最終更新日 2025-07-11

二木重吉

信濃小笠原家再興の礎石:武将・二木重吉の生涯と『二木家記』の深層

序章:小笠原家再興の礎石、二木重吉

戦国乱世から近世へと至る激動の時代、信濃の名門・小笠原氏の運命と共に生きた一人の武将がいた。その名は二木重吉(ふたつぎ しげよし)。彼の生涯は、主家の没落という悲運を乗り越え、その再興を成し遂げた忠臣の物語であり、また、戦国の武人から近世の藩政を担う官僚へと変貌を遂げた武士の生き様を象徴するものであった。

利用者が当初把握していた「小笠原家臣。重高の嫡男。武田家の滅亡後、徳川家康の援護で小笠原貞種を深志城から退却させ、主家の旧領復帰を実現させた。のちに『二木家記』を著した」という情報は、彼の功績の核心を的確に捉えている 1 。しかし、その背後には、父の代からの苦難の歴史、武田信玄の支配下で耐え忍んだ三十年、そして主家再興を成し遂げた後の藩政への貢献など、より深く、複雑な物語が横たわっている。

本報告書は、二木重吉自身が晩年に遺した記録『二木家記』を重要な手がかりとしつつ、関連する複数の史料を横断的に分析することで、彼の知られざる生涯の全貌に迫るものである。報告書は、二木氏の出自と武田支配下の雌伏、天正壬午の乱における劇的な活躍、近世大名小笠原家の家老としての生涯、そして彼が著した『二木家記』の歴史的価値という、五つの柱で構成される。この探求を通じて、一人の武将の人生が、いかにして時代の大きなうねりと交差し、主家の運命を動かしたのかを明らかにしていく。

表1:二木重吉 関連年表

西暦(和暦)

二木重吉・二木一族の動向

主家・小笠原氏の動向

天下・周辺の情勢

1530年(享禄3年)

二木重吉、生まれる 2

1548年(天文17年)

父・重高、塩尻峠の戦いで武田方に一時内通 3

小笠原長時、塩尻峠の戦いで武田晴信(信玄)に大敗。

武田信玄の信濃侵攻が本格化。

1550年(天文19年)

父・重高、野々宮合戦で小笠原方として戦功を挙げる 3

長時、居城・林城を失い、村上義清を頼る 5

1554年(天文23年)

父・重高、武田信玄の傘下に入る 3

長時、越後へ亡命。二木一族に再興を託す 6

1582年(天正10年)

重吉、徳川家康の支援を得た小笠原貞慶に呼応し、深志城を奪還 1

貞慶、32年ぶりに旧領・深志城を回復し「松本城」と改称 7

3月:織田・徳川連合軍により武田氏滅亡。6月:本能寺の変。旧武田領を巡り「天正壬午の乱」が勃発 9

1590年(天正18年)

主君・秀政に従い、下総古河へ移る。材木搬出の奉行を務める 10

貞慶が改易され、子・秀政が下総古河3万石の大名となる 11

豊臣秀吉による小田原征伐。全国統一が完成。

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い後、飯田藩の家老に就任 13

秀政、東軍に属し、戦功により信濃飯田藩5万石を与えられる 12

関ヶ原の戦い。徳川家康が覇権を握る。

1611年(慶長16年)

主君・秀政の要請で『二木家記』を著す 13 。死去(享年82) 2

秀政、松本藩8万石への移封を控える(実際の移封は1613年)。

江戸幕府の支配体制が盤石となる。

1615年(元和元年)

秀政、大坂夏の陣で長男・忠脩と共に戦死 7

大坂の陣により豊臣氏滅亡。元和偃武。


第一章:二木氏の出自と武田信玄の影 ― 雌伏の三十年

二木重吉の忠節と功績を理解するためには、まず彼の一族が置かれていた状況、すなわち信濃における小笠原一門としての立場と、甲斐武田氏の強大な圧力下で過ごした雌伏の時代を紐解く必要がある。

第一節:清和源氏小笠原氏の支流

二木氏は、信濃守護の名門、清和源氏小笠原氏の支流である 3 。その起源は南北朝時代に遡る。小笠原宗家の当主・小笠原貞宗の子である政経が、軍功により信濃国安曇郡住吉庄内の二ツ木郷の地頭職を分与され、この地に居を構えたのが始まりとされる 10 。その後、子孫の貞明の代に至り、所領の名を家号として「二木」を称するようになった 3

一族は安曇郡中塔城を本拠とし 3 、小笠原一門として確固たる地位を築いていた。室町中期の史料である『羽継原合戦記』には、二木氏の家紋が「ちきり」であったと記されており、古くから小笠原家中で独自の存在感を示していたことが窺える 15 。さらに、彼らが著した『二木家記』には、一族の祖が奥州と京を往来する金買商人で、その財産を継承したことで裕福になったという興味深い伝承が記されている 16 。この伝承の真偽はともかく、二木氏が在地において相当な経済的基盤を持つ有力な国人であったことは想像に難くない。

第二節:父・重高の苦渋の選択

重吉の父である二木重高は、主君・小笠原長時に仕える武将であった 3 。しかし、彼が生きた時代、小笠原家の威光には陰りが見え始めていた。甲斐の武田晴信(信玄)による信濃侵攻が激化する中、天文17年(1548年)、重高は長時に従って塩尻峠の戦いに出陣するが、この合戦の最中に武田方へ寝返ったと記録されている 3

この行動は、単なる「裏切り」という言葉で片付けられるものではなく、当時の小笠原家が置かれた状況を鑑みれば、一族を滅亡から救うための、苦渋に満ちた現実的な生存戦略であったと解釈できる。当時の小笠原氏は、武田氏の侵攻によって衰退の一途をたどっており、家臣団に対する統率力も決して盤石ではなかった 17 。このような状況下で、強大な武田氏に抗い続けて共倒れになるか、一時的にでも従うことで家名を保つかという究極の選択を迫られたのである。事実、重高は二年後の野々宮合戦では再び小笠原方として戦功を挙げており 3 、その心底には主家への想いが残っていたことが推察される。これは、絶対的な忠誠が常に可能とは限らない戦国乱世の厳しさと、在地領主が置かれた複雑な立場を如実に示している。

天文23年(1554年)、ついに主君・長時が越後へ流亡すると、重高は正式に武田信玄の傘下に入った 3 。しかし、武田支配下での生活も平穏ではなかった。小笠原時代からの宿敵であった三村氏に謀反の疑いをかけられ、信玄から讒言者と共に甲府へ出頭を命じられるという危機に直面する 6 。この時、重高は一族内の籠城論を制し、自ら甲府へ赴いて信玄の前で潔白を証明した。結果、三村氏の讒言が偽りであったことが明らかになり、信玄は重高の至誠を見抜けなかったことを恥じたと伝えられている 3 。この逸話は、重高が単なる武辺者ではなく、武田の支配下にあっても一族の命脈を保つための知略と剛毅さを兼ね備えていたことを示している。

第三節:「再興の草の種」として

重吉の世代が背負った使命は、父・重高が守り抜いたこの二木一族を、未来の主家再興へと繋げることにあった。その使命を象徴するのが、主君・小笠原長時が越後へ落ち延びる際に二木一族へ託したとされる言葉である。

「法を講じて晴信に属し、本領を維持して、予が他年本意を達するの日の草の種となり呉れよ」 18

すなわち、信濃に残り、武田の支配下で耐え忍び、いつか来る小笠原家再興の日のための「草の種」となれ、という密命であった 6

この時から、天正10年(1582年)に好機が訪れるまでの約三十年間、二木一族は武田氏の支配下で「忍従」の時を過ごすことになる 6 。これは単なる服従ではなかった。主家の再興という遠大な目標を胸に秘め、在地における勢力と旧臣との繋がりを維持し、来るべき時を待つという、極めて戦略的な雌伏期間であった。重吉は、この「草の種」としての使命を全うするため、武田の支配体制に巧みに適応しつつも、旧主への忠義を内心で繋ぎとめるという、高度な政治的バランス感覚を養っていった。この長く苦しい雌伏の三十年こそが、後の深志城奪還作戦における彼の卓越した手腕の礎となったのである。

表2:二木重吉を巡る主要人物関係図

Mermaidによる関係図

graph TD %% ====================== %% 主家:小笠原氏 %% ====================== subgraph "主家:小笠原氏" OgasawaraNagatoki["小笠原長時
(旧主君)"] OgasawaraSadayoshi["小笠原貞慶
(再興を共にした主君)"] OgasawaraHidemasa["小笠原秀政
(近世の主君)"] end %% ====================== %% 一族:二木氏 %% ====================== subgraph "一族:二木氏" FutatsugiShigetaka["父:二木重高"] FutatsugiShigeyoshi["二木重吉"] FutatsugiShigetsugu["子:二木重次"] end %% ====================== %% 支援者 %% ====================== subgraph "支援者" TokugawaIeyasu["徳川家康"] end %% ====================== %% 敵対勢力 %% ====================== subgraph "敵対勢力" Takeda["武田信玄・勝頼
(旧支配者)"] OgasawaraSadatane["小笠原貞種(洞雪斎)
(深志城を争った叔父)"] KisoYoshimasa["木曽義昌
(武田滅亡後の競合相手)"] end %% ====================== %% 関係線 %% ====================== FutatsugiShigetaka --> FutatsugiShigeyoshi FutatsugiShigeyoshi --> FutatsugiShigetsugu FutatsugiShigeyoshi -- "忠誠を尽くす" --> OgasawaraSadayoshi FutatsugiShigeyoshi -- "家老として仕える" --> OgasawaraHidemasa OgasawaraNagatoki -- "再興を託す" --> FutatsugiShigetaka OgasawaraSadayoshi -- "支援を受ける" --> TokugawaIeyasu FutatsugiShigeyoshi -- "支援を得て蜂起" --> TokugawaIeyasu FutatsugiShigeyoshi -- "深志城を巡り対立" --> OgasawaraSadatane FutatsugiShigeyoshi -- "支配下で雌伏" --> Takeda FutatsugiShigeyoshi -- "領地を巡り競合" --> KisoYoshimasa OgasawaraSadayoshi -.-> OgasawaraSadatane %% ====================== %% スタイル設定(最後の4本を赤線に) %% ====================== linkStyle 7 stroke:#ff0000,stroke-width: 4.0px,color:red linkStyle 8 stroke:#ff0000,stroke-width: 4.0px,color:red linkStyle 9 stroke:#ff0000,stroke-width: 4.0px,color:red linkStyle 10 stroke:#ff0000,stroke-width: 4.0px,color:red


第二章:天正壬午の乱と深志城奪還 ― 忠臣、起つ

雌伏の三十年を経て、遂に二木重吉が歴史の表舞台で躍動する時が来た。天正10年(1582年)、本能寺の変が引き起こした政治的空白は、信濃の地を再び動乱の渦に巻き込み、重吉に主家再興の絶好の機会をもたらしたのである。

第一節:天正壬午の乱、勃発

天正10年(1582年)6月2日、織田信長が本能寺で横死すると、彼が支配していた旧武田領、すなわち甲斐・信濃は一気に権力の空白地帯と化した。この広大な領地を巡り、遠江の徳川家康、相模の北条氏直、越後の上杉景勝という三大大名が即座に行動を開始し、互いに覇を競う壮絶な争奪戦を繰り広げた。これが世に言う「天正壬午の乱」である 9 。信濃の国人衆は、生き残りをかけて三勢力の間を揺れ動き、情勢は混沌の極みにあった。

第二節:深志城を巡る攻防

この動乱の渦中、小笠原氏の旧本拠地である深志城(後の松本城)もまた、目まぐるしく主を変えた。武田氏滅亡後、城は織田信長から木曽義昌に与えられていたが、本能寺の変の混乱に乗じ、上杉景勝が動いた。景勝は、越後に亡命していた小笠原長時の弟、すなわち小笠原貞慶の叔父にあたる小笠原貞種(洞雪斎)を支援し、深志城を攻撃させ、これを占領したのである 8

これにより、小笠原家の旧領回復という大義は、まず本家嫡流である貞慶と、上杉勢を後ろ盾とする叔父・貞種との間の一族内紛という、皮肉な形で幕を開けることになった。貞慶にとって、深志城奪還は単なる領地回復に留まらず、小笠原宗家の正統性を示すための戦いでもあった。

第三節:徳川家康の支援と二木重吉の蜂起

この時、各地を流浪していた小笠原貞慶は、千載一遇の好機と捉え、徳川家康に接近した。家康は、信濃における影響力を拡大するため、信濃守護家の嫡流である貞慶を支援することを決断する 1 。しかし、家康の支援はあくまで外部からの力であり、作戦の成否は、信濃の在地でどれだけの実動部隊を組織できるかにかかっていた。

ここで決定的な役割を果たしたのが、三十年にわたり「草の種」として力を蓄え、その時を待ち続けていた二木重吉であった。貞慶の帰還計画に呼応した重吉は、旧臣や在地勢力を瞬く間に結集させ、貞慶軍の中核として蜂起したのである 1

この深志城奪還は、貞慶の「命令」に重吉が「従った」という単純な主従関係で語ることはできない。これは、小笠原家嫡流という「大義名分」と徳川家という「外部支援」を持つ貞慶と、在地における「実力」と「人脈」を持つ重吉との、いわば共創事業であった。貞慶なくして重吉の蜂起は正当化されず、重吉なくして貞慶の帰還は物理的に不可能であった。この絶妙な相互依存関係こそが、三十年越しの小笠原家再興を成し遂げた原動力だったのである。

天正10年7月、貞慶と重吉率いる軍勢は、叔父・貞種が籠る深志城を攻撃。激しい攻防の末、貞種を城から退去させ、越後へと追いやることに成功した 1 。この輝かしい戦功を裏付ける、極めて貴重な一次史料が現存している。それは、深志城奪還直後に小笠原貞慶が発給した書状である。そこには、

「この度の種々奉公の心懸けは比類がない。また、府中(深志)打入の供を致すとの由、神妙である、これにより竹渕(松本市)百貫の地を約束する」 25

と記されている。これは、重吉ら在地家臣団の功績を貞慶が最大級の言葉で称賛し、恩賞として具体的な土地を与えたことを示す動かぬ証拠である。この書状の存在は、後に重吉が著す『二木家記』の記述が、単なる一族の自画自賛ではなく、確固たる歴史的事実に基づいていることを強力に証明している。三十年の忍従は、この瞬間、見事に結実したのである。


第三章:近世大名小笠原家の重臣として ― 戦士から官僚へ

深志城奪還という大功を果たした二木重吉の役割は、戦乱の終結と共に新たな段階へと移行する。彼は戦場を駆ける武人から、主家を支える行政官僚へとその姿を変え、近世大名・小笠原家の基盤固めに貢献していくことになる。

第一節:新領主の右手

旧領を回復した主君・小笠原貞慶は、深志城を「松本城」と改称し 8 、領国経営に着手した。二木重吉は、その「右手」として、領内の安定化に奔走した。天正壬午の乱の余波が残る中、彼は上杉方に与した日岐氏の討伐 24 や、同じく敵対した会田氏との戦いにおいて、明科口の防衛を担うなど、軍事面で引き続き中心的な役割を果たした 18

同時に、行政官としての才覚も発揮し始める。貞慶から、敵対の末に滅亡した西牧氏の旧領代官に任命され、その統治を任された 18 。さらに、仁科方面に築かれた千見城の普請奉行を務めるなど 18 、軍事と行政の両面で貞慶から絶大な信頼を寄せられていたことが、当時の書状などから窺える。これらの活動は、彼が単なる勇将ではなく、領国を治める実務能力をも備えた、総合力の高い武将であったことを示している。

第二節:飯田藩・松本藩の家老

時代の趨勢は、豊臣秀吉による天下統一、そして徳川の世へと大きく動いていく。小笠原家もまた、この流れの中で近世大名として再編成されていった。天正18年(1590年)、貞慶が秀吉の怒りを買って改易されるという危機に見舞われるが、その子・秀政が徳川家康に仕えることで家名は存続し、下総古河に3万石を与えられた 11 。重吉も主君・秀政に従い、関東へ移った。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、小笠原秀政は東軍に属して功を挙げ、その恩賞として信濃飯田藩5万石を与えられる 12 。さらに慶長18年(1613年)には、念願であった旧領・松本藩8万石への復帰を果たした 14 。この間、二木重吉は一貫して小笠原家の家老として藩政の中枢を担い続けた 13

重吉の生涯(1530年~1611年)は、戦国乱世の終焉と近世封建体制の確立期に完全に重なっている。彼の人生は、この時代の武士の役割の変遷を象徴していると言える。彼は、自らの武勇と知略で一族を率い、主家の再興という劇的なドラマを演じた「戦国武将」としてキャリアを開始した。しかし、晩年には、安定した藩体制の中で俸禄を得て藩政を司る「家老」、すなわち「官僚」としてその生涯を終えようとしていた。これは、個人の武力や才覚が全てであった時代から、大名家の家臣団という組織内での役職と忠誠が重視される時代への移行を、一人の人間の生涯を通じて体現していることを意味する。重吉は、二つの時代を繋ぐ「移行期の武士」の典型的な姿であった。

第三節:次代への継承

重吉が築いた主家からの信頼と家老職という地位は、その子・重次(1560年~1630年)へと受け継がれた 2 。これにより、二木家は近世大名小笠原家の重臣として、その家格を確立した。一族が継続的に重用されていたことは、天正18年(1590年)に秀政が下総古河へ移る際、故郷である安曇郡の材木を新領地へ搬出するという重要任務の奉行を二木氏が務めたという記録からも裏付けられる 10 。父・重吉が命懸けで切り開いた道を、子・重次が着実に歩み、二木家は小笠原藩の歴史にその名を刻み続けることになったのである。


第四章:『二木家記』の編纂と歴史的価値

二木重吉が後世に残した最大の功績は、武将としての武勲に留まらない。彼が晩年に著した『二木家記』は、小笠原家の苦難と再興の歴史を今に伝える、かけがえのない歴史遺産となっている。

第一節:編纂の経緯

『二木家記』は、慶長16年(1611年)、二木重吉が82歳という高齢に達した年に編纂された。これは彼の自発的な執筆ではなく、当時の主君であった小笠原秀政の要請に応じたものであった 13 。全ての出来事を実体験した長老であり、主家再興の第一の功労者である重吉に、その歴史を記録させることには、極めて大きな意味があった。

第二節:内容と性格

『二木家記』は、信濃守護・小笠原家の没落から、武田氏の支配下で過ごした「風雪三十年」の苦節、そして貞慶の代に徳川家康の支援を得て旧領を回復するまでの劇的な歴史を、忠臣・二木一族の視点から描いた軍記物であり、一家の記録(家記)である 5 。「自刃を覚悟した長時を中塔城に迎える」場面や、武田信玄からの嫌疑を晴らす逸話など、物語としての劇的構成が随所に見られ、単なる事実の羅列ではなく、後世に伝えることを強く意識して書かれている。

第三節:史料としての価値と限界

慶長16年という編纂時期は、『二木家記』の性格を理解する上で極めて重要である。この時期は、関ヶ原の戦いを経て徳川の世が盤石となり、小笠原家も譜代大名としての地位を確立した頃にあたる。このタイミングで主君・秀政が編纂を命じた背景には、単なる過去の記録整理に留まらない、明確な政治的意図があったと考えられる。

これは、近世大名家としてのアイデンティティを確立するための「正史」創出事業であった。その目的は、第一に、徳川家康の支援によって旧領を回復したという経緯を明文化し、徳川譜代としての「正統性」を強調すること。第二に、主家への忠誠を貫いた二木氏のような家臣の存在を顕彰することで、家臣団の「結束」を高めること。そして第三に、小笠原家の苦難と栄光の物語を「公式の歴史」として後世に伝えることであった。著者が、全ての出来事を実体験した重吉であることは、その記述に圧倒的な権威と信憑性を与える効果を狙ったものであろう。

このような背景を持つ『二木家記』は、史料として二つの側面を持つ。

価値:

天正壬午の乱における在地勢力の具体的な動向や、武田支配下の国人衆の心境など、他の史料では窺い知れない貴重な情報を豊富に含んでいる。特に、第二章で述べた小笠原貞慶の書状 25 によって、その中核部分である深志城奪還の功績が一次史料で裏付けられた点は、本書の信頼性を飛躍的に高めるものである。

限界:

一方で、本書はあくまで二木家の視点から書かれた「聞書」であり、一族の功績を強調する傾向は否めない 5。例えば、父・重高が塩尻峠の戦いで武田方に一時内通したという、一族にとって不都合な事実は明確に記されておらず、他の記録(『溝口家記』など)との比較検討が必要となる 18。また、武田晴信が中塔城を直接攻めたという記述のように、他文献では確認できない内容も含まれており 26、その全てを無批判に受け入れることはできない。

したがって、『二木家記』は、小笠原家の公式見解と二木一族の自己認識が色濃く反映された史料として、その価値と限界を正しく理解した上で、他の記録と照らし合わせながら用いることが、歴史研究において不可欠な姿勢と言える。


終章:忠義の武将、二木重吉の歴史的評価

二木重吉の生涯を振り返る時、我々は彼を三つの異なる、しかし密接に結びついた側面から評価することができる。

第一に、彼は主家再興を成し遂げた 忠義の武人 であった。父の代からの苦難を引き継ぎ、武田氏の支配下で三十年もの間、「再興の草の種」としての使命を胸に耐え忍んだ。そして天正壬午の乱という好機を逃さず、徳川家康の支援という追い風を受けながらも、自らが中核となって在地勢力を結集し、旧本拠地・深志城を奪還した。この功績なくして、小笠原家の信濃復帰はあり得なかった。

第二に、彼は戦乱の時代を生き抜き、近世藩政を支えた 有能な家老 であった。彼の活躍は戦場だけに留まらなかった。領内の敵対勢力を鎮撫し、城の普請奉行や代官を務めるなど、優れた行政手腕を発揮して主君を支えた。その生涯は、戦国武将から近世大名の家臣(官僚)へと武士の役割が変貌していく過渡期を象徴しており、時代の変化に巧みに適応した人物であった。

そして第三に、彼は一族と主家の歴史を後世に伝えた 記録者 であった。晩年、主君・秀政の命により著した『二木家記』は、単なる一家の記録に非ず、小笠原家が近世大名として自らの正統性を確立するための重要な事業の一環であった。そこには編纂者の意図や立場による偏りも含まれるが、それを差し引いてもなお、乱世の記憶を当事者の視点から生々しく伝える貴重な歴史遺産であることに変わりはない。

結論として、二木重吉は単なる一地方武将ではない。彼の生涯は、戦国の動乱を生き抜き、主家を滅亡の淵から救い出し、近世大名へと押し上げた忠臣たちの、並々ならぬ努力と献身の象徴である。そして彼が遺した『二木家記』は、勝者の歴史だけでなく、それを支えた者たちの視点から乱世の記憶を今に伝える、かけがえのない窓なのである。二木重吉という人物を深く知ること、それは信濃小笠原氏の、ひいては戦国から近世への移行期を生きた武士たちの実像に迫ることに他ならない。

引用文献

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  27. 3-3 松本城の城主(1) 小笠原氏・前戸田 https://www.oshiro-m.org/wp-content/uploads/2015/04/a3_3.pdf