最終更新日 2025-06-08

伊東マンショ

「伊東マンショ」の画像

伊東マンショ:戦国期日本とヨーロッパを結んだ使節の生涯と遺産

1. はじめに

伊東マンショの歴史的重要性

伊東マンショ(いとう まんしょ、1569年頃 - 1612年)は、日本の戦国時代から安土桃山時代、そして江戸時代初期にかけて活躍したキリシタンの武士であり、司祭である。彼は、日本史上初めてヨーロッパへ公式に派遣された天正遣欧少年使節の主席正使として、ローマ教皇に謁見するという歴史的壮挙を成し遂げた。その生涯は、日本とヨーロッパ間の初期交流を象徴するものであり、帰国後は禁教という厳しい時代の中で信仰に生きた人物として、日本のキリシタン史および国際関係史において特筆すべき存在である。

本報告書の目的と構成

本報告書は、伊東マンショの生涯を、その出自からヨーロッパでの経験、帰国後の活動、そして最期に至るまで多角的に検証し、彼が日本史および日欧交渉史に残した足跡とその歴史的意義を明らかにすることを目的とする。報告書の構成は、以下の通りである。まず、伊東マンショの出自と初期の人生を概観し、次に天正遣欧少年使節としての選出と派遣の経緯、ヨーロッパへの旅路とローマでの謁見、帰国後の活動と最期について詳述する。最後に、彼が残した遺産と歴史的評価について考察を加える。

表1:伊東マンショ関連年表

伊東マンショの生涯と彼が生きた時代の主要な出来事を以下にまとめる。

年代

伊東マンショの動向

国内外の主要な出来事

典拠例

永禄12年(1569年)頃

日向国都於郡にて誕生(本名:伊東祐益)

1

天正5年(1577年)

伊東氏、島津氏に敗れ豊後に逃れる。マンショ(8歳)も同行。

2

天正8年(1580年)

有馬のセミナリヨに入学(11歳)

2

天正10年(1582年)

天正遣欧少年使節の主席正使として長崎を出港(13歳)

本能寺の変

2

天正12年(1584年)

ポルトガル・リスボン到着。スペイン国王フェリペ2世に謁見。

2

天正13年(1585年)

ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を得る。

グレゴリウス13世死去、シクストゥス5世が新教皇に選出

2

天正15年(1587年)

バテレン追放令発令

6

天正18年(1590年)

長崎に帰着(21歳)

2

天正19年(1591年)

聚楽第にて豊臣秀吉に謁見。仕官を固辞。

1

慶長5年(1600年)

関ヶ原の戦い

慶長6年(1601年)

マカオに留学。

2

慶長8年(1603年)

江戸幕府開府

慶長13年(1608年)

長崎にて司祭に叙階される。

7

慶長16年(1611年)

故郷の日向・飫肥などで布教活動。

2

慶長17年(1612年)

11月13日、長崎のコレジオにて病没(享年43歳)。

幕府による禁教令(慶長の禁教令)が全国へ拡大する前夜

1

この年表は、マンショの個人的な出来事と、彼が生きた激動の時代背景とを関連付けて理解する一助となるであろう。彼の生涯は、日本の大きな変革期と、ヨーロッパにおける大航海時代や宗教改革といった世界史的な動きが交錯する中で展開されたことがわかる。

2. 伊東マンショの出自と初期の人生

生誕と家系

伊東マンショは、永禄12年(1569年)頃、日向国都於郡城(現在の宮崎県西都市)において、伊東氏の家臣であった伊東祐青(いとう すけはる)を父とし、日向の国主であった伊東義祐(いとう よしすけ)の娘(通称「町の上」)を母として生まれたと伝えられている 3 。日向伊東氏は、その祖を伊豆国伊東荘に発する名門武家であり、マンショの本名は伊東祐益(いとう すけます)であった 1 。幼名は虎千代麿であった可能性も研究者によって指摘されている 12

マンショの母方の祖父が国主・伊東義祐であるという事実は、彼が単なる一武将の子ではなく、日向伊東氏の血統において高い地位にあったことを示唆している 3 。実際に、マンショの母・町上の墓が旧飫肥藩主伊東家の墓地内に現存することや、マンショ自身が「藩主と同格」と見なされていた可能性を示す史料の分析もあり 13 、その出自の高さが、後に天正遣欧少年使節の主席正使という大役を担う上で重要な要素となったと考えられる。

幼少期とキリスト教への接触

天正5年(1577年)、マンショが8歳の時、日向伊東氏は宿敵である島津氏の攻撃を受け、本拠地を追われることとなる。マンショは一族と共に、豊後国(現在の大分県)の有力大名であり、キリシタン大名としても知られる大友宗麟を頼って落ち延びた(伊東氏の豊後落ち) 2 。この困難な逃避行の経験は、マンショの忍耐強い人格形成に少なからず影響を与えたと推察されている 14

豊後の地において、マンショはキリスト教と出会う。彼の母や兄・伊東義賢(バルトロマイ)ら一族と共に洗礼を受けたとされる 15 。そして天正8年(1580年)、11歳になったマンショは、有馬(現在の長崎県南島原市)に設立されたイエズス会の初等教育機関であるセミナリヨに入学し、本格的なキリスト教教育を受けることとなった 2

有馬のセミナリヨでは、ラテン語、神学の初歩、音楽(西洋音楽)、日本文学などが教えられていた 16 。当時のイエズス会の教育方針として、初期には日本語とラテン語の並行学習が行われていたが、後に年少の入学者にはまずラテン語を数年間徹底的に学ばせ、その後に日本語学習を許すというカリキュラム改訂がなされた記録も残っている 17 。さらに、中世ヨーロッパの大学における基礎教養科目であった自由七科のうち、文法、論理学、修辞学の三学(トリウィウム)や、算数、音楽、幾何学、天文学の四科(クワドリウィウム)に関連する学問も教授内容に含まれていた 18 。このような体系的な西洋式教育は、マンショの世界観や知識基盤の形成に大きな影響を与えたであろう。

洗礼名「マンショ」の由来に関する考察

伊東祐益が受洗した際の洗礼名は「マンショ(Mancio)」であった 1 。この「マンショ」という名の由来については、いくつかの説が考えられる。

まず、ポルトガル語やイタリア語において、「Mancio」という言葉が「預言者」や「(未来を)予見する者」、「手先が器用な者」といった意味合いを持つことが指摘されている 19 。これらの意味が、彼の将来の役割や能力を期待して名付けられた可能性も考えられる。

また、より直接的な由来として、当時のヨーロッパ、特にイベリア半島で崇敬されていた聖人の名にちなんだ可能性も高い。例えば、ポルトガルのエヴォラには聖マンティウス(São Manços / Saint Mantius)という聖人がおり、彼は1世紀のリスボンおよびエヴォラの伝説的な初代司教とされている 21 。当時の日本におけるイエズス会宣教師の多くがポルトガル人であったことを考慮すると、彼らにとって馴染み深いこの聖人の名がマンショの洗礼名として選ばれたことは十分に考えられる。使節団がローマ教皇のみならず、ポルトガル国王やスペイン国王(当時は同君連合)への派遣を目的としていたことを踏まえれば、ポルトガルと縁の深い聖人名が選ばれることには一定の妥当性がある。

日本国内の伝承としては、マンショの従兄弟とされる伊東義賢が、キリシタン弾圧を逃れて筑前国山家宿(現在の福岡県筑紫野市)に定住した際、姓を「伊東」から自身の洗礼名Mancioの音訳である「満生(まんしょう)」に改めたという話が伝わっている 23 。これは「マンショ」という音が日本でどのように受容され、漢字表記されたかを示す興味深い事例であるが、洗礼名そのものの直接的な由来とは区別して考える必要がある。

ヴァリニャーノやメスキータ神父の記録によれば、マンショは日向の大名の孫、すなわち伊東義祐の娘と武士(伊東祐青)の息子であると認識されていた 12 。この確かな出自が、豊後の大友宗麟の名代として使節に選ばれる上で、極めて重要な要素であったと推測されている 12 。当時の宣教師たちが改宗者に洗礼名を授ける際には、ヨーロッパの聖人名やキリスト教的含意を持つ名を選ぶのが一般的であり、これは既存の日本的・仏教的アイデンティティからの転換と、普遍的キリスト教共同体への帰属意識を促す意図があった。その中で「マンショ」という名は、発音のしやすさや、聖人信仰との関連、そしてあるいはその名が持つ意味の象徴性などが総合的に考慮され、選ばれたものと考えられる。これは、単に個人の信仰を示すだけでなく、国際的な使節団の一員としてのアイデンティティを形成する上でも重要な意味を持っていた。

3. 天正遣欧少年使節:選出と派遣

派遣の背景とアレッサンドロ・ヴァリニャーノの構想

天正遣欧少年使節の派遣は、イエズス会の東インド巡察師であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父によって発案された一大事業であった 24 。ヴァリニャーノがこの使節派遣に込めた目的は、彼自身の手紙の中で明確に述べられている。第一に、ローマ教皇およびスペイン・ポルトガル両国王に対し、日本における宣教活動への経済的・精神的援助を要請すること。第二に、日本の少年たちにヨーロッパのキリスト教世界の栄光と偉大さを直接見聞・体験させ、帰国後に彼ら自身の言葉でその素晴らしさを語らせることによって、日本国内での布教活動をより効果的に進めることであった 24

ヴァリニャーノは、日本の文化や習慣を尊重し、それらに適応しながら布教を進めるという「適応主義」と呼ばれる方針を強力に推進した人物である 27 。この方針は、日本人や日本文化に対して否定的な見解を持っていた前任の日本地区責任者フランシスコ・カブラル神父とは対照的であり、ヴァリニャーノはカブラルを解任した経緯もある 29 。少年使節の派遣は、このようなヴァリニャーノの日本布教戦略の一環として、日本とヨーロッパの相互理解を深め、日本におけるキリスト教の地位向上を目指すという、長期的かつ戦略的な視点に基づいていた。少年たちを「生きた証人」としてヨーロッパに送り込み、その体験を日本に持ち帰らせることで、文化的な架け橋を築こうとしたのである。ヴァリニャーノが日本の習慣に適応し、宣教師たちに日本語習得の重要性を説いたこと 31 も、この文脈で理解することができる。

派遣元のキリシタン大名

この画期的な使節団の派遣に協力した主要なキリシタン大名は以下の3名である。

  • 大友義鎮(宗麟) : 豊後国(現在の大分県)の戦国大名。伊東マンショを自らの名代として派遣した 24 。マンショは大友宗麟の縁者(大甥、すなわち姉妹の孫)であったとされている 11
  • 大村純忠 : 肥前国(現在の長崎県)の大名で、日本最初のキリシタン大名として知られる。千々石ミゲルを名代として派遣した 24 。ミゲルは大村純忠の甥であり、有馬晴信の従兄弟でもあった 11
  • 有馬晴信 : 肥前国島原半島を領した大名。中浦ジュリアンと原マルティノを選出し、派遣した 24 。彼らは有馬晴信が日野江城下に設立したセミナリヨで学んでいた生徒の中から選ばれた 24

これらのキリシタン大名たちは、それぞれが領内での布教活動の保護や南蛮貿易を通じてイエズス会と密接な関係を築いていた 11 。使節派遣は、彼らにとっても、ヨーロッパの強大なカトリック国家やローマ教皇との公式な結びつきを内外に示すことで、自らの政治的・宗教的権威を高め、また、ポルトガルからの武器や文物の入手といった実利的な期待も含まれていたと考えられる。

主席正使としての伊東マンショの選出

伊東マンショは、派遣当時わずか13歳であったが、この使節団の主席正使という重責を担うことになった 1 。彼が主席正使に選ばれた主な理由としては、派遣元の一人である大友宗麟の名代として最も相応しい出自と人格を備えているとヴァリニャーノらによって判断されたためと推測される 12 。前述の通り、マンショの母は日向伊東氏の国主・伊東義祐の娘であり、マンショ自身も伊東氏の嫡流に近い血筋と見なされ、藩主と同格の待遇を受けていた可能性が示唆されている 13 。このような高貴な出自と、九州の有力大名である大友宗麟との縁戚関係が、国際的な使節団の代表者としての「格」を重視する上で決定的な役割を果たしたことは想像に難くない。

使節団の他のメンバー

伊東マンショと共にヨーロッパへ渡った少年使節は以下の3名である。彼らはいずれも九州の武士階級の子弟であり、有馬のセミナリヨで教育を受けていた。

表2:天正遣欧少年使節メンバー

氏名(洗礼名)

日本名(推定含む)

出身地・関連大名

派遣時の年齢 (推定)

役割

帰国後の主な活動・最期

典拠例

伊東マンショ

祐益(すけます)

日向(大友宗麟の名代)

13歳

主席正使

司祭叙階後、国内で布教活動。1612年、長崎で病没。

1

千々石ミゲル

紀員(のりかず)

肥前(大村純忠の名代)

14歳

正使

帰国後イエズス会を脱会。長年棄教したとされてきたが、近年の墓所調査により晩年までキリスト教信仰を保持していた可能性が指摘されている。1633年頃没か。

11

原マルティノ

不明

肥前(有馬晴信の縁者)

13歳

副使

司祭叙階後、国内で活動。1614年の禁教令によりマカオへ追放。1629年、マカオで病没。

8

中浦ジュリアン

小佐々甚吾(こさざ じんご)

肥前(有馬晴信の縁者)

12歳

副使

司祭叙階後、禁教下の日本で潜伏し20年以上布教活動を継続。1632年捕縛、1633年長崎で穴吊りの刑により殉教。2008年、福者に列せられる。

8

使節団には、少年たちの教育係兼通訳として、ポルトガル人イエズス会士のディオゴ・デ・メスキータ神父が同行した 11

この人選には、ヴァリニャーノの周到な戦略がうかがえる。単に信仰心の篤い少年を選んだのではなく、日本の有力キリシタン大名の名代としての「格」を重視し、マンショやミゲルのような大名の近親者を選ぶことで、使節団の権威を高め、ヨーロッパの王侯貴族やローマ教皇に対して強い印象を与えることを意図したのである。また、全員がセミナリヨ出身者であることは、彼らが一定水準のキリスト教教義、ラテン語、西洋音楽などの素養を身につけていたことを意味し、これはヨーロッパでの交流において、彼らが単なる「珍しい異教徒」ではなく、洗練された文化を持つキリスト教世界の新たな一員として認識されるために不可欠な要素であった。派遣当時12歳から14歳という若さは、ヨーロッパ側に純粋さや将来への期待感を抱かせると同時に、長期間の教育と感化を施しやすいという計算もあったかもしれない。さらに、ヴァリニャーノは日本人自身による布教の重要性を認識しており 29 、使節に選ばれた少年たちは、将来の日本教会の指導者候補としての期待もかけられていた。ヨーロッパでの経験は、彼らの指導者としての資質を高めるための壮大な研修旅行という側面も持っていたと言えよう。

4. ヨーロッパへの旅路とローマでの謁見

長崎出発からヨーロッパ各地への航海

天正10年(1582年)2月20日、伊東マンショを主席とする天正遣欧少年使節の一行は、長崎港からヨーロッパへ向けて出発した 2 。彼らの旅は、まずマカオに寄港し、その後マラッカ、インドのコーチ、ゴアといったポルトガルのアジアにおける拠点都市を経由するものであった 2 。ゴアで発案者であるヴァリニャーノ神父と別れ、以降はヌーノ・ロドリゲス神父が一行の引率責任者となった 26

アフリカ大陸南端の喜望峰を通過するという、当時の日本人にとっては想像も絶する長大な航海を経て、一行は天正12年(1584年)8月11日、ついにヨーロッパ大陸のポルトガル王国首都リスボンに到着した 2 。出発から実に2年半以上の歳月が経過していた。この長い船旅は、風向きや天候に左右される帆船によるものであり、赤道直下の酷暑や、食料・水の不足、病気の蔓延など、過酷な状況の連続であったことが想像される 37 。実際に、後にスペインのバルセロナで中浦ジュリアンが病に倒れたという記録も残っている 4 。この長く困難な旅の経験は、まだ少年であった彼らの心身の成長、そして世界観の形成に計り知れない影響を与えたであろう。

スペイン国王フェリペ2世との謁見

リスボンに到着後、使節団は陸路で隣国スペインへ向かった。当時のスペインはポルトガルと同君連合(ハプスブルク朝)下にあり、フェリペ2世が両国の王を兼ねていた。一行はマドリードにおいて、天正12年(1584年)11月14日、スペイン国王フェリペ2世に謁見する栄誉を得た 2

この謁見の際、フェリペ2世は少年使節に対して異例とも言える温かい歓迎を示した。主席正使の伊東マンショがヨーロッパの作法に従い、国王の手に接吻しようとしたところ、フェリペ2世はそれを押しとどめ、マンショを立たせて親しく抱擁したと伝えられている 4 。この歓待の背景には、ポルトガルの摂政であったアルベルト枢機卿やイエズス会からの紹介状、そして道中で一行を歓迎した貴族たちの好意的な評判も影響していたとされる 38

フェリペ2世は、少年たちが帰国後に日本でスペイン国王の強大さとその富について語り伝えることを期待し、当時完成したばかりのエル・エスコリアル宮殿や、マドリード王宮付属の武器庫などを見学させた 4 。16世紀後半のスペインは、「太陽の沈まぬ国」と称されるほどの広大な植民地を世界中に有する最強国の一つであり、国王フェリペ2世はカトリック教会の強力な守護者としての自負も強かった 39 。遠き東方の日本から来た少年使節への手厚いもてなしは、日本のキリスト教徒への支援をアピールすると同時に、スペインの国威を彼らに強く印象づけるという政治的な意図も含まれていたと考えられる。このフェリペ2世による「おもてなし」は、その後のイタリア訪問における処遇にも好影響を与えたことが示唆されている 4

ローマ教皇グレゴリウス13世およびシクストゥス5世との謁見

スペインでの歓待を受けた後、使節団は旅の最大の目的地であるローマを目指した。天正13年(1585年)3月22日、一行はついにカトリック教会の総本山ローマに到着し、翌23日、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見した 1

謁見の儀式は、ヴァチカン宮殿の「帝王の間(Sala Regia)」という荘厳な場所で、多くの枢機卿や各国大使が見守る中で行われた。伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルティノの3人の少年(中浦ジュリアンは道中の病のため、この公式謁見には参加できなかったとされる 41 )は教皇の前に進み出てひざまずいた。グレゴリウス13世は、遠い異国から訪れた少年たちの姿に深く感動し、涙を流しながら彼らを立たせ、一人ひとりを抱擁し接吻したと伝えられている 5 。病身の中浦ジュリアンに対しても、教皇は特別な配慮を示し、儀式の直前に単独での謁見を許し、名医を派遣するなど手厚く気遣ったという 5

この謁見において、伊東マンショはローマ市民権を与えられると共に、教皇騎士団の一つである金拍車騎士(黄金拍車騎士団員、Cavaliere di Speron d'oro)に叙されるという、破格の栄誉を受けた 2 。しかし、この歴史的な謁見からわずか18日後の4月10日、高齢であったグレゴリウス13世は崩御してしまう 5 。少年たちは大きな衝撃と悲しみに包まれたが、その後速やかにコンクラーヴェ(教皇選挙会議)が開かれ、4月24日にシクストゥス5世が新教皇に選出された。使節団は、この新しい教皇にも謁見することができ、日本への変わらぬ支援の約束を取り付けたとされる 26

ローマ教皇との謁見は、天正遣欧少年使節の派遣における最大の目的であり、カトリック世界の最高権威から日本のキリスト教徒の存在を公に認知させ、その後の布教活動への支援を確約させる上で極めて重要な意義を持っていた。特にグレゴリウス13世は、生涯を通じて神学校の設立など聖職者の育成に尽力した教皇であり、東方の未知の国から訪れた少年使節の来訪は、彼の晩年を飾る感動的な出来事として受け止められたのであろう 41

ヨーロッパ各地での歓迎と見聞、文化的衝撃

伊東マンショら天正遣欧少年使節は、ポルトガル、スペイン、イタリアの各地を巡る中で、行く先々で熱烈な歓迎を受けた。その様子は、聖書に登場する「東方の三博士(マギ)の再来」ともてはやされるほどであったという 31

ポルトガルでは、首都リスボンのほか、大学都市コインブラ、エヴォラ、そしてブラガンサ公爵家の居城があるヴィラ・ヴィソーザなどを訪問した。特にヴィラ・ヴィソーザでは、ブラガンサ公爵夫人ドナ・カタリーナから数日間にわたり手厚いもてなしを受け、少年たちが持参した日本の着物や、得意とした楽器演奏(リュート、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロなど)を通じて、現地の貴族たちと文化的な交流を深めた 11 。ドナ・カタリーナは少年たちを我が子のように可愛がり、彼らとの会話を楽しんだと記録されている 11

イタリアでは、ローマの他にフィレンツェ、シエナ、ヴェネツィア、マントヴァ、ヴェローナ、ミラノといったルネサンス文化華やかな都市を歴訪した 5 。商業共和国ヴェネツィアでは、元老院の依頼により、高名な画家ドメニコ・ティントレット(またはその工房)が伊東マンショの肖像画を描いたとされる。この作品は長らく行方不明であったが、2014年にミラノのトリヴルツィオ財団で奇跡的に再発見され、大きな話題を呼んだ 9

少年たちは、これらの旅を通じて、ヨーロッパの進んだ文化や技術(例えば、ムラーノ島でのガラス製造技術 9 、活版印刷術、多様な西洋楽器 9 )、壮麗な宮殿や大聖堂といった石造りの建築物、そしてルネサンス期の絵画や彫刻といった芸術作品 44 などを目の当たりにし、大きな文化的衝撃を受けた。彼らが初めて目にしたガラス窓に驚嘆したというエピソードも伝えられている 31 。使節の訪問に関する詳細な記録は、随行したメスキータ神父の報告や、当時のヨーロッパで出版された旅行記、年代記などに依拠する部分が多いが、特にローマ訪問時の記録は比較的詳細に残されている 46

天正遣欧少年使節がヨーロッパでこれほどまでに熱狂的に歓迎された背景には、いくつかの要因が考えられる。まず、16世紀後半のヨーロッパは、宗教改革に対抗するカトリック教会側の動き(対抗宗教改革)が活発であった時期であり、カトリックの教えが遠い東方の日本にまで及び、しかも現地の有力者の名代として少年使節がローマ教皇のもとを訪れたという事実は、カトリックの普遍性と布教の成功を象徴する出来事として、プロパガンダ的にも非常に価値が高かった 35 。また、大航海時代以降、ヨーロッパでは東洋に対する関心が高まっており(オリエンタリズム)、日本の少年使節の異国的な容姿、服装、礼儀作法は、人々の好奇心を強く刺激した。彼らは、セミナリヨでラテン語や西洋音楽、作法などを学んでおり、ヨーロッパの宮廷儀礼にもある程度対応できた。その知性や礼儀正しさが、ヨーロッパ側の好意的な評価を引き出す上で重要な役割を果たしたことは疑いない 11 。彼らは単に珍しい訪問者としてではなく、ヨーロッパ側の期待や思惑を映し出す鏡のような役割も果たしていたと言えるだろう。

5. 帰国後の伊東マンショ

日本への帰国と国内情勢の変化

ヨーロッパ各地で盛大な歓迎を受け、ローマ教皇への謁見という大任を果たした伊東マンショら天正遣欧少年使節は、天正14年(1586年)4月にリスボンを出港し、日本への帰途についた 2 。しかし、帰路もまた長く困難なものであり、一行が再び日本の地を踏んだのは、天正18年(1590年)7月21日、長崎においてであった 2 。出発から実に8年以上の歳月が経過しており、マンショは13歳の少年から21歳の青年に成長していた 2

しかし、彼らが日本を離れている間に、国内のキリスト教を取り巻く状況は大きく変化していた。天正15年(1587年)、豊臣秀吉によってバテレン追放令が発令され、宣教師の国外退去や布教活動の制限が命じられていたのである 5 。九州各地や京・大坂にあったイエズス会の教会や病院、学校などが次々に破壊されたが、秀吉が交易やキリスト教の信仰自体を完全に禁止したわけではなかったため、多くの宣教師は潜伏しつつ、非公式ながら布教活動を継続していた 6 。少年たちがヨーロッパで夢見たであろう栄光に満ちた帰国とは裏腹に、彼らを待っていたのは厳しい現実であった。

豊臣秀吉との謁見と仕官の固辞

帰国翌年の天正19年(1591年)、伊東マンショらは聚楽第において、天下人となった豊臣秀吉に謁見する機会を得た 1 。秀吉は、遠くヨーロッパまで赴き、その進んだ文化や技術、政治体制を見聞してきた少年たちに強い興味を示し、彼らに仕官を勧めたと伝えられている 1

しかし、伊東マンショは、この秀吉からの誘いを丁重に固辞した。その理由として、使節派遣の発案者であり、彼らをヨーロッパへ導いたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父への恩義を挙げたとされる 1 。秀吉からの仕官の誘いは、世俗的な立身出世の道を開く大きな機会であったかもしれないが、マンショはそれよりも司祭として生涯を神に捧げるという信仰の道を選んだのである。この決断は、彼のその後の苦難に満ちた人生を決定づけるものとなった。当時の武士社会において、天下人からの仕官の勧めを断ることは容易なことではなく、彼の信仰の篤さとヴァリニャーノへの深い敬愛の念がうかがえる。

マカオでの再教育と司祭叙階

豊臣秀吉との謁見後、伊東マンショは、同じく使節であった中浦ジュリアン、原マルティノと共に、さらなる神学の研鑽を積むため、マカオのコレジオ(イエズス会学院)に留学した 2 。慶長6年(1601年)からは、マカオにおいて日本人信者の教育にもあたったという記録が残っている 2

ヨーロッパでの見聞とマカオでの専門的な神学教育を経て、慶長13年(1608年)、伊東マンショは長崎において、中浦ジュリアン、原マルティノと共に司祭に叙階された 7 。これは、彼にとって長年の修練の集大成であり、本格的な宣教活動への出発点となるものであった。しかしそれは同時に、ますます厳しさを増す日本の禁教政策と正面から向き合い、困難な道を歩むことの始まりでもあった。

禁教下の日本における布教活動

司祭となった伊東マンショは、禁教令が徐々に強化されていく厳しい状況下で、日本国内における布教活動に身を投じた。その活動範囲は広範に及び、豊前国小倉(現在の福岡県北九州市) 48 、長門国萩(現在の山口県萩市) 14 、周防国(現在の山口県東部) 7 、豊前国中津(現在の大分県中津市) 7 など、九州北部から中国地方西部にかけての各地で宣教を行った。慶長16年(1611年)には、念願であった故郷の日向国飫肥(現在の宮崎県日南市)にも赴き、布教を行ったと伝えられている 2

彼の活動は、単にミサを執り行い説教をするに留まらず、信徒たちの共同体を組織し、その結束を強めることにも注力された。例えば、中津においては「コンフラリア」と呼ばれる信徒組織を設立し、信徒間の相互扶助の体制を確立した記録がある 7 。これは、迫害が強まる中で、信徒たちが信仰を守り、支え合っていくための重要な基盤となった。

禁教下での布教活動は、常に発覚と捕縛の危険と隣り合わせであり、潜伏や頻繁な移動を余儀なくされる、肉体的にも精神的にも過酷なものであったと推察される。同じく使節であった中浦ジュリアンが、百姓の服をまとい、夜間に信者の家を訪ね歩いて潜伏する信者たちを励まし続けたという記録 36 は、伊東マンショもまた同様の苦労を重ねながら、司祭としての使命を果たそうとしていたことを物語っている。

帰国後のマンショは、ヨーロッパで受けた歓待やそこで見聞した理想と、日本の厳しい禁教政策という現実との大きなギャップに直面した。この落差は、彼にとって大きな精神的試練であったはずである。ヴァリニャーノは日本人司祭の育成を重視しており 29 、マンショはその期待を一身に背負う存在であった。外国人宣教師とは異なり、日本人であるマンショは、同胞に対してより親密かつ効果的に教えを広めることが期待されたが 50 、それは同時に、迫害の矢面に立つ危険性が高まることも意味していた。彼がヨーロッパで見聞した進んだ知識や文化を、禁教下の日本でどのように活かし、信徒たちを導き、励ましたのか。その具体的な内容は史料に乏しい部分もあるが、コンフラリアの組織化といった活動は、その困難な状況下での実践的な答えの一つであったと言えるだろう。

6. 伊東マンショの最期と遺産

長崎における病没とその背景

禁教の嵐が吹き荒れる中、献身的な布教活動を続けていた伊東マンショであったが、慶長17年(1612年)11月13日、長崎のコレジオ(イエズス会神学校)において病のためこの世を去った 1 。享年は43歳であった 1 。その死因については、熱病であったとする記録 2 と、肋膜炎(胸膜炎)であったとする記録 7 がある。

彼の最期は、かつてヨーロッパへの苦難の旅を共にした原マルティノ神父と、使節団の教育係兼通訳であったディオゴ・デ・メスキータ神父によって看取られたと伝えられている 7 。マンショの遺体は、長崎にあった「被昇天のサンタ・マリア教会堂」の内に埋葬されたとされる 7 。しかし、その後、江戸幕府による禁教政策が一層強化され、全国の教会堂が破壊された際に、彼の墓もまた失われてしまった可能性が高いと考えられている 36

比較的若い年齢での死は、長年にわたる過酷な旅と、帰国後の潜伏生活、そして絶え間ない精神的ストレスが彼の健康を蝕んだ結果であったのかもしれない。伊東マンショの死は、天正遣欧少年使節という華々しい歴史的出来事が、禁教という時代の大きなうねりの中で迎えた一つの悲劇的な結末を象徴しているかのようである。

天正遣欧少年使節が日本にもたらしたもの

伊東マンショらが命がけの旅路の末に日本へ持ち帰ったものは、単なるヨーロッパでの見聞や体験だけではなかった。彼らは、当時の日本にとって貴重な文物や知識をもたらし、その後の日本文化に少なからぬ影響を与えた。

  • 活版印刷機 : 使節団は、ヨハネス・グーテンベルクによって発明された活版印刷機(グーテンベルク印刷機)を持ち帰った 9 。この印刷機は主に長崎に置かれ、イエズス会によって「キリシタン版」と呼ばれる書物の印刷に活用された。印刷されたのは、キリスト教の教理書(例:『どちりな・きりしたん』)、聖人伝(例:『サントスの御作業の内抜書』)、宣教師の日本語学習用テキスト、辞書(例:『落葉集』)、さらには日本の古典文学(例:『天草版平家物語』)や西洋の寓話集(例:『イソポのハブラス』)など、多岐にわたった 52 。これらの出版物は、宣教師の布教活動や信徒の教化、さらには当時の日本の言語研究や文学にも影響を与えた。しかし、禁教令の強化に伴い、これらの印刷活動は1614年頃には終息を余儀なくされ、印刷機もマカオなどへ移された 54
  • 西洋音楽・楽器 : 使節団は、チェンバロ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リュート、小型パイプオルガン(ポジティフオルガン)といった西洋楽器や楽譜を持ち帰った 9 。彼ら自身もセミナリヨで音楽教育を受けており、ヨーロッパ滞在中には各地で演奏を披露して称賛された 11 。これらの楽器や音楽は、日本の初期洋楽導入のきっかけとなり、セミナリヨやコレジオでは西洋音楽の教育も行われた。
  • 西洋絵画・地理知識 : 西洋の絵画や聖画像、世界地図、海図、天球儀といった地理学・天文学に関する知識や道具ももたらされた 24 。これらは、当時の日本人の世界観や芸術表現に新たな視点を提供する可能性を秘めていた。
  • その他 : 上記の他にも、大型の西洋馬(アラビア馬と推定される)1頭などが豊臣秀吉に献上された記録がある 24

これらの将来品は、当時の日本にとって先進的なものであり、短期間ながらも日本の文化・技術の発展に刺激を与えた。特に活版印刷技術は、情報の複製と普及という点で画期的なものであったが、禁教政策によってその可能性が十分に開花することなく途絶えてしまった点は、日本の文化史において大きな損失であったと言えるかもしれない。

歴史的評価と現代における伊東マンショ像

伊東マンショは、日本最初の公式ヨーロッパ派遣使節団の主席正使として、日欧交渉史における先駆者の一人と高く評価されている 1 。彼の生涯は、16世紀後半という大航海時代と宗教改革の時代における、東西文化交流の劇的かつ象徴的な一例として、世界史的な視点からも捉えることができる 26

近年、2014年にイタリア・ミラノで伊東マンショの肖像画(ヴェネツィア派の巨匠ドメニコ・ティントレットまたはその工房の作と推定)が再発見されたことは、学術界のみならず一般社会においても大きな注目を集め、彼の存在と天正遣欧少年使節への関心を再び高めるきっかけとなった 9 。この肖像画の来歴に関する調査は、美術史研究においても重要な成果として評価されている 43

現在、伊東マンショの故郷である宮崎県西都市の都於郡城址や同県日南市の日南駅前、そして使節団ゆかりの地である長崎県大村市の森園公園、大分市中心部の遊歩公園などには、彼の功績を顕彰する銅像が建立されている 9

一方で、天正遣欧少年使節の派遣そのものについては、その歴史的評価をめぐって様々な議論がある。使節派遣の主要な目的の一つであった日本におけるキリスト教布教への永続的な支援獲得は、その後の江戸幕府による徹底した禁教政策によって完全に頓挫した。この結果だけを見れば、使節派遣は「失敗」であったという見方も存在する 36 。しかし、彼らが命がけで未知の世界へ渡り、国際交流の先鞭をつけたという歴史的意義や、彼らがもたらした文化的影響、そして何よりも彼らの存在がその後の日本のキリシタンたちに与えた精神的な支えなどを考慮すると、単純な成功か失敗かという二元論で評価することはできない。

伊東マンショの評価は、単にキリスト教史上の人物としてだけでなく、日本の国際化の先駆者、あるいは激動の時代に翻弄されながらも自らの信念を貫こうとした人物として、現代においても多角的に捉え直されている。彼らが持ち帰った文物は、直接的な影響が限定的であったとしても、日本の知識人や芸術家層に西洋文化への関心を喚起し、後の蘭学受容などの下地を間接的に形成した可能性も否定できない 56 。彼らの存在は、日本が後に「鎖国」と呼ばれる体制に入る以前に、世界に対して開かれた窓を持ち、積極的に海外と関わろうとする意志と能力を有していたことを示している。また、使節団の壮挙やローマ教皇との謁見という出来事は、口伝や記録を通じて、厳しい弾圧に苦しんだ潜伏キリシタンたちにとって、信仰を支える心の拠り所や、いつか再びローマとの繋がりが回復されるという希望の象徴となった可能性も考えられる 58

7. おわりに

伊東マンショの生涯の総括

伊東マンショの生涯は、日向国の武家の子として生まれながら、戦国の動乱とキリスト教信仰との出会いによって大きく運命を変えられ、弱冠13歳で日本初の公式遣欧使節の主席正使としてヨーロッパへ渡るという、波乱に満ちたものであった。ローマ教皇やスペイン国王に謁見し、ヨーロッパ各地で熱烈な歓迎を受けるという栄光を経験する一方で、帰国後は豊臣秀吉によるバテレン追放令、そして江戸幕府による禁教政策という厳しい現実に直面した。司祭として禁教下の日本で潜伏しながら布教活動に身を投じ、志半ばで病に倒れた彼の43年の生涯は、まさに激動の時代そのものを映し出している。

日本史および日欧交渉史における意義の再確認

伊東マンショを中心とする天正遣欧少年使節は、日本とヨーロッパ間の公式な外交・文化交流の先駆者として、歴史にその名を刻んでいる。彼らが持ち帰った活版印刷機や西洋音楽、地理・天文学の知識などは、短期間ではあったものの、日本の文化や技術に新たな刺激を与えた。また、彼らの存在とヨーロッパでの経験は、当時のヨーロッパ人の日本観形成に影響を与え、同時に、その後の日本のキリシタンたちにとっては、信仰の支えとなる伝説的な物語として語り継がれた。

しかし、彼らの努力もむなしく、日本はその後「鎖国」へと向かい、キリスト教は徹底的に弾圧される。その意味では、彼らが目指した日本とヨーロッパの恒常的な友好関係や、日本におけるキリスト教の確固たる地位の確立は達成されなかった。それでもなお、彼らが未知の世界へ踏み出し、異文化理解と交流を試みたという事実は、日本が世界史の大きな舞台に登場する初期の重要な一歩として評価されるべきである。

現代への示唆

伊東マンショの生涯と天正遣欧少年使節の物語は、現代に生きる私たちに対しても多くの示唆を与えてくれる。グローバル化が進行し、異文化理解や宗教的寛容の重要性がますます高まる現代において、400年以上前に異なる文化と真摯に向き合い、相互理解を求めて海を渡った少年たちの勇気と行動力は、改めて見直されるべき価値を持つ。また、自らの信念のために困難な道を歩んだ彼らの生き様は、現代人が直面する様々な課題に対して、どのように向き合うべきかを考える上での一つの示唆となるかもしれない。伊東マンショという歴史上の人物を通じて、私たちは過去と対話し、未来への教訓を学ぶことができるのである。

引用文献

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  6. 「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断 海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる https://toyokeizai.net/articles/-/411584?display=b
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  8. 天正少年遣欧使節団と世界 - 柿生郷土史料館 | https://kakio-kyoudo.jpn.org/wp-content/uploads/2015/07/Seminar-46.pdf
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  57. 【歴史解説】あぁ悲惨!!天正遣欧使節・少年たちの悲惨な末路!?【MONONOFU物語】 https://www.youtube.com/watch?v=dY8WUvFjdBc&pp=0gcJCdgAo7VqN5tD
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