本報告書は、戦国時代後期の出羽国において活動した武将、五十目秀兼(いそのめ ひでかね)の生涯と事績を、現存する史料に基づき詳細に明らかにすることを目的とする。五十目秀兼は、安東氏の家臣として、また一時期は南部氏と結託するなど、当時の東北地方における複雑な政治状況の中で重要な役割を果たした人物である。特に、安東氏の有力家臣としての動向、浅利勝頼の乱後の比内代官としての役割、そして主家を離れ南部氏へ内応するという劇的な転身を中心に、その歴史的背景と影響を考察する。
本調査に先立ち、五十目秀兼については、「安東家臣。愛季の直臣。安東家に叛旗を翻した大館城主・浅利勝頼が、安東家との戦いに敗れて居城を明け渡したのち、大館城に入り、比内代官となった」という基本的な情報が確認されている。本報告書は、この情報を出発点としつつ、諸史料を丹念に読み解き、より深く掘り下げた分析を行うものである。
五十目秀兼の生涯と関連する出来事を理解するため、以下に年表を示す。
西暦 |
和暦 |
五十目秀兼の動向 |
関連人物・事件 |
主な典拠資料ID |
(不詳) |
(不詳) |
藤原秀盛と名乗る。安東愛季の直臣となる。 |
安東愛季 |
1 |
1562年 |
永禄5年 |
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安東愛季、浅利則祐・勝頼兄弟の内訌に介入し勝頼を支援。浅利則祐自刃。 |
2 |
1580年 |
天正8年 |
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(説1) 浅利勝頼、家臣の片山駿河の内通により長岡城にて池内権助らに暗殺される。 |
3 |
1582年 |
天正10年 |
浅利勝頼の乱後、安東愛季の命により比内代官として大館城に入る。 (五十目兵庫秀兼、和田内膳ら城代 4 ) |
(説2) 浅利勝頼、安東愛季に謀反を起こす。安東愛季、蠣崎慶広を使い、あるいは直接的に浅利勝頼を謀殺(於檜山城説あり)。 |
4 |
1583年 |
天正11年 |
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(説3) 浅利勝頼、安東愛季により謀殺される。 |
8 |
1587年 |
天正15年 |
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安東愛季、死去。安東実季が家督を継承。 |
6 |
1588年 |
天正16年 |
安東実季の命で八郎潟地方の統治を任され、砂沢城(五城目城)を築城。地名に因み「五十目」氏を名乗る。同年中に実季と不和になり、南部信直に内応。南部勢を比内地方に引き入れる。 |
安東実季、南部信直。大館城に南部氏の北信愛が城代として入る(大光寺光親を引き入れ和田内膳を討った説も 4 )。 |
1 |
1589年 |
天正17年 |
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湊騒動(湊合戦)勃発。安東実季、一族の安東通季(戸沢盛安支援)の反乱を鎮圧。南部氏内部で内紛。 |
8 |
1590年 |
天正18年 |
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安東実季、津軽の大浦為信と連携し、大館地方を南部氏から奪還。 |
8 |
1601年 |
慶長6年 |
(五十目氏として) 秋田実季(安東氏)の常陸宍戸への転封に伴い、五城目の地を去る。五城目城は破却。 |
秋田実季 |
1 |
五十目秀兼は、その名を史料で確認できる当初、「藤原秀盛」と名乗っていたことが記録されている 1 。戦国時代の武士が、自らの家系の権威を高めるため、あるいは箔付けのために中央の有力氏族である藤原氏の姓を公称する例は決して珍しいことではなかった。秀兼の「藤原」姓も、実際の血縁関係を示すものというよりは、当時の慣習に倣ったものである可能性が考えられる。彼の出自に関する詳細な情報は乏しく、その前半生は謎に包まれている部分が多い。しかし、彼が安東愛季の直臣として重用された事実から推察するに、出自の如何よりも、彼個人の武勇や知略、あるいは忠誠心といった実力が当時の主君に高く評価された結果であったと見るべきであろう。
「五十目」という姓に改めたのは、天正16年(1588年)、安東実季の命を受けて八郎潟地方の統治を任され、その拠点として砂沢城(現在の秋田県五城目町にあったとされる。別名、五城目城)を築城した際のこととされる 1 。この「五城目(ごじょうめ)」という地名に因んで「五十目(いそのめ)」と名乗ったと考えられている。「五十目」と「五城目」は音の類似性があり、自身の所領や居城の地名を姓とすることは、戦国武将がその土地との結びつきを内外に示し、支配者としてのアイデンティティを確立するためによく用いた手法である。この改姓は、秀兼が安東家中で一定の地位を築き、新たな所領とそれに伴う責任を得たことを象徴する出来事であったと言える。また、安東実季政権下における彼の立場をより明確にする意味合いも含まれていたかもしれない。
五十目秀兼は、出羽国の戦国大名であり、長く分裂していた檜山安東氏と湊安東氏を統合し、安東氏の勢力拡大と戦国大名化を強力に推し進めた安東愛季の直臣であった 5 。愛季はその智勇から「北天の斗星」とも称された人物であり 6 、秀兼はその下で活動し、信頼を得ていたと考えられる。史料によっては「五十目兵庫秀兼」あるいは単に「五十目兵庫」と記されているものもあり 4 、「兵庫(ひょうご)」は彼の通称であった可能性が高い。
愛季の直臣としての具体的な初期の活動に関する詳細な記録は、現存する資料からは乏しい。しかし、後に浅利勝頼の乱という重大事件の処理において重要な役割を担い、比内代官という要職に抜擢されたことから、それ以前から愛季の側近として、あるいは有能な武将として一定の功績を挙げていたと推測される。彼のキャリアにおける最初の大きな転機は、この浅利氏の反乱と、その後の比内地方統治への関与であったことは間違いない。
浅利氏は、古くから出羽国比内郡(現在の秋田県北部、大館市周辺)に勢力を有した国人領主であった 10 。安東愛季は、周辺地域への勢力拡大を図る中で、この比内郡にも触手を伸ばしていた。永禄5年(1562年)、愛季は浅利氏内部で起こった家督争い、すなわち浅利則祐とその弟・勝頼との間の内訌に介入する。この時、愛季は勝頼を支援し、兄である則祐を自害に追い込むことで、勝頼を浅利氏の当主の座に据えた 2 。これにより、浅利勝頼は安東愛季の強い影響下に置かれ、事実上、安東氏の傘下に入ったと考えられる。この介入は、安東氏にとって比内郡への勢力伸長における重要な一歩となった。
しかし、この従属関係は長くは続かなかった。浅利勝頼は後に安東氏に対して反旗を翻すことになる(ユーザー提供情報、 5 )。この背景には、安東氏による支配強化への反発や、勝頼自身の独立志向があったものと推測される。
史料によれば、天正10年(1582年)に浅利勝頼が主筋にあたる安東愛季に対して謀反を起こした、あるいは叛旗を翻したとされている 5 。この勝頼の行動が、安東氏との軍事衝突、いわゆる「大館合戦」へと発展したと考えられる。ユーザー提供情報にも「安東家との戦いに敗れて居城を明け渡した」とあり、両者の間で戦闘が行われたことが示唆される。
浅利勝頼の最期については、史料によって記述に大きな差異が見られ、その正確な経緯を特定することは困難である。主な説としては以下のものが挙げられる。
これらの情報の錯綜は、浅利勝頼の死を巡る状況の複雑さ、あるいは後世の記録編纂における記憶の混濁や特定の立場からの解釈が影響した可能性を示唆している。正確な没年(1580年、1582年、1583年のいずれか)、死因(戦死か、愛季主導の謀殺か、あるいは家臣による裏切りを伴う暗殺か)、そして最期の場所(大館城、檜山城、長岡城など)について、現存史料のみから断定することは極めて難しい。
しかしながら、いずれの説を取るにしても、浅利勝頼の排除に安東氏、特に当主である愛季が何らかの形で深く関与していたことは共通して窺える。それが直接的な命令による謀殺であったのか、あるいは内通者を利用した間接的な排除工作であったのか、その具体的な手法については見解が分かれるところである。特に、一部の史料で言及される蠣崎慶広の関与は注目に値する。もしこれが事実であれば、安東氏が蝦夷地の勢力とも連携し、広域的な謀略を展開していた可能性を示唆しており、当時の北奥羽における外交関係の複雑さを物語っている。
浅利勝頼の死後、比内地方は安東氏の直接支配下に置かれることになった。この重要な局面において、五十目秀兼(当時はまだ藤原秀盛と名乗っていた可能性もある)は、安東愛季によって後任の比内代官に任命され、浅利氏の旧居城であった大館城に入った 1 。史料によっては、この時大館城に入った人物として「五十目兵庫」 7 あるいは「五十目兵庫秀兼」と記されており 4 、和田内膳らと共に城代を務めたともされる 4 。この比内代官就任の時期は、浅利勝頼の死の時期と連動し、天正10年(1582年)とするのが一般的な見解である 5 。
この抜擢は、五十目秀兼が安東愛季から極めて厚い信頼を得ていたことを明確に示している。比内地方は長年浅利氏が支配してきた土地であり、その有力国人を排除した直後の統治は困難を伴うものであったと想像される。そのような重要地域の旧本拠地の管理を任されるということは、秀兼の能力と忠誠心が高く評価されていた証左と言えるだろう。また、大館城は南方を領する南部氏との国境にも近く、軍事的・戦略的にも極めて重要な拠点であった。ここに直臣である秀兼を配置することで、愛季は比内地方の確実な掌握と、宿敵である南部氏への備えを一層強化しようとしたと考えられる。
比内代官に就任した五十目秀兼は、浅利氏の旧本拠地である大館城を拠点として、比内地方の統治にあたった 1 。具体的な統治内容に関する詳細な史料は乏しいものの、浅利氏滅亡後の地域の混乱を収拾し、安東氏による新たな支配体制を確立し、浸透させることが主な任務であったと推測される。また、前述の通り、大館城は南部領との境目に位置していたため、南部氏の侵攻に備える軍事的な役割も極めて重要であった 8 。秀兼は、これらの重責を担い、安東愛季の期待に応えようと努めたであろう。
天正15年(1587年)、安東氏の勢力拡大を牽引した安東愛季が陣中で病死する 6 。これにより、愛季の子である安東実季(さねすえ)が安東氏の家督を継承した。実季の治世下においても、五十目秀兼は引き続き重用されたようである。翌年の天正16年(1588年)、秀兼は実季の命により、新たに八郎潟周辺の地方の統治を任されることになった 1 。
八郎潟地方の統治を命じられた五十目秀兼は、その拠点として砂沢城(さざわじょう)、別名を五城目城(ごじょうめじょう)を築城した 1 。この五城目城は、現在の秋田県五城目町にその跡が比定されており、標高100メートルほどの丘陵に築かれた平山城であったと伝えられる。本郭には天守はなく、尾根筋に複数の曲輪や堀切を配した、実戦的な構造の城であったと考えられている 1 。
そして、この築城とほぼ同時期に、秀兼は自らの姓を、それまでの「藤原」から、この新たな拠点である「五城目」の地名に因んで「五十目」へと改めたとされる 1 。比内代官という重要な地位にあった秀兼が、さらに八郎潟地方という水運や漁業、そして水田開発の潜在性を持つ戦略的にも経済的にも重要な地域の統治を任され、新たな城を築くことを許されたという事実は、彼が新当主である安東実季からも引き続き高い評価と信頼を得ていたことを示している。大館城を拠点とする比内地方の統治に加えて、この八郎潟地方の五城目城が新たな拠点として加わったことは、秀兼の安東家中における立場をさらに強化するものだったかもしれない。また、安東氏の支配戦略において、内陸部の比内から沿岸部の八郎潟へと支配の重心を移そうとする意図や、支配領域全体の再編といった動きの一環であった可能性も考えられる。
砂沢(五城目)城を築き、姓を「五十目」と改め、安東実季政権下でもその存在感を示した秀兼であったが、その状況は長くは続かなかった。新たな城を築き、新たな姓を名乗ったのと同じ天正16年(1588年)の内に、秀兼は主君である安東実季と不和になったと伝えられている 1 。
この主従関係の急激な悪化の具体的な原因について、現存する史料には明確な記述が見当たらない。しかし、いくつかの可能性が考えられる。まず、安東愛季から実季へと当主が代替わりする中で、旧臣である秀兼と若き新当主である実季との間に、政策や戦略に関する意見の対立、あるいは単純な人間関係の齟齬が生じた可能性である。また、比内代官としての地位に加え、八郎潟地方の統治権と新たな城まで手中に収めた秀兼の勢力が拡大することを、実季が警戒し、その力を削ごうとした可能性も否定できない。さらに、隣接する大名である南部信直側からの積極的な調略があり、それに秀兼が応じたという見方も存在する 8 。当時の東北地方は、諸勢力が複雑に入り乱れており、敵対勢力からの引き抜きや内応は常套手段であった。加えて、翌年の天正17年(1589年)には安東家中で「湊騒動」という大規模な内紛が勃発しており、実季政権の初期が不安定な状況にあったことが、秀兼のような有力家臣の離反を誘発する土壌となったのかもしれない。これらの要因が単独で、あるいは複合的に作用した結果、秀兼は実季との袂を分かつ決断に至ったと推測される。
安東実季との関係が悪化した五十目秀兼は、最終的に南部氏の当主である南部信直に内応し、南部氏の軍勢を比内地方に引き入れるという挙に出た 1 。これにより、かつて秀兼自身が代官として統治していた大館城は南部氏の手に落ち、南部信直の重臣である北信愛(きた のぶちか)が城代として入った 4 。一部の史料では、秀兼が南部方の武将である大光寺光親(だいこうじ みつちか)の軍勢を引き入れて、大館城に残っていた安東方の城代・和田内膳を討ったとも記されている 4 。
五十目秀兼の内応という衝撃的な出来事により、安東氏の重要拠点であった比内地方(大館周辺)は、一時的に南部氏の支配下に置かれることとなった 1 。これは、家督を継いだばかりの安東実季にとって、領国の安定を揺るがす大きな打撃であったに違いない。南部氏が、その重臣である北信愛を大館城代として送り込んだことは、この地域を本格的に支配下に置こうとする南部信直の強い意志の表れであったと言える。
しかし、この南部氏による比内地方の支配は長くは続かなかった。天正17年(1589年)、南部氏の内部で内紛(九戸政実の乱の萌芽とも考えられるが、あるいは別の内部対立であった可能性もある)が勃発すると、安東実季はこの好機を逃さなかった。翌天正18年(1590年)、実季は北隣の津軽地方で勢力を拡大しつつあった大浦為信(後の津軽為信)と連携し、軍事行動を起こして大館地方を南部氏から奪還することに成功したのである 8 。
一家臣の内応が、一地方の支配権を揺るがし、隣接する有力大名間の勢力争いを激化させるという一連の出来事は、戦国時代末期の東北地方における勢力図の流動性と不安定さを如実に示している。五十目秀兼の行動は、短期的には南部氏に利をもたらしたが、南部氏自身の内情と安東実季の迅速な反攻により、その戦略的効果は限定的なものに終わった。
湊騒動、あるいは湊合戦と呼ばれるこの事件は、天正17年(1589年)2月に発生した安東家中の大規模な内紛である。安東実季の従兄弟にあたる安東(湊)通季(みちすえ、湊城主。安東愛季の弟・友親の子 13 )が、出羽内陸部の有力国人である戸沢盛安の支援を受けて、本家当主である安東実季に対して反乱を起こしたものであった 9 。この反乱に対し、実季は由利地方の国人衆の協力を得て、最終的にこれを鎮圧することに成功している 9 。
なお、一部の資料 1 には「天正16年(1588年)の秋田安東氏の湊騒動以降に藤原秀盛が八郎潟地方の五城目地域を支配するようになった」という記述が見られる。しかし、湊騒動の主要な軍事衝突が発生したのは天正17年であり、五十目秀兼が五城目地域の統治を開始し、その後南部氏に内応したのは天正16年の出来事であるとする史料が多数を占める 5 。したがって、 1 の記述には時系列の混乱が見られる可能性があり、ここでは他の有力な史料群に基づき、秀兼の行動が湊騒動に先行していたと見なす。
五十目秀兼が安東実季に背き、南部信直に内応したのは天正16年(1588年)の出来事であり、これは湊騒動が勃発する前年のことであった。この二つの事件の時間的な近接性は、両者の間に何らかの関連性があった可能性を示唆している。
具体的には、五十目秀兼という安東家中の有力な重臣が離反し、それによって戦略的要衝である比内地方(大館)が南部氏の手に落ちたという事実は、安東実季政権の基盤を大きく揺るがし、その指導力や統制力の弱体化を内外に露呈させた可能性がある。このような状況は、安東通季や彼を後押しする戸沢盛安といった、実季に対抗する勢力にとって、反旗を翻す絶好の機会と映ったのではないだろうか。つまり、五十目秀兼の内応とそれに伴う安東氏の混乱が、湊騒動の勃発を間接的に誘引した、あるいは少なくともその決起を後押しする一因となった可能性が考えられる。
安東愛季から実季へと代替わりした直後の、まだ政権基盤が盤石とは言えない時期に、譜代の有力家臣の離反という事態が発生したことは、他の不満を抱える家臣や、安東氏の弱体化を窺う周辺勢力にも少なからぬ影響を与えたであろう。秀兼の行動は、結果として安東家中の動揺を増幅させ、湊騒動というさらなる混乱へと繋がる道筋をつけたのかもしれない。
五十目秀兼が主家である安東氏を離れ、南部信直に内応した後、南部氏においてどのような地位や処遇を受けたのか、その具体的な記録は、提供された資料群からは残念ながら見当たらない。南部信直に関する比較的詳細な記述がある資料 14 においても、五十目秀兼に関する直接的な言及は確認できなかった。
このような情報不足は、いくつかの可能性を示唆している。一つには、秀兼の内応が南部氏にとって長期的に見て大きな戦略的価値をもたらさなかったため、あるいは秀兼自身が南部家中で高い地位や重要な役割を得るには至らなかったため、南部側の史料に特筆すべき記録が残されなかったという可能性である。また、秀兼と南部氏の関係は、あくまで比内地方の領有を巡る一時的な利害の一致に基づくものであり、秀兼が南部家の家臣団に深く組み込まれることはなかったのかもしれない。彼の内応が南部氏による比内支配を一時的にもたらしたとはいえ、その後の安東実季による奪還によって、南部氏にとっての秀兼の利用価値が相対的に低下したことも考えられる。
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの後、安東氏(この頃には秋田氏を称している)は、徳川家康の命により、本拠地であった出羽国から常陸国宍戸(現在の茨城県)へと転封された。この主家の大きな転換期において、「五十目氏」もまた、かつて秀兼が築いた五城目の地を去り、五城目城は破却されたと伝えられている 1 。
この記述における「五十目氏」が、五十目秀兼本人を指すのか、あるいは彼の一族郎党全体を指すのかは判然としない。秀兼は天正16年(1588年)に南部氏に内応しているため、慶長6年(1601年)の時点で彼自身が依然として五城目周辺に居住し、秋田氏の支配下にあったとは考えにくい。もし秀兼が南部領内に留まっていたとすれば、この記述は、かつて彼が統治し、その名を冠した五城目の地に残っていた彼の一族や旧臣たちが、秋田氏の転封に伴ってその地を離れたか、あるいは離散したことを示しているのかもしれない。あるいは、秀兼が何らかの経緯で秋田氏に帰参、もしくはその影響下に戻っていた可能性も皆無ではないが、それを裏付ける史料は現時点では確認できない。いずれにせよ、五十目氏と五城目との直接的な関わりは、この秋田氏の転封によって終焉を迎えたと考えられる。
五十目秀兼が南部氏に内応した後の具体的な活動や、いつ、どこでその生涯を終えたのかを示す明確な記録は、提供された資料群の中には見出すことができなかった。戦国時代には、一度主家を裏切った武将が、新たな主君の下で大きな成功を収める例も存在する一方で、不遇のうちに歴史の表舞台から姿を消したり、記録が途絶えたりするケースも少なくない。
五十目秀兼の後半生に関する情報が乏しいという事実は、彼が南部氏内応後に再び歴史の表舞台で大きな役割を果たすことがなかった可能性を示唆している。彼の名は、安東氏家臣としての活動、特に浅利氏の乱後の比内統治と、南部氏への内応という劇的な転身によって歴史に刻まれたが、その後の足跡は杳として知れない。彼の終焉に関する手がかりを得るためには、南部藩のより詳細な家臣録や日記、あるいは五十目氏の子孫に関する伝承など、さらなる史料の発見と分析が待たれるが、現時点の提供資料ではその詳細を明らかにすることは困難である。
五十目秀兼は、藤原秀盛として安東愛季に仕え、その直臣として頭角を現した。特に、浅利勝頼の乱という出羽北部の勢力図を揺るがす混乱の中で、比内代官という重責を担い、大館城を拠点とした統治を行ったことは、彼の能力と愛季からの信頼の厚さを示すものであった。その後、安東実季の代になると、八郎潟地方に新たな拠点として砂沢(五城目)城を築き、自らも「五十目」と改姓するなど、安東家中にあってその存在感を高めた。しかし、ほどなくして主君・実季と袂を分かち、隣国の大名である南部信直に内応するという、戦国武将らしい激動の選択を行った。この内応は、安東・南部両氏の角逐が激しさを増す中で行われ、一時的にせよ比内地方の支配権を変動させるなど、地域の情勢に大きな影響を与えた。
五十目秀兼の生涯は、主家内部における権力闘争、在地国人領主の動向、そして隣接する有力大名間の絶え間ない勢力争いといった、戦国時代末期の地方社会における複雑な力学を色濃く体現している。彼の比内代官としての統治や砂沢(五城目)城の築城は、安東氏による領国経営の一端を示す具体的な事例として歴史的に評価できる。
一方で、主君を裏切り南部氏へ内応したという事実は、当時の武士たちが置かれていた厳しい状況と、彼らが抱いていた忠誠観念のあり方、そして自らの生き残りをかけた選択の過酷さを物語っている。彼の行動が、結果として安東家中の動揺を招き、湊騒動の遠因となった可能性も考慮に入れるならば、五十目秀兼は単なる一地方武将に留まらない、戦国末期の出羽北部の歴史において一定の役割と影響を及ぼした人物と位置づけることができるだろう。
しかしながら、南部氏内応後の彼の詳細な消息が不明瞭である点は、その歴史的評価を行う上での限界も示している。彼の生涯は、戦国乱世の激動の中で名を上げ、そして歴史の波間に消えていった数多の武将たちの一つの典型と言えるのかもしれない。彼の物語は、断片的な史料からその実像を再構築しようとする歴史研究の困難さと魅力を同時に示している。