天正8年(1580年)1月、羽柴秀吉による壮絶な兵糧攻め、世に言う「三木の干殺し」が終焉を迎えようとしていた。播磨国三木城が陥落する直前、一人の武将が主君のために最後の抵抗を試みた。彼は敵陣に偽りの投降を仕掛け、敵の大将である秀吉の首を獲るという、壮絶な計画を実行に移す。しかし、その企ては露見し、奮戦の末に討死を遂げた。この武将こそ、本報告書の主題である別所家臣、久米五郎である。
ご依頼主が把握されている「秀吉に切り掛かるが討死した」という逸話は、久米五郎の生涯における最も劇的な、そして最後の場面を捉えたものである。しかし、彼の人物像は、参照する史料によって「忠勇の士」とも「無謀な猪武者」とも描かれ、その評価は一様ではない。本報告書は、この断片的な逸話の枠を超え、現存する軍記物、合戦図、郷土史料などを横断的に調査・分析することで、久米五郎という一人の武将の出自、人物像、三木合戦における具体的な役割、そしてその行動が持つ歴史的背景と意義を多角的に解明し、その実像に迫ることを目的とする。
天正5年(1577年)、天下統一を目前にする織田信長は、中国地方の雄・毛利氏を制圧するため、腹心の将である羽柴秀吉を総大将とする中国方面軍を派遣した 1 。その最初の攻略目標となったのが、畿内と中国地方を結ぶ要衝、播磨国であった。
当時の播磨は、守護大名であった赤松氏の権威が嘉吉の乱以降に衰退し、その一族や有力家臣が国人領主として各地に割拠する、複雑な政治情勢下にあった 3 。中でも東播磨八郡に勢力を張った別所氏は、赤松氏の庶流という名門の出自を持ち、三木城を拠点として大きな影響力を有していた 4 。秀吉が播磨に入ると、別所氏当主の別所長治は、御着城の小寺政職ら他の国人衆と共に、一度は織田方に恭順の意を示した 7 。この時点では、播磨の諸勢力は西の毛利と東の織田という二大勢力の間で、巧みな外交によって自領の安泰を図る緩衝地帯としての役割を担っていたのである 3 。
一度は織田方に付いた別所氏であったが、その関係は長くは続かなかった。天正6年(1578年)2月、長治は突如として織田方から離反し、毛利氏に与することを表明する 4 。この劇的な方針転換の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。
軍記物『別所長治記』などによれば、離反の直接的なきっかけは、長治の叔父であり後見人でもあった別所吉親の強い働きかけであったとされる 7 。吉親は、赤松氏庶流という名門意識から、出自の低い秀吉の指揮下に入ることを良しとせず、また、加古川城で行われた軍議(加古川評定)の席で秀吉と不和になったことが離反を決意させたと伝えられる 4 。さらに近年の研究では、2024年に発見された書状の分析から、秀吉が別所方の支城を破却(城割)したことへの不満が離反の大きな要因であった可能性も指摘されている 4 。
長治の離反に対し、秀吉は迅速かつ徹底的な報復を開始した。彼は三木城を直接攻撃するのではなく、その周囲に付城(つけじろ)と呼ばれる砦を40箇所以上も築き、人や物資の出入りを完全に遮断する兵糧攻め、すなわち「三木の干殺し」と呼ばれる戦術を選択した 1 。これにより、約7,500人もの将兵、家族、門徒らが籠城する三木城は、外部からの補給を絶たれた 4 。約2年にも及ぶ籠城戦の末、城内は牛馬や草木まで食い尽くし、数千人の餓死者を出す地獄絵図と化したと記録されている 1 。久米五郎が決死の行動に至る背景には、こうした極限の絶望的状況があったのである。
久米五郎の人物像は、彼に関する記述が残る数少ない史料の間で、著しい相違を見せる。これは、各史料が成立した時代や、その編纂目的の違いを反映した結果であり、この「描かれ方の違い」を分析することこそが、彼の人物像を多角的に理解する鍵となる。
江戸時代前期に成立したとみられる軍記物『四國軍記』には、三木城での軍議の場面で、久米五郎が同志の志水弥四郎直近と共に末座から進み出て、「軍の手立承るべし」と発言する様子が描かれている。ここでは彼は「大力の荒武者」と称されており、主戦論を唱える血気盛んな勇士として肯定的に描写されている 12 。同様に、別所氏の家臣であった米野弥一右衛門が著者とされる『別所長治記』においても、彼は主君のために命を賭して戦う忠勇の士として、その最期が記録されている 13 。これらの史料は、籠城方の視点に近いか、あるいは武士の武勇を称揚する意図を持っており、久米五郎の行動を忠義の発露として英雄的に描く傾向がある。
一方で、より後代に成立し、物語としての性格が強い『播州太平記』では、その評価は一変する。同書は平田・大村合戦の敗戦について、「別所長治は、勇士ではあったが若い大将であったがゆえに別所吉親の上策を用いず、血気にはやる久米、清水らの無謀の軍議に固く同心してしまった」と記している 15 。ここでは久米五郎は、若き主君を誤った道に導いた、猪突猛進で思慮の浅い人物として、敗戦の一因を担ったかのように否定的に描かれている。これは、物語の構成上、敗戦の理由を特定の人物の性格や行動に帰着させることで、劇的な効果と教訓性を高めようとする軍記物語特有の筆法と解釈できる。
久米五郎の真の人物像は、これら両極端な評価の間に存在したと考えるのが妥当であろう。彼は間違いなく勇猛な武士であったが、同時に籠城戦末期の絶望的な状況が、彼を「無謀」とも言える行動へと駆り立てたのかもしれない。
史料名 |
成立時期 |
著者(または背景) |
人物像・評価 |
行動の記述 |
引用元Snippet ID |
『四國軍記』 |
江戸時代前期 |
不明(軍記物) |
大力の荒武者。主戦論者。 |
評定で志水弥四郎と共に進み出て、合戦の手立てを問う。 |
12 |
『別所長治記』(諸本) |
江戸時代前期 |
別所家臣・米野弥一右衛門 |
忠勇の士。 |
志水弥四郎と共に最期を遂げる。秀吉の郎党と戦う。 |
13 |
『播州太平記』 |
江戸時代中期以降? |
不明(読み物) |
血気にはやる無謀な武将。 |
若き長治を誤らせた「無謀の軍議」の主導者。 |
15 |
『三木合戦軍図』 |
江戸時代(複数あり) |
不明(絵師) |
(図像による表現) |
偽って味方の首を持ち、秀吉本陣に潜入しようとする。 |
22 |
久米五郎の人物像を追う上で、その出自や一族に関する情報は極めて乏しい。これは、彼が歴史に名を残すほどの高位の武士ではなかったことを示唆している。彼の名は、三木合戦における最後の壮絶な行動によって、かろうじて歴史の片隅に記録されたに過ぎない。
太田亮の『姓氏家系大辞典』などを参照しても、播磨国における「久米」姓の有力な一族として彼の名が連なることはない 16 。播磨国加東郡には古く「久米庄」という地名が存在し、住吉神社の神領であった記録が残るが 18 、久米五郎とこの地との直接的な関係を示す史料は見当たらない。また、江戸時代に編纂された播磨の地誌『播磨鑑』や、その他の古文書類にも、彼の出自や家族に繋がる情報は確認できない 19 。
この「記録の不在」は、単なる情報不足ではなく、歴史的事実として捉えるべきである。戦国時代、歴史に名を残すのはごく一部の大名や高名な武将に限られていた。久米五郎のように、特定の所領を持たないか、あるいは持っていても小規模な中下級の武士たちは、その生涯が記録されることは稀であった。彼の名は、秀吉暗殺未遂という特異な事件があったからこそ、軍記物や合戦図に記されたのである。その意味で、彼の存在は、歴史の表舞台に立つことなく消えていった無数の武士たちの生涯を象徴しているとも言えるだろう。
久米五郎の名を後世に伝えたのは、三木城落城直前の、羽柴秀吉暗殺を目的とした偽装投降計画であった。この計画は、単なる闇討ちではなく、当時の軍事儀礼を逆手に取った、絶望的な状況下で生み出された奇策であった。
兵庫県立歴史博物館が所蔵する『播磨三木城合戦図』とその詳細な書き込みによれば、久米五郎は同志の清水弥四郎と共に、味方の首を手土産として秀吉の本陣に赴き、投降を装って大将に接近し、その首を討ち取ることを計画した 22 。この作戦の巧妙さは、戦功の証として討ち取った敵将の首を大将が検分する「首実検」という、当時の厳格な軍事作法を悪用しようとした点にある 23 。正規の戦闘での勝利がもはや不可能となった籠城方にとって、これは既存のルールや儀礼さえも武器として利用しようとする、最後の賭けであった。
この計画の顛末は、複数の史料に記録されている。『播州三木別所実記』には「久米志水最後并 治定討死の事」という一節があり、久米五郎忠勝と清水弥四郎直近が、城主の弟・別所治定と共に討死する様が記されている 13 。同書によれば、彼らは秀吉の本陣に迫ったものの、秀吉の郎党である樋口太郎らにその企てを見破られ、組み付かれて討ち取られたとされる 13 。
この行動は結果として失敗に終わり、戦局に何ら影響を与えることはなかった。しかし、主君と城兵の窮地を救わんとして、己の命を顧みずに敵の大将に一矢報いようとしたその精神は、特に別所方からの視点において、武士の忠義の鑑として記憶されるに値する行為と見なされたのである。
久米五郎の最期の行動は、戦国時代という乱世における武士の多様な生き様と価値観を浮き彫りにする。彼の行動を「忠義」と見るか、「無謀」と見るかによって、その歴史的評価は大きく分かれる。
主君への忠誠を貫き、絶望的な状況下で一命を賭して敵将を狙う行為は、武士道の名誉として称賛される側面を持つ。しかし、大局的に見れば、戦況を覆す可能性が限りなく低いこの計画は、冷静な判断を欠いた玉砕覚悟の行動であり、無謀な賭けであったとも評価できる。
この評価をより明確にするために、同じ別所一族でありながら対照的な道を歩んだ人物、別所重宗(長治の叔父)の存在が参考になる。重宗は三木合戦が勃発すると、甥の長治らとは袂を分かち、一貫して秀吉方に付いた 4 。その結果、長治や吉親らが自刃し三木城が落城した後も、重宗の家系は存続を許された 25 。重宗の現実的な判断と、久米五郎の滅私奉公的な忠義は、乱世を生き抜くための二つの対照的な処世術を示す好例である。久米五郎の行動は、強大な敵に対し、追い詰められた側が正規の戦闘ではなく、暗殺という非対称な手段に訴えざるを得なかった、籠城戦末期の悲壮感を象徴する事例と言えよう。
三木合戦の記憶は、合戦の舞台となった兵庫県三木市において、今なお色濃く継承されている。三木城跡には城主・別所長治の騎馬像や辞世の句碑が建立され、その首塚が雲龍寺に祀られている 1 。特に、別所氏の菩提寺である法界寺では、毎年4月17日の命日に、三木合戦の様子を描いた「三木合戦軍図」を用いた絵解きが行われており、合戦の悲劇が地域の人々によって語り継がれている 1 。
しかし、これら数多くの記念碑や伝承の中で、久米五郎個人の名を冠した墓や碑、あるいは彼にまつわる具体的な伝承地は、現在のところ確認されていない 32 。彼の名は、あくまで「三木合戦」という壮大な物語の一部として、軍記物や合戦図の中にのみその痕跡を留めている。これは、歴史的記憶が、城主一族のような中心人物と、久米五郎のような一介の家臣との間で、明確な階層性を持って継承されていくことを如実に示している。
三木市観光協会や教育委員会が発行する郷土史関連の書籍や、三木合戦を題材とした歴史小説においても、久米五郎は悲劇的な合戦を彩る脇役として、その壮絶な最期が描かれることが多い 4 。彼の存在は、物語に劇的なクライマックスと人間的な深みを与える、重要な要素として機能しているのである。
本報告書における調査の結果、久米五郎に関する確かな事実は、彼が別所氏に仕えた武将であり、その名は史料によって「忠勝」あるいは「久勝」と伝えられていること、そして天正8年(1580年)の三木合戦末期、敗色濃厚となる中で、同志・清水弥四郎と共に偽装投降による羽柴秀吉暗殺を企てたが、露見して討死したという点に集約される。彼の出自や家族、具体的な経歴については、史料的な裏付けが極めて乏しい。
彼の人物像は、参照する史料の性質によって「忠勇の士」とも「無謀な猪武者」とも描かれ、その評価は一様ではない。しかし、いずれの評価も、絶望的な状況下で主君のために全てを賭けた一人の武士の姿を映し出していることに変わりはない。彼の生涯は、歴史の主役にはなれずとも、その一瞬の行動によって強烈な閃光を放ち、後世に名を残した無数の武士たちの象徴と言えるだろう。
久米五郎個人に関する新たな一次史料の発見は、今後も困難であると予想される。しかし、彼のような歴史の片隅に生きた人物に光を当てる作業は、三木合戦という歴史的事件の悲劇性をより深く理解し、戦国乱世を生きた人々の多様な生き様と、その中での人間の尊厳を浮き彫りにする上で、依然として重要な研究課題であり続けるであろう。