序章:井伊直孝という人物
江戸時代初期という、戦国の気風が未だ残りつつも、新たな泰平の世が築かれようとしていた転換期において、井伊直孝(いい なおたか)は特筆すべき足跡を残した武将であり、政治家である。徳川四天王の一人に数えられ、「井伊の赤鬼」と恐れられた父・井伊直政の武威はあまりにも名高いが、その陰に隠れがちながらも、直孝は幕府黎明期における譜代大名の筆頭格として井伊家の基盤を盤石なものとし、幕政の中枢にあって徳川将軍家を支え、その治世の安定に大きく貢献した。本報告書は、現存する史料に基づき、井伊直孝の出生から家督相続の経緯、大坂の陣における武功、彦根藩主としての藩政、そして江戸幕府における枢要な役割に至るまで、その多面的な活躍と歴史的意義を詳細に明らかにすることを目的とする。
井伊直孝 年表
和暦(西暦) |
年齢 |
主要な出来事 |
役職・地位 |
石高 |
関連史料 |
天正18年(1590) |
1歳 |
駿河国にて井伊直政の庶子として誕生 |
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1 |
慶長7年(1602) |
13歳 |
父・井伊直政死去 |
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2 |
慶長8年(1603) |
14歳 |
徳川秀忠に出仕 |
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1 |
慶長10年(1605) |
16歳 |
従五位下掃部助(かもんのすけ)に叙任 |
従五位下掃部助 |
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1 |
慶長15年(1610) |
21歳 |
上野国白井にて1万石の大名となる。掃部頭(かもんのかみ)に任官 |
上野国白井藩主、掃部頭 |
1万石 |
1 |
慶長19年(1614) |
25歳 |
大坂冬の陣に井伊軍の大将として参陣 |
井伊軍大将 |
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2 |
慶長20年/元和元年(1615) |
26歳 |
大坂夏の陣に参陣し戦功を挙げる。兄・直勝に代わり井伊家の家督を相続し、彦根藩主となる。兄・直勝は上野国安中藩へ。直後、大坂の陣の功により5万石加増。従四位下侍従に昇進。 |
彦根藩主、従四位下侍従 |
15万石→20万石 |
1 |
元和8年(1622) |
33歳 |
彦根城完成 |
彦根藩主 |
20万石 |
5 |
寛永9年(1632) |
43歳 |
徳川秀忠死去。遺命により3代将軍・徳川家光の後見役に任じられる(大政参与)。大老に就任したとの記録もある。 |
大政参与(または大老) |
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3 |
寛永年間以降 |
- |
さらに2度の加増を受け、30万石の大大名となる。 |
彦根藩主 |
30万石 |
3 |
万治2年(1659) |
70歳 |
江戸にて死去 |
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1 |
第一章:誕生と井伊家の嗣子へ
父・井伊直政 ―「徳川四天王」の武威と早すぎる死―
井伊直孝の父、井伊直政は、徳川家康の天下取りを支えた重臣中の重臣であり、榊原康政、本多忠勝、酒井忠次と共に「徳川四天王」と称された武将である 7 。その軍装を朱色で統一した「井伊の赤備え」は戦場で際立った武勇を示し、敵からは「井伊の赤鬼」と恐れられた 7 。小牧・長久手の戦いや小田原征伐などで数々の武功を挙げ、関ヶ原の戦いでは東軍の軍監として中心的役割を担い、島津軍追撃の際に銃撃を受け負傷するも、戦後処理においても毛利輝元との交渉などで大きな功績を残した 7 。これらの功により、近江国佐和山に18万石を与えられ、彦根藩初代藩主として新たな城の建設に着手したが、慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦傷が悪化したことなどが原因で42歳の若さでこの世を去った 2 。直政の早すぎる死は、徳川家にとって大きな損失であったと同時に、井伊家の家督相続問題に複雑な影を落とすこととなる。
直孝の出生と複雑な家庭環境
井伊直孝は、天正18年(1590年)、駿河国(現在の静岡県)において、井伊直政の次男として生を受けた 1 。しかし、その出自は単純なものではなかった。母は直政の正室である花(松平康親の娘、徳川家康の養女)に仕える侍女であり、直孝を身ごもった後、正室によって実家へ帰されたと伝えられている 7 。直孝は母の元で養育され、12歳の時に父・直政によって秘密裏に召し出されたものの、その翌年には直政が死去してしまい、父との直接的な関わりは極めて短い期間に限られた 7 。このような複雑な出生の経緯と、父との希薄な関係は、後の直孝の人間形成や、兄・直勝との関係、さらには家督相続における彼の立場に少なからぬ影響を与えたと考えられる。
兄・直勝との関係と家督相続の経緯
直政の死後、井伊家の家督は正室の子である長男の直継(後の直勝)が継承した 7 。しかし、この直勝は病弱であったとされ 2 、徳川家康にとって、西国大名の監視という重要な役割を担う彦根の地を任せるには一抹の不安があった 2 。一方、直孝は慶長8年(1603年)に14歳で徳川秀忠に出仕し、その近習として早くから頭角を現し始めていた 1 。慶長15年(1610年)には21歳で上野国白井藩1万石の大名に取り立てられ、掃部頭(かもんのかみ)に任官されており 1 、この時点で既に兄とは別に独自の道を歩み、幕府からの期待を担う存在となっていた。
このような状況下で、彦根藩内では直勝と直孝それぞれに家臣団が分属されるような事態も生じ、内紛状態にあったとも伝えられている 4 。これは単に兄弟間の問題に留まらず、井伊家譜代の家臣団と、家康に近い家臣団との間の対立といった、より根深い要因も絡んでいた可能性が示唆される 4 。
井伊家の家督相続は、単なる一家内の問題として片付けられるものではなかった。徳川家康にとって、井伊直政は軍事・政治の両面で極めて重要な家臣であり 7 、その遺領である彦根は、朝廷や西国大名を監視する戦略的要衝であった 2 。直政の死後、その重要な地を継いだ直勝が病弱であったことは、家康にとって大きな懸念材料であった。他方、直孝は秀忠の近習として早くからその能力を示し、独立した大名としても認められていた。豊臣家との決戦である大坂の陣という国家的大事に際し、家康が病弱な直勝ではなく、直孝に井伊軍の総指揮を命じたこと 2 は、単なる代役任命以上の意味を持っていた。これは、家康が直孝の器量を見極め、井伊家の将来を託そうとしていた明確な意思表示と解釈できる。結果として、大坂の陣後に直孝が井伊家の家督を正式に継ぎ、彦根15万石(後に加増)を与えられ、兄直勝が安中3万石に移されたこと 3 は、家康による井伊家再編の最終決定であり、徳川幕府の盤石化に向けた大局的な人事戦略の一環であったと言えよう。直孝の登用は、個人の能力評価に加え、徳川政権の安定という国家的要請に基づいていたのである。
第二章:武将としての器量 ―大坂の陣―
大坂冬の陣 ―初陣の試練と評価―
慶長19年(1614年)、豊臣家との雌雄を決する大坂冬の陣が勃発すると、当時25歳の井伊直孝は、病弱な兄・直勝に代わり、徳川家康の直命によって井伊家の象徴である「赤備え」の軍勢を率いて出陣した 2 。これが直孝にとって、井伊家の大軍を率いる初陣であった。直孝は、藤堂高虎らと共に、大坂城南方に真田信繁(幸村)が築いた難攻不落の出城「真田丸」への攻撃に参加する。しかし、真田軍の巧みな戦術と堅固な守りの前に、関東勢は大きな損害を被り、結果として大敗を喫した 3 。この手痛い敗北は、若き総大将であった直孝にとって、武将としての器量を試される大きな試練であったに違いない。功名を焦るあまり、真田の挑発に乗せられたとも言われている 3 。しかし、総大将である徳川家康は、この敗戦にもかかわらず、直孝に対し「井伊の猪突猛進が味方を奮い立たせた」と賞賛の言葉を与えたと伝えられている 3 。この評価は、単に戦闘の結果だけでなく、戦いに臨む姿勢や周囲に与える影響をも重視する家康の将器を示すものであると同時に、直孝に対する変わらぬ期待の表れであったとも解釈できよう。
大坂夏の陣 ―戦功と「夜叉掃部」の萌芽―
翌慶長20年(1615年)に勃発した大坂夏の陣において、井伊直孝は冬の陣での経験を糧に、目覚ましい武功を挙げることになる。5月6日の若江の戦いでは、豊臣方の勇将として知られた木村重成の部隊と激突。激戦の末、井伊隊の部将である庵原(いはら)朝昌が木村重成を討ち取るという大功を挙げ、木村隊を敗走させた 3 。この勝利は、豊臣方に大きな打撃を与え、徳川方の士気を大いに高めた。
さらに翌7日の天王寺・岡山の最終決戦においては、前日の戦闘での損耗から井伊隊は先鋒からは外れたものの、戦況が徳川方の優勢に傾くと、将軍秀忠の命により大坂城内へと攻め入った。そして、豊臣秀頼らが最後の望みを託して籠もっていた山里曲輪に対し、鉄砲を撃ちかけたのである 3 。この攻撃は、秀頼らの助命の望みを事実上断ち切るものであった。この時、直孝は「後世に禍根を残さぬためである」と言い放ったと伝えられており 3 、彼の冷静かつ非情とも取れる判断力と、徳川家への揺るぎない忠誠心の強さを示す逸話として知られている。この一連の戦功により、井伊家には5万石が加増され、直孝自身も従四位下侍従へと昇進した 3 。
大坂の陣は、井伊直孝のその後の運命を決定づける大きな転換点であった。この戦役以前、直孝は庶子であり、兄・直勝が井伊家の家督を継いでいた 2 。藩内も直勝と直孝を支持する家臣団の間で不安定な状況にあったとされる 4 。徳川家康は、この大坂の陣を、直孝の力量を試す絶好の機会と捉えていた節がある 4 。冬の陣では真田丸で苦杯を嘗めたものの 3 、夏の陣における木村重成隊の撃破や、天王寺・岡山の戦いでの真田信繁隊への側面攻撃といった具体的な戦功は、彼の武将としての卓越した能力を証明するに十分であった 3 。これらの輝かしい戦功により、家康の期待に見事に応えた直孝は、戦後、正式に井伊家の惣領として家督を継承し、彦根藩15万石の藩主となったのである。兄の直勝には上野国安中藩3万石が分知された 3 。さらに、直孝には大坂の陣での功績を賞して直ちに5万石が加増され、彦根藩は20万石となった 4 。この家督相続と大幅な加増は、大坂の陣での活躍が直接的な要因であり、彼の武将としての能力が徳川家によって公に認められた何よりの証左であった。この戦功がなければ、その後の井伊家の隆盛も、直孝自身の幕政における華々しい活躍も、大きく異なる様相を呈していた可能性が高いと言えるだろう。
第三章:彦根藩の確立と藩政
井伊家家督相続と彦根藩主就任
大坂の陣における赫々たる武功により、井伊直孝の評価は不動のものとなった。元和元年(1615年)、徳川家康の命により、直孝は正式に井伊家の家督を継承し、近江国彦根藩15万石の藩主となった 3 。一方、兄の直勝は上野国安中藩3万石を与えられ、事実上分家として扱われることとなった 3 。この家督相続に際し、直孝は「直勝の痕跡をすべて消し去った」とまで言われるような措置を講じたとされ 4 、これは藩内における自身の権力基盤を強化し、名実ともに井伊家の当主としての正統性を確立しようとする強い意志の表れであったと考えられる。
彦根城の完成と城下町の整備
彦根藩主となった直孝がまず取り組んだのは、父・直政が計画し、その死によって中断されていた彦根城の築城であった。直孝はこの普請を再開し、約20年の歳月をかけて元和8年(1622年)に壮大な彦根城を完成させた 5 。この彦根城は、単に井伊家の居城であるに留まらず、京都や西国諸大名を監視する幕府の重要な軍事拠点としての役割を担うものであった 10 。
築城と並行して、直孝は城下町の整備にも力を注ぎ、今日の彦根市の基礎を築いたと高く評価されている 5 。武家屋敷や町人地の区画整理、さらには藩の軍事力を支える足軽たちの住居である足軽組屋敷の計画的な配置 13 など、機能的かつ壮麗な城郭都市の建設が進められたことが窺える。
藩政の基礎固め
井伊直孝の藩主としての功績は、城や町の建設といったハード面だけに留まらない。藩の統治に必要な諸制度や法令の基礎は、直孝の時代に整備され、これが後代の彦根藩主たちの模範となったと伝えられている 11 。また、家格や門閥にとらわれることなく有能な人材を登用し、藩士の教育にも厳格に取り組んだとされる 11 。これは、譜代大名筆頭としての井伊家の家格を維持し、幕府の期待に応えうる有能な家臣団を育成するための重要な施策であった。
直孝の治世下で彦根藩の石高は加増を重ね、江戸時代初期と幕末期を除いて30万石を数える大藩へと発展した 3 。この広大な領地を安定的に統治するための強固な藩政システムを構築した直孝の行政手腕は高く評価されるべきである。
直孝の彦根藩における統治は、戦国の武断的な価値観から、江戸時代の安定した文治政治へと移行する過渡期において、譜代大名がいかにして領地を経営し、幕藩体制の一翼を担うべきかの模範を示したと言える。直孝自身は、戦国の気風が色濃く残る時代に、大坂の陣での武功によってその地位を確立した武将であった 3 。しかし、藩主としては、単に武勇を誇るだけでなく、彦根城の完成 5 、城下町の整備 5 、そして何よりも藩の制度や法令の整備、さらには家格にとらわれない人材登用と藩士教育の重視 11 といった文治的な政策を強力に推進した。これは、徳川幕府による全国統治が安定期へと移行する中で、藩の永続的な存続と発展のためには、武力だけでなく、安定した統治システムが不可欠であることを直孝が深く理解していたことを示している。彼が整備した藩の制度や法令が「後代の藩主の模範とされた」 11 という事実は、直孝の藩政が場当たり的なものではなく、長期的な視点に立った持続可能なものであったことを雄弁に物語っている。彼の施策は、その後の彦根藩の長期的な安定と発展の揺るぎない礎となったのである。
第四章:幕政の中枢へ ―将軍の信頼と大老への道―
徳川秀忠・家光からの厚い信任
井伊直孝は、彦根藩主としての優れた統治能力を発揮する一方で、江戸幕府の中枢においても重きをなした。慶長8年(1603年)、14歳という若さで2代将軍・徳川秀忠に出仕して以来 1 、その近習として頭角を現し、秀忠の信頼を得ていった 2 。その信頼の篤さは、寛永9年(1632年)、秀忠が臨終の床に際し、直孝と松平忠明(徳川家康の外孫)を枕元に呼び、後継の3代将軍・徳川家光の後見役に任じたことからも明らかである 3 。これは、直孝の人格と能力に対する秀忠の絶大な評価を示すものであった。
父・秀忠の遺命を受けた家光もまた、直孝に深い信頼を寄せ続けた。一時期、直孝に対する不信の噂が流れた際には、家光自らがそれを明確に否定する内容の書状を直孝に送っている事実が確認されている 14 。このような将軍直筆の書状の存在は、両者の間に単なる主従関係を超えた、個人的な信頼関係が構築されていたことを物語っている。
「大政参与」としての幕政への関与
秀忠の遺命により、直孝は家光の治世において幕政に深く参与することとなった 1 。この時の直孝の役柄は、老中たちと共に国政の重要事項を審議する「大政参与」と称されるものであった 3 。この「大政参与」という役職が、後に江戸幕府の最高職となる大老職の起源の一つになったとも言われている 3 。
具体的には、直孝は松平忠明と共に「譜代筆頭」という特別な立場から、将軍家光の公式な対面儀礼や外出に供奉し、将軍の意思を諸大名に伝達する「申渡し」や、将軍に代わって儀礼を執り行う「挨拶」といった、将軍の権威を象徴する重要な役割を担った 16 。また、幕政の日常的な運営を担う年寄衆(後の老中)の会議にも出席し、大名からの言上を将軍に取り次ぐ「御取成」の任も果たしていた 16 。
ただし、直孝の立場は老中とは異なっていた。日常的な老中奉書(幕府の公式文書)への加判は行っておらず、この点で老中とは一線を画していた 16 。しかしながら、重要案件においては老中以上の影響力を行使することもあったとされ、例えば、あるオランダ総督の特使が残した日記には、直孝が「(閣老)会議の議長」として認識されていたと記録されており、他の老中とは格が異なる存在と見なされていた可能性が示唆される 16 。
初期大老としての役割と影響力
寛永9年(1632年)に直孝が大老に就任したとする記述も存在する 6 。この時期の「大老」という呼称や職制の成立については諸説あるものの、直孝が実質的に幕府の最高意思決定に関与し、絶大な影響力を持っていたことは疑いない。将軍家世子の元服における加冠役(烏帽子親)や、日光東照宮の大祭における将軍名代といった、幕府内の極めて重要な儀礼における彦根藩主の役割は、直孝の時代にその慣例が形成されたものであり、これは井伊家が幕府内で別格の地位を占めていたことを象徴している 10 。
井伊直孝の幕政への深い関与は、特に若き将軍・家光の親政を支え、幕府の権力基盤を強化する上で極めて重要な意味を持った 16 。
井伊直孝が幕政において果たした役割は、単なる将軍の側近や諮問役という範疇に収まるものではなかった。秀忠の遺命によって家光の後見役となり、「大政参与」として幕政の中枢に深く関与した直孝は 3 、実質的に後の「大老」職の機能を創始したと言える。彼の職務は、将軍の政策判断を伴う重要案件、例えば大名の改易、武家諸法度の改定、あるいは外交問題といった国家の根幹に関わる事柄に深く関与し、老中が立案した政務案に対して意見を述べるという、極めて高度なものであった 16 。日常業務を執行する老中とは一線を画し、より高次の立場から将軍親政が円滑に、そして将軍の意向に沿って行われるよう監督・補佐するその役割は、後の「大老」の職務内容と酷似している 16 。特に、家光が父・秀忠以来の老中と一定の距離を置き、自身の親政体制を強化しようと試みていた時期において、直孝は家光の意向を的確に汲み取り、それを実現するための「調整役」としての機能を果たした。同時に、老中たちが将軍の意向通りに政務を執行しているかを監視する「目付役」のような役割も担っていたと考えられる 16 。このように、直孝は、正式な役職名としての「大老」が確立する以前の過渡期において、その実質的な機能を果たし、三代将軍家光の親政確立という幕府史上極めて重要な時期に、将軍権力の安定と幕政運営の円滑化に不可欠な存在であった。彼の活動が、その後の大老職のあり方や権能を方向づけたと言っても過言ではないだろう。
第五章:人物像と逸話
「夜叉掃部(やしゃかもん)」の異名
井伊直孝は、その武勇と冷静沈着な性格から「夜叉掃部(やしゃかもん)」という異名で呼ばれた 9 。「夜叉」とは仏教における鬼神の一種であり、武勇に秀でた者を指す際に用いられることがある。「掃部」は、直孝が任官していた朝廷の官職名である掃部頭(かもんのかみ)に由来する 1 。大坂の陣における勇猛果敢な戦いぶりや、豊臣家滅亡に際して「後世に禍根を残さぬため」と言い放ったとされる非情とも受け取れる決断力 3 などが、この「夜叉掃部」という異名を裏付けるものとして語り継がれている。
伊達政宗との逸話
直孝の人柄の重厚さを示す逸話として、伊達政宗との一件が知られている。ある時、奥州の雄である伊達政宗が、かつて徳川家康から与えられたとされる「百万石のお墨付き」(領地加増を約束した文書)を幕府に提出し、領地の加増を願い出た。この難しい案件の調停役を任されたのが直孝であった。多くの幕閣が政宗の威勢に気圧される中で、直孝は静かに口を開き、「確かにこの書状は神君家康公(家康のこと)から与えられたものに相違ござりませぬ。しかしながら、今は既に太平の世となり、新たに与えるべき土地はござりませぬ。なにとぞお諦めくだされ」と、冷静かつ毅然とした態度で政宗の要求を退けたという 9 。この逸話は、直孝の剛毅な精神と、幕府の権威を背負う者としての威厳、そして何よりも道理を重んじる姿勢を如実に示している。
豪徳寺の招き猫伝説
勇猛な武将、あるいは厳格な政治家としての側面が強い直孝であるが、その一方で人間味あふれる伝説も残されている。それが、世田谷区にある豪徳寺の「招き猫伝説」である。ある日、直孝が鷹狩りの帰りに、寂れた寺(後の豪徳寺)の門前を通りかかった。すると、一匹の白い猫が右の前足を上げて、まるで手招きをしているかのように見えた。その仕草に興味を引かれた直孝が寺に立ち寄ったところ、にわかに空が曇り、激しい雷雨となった。直孝は雨に濡れることなく難を逃れ、先ほど猫が招いていなければ雷に打たれていたかもしれないと、命拾いしたことに感謝したという 3 。この出来事に感謝した直孝は、荒れていた寺を庇護し、田畑を寄進するなどして手厚く保護した。これにより寺は再興され、後に井伊家の菩提寺の一つとなり、「豪徳寺」と名付けられた。そして、この猫の逸話から、豪徳寺は招き猫発祥の地の一つとして広く知られるようになったのである 5 。この伝説は、直孝の意外な一面や、当時の人々の動物に対する眼差し、そして何よりも縁起を大切にする信仰心の一端を伝えるものとして興味深い。
その他の人柄を伝えるエピソード
父・直政が家臣の些細な失敗も許さず手討ちにすることもあったため「人斬り兵部」と恐れられたのに対し 7 、直孝に関しては同様の苛烈な逸話はあまり伝えられていない。むしろ、その人物評は冷静沈着さや任務に対する忠実さが強調される傾向にある。彦根藩の藩政においては、家格にとらわれず有能な人材を登用したとされる点 11 からは、実力主義的な側面も持ち合わせていた可能性が考えられる。
井伊直孝の人物像は、単一の言葉で表現することが難しい多面性を持っている。「夜叉掃部」の異名 9 や大坂の陣での勇猛な活躍 3 は、父・直政譲りの武勇と決断力を明確に示している。一方で、伊達政宗を冷静沈着に諭した逸話 9 や、幕政における将軍の補佐役としての的確な判断力と政治的手腕 16 は、彼が単なる武辺者ではなく、優れた政治感覚と冷静な分析力を兼ね備えていたことを物語る。さらに、豪徳寺の招き猫伝説 3 は、戦場での勇猛さや幕政における厳格さとは異なる、人間的な温かみや信心深さ、あるいは偶然の出来事を大切にするような一面を垣間見せる。これらの要素は、直孝が単に勇猛な武将であったり、冷徹な政治家であったりするだけでなく、武勇と知略、政治的手腕を高いレベルで調和させ、さらには人間的な魅力をも併せ持っていた稀有な人物であったことを示唆している。彼の人物像は、戦国乱世から泰平の世へと移行する激動の時代において求められた、新たなリーダーシップの質を体現していると言えるだろう。武力のみならず、知略、政治力、そして時には人間的な魅力をもって組織を統率し、時代を動かした人物として捉えることができるのである。
終章:井伊直孝の遺産と後世への影響
井伊家の譜代大名筆頭としての地位確立への貢献
井伊直孝の生涯を通じた活躍は、井伊家そのものの地位を飛躍的に高める結果をもたらした。大坂の陣での戦功による加増に始まり、その後も幕政における功績によって度々加増を受け、井伊家は最終的に30万石(資料によっては35万石ともされる)を領する大大名へと成長した 3 。これにより、井伊家は徳川譜代大名の中でも筆頭格としての地位を不動のものとし、江戸時代を通じて幕府内で絶大な影響力を保持し続けることになった。また、直孝が築き上げた徳川将軍家との強固な信頼関係は、井伊家が幕府の重要な儀礼や役職を代々担う家柄としての伝統を確立する上で、決定的な役割を果たした 10 。
江戸幕府初期における安定への寄与
井伊直孝の功績は、井伊家一門の隆盛に留まらない。彼が三代将軍・徳川家光の治世を「大政参与」あるいは実質的な「初期大老」として支えたことは、成立間もない江戸幕府の安定に大きく貢献した 16 。家光の親政を補佐し、幕政の重要課題に対処した直孝の卓越した政治的手腕は、初期幕府の権力基盤の強化に不可欠であったと言える。さらに、藩主としては、彦根藩を西国監視の拠点として確立し、その城郭と城下町を整備することで、幕藩体制の物理的な安定にも寄与した 10 。
総括
井伊直孝は、偉大な父・井伊直政の武勇の精神を受け継ぎつつも、決してその模倣に終わることなく、自身の独自の才覚と冷静な判断力をもって戦国の遺風が残る時代を生き抜き、泰平の世においては優れた藩主として、そして幕府の重鎮として、目覚ましい活躍を見せた。彼の生涯は、井伊家の繁栄と徳川幕府の安定に多大な貢献を果たした輝かしいものであり、その歴史的意義はより深く再評価されるべきである。
直孝の人生は、個人の持つ卓越した能力と、時代が求める役割とが幸運にも合致した時、歴史の歯車を大きく動かす原動力となり得ることを示す好例と言えよう。武将としての勇猛さ、藩主としての統治能力、そして幕政を担う政治家としての手腕、さらには人間的な魅力を伝える逸話の数々は、井伊直孝という人物の多面性と奥深さを現代に伝えている。彼の築き上げた礎の上に、彦根井伊家は幕末に至るまで譜代筆頭の名家としてその名を轟かせ続けるのである。