丹羽長正は丹羽長秀の次男。豊臣秀吉に独立大名として取り立てられるも、関ヶ原で西軍につき改易。その後豊臣秀頼に仕えるが、大坂の陣直前に脱出。越前福井で没し、子孫は兄・長重の家臣として存続した。
戦国乱世から天下統一へと向かう激動の時代、織田信長の股肱の臣としてその名を轟かせた武将がいる。丹羽長秀。信長から「友であり、兄弟である」とまで称された宿老であり、その堅実な働きぶりから「米五郎左」と敬愛された人物である 1 。彼の嫡男、丹羽長重もまた、関ヶ原の戦いで西軍に与して改易の憂き目に遭いながら、後に10万石を超える大名として奇跡的な復活を遂げたことで、その名を歴史に刻んでいる 3 。
しかし、この栄光と波乱に満ちた父と兄の物語の陰で、歴史の表舞台からほとんど忘れ去られた一人の武将がいた。長秀の次男、丹羽長正である。ユーザーが把握している「豊臣家臣。長秀の子。関ヶ原合戦では西軍に属して北国口を守り、戦後、所領を失う。以後は豊臣秀頼に仕えるが、大坂の陣直前に脱出、越前国福井で没した」という情報は、彼の生涯の骨子を的確に捉えている。だが、その簡潔な経歴の背後には、「なぜ兄と彼の運命はかくも大きく分かれたのか」「なぜ豊臣家という滅びゆく巨船から、決戦直前に降りたのか」といった、数多くの解き明かされるべき問いが横たわっている。
本報告書は、この丹羽長正という人物に焦点を当て、断片的に残された史料を丹念に繋ぎ合わせ、その生涯の全貌を徹底的に調査・分析するものである。父の威光、兄の苦難、そして自らの決断が交錯する中で、彼がどのような人生を送り、何を考え、いかなる選択を下したのか。歴史の陰に埋もれた一人の武将の実像を、多角的な視点から再構築し、その生き様を評価することを目的とする。
丹羽長正の生涯を理解する上で、まずその父、丹羽長秀が築き上げた栄光を把握することが不可欠である。長秀は尾張国に生まれ、若くして織田信長に仕えた 5 。彼は派手な武功で名を馳せるタイプの武将ではなかったが、信長政権にとって米のように不可欠な存在として「米五郎左」と称された 1 。その評価が示す通り、軍事作戦の後方支援や兵站確保、さらには安土城の普請総奉行といった行政面で卓越した手腕を発揮し、織田家の屋台骨を支え続けたのである 2 。
天正10年(1582年)の本能寺の変後、長秀は天下の後継者レースにおいて、いち早く羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)への協力を決断する。この選択が功を奏し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破ると、長秀はその最大の功労者の一人として、越前・若狭・加賀二郡にまたがる123万石という破格の所領を与えられた 1 。ここに丹羽家は、戦国大名としてその絶頂期を迎える。
長正は、この栄光の只中にある天正4年(1576年)に、長秀の次男として生を受けた 9 。彼の母である陽徳院は、かつて越前の地を支配した名門・朝倉氏の一族の出身であり、この血縁は丹羽家と越前の深い結びつきを象徴していた 9 。
栄華は長くは続かなかった。天正13年(1585年)、父・長秀が病によりこの世を去ると、丹羽家の運命は暗転する 2 。跡を継いだ兄・長重は、当時まだ15歳の若者であった 1 。天下人となった豊臣秀吉は、父の代からの盟友であった丹羽家が持つ巨大な勢力を潜在的な脅威と見なした。
秀吉による丹羽家勢力の削減策は、執拗かつ巧妙であった。長重が家督を継いだ直後の越中征伐において、家臣が敵方の佐々成政に内応したという嫌疑をかけ、123万石の所領から越前・加賀を没収し、若狭一国15万石へと大幅に減封した 3 。さらに天正15年(1587年)の九州平定の折にも、家臣の狼藉を理由に若狭国を取り上げ、最終的に加賀松任4万石という小大名にまで転落させたのである 3 。この過程で、長束正家や溝口秀勝といった父・長秀以来の有能な家臣団も秀吉に引き抜かれ、丹羽家は軍事力、政治力ともに骨抜きにされていった 3 。
この一連の出来事は、単に若き当主・長重の不手際と片付けることはできない。むしろ、秀吉が自らの権力基盤を盤石にするため、旧織田家臣団の中でも特に強力な大名を意図的に弱体化させるという、周到な政治戦略の一環であったと見るべきである。皮肉にも、父・長秀が築いた絶大な功績と巨大な所領が、その死後、息子たちが受ける苦難の直接的な原因となった。
兄・長重が次々と減封の憂き目に遭う一方で、弟である長正は対照的な道を歩む。天正15年(1587年)、長正は秀吉から新たに5万石の知行を与えられ、越前東郷槇山城主として独立した大名に取り立てられた 9 。さらに秀吉から羽柴の姓と侍従の官位を授けられるなど、豊臣政権下で確固たる地位を築いていく 9 。
兄の弱体化と弟の独立大名化という一見矛盾した処遇は、秀吉の巧みな大名統制術の表れであった。これは、丹羽家の本家(長重)の力を削ぎ、その勢力を分散させると同時に、分家(長正)を自らの直臣として取り立てることで、丹羽一族の結束を内側から分断する「分割統治」戦略に他ならない。長正の出世は、秀吉から丹羽家への温情というよりは、一族が一体となって政権に反抗することを未然に防ぎ、兄弟間に潜在的な対立構造を生み出すための、高度な政治的計算に基づいたものであった可能性が高い。長正は、兄とは別に、秀吉個人に直接的な恩義を感じる立場に置かれたのである。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、天下の情勢は再び流動化する。五大老筆頭の徳川家康が急速に影響力を強める中、兄・長重は家康から、隣国加賀を治める前田利長の動向を監視する密命を受けていたと伝わる 4 。
慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐へと向かうと、石田三成らが挙兵し、天下分け目の戦いの火蓋が切られた。家康は前田利長に対し、東軍の主力として北陸の諸将を率いて参陣するよう命じた。しかし、長重はこの命令に強く反発する。自らが監視すべき対象であった利長の指揮下に入ることは、丹羽家の誇りが許さなかった。彼は「利長が東軍につくのであれば、我らは敵に回る」と決断し、西軍への加担を表明しないまま、事実上の西軍方として籠城の構えを見せた 14 。弟の長正もまた、この兄の決断に従い、越前東郷5万石の兵力を以て西軍の一翼を担うこととなった 15 。
彼らのこの決断は、豊臣家への純粋な忠義というよりは、台頭する家康への根強い不信感、父の代から続く前田家への対抗意識、そして秀吉政権下で味わった屈辱に対する反発心といった、複合的な感情が絡み合った結果であったと考えられる。
関ヶ原の戦いにおける北陸戦線は、東軍の主力を率いる前田利長の南下を阻止することが西軍の至上命題であった。この重要な役割を担ったのが、丹羽兄弟であった。兄・長重は加賀小松城(12万5千石)、弟・長正は越前東郷槇山城(5万石)を拠点とし、大谷吉継らと連携して北国口に強固な防衛線を築いた 9 。
前田利長が2万5千と号する大軍を率いて南下を開始すると、まず山口宗永が守る大聖寺城を攻略した 16 。しかし、その先に控える丹羽長重の小松城は堅城であり、利長は攻めあぐねる。その間隙を突き、大谷吉継が流言を放って利長軍の背後を脅かすと、利長は金沢への撤退を余儀なくされた。この撤退の機を捉えたのが長重であった。彼は小松城から出撃し、小松城東方の浅井畷(あさいなわて)と呼ばれる湿地帯で前田軍の殿(しんがり)に奇襲をかけ、大打撃を与えることに成功した 15 。この「浅井畷の戦い」は「北陸の関ヶ原」とも称され、丹羽長重の武将としての評価を大いに高めた。
この戦いにおいて、長正の具体的な動向を記す史料は少ない。しかし、5万石の兵力を有する彼が兄の背後を固め、側面からの攻撃を警戒し、補給線を確保することで、長重が奇襲作戦に全力を集中できる環境を整えたことは想像に難くない。兄弟は一体となって前田軍の足止めという戦略目標を達成し、その本戦への参加を遅らせるという大きな戦果を挙げたのである。
北陸での丹羽兄弟の奮戦も虚しく、慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の本戦はわずか一日で東軍の圧勝に終わり、西軍は壊滅した。この結果を受け、丹羽兄弟をはじめとする北陸の西軍諸将は東軍に降伏せざるを得ず、戦後の論功行賞において、兄弟はともに全所領を没収される「改易」という最も厳しい処分を受けた 9 。
ここから、兄弟の運命は大きく分かれることになる。兄・長重は改易処分となったものの、その実直な人柄や武勇、そして父長秀譲りの築城技術などが徳川秀忠に高く評価された 4 。また、妻が織田信長の娘であったことなど、徳川家との縁も幸いし、慶長8年(1603年)には常陸古渡1万石を与えられて大名への復帰を果たす 3 。その後も大坂の陣での武功により加増を重ね、最終的には陸奥白河10万石余の大名として、丹羽家の再興を成し遂げた 3 。
一方で、弟の長正に再興の道が開かれることはなかった。彼は兄とは対照的に、歴史の表舞台から姿を消し、浪人としての道を歩むことになったのである 9 。この運命の分岐点は、「誰に再起の道を求めたか」という選択の違いに起因する。長重が新時代の覇者である徳川家に仕える道を選んだのに対し、長正は旧主である豊臣家に活路を見出そうとした。この根本的な選択の違いが、一方は大名への華麗なる返り咲き、もう一方は歴史の陰への沈潜という、決定的な結果の差を生み出した。これは、戦国から江戸へと時代が移行する過渡期における、個人の生存戦略の成否を如実に示す象徴的な事例と言えよう。
表1:丹羽一族の知行の変遷(天正11年~寛永4年)
西暦(和暦) |
人物 |
拠点(城) |
所領(国・郡) |
石高 |
備考 |
1583年(天正11年) |
丹羽長秀 |
北ノ庄城 |
越前・若狭・加賀二郡 |
123万石 |
賤ヶ岳の戦いの功績による 1 |
1585年(天正13年) |
丹羽長重 |
北ノ庄城 |
若狭一国 |
15万石 |
家督相続後、越中征伐の嫌疑で減封 3 |
1587年(天正15年) |
丹羽長重 |
加賀松任城 |
加賀松任 |
4万石 |
九州平定時の家臣の罪で減封 4 |
1587年(天正15年) |
丹羽長正 |
越前東郷槇山城 |
越前東郷 |
5万石 |
豊臣秀吉より独立大名として与えられる 9 |
1590年頃 |
丹羽長重 |
加賀小松城 |
加賀小松 |
12万5千石 |
小田原征伐の功績で加増 4 |
1600年(慶長5年) |
丹羽長重・長正 |
- |
- |
0石 |
関ヶ原の戦いで西軍に与し改易 9 |
1603年(慶長8年) |
丹羽長重 |
常陸古渡 |
常陸古渡 |
1万石 |
徳川秀忠の引立てで大名復帰 3 |
1600年以降 |
丹羽長正 |
大坂城 |
- |
600石 |
浪人となり、豊臣秀頼に仕える 9 |
1627年(寛永4年) |
丹羽長重 |
陸奥白河城 |
陸奥白河 |
10万700石 |
加増を重ね、大名として再興を果たす 3 |
関ヶ原の戦いで改易され、全てを失った丹羽長正が選んだ道は、旧主である豊臣家に仕えることであった。彼は豊臣秀頼に召し抱えられ、600石という僅かな知行を得て大坂城に入った 9 。かつて5万石を領した大名であった彼にとって、この境遇は屈辱以外の何物でもなかったであろう。しかし、彼は滅びゆくかに見えた豊臣家の再興に、最後の望みを託したのである。
この時期、兄の長重は徳川家の下で着実にその地位を回復し、大名としての道を再び歩み始めていた。これにより、兄弟は徳川と豊臣という、もはや対立が避けられない二大勢力にそれぞれ身を置くこととなり、その立場は完全な対極を成すに至った。
慶長19年(1614年)、徳川家康と豊臣家の対立が方広寺鐘銘事件をきっかけに決定的となると、大坂城には徳川の世に不満を抱く多くの浪人たちが全国から集結し始めた 23 。真田幸村(信繁)、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永といった、関ヶ原で敗れた西軍の将やその子弟たちが、再起を賭けて馳せ参じたのである 24 。
彼ら浪人衆の多くは、徳川との徹底抗戦を唱える主戦派であり、城内は日増しに過激な空気に支配されていった。一方で、豊臣譜代の家臣である片桐且元らは徳川との和睦を模索する穏健派であったが、彼らの声は浪人たちの勢いに押されてかき消されがちであった 23 。城内では軍議が紛糾し、統一された戦略を描けぬまま、主戦派と穏健派、さらには浪人衆の内部でも複数の派閥が形成され、深刻な内部対立が渦巻いていた 24 。長正は、この混沌とした状況を城内の一員として目の当たりにしていたのである。
慶長19年(1614年)11月、徳川家康が20万ともいわれる大軍を率いて大坂城を包囲し、大坂冬の陣がまさに始まろうとしていた。その決戦の直前、丹羽長正は大坂城から忽然と姿を消した 9 。史料はこの不可解な行動の事実を記すのみで、その理由を明確には語らない。しかし、当時の状況を鑑みれば、彼の脱出は衝動的なものではなく、複数の要因が絡み合った末の、極めて現実的な決断であったと推察される。
第一に、豊臣家の将来への絶望である。元大名として大局観を持つ長正は、城内の指導力欠如と無秩序な派閥争い、そして徳川方が有する圧倒的な物量と組織力を冷静に比較分析し、豊臣方の勝利が万に一つも無いことを悟ったであろう 26 。滅びの運命にある船に乗り続けることは、無意味な死を意味した。
第二に、城内の混乱への嫌悪感である。武家の秩序を重んじる人間として、浪人たちの声ばかりが大きくなり、統一した指揮系統も確立されない城内の無秩序な状況に、愛想を尽かした可能性も高い 24 。
第三に、そして極めて重要なのが、兄・長重の存在である。この時、兄の長重は徳川方の大名として大坂攻めに従軍していた。もし長正が城内に留まれば、戦場で実の兄と刃を交えるという、一族相克の悲劇が現実のものとなる可能性があった。
これらの要因が複合し、彼を一つの結論へと導いた。それは、豊臣家への忠義に殉じて玉砕する道ではなく、生き延びて自らの血筋を未来に繋ぐという選択である。この脱出は、裏切りや臆病といった単純な言葉で断じられるべきではない。それは、滅びゆく旧秩序に見切りをつけ、一族の存続という武士としての至上命題を優先した、冷徹なリアリストとしての決断であった。
大坂城を脱出した長正が終焉の地として選んだのは、越前福井であった 9 。この地は、かつて父・長秀が123万石の太守として君臨し、丹羽家が最も輝かしい時代を過ごした場所である。また、母方の祖先である朝倉氏の故地でもあった。波乱に満ちた生涯を送った彼が、その最後に父祖の地に帰還したことは、象徴的な意味を持つ。福井での彼の晩年の生活については詳細な記録は残されていないが、政治の表舞台から完全に身を引き、静かな隠遁生活を送ったものと考えられる。
寛永7年(1630年)4月4日、丹羽長正は55年の生涯を閉じた 9 。彼の墓所は、福井市つくもにある総光寺に現存する 27 。この総光寺は、父・長秀が自らの菩提寺として建立した寺院であり、長秀自身の墓もここにある 30 。
豊臣家に仕え、兄とは異なる道を歩んだ長正が、死してなお父が建立した寺で、その父の傍らに葬られたという事実は、彼の人生の最終的な帰着点を示唆している。彼の生前の選択は、丹羽家からの完全な離反ではなく、あくまでも異なる状況下で家名を保つための生存戦略であり、最終的には丹羽家の一員として父祖の元に還ったことを、この埋葬の事実が物語っている。
長正の生涯を評価する上で、最も重要な事実がその子孫の行方である。記録によれば、長正の子孫は、兄・長重の家臣として仕えたとされている 27 。長重の家系は、その後、陸奥二本松藩10万石余の藩主として、江戸時代を通じて存続し、幕末の動乱期を迎えることになる 1 。
この事実は、長正の大坂城脱出という決断が、結果として「家の存続」という目的を達成したことを明確に証明している。もし彼が豊臣家と運命を共にしていれば、彼の血筋はそこで途絶えていたであろう。しかし、彼は生き延びる道を選んだ。それによって、自らの血脈を、徳川の世で安泰となった兄の本家に合流させ、丹羽の家名の下で未来へと繋ぐことに成功したのである。この一点において、彼の人生は「敗者」の物語ではなく、「家の存続に成功した生存者」の物語として再評価されるべきである。
丹羽長正は、偉大な父・長秀と、劇的な人生を送った兄・長重という二つの大きな光の影に隠れ、歴史上、目立つ存在として語られることはない。しかし、その生涯を丹念に追うことで見えてくるのは、時代の激流の中で、一人の人間が下し続けた極めて現実的な選択の連続であった。
豊臣政権下で独立大名として取り立てられた栄光、関ヶ原の戦いでの西軍加担と敗北、そして全てを失った後の豊臣家への仕官。その後の大坂の陣における決戦直前の脱出という、彼のキャリアにおける最大の謎とされる行動も、豊臣家の勝利が絶望的であるという冷徹な現状分析、城内の無秩序への嫌悪、そして何よりも一族の血を未来に繋ぐという、武士としての根源的な目的意識に基づいた、合理的な判断であったと結論付けられる。
丹羽長正の人生は、理想や忠義に殉じる華々しい英雄譚ではない。それは、戦国乱世から徳川の治世へと移行する時代の過酷な現実と、その中で生きる一人の武士の、生存を賭けたリアルな選択の物語である。彼は、滅びゆく旧秩序に見切りをつけ、家の存続という至上命題を背負い、冷徹な現実認識をもって行動した一人の生存者(サバイバー)であった。彼の「忘れられた」生涯を再評価することは、戦国史の華やかな表層の裏にある、無数の個人の葛藤と生存戦略の物語を理解する上で、極めて貴重な示唆を与えてくれるのである。