方、『成実記』は、伊達家の軍事行動や奥州の慣習について生々しい記述を残している。その中で成実は、奥州における諜報・ゲリラ活動を指す「草(くさ)」という言葉について具体的に解説している。「草を入れる」(スパイを送り込む)、「草を起す」(ゲリラ活動を開始する)といった隠語の存在は、伊達家が忍者や隠密に類する部隊を運用していたこと自体の確かな証拠と言える 1 。しかし、ここでも「黒脛巾組」という特定の組織名は一切登場しない。
公式記録の沈黙と、『伊達秘鑑』の物語性、そして『成実記』が証明する「草」の存在。これらを突き合わせることで、世瀬蔵人と黒脛巾組の実在性について、より蓋然性の高い仮説を導き出すことができる。それは、「実在性のグラデーション」という考え方である。
まず、最も確実な史実の層として、伊達家が「草」と呼ばれる非正規の諜報員やゲリラ部隊を運用していた事実がある。彼らは特定の固有名詞を持たず、戦況に応じて柔軟に編成・投入される、より実務的で流動的な集団だったと考えられる。
次に、伝承と二次史料の層が存在する。江戸時代に入り、戦国の記憶が風化していく中で、伊達家に仕えたこれら無名の「草」たちの活動に関する断片的な伝承や記録が、好事家や藩の編纂者によって収集された。そして、それらの逸話を一つの体系的な物語にまとめ上げる過程で、「黒脛巾組」という記憶に残りやすいキャッチーな名称と、その活躍を象徴する柳原戸兵衛や世瀬蔵人といった英雄的なリーダー像が創出されたのではないか。
なぜ、そのような物語化が必要だったのか。江戸泰平の世において、戦国の荒々しい記憶は、講談や読み物といった娯楽として消費されるようになる 8 。他藩が誇る伊賀者や甲賀者のような有名な忍者集団の物語に対抗しうる、伊達家ならではの「ブランド化された忍者団」の物語が、文化的に求められた可能性がある。伊達政宗という稀代の英雄の物語を、より魅力的に補完する要素として、「黒脛巾組」は創作され、あるいは大幅に脚色されたと考えられるのである。
この考察から導かれる結論は、世瀬蔵人の実在性が、「黒脛巾組」という組織が『伊達秘鑑』に描かれた通りのものであったかという問題と直結する、ということである。すなわち、「伊達家に仕えた諜報員」は実在したが、「世瀬蔵人を頭領の一人とする50人規模の忍者部隊『黒脛巾組』」という具体的な形での存在は、一次史料では全く確認できず、後世の創作である可能性が極めて高い。世瀬蔵人という人物は、歴史の闇に消えた無数の名もなき「草」たちの集合的なイメージが、後世の物語の中で人格を与えられ、結晶化した存在と見なすのが最も妥当な解釈であろう。
ユーザーが当初提示した情報の中に、「彦山流の忍者」というキーワードがあった。これは世瀬蔵人の出自や技術的背景を探る上で重要な手がかりとなりうるが、その史料的根拠は極めて希薄である。本章では、この「彦山流」の謎を解明するとともに、より蓋然性の高い黒脛巾組の母体、すなわち奥州の修験道との関連性を探る。
今回収集・分析した史料群の中には、「彦山流(ひこさんりゅう)」という忍術流派の名称や、九州の修験道の聖地である英彦山(ひこさん)と、伊達家の忍者・黒脛巾組を結びつける記述は一切見当たらなかった 28 。
英彦山は、福岡県と大分県にまたがる霊山であり、古くから九州における天台宗系修験道の一大拠点として、独自の文化と伝統を育んできた 28 。一方、奥州を本拠とする伊達家との歴史的な接点は、政宗が豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して九州の名護屋城(佐賀県唐津市)に赴いた際など、極めて限定的である 32 。忍術の一流派が奥州まで伝播するほどの深く継続的な交流があったとは、史料上考えにくい。
これらの状況証拠から、「彦山流」という呼称は、史実に基づくものではなく、後世、特に近現代の小説や漫画、ゲームといった創作物の中で、キャラクター設定として付与されたものである可能性が極めて高いと結論付けられる。
「彦山流」という特定の流派の存在は否定される一方で、黒脛巾組が修験者、いわゆる山伏(やまぶし)と深い関わりを持っていた可能性は複数の史料が示唆している。特に、その母体として有力視されるのが、出羽三山(山形県の月山・羽黒山・湯殿山)を拠点とする修験者たちである 6 。
黒脛巾組が潜入任務の際に「山伏」の姿に変装したという記述が頻繁に見られることからも、両者の親和性の高さが窺える 3 。山伏は、険しい山々を日常的に踏破することで培われた強靭な身体能力と精神力、山中での生存術(サバイバル技術)、そして全国に広がる独自の宗教的ネットワークを有していた。また、宗教者として諸国を巡錫(じゅんしゃく)することは社会的に認められており、国境を越えて情報を収集しても怪しまれにくいという、諜報活動を行う上で極めて有利な特性を持っていた。戦国時代、多くの大名が彼らのこうした能力に着目し、情報員や道案内役として活用した例は枚挙に暇がない 30 。
地理的な観点からも、この説は強い説得力を持つ。伊達家の本拠地であった米沢(山形県)や後の仙台(宮城県)は、出羽三山へのアクセスが比較的容易な位置にある。地理的に遠く離れた九州の英彦山から専門家を招聘するよりも、近隣の霊山であり、文化的にも馴染みの深い出羽三山の修験者をリクルートする方が、はるかに合理的かつ効率的であったことは論を俟たない。
したがって、黒脛巾組の実態は、特定の忍術流派に属する専門家集団というよりも、出羽三山を背景とする山伏のネットワークやその技能を、伊達家が諜報・軍事目的で組織化し、活用したものである可能性が非常に高い。ユーザーが提示した「彦山流」という情報は、この「修験者を母体とする諜報員」という史実的背景が、創作の世界で特定の流派名に置き換えられて流布した結果と解釈するのが最も自然であろう。
これまでの多角的な分析を踏まえ、本章では「世瀬蔵人」という人物の像を、史実の断片から再構築を試みるとともに、彼が創作の世界でどのように描かれ、受容されてきたかを概観する。史実の記録の乏しさと、創作におけるイメージの豊かさの対比は、歴史上の人物がいかにして現代の我々の前に姿を現すかを示している。
史実として確実に確定できる、あるいは蓋然性が高いと考えられる世瀬蔵人に関する情報は、驚くほどに限定されている。その全ては、二次史料である『伊達秘鑑』の記述に集約される。すなわち、「安土桃山時代、伊達政宗に仕えたとされる忍者集団・黒脛巾組の指揮官の一人であり、柳原戸兵衛という人物と共に組を率いた」というものである 5 。
彼の生没年は不詳、出自や家系も不明である。人取橋の戦いで謀略を成功させたとされるが、その功績自体が後世の脚色の可能性を否定できない。結局のところ、世瀬蔵人は、歴史の表舞台に確固たる足跡を残した人物とは到底言い難い。彼は、伊達家の公式記録からその名を抹消されたのではなく、おそらくは最初から記されることすらなかった、影の存在なのである。
歴史上の記録が乏しい人物は、かえって後世の創作者たちの想像力を掻き立てる。世瀬蔵人および黒脛巾組は、まさにその典型例であり、江戸時代の講談から現代の小説、漫画、ゲームに至るまで、様々な創作の分野で格好の題材とされてきた 36 。
これらの作品群において、世瀬蔵人はしばしば、寡黙で冷静沈着、高い武術や超人的な忍術を誇り、主君・伊達政宗に絶対の忠誠を誓う、理想化された忍びの頭領として描かれることが多い 39 。史料には一切見られない具体的な性格、得意な術、仲間との人間関係、そして時には悲壮な過去といった背景が付与され、歴史上の不確かな存在から、読者やプレイヤーを魅了する魅力的な「キャラクター」へと再生産されている。
史料上の人物像と、大衆文化の中で形成されたイメージとの間の大きな隔たりを明確にするため、以下に代表的な創作作品における描写を比較する。この比較は、ユーザーが持つ「彦山流」といった情報が、どの創作の系譜に連なる可能性があるのかを推測する手がかりともなり、歴史的事実とフィクションの境界を理解する一助となるだろう。
作品名 |
媒体 |
発表年頃 |
世瀬蔵人の役割・性格 |
黒脛巾組の描かれ方 |
史実との関連・備考 |
『政宗さまと景綱くん』 |
漫画 |
2010年代 |
知略7、武術8、忍術10という高い能力値を持つ、黒脛巾組の頭領として登場する 39 。 |
伊達家の主要な諜報部隊として、政宗や景綱の活動を影から支える存在として描かれる。 |
史実の人間関係を基にした歴史コメディ。人物の性格や具体的な活躍は創作である。 |
『伊達藩黒脛巾組』シリーズ |
小説 |
2010年代 |
直接の登場は確認できないが、同僚の柳原戸兵衛や他の組員が活躍するため、世界観を共有する。 |
徳川家康が送り込んだ伊賀忍軍と奥州で暗闘を繰り広げる、伊達家の精鋭部隊として主役級の扱いを受ける 36 。 |
葛西大崎一揆といった史実を背景に、史料の隙間を埋める形で忍者の戦いを描く歴史フィクション。 |
『銀牙伝説WEEDオリオン』 |
漫画 |
2000年代以降 |
登場しない。 |
犬の忍者軍団として擬獣化されて登場。「政宗」や「小十郎」といった名の犬が軍団を率いる 40 。 |
完全なファンタジー作品だが、黒脛巾組という名称が、歴史の枠を超えて多様なジャンルで認知されていることを示す一例。 |
本報告書における詳細な調査と分析の結果、戦国時代の人物「世瀬蔵人」の実像は、史実と伝承、そして創作が複雑に織りなす多層的な構造の中に浮かび上がってきた。
調査結果を総括すると、世瀬蔵人は、その名が江戸時代の編纂物『伊達秘鑑』に記されているものの、同時代の信頼性の高い一次史料ではその存在を全く確認できない、歴史的に極めて不確かな人物である。彼の名は、伊達政宗の覇業を影で支えたとされる忍者集団「黒脛巾組」の劇的な活躍譚と分かちがたく結びついているが、その黒脛巾組自体もまた、後世に物語化された存在である可能性が高い。
この人物をめぐる情報の階層は、以下のように整理できる。
世瀬蔵人という人物の探求は、一人の忍者の生涯を追跡する作業であると同時に、歴史がいかに語られ、記憶され、そして時には英雄譚として再創造されていくかの過程を追体験する作業でもあった。彼は、伊達政宗という巨星の影に生きたであろう、無数の名もなき諜報者たちの存在を、後世に伝えるための象徴的な「器」として、歴史の中にその名を留めている。
彼の物語は、史実としての不確かさそのものが、かえって歴史の奥行きと、我々の想像力を掻き立てる魅力となりうることを示している。世瀬蔵人とは、歴史の記録の狭間に咲いた、一輪のあだ花のような存在であると言えるだろう。