序章:伊地知重興研究の意義と本報告書の構成
本報告書で取り上げる伊地知重興(いぢち しげおき)は、戦国時代の大隅国(現在の鹿児島県東部)において活動した国人領主である。彼の生きた時代は、南九州の雄である島津氏がその勢力を急拡大させ、薩摩・大隅・日向のいわゆる三州統一を成し遂げようとしていた激動期にあたる。伊地知重興は、この島津氏の動きに対し、時には激しく抵抗し、時には従属するという、戦国期の地方領主が取り得る複雑な道を歩んだ。彼の生涯を丹念に追うことは、当時の地方領主たちが家の存続をかけて繰り広げた多様な戦略や、島津氏による三州統一という大きな歴史的事業の具体的な様相を、ミクロな視点から理解する上で重要な意義を持つ。
伊地知氏は、その出自を関東の名門畠山氏に持つともいわれ、大隅国に深く根を下ろした一族であった。重興の時代、島津氏の圧力が強まる中で、彼は肝付氏や禰寝氏といった他の大隅国人と連携し、あるいは日向国の伊東氏とも結びつきながら、自立を模索した。しかし、島津氏の圧倒的な軍事力と巧みな外交戦略の前に、最終的には降伏を余儀なくされる。その後は島津氏の家臣として、九州統一を目指す戦いに身を投じることとなった。
本報告書は、現存する諸史料、特に薩摩藩の編纂物である『本藩人物誌』や関連する系図、そして垂水市などに残る地域の記録や伝承などを基に、伊地知重興の出自からその死に至るまでの事績を明らかにする。具体的には、まず伊地知氏のルーツと重興が登場するまでの歴史的背景を概観する。次に、戦国武将としての重興の活動、特に島津氏への抵抗から降伏に至る詳細な経緯、そして島津家臣団に組み込まれてからの動向を追う。さらに、彼の人物像や家族構成、領地経営や信仰といった側面にも光を当て、多角的な分析を試みる。最後に、これらの考察を踏まえ、伊地知重興という武将が歴史上どのような位置を占めるのか、そして今後の研究においてどのような課題が残されているのかを提示する。本報告書を通じて、戦国という乱世に翻弄されながらも、家名を保ち続けた一人の地方領主の実像に迫りたい。
第一部:伊地知氏の淵源と重興の登場
第一章:伊地知氏の系譜と大隅国への進出
伊地知氏の起源を辿ると、桓武平氏の流れを汲む秩父氏、さらにその嫡流である畠山氏の庶流にあたるとされている 1 。伊地知氏の初代とされる伊地知季随(すえより)は、元々越前国(現在の福井県)の井筒城主であったが、南北朝時代に島津氏5代当主島津貞久に従って薩摩国へ下向したと伝えられている 1 。この季随の南九州への移動が、伊地知氏がこの地に土着し、勢力を築く上での第一歩となった。
伊地知氏が本格的に大隅国に根を下ろすのは、季随から数えて三代目の伊地知季豊(すえとよ)の時代である。季豊は応永19年(1412年)、大隅国の下大隅(現在の鹿児島県垂水市一帯)を領地として与えられ、この地に本城を築いたとされる 1 。これ以降、伊地知氏は代々下大隅を拠点とし、在地領主としての地位を固めていくことになる。畠山氏という鎌倉以来の名門武家の庶流であるという出自は、伊地知氏が南九州という新たな土地で勢力を確立する上で、一定の権威として機能した可能性が考えられる。初代季随が島津貞久に随行したという伝承は、伊地知氏と島津氏との間に古くからの主従関係、あるいは協力関係が存在したことを示唆する。しかし、時代が下り戦国期に入ると、伊地知氏は島津氏の支配下にある単なる被官という立場から脱却し、大隅国内で自立的な勢力を持つ国人領主へと成長を遂げる。大隅国が、中央権力の支配が及びにくく、また薩摩半島とは錦江湾を隔てた地理的条件にあったことも、伊地知氏のような国人が独自の勢力圏を形成し、維持することを可能にした一因と言えるだろう。
第二章:伊地知重興の出自と家督相続
伊地知重興は、大隅国に勢力を張った伊地知氏の第九代当主である 3 。彼の父は伊地知八代当主の伊地知重武(しげたけ)であり、重武は島津氏本宗家の当主であった島津勝久の家老職を務めたと記録されている 3 。この事実は、重興の父の代において、伊地知氏が島津宗家の内政においても一定の発言力と重要な地位を占めていたことを物語っている。
重興の生年は、享禄元年8月20日(1528年9月3日)とされている 3 。幼名は虎太郎丸、後に又九郎と通称した 3 。彼が伊地知氏の家督を相続した正確な時期や具体的な経緯については、現存する史料からは詳らかではない。しかし、父・重武の活動時期や、重興自身が歴史の表舞台に登場する時期から推測するに、天文年間(1532年~1555年)の後半から弘治年間(1555年~1558年)にかけて家督を継いだものと考えられる。
重興も当初は、島津宗家の家督を島津勝久から継承した伊作島津家の島津貴久に従っていたとされている 5 。島津氏内部では、守護職を巡る一族間の争いが長らく続いており、勝久から貴久への家督継承もまた、複雑な政治的背景の中で行われた。このような島津氏内部の権力構造の変動期において、伊地知氏がどのような立場を取り、そして重興の代になって、なぜ一時的に島津氏から離反し、自立性を強めるに至ったのか。その背景には、島津氏の勢力拡大に対する警戒感や、大隅国内の他の有力国人領主、例えば肝付氏や禰寝氏などとの力関係、さらには彼らとの連携による自勢力圏の維持・拡大といった、戦国期特有の国人領主の生存戦略が複雑に絡み合っていたと推察される。父・重武が島津氏の家老であったという事実は、伊地知氏が島津氏の被官的性格を強く有していた時期があったことを示すが、重興の代における反旗は、そのような関係性からの脱却と、独立した戦国領主としての地位確立への志向の現れであったと言えるだろう。
第二部:戦国武将としての伊地知重興
第一章:大隅国における伊地知氏の勢力
伊地知重興は、戦国時代の大隅国において、無視できない勢力を持つ国人領主であった。彼の所領は、下大隅(現在の鹿児島県垂水市周辺)に集中しており、具体的には本城、垂水、田上、高城、下之城といった地名を領していたことが記録されている 3 。特に垂水は、伊地知氏が三代季豊の時代に応永19年(1412年)に本城を築いて以来 1 、長年にわたる本拠地であり、同地には伊地知氏の菩提寺であったとされる福寿寺跡や、伊地知氏歴代の石塔群が現存している 1 。これらの史跡は、伊地知氏によるこの地域の長期的かつ安定的な支配を物語るものである。
伊地知氏がその勢力を最も伸張させたのは、重興の父である八代当主・重武の時代であり、この頃には下大隅のほぼ全域を掌握し、その勢いは非常に盛んであったと伝えられている 1 。この広大な所領と影響力が、重興の代における活動の基盤となった。
当時の大隅国は、薩摩国統一をほぼ成し遂げた島津氏が、次なる目標として大隅、そして日向へと勢力を拡大しようとしていた時期にあたる。そのため、大隅国内では、伊地知氏の他にも肝付氏や禰寝氏といった有力な国人領主たちが割拠し、島津氏の侵攻に対して時には連携し、時には個別に対応するという、複雑な合従連衡を繰り返していた 7 。伊地知氏の所領が錦江湾に面した大隅半島の沿岸部に位置していたことは、海上交通の要衝を押さえるという地政学的な利点をもたらした可能性がある。実際に、後述する島津氏との攻防においては、伊地知氏を含む反島津連合軍が水軍を動員して島津方の拠点を攻撃しようとした記録も残っており 7 、伊地知氏が一定の海上勢力を有していたことが窺える。また、福寿寺のような菩提寺の存在は、伊地知氏による地域支配が単なる軍事力に依存するだけでなく、仏教信仰を通じた宗教的権威によっても支えられていたことを示唆している。
第二章:島津氏への反旗と周辺勢力との連携
島津貴久・義久親子による薩摩・大隅統一の動きが本格化すると、大隅国の国人領主たちはその圧迫を強く感じるようになった。伊地知重興も例外ではなく、永禄年間(1558年~1570年)に入ると、それまでの島津氏への従属的な立場から一転し、同じく大隅の有力国人であった肝付兼続や禰寝重長らと強固な同盟関係を結び、島津氏に対して公然と反旗を翻した 5 。この反島津連合は、さらに日向国で島津氏と激しく対立していた伊東義祐とも連携しており 7 、島津氏にとっては三州統一の過程における大きな障害となった。
この連合軍による具体的な軍事行動として特筆すべきは、元亀2年(1571年)11月に起きた桜島(当時の呼称は向島)への攻撃未遂事件である。伊東・肝付・禰寝・伊地知の四氏連合軍は、兵船三百艘という大規模な水軍を編成し、島津方の重要拠点であった向島を襲撃しようと試みた。しかし、これを事前に察知した島津家久(貴久の四男、後の島津氏十七代当主)が迎撃の構えを見せたため、連合軍は一度鹿児島への攻撃に転じ、その後再度向島を攻撃したが、家久勢によって撃退されたと記録されている 7 。この出来事は、反島津連合が一定の海上戦力を有し、島津氏の本拠地近くまで迫る能力を持っていたことを示している。
しかし、島津氏の反撃もまた熾烈であった。翌元亀3年(1572年)9月、島津義久の弟である島津歳久を大将とする軍勢が、伊地知重興の領地である下大隅に侵攻し、戦略的要衝であった早崎城(現在の垂水市牛根麓)を攻め落とした 7 。これにより、伊地知氏は自領の奥深くまで島津軍の侵入を許すことになり、軍事的に苦しい立場に追い込まれていった。
伊地知・肝付・禰寝の三国人連合は、日向の伊東氏という外部勢力とも結びつくことで、島津氏に対する広域的な包囲網を形成しようとした。これは、戦国時代において弱小勢力が強大な敵に対抗するための常套手段であった。しかし、このような国人領主間の連合は、各々の利害が複雑に絡み合い、また強力な盟主が存在しない場合、内部からの瓦解の危険性を常にはらんでいた。島津氏は、軍事的な圧力と並行して、巧みな外交戦略によってこの連合の切り崩しを図ったと考えられ、それが後の禰寝氏の単独講和へと繋がっていく。重興の抵抗は、大隅国人としての独立を維持するための必死の試みであったが、時代の大きな流れは島津氏による統一へと向かっていたのである。
第三章:島津氏への降伏とその後の処遇
伊地知重興を中心とする反島津連合の結束は、島津氏の巧みな戦略と軍事力の前に次第に揺らいでいった。決定的な転機となったのは、天正元年(1573年)、長年の盟友であった禰寝氏当主・禰寝重長が島津義久に単独で降伏したことであった 5 。これにより、反島津連合の一角が崩れ、伊地知重興の立場は著しく悪化した。
重興は翌天正2年(1574年)3月、なおも抵抗を続ける肝付氏と共に、裏切った禰寝氏を攻撃したが、戦況を好転させるには至らなかった。さらに、肝付氏の家臣であった安楽兼寛が守る牛根城が島津方に降伏し開城したことで、伊地知・肝付連合は戦略的な拠点を失い、軍事的な利を完全に失った 5 。万策尽きた伊地知重興は、ついに島津氏に降伏することを決断する。その条件は厳しく、全ての所領を島津氏に差し出し、自身は剃髪するというものであった 5 。これは、武将としての完全な敗北と島津氏への絶対的な服従を意味するものであった。
しかし、島津氏は伊地知氏を完全に滅亡させることはせず、降伏後、旧領のうち下之城のみを重興に返還したとされている 5 。これは、島津氏が旧敵対勢力に対して、一定の配慮をもって取り込むという方針を持っていたことを示唆する。完全に勢力を削ぎながらも、一部領地の安堵によって面目を保たせ、家臣団への組み込みを円滑に進めようとしたのかもしれない。降伏後、伊地知重興は島津氏の家臣となり、周防守(すおうのかみ)に任じられた 3 。これは、彼が島津家臣団の中で一定の地位と役割を与えられたことを意味する。
一方で、薩摩藩の公式な記録である『本藩人物誌』には、「国賊伝」という項目があり、そこに「伊地知上総介重興」として彼の名が記載されている 11 。これは、島津氏の視点から見て、かつて島津氏に敵対した人物を「国賊」として記録し、その行為を後世への教訓とする意図があったと考えられる。島津氏による三州統一という事業の正当性を強調し、それに抵抗した者を否定的に位置づけることで、藩体制のイデオロギー的基盤を強化する目的もあったのだろう。降伏後に島津氏のために働き、一定の評価を得ていたとしても、過去の敵対行為が公式記録から抹消されることはなかった。この事実は、戦国武将に対する評価の多面性と、勝者によって記される歴史の一側面を示している。
第三部:島津家臣としての伊地知重興
第一章:島津氏の九州統一戦への参加
島津氏に降伏した伊地知重興は、その後、島津家の家臣として活動の場を与えられた。具体的な記録は断片的ではあるものの、日向国における旧敵伊東氏の拠点であった高原城攻めや、豊後国の大友氏との戦いなど、島津氏が九州統一を目指して繰り広げた主要な軍事行動に参加し、武功を挙げたとされている 3 。しかしながら、これらの戦役における重興個人の具体的な役割や詳細な戦功については、現存する史料からは明確に読み取ることは難しい 3 。
島津氏の重要な戦いの一つである天正6年(1578年)の耳川の戦い(高城川の戦いとも呼ばれる)においては、伊地知一族の武将たちが島津軍の一翼を担って参戦していたことが確認できる。史料によれば、「伊地知丹後守」なる人物が伏兵部隊を率いて戦功を挙げ 12 、また「伊地知伯耆守」は島津義久への作戦伝達という重要な役割を担ったと記されている 13 。この伊地知伯耆守は、名を伊地知重秀(勘解由左衛門尉)といい、下大隅を領した伊地知氏の庶流の出身で、その祖父である久純は伊地知本宗家の家老を務めた人物であったとされる 14 。
伊地知重興自身がこれらの戦いで具体的にどのような指揮を執り、いかなる働きをしたのかについての直接的な記録は乏しい。しかし、伊地知氏の当主として、また島津氏に降ったとはいえ大隅の有力国人であった立場から、一族の兵を率いてこれらの重要な戦役に参陣していた可能性は極めて高いと考えられる。
島津氏が、かつて自らに激しく抵抗した伊地知重興やその一族を、降伏後に自軍に組み込み、九州統一という目標達成のための重要な戦役に動員したという事実は、島津氏の現実的かつ合理的な人材活用策の一端を示している。また、これは島津軍団が、譜代の家臣だけでなく、降伏した国人衆を積極的に取り込むことによってその規模と多様性を増していったという構成的特徴を反映していると言えるだろう。重興や伊地知一族にとって、これらの戦いでの活躍は、島津氏への忠誠を具体的に示す機会であると同時に、厳しい戦国乱世において一族の存続を確保し、島津家臣団内での家格を維持向上させるための重要な意味を持っていたと推察される。
第二章:伊地知重興の統治と信仰
伊地知重興が、島津氏に降伏した後、あるいはそれ以前の独立領主時代に、自らの領地である下大隅垂水においてどのような統治を行ったのか、その具体的な内容を示す史料は乏しい。しかし、長年にわたり垂水を中心とする地域を治めた領主として、地域の安定と発展に一定の役割を果たしたことは想像に難くない。
その数少ない痕跡の一つとして、宗教施設への関与が挙げられる。現在の鹿児島県垂水市新城に鎮座する神貫神社(かみぬきじんじゃ、旧称:神木大明神)には、永禄6年(1563年)に伊地知重興が関与して社殿が造立されたことを示す棟札が現存している 15 。これは、重興が領内の神社仏閣の維持管理に意を払い、領主としての宗教的権威を行使するとともに、それを通じて民心を掌握しようとしていたことを示唆するものである。戦国時代の領主にとって、地域の信仰の中心となる寺社の保護や建立は、自らの支配の正当性を高め、領民との精神的な結びつきを強化するための重要な手段であった。
一方で、伊地知重興の人物像の複雑な一面を伝える逸話も残されている。彼が豊後国(現在の大分県)から招いた側室が、家中の者と密通した。これに激怒した重興は、その側室を多数の蛇と共に櫃(ひつ)の中に入れ、垂水の池に沈めて殺害したというのである。しかし、その後、この女性の祟りと思われる不幸が相次いだため、重興は彼女を「赤明神(あかみょうじん)」として祀り、伊地知氏の氏神としたと伝えられている 3 。
この赤明神の逸話は、戦国武将の苛烈な一面と、当時の人々が抱いていた祟りや怨霊に対する強い畏怖の念を如実に示している。密通という家中の秩序を乱す行為に対する厳罰は、戦国時代の家父長制の厳しさや、武家の面子を保つための非情な決断として理解できる側面もある。しかし、その凄惨な死を遂げた女性が、祟りを経て神として祀られるという展開は、領主の個人的な出来事や情念が、地域の土着信仰と結びつき、新たな信仰対象を生み出すという興味深いプロセスを物語っている。この逸話は、単なるゴシップとして片付けられるべきものではなく、当時の人々の精神性や、領主の権威と恐怖、そしてそれらを超越しようとする信仰の力が複雑に絡み合った地域社会の様相を垣間見せる、文化史的にも価値のある伝承と言えるだろう。神貫神社への公的な関与と、赤明神という私的かつ土俗的な信仰の形成は、伊地知重興という人物の多面性と、彼が生きた時代の信仰世界の豊かさを示している。
第四部:伊地知重興の人物像と家族
第一章:伊地知重興の基本情報と評価
伊地知重興の生涯を概観するための基本的な情報を以下に記す。
生年は享禄元年8月20日(グレゴリオ暦1528年9月3日)、没年は天正8年2月13日(グレゴリオ暦1580年2月27日)である 3。これにより、享年は53歳(満51歳)であったことがわかる。彼の戒名は「千山守法庵主(せんざんしゅほうあんじゅ)」と伝えられている 3。官位としては、上総介(かずさのすけ)、そして島津氏に降伏後に周防守(すおうのかみ)に任じられた記録が残る 3。
伊地知重興に対する評価は、彼が置かれた立場や、評価する側の視点によって大きく左右される。薩摩藩の公式記録である『本藩人物誌』において、彼の名が「国賊伝」に記されているという事実は 11 、島津氏の統一事業にとって、彼の抵抗が重大な脅威として認識されていたことを明確に示している。島津氏の正統性や統一事業の意義を強調する立場からは、重興は克服されるべき敵対勢力の頭目であった。
しかし、大隅国の一国人領主として、自領の独立と一族の繁栄を目指す立場からすれば、強大な島津氏の勢力拡大に対して抵抗し、周辺勢力と連携して自立を維持しようとした彼の行動は、戦国武将として当然の選択であったとも言える。そして、降伏後は島津氏の家臣として、日向や豊後での戦いに従軍し、武功を挙げたとされることから 3 、彼が武将としての能力を保持し、新たな主君の下でその能力を発揮しようとした適応力も見て取れる。
これらの異なる側面を総合的に捉えることで、伊地知重興という戦国武将の複雑な実像に近づくことができる。彼の死因に関する具体的な記述は乏しいが、天正8年(1580年)という時期は、島津氏が織田信長との交渉を開始し 17 、九州統一の最終段階へと大きく舵を切ろうとしていた重要な時期にあたる。このような状況下での重興の死が、島津氏の戦略、特に大隅衆の再編や軍事動員体制に何らかの影響を与えた可能性も否定できない。
第二章:家族構成と後継者
伊地知重興の家族構成とその後継者に関する情報は、彼の生涯や伊地知氏の動向を理解する上で重要である。
重興の父は、伊地知氏八代当主の伊地知重武である 3。
妻は、禰寝氏の当主であった禰寝重就(ねじめ しげなり/しげたか、重長の別名か)の娘を迎えている 3。この婚姻は、当時伊地知氏が禰寝氏や肝付氏と結んで島津氏に対抗していた政治的背景を考えると、同盟関係を強化するための政略結婚であった可能性が極めて高い。
重興の嫡男は、伊地知重政(しげまさ)である 3 。『本藩人物誌』などの記録によれば、重政は「片輪(かたわ)」、すなわち何らかの身体的な障害を抱えていたため、早くから入道(仏門に入ること)していたとされ、また和歌を嗜む教養人であったと伝えられている 18 。このような状況にもかかわらず、重政は伊地知氏の第十代当主として家督を継承した 18 。戦国時代において、武家の当主、特に軍事指揮官としての役割を期待される立場にある者が身体的なハンディキャップを負うことは、一族の将来にとって大きな懸念材料となり得た。重政が武人としての活動よりも文化的な側面で知られていたことは、父・重興が島津氏への降伏を決断する際の一つの要因、あるいは降伏後の伊地知氏が島津家中で取り得る戦略の幅に影響を与えた可能性も考えられる。
その重政の妻は、肝付氏の有力者であった肝付良兼(きもつき よしかね)の娘であった 18 。これもまた、伊地知・禰寝・肝付という大隅三国人の間の同盟関係を、婚姻を通じて多重的に強化しようとした戦略の一環と見ることができる。
重政の子、すなわち重興の孫にあたるのが伊地知重順(しげのぶ)である 18 。重順は後に日向国倉岡(現在の宮崎県宮崎市糸原)の地頭を務めたとされ、父・重政はその地にある竜泉寺に葬られたという 18 。これは、島津氏の支配体制下においても、伊地知氏が一定の所領と地位を保持し続けていたことを示している。
伊地知氏の家系は、戦国時代の激動を乗り越え、江戸時代には薩摩藩士として存続した。さらに時代が下り、明治維新後には、伊地知氏の庶流から伊地知正治(軍功により伯爵)や伊地知幸介(陸軍中将、軍功により男爵)といった人物が現れ、華族に列せられる家も出ている 19 。これは、重興の代における困難な決断と、その後の歴代当主による巧みな処世術が、結果として家の存続と発展に繋がったことを示していると言えるだろう。
結論:伊地知重興の歴史的意義と残された課題
伊地知重興は、戦国時代という未曾有の変革期において、南九州の大隅国に生き、その地で勢力を保持しようとした一人の国人領主であった。彼の生涯は、強大な戦国大名である島津氏による南九州統一という、大きな歴史的潮流の中で展開された。自立を目指して時には激しく抵抗し、周辺勢力と合従連衡を繰り返しながらも、最終的には島津氏の体制に組み込まれていくという彼の道程は、戦国期における多くの地方領主が経験した典型的な姿を体現していると言える。
伊地知重興の動向を詳細に追うことは、島津氏の領土拡大戦略や、服属させた国人衆に対する統制策、そして何よりも戦国期における主従関係の流動性や複雑性を具体的に理解する上で、貴重な事例を提供する。彼が島津氏の公式記録である『本藩人物誌』において「国賊伝」に名を連ねる一方で 11 、降伏後は島津家臣として戦功を挙げたとされるという二面性は 3 、歴史上の人物評価が一筋縄ではいかない複雑さを如実に示している。
鹿児島県垂水市に残る福寿寺跡の石塔群や神貫神社の棟札、そして赤明神の伝承などは、彼がその地域社会に与えた影響の確かな痕跡である。そして、伊地知氏の家系が江戸時代を通じて薩摩藩士として存続し、近代には華族に列する家まで出したことは 19 、戦国時代の激動を乗り越え、家名を後世に伝えた結果と言えるだろう。
しかしながら、伊地知重興に関する研究には、未だ解明すべき課題も多く残されている。島津氏家臣としての具体的な戦功の詳細や、彼が行った領地経営の実態については、史料的な制約から不明な点が多い。また、嫡男・重政が抱えていたとされる身体的な障害が、伊地知氏の戦略や島津氏との関係にどの程度の影響を与えたのか、その具体的な度合いについても、より深い考察が求められる。これらの点を明らかにするためには、今後のさらなる史料調査、特に一次史料である古文書等の発掘と丹念な分析が不可欠である。伊地知重興という一人の武将を通じて、戦国時代の南九州社会のダイナミズムをより深く理解するための研究は、今後も続けられるべきである。
付録
表1:伊地知重興 関連年表
年代(和暦) |
年代(西暦) |
主要な出来事 |
典拠 |
享禄元年(1528年) |
1528年 |
8月20日、伊地知重興、生まれる(幼名:虎太郎丸、通称:又九郎)。 |
3 |
弘治2年(1556年) |
1556年 |
4月、蒲生氏討伐に参加。当初は島津貴久に従う。 |
5 |
永禄年間 |
1558年~1570年 |
肝付兼続、禰寝重長と同盟を結び、島津氏に反旗を翻す。 |
5 |
永禄6年(1563年) |
1563年 |
神貫神社(垂水市新城)の社殿建立に関与(棟札現存)。 |
15 |
元亀2年(1571年) |
1571年 |
11月20日、伊東・肝付・禰寝・伊地知連合軍、桜島(向島)を攻撃するも島津家久に撃退される。 |
7 |
元亀3年(1572年) |
1572年 |
9月、島津歳久に攻められ、伊地知領の下大隅・早崎城が陥落。 |
7 |
天正元年(1573年) |
1573年 |
同盟者であった禰寝重長が島津義久に降伏。 |
5 |
天正2年(1574年) |
1574年 |
3月、肝付氏と共に禰寝氏を攻撃するが失敗。牛根城開城後、全領地を差し出し剃髪して島津氏に降伏。下之城のみ返還される。 |
5 |
降伏後 |
1574年以降 |
島津氏家臣となり周防守に任じられる。日向国伊東氏の高原城攻めや大友氏攻めなどで活躍。 |
3 |
天正8年(1580年) |
1580年 |
2月13日、死去。享年53(満51歳)。戒名:千山守法庵主。 |
3 |
表2:伊地知氏略系図(重興周辺)
Mermaidによる家系図
表3:伊地知重興関連人物一覧
人物名 |
関係性・役職 |
主要な事績・備考 |
典拠 |
伊地知重武 |
重興の父、伊地知氏8代当主 |
島津勝久の家老を務めた。下大隅全域を領し伊地知氏の勢力を拡大。 |
1 |
伊地知重興 |
本報告書の主題人物、伊地知氏9代当主 |
島津氏に抵抗後降伏、家臣となる。上総介、周防守。 |
3 |
伊地知重政 |
重興の嫡男、伊地知氏10代当主 |
「片輪」で早世、和歌を好む。妻は肝付良兼娘。 |
18 |
伊地知重順 |
重政の子、重興の孫 |
日向国倉岡の地頭を務める。 |
18 |
伊地知重秀 (伯耆守) |
伊地知氏庶流、本宗家家老の孫 |
耳川の戦い(高城川の戦い)で島津義久への作戦伝達役。 |
13 |
伊地知丹後守 |
伊地知氏一族か家臣 |
耳川の戦い(高城川の戦い)で伏兵部隊を率いる。 |
12 |
島津貴久 |
島津氏15代当主 |
伊地知重興が当初従属。薩摩・大隅統一を進める。 |
5 |
島津義久 |
島津氏16代当主、貴久の長男 |
伊地知重興が反抗し、後に降伏。三州統一を推進。 |
5 |
島津歳久 |
貴久の三男 |
伊地知領の下大隅に侵攻し早崎城を奪取。 |
7 |
島津家久 |
貴久の四男 |
向島で伊地知氏ら連合軍の攻撃を迎撃。 |
7 |
肝付兼続 |
大隅国の有力国人、肝付氏当主 |
伊地知重興らと島津氏に対抗。 |
5 |
禰寝重長 |
大隅国の有力国人、禰寝氏当主 |
伊地知重興らと島津氏に対抗するが、後に単独で島津氏に降伏。重興の妻の父(または近親)。 |
5 |
伊東義祐 |
日向国の戦国大名 |
伊地知氏ら大隅国人衆と結び島津氏に対抗。 |
7 |