丹羽長秀(にわ ながひで、1535年~1585年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将であり、織田信長の宿老として、その天下統一事業に多大な貢献を果たした重要人物である 1 。長秀は、信長に生涯を通じて一度も背くことなく忠誠を尽くしたことで知られ、その多岐にわたる才能と実直な人柄は、主君信長から絶大な信頼を得るに至った 2 。
長秀を語る上で欠かせないのが、彼に与えられた二つの著名な異名である。「米五郎左」(こめごろざ)と「鬼五郎左」(おにごろざ)がそれであり、これらは彼の持つ二面性、すなわち政務における不可欠な安定性と、戦場における鬼神の如き勇猛さを的確に表している 2 。この対照的な評価こそが、長秀の価値を深く理解する鍵となる。本報告では、丹羽長秀の生涯、業績、人物像、そして後世への影響について、現存する史料に基づき包括的に分析することを目的とする。
丹羽長秀は、天文4年(1535年)9月20日、尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれた 1 。父は丹羽長政であり、丹羽氏は元々尾張守護の斯波氏に仕えていたが、長政の代に織田氏に臣従したとされる 1 。長秀は天文19年(1550年)頃、16歳で織田信長の近習として仕え始めた。当時、信長自身も17歳であり、年齢が近かったことが、両者の間に特別な絆を育む一因となったと考えられる 1 。信長の勃興期という共通の体験を分かち合ったことは、単なる主従関係を超えた、同志としての信頼関係を醸成したであろう。この個人的な繋がりが、長秀の揺るぎない忠誠心と、信長の彼に対する深い信頼の基盤となったことは想像に難くない。
信長の長秀に対する深い愛情と信頼は特筆すべきものであり、信長は長秀を「友であり、兄弟である」と評したと伝えられている 2 。さらに、信長は自身の名の一字「長」を長秀に与えており、これは金森長近と長秀のみに許された稀有な栄誉であった 9 。
信長が酒宴の席でしばしば「不動行光、九十九髪、人には五郎左御座候」(我が宝は、刀の不動行光、茶入の九十九髪茄子、そして人においては五郎左である)と詠ったという逸話は、長秀が信長にとって如何に価値ある存在であったかを雄弁に物語っている 2 。最も大切にする名物と同列に語られることは、個人的な寵愛の深さを示すものである。
「米五郎左」という呼称は、長秀の不可欠性を象徴するものであった 1 。米が日常生活に欠かせないように、長秀もまた織田家にとって、身分の上下を問わず、あらゆる場面で必要とされる存在であったことを意味している 2 。当時、他の重臣たちもその特性を捉えた異名で呼ばれていた。例えば、豊臣秀吉は木綿のように使い勝手が良いことから「木綿藤吉」、柴田勝家はその突撃戦法から「掛かれ柴田」と称された。これらと比較すると、「米五郎左」の「米」は、より根源的で普遍的な必要性を示唆している。木綿は有用だが米ほど生存に不可欠ではなく、「掛かれ」は特定の軍事的機能に限定される。長秀の「米」としての資質は、織田政権の全体的な機能、すなわち兵站、統治、そして信頼できる指揮系統の維持に不可欠であったことを示している。
この信頼関係は婚姻政策によってさらに強固なものとなった。永禄6年(1563年)、信長の仲立ちにより、長秀は信長の養女(兄・織田信広の娘)である桂峯院を正室に迎えた 1 。後に、長秀の嫡男・長重も信長の娘の一人(五女・報恩院)を娶っている 1 。織田宗家と二代にわたるこのような深い姻戚関係を結んだのは、織田家臣団の中でも丹羽氏のみであり 1 、これは長秀と信長との間の並々ならぬ信頼と親密さ、そして丹羽家を織田体制に深く組み込もうとする信長の意図を明確に示している。頻繁に裏切りが発生した戦国時代において、信長が長秀の家系をこれほどまでに自らの血筋と結びつけようとしたことは、個人的な信頼だけでなく、将来にわたる丹羽家の忠誠を確実なものにしようという政治的な配慮の表れでもあった。
長秀の軍歴は、天文22年(1553年)、19歳での梅津表の合戦における初陣から始まる 1 。弘治2年(1556年)の稲生の戦いでは信長方として戦功を挙げた 1 。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにも従軍したが、主力部隊には加わっていなかったとされる 1 。しかし、信長は長秀の参戦が兵士の士気を高めたと評価したと伝えられている 7 。
美濃攻略戦においても長秀の功績は大きかった。特に猿啄城攻めでは、水源を断つという戦術で落城に貢献し 2 、稲葉山城(後の岐阜城)の攻略にも関与した 2 。また、美濃侵攻の拠点となった小牧山城の築城にも携わっており、この頃から彼の行政手腕の一端が窺える 4 。これらの初期の戦功と実務能力は、信長の尾張・美濃統一事業における長秀の信頼性と有効性を証明するものであった。一つ一つの任務の成功が、信長の彼に対する評価を確固たるものにし、後のより大きな責任へと繋がっていったのである。
永禄11年(1568年)、信長が足利義昭を奉じて上洛(将軍擁立のための京都進軍)を試みた際、南近江の六角氏がこれに抵抗した 1 。この時、長秀は3,000の兵(佐久間信盛、木下藤吉郎(秀吉)も同道したとされる 6 )を率いて六角氏の支城である箕作城を攻撃した 1 。
長秀の部隊は、僅か一日でこの堅城を陥落させた 2 。この時の鬼神の如き戦いぶりから、「鬼五郎左」という勇猛な異名が轟いた 2 。「五郎左」は、彼の通称「五郎」と官位「左衛門尉」に由来する 2 。箕作城は、六角氏の防衛網における重要な拠点の一つであった 14 。この城を迅速に攻略したことは、六角氏の防衛戦略を大きく揺るがし、信長の京都への迅速な進軍を可能にした。この戦功により、「鬼五郎左」の名は、長秀の卓越した野戦指揮官としての評価を不動のものとした。
長秀は織田軍の主要な戦いのほとんどに参加している。
天正元年(1573年)9月、朝倉氏滅亡後、長秀は近江佐和山領に加えて若狭一国を与えられ、織田家臣の中で最初の国持大名(一国規模の領地を持つ大名)となった 1 。これは織田政権の領土拡大と統治体制における新たな段階を示す画期的な出来事であった。信長が長秀を最初の国持大名に任命したことは、彼への絶大な信頼と、その行政能力への高い評価を物語っている。広大な征服地を安定的に統治するためには、軍事力だけでなく優れた行政手腕が不可欠であり、長秀はこの pioneering role に最も適した人物と見なされたのである。
若狭国では、長秀自身は遠敷郡を直轄領とし、三方郡は粟屋勝久・熊谷伝左衛門に、大飯郡は逸見昌経にそれぞれ分与し、彼らは領内において独立した支配権をある程度有していた 1 。しかし、長秀は若狭国全体の治安維持や流通統制など、一国単位の取りまとめを担った 1 。若狭国内の家臣には溝口秀勝や長束正家らがおり、武田元明ら若狭衆(旧武田氏遺臣)を与力として軍事指揮下に置いた 1 。
この若狭における統治形態は、新しく獲得した領土を円滑に統合するための現実的なアプローチを反映している。既存の在地勢力を活用しつつ、全体の戦略的統制は長秀が握るというこの方法は、中央集権化と地方分権のバランスを取るものであった。特に、若狭の主要港である小浜と、そこから京都へ続く鯖街道 17 の経済的重要性を考えると、長秀の役割は物流と商業の管理にも及んでいたと推測される。この経験は、後のより大規模な領国経営の基礎となったであろう。
長秀の行政手腕が最も発揮されたのが、信長の新たな本拠地であり、天下統一の象徴となる安土城の築城において、総奉行(建設最高責任者)に任命されたことである 1 。この巨大プロジェクトは、膨大な資材、労働力、財源、そして高度な技術管理を必要とするものであった。長秀は、石垣構築に優れた技術を持つ穴太衆を見出し、活用したと伝えられている 6 。
安土城の建設は単なる城造りではなく、信長の権威と新しい時代を象徴する事業であった。この総責任者に長秀を任命したことは、信長が彼の行政能力、細部への注意力、そして複雑な大規模事業を完遂する能力を絶対的に信頼していたことを示している。この役割は、一軍の指揮を執ること以上に、織田政権の総合力を試すものであり、長秀が「米五郎左」と称された所以である、万能な実務能力を証明するものであった。
賤ヶ岳の戦い(1583年)の後、長秀は越前国(敦賀郡・南条郡・大野郡の一部を除く)と加賀国江沼・能美二郡を与えられ、本拠を北ノ庄城に移した 1 。その所領は推定約60万石 1 、あるいは若狭などを含めると123万石にも達したとされる 19 。
越前においては、天正12年(1584年)に検地(縄打)を実施した 21 。この検地は、後の太閤検地とは異なり一反=360歩制であったが、田畑や屋敷、山林の価値を石高で評価し、徴税と知行割の基礎を確立しようとするものであった 21 。長秀の越前統治は短期間であったが、この検地の実施は、支配を掌握して間もない領国において、資源の把握と中央集権的な統制を強化しようとする、当時の織田・豊臣政権に共通する行政的優先事項を反映している。
長秀は、安土城築城以前にも造船を指揮し、琵琶湖で用いる大型軍船を建造した 2 。これらの船は、信長が京都へ上洛する際や、一向一揆との戦いにおいて、兵員輸送や湖上からの圧力に用いられ、戦略的な機動力を高めた 2 。特に鉄甲船のような革新的な船舶の建造に関与したことは 23 、長秀が単なる伝統的な行政官ではなく、新しい技術や戦略的要請に対応できる柔軟な思考と管理能力を持っていたことを示している。これは、信長が彼に安土城のような前例のないプロジェクトを任せた理由の一つであろう。
天正3年(1575年)、信長が家臣たちに官位と新たな姓を与えることを朝廷に奏請した際、長秀には「惟住」(これずみ)の姓が与えられることになった。しかし長秀は当初、「自分は生涯五郎左のままで結構です」と固辞したと伝えられる 1 。最終的には信長の勧めもあり惟住姓を名乗ったが、この逸話は彼の謙虚な人柄を示すものとしてしばしば引用される 2 。戦国武将が名誉や地位を競い合う中で、このような態度は長秀の忠誠心と無欲さを際立たせている。それは、彼が自己の顕示よりも主君への奉仕と組織全体の調和を重んじる人物であったことを示唆している。
表1:丹羽長秀の主要な領地と行政的役割
領地・役割 |
時期 |
主要な職務・成果 |
推定石高(該当する場合) |
典拠 |
近江国 佐和山城主 |
1571年~ |
戦略的要衝の管理 |
不明(佐和山領5万石 3 ) |
1 |
若狭国守護(国持大名) |
1573年~ |
若狭一国の統治、治安維持、流通統制、小浜の管理 |
若狭一国 |
1 |
安土城普請総奉行 |
1576年~ |
安土城の設計・建設全体の総指揮、穴太衆の活用 |
― |
1 |
琵琶湖の大型船(鉄甲船含む)建造指揮 |
不詳(安土城築城以前など) |
戦略的な水上輸送力・戦闘力の確保 |
― |
2 |
越前国及び加賀二郡(北ノ庄城主) |
1583年~1585年 |
越前国の統治、天正12年の検地実施 |
約60万石~123万石 |
1 |
京都馬揃え先導 |
1581年 |
織田家臣団筆頭格としての序列を示す |
― |
1 |
惟住姓拝領 |
1575年 |
信長からの高い評価と信頼の証 |
― |
1 |
本能寺の変当時、長秀は織田信長の三男・織田信孝(総大将)と共に、四国遠征の準備のため大坂に滞在していた 11 。信長横死の報を受けると、長秀は信孝を補佐し、迅速かつ断固たる行動をとった。彼らは、明智光秀の娘婿であり、光秀に与する可能性を疑われた織田信澄(津田信澄、信長の甥)を大坂で襲撃し、殺害した 1 。この素早い動きは、政変直後の混乱期において、織田家中の動揺を抑え、明智方への加担者を排除しようとする、長秀の危機管理能力と政治的判断の的確さを示している。
長秀と信孝は、中国大返しで畿内に急行した羽柴(豊臣)秀吉の軍勢に合流し、明智光秀討伐戦である山崎の戦いに参加した 1 。この戦いで光秀を破り、主君信長の仇を討つことに貢献した。
山崎の戦い後、織田家の後継者問題と遺領配分を決定するため、清洲城で重臣会議(清洲会議)が開かれた。長秀は、柴田勝家、羽柴秀吉、池田恒興と共に、この会議の主要メンバーであった 1 。
後継者問題では、柴田勝家が信長の三男・織田信孝を推したのに対し、秀吉は信長の嫡孫(信長の嫡男・信忠の子)である三法師(後の織田秀信、当時幼児)を擁立した 1 。この対立において、長秀は池田恒興と共に秀吉の主張を支持し、三法師擁立に賛成した 1 。これは秀吉にとって極めて重要な支持であった。山崎の戦いで軍事的影響力を増した秀吉ではあったが、長秀のような織田家宿老の重鎮からの支持は、彼の立場に正当性を与え、勝家に対抗する上で大きな力となった。近年の説では、勝家も三法師擁立自体には賛成し、後見人を巡って対立したともされるが 27 、いずれにせよ長秀の選択が秀吉有利に働いたことは間違いない。
清洲会議における領地再配分では、長秀の若狭国領有は安堵され、近江国に二郡が加増された 4 。長秀が清洲会議で秀吉に与したことは、彼自身の政治的洞察の結果であったと考えられる。秀吉の勢いと、織田家の混乱を収拾する能力を見抜いた上での現実的な選択であったか、あるいは勝家のような旧守的な勢力よりも、秀吉との方が協調しやすいと考えたのかもしれない。この決断は、結果的に秀吉の台頭を助け、その後の歴史の潮流を大きく左右することになった。
清洲会議後、秀吉と柴田勝家の対立は決定的となり、賤ヶ岳の戦いへと発展した。この戦いにおいて、長秀は一貫して秀吉を支持した 1 。直接的な戦闘参加の詳細は不明瞭な点もあるが、後方支援や兵站供給などで秀吉軍を支えたとされ 4 、秀吉方としての彼の存在は勝家を一層孤立させた。
秀吉が勝利し勝家が滅亡した後、長秀はその功績により、勝家の旧領であった越前国と加賀国の一部を与えられ、北ノ庄城を本拠とする大々名となった 1 。これにより、長秀は秀吉主導の新体制下で、当初は重きをなす存在となった。清洲会議から賤ヶ岳の戦いに至るまでの一貫した秀吉への支持は、長秀が激動する政局を巧みに乗りこなし、自らの地位を確保しようとした結果と言える。
前述の通り、賤ヶ岳の戦いの後、長秀は越前及び加賀の一部を領有し、その石高は若狭等を含めると123万石にも達したとされ 1 (越前・加賀のみでは約60万石との推定もある 1 )、秀吉政権下で有数の大名となった。この広大な領地は、長秀の死後、嫡男・長重に引き継がれた 19 。
当初は秀吉と協調関係にあった長秀だが、晩年には両者の関係に変化が生じ、緊張や複雑性が生まれた可能性が複数の史料から示唆されている。
長秀の死に際して語られる最も議論を呼ぶ逸話が、彼が腹部の病(積聚または寸白とされ、寄生虫病や腫瘍と解釈される)に苦しみ、死の直前にその病巣(あるいは寄生虫そのもの)を自ら抉り出し、秀吉に送りつけたとされるものである 1 。
この行為の一つの解釈は、秀吉に対する抗議や怨嗟の表明であるというものである。その背景として、秀吉が織田信長の遺族をないがしろにした(例えば、織田信孝を自害に追い込んだこと 4 )ことや、織田家を蔑ろにして自らの権力を強大化させたことへの不満があったとされる 3 。史料 4 は、長秀が秀吉の行いを非道と感じ、信長の遺族が顧みられない状況に心を痛め、秀吉と距離を置くようになったと記している。この「腫物」送付は、絶望や抗議のための割腹自害の一形態であったとも解釈されている 3 。
一方で、長秀は病死したとする記録も多い 1 。病名は「積寸白」とされ、寄生虫(回虫やサナダムシなど)によるものと考えられている 1 。『竹田譜』などを引用する史料 29 は、抉り出された「怪物」は回虫であり、長秀はその行為の2日後に死亡したことから、典型的な割腹とは異なると主張している。
さらに、長秀の遺書には秀吉への感謝の言葉も綴られていたとされ、このことから一部の歴史家は、長秀が秀吉に深い恨みを抱いていたとは考えにくいと推測している 7 。『大日本史料』に関する記述 30 によれば、丹羽家が後に長秀の「割腹」の詳細を秘匿したことは、秀吉との関係における何らかの機微があったことを示唆している。
これらの相反する記述は、長秀の秀吉に対する最終的な感情や死の状況に関する歴史的評価の複雑さを浮き彫りにする。それが反抗の意思表示であったのか、あるいは苦痛に満ちた病の劇的な終焉であったのか、いずれにしてもこの逸話は激動の時代と、旧織田家臣が直面したプレッシャーを反映している。信長への忠誠心が篤かった長秀が、もし秀吉の織田家に対する処遇に裏切られたと感じていたならば、その劇的な行動は強烈な、しかし象徴的な抗議行為となるだろう。逆に、病死であり感謝の念を残していたとすれば、それは緊張をはらみつつも継続していた忠誠関係を示す。この曖昧さ自体が、秀吉の権力掌握過程の不安定さと、当時の武将たちの多様な忠誠のあり方を物語っている。長秀の死後、丹羽家が秀吉によって減封された事実 29 も、後世の解釈に影響を与えた可能性がある。
丹羽長秀は、天正13年(1585年)4月16日に死去した 1 。享年は51(満49歳)であった 1 (数え年と満年齢の違いによる)。直接的な死因は「積寸白」という病であったとされる 1 。墓所は福井県福井市(旧北ノ庄)の総光寺(宗徳寺)にある 1 。
長秀の人物像は、勇猛な武勇と洗練された行政能力、そしてそれらを支える深い忠誠心とある種の謙虚さが稀有な形で融合したものであったと言える。この組み合わせが、信長にとって彼をかけがえのない存在にした。多くの戦国大名は勇猛な武将か有能な行政官のいずれか一方に秀でていたが、長秀ほど両面に優れ、かつ絶対的な忠誠心と結びついていた人物は少なかった。これが彼を織田政権の柱石たらしめた要因である。
長重の経歴は、織田政権から豊臣政権、そして徳川政権へと移行する激動の時代における有力大名の不安定な立場を反映している。父・長秀の功績にもかかわらず、秀吉が丹羽家に対してとった措置は、自身の権力基盤を固めるためには潜在的なライバルや強大すぎる譜代以外の勢力を弱体化させることも厭わない、秀吉の冷徹な現実主義を物語っている。長重が徳川政権下で大名として復活できたことは、彼の適応能力と、徳川家が旧家の名跡をある程度は評価したことを示している。
丹羽家は、秀吉による大幅な減封という試練に見舞われながらも、巧みな処世術と適応力によって江戸時代を生き抜き、大名としての地位を維持した。様々な分家や養子縁組は、激動の時代を乗り越え、家名を存続させようとした武家社会の複雑な戦略を物語っている。
表2:丹羽長秀の生涯と主要な出来事の年表
年(和暦/西暦) |
年齢(数え) |
主要な出来事・役割 |
概要・影響・典拠 |
天文4年 (1535) |
1 |
尾張国春日井郡児玉に生まれる |
1 |
天文19年 (1550)頃 |
16 |
織田信長に仕官 |
信長17歳、長秀16歳 1 |
天文22年 (1553) |
19 |
梅津表の合戦で初陣 |
1 |
弘治2年 (1556) |
22 |
稲生の戦いに信長方として参戦 |
1 |
永禄3年 (1560) |
26 |
桶狭間の戦いに従軍 |
1 |
永禄6年 (1563) |
29 |
信長の養女・桂峯院と結婚 |
1 |
永禄11年 (1568) |
34 |
観音寺城の戦い(箕作城攻め)で武功、「鬼五郎左」の異名を得る |
1 |
元亀2年 (1571) |
37 |
近江佐和山城主となる |
1 |
天正元年 (1573) |
39 |
一乗谷の戦いに参加、若狭一国を与えられ初の国持大名となる |
1 |
天正3年 (1575) |
41 |
惟住の姓を賜る(当初固辞) |
1 |
天正4年 (1576)~ |
42~ |
安土城普請総奉行を務める |
1 |
天正9年 (1581) |
47 |
京都御馬揃えで一番に入場 |
1 |
天正10年 (1582) |
48 |
本能寺の変。山崎の戦いに参戦。清洲会議に出席し秀吉を支持。 |
1 |
天正11年 (1583) |
49 |
賤ヶ岳の戦いで秀吉を支援。越前国・加賀二郡を与えられる。 |
1 |
天正12年 (1584) |
50 |
越前で検地を実施 |
21 |
天正13年 (1585) |
51 |
4月16日、死去 |
病(積寸白)による 3 |
丹羽長秀は、織田信長への絶対的な忠誠心と、軍事・行政両面における卓越した能力を兼ね備えた、戦国時代でも稀有な武将であった。安土城築城や若狭・越前統治といった重要プロジェクトを成功に導き、数々の戦役で武功を挙げた彼の存在は、織田政権の安定と発展に不可欠であった。信長没後の混乱期においても、清洲会議での秀吉支持など、その政治的判断は歴史の転換点において重要な役割を果たした。
丹羽長秀は、戦国武将の理想像の一つである、勇猛果敢でありながらも、主君への忠義に厚く、実務能力にも長けた人物として記憶されるべきである。彼の生涯は、信長のような偉大な統一者の下で頭角を現すために必要とされた多様な資質を体現している。
彼の死の状況や秀吉との関係を巡る複雑な逸話は、戦国時代から安土桃山時代にかけての、権力闘争の激しさと人間関係の機微を映し出している。同時代の他の武将たちほど派手な自己顕示はしなかったかもしれないが、「米五郎左」と称された彼の着実な貢献は、織田政権の成功と、その後の権力移行期における安定にとって、まさに米のように根源的かつ不可欠なものであった。
丹羽長秀のキャリアは、戦国時代のリーダーシップが純粋な武勇偏重から、より洗練された行政能力や兵站管理能力を必要とする統合的なものへと移行していく過程を象徴している。彼は戦場を駆ける武人であると同時に、国家を建設し統治する能力をも備えており、16世紀後半の大規模な国家統一事業に必要とされた、多才な人材の原型であったと言える。彼の遺産は、揺るぎない奉仕と、時代が求める多様な要求に応え続けた不可欠な能力の重要性を、現代に伝えている。