丸毛兼利は美濃の国人領主。織田・豊臣に仕え福束城主となる。関ヶ原で西軍につき敗れるも、加賀藩で再仕官し家名を再興。異常な長寿から親子二代説も。故郷では英雄として顕彰される。
日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての激動期を生きた武将、丸毛兼利(まるも かねとし)。その名は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の影に隠れ、歴史の表舞台で大きく語られることは少ない。一般的には「織田家臣から豊臣家に仕え、美濃福束城二万石を領したが、関ヶ原合戦で西軍に与して敗れ、改易後に加賀藩前田家に仕えた」という経歴で知られる 1 。しかし、この簡潔な要約の裏には、一人の国衆(地方の有力武士)が時代の荒波に如何にして立ち向かい、生き残りを図ったかの壮絶な物語が隠されている。
兼利の生涯は、関ヶ原の戦いという巨大な分水嶺によって運命を大きく変えられた数多の地方領主の典型例と言える。彼の本拠地であった美濃国(現在の岐阜県)輪之内町では、今なお「地元の英雄」として記憶され、その顕彰活動が続けられている 3 。一方で、その実像に迫ろうとすると、史料にはいくつかの謎が浮かび上がる。知行された石高は本当に二万石だったのか、そして、その異常とも言える長寿から浮上した「親子二代説」とは何か。
本報告書は、現存する多様な史料を横断的に調査・分析し、これらの謎を解き明かしつつ、丸毛兼利という一人の武将の出自からその後の消息、そして現代における評価に至るまで、その生涯の全貌を徹底的に詳述することを目的とする。彼の軌跡を追うことは、戦国末期の地方領主が置かれた複雑な立場と、時代の転換点における彼らの決断の重みを浮き彫りにするだろう。
丸毛兼利の人物像を理解するためには、まず彼が属した丸毛一族の歴史的背景と、父・光兼が築いた美濃における確固たる地位を把握することが不可欠である。
丸毛氏(丸茂氏とも記される)は、その出自を清和源氏の名門、小笠原氏に持つとされる 5 。家伝によれば、小笠原信濃守長氏の子(あるいは孫)である六郎兼頼が、初めて「丸毛」の姓を名乗り、美濃国多芸郡大塚城(おおつかじょう)を拠点としたことに始まるとされる 5 。この小笠原氏との繋がりは、単なる名目上の権威付けにとどまらない。養老町に現存する荘福寺は、丸毛氏代々の菩提寺であると同時に、小笠原氏の祖である小笠原長清の遺骨(漆骨蔵器)を祀っており、両氏の間に古くから深い関係があったことを物語っている 6 。この漆骨蔵器は、京都の長清寺が応仁の乱で焼失した際、当時の丸毛氏当主が分骨して荘福寺に葬ったものと伝えられる 7 。
戦国時代の武家社会において、有力な氏族の庶流であるという出自は、地方における自らの支配の正当性を主張し、周辺の競合勢力に対して優位に立つための重要な政治的資本であった。丸毛氏が美濃の有力国衆として台頭できた背景には、この小笠原氏という権威ある血統が大きく寄与していたと考えられる。なお、但馬国(現在の兵庫県北部)の平姓を称する丸毛氏との関連を記す系譜も存在するが、これは美濃の丸毛氏とは別の系統であるか、あるいは伝承に誤りが含まれている可能性が指摘されている 8 。
兼利の父は、丸毛光兼(みつかね)である。長照(ながてる)とも名乗り、通称の兵庫頭(ひょうごのかみ)で広く知られた 8 。光兼は、美濃の戦国大名であった斎藤義龍、そしてその子・龍興に仕えた、多芸郡における「強豪」であった 5 。
光兼の武将としての力量を示す逸話は少なくない。永禄3年(1560年)、尾張から美濃へ侵攻してきた織田信長の軍勢を二度にわたり迎撃した記録が残る 8 。また、斎藤家内部の権力争いにおいては、後に織田方に寝返る西美濃三人衆の一人、安藤守就らが光兼の居城である大塚城を攻めた際にこれを撃退し、主君・龍興から感状(感謝状)を授けられている 8 。
これらの事績は、丸毛氏が単なる一地方の土豪ではなく、斎藤氏政権下で軍事的に重要な役割を担う、経験豊かな武士団であったことを示している。光兼が築き上げたこの強固な地域的基盤と軍事力こそが、後に織田信長による美濃平定の過程で、丸毛氏が単なる被征服者ではなく、新たな支配体制に組み込まれるべき有力なパートナーとして見なされる素地となった。兼利は、このような有力国衆の嫡男として、激動の時代にその第一歩を踏み出すことになる。
斎藤氏の没落後、丸毛兼利とその父・光兼は、時代の潮流を読み、新たな天下人へと臣従することで、一国衆から大名へと飛躍を遂げる。その過程は、戦国武将の典型的な立身出世の物語であった。
永禄10年(1567年)頃、稲葉山城が陥落し斎藤氏が滅亡すると、光兼と兼利(当時は通称の三郎兵衛で知られる)は織田信長に仕える道を選んだ 2 。彼らの臣従は、単に一兵卒として加わることを意味しなかった。父子が持つ美濃での影響力と軍事能力は信長にも高く評価され、直ちに織田軍団の中核に組み込まれた。
その後の彼らの活躍は、信長の第一級史料である『信長公記』に頻繁に登場する。光兼(兵庫頭)と兼利(三郎兵衛)は常に父子一組で記され、信長の主要な合戦に参加している 2 。
これらの戦役において、彼らが常に信長本隊に近い部隊に名を連ねていることから、歴史研究家の谷口克広氏は、彼らが信長の身辺を警護するエリート部隊「馬廻衆(うままわりしゅう)」に所属していた可能性を指摘している 2 。馬廻衆は、主君に最も近い場所で仕える信頼の証であり、丸毛父子が織田政権内で厚い信任を得ていたことを示唆している。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が横死すると、兼利はすぐさま羽柴(後の豊臣)秀吉に属し、その天下統一事業に貢献した 1 。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉は美濃に進出すると、兼利の地元である多芸郡直江村に砦(直江城)を築かせ、その守備を兼利に任せた 2 。これは、兼利の地理的知識と地域での影響力に対する秀吉の信頼の表れであり、極めて重要な任務であった。
その後も兼利は、秀吉が主導する全国規模の合戦に従軍し、着実に功績を重ねていく。
信長から秀吉へと続く政権下での一貫した忠勤と軍功は、兼利の地位を国衆から、一城一国を預かる大名へと押し上げる原動力となった。
秀吉による天下統一が完成に近づく中、兼利はその功績を認められ、美濃国安八郡の福束城(ふくつかじょう)の城主に任じられた 1 。福束城は揖斐川沿いに位置し、水運の要衝を扼する戦略的に重要な拠点であった 4 。
兼利の石高については、史料によって大きな隔たりが見られる。江戸時代の編纂物である『慶長4年諸侯分限帳』や『美濃明細記』などでは、兼利の知行は「二万石」と記されている 2 。この石高は、彼が小規模ながらも独立した大名であったことを示している。
しかし、近年の研究ではこの数字に疑問が呈されている。岡山藩池田家に伝来した「奉公書」などの一次史料を分析した山田昭彦氏の研究によれば、豊臣政権が全国的に実施した太閤検地の結果、丸毛氏が福束の地で公式に認められた知行は「七千石」であったという 6 。
この二万石と七千石という数字の乖離は、単なる記録ミスではない。戦国時代から続く、その土地の潜在的な生産力や伝統的な支配領域の広さを示す公称の石高(表高)が二万石であり、太閤検地によって厳密に測量され、年貢徴収の基準となった公式の石高(内高)が七千石であった可能性が高い。太閤検地は、全国の土地支配を一元的に把握し、大名の軍役負担を明確化するための豊臣政権の根幹政策であった。この政策によって、多くの大名が伝統的に主張してきた石高よりも低い公式石高を認定された。兼利のケースは、まさにその全国的な政策が地方の小大名に適用された一例と見なすことができる。つまり、兼利は地域社会では「二万石様」として認識されつつも、豊臣政権の厳格なヒエラルキーの中では「七千石の大名」として位置づけられていたのである。この事実は、関ヶ原の戦いを前にした彼の政治的・経済的実力を評価する上で、極めて重要な視点となる。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。美濃の小大名であった丸毛兼利もまた、この巨大な渦の中に否応なく巻き込まれていった。
天下が東西両軍に分かれる中、兼利のもとには東軍を率いる徳川家康方から味方になるよう誘いがあった。特に、東軍の先鋒である福島正則の配下で、兼利とは旧知の仲であった横井伊織が熱心に説得を試みたという 9 。
しかし、兼利はこの誘いを断固として拒絶し、石田三成が主導する西軍に与することを決断した 2 。この決断の背景には、長年にわたり豊臣家から受けた恩顧への忠義があったと考えられる。三成は、秀頼公のためという大義名分を掲げて諸大名に協力を求めており、兼利もその論理に強く共鳴したのだろう。また、三成は兼利の居城である福束城が持つ戦略的重要性を熟知しており、早くから兼利を味方に引き入れるべく働きかけていた 12 。兼利の西軍参加は、個人的な人間関係よりも、豊臣家への忠誠という大義を優先した結果であった。
兼利の決断により、彼の居城・福束城は関ヶ原合戦の前哨戦における最前線の一つとなった。西軍の作戦構想において、福束城は木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)を天然の要害とする防衛ラインの要であった 4 。兼利に与えられた任務は、この拠点を死守し、東軍の西上を阻むと共に、西軍の主力部隊が籠る大垣城への兵糧輸送路を確保することであった 2 。
慶長5年8月16日、東軍の市橋長勝(今尾城主)、徳永寿昌(高須城主)らの部隊が福束城に殺到した 10 。川を挟んでの攻防は当初、膠着状態に陥った 2 。しかし、東軍の市橋長勝は巧みな計略を用いた。16日の夜半、家臣に命じて密かに川を渡らせ、城下の村々に次々と放火させたのである 2 。
夜陰に突如として上がった火の手は、福束城を守る西軍の兵士たちに大きな動揺を与えた。この混乱を合図に、市橋・徳永軍は一斉に夜襲を敢行した。不意を突かれた西軍の援軍部隊は狼狽し、持ち場を捨てて敗走してしまった 2 。孤立無援となった兼利は、自らの手勢のみで必死に防戦したが、衆寡敵せず、もはや城の維持は不可能と判断。翌17日の夕方、ついに福束城を放棄し、主力が籠る大垣城へと撤退した 2 。
この福束城の戦いは、単なる一城の攻防戦にとどまらない。それは、関ヶ原本戦における西軍の敗北を予兆する、象徴的な出来事であった。東軍の勝利は、圧倒的な兵力によるものではなく、優れた戦術(夜襲や攪乱工作)と、それによって引き起こされた西軍側の連携の崩壊によってもたらされた。味方部隊の敗走によって孤立した兼利の姿は、本戦で小早川秀秋らの裏切りによって崩壊する西軍全体の姿と重なる。
戦略的にも、福束城の陥落は西軍にとって痛手であった。これにより、木曽三川を利用した防衛ラインに大きな穴が穿たれ、東軍は美濃国内に確固たる足掛かりを築くことに成功した 6 。これは三成が描いた防衛構想を根底から揺るがすものであり、関ヶ原へと至る戦局の流れを大きく東軍有利へと傾ける、重要な一戦となったのである。
関ヶ原での西軍の決定的な敗北は、丸毛兼利の運命を根底から覆した。大名の地位を失い、浪人へと転落した彼であったが、その後の人生は、戦国武将らしいしたたかさと人脈を駆使した見事な生き残り戦略を示している。
関ヶ原合戦の後、西軍に与した兼利は、徳川家康によって領地を没収された(改易) 2 。彼の居城であった福束城は、攻略した市橋長勝が城番として一時入った後、徳川の命により完全に破却された 2 。これにより、丸毛氏の美濃における大名としての歴史は終焉を迎えた。
城と領地を失った兼利は浪人となり、潜伏と逃亡の日々を送ることになる。通説では、彼は加賀国(現在の石川県)へ逃れたとされる 2 。しかし、近年の研究で発見された岡山藩の史料は、より複雑な逃亡経路を示唆している。それによれば、兼利はまず池田輝政(関ヶ原の功績で播磨姫路藩主となった大名)に匿われ、その後、京都所司代(徳川幕府の京都における最高責任者)であった板倉勝重の執り成しによって、罪を赦されたという 6 。この事実は、兼利が単に運良く逃げ延びたのではなく、有力な大名や幕府要人との間に、助命を嘆願できるだけの何らかの繋がりを持っていたことを示している。
赦免された兼利は、加賀百万石として知られる日本最大の藩、加賀藩の三代藩主・前田利常に仕えることとなった 1 。敗軍の将でありながら、彼は破格の待遇で迎え入れられ、2,000石という高禄を与えられている 2 。
この厚遇の背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、兼利が持つ一城の主としての経験と、数々の合戦を潜り抜けてきた武将としての能力は、広大な領地を治める加賀藩にとって非常に価値のあるものであった。関ヶ原の勝者となった大名家は、拡大した領地と家臣団を管理するため、有能な人材を積極的に求めていた 6 。
第二に、兼利が築いてきた人脈、特に婚姻関係が重要な役割を果たした可能性が高い。兼利の妻は、美濃の有力武将であった稲葉一鉄の娘とされている 2 。稲葉一族は、関ヶ原の戦いでは当初西軍に属しながらも、途中で東軍に寝返って功績を挙げ、戦後も所領を安堵された一族である 14 。この稲葉家との縁が、兼利の助命と再仕官において有利に働いたことは想像に難くない。
第三に、兼利が再仕官に際して剃髪し、「道和(どうわ)」と名乗ったことである 2 。これは仏門に入ることを意味し、世俗的な野心から引退したことを内外に示す政治的な行為であった。これにより、彼はもはや徳川の天下に弓引く恐れのない「安全な」人材であることをアピールした。徳川幕府から常に厳しい監視の目に晒されていた前田家にとって 16 、このような形で政治的に無力化された有能な武将を召し抱えることは、幕府を刺激することなく家臣団を強化する上で好都合であった。
彼の名は、加賀藩の公式な家臣名簿である『寛永四年侍帳』に「丸毛道和 2,000石」として明確に記録されており 11 、彼が敗残の将から見事に加賀藩の重臣として再生を遂げたことを証明している。
丸毛兼利の生涯を追う上で、避けて通れないのが、その人物像そのものを揺るがす大きな謎である。通説に従うと生じる「異常な長寿」という問題と、それを解決するために提唱された「親子二代説」は、兼利の実像を考察する上で最も重要な論点と言える。
史料を総合すると、丸毛兼利の生涯は次のように整理される。父・光兼と共に1560年代から織田信長の家臣として活躍し、1600年の関ヶ原の戦いで福束城主として戦い、敗戦後は加賀藩に仕え、正保4年(1647年)に亡くなった 1 。
しかし、この経歴には大きな矛盾が潜んでいる。もし1560年代に既に一人前の武将として活動していたとすれば、1647年に亡くなった際の年齢は90歳から100歳近くに達することになる 2 。当時の平均寿命を考えれば、これは異常な長寿であり、一人の人物の経歴としてそのまま受け入れるには無理がある。この矛盾が、通説に対する根本的な疑念を生じさせた。
この問題を解決する鍵となるのが、『木村発家蔵系譜』という特定の家系図に残された異説である 2 。この史料は、通説とは全く異なる物語を提示している。
この「親子二代説」は、岡山藩池田家の史料分析からも裏付けが得られる。同史料には、福束城を守ったのは「三郎兵衛(父)」とその子(後の道和)であったと記されており、関ヶ原の時点で父子の二世代が関与していたことを示唆している 6 。
この二つの説は、丸毛兼利という人物像を大きく異なるものとして描く。通説は、一人の武将が激動の時代を生き抜き、大往生を遂げたという、ある種英雄的な物語を提示する。一方で親子二代説は、父が関ヶ原で悲劇的な死を遂げ、その遺志を継いだ息子が家名を再興したという、より現実的で説得力のある物語を描き出す。
「兼利」という諱(いみな)の他に、親吉、安職(やすもと)、長隆(ながたか)など、複数の名が伝わっていることも 2 、これらの名が実は父と子、二人の人物を指していた可能性を示唆している。後世に伝わる過程で、この父子の功績や経歴が混同され、一人の「丸毛兼利」という人物像に統合されてしまったのではないか。
以下の表は、この二つの説を比較整理したものである。
項目 |
通説(単独人物説) |
親子二代説(『木村発家蔵系譜』等による) |
関ヶ原時の福束城主 |
丸毛兼利(三郎兵衛) |
丸毛親吉(三郎兵衛) |
関ヶ原での結末 |
敗走し、後に加賀へ逃れる |
慶長5年8月17日に城で討死 |
加賀藩士「丸毛道和」の正体 |
福束城主であった兼利本人 |
討死した親吉の子、 丸毛兼利 |
没年 |
正保4年(1647年) |
正保4年(1647年) |
解決する矛盾点 |
- |
異常な長寿の問題が解消される |
主な典拠 |
『美濃明細記』等の編纂物 2 |
『木村発家蔵系譜』、岡山藩池田家史料 2 |
総合的に判断すると、親子二代説は、通説が抱える年代的な矛盾を合理的に説明できる点で、歴史的な信憑性が高いと考えられる。広く知られているのは単独人物説であるが、丸毛兼利の実像をより正確に捉えるならば、我々が「兼利」として認識している人物像は、関ヶ原の悲劇を背負った父・親吉と、その後の家名復興を成し遂げた子・兼利(道和)という、二世代にわたる物語が凝縮されたものである可能性が極めて高い。
関ヶ原の戦いは、丸毛一族にとって大きな分岐点となった。兼利(あるいはその父)が西軍に与して敗れた一方で、一族の別の系統は異なる道を歩み、家名を未来へと繋いでいった。
兼利が西軍への参加を決断した際、彼の弟である丸毛利勝(としかつ、通称:五郎兵衛)は、早くから徳川家康に仕えていた 2 。この利勝の系統は、関ヶ原合戦後、徳川幕府の直参家臣である旗本となり、江戸時代を通じて存続した 2 。その子孫は、幕府の様々な役職を歴任した記録が残っている 17 。
兄と弟が敵味方に分かれるというこの構図は、戦国末期の動乱期において、多くの武家が採用した一種の保険戦略であった。真田家が昌幸・幸村(西軍)と信之(東軍)に分かれた例が有名であるが、丸毛家も同様に、どちらが勝利しても一族の血脈が断絶しないよう、リスクを分散させていたのである。これは、個人の政治的信条以上に、「家」の存続を最優先する当時の武家の現実的な処世術を如実に示している。結果として、兼利の系統は加賀藩士として、利勝の系統は幕府旗本として、丸毛の名は江戸時代を生き抜くことになった。
兼利の子とされる氏豊(うじとよ)は、関ヶ原の敗戦後、但馬国(現在の兵庫県北部)へ逃れ、郷士(ごうし)になったと伝えられる 2 。郷士とは、武士の身分を保ちながらも特定の藩から俸禄を得ず、在地で農業などを営む階層である。これは、大名から旗本、そして地方の郷士へと、一族が様々な形で身分を変化させながらも、武士としてのアイデンティティを保ち続けたことを示すもう一つの事例である。
全国的な知名度では他の戦国武将に及ばない丸毛兼利であるが、彼が城主を務めた岐阜県輪之内町では、郷土の誇るべき「地元の英雄」として、今なお厚い敬愛を集めている 3 。
町は、兼利の事績を後世に伝えるため、積極的な顕彰活動を展開している。
かつて兼利が守った福束城の遺構は、明治時代に行われた木曽三川分流工事によって揖斐川の川底に沈み、今ではその姿を見ることはできない 21 。しかし、城の面影を伝える唯一無二の貴重な史料が、地元の福満寺に現存している。それは、寛政4年(1792年)に丸毛氏の子孫によって寄進された一枚の「版木(はんぎ)」である 4 。この版木には、当時の福満寺の境内と共に「丸毛兵庫頭鉾塚城古跡」として石垣が描かれており、今は失われた城の姿を想像させる唯一の手がかりとなっている 22 。この版木は、輪之内町の指定文化財として大切に保管されている 25 。
本報告書では、戦国武将・丸毛兼利の生涯について、その出自から関ヶ原での敗戦、そしてその後の人生と一族の運命に至るまでを詳細に追った。
調査の結果、兼利の実像は、通説として語られる単純な経歴よりも遥かに複雑で、奥深いものであったことが明らかになった。彼のルーツは美濃の名門国衆にあり、父・光兼と共に織田・豊臣政権下で着実に軍功を重ね、小大名へと成長した。その知行高については、伝統的な「二万石」という数字に対し、太閤検地後の実質的な石高は「七千石」であった可能性が高いことを指摘した。これは、豊臣政権下における大名の序列と実態を理解する上で重要な視点である。
彼の運命を決定づけた関ヶ原の戦いでは、豊臣家への忠義を貫き西軍に参加したが、前哨戦である福束城の戦いで戦術的に敗れ、改易の憂き目に遭った。しかし、彼はそこで歴史から消えることなく、巧みな人脈と処世術を駆使して加賀藩への再仕官を果たし、家名を再興した。
そして、最大の謎であった「異常な長寿」問題については、『木村発家蔵系譜』などの史料に基づき、関ヶ原で戦った父・親吉と、その後に加賀藩に仕えた子・兼利(道和)の功績が後世に統合されたとする「親子二代説」が、最も合理的な解釈であることを示した。
丸毛兼利の物語が我々に示唆するのは、歴史が天下人だけの物語ではないということである。彼の生涯は、時代の巨大な転換点において、自らの信念と一族の存続の間で苦悩し、決断を下した無数の地方領主たちの姿を映し出している。敗者でありながらも生き残り、新たな時代に適応していったその軌跡は、戦国という時代の過酷さと、そこに生きた人々の強靭さを我々に教えてくれる。そして、彼の記憶がかつての城下町で今なお大切に語り継がれている事実は、歴史が壮大な国家の物語であると同時に、地域に根差した人々のアイデンティティを形成する、生きた物語であることを証明している。
年代(西暦/和暦) |
出来事 |
典拠 |
室町時代 |
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正長元年(1428) |
丸毛光慶が福束城主となる。以降、丸毛氏が代々城主を継承。 |
6 |
戦国・安土桃山時代 |
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永禄3年(1560) |
父・丸毛光兼(兵庫頭)、斎藤氏家臣として織田信長の美濃侵攻軍と交戦。 |
8 |
永禄10年(1567)頃 |
光兼と兼利(三郎兵衛)、斎藤氏滅亡に伴い織田信長に臣従。 |
2 |
永禄12年(1569) |
伊勢大河内城攻めに父子で参加。 |
2 |
天正元年(1573) |
槇島城攻め、朝倉氏追討戦に父子で参加。 |
2 |
天正2年(1574) |
第三次伊勢長島攻めに父子で参加。 |
2 |
天正10年(1582) |
本能寺の変後、羽柴(豊臣)秀吉に属する。 |
2 |
天正12年(1584) |
小牧・長久手の戦いに従軍。秀吉の命で直江城の守将となる。 |
2 |
天正15年(1587) |
九州平定に従軍。100人を率いて門司城を警備。 |
2 |
天正17年(1589)頃 |
美濃福束城主となる。知行は二万石(一説に七千石)。 |
1 |
天正18年(1590) |
小田原征伐に従軍。200騎を率いる。 |
2 |
文禄2年(1593) |
父・光兼が死去したとされる(『美濃国諸旧記』)。 |
8 |
慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い |
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8月 |
石田三成の誘いに応じ、西軍に参加。 |
2 |
8月16日-17日 |
福束城の戦い 。東軍の市橋長勝・徳永寿昌らの夜襲を受け落城。大垣城へ撤退。 |
2 |
8月17日 |
親子二代説では、城主・丸毛親吉がこの日に討死したとされる。 |
2 |
9月15日 |
関ヶ原本戦で西軍が敗北。兼利は改易となり、領地を没収される。 |
2 |
江戸時代 |
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慶長年間 |
逃亡後、池田輝政らに匿われ、板倉勝重の執り成しで赦免される(一説)。 |
6 |
慶長年間 |
加賀藩主・前田利常に仕え、2,000石を給される。剃髪し「道和」と号す。 |
1 |
寛永4年(1627) |
加賀藩の侍帳に「丸毛道和 2,000石」として名が記録される。 |
11 |
正保4年(1647) |
1月28日、死去。 |
1 |