戦国時代から江戸時代初期にかけて、数多の武将が歴史の舞台で興亡を繰り返した。その中で、亀井茲矩(かめい これのり)という名は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の影に隠れがちである。しかし、彼の生涯を丹念に追うとき、我々は単なる一武将の立身出世物語に留まらない、類稀なる先見性と実行力に満ちた、極めて特異な人物像に遭遇する。
出雲の名門尼子氏の家臣として生まれながら、主家の滅亡という逆境に直面し、流浪の身から再起を期す。尼子再興の夢潰えた後は、時の覇者である豊臣秀吉に見出され、その麾下で武功を重ねて因幡鹿野(いなばしかの)の地に一万三千石余の城主として封ぜられた。さらに、天下分け目の関ヶ原の戦いでは的確な時勢判断で徳川方につき、その後の江戸時代においても、その家名を石見津和野(いわみつわの)の地で明治維新まで存続させる礎を築いた。
だが、彼の真価は、そうした戦乱の世を生き抜いた政治的才覚だけに留まらない。領主としては、大規模な干拓や用水路の建設といった土木事業を次々と成功させ、不毛の地を豊かな穀倉地帯へと変貌させた稀代の経世家であった。そして何よりも、彼の視野は常に日本の国境を越えていた。山陰の小大名でありながら、幕府の朱印状を得て遠くシャム(現在のタイ)と交易し、富と文化をもたらした国際人であり、果ては「琉球守」を称し、西洋式の大型帆船建造まで夢見た壮大な夢想家でもあった。
本報告書は、尼子氏の遺臣「湯新十郎」から、豊臣・徳川の世を生き抜いた大名「亀井茲矩」へと至る波乱の生涯を、その出自、人間関係、具体的な治績、そして特異な逸話の数々から徹底的に解明し、戦国乱世が生んだこのユニークな「ルネサンス人」の実像に迫るものである。
亀井茲矩の波乱に満ちた生涯は、彼の出自と、戦国末期の山陰地方を覆った動乱の渦の中で形成された。主家の滅亡、流浪、そして再興への誓いという青年期の経験は、後の彼の多面的な人格を理解する上で不可欠な鍵となる。
亀井茲矩は、弘治3年(1557年)、出雲国意宇郡湯之庄(現在の島根県松江市玉湯町)に、尼子氏の家臣であった湯永綱(ゆ ながつな)の長男として生を受けた 1 。幼名は湯新十郎(ゆ しんじゅうろう)といった 1 。その母は、同じく尼子家臣であった多胡辰敬(たご ときたか)の娘である 5 。
彼の生家である湯氏は、その名の通り、古代より名湯として知られる玉造温泉郷を拠点とした国人領主であった 6 。鎌倉時代に近江源氏佐々木氏の一族がこの地に入り、湯氏を称したと伝えられており、温泉と深い関わりを持つ一族であったことがうかがえる 1 。この出自は、彼が単なる武辺一辺倒の武士ではなく、古くからの交易や交流の結節点としての性格を持つ土地の気風の中で育ったことを示唆している。
しかし、新十郎が少年期を迎える頃、山陰の覇者であった主家・尼子氏の権勢には暗雲が立ち込めていた。西から勢力を拡大する毛利元就との熾烈な争いの末、永禄9年(1566年)、尼子氏の本拠地である月山富田城は落城し、戦国大名としての尼子氏は事実上滅亡する 4 。この動乱の中、父・永綱も永禄12年(1569年)の戦いで命を落とし、茲矩はわずか13歳にして流浪の身となった 4 。
その後の足取りは、京都への潜伏 10 を経て、伊予国(現在の愛媛県)へ逃れたと伝わる 4 。この苦難に満ちた日々の中で、彼は武芸の鍛錬に励み、後年「槍の新十郎」と称されるほどの槍術の腕を磨いた 4 。特筆すべきは、この伊予での潜伏期間中、現地の海賊衆(水軍)と交流を持ち、操船術や造船技術、さらには海外との交易の実態を目の当たりにしたという伝承である 4 。この経験が、彼の視野を国内に留めず、広く海の外へと向かわせる原点となった可能性は極めて高い。
雌伏の時を経て、元亀3年(1572年)末、新十郎は因幡国(現在の鳥取県東部)へ渡り、気多郡山宮村の井村覚兵衛のもとに身を寄せた 1 。そして翌天正元年(1573年)、彼の運命を大きく変える出会いが訪れる。尼子家再興の悲願に燃え、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったことで知られる尼子家随一の忠臣、山中幸盛(通称:鹿介)が、再興軍を率いて因幡に侵攻してきたのである 4 。
新十郎は直ちに幸盛のもとに馳せ参じ、尼子再興の戦いに身を投じた。その智勇兼備の才を見込んだ幸盛は、天正2年(1574年)、自身の養女である時子(ときこ)を新十郎に娶わせた 1 。時子は、かつて尼子家中で最高の地位を占めた重臣・亀井秀綱(かめい ひでつな)の次女であり、その姉は幸盛自身の妻であった 1 。これにより、新十郎は幸盛の義理の息子であると同時に義弟という二重の強固な姻戚関係を結ぶことになった。そして、戦乱で跡継ぎのいなくなっていた名門・亀井氏の名跡を継承し、ここに「亀井新十郎茲矩」が誕生したのである 5 。これは単なる婚姻ではなく、尼子旧臣団の中での彼の地位を確立し、その後の活動の正統性を担保する極めて重要な政治的意味を持っていた。
亀井姓を名乗った茲矩は、幸盛と共に各地を転戦し、若桜谷で敵将を討つなど武功を重ねた 1 。しかし、尼子再興軍の戦力はあまりに小さく、中国地方の覇者となった毛利氏の圧倒的な力の前に、その戦いは困難を極めた。
天正6年(1578年)、再興軍の拠点であった播磨国・上月城は、毛利の大軍に包囲される。当時、尼子再興軍を支援していた織田信長の家臣・羽柴秀吉は、別所の反乱(三木合戦)への対応を優先し、上月城の救援を断念。見捨てられた尼子軍は奮戦虚しく敗れ、当主・尼子勝久は自刃、精神的支柱であった山中幸盛も捕らえられ、護送中に謀殺された 12 。ここに、尼子再興の夢は完全に潰えたのである。
この時、茲矩は上月城にはおらず、秀吉の軍に同行していたために難を逃れることができた 6 。旧主への忠義と再興の夢が絶たれたこの瞬間は、彼にとって最大の悲劇であると同時に、過去の呪縛から解き放たれ、新たな時代の覇者である秀吉の下で未来を切り拓く、運命の転換点となったのである。
尼子再興の夢が潰えた後、亀井茲矩は新たな主君・羽柴秀吉の下でその才能を開花させ、一介の浪人から大名へと飛躍的な出世を遂げる。彼の武功、そして常人離れした発想力は、天下人・秀吉をも魅了し、その後の彼の特異なキャリアを方向づけることになった。
山中幸盛の死後、茲矩は尼子の遺臣団を率いて正式に秀吉の麾下に入った 2 。秀吉は、中国地方の地理と毛利氏の戦法を熟知する尼子旧臣を、自身の中国方面軍における貴重な戦力として組み込んだのである 15 。
茲矩の武将としての価値が決定的に示されたのは、天正9年(1581年)の第二次鳥取城攻めにおいてであった。秀吉が鳥取城に対して「渇え殺し」と後に呼ばれる徹底した兵糧攻めを行うにあたり、茲矩は因幡の要衝・鹿野城の守備を命じられた 9 。鹿野城は、毛利方が鳥取城へ兵糧を陸路で補給する際の生命線を遮断する位置にあり、その死守は作戦の成否を左右する極めて重要な任務であった。他の将が毛利の圧力の前に撤退する中、茲矩はわずかな兵で鹿野城に踏みとどまり、見事にその役割を果たしきった 20 。この功績は、単なる武勇を示すだけでなく、秀吉の戦略的意図を正確に理解し、困難な任務を完遂する知略と胆力をも証明するものであった。
鳥取城は秀吉の目論見通り落城し、茲矩の功績は高く評価された。恩賞として、秀吉は茲矩に因幡国気多郡1万3800石(一説に1万3500石)を与え、彼が死守した鹿野城の城主とした 1 。時に茲矩25歳。主家を失い流浪の身となってから、わずか10年余りで一国一城の主へと駆け上がったのである 23 。
大名となった茲矩の型破りな人物像を最も象徴するのが、「琉球守」を拝命した逸話である。秀吉はかつて尼子再興に尽力する茲矩に対し、恩賞として旧領である「出雲国を与える」と約束していた 15 。しかし、本能寺の変の後、中国大返しを成功させるために毛利氏と和睦した結果、出雲国は毛利領として安堵され、秀吉の約束は事実上反故となった 15 。
これを気にした秀吉が、ある時茲矩に代わりの所領の望みはないかと尋ねた。これに対し、茲矩は常人では思いもよらない返答をする。「天下は程なく殿様のものとなりましょう。もはや日本国内に私が望むべき土地はございません。願わくば、琉球国を賜り、これを討ち果たして自身の所領と致したく存じます」と述べたのである 6 。
この壮大で奇抜な発想に秀吉は大いに感心し、その場で腰に差していた金の軍扇に「亀井琉球守殿」と自ら書き記して茲矩に与え、律令には存在しない官職である「琉球守」を名乗ることを許したという 3 。これは単なる逸話に留まらない。茲矩は、反故にされた約束というデリケートな問題に対し、過去の領地(出雲)に固執するのではなく、未来の目標(琉球)を提示することで、秀吉の面子を保ちつつ、自身の器の大きさと海外への野心を強烈にアピールしたのである。この巧みな政治的パフォーマンスによって、彼の海外志向は天下人に公認され、後の朱印船貿易への道を開く布石ともなった 16 。
茲矩の海外への関心は、机上の空論ではなかった。豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が始まると、彼は水軍を率いて朝鮮半島へと渡海した 3 。
この朝鮮での在陣中、彼の豪胆さを示す有名な逸話が生まれる。鉄砲で虎を狩り、その虎を塩漬けにして京都の秀吉のもとへ献上したのである 3 。遠征先から珍しい獲物を献上することで、自らの武勇と主君への忠誠を同時に示したこの行動に秀吉は喜び、丁重な礼状を送っている 3 。この礼状が現存することは、二人の間に良好な主従関係が築かれていたことを物語っている。
一方で、彼の武功伝には裏面も存在する。文禄元年(1592年)の唐浦(タンポ)の海戦において、朝鮮水軍の名将・李舜臣の艦隊に敗れ、秀吉から拝領したかの金の軍扇を奪われたという記録が朝鮮側の史料『唐浦破倭兵状』に残されている 9 。この敗戦の記録は、日本側の史料には見られず、その詳細や信憑性については慎重な検討を要するものの、彼の武将としてのキャリアが決して順風満帆なだけではなかったことを示唆している 3 。
亀井茲矩の真価は、戦場での武功や奇抜な発想だけに留まらない。因幡鹿野城主となってからの三十七年間、彼は卓越した領国経営の手腕を発揮し、荒涼とした土地を豊かな実りの地へと変貌させた。その治績は、大規模な土木事業からきめ細やかな産業振興まで多岐にわたり、四百年以上を経た現代においても、なお地域に深く根付いている。
鹿野の領主となった茲矩は、まず拠点である鹿野城とその城下町の整備に乗り出した。彼は鹿野城を単なる軍事拠点ではなく、領国経営の中枢とすべく、近世城郭へと大改修を行った 28 。
特筆すべきは、その防御思想と土木技術の融合である。城の南側がなだらかな尾根続きで防御上の弱点となっていることを見抜くと、彼は山から谷水を巧みに引き込み、城山と尾根の間を水流で分断する「流し山」と呼ばれる画期的な工事を敢行した 1 。さらに、鹿野周辺を流れる水谷川や末用川の流路を大胆に変更し、その旧河道などを城の内堀や外堀として再利用した 1 。これにより、城の防御力を飛躍的に高めると同時に、城下町のインフラ整備と区画整理を一体的に進めたのである。
城下町は、城の周囲に侍屋敷を配した「殿町」を置き、その外側に「上町」「下町」「鍛治町」「大工町」といった商人や職人の町を計画的に配置した 21 。街路には城下町特有のT字路やL字路を多用し、見通しを遮ることで防御性を高める工夫が凝らされている 21 。この時に形成された街並みの骨格は、今日の鹿野の町並みの基礎となっており、彼の都市計画家としての一面を物語っている 31 。
領国の石高を増大させ、民の暮らしを豊かにするため、茲矩は新田開発にも情熱を注いだ。その代表例が干拓事業である。
天正16年(1588年)、彼は潟湖であった日光池(にっこういけ)の干拓に着手した。伝承によれば、起工式では自ら鍬を取り、工事の開始を告げたという 1 。わずか半年ほどの工事で300石余の良田を生み出すという目覚ましい成功を収めた 1 。
一方で、彼の事業が常に成功したわけではない。後年、関ヶ原の戦いの功で得た高草郡に位置する湖山池(こやまいけ)の干拓にも挑んだが、こちらは砂地の崩れやすさや海面との標高差が少ないことなどが災いし、排水路の維持が困難な難工事となった 1 。結果として得られた新田はごくわずかであり、この挑戦は限定的な成功に終わった。この事実は、彼が理想を追うだけでなく、厳しい自然条件と向き合いながら試行錯誤を重ねる実践家であったことを示している。
茲矩の治績の中で、最大の功績として後世に語り継がれているのが「大井手(おおいで)用水路」の建設である。関ヶ原の戦いの後、新たに領地となった鳥取平野西部が、暴れ川として知られる千代川の氾濫に悩まされ、恒常的な用水不足から広大な荒れ地となっている様を見て、彼はこの地に水を引くという壮大な計画を立てた 33 。
慶長6年(1601年)頃から始まったこの事業は、7年の歳月をかけて完成した。千代川から取水し、総延長16キロメートルにも及ぶ幹線水路を建設するという、まさに世紀の大事業であった 9 。この用水路の完成により、約1,200ヘクタールもの不毛の地が豊かな穀倉地帯へと生まれ変わった。その恩恵は絶大であり、四百年を経た今日においてもなお、この地域の農業を支え続けている。地元の人々がこの用水路を今も親しみを込めて「亀井さんのおおいで」と呼んでいる事実は、彼の功績がいかに偉大で、人々の記憶に深く刻まれているかを雄弁に物語っている 33 。
茲矩の領国経営は、土地開発だけに留まらなかった。彼は領民の現金収入を増やすための産業振興にも力を注いだ。
農閑期の副業として農民にスゲ(菅)を使った笠作りを奨励した。これが「鹿野すげ笠」の始まりであり、現在まで続く鳥取の代表的な伝統工芸品となっている 34 。
また、彼のグローバルな視点は殖産興業にも生かされた。朱印船貿易によって東南アジアから持ち帰った生姜を、自らが干拓した日光池の跡地で栽培させたのである 22 。これが「日光生姜」として地域の特産品となり、山に掘った横穴で熟成させることで辛味を増すという独特の貯蔵法も編み出された 30 。干拓による土地開発と、貿易による新品種の導入を結びつけるという、彼の先進的な経済感覚がうかがえる事例である。
亀井茲矩を戦国時代の武将の中でひときわ異彩を放つ存在たらしめているのは、その壮大な国際感覚である。山陰の小大名でありながら、彼は大海の彼方に夢を馳せ、徳川幕府が公認する朱印船貿易に果敢に乗り出した。その活動は、単なる富の追求に留まらず、領国の産業や文化にまで影響を及ぼす、極めて戦略的なものであった。
江戸時代初期、徳川家康によって制度化された朱印船貿易は、幕府から海外渡航許可書である朱印状を与えられた特定の商人や大名のみが行うことができた 38 。その担い手の多くは、海外との窓口であった長崎に地理的に近い島津氏や松浦氏といった九州の大名であったが、茲矩は彼らを除けば唯一と言ってよいほど積極的にこの貿易に取り組んだ大名であった 2 。
慶長12年(1607年)から慶長15年(1610年)にかけて、茲矩は計3回にわたり幕府から朱印状を得て、シャム(現在のタイ)などに貿易船を派遣している 2 。彼がこれほどまでに海外交易に情熱を注いだ背景には、青年期の流浪時代に伊予で海賊衆と交流し、海外交易の実際を見聞した経験 4 や、秀吉に「琉球」を望んだことに象徴される生来の海外への強い関心があったことは想像に難くない 25 。
茲矩の朱印船貿易の具体的な内容は、国立歴史民俗博物館に所蔵される『石見亀井家文書』に含まれる「荷物覚書」などの一次史料からうかがい知ることができる 42 。
彼の船が海外へ運んだ主な輸出品は、刀剣や金銀の細工物、蒔絵の道具といった日本の優れた工芸品であり、また当時の国際的な決済手段であった銀も主要な輸出品であった 1 。
一方、日本へもたらされた輸入品は極めて多岐にわたる。絹織物である綸子(りんす)や、ヨーロッパ産の毛織物である羅紗(らしゃ)といった高級布製品、象牙やサイの角、孔雀の羽、白檀や黒檀といった香木類などの奢侈品が記録されている 1 。注目すべきは、シャム産の鉄砲も輸入している点であり、彼が海外の最新技術にも敏感であったことがわかる 42 。
以下の表は、史料から判明する亀井茲矩の朱印船貿易の概要をまとめたものである。
表1:亀井茲矩の朱印船貿易概要
| 回次/派遣年 | 渡航先 | 幕府の許可 | 主な輸出品(推定含む) | 主な輸入品(産品) | 輸入品(動植物・技術) | 備考・影響 |
| :--- | :--- | :--- | :--- | :--- | :--- | :--- |
| 第1回 / 慶長12年 (1607) | 西洋(サイヨウ、マカオか) | 朱印状受領 | 刀剣、銀など | (史料からは詳細不明) | (史料からは詳細不明) | 庶子・鈴木八右衛門を奉行として派遣 27 |
| 第2回 / 慶長14年 (1609) | 暹羅(シャム) | 朱印状受領 | 金銀細工物、蒔絵道具など | 綸子、羅紗、象牙、サイ角、鉄砲など | (史料からは詳細不明) | 『石見亀井家文書』に詳細な「荷物覚書」が現存 42 |
| 第3回 / 慶長15年 (1610) | 暹羅(シャム) | 朱印状受領 | (史料からは詳細不明) | (史料からは詳細不明) | 稲、生姜、茶、薬草、驢馬、野牛、うぐい突き漁法など | パタニ国王宛書状を記す。領内の産業・文化に多大な影響 22 |
茲矩の貿易は、単に珍しい品々を輸入して富を築くだけではなかった。彼は貿易で得たものを領国の産業振興や文化の発展に直結させるという、極めて戦略的な視点を持っていた。
シャムから持ち帰った稲や茶、薬草などを領内で栽培させ、農業の改良を試みた 22 。特に生姜は、前章で述べた通り「日光生姜」として地域の特産品となった。また、驢馬や野牛(水牛と推定される)といった家畜を輸入し、湖山池の青島で放牧したという記録も残る 1 。さらに、鳥取市気高町に伝わる伝統漁法「うぐい突き」は、彼がシャムから漁具と共に持ち帰ったものだと伝承されており、彼の貿易が地域の生活文化にまで影響を及ぼしたことを示している 37 。
茲矩の野心は、既存の船での貿易に留まらなかった。慶長13年(1608年)、彼は徳川家康に次いで、積載重量6万斤(約250トン)にも及ぶ西洋式の大型帆船、いわゆる「くろふねなりの船」を自主建造しようと計画した 3 。薩摩から船材となる樟(くすのき)を取り寄せるなど、計画は具体的に進められたが、何らかの理由で未成に終わった 3 。この計画の存在は、彼が単なる貿易家ではなく、当時の最先端技術を導入し、日本の海洋技術そのものを革新しようという壮大なビジョンを抱いていたことを物語っている。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は再び大きく揺れ動く。徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した関ヶ原の戦いは、多くの大名に過酷な選択を迫った。この天下分け目の大戦において、亀井茲矩は卓越した政治的嗅覚を発揮し、自らの家名を新時代に存続させるための道を切り開いた。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、豊臣恩顧の大名が多く西軍に与する中、茲矩はいち早く東軍(徳川方)への味方を表明した 1 。
この決断の背景には、彼の冷静な情勢分析があったと考えられる。史料によれば、当初は西軍の島津義弘に鉄砲衆の加勢を要請するなど、西軍に与するような動きも見せているが、最終的には東軍に寝返ったとされている 47 。これは、彼が単なる恩義や感情に流されることなく、豊臣政権内部の対立構造と徳川家康の圧倒的な実力を正確に見抜き、自家の存続のために最も合理的な選択をしたことを示している。また、旧主・尼子氏を滅ぼした毛利氏が西軍の総大将であったことも、彼の決断に影響を与えた可能性は否定できない。
茲矩の活動は、関ヶ原の本戦そのものに留まらなかった。本戦で西軍が敗れた後、豊臣政権の五奉行の一人であった長束正家が近江水口岡山城に籠城すると、茲矩はその攻略戦に参加した 3 。
この時、茲矩は同じく東軍の池田長吉と共に、正家に対して「本領を安堵する」と偽りの約束を持ちかけて開城させた 3 。しかし、その約束は守られることなく、正家は捕らえられ切腹させられた 3 。豊臣政権下では同僚であった正家に対するこの非情な仕打ちは、戦国乱世の厳しさを示すと同時に、茲矩が新時代の覇者である家康への忠誠を明確に示すための、徹底した現実主義的行動であったと解釈できる。
こうした一連の功績により、戦後、茲矩は高草郡2万4200石を加増され、所領は合計3万8000石の大名となった 1 。
天下が徳川氏の下で安定に向かう中、慶長14年(1609年)、茲矩は家督を次男の政矩(まさのり)に譲り、隠居の身となった 1 。そして慶長17年(1612年)1月26日、波乱の生涯を送った彼は、自らが築き上げた鹿野城にて56歳で病没した 1 。
茲矩の死から5年後の元和3年(1617年)、二代藩主・政矩は、幕府より石見国津和野4万3000石への転封を命じられた 1 。これにより、亀井氏による因幡鹿野の統治は37年間で幕を閉じることとなる。この転封は、一見すると加増を伴う栄転であるが、その地理的配置には幕府の明確な戦略的意図が読み取れる。尼子旧臣の家系である亀井氏を、関ヶ原の戦いで大幅に減封されたとはいえ依然として西国に強大な影響力を持つ毛利氏の本拠地に隣接する津和野に置くことで、毛利氏への牽制・監視役を担わせようとしたのである 53 。亀井家は、茲矩の死後も、徳川幕府の全国支配体制の中に組み込まれ、重要な役割を担い続けることとなった。
亀井茲矩が鹿野の地を去ってから四百年以上の歳月が流れた。しかし、彼が遺したものは、物理的なインフラや制度に留まらず、人々の記憶や文化の中に今なお生き続けている。彼の功績と人物像は、時代を超えて評価され、その影響は彼が終生目にすることのなかった津和野の地、さらには近代日本にまで及んでいる。
元和3年(1617年)、亀井家は石見国津和野へ転封となったが、茲矩が鹿野で築いた統治の哲学と進取の気性は、新天地での藩経営の礎となった。
津和野は山がちな土地であったが、亀井家は治山・林政に力を入れ、茲矩が鹿野で奨励した製紙や製蝋を藩の専売事業として確立し、小藩ながらも安定した財政基盤を築いた 14 。その実質的な石高は10万石以上であったとも言われる 14 。
さらに重要なのは、教育と文化への投資である。9代藩主・矩賢(のりかた)の時代に藩校「養老館」が創立され、文武が奨励された 57 。この教育重視の気風は、幕末から明治にかけて、哲学者・西周や文豪・森鷗外といった、近代日本を牽引する多くの傑出した人材を輩出する土壌を育んだ 14 。茲矩の先を見据えるビジョンと進取の気性が、時代と場所を超えて、津和野の文化的隆盛に間接的に貢献したと評価できる。
鹿野における亀井氏の統治はわずか三十七年間であった。にもかかわらず、茲矩は今なお鹿野の住民から「亀井さん」と親しみを込めて呼ばれ、敬愛されている 4 。その理由は、彼の治績が単なる権力者の記念碑ではなく、民衆の生活に直結し、その恩恵が永続的な形で地域に残っているからに他ならない。
彼が建設した「大井手用水路」は、今日の鹿野平野の農業を支える生命線であり 33 、彼が整備した城下町の街並みは地域のアイデンティティそのものである 21 。また、彼の逸話は地域の文化として昇華された。敵城であった金剛城を歌と踊りで油断させ攻め落としたという逸話は、鳥取県の無形民俗文化財である「亀井踊」として今に伝えられている 9 。さらに、領内の60歳以上の老人を城に招き、酒食を振る舞ってもてなしたという、現代の敬老会の先駆けともいえる逸話も残っており 9 、彼の為政者としての温情と人間味あふれる人柄が、人々の心に深く刻まれているのである。
亀井茲矩の生涯を振り返るとき、我々は彼が一つの言葉では定義できない多面的な人物であったことに気づかされる。
明治45年(1912年)、明治政府は亀井茲矩に従三位を追贈した 3 。これは、彼の時代を超えた治績と、彼が礎を築いた津和野藩が幕末維新期に果たした役割が、近代国家によって再評価されたことを示している 64 。
亀井茲矩の生涯は、逆境と好機が織りなす壮大な物語である。出雲の小豪族の子として生まれ、主家滅亡という絶望の淵から這い上がり、知略と機転、そして類稀なる先見性を武器に、戦国乱世という激動の時代を駆け抜けた。
彼は、旧主・尼子氏への忠義を胸に抱き続けた義の武将であり、同時に、豊臣、徳川という新たな時代の覇者に巧みに適応し、自らの家名を存続させた現実主義の政治家でもあった。領主としては、大地を潤し民を富ませることに心血を注いだ慈愛に満ちた経世家であり、その治績は今なお郷土の誇りとして息づいている。
しかし、彼を歴史上、真にユニークな存在たらしめているのは、その内向きになりがちな封建領主の枠を軽々と飛び越えた、壮大な夢想家としての一面である。琉球を望み、シャムと交易し、西洋の船を夢見た彼の眼差しは、常に世界の広がりと未来の可能性に向けられていた。
知将の頭脳、経世家の手腕、そして夢想家の魂。これら全てを兼ね備えた亀井茲矩は、戦国時代が生んだ最も多面的で魅力的な人物の一人であり、時代の変革期をいかに生きるべきかという問いに対し、四百年後の我々にもなお多くの示唆を与えてくれる、まさしく「乱世のルネサンス人」として再評価されるべき存在である。