最終更新日 2025-06-26

仙石権兵衛

仙石権兵衛秀久の生涯 ― 栄光、挫折、そして不屈の再起

序章:「史上最も失敗し、挽回した男」― 仙石権兵衛秀久の実像

仙石権兵衛秀久(せんごくごんべえひでひさ)という武将の名は、現代において、ある歴史漫画作品を通じて広く知られるようになった 1 。その作品『センゴク』シリーズは、彼を「戦国史上、最も失敗し、それを挽回した男」として描き出し、その波乱に満ちた生涯に新たな光を当てた 3 。しかし、こうした近年の再評価がなされる以前、仙石秀久に対する歴史上の評価は、九州征伐における戸次川(へつぎがわ)の戦いでの壊滅的な大敗という一点において、極めて厳しいものであった 2 。江戸時代の軍記物語においては「天下無双の臆病者」とまで酷評され 8 、近代以降もその評価が覆ることは少なく、一般的には無能な武将として、あるいは歴史の表舞台から消えた数多の人物の一人として認識されてきた。

本報告書は、この評価の振れ幅が極めて大きい人物、仙石権兵衛秀久の生涯を、現存する史料や記録に基づき、多角的な視点から再検証することを目的とする 3 。美濃の一土豪から身を起こし、豊臣秀吉の寵臣として異例の速さで大名の座に駆け上がりながら、一つの過ちで全てを失い、そして再び自らの力で栄光を取り戻すという、他に類を見ない彼の人生の軌跡を丹念に追う。その栄光と挫折、そして驚異的な再生の物語は、単に一個人の一代記に留まらない。それは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三英傑が天下を動かした激動の時代を、一人の武士がいかにして生き抜き、時代の変化にいかに適応していったかを示す、貴重な事例である。本報告書を通じて、仙石秀久という人物の実像に迫りたい。

第一章:美濃の土豪から秀吉の与力へ ― 立身の序章(1552-1579)

出自と家系

仙石秀久は、天文21年(1552年)1月26日、美濃国加茂郡黒岩村(現在の岐阜県加茂郡坂祝町)に、土地の有力者であった仙石治兵衛久盛の四男として生を受けた 8 。ただし、生年については天文20年(1551年)とする説も存在する 10 。仙石氏は清和源氏土岐氏の支流を称する一族であり、父・久盛は美濃国を支配した斎藤道三、義龍、龍興の三代にわたって仕えた武将であった 10

異例の家督相続

四男という立場であった秀久が、本来であれば家督を継承する可能性は極めて低かった。事実、彼は若くして親族の縁を頼り、越前国(現在の福井県)の豪族である萩原国満のもとへ養子に出されている 10 。しかし、彼の運命は、美濃国をめぐる織田信長と斎藤氏の激しい抗争によって一変する。この戦乱の中で兄たちが相次いで戦死したため、秀久は実家から急遽呼び戻され、仙石家の家督を継ぐことになったのである 10 。これは、戦国という時代の流動性がもたらした、彼にとって最初の大きな転機であった。

織田家への仕官と秀吉との出会い

永禄10年(1567年)、主君であった斎藤龍興が、織田信長との稲葉山城の戦いに敗れて没落すると、秀久は信長に臣従した 10 。この時、秀久の勇壮な風貌が信長の目に留まり、当時まだ木下藤吉郎と名乗っていた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の与力、すなわち配下の武将として仕えるよう命じられた 1 。この出会いが、彼のその後の人生を決定づけることになる。

秀吉の直属の親衛隊である馬廻衆の一員となった秀久は、各地の戦いを転戦する。中でも元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、浅井方の武将・山崎新平を討ち取るという武功を挙げ、その武勇を知らしめた 10

最初の知行と地歩の確立

姉川での戦功などが評価され、天正2年(1574年)、秀久は主君・秀吉から近江国野洲郡(現在の滋賀県野洲市)に1,000石の知行地を与えられた 8 。これは、彼が秀吉の家臣団の中で確固たる地位を築くための重要な第一歩であった。その後も秀吉に従って中国攻めに参陣し、天正6年(1578年)には、その功績によって4,000石を加増される 8 。この頃には、秀吉子飼いの家臣として深い寵愛を受ける存在となっており、彼の立身出世の道が拓かれつつあった 21

秀久の初期の経歴は、戦場で示す「個人の武勇」と、主君の期待に応え、その心をつかむ「対人能力」という二つの要素が巧みに作用した結果であった。信長に直接見出され、当時昇龍の勢いであった秀吉の配下となったことは、彼の才能が最も発揮される環境に身を置くことを意味した。身分に関わらず実力と忠誠心のある者を積極的に登用した秀吉にとって、猪突猛進とも言える勇猛さで戦功を重ねる秀久は、まさに理想的な部下であった。この「主君の期待に応え続ける」という彼の行動様式こそが、後の輝かしい成功と、そして破滅的な失敗の双方に繋がる、生涯を貫く重要な特性となるのである。

第二章:淡路平定と四国での攻防 ― 大名への道(1580-1585)

淡路国平定の主役へ

秀吉の家臣として着実に地歩を固めた秀久に、大きな飛躍の機会が訪れる。天正9年(1581年)、秀吉が四国の長宗我部元親を牽制すべく淡路国(現在の兵庫県淡路島)への攻略戦を開始すると、秀久もこれに従軍した。秀吉の本隊が播磨国姫路へ引き上げた後も、秀久は淡路に留まり、現地の抵抗勢力の鎮圧戦を主導した。彼の粘り強い戦いにより淡路は平定され、豊臣家中における彼の評価を決定的なものにした 19

さらに天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発すると、秀久はその機を逃さなかった。秀吉が中国大返しから山崎の戦いへと突き進む間、秀久は淡路島に残り、明智光秀に与した在地勢力である菅達長らを掃討し、豊臣政権の背後を固めるという重要な役割を果たした 8

秀吉家臣団最速の大名出世

天正11年(1583年)、秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦いの後、秀久のこれまでの功績、特に淡路平定の功は高く評価された。彼は淡路国洲本城主として5万石を与えられ、ついに大名の列に加わる 8 。これは、秀吉の数多い古参家臣の中で最も早い大名への出世であり、彼がいかに秀吉から厚い信頼と期待を寄せられていたかを物語っている 10

四国への橋頭堡と長宗我部との対決

淡路大名となった秀久は、四国の雄・長宗我部元親と対峙する最前線の指揮官という重責を担うことになった。讃岐国(現在の香川県)で長宗我部氏の圧迫を受けていた十河存保からの救援要請に応じ、秀久は海を渡り四国へ進出した。

同年の引田の戦いでは、緒戦において伏兵を巧みに用いて長宗我部方の部隊を打ち破るなど戦術的な妙技を見せた。しかし、兵力で優る長宗我部軍本隊の猛攻の前に、最終的には引田城からの撤退を余儀なくされた 8

讃岐一国への栄転

引田での敗戦は、秀久の経歴に傷を付けることはなかった。むしろ、敵我の戦力差が歴然としていた状況下での奮戦と、敗走後も淡路・小豆島の守りを固めて瀬戸内海の制海権を維持し、長宗我部勢力を牽制し続けた点が評価されたと見られる 8

そして天正13年(1585年)、秀吉が総勢10万を超える大軍を動員した本格的な四国征伐が開始されると、秀久もその一翼を担い、喜岡城を攻略するなど戦功を挙げた。戦後の論功行賞において、秀久は讃岐一国、高松10万石を与えられるという破格の恩賞を受け、ついに国持大名へと上り詰めたのである 8

この時期の秀久は、まさに破竹の勢いであった。秀吉の期待に武功で応え続けることで、彼は自らの地位を飛躍的に向上させた。淡路平定という大きな成功体験は、彼に絶対的な自信を植え付けたであろう。しかし、その成功体験は、同時に「自分は秀吉の意を体現する特別な存在であり、困難な戦況も打開できる」という過信を生む土壌ともなった。引田での敗戦が不問に付されたことも、彼の自己評価をさらに強固なものにした可能性がある。秀吉政権の拡大戦略において、秀久は四国方面軍の司令官という、単なる武将の枠を超えた役割を担うことになった 16 。しかし、その役割の増大は、単なる武勇だけでなく、より高度な戦略眼や政治的調整能力を彼に要求するものであった。この変化に対応しきれなかったことが、彼の栄光の絶頂期に、破滅的な悲劇の影を落とすことになる。

第三章:戸次川の大敗 ― 栄光からの転落(1586)

九州征伐の軍監 ― 驕りと軋轢

天正14年(1586年)、豊臣秀吉は九州の島津氏を討伐するため、大軍の派遣を決定した。この九州征伐において、仙石秀久は先鋒軍の総大将兼軍監という極めて重要な役職に任命された 7 。しかし、彼の指揮下に置かれたのは、土佐の長宗我部元親・信親親子、そして讃岐の十河存保といった、かつて四国で覇を争った武将たちであった。このため、軍議の場では当初から意見が対立し、部隊内の人間関係は険悪な空気に包まれていた 7

運命を分けた独断専行

島津軍の猛攻に晒されていた豊後の大友氏を救援するため、秀久率いる四国勢は海を渡った。この時、秀吉からは「府内城(現在の大分市)で堅く籠城し、毛利輝元らが率いる本隊の到着を待て」という持久戦の命令が厳命されていた 7

しかし、戦況は秀久の忍耐を許さなかった。豊臣軍の渡海を知った島津軍が、大友方の鶴賀城の包囲を解き、一時的に後退する動きを見せた。これを千載一遇の好機と誤認した秀久は、功を焦るあまり、秀吉の命令を完全に無視する。軍議において、慎重な作戦を主張する長宗我部元親の強い反対を「臆病者の沙汰」とばかりに一蹴し、独断で戸次川を渡河しての追撃を強行したのである 7

島津の罠と軍の壊滅

この無謀な渡河は、歴戦の島津家久が仕掛けた巧妙な罠であった。豊臣軍が川を渡りきり、陣形が伸びきったところを狙い、伏せていた島津軍が突如として三方から襲いかかった。これは島津家伝統の必殺戦術「釣り野伏せ」であった 7

不意を突かれた豊臣軍は、組織的な抵抗もできぬまま大混乱に陥り、総崩れとなった。この凄惨な戦場で、長宗我部元親が将来を嘱望した嫡男・信親、そして勇将として知られた十河存保といった有力武将たちが次々と討死を遂げた 7 。豊臣軍は将兵1,000人以上が犠牲になるという、壊滅的な敗北を喫した。

改易と追放 ― 全てを失う

最悪の事態は、その後に訪れた。軍監として全軍の責任を負うべき秀久が、部隊の壊滅を目の当たりにするや、真っ先に戦場から離脱。味方の敗残兵をまとめることもせず、わずか20名ほどの家臣と共に小倉城まで逃走し、さらにそこから残存兵を見捨てて自らの領国である讃岐へと逃げ帰るという、総大将としてあるまじき醜態を晒したのである 8

この命令違反、歴史的な大敗、そして見苦しい敵前逃亡という一連の失態は、秀吉の逆鱗に触れた。秀吉の怒りは凄まじく、秀久は領国である讃岐10万石を全て没収(改易)され、高野山への追放処分を命じられた 7 。栄光の絶頂から、一夜にして全てを失ったのである。『豊薩軍記』などの後世の書物では、「仙石は四国を指して逃げにけり、天下無双の臆病者」と、未来永劫語り継がれるほどの汚名を着せられることとなった 8

この戸次川での失敗は、単なる戦術的判断の誤りとして片付けられるものではない。皮肉なことに、その根源は彼がそれまで積み重ねてきた成功体験そのものにあった。秀吉の「一番槍」として、常に積極的な武功を挙げることで期待に応え続けてきた秀久にとって、「待つ」という消極的な命令は、彼の行動原理と相容れないものであった。手柄を焦る気持ちと、かつての敵であった長宗我部元親らへの対抗心が、冷静な状況判断能力を完全に麻痺させたのである。

また、秀吉の怒りの本質は、単なる軍事的な敗北以上に、豊臣政権の政治的な権威を失墜させた点にあった。秀吉が天下に発令した「惣無事令」(大名間の私闘を禁じる法令)を大義名分とする九州征伐の緒戦において、全権を委任された軍監自身が命令を無視して大敗したという事実は、豊臣政権の威信を根底から揺るがす行為であった 29 。秀吉は、いかに寵臣であろうとも容赦なく断罪することで、自らの絶対的な権威を天下に示す必要があった。仙石秀久の劇的な転落は、豊臣政権の支配体制が、もはや個人の寵愛や人間関係ではなく、「法」と「権威」によって統治される新たな段階に入ったことを象徴する、画期的な事件であったと言えよう。

第四章:不屈の再起 ― 小田原征伐の武功(1590)

浪人からの再出発

高野山に追放され、大名の地位も領地も全てを失った仙石秀久であったが、彼はそこで朽ち果てる男ではなかった。蟄居生活を送りながらも、不屈の精神で再起の機会をうかがい続けた 21

その機会は、戸次川の敗戦から4年後の天正18年(1590年)に訪れた。豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして、関東の北条氏を討つべく小田原征伐の兵を挙げたのである。この時、秀久は旧知の仲であった徳川家康のとりなしを得て、「陣借り」という、正規の軍には属さない浪人武将の立場で参陣することを特別に許された 17

「鈴鳴り武者」の伝説

再起に全てを賭けた秀久の出で立ちは、異様なものであったと伝えられる。頭には熊毛を植えた奇抜な兜をかぶり、陣羽織には敵の注意を引くための無数の小さな鈴を縫いつけていた。そして、彼が掲げた馬印(旗指物)には、全てを失った自らの境遇と、無の境地から再出発を期す決意を示すかのように、ただ「無」の一字が大きく染め抜かれていたという 21 。この鈴の音を鳴らしながら敵陣に突撃する姿から、彼は「鈴鳴り武者」の異名をとった。

一番槍の功名と奇跡の復活

秀久は、小田原城の防御の要の一つである早川口の攻防戦に投入された。ここで彼は、水を得た魚のように、かつての武勇を遺憾なく発揮する。自ら先頭に立って槍を振るい、獅子奮迅の働きを見せ、この激戦区で抜群の武功を挙げたのである 12

まさにゼロからの再起を賭けたその鬼気迫る戦いぶりは、総大将である秀吉の目にも留まった。秀吉はその忠勇を大いに賞賛し、自らが普段使っていた金の扇を秀久に与えたという逸話も残っている 8

この小田原での目覚ましい活躍により、秀久はついに秀吉の許しを得る。そして、信濃国小諸(現在の長野県小諸市)に5万石の領地を与えられ、大名として奇跡的とも言える完全復帰を果たしたのである 12

秀久のこの劇的な復活劇は、単なる幸運の結果ではない。そこには、戦国時代における「挽回」の条件が明確に示されている。第一に、彼がその本質において卓越した「武人」であり、戦場という最も分かりやすい形で自らの価値を証明できる能力を持っていたこと。第二に、徳川家康という、豊臣政権内で絶大な影響力を持つ有力な後援者の存在があったこと。この二つの要素が不可欠であった。彼は、自らが最も得意とする「戦」という土俵において、誰もが認めざるを得ない圧倒的な結果を叩き出すことで、失った信頼を自らの手で取り戻したのである。

このエピソードは、戦国時代の武士社会における価値観を象徴している。失敗の責任は厳しく問われるが、再挑戦の機会が完全に閉ざされているわけではない。特に、信長や秀吉のような実力主義を標榜する天下人にとって、戦場で使える有能な人材は常に貴重であった。秀久は、自らの武勇という「商品価値」を、最も劇的な形で再提示し、秀吉に「再投資」を決断させたと言える。また、家康のとりなしは、武将間の個人的な信頼関係や貸し借りが、時に主君の決定さえも動かしうる、複雑な政治的力学の存在を示唆している。

第五章:信濃小諸藩主としての治世(1590-1614)

小諸藩初代藩主としての領国経営

大名への復帰を果たした仙石秀久は、信濃国小諸藩5万石の初代藩主として、新たな領国経営に乗り出した 21 。彼はその後の約24年間の治世において、精力的に小諸の町の発展に尽力した。

まず着手したのは、居城である小諸城の大規模な改修であった。城郭の石垣を堅固に積み直し、大手門や黒門、二の丸などを増築し、戦国時代の山城から近世城郭へとその姿を大きく変貌させた 21 。同時に、城下町の整備や、重要な幹線道路であった中山道の伝馬制度の確立、そして笠取峠に松並木を植樹するなど、領内のインフラ整備にも力を注いだ 21

領民酷使と「一郡逃散」という失政

しかし、秀久の統治者としての一面は、光ばかりではなかった。これらの大規模な城郭普請や開発事業は、領民に対して極めて過酷な賦役(労役や税の負担)を強いる結果となったのである 34

その性急で強引な政策は、領民の生活を著しく圧迫した。そして慶長15年(1610年)頃、ついにその苛政に耐えかねた佐久郡の農民たちが、田畑を捨てて郡全体から逃げ出してしまうという「一郡逃散(いちぐんとうさん)」という深刻な事態を引き起こした 12 。これは、藩の統治基盤そのものを揺るがす、統治者としての重大な失政であった。

息子・忠政による再建

慶長19年(1614年)に秀久がこの世を去ると、家督は三男の忠政が継いだ。忠政は、父の苛政によって荒廃した領地の再建を急務とした。彼は、逃散した農民たちに対して、年貢や諸役の免除といった寛大な条件を提示し、領地への帰還を促す融和政策を熱心に進めた 34 。また、元和3年(1617年)には、年貢制度を旧来の貫高制から、より実態に即した石高制へと移行させるなど、民政の安定化に尽力した 12

小諸における秀久の治世は、彼の持つ武人としての長所と短所が如実に現れたものであった。城郭の強化や街道整備は、軍事戦略的な視点から見れば合理的で優れた政策であった。しかし、その目的を達成するための手法は、民衆の負担を全く顧みない強引なものであり、為政者として最も重要な領民への配慮に著しく欠けていた。戸次川の戦いで功を焦った彼の性急さが、内政の分野においても裏目に出た形である。

この経験は、戦国時代から江戸時代へと社会が移行する過渡期において、大名に求められる資質が変化したことを象徴している。「戦の巧者」であることが大名の第一条件であった時代から、領民を安んじ、藩を豊かにする「統治能力」が問われる時代への転換である。秀久自身はこの時代の変化に完全には適応できなかった。しかし、彼の失敗を反面教師とした息子・忠政が善政を敷き、民心の安定に成功したことで、仙石家は近世大名としての基盤を固めることができた。これは、武断政治から文治政治へと移行する時代における、世代間の役割分担と学びのプロセスを示す、興味深い事例と言えるだろう。

第六章:徳川の世と仙石家の安泰(1600-1614)

関ヶ原での的確な判断

豊臣秀吉の死後、天下の情勢が徳川家康へと傾くのを察知した秀久は、いち早く家康に接近し、その関係を深めていった 10 。そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、秀久は迷うことなく家康率いる東軍に与した 12 。彼は、家康の嫡男・徳川秀忠が率いる別働隊に配属され、中山道を進軍することとなった 12

秀忠との絆 ― 最大の政治的成功

この中山道進軍の途中、秀忠軍は信濃上田城に籠る西軍の真田昌幸・信繁(幸村)親子の巧みな籠城戦に手こずり、攻略に手間取った結果、9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという、徳川家にとって致命的ともいえる大失態を犯してしまう 12

戦後、父・家康の凄まじい怒りを買い、窮地に立たされた秀忠。この時、秀久は身を挺して秀忠を弁護し、家康の怒りを鎮めるために奔走した 17 。この一件により、秀久は秀忠から絶対的な信頼を得ることになる。秀忠は「そなたの忠義は決して忘れぬ」と深く感謝し、後に二代将軍となると、秀久および仙石家を外様大名としては異例の厚遇で重用し続けた 17

準譜代大名という破格の待遇

秀久は元々豊臣恩顧の外様大名であった。しかし、関ヶ原での的確な政治判断と、何よりも秀忠個人との間に築かれた強い信頼関係により、その待遇は特別なものとなった。江戸城内における仙石家の詰所(控室)は、徳川家譜代の大名が詰める「帝鑑の間」に置かれるなど、譜代大名に準ずる家格(願い譜代)として扱われたのである 10 。これは、かつて軍監として大失敗を犯した彼が、今度は政治家として大成功を収めたことを物語っている。

晩年と最期

その後、秀久は小諸藩主として領国経営に努めながら、幕府と秀忠への忠勤に励んだ。そして慶長19年(1614年)5月6日、江戸での勤めを終えて任地の小諸へ帰る道中、武蔵国鴻巣(現在の埼玉県鴻巣市)の宿で病に倒れ、その波乱の生涯を閉じた。享年63(あるいは64歳とも)であった 8

戸次川での破滅的な失敗は、秀久に「武勇」だけでは生き残れないという冷徹な政治的現実を痛感させたに違いない。彼はその苦い教訓から学び、成長した。関ヶ原における彼の行動は、若い頃の猪突猛進な姿とは対照的に、極めて冷静かつ計算された政治的判断に基づいている。時流を読んで東軍に与したこと、そして何よりも未来の最高権力者である徳川秀忠個人に決定的な「恩」を売ったことは、仙石家のその後の安泰を百年単位で決定づける、最良の一手であった。

秀久の生涯は、豊臣政権下での「武功による立身出世」と、徳川幕府下での「忠誠と個人的な信頼関係による地位の安定」という、二つの異なる時代の価値観を一身で体現している。彼は一度目のキャリア(豊臣時代)で栄光の頂点から絶望のどん底までを経験し、その教訓を二度目のキャリア(徳川時代)で見事に活かして、一族に盤石の地位を遺した。彼の人生は、戦国武将が江戸という新たな秩序に適応していく過程を示す、非常に興味深い一例である。

終章:仙石秀久の人物像と歴史的評価

多面的な人物像

仙石秀久という人物を単一の言葉で評価することは難しい。同時代に日本に滞在したイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、秀久を「決断力に富み、優秀な武将として知られていた」と武人としての能力を評価する一方で、「高尚ではなかった」「(家臣たちは)恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない輩」と、その粗野で強欲な側面も記録している 10 。この武人としての有能さと、人間的な粗暴さという二面性は、彼の生涯における多くの行動を説明する鍵となる。

小田原征伐で見せた「鈴鳴り武者」の逸話 30 や、真偽は定かではないが伏見城で大盗賊・石川五右衛門を捕らえたという伝説 8 は、彼の豪放磊落な武人としてのイメージを今日に伝えている。また、彼の気質は、挑戦を恐れないという点に集約される。織田信長の重臣であった佐久間信盛が、石山本願寺攻めにおいて積極的な攻勢に出なかった「挑戦しないこと」を理由に追放されたのとは対照的に、秀久は常に危険な挑戦を続け、その結果として戸次川で破滅的な大失敗を犯した 25 。彼の人生は、挑戦に伴う栄光とリスクの両極端を体現していた。

歴史的評価の変遷

江戸時代に成立した軍記物語の世界では、戸次川での敗戦と敵前逃亡がことさらに強調され、秀久は「臆病者」という不名誉な評価を長く受けることとなった 8 。近代以降もこの評価が覆ることはなく、歴史ファンの間でも彼の知名度は決して高いとは言えず、評価の低い武将として扱われることが大半であった 2

現代における再評価

この定着した評価に大きな転機をもたらしたのが、21世紀に入ってから連載された漫画『センゴク』シリーズであった。この作品は、秀久を主人公に据え、その「失敗と挽回」のドラマに焦点を当てることで、彼の人間的な魅力や不屈の精神を浮き彫りにし、幅広い読者層から支持を得た 3 。作者は丹念な史料調査や現地取材を行い 3 、従来の通説に大胆な仮説を交えながら、一兵卒の視点から戦国のリアルを描き出した 11 。これにより、従来の「無能な敗将」という一面的なイメージは覆され、新たな仙石秀久像が構築されたのである。

総括

仙石権兵衛秀久は、戦国という時代の激しい浮沈、その光と影を誰よりも色濃く体現した人物である。彼の生涯は、単なる成功譚でもなければ、惨めな失敗談でもない。それは、自らの過ちと弱さに正面から向き合い、絶望的な状況から再び立ち上がり、そして時代の大きな変化に巧みに適応して生き抜いた、一人の人間の強靭な生命力の記録である。その劇的な人生は、安定が揺らぎ、変化が絶えない現代を生きる我々に対しても、「挑戦することの価値」と、そして何よりも「再生の可能性」を力強く問いかけている。

巻末資料:仙石秀久 詳細年表

西暦(和暦)

秀久の年齢

主な出来事

石高・領地の変遷

官位・家族

1552年(天文21年)

1歳

美濃国にて仙石久盛の四男として誕生。後に越前の萩原氏へ養子に出されるが、兄たちの死により実家に戻り家督を継ぐ 8

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父:仙石久盛

1564年(永禄7年)

13歳

織田信長に臣従し、羽柴(豊臣)秀吉の与力となる 1

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-

1570年(元亀元年)

19歳

姉川の戦いに参陣し、浅井方の山崎新平を討ち取る武功を挙げる 10

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-

1574年(天正2年)

23歳

秀吉より近江国野洲郡に1,000石を与えられる 9

1,000石(近江野洲郡)

正室・本陽院(野々村幸成の娘)と婚姻 10

1578年(天正6年)

27歳

中国攻めでの功績により4,000石を加増される 8

5,000石

三男・忠政が誕生 17

1581年(天正9年)

30歳

秀吉の淡路攻略戦に従軍し、岩屋城・由良城を陥落させる 17

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-

1582年(天正10年)

31歳

本能寺の変後、淡路国内で明智方に与した菅達長らを討伐し、淡路平定に貢献 8

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1583年(天正11年)

32歳

賤ヶ岳の戦いの後、淡路国5万石を拝領し大名となる。洲本城に入城 8

5万石(淡路洲本)

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1585年(天正13年)

34歳

四国征伐での戦功により、讃岐一国を与えられる 8

約10万石(讃岐高松)

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1586年(天正14年)

35歳

九州征伐の先鋒軍を率いるが、戸次川の戦いで島津軍に大敗。命令違反と敗走の責を問われ、領地を没収(改易)、高野山へ追放される 7

0石(改易)

-

1590年(天正18年)

39歳

徳川家康のとりなしで小田原征伐に「陣借り」として参陣。早川口で抜群の武功を挙げ、秀吉に許される。信濃国小諸5万石を与えられ大名に復帰 12

5万石(信濃小諸)

-

1592年(文禄元年)

41歳

文禄の役では、肥前名護屋城の築城に貢献 10

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従五位下、越前守に叙任される 10

1594年(文禄3年)

43歳

伏見城の築城にも功があり、7,000石を加増される 10

5万7,000石

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1600年(慶長5年)

49歳

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、徳川秀忠軍に従軍。本戦に遅参した秀忠を家康にとりなし、秀忠の深い信頼を得る 17

領地安堵

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1614年(慶長19年)

63歳

江戸から小諸へ帰る道中の武蔵国鴻巣にて病没。5月6日死去 10

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引用文献

  1. 大失態を犯し追放されたが、再び秀吉の信頼を得て乱世を生き抜いた男|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【仙石秀久編】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1028945
  2. センゴク:仙石秀久が主人公になった理由 歴史を描く責任感 連載18年でついに完結 https://mantan-web.jp/article/20220219dog00m200035000c.html
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  4. 【マイお城Life】漫画家・ 宮下英樹さん[後編]人によって楽しみ方が違うのが城の醍醐味 https://shirobito.jp/article/578
  5. 【マイお城Life】漫画家・ 宮下英樹さん[前編]歴史漫画家がお城好きになるまで - 城びと https://shirobito.jp/article/577
  6. 【読書録】『センゴク』シリーズ 宮下英樹|サザヱ - note https://note.com/sazawe/n/n10fe7f3bd218
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  31. No.56話:「挽回できる」風土が会社組織には必要ではないでしょうか。 https://samuraizu.co.jp/column/2021-07-21/
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  39. F872 仙石久重 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/F872.html
  40. 『センゴク 1巻』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター https://bookmeter.com/books/536955
  41. 『センゴク権兵衛 27巻』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター https://bookmeter.com/books/19620560
  42. みんなのレビューと感想「センゴク権兵衛」(ネタバレ非表示) | 漫画ならめちゃコミック https://mechacomic.jp/books/92945/reviews?sort=helpful
  43. 漫画『センゴク』が凄まじい緊迫感で描く、戦国時代の生き抜き方 - ダイヤモンド・オンライン https://diamond.jp/articles/-/185905