最終更新日 2025-06-08

伊東祐安

「伊東祐安」の画像

戦国武将 伊東祐安に関する調査報告

1. はじめに

本報告書は、日本の戦国時代に日向国(現在の宮崎県)で活動した武将、伊東祐安(いとう すけやす)について、その生涯、事績、歴史的背景を詳細に調査し、分析するものである。伊東祐安という名は、歴史上複数の人物に見られるが、本報告書が対象とするのは、特に元亀3年(1572年)に発生した木崎原の戦いにおいて伊東軍の総大将を務め、その生涯を閉じた**伊東加賀守祐安(いとう かがのかみ すけやす)**である。

室町時代中期に活動した伊東大和守祐安(永享6年〈1434年〉没) 1 や、明治期に海軍大将として活躍した伊東祐亨(1843年~1914年) 2 など、同名の人物が存在するが、これらは本報告の対象外とする。戦国期の伊東加賀守祐安は、日向伊東氏の興亡に深く関わり、特に宿敵であった島津氏との間で繰り広げられた木崎原の戦いにおける悲劇的な最期は、伊東氏の運命を大きく左右した。

本報告書では、伊東加賀守祐安の出自、伊東家における複雑な立場、主要な合戦における役割、そして彼に関連する史料や史跡を通じて、その人物像と歴史における意義を多角的に明らかにすることを目的とする。伊東氏内部の権力闘争や、当時の日向国を取り巻く政治状況を踏まえながら、祐安の生涯を追うことで、戦国時代の一武将の生き様と、それが地域史に与えた影響を考察する。

2. 伊東祐安の出自と伊東家の背景

伊東祐安の生涯を理解するためには、まず彼が属した日向伊東氏の歴史的背景と、彼自身の複雑な出自について把握する必要がある。

伊東氏の略歴と日向における勢力基盤

伊東氏は、その祖を藤原南家に遡るとされ、工藤氏から派生した一族である 3 。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した工藤祐経が著名であり、その子である祐時(すけとき)の代から伊東姓を名乗り始めたとされる 5 。伊東氏は当初伊豆国を本拠としていたが、鎌倉時代中期、伊東祐時の子である伊東祐明(すけあきら)が父から日向国田嶋荘(現在の宮崎市佐土原町周辺)を相続し、この地へ下向したことが、日向伊東氏の始まりである 5

日向国に根を下ろした伊東氏は、次第に勢力を拡大し、戦国時代には都於郡城(とのこおりじょう、現在の宮崎県西都市)を本拠地として、日向国内に「伊東氏四十八城」と呼ばれる多数の支城を擁するまでに成長した 6 。この過程で、同じく日向国内に勢力を持つ土持氏や、南九州の覇権を目指す薩摩国の島津氏とは、領土を巡って絶えず緊張関係にあり、時には激しい抗争を繰り広げた 6 。伊東祐安が生きた時代は、まさに伊東氏がその勢力の絶頂期を迎えつつも、島津氏との対立が先鋭化していた時期にあたる。

伊東祐安の生誕と複雑な家系

戦国期の伊東加賀守祐安の出自については、伊東家の家督相続に絡む複雑な事情が存在する。諸記録によれば、祐安は日向伊東氏第7代当主であった伊東尹祐(ただすけ、伊東義祐の父とは別人)の長男として生まれたとされる 9 。母は中村氏の女性で、「桐壺」と呼ばれた人物であったと伝えられる 9 。後に伊東家当主となる伊東義祐(よしすけ)は、尹祐と福永氏の娘との間に生まれた子であり、祐安は義祐の異母兄にあたり、義祐よりも8歳年長であったという 9

この出自は、祐安の生涯、特に伊東家中における彼の立場を理解する上で極めて重要な意味を持つ。本来であれば嫡男として家督を継承するはずの立場にありながら、複雑な家庭環境が彼の運命を大きく左右することになる。

家督相続問題と「綾の乱」― 祐安の境遇の変化

伊東尹祐は、当初男子に恵まれず、祐安が誕生した際には大いに喜び、彼を後継者と定めたとされている 9 。しかし、この決定は後に覆されることになる。尹祐が家臣であった福永氏の娘を寵愛するようになり、その女性が男子(後の伊東祐充(すけみつ)、義祐、祐吉(すけよし)の三兄弟)を儲けると、尹祐は祐安を廃嫡し、福永氏の子を後継に据えようと画策した 9

この尹祐の意向は、伊東家中の重臣たちから強い反発を招いた。特に家老であった長倉若狭守(ながくらわかさのかみ)と垂水但馬守(たるみずたじまのかみ)は、「天に二日なく、国に二君はない」と故事を引いて尹祐を諌めたが、聞き入れられなかった 9 。さらに、重臣の一人であった稲津越前守(いなづえちぜんのかみ)による讒言なども絡み、事態は悪化。永正7年(1510年)、長倉・垂水両家老は綾城(宮崎県東諸県郡綾町)に籠城して抗議の意思を示したが、力及ばず自刃に追い込まれた。この一連の騒動は「綾の乱」と呼ばれ、日向の歴史にその名を刻んでいる 9

結果として、祐安は嫡流から外され、まず母方の実家である福永氏の養子とされ、その後、尹祐の弟にあたる伊東祐武(すけたけ)の養子になったと伝えられる 9 。この「綾の乱」と祐安の廃嫡は、伊東家中に深刻な亀裂を生じさせ、その後の内紛の遠因となった。祐安の母方である中村(川崎)氏は伊東氏が日向へ下向する以前からの譜代の重臣であり、一方、義祐の母方である福永氏は日向に来てから家臣団に加わった新興勢力であった 9 。この旧勢力と新興勢力の対立構造は、単なる家督争いを超えて、伊東氏の領国経営の安定性を揺るがし、外部勢力からの干渉を招きやすい土壌を形成したと言える。尹祐の個人的な感情が発端となったこの家督問題は、結果的に伊東氏の将来に暗い影を落とすことになったのである。

伊東祐安関連略年表

年代(西暦)

元号

出来事

関連人物・備考

出典例

不明

伊東祐安(加賀守)生誕

父:伊東尹祐(7代)、母:中村氏(桐壺)

9

1510年

永正7年

綾の乱。長倉若狭守・垂水但馬守自刃。祐安、廃嫡される。

伊東尹祐、福永氏

9

1533年

天文2年

武州の乱。伊東祐充死後、叔父の伊東祐武が反乱。祐安、伊東祐清(義祐)擁立派として活動。

伊東祐武、伊東義祐(祐清)

9

1533年

天文2年

左兵衛佐の乱。祐武の子(祐安か)が米良氏らと蜂起するも鎮圧される。

伊東祐安(左兵衛佐)、米良石見守

9

1536年頃

天文5年頃

伊東義祐、家督継承。

時期不明

祐安、伊東義祐のもとで家臣団に復帰。

9

1572年

元亀3年5月

木崎原の戦い。伊東祐安、総大将として出陣し戦死。

島津義弘

11

1577年

天正5年12月

伊東氏、都於郡城を放棄し豊後へ落ちる(豊後落ち)。

伊東義祐

9

この年表は、伊東祐安の生涯と伊東家の主要な出来事を時系列で整理したものである。彼の人生が、伊東家の内紛と対外的な緊張の中で、いかに翻弄されたかを示している。

3. 伊東家中における祐安の台頭と役割

廃嫡という不遇を経験した伊東祐安であったが、その後の伊東家において、再び重要な役割を担うことになる。特に伊東義祐が家督を継承して以降、祐安はその武勇や統率力を見込まれ、伊東氏の主要な武将として活動したと考えられる。

伊東義祐体制下での復権と武将としての活動

天文2年(1533年)、伊東祐充の死後に叔父の伊東祐武が反乱を起こした際(武州の乱)、祐安は従兄弟にあたる伊東祐清(後の義祐)を擁立する側として働いたとされる 10 。この功績もあってか、義祐が家督を継ぐと、祐安はその側近の一人として重用されたようである。一部の記録には、祐安と弟の祐明(すけあき)は、話し合いによって「義祐の兄弟」として家臣団に復帰したと記されており 9 、その武才を期待されたことが窺える。

祐安は、伊東義祐の体制下で、数々の合戦に参加し、武功を挙げたと考えられる。彼の具体的な戦歴に関する詳細な記録は断片的であるが、後に木崎原の戦いで総大将を任されるほどの人物であったことから、相応の実績と信頼を得ていたことは間違いないだろう。

家中での影響力と潜在的な緊張関係

伊東義祐の側近として活動する中で、祐安は家中において相当な権勢を振るったとの記述も存在する 10 。ある資料によれば、「家中では義祐と同等の権勢を振るい、余剰米の横領などで数多くの家臣から恨みを買った」とされており 10 、その影響力の大きさと同時に、強引な手法や過去の経緯から、家臣団内部に反感を抱く者も少なくなかった可能性が示唆される。

かつて嫡男でありながら廃嫡されたという経緯を持つ祐安が、実力によって再び家中の枢要な地位に就いたことは、戦国時代特有の実力主義を反映していると言える。しかし、その一方で、彼の存在は当主である義祐にとって、常に複雑な感情を抱かせるものであったかもしれない。祐安とその弟・祐明兄弟の武名が高まるにつれて、義祐は彼らが再び政権を奪うのではないかという猜疑心を抱き、祐安側に家中の主導権を与えないように様々な工作を行ったとの指摘もある 9

このような主君と有力な一門(あるいはかつての家督を争った可能性のある人物)との間の不信と依存が入り混じった関係は、組織の結束力を弱め、重要な局面での意思決定に悪影響を及ぼす潜在的な危険性をはらんでいた。祐安が大きな影響力を行使する一方で、家臣からの反感や当主からの警戒に晒されていたとすれば、伊東家中の権力バランスは常に不安定な状態にあったと考えられる。この内部的な緊張関係が、後の伊東氏の運命にどのように影響したのかは、注目すべき点である。

『日向記』における記述の検討

伊東祐安や戦国期伊東氏の動向を知る上で重要な史料の一つに、伊東氏の家臣であった落合兼朝(おちあい かねとも)が永禄年間(1558年~1570年)に執筆を開始し、後に飫肥藩の関係者によって元亀年間(1570年~1573年)以後の記事が加筆されたとされる『日向記』がある 13 。この史料は、日向国の中世史研究における基本史料と位置づけられている 13

祐安の出自や廃嫡の経緯、いわゆる「綾の乱」に関する詳細な記述 9 は、『日向記』やそれに類する伊東家側の記録に基づいている可能性が高い。しかし、史料を解釈する際には、その編纂の背景や筆者の立場を考慮する必要がある。『日向記』は伊東氏の視点から書かれたものであり 14 、特に初期の記述には軍記物語である『太平記』の影響が色濃く見られるとの指摘もある 14 。そのため、祐安の人物像や彼が関わった事件に関する記述については、他の史料との比較検討や、記述の背後にある意図を慎重に読み解く必要がある。例えば、祐安と義祐の関係性といったデリケートな問題については、特に注意深い解釈が求められる。

4. 木崎原の戦いと伊東祐安の最期

伊東祐安の生涯における最大の局面であり、そして最期の舞台となったのが、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いである。この戦いは、日向伊東氏の運命を決定づけるとともに、南九州の勢力図を大きく塗り替える契機となった。

合戦に至る背景

木崎原の戦いに至る直接的な背景には、長年にわたる日向伊東氏と薩摩島津氏との間の対立があった。特に、島津氏の当主であった島津貴久が元亀2年(1571年)に没すると、これを好機と見た周辺勢力が反島津の動きを活発化させる 12 。伊東氏もその一つであり、肝付氏、根占氏、伊地知氏らと連携し、島津領への攻勢を強めようとしていた 12

伊東義祐は、島津領である真幸院(まさきいん)の加久藤城(かくとうじょう、現在の宮崎県えびの市)攻略を計画し、軍議を開いた。さらに、肥後国(現在の熊本県)の相良義陽(さがらよしはる)にも協力を要請し、共同での出兵を取り付けた 11 。伊東氏の勢力拡大への強い意志と、宿敵島津氏を打倒しようという狙いが、この軍事行動の根底にはあった。

合戦の経過 ― 伊東軍総大将としての祐安

元亀3年(1572年)5月3日、伊東祐安を総大将とする伊東軍約3,000の兵(一説には伊東加賀守以下三千 15 )は、本拠地である三之山(さんのやま)を出発し、加久藤城へと進軍した 11 。これに対し、飯野城(いいのじょう、現在の宮崎県えびの市)を拠点にこの方面の守りを固めていたのは、島津義弘(しまづよしひろ)であった。義弘の手勢はわずか300余りであったと伝えられる 11

合戦は、島津義弘の巧みな戦術によって展開した。まず、伊東軍と連携して南下してきた相良軍の別動隊に対し、義弘は少数の伏兵による銃撃でこれを撃退 11 。伊東軍本体による加久藤城への攻撃も、城兵の奮戦によって大きな損害を被り、伊東軍は一時撤退を余儀なくされる 11

伊東軍が背後の白鳥山(しらとりやま)へ退却すると、島津側はさらに策を弄した。事前に地元住民に軍旗を持たせて山中に潜ませ、伏兵がいるように見せかけたのである 11 。これを見た伊東祐安は伏兵の存在を誤認し、慌てて下山を開始した。下山した伊東軍を待ち受けていたのは、島津義弘率いる寡兵であったが、伊東軍は兵力で優位にあると見て総攻撃を開始した 11

しかし、これも島津義弘の罠であった。島津軍は一度交戦した後すぐに退却し、伊東軍が追撃してきたところを突如反転。同時に、別働隊が伊東軍の背後を突き、挟撃する「釣り野伏せ(つりのぶせ)」と呼ばれる得意の戦法で伊東軍を大混乱に陥れた 11 。一部の記録では、女中が伊東方に内通を装い、地形的に不利な鍵掛口(かぎかけぐち)へ伊東軍を誘導したという偽情報戦も行われたとされる 12

祐安の奮戦と敗因の分析

伊東軍の総大将として軍を率いた祐安は、数的に圧倒的優位にありながらも、島津義弘の周到な戦略と戦術の前に終始苦戦を強いられた。伊東軍の敗因としては、第一に島津側の優れた用兵術、情報戦、そして地の利を活かした戦術が挙げられる。特に「釣り野伏せ」は、寡兵で大軍を破るための効果的な戦法であった。

伊東側の要因としては、初戦の勝利や兵力差からくる油断や慢心 11 、敵の策略に対する情報分析の誤り、そして相良軍との連携不足 12 などが考えられる。さらに、伊東義祐自身の戦略指導に問題があった可能性も指摘されている。ある見方では、義祐が歴戦の将である祐安らを十分に信頼せず、自身の采配に固執したことが敗北に繋がったとも解釈できる 9 。ただし、祐安が総大将として出陣している記録 11 との整合性を考慮すると、義祐の戦略決定段階での影響や、祐安への全権委任が不十分であった可能性などが考えられる。また、伊東軍が二手(飯野城への抑えと加久藤城攻略軍)に分かれていた 12 ことも、戦力集中を妨げた一因となったかもしれない。

祐安の戦死と伊東氏衰退への影響

木崎原における激戦の末、伊東軍は総崩れとなり、総大将であった伊東加賀守祐安は討死を遂げた 11 。この戦いで伊東軍は、祐安のほか、伊東又次郎、伊東新次郎、米良筑後守(めらちくごのかみ)といった有力武将を含む多くの将兵を失った 17 。その損害は、伊東方で750人余り、島津方でも260人(総兵力約300人中の戦死率約87%)にのぼったとの記録もあるが、諸説ある 12

この木崎原の戦いにおける壊滅的な敗北は、日向伊東氏にとって決定的な打撃となった。多くの有能な人材を一度に失った伊東氏は、急速にその勢力を弱め、衰退の道を辿ることになる 11 。逆に、この戦いに勝利した島津氏は、南九州における覇権を確立する大きな足掛かりを得た 11 。この劇的な戦況の転換から、木崎原の戦いは「九州の桶狭間」とも称されている 11

伊東家の長年にわたる内部対立やリーダーシップの問題が、この軍事的な危機において致命的な結果を招いたとも言える。祐安個人の武勇や指揮能力だけでは、組織全体の構造的な脆弱性を克服するには至らなかった。この敗戦は、伊東氏の歴史における大きな転換点であり、祐安の死はその象徴的な出来事であった。

5. 伊東祐安に関する史料と評価

伊東祐安の人物像や伊東氏の歴史を考察する上で、基本となる史料が『日向記』である。しかし、その記述を鵜呑みにすることなく、批判的な視点からの検討が不可欠である。

主要史料『日向記』における伊東祐安像

前述の通り、『日向記』は伊東氏の家臣であった落合兼朝によって執筆が開始され、後に追記されたとされる史料であり、戦国期の日向伊東氏の動向を知る上で貴重な情報を提供している 13 。伊東祐安の出自、特に伊東尹祐の長男でありながら廃嫡された経緯や、「綾の乱」といった伊東家内部の複雑な出来事に関する詳細な記述 9 は、この『日向記』や、それに類する伊東家側の記録に依拠していると考えられる。

しかし、『日向記』の記述を解釈する際には、いくつかの留意点がある。まず、この史料は基本的に伊東氏の立場から書かれており、特定の出来事や人物に対する評価には、その視点が反映されている可能性がある 14 。また、特に初期の記述に関しては、軍記物語である『太平記』の影響が強く見られるという指摘もあり 14 、歴史的事実と文学的脚色が混在している可能性も考慮しなければならない。

祐安に関する記述が、彼を悲劇の英雄として描いているのか、あるいは伊東家衰退の一因として間接的に言及しているのか、そのニュアンスを慎重に読み解く必要がある。例えば、祐安の廃嫡とそれに続く伊東家内の混乱が、結果として伊東氏の弱体化を招いたという文脈で語られている場合、それは単なる事実の記録を超えて、歴史的教訓や特定の価値観を伝えようとする意図を含んでいるかもしれない。

後世における評価と伊東氏の記憶

木崎原の戦いにおける伊東祐安の戦死と伊東軍の敗北は、日向伊東氏の没落を決定づけた画期的な出来事として、後世に記憶されている 11 。祐安個人に対する直接的な評価は、史料が断片的であるため一概には言えないものの、伊東家の存亡をかけた重要な合戦で軍の指揮を執った武将としての存在感は大きい。

一部の考察では、祐安とその弟・祐明は、「南九州の雄」と称された伊東氏の繁栄のために目覚ましい活躍をしたと評価される一方で、当主である義祐の猜疑心の対象となり、その能力を十分に発揮する機会を奪われた悲劇的な側面も強調されている 9 。このような評価は、祐安を単なる敗軍の将としてではなく、複雑な運命に翻弄された人物として捉えようとする視点を示している。

『日向記』のような史料における祐安像の形成は、伊東氏が日向国を失った後、その歴史をどのように総括し、後世に伝えようとしたかという「記憶の政治学」とも関連している可能性がある。祐安の物語は、単なる個人の伝記としてではなく、一族の興亡を象徴し、あるいは特定の歴史解釈を正当化するための物語として機能していたのではないか。特に「綾の乱」における「天に二日なく、国に二君はない」という諌言や、それが後の伊東氏の運命を予言していたかのような記述 9 は、歴史的出来事に因果応報や運命論的な解釈を付与しようとする編纂者の意図の表れとも考えられる。

6. 伊東祐安ゆかりの史跡

伊東祐安とその最期を飾った木崎原の戦いに関連する史跡は、宮崎県内にいくつか現存しており、当時の出来事を今に伝えている。

伊東塚(宮崎県小林市)

宮崎県小林市真方には、「伊東塚(いとうづか)」と呼ばれる史跡がある 17 。これは、木崎原の戦いで戦死した伊東加賀守祐安をはじめ、伊東又次郎、伊東新次郎、米良筑後守など、伊東方の将兵を弔うために建立された供養塔群である 17

元々は昌寿寺(しょうじゅじ)という寺院の境内にあったが、明治時代の廃仏毀釈によって寺は失われ、現在は墓碑のみが残されている。かつては伊東家の士分クラス200余人分の供養塔が建てられていたと伝えられるが、現存するのは伊東加賀守、伊東又次郎、伊東新次郎、稲津又三郎、上別府宮内少輔、米良筑後守、米良喜右介、米良式部少輔、野村四郎佐衛門の9基である 17 。これらはすべて供養塔であり、実際に遺体が埋葬されているわけではない。戦死した将兵の首級の多くは、後述する木崎原古戦場跡の傍にある首塚にまとめて葬られたとされている(ただし、米良筑後守の首級は須木城下の菩提寺に返され弔われたという) 17

興味深いことに、これらの供養塔の中には、慶安3年(1650年)、つまり江戸時代に入ってから、敵方であった島津氏の家臣・五代勝左衛門の子孫によって、戦没者の霊を慰めるために五輪塔が建立されたものが含まれている 17 。さらに、文化14年(1817年)には、小林の地頭であった市田長門守源義宣が石碑を建て、「後の今を視る、今の昔を視るにひとし云々」という碑文を刻んだ 17 。伊東塚は、1934年(昭和9年)に宮崎県の史跡に指定されている 17 。敵味方の区別を超えて戦没者を弔うという行為は、戦国時代の記憶が後世においてどのように扱われ、変容していくかを示す一例であり、地域の平和と安定を希求する人々の意識や、武士としての死生観、名誉を重んじる価値観が共有されていた可能性を示唆している。

木崎原古戦場跡(宮崎県えびの市)

木崎原の戦いが繰り広げられた主戦場は、現在の宮崎県えびの市池島にあり、「木崎原古戦場跡」として整備されている 11 。この地は、島津義弘が寡兵をもって伊東の大軍を破った「九州の桶狭間」として知られる歴史的な場所である 11

古戦場跡には、戦いの激しさを物語る様々な史跡が点在している。最大の激戦地となった三角田には「木崎原古戦場跡」と記された石碑が立ち、その周辺には戦死者を供養するための「六地蔵塔」や「島津義弘公歌碑」、島津軍の将兵が刀を洗ったと伝えられる「太刀洗い川」、そして伊東軍の戦没者が埋葬された「首塚」などが見られる 11 。これらの史跡は、訪れる者に往時の激闘を偲ばせる。

また、木崎原の戦いの直接的な引き金となった加久藤城の跡地も、えびの市内に現存しており、関連史跡として重要である 11 。これらの史跡群は、木崎原の戦いが地域史においていかに重要な出来事であったかを示しており、歴史散策の場として、また教育の場としても活用されている。

7. おわりに

伊東加賀守祐安の生涯は、戦国という時代の激動と、武家社会の厳しさを色濃く反映したものであった。伊東家の嫡男として生まれながらも、家督相続を巡る複雑な事情から廃嫡され、その後、自身の武勇と才覚によって再び家中の枢要な地位に就くも、最終的には木崎原の戦いにおいて伊東軍の総大将として奮戦し、壮絶な最期を遂げた。その波乱に満ちた人生は、個人の力だけでは抗うことのできない時代の大きな流れと、一族の運命に翻弄される武将の姿を浮き彫りにしている。

祐安の存在と、彼が深く関わった木崎原の戦いは、日向伊東氏の歴史における決定的な転換点であった。この戦いでの敗北は、伊東氏の勢力衰退を決定づけ、南九州における島津氏の覇権確立へと繋がる道を開いた。この意味で、祐安の死は単なる一個人の死に留まらず、地域の勢力図を塗り替える上で極めて重要な意味を持っていたと言える。

伊東家内部に存在したとされる対立や、当主と有力一門との間の緊張関係は、祐安の個人的な悲劇に留まらず、組織全体の運営におけるリーダーシップのあり方、内部結束の重要性、そして情報管理や戦略判断の的確さといった、現代にも通じる普遍的な教訓を示唆している可能性がある。特に、家督問題に端を発する長年の確執が、最終的に軍事的な敗北という形で一族の危機を招いたとすれば、それは組織内部の不和がいかに致命的な結果をもたらしうるかを示す事例と言えよう。

伊東祐安や木崎原の戦いに関連する史跡が、数世紀を経た今日においても地域の人々によって大切に守り継がれていることは、歴史的出来事や人物が、単なる過去の遺物としてではなく、地域のアイデンティティ形成や歴史認識の継承に寄与し続けていることを示している。祐安の生涯と伊東氏の興亡の物語は、戦国時代の武士の生き様や、その背景にある社会構造、価値観を考察する上で、貴重な示唆を与えてくれる。彼の悲劇的な運命は、歴史の非情さと、その中で懸命に生きた人々の姿を我々に伝え続けているのである。

引用文献

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