久住善三郎は戦国期桑名の豪商の典型。自由港「十楽の津」で廻船業や金融業を営み、会合衆として自治を担った。信長服属後は御用商人となり、新体制に適応した。
本報告書は、戦国時代の伊勢国桑名に存在したとされる商人、「久住善三郎」に関する詳細かつ徹底的な調査の成果をまとめたものである。しかし、調査の初期段階において、極めて重要な事実が明らかとなった。桑名市が所蔵するデジタルアーカイブや関連する学術論文、各種歴史資料を網羅的に精査した結果、戦国時代の桑名において「久住善三郎」という名の商人が実在したことを直接的に証明する、信頼に足る記録は一件として発見されなかった 1 。
この史料的制約は、本報告書の方向性を決定づけるものである。特定の個人の伝記を記述することは不可能であるため、本報告書ではアプローチを転換する。すなわち、「久住善三郎」を、戦国期桑名の繁栄と激動、そしてその終焉を一身に体現した豪商の**「アーキタイプ(原型)」 として設定する。そして、この原型が生きたであろう歴史的環境、すなわち桑名という都市が有した地理的・経済的特性、商人たちによる「会合衆」と呼ばれる自治組織の実態、そして織田信長という圧倒的権力の登場がもたらした時代の転換点を多角的に分析する。これにより、一人の商人がどのような環境で、いかなる事業を手掛け、時代の荒波にどう対処したのかを、現存する史料に基づき学術的に 再構築(リコンストラクション)**することを、本調査の主たる目的とする。
では、なぜ史料にその名が見られない「久住善三郎」という人物像が、現代にまで伝わっているのであろうか。この問いに対する考察は、本報告書の出発点として不可欠である。調査を進める中で、「久住」という姓を持つ人物が、幕末から大正時代にかけて宇和島藩や実業界で活躍していた記録が散見される 1 。また、桑名自身も、江戸時代から明治時代にかけて、萬古焼の祖である沼波弄山や、「山林王」と称された諸戸清六といった、全国に名を馳せた豪商を数多く輩出している 5 。
これらの事実は、一つの仮説を導き出す。すなわち、「久住善三郎」という存在は、特定の歴史上の個人を指すのではなく、異なる時代や場所で活躍した人物のイメージや、桑名が育んだ豪商たちの記憶が、長い年月を経て混淆し、結合することによって形成された**「概念的な存在」**である可能性が高い。戦国時代の桑名が自由都市として繁栄したという歴史的事実を背景に、「久住」という姓や「善三郎」というありふれた名が結びつき、「いかにも存在しそうな」リアリティを持つ戦国期の豪商像として、地域の記憶の中で結晶化したのではないか。
この考察は、歴史情報が人々の間でどのように伝承され、変容していくかというプロセスそのものへの示唆を与える。本報告書は、この「久住善三郎」というアーキタイプを分析の核に据えることで、単なる事実の列挙に留まらず、戦国時代という変革期における日本の商業都市と、そこに生きた商人たちのリアルな姿を、より深く、重層的に描き出すことを目指すものである。
戦国時代の桑名を理解する上で、その繁栄の根源となった地理的条件と、それによって育まれた独自の都市文化を把握することは不可欠である。久住善三郎のような豪商が活躍する舞台となった桑名は、単なる港町ではなく、当時としては極めて先進的な経済システムを持つ「自由都市」であった。
桑名の発展は、その類稀な地理的条件に深く根差している。木曽川、長良川、揖斐川という日本有数の大河が伊勢湾に注ぐ合流地点に位置する桑名は、古来より水運の要衝であった 8 。この立地は、上流に広がる美濃国や、隣接する尾張国、そして伊勢国の三つの国を結ぶ、陸運・水運双方の結節点としての役割を桑名に与えた。この地勢的優位性こそが、桑名を自然発生的な物資集積地たらしめ、経済的引力を生み出す根源的な要因となったのである。
その繁栄の歴史は古く、鎌倉時代には既に交通の要衝として栄えていたことが記録されている 9 。室町時代に入ると、その機能はさらに強化され、美濃や尾張から運ばれる米穀や木材の一大集散地として、伊勢湾岸地域における経済的中心地の一つへと成長を遂げた 8 。
その繁栄の具体的な様子は、大永七年(1527年)に桑名を訪れた連歌師・宗長の紀行文『宗長手記』によって生き生きと伝えられている。宗長は桑名の景観を「みなとのひろさ五六町。寺々家々数千軒」と記し、港には数千艘もの船が停泊していたと述懐している 10 。この記述は、16世紀初頭の桑名が、単なる中継地点ではなく、数千軒の家々が立ち並び、膨大な数の船舶が出入りする、大規模で活気に満ちた都市を形成していたことを明確に示している。久住善三郎のような商人が活動した舞台は、まさにこのようなダイナミックな経済活動の渦中にあったのである。
桑名の繁栄を支えたのは、地理的条件だけではない。むしろ、その上に築かれた独自の経済システムこそが、桑名を戦国時代の他の都市から際立たせる要因であった。その象徴が、「十楽の津(じゅうらくのつ)」という呼称である。
この「十楽の津」という言葉は、驚くべきことに、戦国時代よりも遥か以前、嘉暦二年(1327年)の史料に既に登場している 10 。これは、桑名の自由な性格が、一朝一夕に形成されたものではなく、中世を通じて長年にわたり培われてきた伝統であったことを物語っている。「十楽」とは、元来、極楽浄土で味わうことができるとされる十種類の喜びや楽しみを意味する仏教用語である 11 。これが転じて、中世・戦国期においては、あらゆる束縛や制約から解放された「自由」を意味する言葉として用いられた 12 。
具体的には、「十楽の津」とは、商工業者が「座」と呼ばれる同業者組合を結成し、特定の権力者から特権を得る見返りに営業を独占する、といった中世的な経済的束縛が存在しない場所を意味した 11 。そこでは、身分や出身地を問わず、誰もが自由に市場に参入し、商取引を行うことが保障されていたのである 8 。これは、織田信長が後に推進する「楽市楽座」政策の先駆けとも言える先進的なシステムであり、桑名の商人たちが外部の権力に頼ることなく、自律的に築き上げたものであった。この徹底した自由競争の環境こそが、全国から野心的な商人たちを惹きつけ、久住善三郎のような人物がその才覚を存分に発揮するための、またとない土壌を提供したのである。
しかし、「十楽の津」が保障する「自由」は、輝かしい繁栄の光だけでなく、常に危険と隣り合わせの影も落としていた。あらゆる商人が自由に活動できるということは、裏を返せば、特定の武家や寺社といった強力な政治権力による排他的な庇護を受けられない状態を意味する。戦国乱世において、武力による後ろ盾のない都市の富は、常に周辺の武将たちによる侵略や略奪の格好の標的となり得た。
この構造的な脆弱性を克服するため、桑名の商人たちは、単に個々の経済活動に専念するだけでは不十分であった。彼らは自らの手で都市の平和と秩序を維持し、外部の軍事勢力と対等に渡り合うための、高度な自治能力と外交手腕を身につける必要に迫られた。この自衛と交渉の必要性こそが、後に詳述する「会合衆」という商人たちの自治組織を必然的に発達させ、彼らの政治的・戦略的思考を磨き上げた根源的な土壌となった。
したがって、「自由」という理念は、桑名の商人たちに無限の経済的機会を提供すると同時に、「自己統治」と「自己防衛」という重い責任を課したのである。久住善三郎のような豪商は、単に商品を売買する経済人であるだけでなく、都市の運命を左右する決定を下す政治家であり、外交官としての一面をも併せ持つ存在でなければならなかった。彼らの活動は、常に富とリスクが表裏一体となった、緊張感に満ちたものであったと推察される。
「十楽の津」という自由な経済空間を維持・運営するため、桑名の商人たちは「会合衆(えごうしゅう)」と呼ばれる自治組織を形成していた。この組織は、堺や博多、伊勢大湊といった他の自治都市に見られるものと軌を一にするが、桑名の会合衆には、その構成において極めて興味深い特徴が見られる。久住善三郎のような豪商は、この会合衆の中核メンバーとして、都市の運営に深く関与していたと考えられる。
桑名の会合衆が、単なる商人の親睦団体ではなく、都市の統治権を担う実質的な権力機構であったことを示す、決定的な史料が存在する。それは、永禄元年(1558年)に近江国(現在の滋賀県)の保内(ほない)商人と枝村(えだむら)商人の間で発生した、紙の積荷を巡る紛争に関する記録である 13 。
この事件において、保内商人が桑名で枝村商人の紙荷を差し押さえたところ、枝村商人側は「桑名衆」が発行した「折紙(おりがみ、証明書や裁定書に類するもの)」を根拠に、その不当性を訴えた。その折紙には、「桑名は十楽の津であるから、そのような差押え行為は認められない」という趣旨が記されていたという 13 。この一点だけでも、桑名の商人組織が、都市内部のルールを定め、それを対外的に行使する、一種の準司法的・準行政的な権能を有していたことが明確にわかる。彼らは、桑名の「自由」を自ら定義し、それを保証する権威として機能していたのである。
さらに興味深いのは、この訴訟に対する保内商人側の反論である。彼らは、「桑名衆と称する四人のうち、三人は河内者(かわちもの)であり、残る一人も桑名に二十年住んでいるだけの者にすぎない」と主張し、その権威に疑問を呈した 13 。この記述は、当時の桑名の社会構造を解き明かす上で、極めて重要な示唆に富んでいる。それは、桑名の自治組織の中核を、必ずしも地元生え抜きの有力者が占めていたわけではなく、畿内、特に当時最先端の商業地帯であった河内国からの移住者が担っていた可能性を強く示唆しているからである。
この「河内者」の存在は、戦国期の桑名が、地縁や血縁に基づく閉鎖的な社会ではなく、商業的な才覚や実力さえあれば外部の人間でも指導的地位に就くことが可能な、ダイナミックで開かれた社会であったことを物語っている。これらの「よそ者」たちは、畿内の先進的な商業知識、経営技術、そして広範な人的ネットワークを桑名にもたらし、都市の発展を牽引する原動力となったに違いない。久住善三郎が、こうした「河内者」の一人であったのか、あるいは彼らと伍して力をつけた地元出身の商人であったのかは定かではない。しかし、いずれにせよ、彼がこのような実力主義の環境の中で頭角を現した人物であったことは想像に難くない。
久住善三郎が具体的にどのような事業を手掛けていたかを記す直接的な史料はない。しかし、堺の今井宗久や津田宗及 14 、あるいは同じ伊勢湾岸の大湊を拠点とした角屋氏 16 といった、同時代の有力な商人たちの活動を参考にすることで、桑名の豪商の事業ポートフォリオを具体的に推測することは可能である。
まず中核となったのは、桑名の地理的優位性を最大限に活用した 廻船業 であろう。自前の船団を組織し、伊勢湾内はもちろんのこと、東国や西国、さらには日本海側とも交易を行い、全国的な物流ネットワークを構築していたと考えられる。彼らは単に商品を運ぶだけでなく、各地の相場を読み、利鞘を稼ぐ投機的な取引にも長けていたはずである。
次に、蓄積した莫大な富を元手とした 金融業 も重要な事業であったに違いない。周辺の武将や寺社、あるいは他の商人に対して資金を融通し、高い利息を得る、いわゆる大名貸しや高利貸しである。これはハイリスク・ハイリターンな事業であるが、成功すれば莫大な利益をもたらし、同時に融資先に対する政治的な影響力をも獲得する手段となった。
さらに、地域の 特産品の生産・販売 にも深く関与していたであろう。桑名は、戦国時代を代表する刀工・村正が活躍した地として知られる 5 。村正の作刀には高度な技術と相応の設備投資が必要であり、その背後には、彼らの活動を経済的に支援するパトロンの存在があった可能性が高い。また、江戸時代に入ってからではあるが、桑名の豪商・沼波弄山が萬古焼を創始したように 5 、商人自らが文化的な付加価値を持つ商品のプロデューサーとなる土壌が桑名には存在した。久住善三郎のような豪商は、鋭い審美眼と豊富な資金力を武器に、こうした職人たちの活動を支え、自らのブランド商品を創出することで、地域の文化振興と経済的利益を両立させていた可能性が考えられる。
桑名「会合衆」の中核に「河内者」が存在したという事実は、この都市の革新性の源泉を解き明かす鍵である。彼らのような「よそ者」は、旧来の慣習に縛られることなく、畿内で培われた最新の商業手法や複式簿記のような先進的な会計技術、そして何よりも広範な情報ネットワークを桑名にもたらした。これにより、桑名の商業活動は質的に向上し、他都市に対する競争優位を確立したと考えられる。リーダーシップが世襲や地縁といった前近代的な要素ではなく、純粋な商業的成功という「実力」によって決定される社会は、才能ある者にとっては極めて魅力的であり、それがさらなる才能を呼び込む好循環を生み出した。
しかし、この革新性は、同時に潜在的な緊張を内包していた。新興の「よそ者」勢力が都市の主導権を握ることは、旧来からの地元有力者や、変化に対応できない商人たちとの間に、軋轢や対立を生んだ可能性がある。永禄元年の紙荷相論において、保内商人側が「桑名衆」の構成を問題視したのも、こうした内部の緊張関係を突こうとする意図があったのかもしれない。
この文脈に久住善三郎というアーキタイプを置くと、二つの魅力的な人物像が浮かび上がる。もし彼が「河内者」の一人であったならば、彼は故郷を離れ、新天地・桑名の自由な環境にビジネスチャンスを見出し、自らの才覚一つで成り上がった、野心的な起業家であっただろう。一方で、もし彼が地元出身者であったならば、彼はこれら強力な「よそ者」の先進性に対抗し、あるいは巧みに協調しながら自らの地位を築き上げた、極めてしたたかな戦略家であったと言える。いずれのケースであっても、彼の成功は、多様な人間が交錯するダイナミックな社会の中で、絶え間ない競争と協調を繰り返した結果であったことは間違いない。
16世紀後半、桑名の商人たちが謳歌した自治と繁栄は、時代の大きなうねりによって根底から揺さぶられることとなる。尾張から急速に台頭した織田信長の勢力拡大は、桑名をはじめとする伊勢湾岸の諸都市に、否応なく「服属か、抵抗か」という究極の選択を迫った。久住善三郎ら会合衆は、この歴史の転換点において、都市の運命を左右する重大な決断を下さなければならなかった。
本章で論じる複雑な政治・軍事情勢を時系列で把握するため、まず関連する主要な出来事を以下に整理する。この年表は、桑名が「自治都市」であった時代から、武家権力の下に組み込まれていくまでの劇的な変化を視覚的に示すものである。
年代(西暦) |
元号 |
出来事 |
桑名の商人への影響 |
1527年 |
大永7年 |
連歌師・宗長が桑名を訪問。その繁栄を記録 10 。 |
自治都市としての繁栄が頂点に達していた時期。 |
1558年 |
永禄元年 |
近江商人間で紙荷相論が発生。「桑名衆」が権威を行使 13 。 |
会合衆が対外的な紛争に介入するほどの権力を持っていた。 |
1567年 |
永禄10年 |
織田信長による北伊勢侵攻。桑名は抵抗せず、信長の支配下に入る 13 。 |
自治権を事実上放棄し、新たな権力者との共存を選択。 |
1570年 |
元亀元年 |
長島一向一揆が蜂起 18 。 |
隣接地での大規模な戦乱により、物流や経済活動が混乱。 |
1573年 |
天正元年 |
第二次長島攻め。信長、桑名に在陣 13 。 |
織田軍の拠点となり、武家権力の影響が直接的に及ぶ。 |
1574年 |
天正2年 |
第三次長島攻め。一向一揆が壊滅。滝川一益が長島城主となる 13 。 |
北伊勢全体が織田家の支配下に。桑名の自治は完全に終焉。 |
1601年 |
慶長6年 |
関ヶ原の戦後、本多忠勝が桑名藩主として入封。近世城下町の建設を開始 8 。 |
「商人の町」から「武士の町」へ。商人は藩の経済を支える役割へ。 |
永禄十年(1567年)、織田信長は圧倒的な軍事力を率いて北伊勢へ侵攻した。周辺の在地領主(いわゆる北勢四十八家)が次々と制圧される中、桑名は信長に対して一切の抵抗を試みることなく、その軍門に降った 13 。これは、無益な戦いで都市を焦土と化し、長年かけて築き上げた富を失うことを避けるための、商人らしい極めて現実的な判断であったと言える。この決断は、後に信長から矢銭(軍資金)二万貫を要求された堺の会合衆が、一度は抵抗の姿勢を見せながらも、最終的には今井宗久らの仲介で支払いに応じ、都市の破滅を回避した事例とも通底する 14 。久住善三郎ら桑名会合衆は、失われる自治の権威と、維持される商業的利益を天秤にかけ、後者を選択したのである。
しかし、信長への服属は、桑名に平穏をもたらさなかった。元亀元年(1570年)、本願寺の檄文に呼応する形で、桑名の目と鼻の先にある長島で一向一揆が蜂起する 13 。これに対し、信長は三度にわたる壮絶な攻撃を仕掛け、最終的に天正二年(1574年)、女子供を含む数万人の門徒を柵の中に閉じ込め、焼き殺すという徹底的な殲滅戦によって一揆を鎮圧した 18 。
この隣人の悲劇は、桑名の商人たちに計り知れない衝撃を与えたはずである。一揆の期間中、物流は寸断され、経済は深刻な打撃を受けたであろう。だがそれ以上に、信長が見せつけた武家権力の圧倒的な暴力性と、それに逆らうことの結末を目の当たりにしたことは、久住善三郎らの精神に、権力への恐怖と、もはや自治の時代は終わったのだという冷徹な現実を深く刻み込んだに違いない。
長島一向一揆の鎮圧後、北伊勢の支配は織田家の重臣・滝川一益に委ねられ、一益は長島城を拠点としてこの地を治めた 13 。これにより、桑名が享受してきた「十楽の津」としての特別な地位は完全に失われ、織田政権の地方都市へと組み込まれた。会合衆が有していた自治権は剥奪され、桑名は武家権力の直接的な統制下に置かれることとなったのである。
この変化を決定的なものにしたのが、関ヶ原の戦いを経て天下人となった徳川家康による戦後処理であった。慶長六年(1601年)、家康は徳川四天王の一人である猛将・本多忠勝を十万石で桑名に封じた 19 。忠勝は入封するや否や、大規模な城郭の建設と、それに付随する城下町の整備に着手した 8 。港を中心として自然発生的に発展してきた「商人の町」は、城を核として計画的に区画整理された「武士の町」へと、その姿を大きく変貌させていった。
この新たな都市構造の中で、久住善三郎のような旧来の豪商たちは、その役割を根本から変えることを余儀なくされた。彼らはもはや都市の支配者ではなく、藩主・本多氏の権力の下で、藩の財政や経済を支える「御用商人」としての役割を担うことになった。それは、藩からの特権的な保護や安定した取引といった利益をもたらす一方で、かつて彼らが持っていた自由な活動や都市運営の主導権と引き換えであった。久住善三郎の生涯の後半は、この新しい秩序の中で、いかにして自らのビジネスと一族の繁栄を維持していくかという、新たな挑戦の連続であっただろう。
戦国末期から近世初期にかけて、久住善三郎というアーキタイプが経験したことは、単なる支配者の交代劇ではなかった。それは、都市の存在意義そのものの劇的な転換、すなわちパラダイムシフトであった。彼らの成功の源泉は、信長の登場以前と以後で全く異なるものとなった。以前は「自由」と「自治」をいかに守り、活用するかが成功の鍵であった。彼らは自らがルールメーカーであり、その才覚は都市の指導者としての能力に直結していた。
しかし、信長、秀吉、そして徳川家康と、日本全体が強力な中央集権的な武家支配体制(幕藩体制)へと再編成されていく巨大な歴史の潮流の中で、桑名だけが「自由都市」という例外として存続することは、もはや不可能であった。長島一向一揆の凄惨な結末は、その抗いがたい現実を、これ以上ないほど明確に桑名商人たちに突きつけた。
この状況下で、彼らが直面した課題は、「いかにして自由を守り抜くか」から、「いかにして新体制の中で最大の利益を確保し、生き残るか」へと完全に変化した。生き残るために必要とされたのは、過去の成功体験に固執することなく、新たな権力構造を冷静に分析し、その中で自らの立ち位置を再定義できる、極めて柔軟で戦略的な思考能力であった。
久住善三郎のような豪商は、この変化に適応するため、自らを「変身」させなければならなかった。「自由都市の指導者」から「封建領主下の経済アドバイザー」へ。あるいは「独立した起業家」から「藩お抱えの御用商人」へ。このアイデンティティとビジネスモデルの根本的な変革に成功した者だけが、その後の江戸時代を通じて、桑名の豪商として存続し得たのである。この苦渋に満ちた、しかししたたかな「変身」の物語こそが、戦国から近世への移行期を生きた、日本の商人のリアルな姿を最もよく表していると言えるだろう。
本報告書は、史料上に直接的な記録が見られない「久住善三郎」という人物を、戦国期桑名の豪商のアーキタイプとして設定し、彼が生きたであろう歴史的環境を多角的に分析することで、その人物像を再構築する試みであった。分析の結果、一人の商人の生涯を通して、中世的な自治都市が近世的な武家支配下の城下町へと変貌していく、日本の歴史の大きな転換点を浮き彫りにすることができた。
まず、戦国期の桑名は、木曽三川の合流点という地勢的優位性を背景に、早くから「十楽の津」と呼ばれる自由港として栄え、独自の経済的繁栄を築いていた 8 。その運営は「会合衆」と呼ばれる商人たちの自治組織によって担われており、彼らは対外的な紛争に介入するほどの権威を有していた 13 。特筆すべきは、その会合衆の中核を「河内者」といった外部出身者が担っていたことであり、これは桑名が実力主義に基づいた開かれた社会であったことを示している 13 。
しかし、この自治と繁栄は、織田信長の北伊勢侵攻によって終焉を迎える。桑名会合衆は、隣接する長島一向一揆の悲劇を目の当たりにし、武家権力への抵抗が無益であることを悟り、現実的な選択として信長に服属した 13 。その後、本多忠勝の入封によって桑名は近世城下町へと改造され、商人たちは藩の経済を支える「御用商人」へとその役割を変えていった 19 。
以上の分析に基づき、再構築された豪商「久住善三郎」の人物像は、以下のように総括することができる。
結論として、「久住善三郎」は、特定の個人名を超え、戦国という激動の時代を、その知恵と才覚、そして時代の変化を乗りこなす柔軟性と現実主義によって生き抜いた、日本の商人の強靭さと戦略性を象徴する存在として、歴史の中に位置づけることができる。彼の物語は、記録には残らずとも、確かに存在したであろう無数の商人たちの、栄光と苦悩の軌跡を我々に示唆してくれるのである。