日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての激動期、数多の武将が歴史の表舞台で活躍し、その名を後世に刻みました。しかし、その影には、時代の大きなうねりの中で翻弄され、歴史の敗者として忘却の彼方へと追いやられた者たちも少なくありません。仙石秀範(せんごく ひでのり)は、まさにそのような人物の一人と言えるでしょう。
彼の父、仙石秀久は豊臣秀吉の子飼いとして異例の出世を遂げ、一度は改易の憂き目に遭いながらも徳川家康の助力で奇跡的な復活を遂げた、波乱万丈の生涯で知られています 1 。また、彼の弟、仙石忠政は父の路線を継承し、徳川の世で巧みに立ち回り、信濃小諸藩から上田藩へと加増移封され、仙石家の礎を盤石なものとしました 2 。この輝かしい父と弟の功績の陰で、仙石秀範の名が語られる機会は極めて稀です。
秀範の生涯は、旧主である豊臣家への「忠義」という、当時としては決して珍しくない、しかし時代が移り変わる中では極めて危険な価値観を貫いた結果、一族の主流から弾き出され、悲劇的な結末を迎えた武士の典型例です。彼の選択は、単なる状況判断の誤りとして片付けられるべきではありません。それは、父や弟とは異なる価値観に基づいた、主体的な決断であり、徳川の治世へと移行する時代の転換期における武士の生き様の一つのあり方を示す、貴重な事例として再評価されるべき価値を持っています。本報告書では、仙石秀範という一人の武将の生涯を、父・秀久、弟・忠政という対照的な存在との比較を通じて立体的に描き出し、その行動原理と悲劇の背景に迫ります。
表1:仙石秀範・秀久・忠政 略年表
年代 |
仙石秀久の動向 |
仙石秀範の動向 |
仙石忠政の動向 |
関連事項 |
天正13年(1585) |
四国平定の功により讃岐一国15万石の大名となる 4 。 |
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天正14年(1586) |
戸次川の戦いで大敗し、改易・高野山追放となる 5 。 |
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天正18年(1590) |
小田原征伐で戦功を挙げ、信濃小諸5万石の大名に復帰 4 。 |
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慶長4年(1599) |
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豊臣家より3000石と従五位下・豊前守に叙任される 6 。 |
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豊臣秀吉死去(前年) |
慶長5年(1600) |
東軍に属し、第二次上田合戦に参戦 5 。 |
西軍に与し、戦後、父に廃嫡・勘当される 6 。 |
父と共に東軍に属し、第二次上田合戦に参戦 7 。 |
関ヶ原の戦い |
慶長19年(1614) |
5月6日、死去 8 。 |
10月、豊臣方の招聘に応じ大坂城に入城 4 。 |
父の死により家督を相続し、小諸藩主となる 3 。 |
大坂冬の陣 |
元和元年(1615) |
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大坂夏の陣で豊臣方として戦う。戦後の消息は不明 7 。 |
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大坂夏の陣 |
元和8年(1622) |
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信濃上田藩6万石へ加増移封となる 9 。 |
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仙石秀範の人生を理解するためには、まず彼の父である仙石秀久の特異な経歴を把握することが不可欠です。秀久の生涯は、豊臣政権下での栄光と、一度の失脚、そして徳川の世への移行期における巧みな処世術に彩られています。
秀久は美濃国の土豪の家に生まれましたが、早くから豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)に仕え、その最古参の家臣として各地を転戦しました 1 。秀吉からの寵愛は深く、姉川の戦いでの武功を皮切りに、淡路国平定などで功績を重ね、天正11年(1583年)には淡路5万石の大名となります。さらに天正13年(1585年)の四国平定後には、讃岐一国を与えられるなど、秀吉の家臣団の中でも際立った速さで出世街道を駆け上がりました 1 。
しかし、その栄光は長くは続きませんでした。天正14年(1586年)、九州征伐の先陣として豊後国へ渡った際、軍監でありながら秀吉の命令に背き、島津軍との戸次川の戦いで独断で戦闘を開始。結果として長宗我部元親の嫡男・信親や十河存保といった有力武将を死なせるという壊滅的な大敗を喫しました 4 。この失態は秀吉の逆鱗に触れ、秀久は所領を全て没収され、高野山へ追放されるという、武士として最大の屈辱を味わうことになります 1 。
大名としての地位を完全に失った秀久でしたが、彼は決して諦めませんでした。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、徳川家康の取り成しを得て、浪人でありながら旧臣を率いて秀吉の陣に馳せ参じます。この戦いで秀久は抜群の武功を挙げ、秀吉から赦免されるだけでなく、信濃国小諸に5万石の所領を与えられ、奇跡的とも言える大名への復帰を果たしました 1 。この一件は、秀久にとって二つの大きな教訓となりました。一つは豊臣政権の非情さ、そしてもう一つは、窮地を救ってくれた徳川家康への大きな恩義です。この経験が、後の関ヶ原の戦いにおいて、秀久が迷わず東軍に与する決断を下す大きな要因となったことは想像に難くありません。
仙石秀範の生年は、多くの史料で不詳とされており、正確な誕生年は分かっていません 4 。しかし、彼は父・秀久と正室・本陽院(野々村幸成の娘)の間に生まれた次男であり、兄の久忠が盲目であったために仏門に入ったことから、事実上の嫡男として仙石家の将来を担う立場にありました 3 。
秀範の青年期における最も特筆すべき出来事は、慶長4年(1599年)、すなわち父・秀久が小諸藩主となってから約9年後のことです。この年、秀範は豊臣家から直接3000石の知行を与えられ、同時期に従五位下・豊前守に叙任されています 6 。これは極めて重要な意味を持ちます。なぜなら、彼が単に「小諸藩主・仙石秀久の息子」としてではなく、豊臣家から禄を受ける独立した人格を持つ武将、すなわち「豊臣家の直臣」として公に認められたことを示しているからです。
この事実は、秀範の後の人生を決定づける行動原理を理解する上で、決定的な鍵となります。父・秀久は、豊臣家から大恩を受けながらも一度は見捨てられ、徳川家康の力添えによって復活したという複雑な経緯を背負っていました。そのため、秀久の忠誠心は、豊臣家への恩義と徳川家への恩義という二つの要素の間で揺れ動く、現実的な力関係に基づいたものへと変化していったと考えられます。
一方で、秀範が受けた恩は、秀吉亡き後の豊臣家、すなわち豊臣秀頼から直接与えられたものでした。彼の主君は紛れもなく「豊臣家」そのものであり、その忠誠心は、父が抱えるような複雑さのない、より純粋で直接的なものであった可能性が極めて高いのです。この「豊臣家直臣」としての自負こそが、後に彼が父や弟と袂を分かち、茨の道を選択する根源にあったと推察されます。
表2:仙石秀範関連人物系図
Mermaidによる関係図
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、仙石家は運命の分岐点を迎えます。父・秀久は、小田原での復活の恩義から徳川家康への傾斜を強めており、家康の会津征伐にも従軍していました。そして、徳川秀忠が率いる主力部隊が中山道を進軍するにあたり、秀久と弟の忠政はこれに合流し、真田昌幸・信繁(幸村)が籠る上田城攻め(第二次上田合戦)に加わりました 5 。これは、仙石家の総意として、徳川方について新時代を生き抜くという明確な意思表示でした。
しかし、この一族の決定にただ一人、異を唱えたのが秀範でした。彼は父や弟とは全く異なる道を選び、石田三成らが率いる西軍に身を投じたのです 5 。嫡男であるはずの彼が、なぜ一族の安泰を危うくするような、あまりにも危険な賭けに出たのでしょうか。
その最大の理由は、前章で述べた「豊臣家直臣としての忠義」にあったと考えられます。秀吉の死後、五大老筆頭であった家康は、その遺命を次々と破り、天下の権を独占しようとする動きを露わにしていました 15 。秀範の目には、この家康の行動が、恩ある豊臣家をないがしろにし、天下を簒奪しようとする裏切り行為に映ったのでしょう。豊臣家から直接禄を受けた恩顧の武将として、この不正を座視することはできなかった。その義憤が、彼を西軍加担へと駆り立てた最も純粋な動機であったと推測されます。
もちろん、父・秀久との間に何らかの確執があった可能性や、西軍で功を立てて父を超える存在になろうとした功名心といった、個人的な感情が皆無であったとは断言できません。しかし、彼のその後の浪人生活から大坂の陣に至るまでの一貫した行動を見る限り、その根底には豊臣家への揺るぎない忠誠心があったと考えるのが最も合理的です。
結果は、西軍の惨敗に終わりました。この秀範の独断行動は、父・秀久の怒りを買い、彼は戦後、正式に勘当・廃嫡され、仙石家から完全に追放されることとなります 5 。これにより、仙石家の家督は弟・忠政が継ぐことが決定づけられ、秀範は全てを失い、一介の浪人として世を彷徨うことになったのです。
仙石家から追放され、浪人となった秀範は、京都に潜伏します。彼は名を「宗也(そうや)」、あるいは「宗弥(そうや)」と改め、京の新町通二条上ルあたりで寺子屋(私塾)を開き、近所の子供たちに読み書きを教えて生計を立てていたと伝えられています 4 。かつては大大名の嫡男として将来を嘱望された武将が、市井の師匠として糊口をしのぐ姿は、彼の没落を象徴する逸話として語られます。
しかし、彼の浪人生活は、単なる雌伏や隠遁ではありませんでした。史料によれば、秀範はこの間も豊臣秀頼から密かに扶持(給与)を受けていたとされています 17 。これは、豊臣方が彼のような関ヶ原で敗れた牢人たちを、来るべき徳川との最終決戦に備えた貴重な戦力として、水面下で繋ぎとめていたことを示唆しています。
寺子屋の師匠という身分は、彼の二重生活にとって好都合な「隠れ蓑」であった可能性が高いです。関ヶ原の戦いで西軍に与した者は、徳川家への反逆者と見なされ、大名家に仕官することは極めて困難でした 17 。秀範もまた、徳川家康からの赦免を得て再仕官の道を模索したようですが、それは叶わなかったようです 17 。そのような状況下で、京都という場所は、諸国の情報が集まる政治の中心地であり、家康が滞在することも多い伏見城にも近い戦略的な拠点でした。寺子屋の師匠という目立たない身分は、当局の監視の目を逃れながら、豊臣方や他の牢人たちと連絡を取り合い、再起の機会をうかがうには最適だったのです。
したがって、秀範の浪人生活は、単に落ちぶれて日々を過ごしていたのではなく、豊臣家からの支援を受けながら、再起の時を虎視眈眈と待つ、緊張感に満ちた期間であったと考えるべきでしょう。
雌伏の時は、14年の歳月を経て終わりを告げます。慶長19年(1614年)、徳川家と豊臣家の対立が遂に限界に達し、大坂の陣が勃発すると、豊臣方から全国の牢人たちに檄文が発せられました。秀範もこの招聘に応じ、長年世話になった豊臣家への恩義に報いるため、迷わず大坂城へ馳せ参じました 4 。奇しくもこの戦いには、仙石家の家督を継いだ弟の忠政が徳川方として参陣しており、兄弟が敵味方に分かれて相争うという悲劇的な構図が生まれることになります 7 。
大坂城に入った秀範は、一介の牢人としてではなく、破格の待遇で迎えられました。真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永といった、かつて大名であった者たちと共に「大名衆」の一人として遇され、豊臣家から3万石前後の所領が約束されたとされています 7 。豊臣方の家臣・山口休庵が残したとされる記録『大坂陣山口休庵咄』には、「仙石豊前」という名で登場し、当初5000の兵を率いる大将であったと記されており、牢人衆の中でも特にその家柄と実績を期待された存在であったことが窺えます 5 。
彼の豊臣家への忠誠心と硬骨な姿勢は、戦いの局面でも示されます。冬の陣の後、徳川方との和議交渉が進められる中で、秀範は長宗我部盛親ら強硬派と共に、徹底抗戦を強く主張したと伝えられています 19 。しかし、大坂の陣における秀範個人の具体的な戦闘での活躍を詳細に記した史料は、残念ながら乏しいのが現状です 17 。それでも、彼は主要な牢人衆の一人として軍議に参加し 18 、豊臣軍の重要な一翼を担い、最後の瞬間まで豊臣家のために戦い続けたことは間違いありません。
慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣で豊臣方は徳川軍の圧倒的な物量の前に敗れ去り、大坂城は炎に包まれました。この落城と共に、仙石秀範の消息は歴史の表舞台から完全に途絶えます。
彼の最期については、二つの説が伝えられています。一つは、夏の陣の激戦の最中に討死したという説。もう一つは、落城の混乱に乗じて丹波方面へ逃亡したという説です 4 。後世には、薩摩へ落ち延びたといった伝説も生まれましたが、これらを裏付ける信頼性の高い史料は存在せず、彼の正確な没年や死没地は、今なお謎に包まれています 20 。
秀範の敗北は、彼個人の物語では終わりませんでした。その悲劇は、彼の子供たちにまで及んだのです。当時10歳であった息子の長太郎は、戦後、潜伏先の伯耆国(現在の鳥取県)で捕縛され、京都の六条河原に引き出されました。そして、慶長20年閏6月22日、乳母の子と共に斬首され、その首は晒されるという、あまりにも惨い最期を遂げました 7 。
この処遇は、敵対した者の血筋は、たとえ幼子であっても根絶やしにするという、徳川幕府確立期の非情な論理を象徴しています。一方で、娘の徳は、叔父である仙石忠政に引き取られました。体制に順応した忠政の庇護のもと、彼女は静かに生涯を終えたと伝えられています 7 。長太郎の処刑と徳の保護という対照的な運命は、仙石家内部で起きた「勝者」と「敗者」の分岐が、次世代にまでいかに決定的かつ残酷な影響を及ぼしたかを物語っています。秀範の物語は、彼の死(あるいは失踪)だけでは終わらず、息子の処刑という、より痛ましい結末をもって幕を閉じるのです。
仙石秀範の生涯を俯瞰するとき、そこには一貫した行動原理が見て取れます。慶長4年(1599年)に豊臣家から直接受けた恩義に始まり、関ヶ原の戦いにおける西軍への加担、浪人時代に豊臣家から受け続けた扶持、そして最後の大坂の陣での殉死(あるいはそれに等しい没落)に至るまで、彼の行動は常に「豊臣家への忠義」という一本の太い筋で貫かれています。
彼の生き方は、時代の変化を敏感に察知し、巧みな処世術で家名を存続・発展させた父・秀久や弟・忠政のそれとはまさに対極にありました。結果として、秀範は歴史の敗者となり、その血筋は(男子としては)途絶え、自身も忘却の淵に沈みました。しかし、彼の選択を、単なる状況判断の誤りや時代錯誤な愚行として断じることは、あまりに一面的です。彼の生き様は、武士としての「筋目」や「恩義」を何よりも重んじるという、戦国乱世の価値観に殉じたものであり、その信念の強さゆえに、新しい時代の流れと相容れることができなかった悲劇と捉えるべきでしょう。
仙石秀範の人生は、戦国乱世から徳川の治世へと社会が大きく転換する時代において、武士たちがどれほど多様な価値観を持ち、いかに異なる選択を迫られたかを示す、極めて貴重な事例です。歴史は常に勝者によって語られがちですが、秀範のような敗者の物語に耳を傾けることではじめて、その時代の持つ多面性や複雑さを真に理解することができます。彼の悲劇的な生涯は、私たちに歴史の深淵を覗き込ませ、勝者だけでなく敗者の論理にも目を向けることの重要性を静かに、しかし強く教えてくれるのです。