伊東義祐(いとう よしすけ、永正9年(1512年) – 天正13年8月5日(1585年8月29日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、日向国(現在の宮崎県)の戦国大名です 1 。日向伊東氏の第11代当主(伊東氏全体としては第16代当主)として、一族の勢力を最大に伸長させ、その最盛期を現出しました。しかし、その治世の後半には宿敵島津氏との抗争に敗れ、領国を失い流浪の身となるなど、戦国武将の栄枯盛衰をまさに体現した人物と言えます。最盛期には「伊東四十八城」と称される広大な支城網を日向国一円に築き上げ 3 、官位も従三位という高位に叙されるなど 2 、中央政権にもその名を知られた有力大名でした。しかし、木崎原の戦いにおける大敗を契機として急速に勢力を失い、最終的には島津氏によって日向国を追われたことは、九州南部の勢力図を大きく塗り替える一因となりました。
本報告書は、この伊東義祐の生涯に焦点を当て、伊東氏の出自からその勢力拡大、最盛期の統治、そして島津氏との抗争による没落、さらには義祐没後の伊東氏の動向に至るまでを包括的に調査し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とします。具体的には、伊東氏の起源と日向への進出、義祐の家督相続と最盛期の到来、宿敵島津氏との熾烈な抗争、そして「日向崩れ」と呼ばれる領国喪失と流浪の生活、義祐の人物像、最後に子孫による伊東氏の再興という時系列を基本とし、各時代における重要な出来事や関連人物との関わりを、現存する史料に基づいて詳細に記述・分析します。
伊東氏は、その出自を辿ると藤原南家の流れを汲む工藤氏の支族とされています 4 。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、伊豆国田方郡伊東荘(現在の静岡県伊東市)を本貫としたことから「伊東」の姓を称するようになりました 4 。伊東氏の家祖とされる工藤祐隆(くどう すけたか、法名:寂心)は、伊豆国において広大な所領を有していました。祐隆からその養子である祐継(すけつぐ)、そして祐継の子である工藤祐経(すけつね)へと続く伊東荘の継承を巡る過程は複雑であり、後に『曽我物語』で描かれる曽我兄弟の仇討ちの遠因となるなど、一族の草創期から波乱に満ちたものであったことが窺えます 4 。
この伊豆時代において特筆すべきは、源頼朝との関わりです。平治の乱に敗れて伊豆へ流罪となった頼朝の監視役を、在地豪族であった伊東祐親(すけちか、祐隆の孫)が務めていました 4 。この関係は、後に頼朝と祐親の娘との間に悲劇を生むことになりますが、伊東氏が草創期から中央の政変と深く関わっていたことを示しています。伊東氏が名門藤原氏の血を引き、鎌倉幕府の成立にも間接的ながら関与したという事実は、後の日向伊東氏が代々保持したであろう家格意識や、中央との繋がりを重視する姿勢の源泉となった可能性が考えられます。この由緒ある出自は、戦国時代に日向で大名化した際に、他の在地勢力に対する優位性や、領国支配の正当性を主張する上での精神的な支柱として機能したのではないでしょうか。
日向伊東氏の歴史は、鎌倉時代初期に工藤祐経の子である伊東祐時(すけとき)が、日向国の地頭職を与えられたことに始まるとされています 4 。その後、建武2年(1335年)、伊東祐持(すけもち)が足利尊氏の命により日向国に下向し、児湯郡都於郡(とのこおり、現在の宮崎県西都市)に拠点を築き、本格的な勢力拡大を開始しました 4 。この日向への進出は、単なる領土拡大という側面だけでなく、鎌倉幕府や室町幕府といった中央の権威を背景に行われた点が重要です。これにより、日向国内の在地勢力との関係において、伊東氏は一定の優位性を確保しようとしたと考えられます。
室町時代を通じて、日向伊東氏は守護職であった島津氏としばしば抗争を繰り返しながら、徐々にその版図を広げていきました。伊東祐堯(すけたか)の代には、将軍足利義政から、内紛の続く島津氏に代わって守護の職務を代行するよう命じる御教書(ただし偽文書説も存在します)が下されたと伝えられるまでに成長しました 4 。このように、伊東氏は中央政権との結びつきを巧みに利用しつつ、日向における勢力基盤を固めていったのです。しかし、この過程で顕著になった島津氏との長年にわたる対立の歴史は、伊東義祐の時代に頂点に達する大規模な抗争の伏線となっていきました。また、日向国内の他の国人衆、例えば土持氏など 5 との関係も、伊東氏の勢力伸長において無視できない要素でした。伊東氏はこれらの勢力を時には従え、時には敵対しながら、日向における支配権を確立していったのです。
伊東義祐は、永正9年(1512年)に日向国の戦国大名・伊東尹祐(ただすけ)の子として誕生しました 1 。義祐が家督を相続するまでの道のりは平坦ではありませんでした。天文2年(1533年)、兄である9代当主・伊東祐充(すけみつ)が若くして亡くなると、叔父の伊東祐武(すけたけ)が反乱を起こし、祐充や義祐の外祖父で家中を掌握していた福永祐炳(すけあき)を自害に追い込み、都於郡城を占拠するという事態が発生します 2 。後ろ盾を失った義祐と弟の祐吉(すけよし)は一時日向を退去しようとしますが、祐武を支持しない家臣たちに引き止められ、最終的には荒武三省らの活躍により祐武方を破り、都於郡城を奪還しました 2 。
この御家騒動の収束後、家督は弟の祐吉が継承し、義祐は出家を余儀なくされました。しかし、その祐吉もわずか3年で病死してしまいます。これにより、天文5年(1536年)7月10日、義祐は還俗して佐土原城に入り、伊東氏第11代当主の座に就きました 2 。翌天文6年(1537年)には、室町幕府12代将軍・足利義晴より偏諱(名前の一字を与えられること)を受け、「義祐」と名乗るようになります 2 。これは、中央政権との結びつきを改めて示し、自身の権威を高め、不安定であった家督相続の正当性を強化する狙いがあったと考えられます。家督相続時の一連の混乱は、義祐の権力基盤が当初必ずしも盤石ではなかった可能性を示唆しており、その後の積極的な勢力拡大策は、こうした初期の不安定さを克服し、家中の求心力を高めるための行動であったとも解釈できるでしょう。
伊東義祐の治世において、伊東氏はその勢力を日向国一円に拡大し、最盛期を迎えました。この時期、伊東氏の支配領域内には「伊東四十八城」と称される多数の支城や砦が築かれ、広大な領国を統治する体制が確立されました 3 。伊東氏の本城は、時期によって異なり、義祐が当主の頃は佐土原城(現在の宮崎市佐土原町)、子の義益(よします)が当主の頃は都於郡城(現在の宮崎県西都市)が中心的な役割を果たしました 3 。都於郡城は、南北朝時代の築城以来、約240年にわたり日向伊東氏の居城であり、九州南部特有のシラス台地を巧みに利用した堅固な山城でした 7 。
この「伊東四十八城」体制は、広大な領国を効率的に支配し、在地勢力を掌握するとともに、最大の脅威であった島津氏をはじめとする外敵に対する多層的な防衛線を構築する上で重要な役割を果たしました。落合兼朝が記したとされる『日向記』の「分国中城主揃事」には、これら48の城の具体的な名称が記録されており、各城には伊東氏の譜代の家臣が城主として配置されていたことが窺えます 3 。
表1:伊東四十八城一覧(主要な城と城主の例)
郡名 |
城名 |
現所在地(推定) |
城主(伝承を含む) |
出典例 |
那珂郡 |
佐土原城 |
宮崎市佐土原町 |
伊東義祐、佐土原摂津守 |
3 |
児湯郡 |
都於郡城 |
西都市都於郡 |
伊東義益 |
3 |
児湯郡 |
財部城 |
高鍋町 |
落合民部少輔 |
3 |
宮崎郡 |
宮崎城 |
宮崎市池内町 |
肥田木勘解由左衛門尉 |
3 |
宮崎郡 |
清武城 |
宮崎市清武町 |
長倉伴九郎、上別府宮内少輔 |
3 |
諸県郡 |
倉岡城 |
宮崎市糸原 |
野村隠岐守 |
3 |
臼杵郡 |
飫肥城 |
日南市飫肥 |
伊東祐兵 |
3 |
臼杵郡 |
酒谷城 |
日南市酒谷 |
長倉淡路守 |
3 |
(注:城主名や所在地は史料により異同がある場合があります。上記は『日向記』等の記述に基づく一例です。)
広大な領域を維持するためには、相応の経済基盤と統治システムが必要であったことは想像に難くありませんが、伊東義祐が行った検地や楽市・楽座の設置といった具体的な領国経営策に関する直接的な史料は、現在のところ乏しい状況です 9 。しかし、「伊東四十八城」という広範な支配体制は、伊東氏の勢力拡大を示す象徴であると同時に、その維持には多大な人的・物的資源を要したはずです。この点が、後の島津氏による集中的な攻撃に対して、かえって脆弱性を露呈する一因となった可能性も考えられます。また、多くの城主を各地に配置するという統治システムは、当主の求心力が強固な間は有効に機能しますが、一度その力が揺らげば、城主たちの自立性を高め、離反のリスクを孕んでいたとも言えるでしょう。この構造的な問題が、後の「日向崩れ」と呼ばれる急速な領国崩壊に繋がった側面は否定できません。
伊東義祐は、当時の地方武将の多くと同様に、中央の文化である京都文化に強い憧れを抱いていたと伝えられています。その一端として、本拠地の一つであった佐土原(現在の宮崎市佐土原町)の町割りに、京都の地名である祇園、清水、五条といった名称を用い、城の内外に小京都を思わせる景観を整備したとされます 11 。さらに、京都北山の金閣寺(鹿苑寺)を模して金柏寺を建立し、銀閣寺(慈照寺)に倣った銀柏寺の建立も計画したものの、こちらは実現には至らなかったと言われています 11 。また、義祐自身も和歌を嗜んだとされ、その作品とされるものがいくつか伝えられており 12 、武人としてだけでなく、文化的な素養も兼ね備えた人物であったことが窺えます。
こうした文化的志向と並行して、義祐は中央政権である室町幕府との関係構築にも積極的でした。前述の通り、将軍足利義晴から偏諱を受けて「義祐」を名乗ったほか、将軍足利義輝の時代には幕府の御相伴衆(おしょうばんしゅう)にも列せられています 2 。御相伴衆は、守護大名などに与えられる名誉的な地位であり、これは伊東氏の家格を中央においても公認させ、日向国内および周辺勢力に対する政治的・軍事的な優位性を確立しようとする意図があったと考えられます。
義祐の京都文化への傾倒は、単に彼個人の趣味嗜好に留まるものではなく、伊東氏の権威を高め、先進的な文化の担い手であることを示すための戦略的な行動であったと評価できます。しかし、その一方で、こうした華美な文化への耽溺や、中央との関係維持に多大な費用を投じたことが、伊東氏の財政を圧迫し、また、質実剛健を旨とするべき武士の気風を損ね、家臣団の士気や忠誠心に悪影響を与えた可能性も指摘されています 13 。特に晩年において、奢侈と京風文化に溺れ、政務への関心を失ったことが、後の伊東氏の急激な衰退の一因となったとする見方も存在します。この文化的な志向と、現実的な領国経営の実態とのバランスが、義祐政権の安定性を左右する重要な要素であったと言えるでしょう。戦国武将にとって、武威と文治のバランスを如何に取るかは常に大きな課題であり、義祐の場合、その治世の後半においては文に傾きすぎたのかもしれません。
伊東義祐の治世は、日向伊東氏の歴史において最大の版図を実現した時代でした。北は現在の延岡市周辺から南は日南市周辺に至るまで、日向国の大部分をその勢力下に置き、前述の「伊東四十八城」体制によって領国を統治しました。中央政権との関係も深く、天文6年(1537年)に従四位下に叙せられた後、最終的には従三位という公卿に相当する高位にまで昇進しており 1 、その権勢は頂点に達したと言えます。
領土拡大の面でも、義祐は積極的な軍事行動を展開しました。長年の宿敵であった日向南部の島津豊州家(島津氏の分家)を飫肥城(現在の宮崎県日南市)を巡る戦いで圧倒し、その支配権を確立しました。さらに、日向国真幸院(まさきいん、現在の宮崎県えびの市周辺)を領有していた北原氏の内紛に介入し、最終的にはその領地を横奪するなど、巧みな外交と軍事力を背景に勢力を拡大しました 4 。
この時期の伊東氏は、単に日向国内で強大な力を誇っただけでなく、豊後国の大友氏や肥後国の相良氏といった九州の有力な戦国大名とも外交関係を結び、同盟や婚姻を通じてその地位を安定させようと努めていました 14 。これにより、伊東氏は九州における重要な戦国大名の一つとしての確固たる地位を築き上げたのです。義祐の権勢は、単なる軍事力だけでなく、こうした巧みな外交戦略や中央政権との太いパイプによっても支えられていたと考えられます。しかし、この強大な勢力も、内部の結束の緩みや、より強力な敵対勢力の出現によって、やがて脆くも崩れ去る運命にありました。
伊東氏と島津氏は、日向国の覇権を巡り、鎌倉時代以来、数百年にわたり激しい抗争を繰り広げてきた宿敵同士でした 4 。特に伊東義祐の時代には、両者の対立は先鋭化し、日向国の支配権を賭けた全面的な衝突へと発展していきます。
過去には、永正7年(1510年)の「薩日隅大乱」の後、和睦の一環として伊東尹祐(義祐の父)の娘・玉蓮が島津忠治(島津氏第14代当主・島津勝久の養父)に嫁ぐなど、婚姻関係を通じて一時的な融和が図られたこともありました 2 。しかし、これはあくまで表面的なものであり、日向国における領土問題や勢力圏を巡る根本的な対立構造を解消するには至りませんでした。
伊東・島津間の対立は、単なる領土争奪という側面だけでなく、それぞれが日向支配の正当性を主張し、国人衆の支持を取り合うという、名誉と威信をかけた戦いという性格も帯びていたと考えられます。この根深い対立構造が、義祐の時代における木崎原の戦いのような大規模かつ決定的な衝突へと発展する背景となりました。両家にとって、日向は譲れない土地であり、その支配を巡る争いは、互いの存亡をかけたものとなっていったのです。
日向国南部における戦略的要衝である飫肥城(現在の宮崎県日南市)は、伊東氏と島津氏による長年にわたる激しい争奪戦の舞台となりました 1 。飫肥は良港を有し、海上交通の拠点としても重要であったため、この地を支配することは日向南部における覇権を確立する上で不可欠でした。
伊東氏は、数代にわたり飫肥城攻略を目指してきましたが、永禄11年(1568年)、伊東義祐は4度目(史料によっては5回目とも 16 )の攻撃によって、ついに島津氏から飫肥城を奪取することに成功します 1 。この時、義祐の次男(嫡男の義益が早世したため、実質的な後継者候補)である虎熊丸、後の伊東祐兵(すけたか)が、まだ幼いながらも飫肥城の城主として入城しました 1 。これは、伊東氏の勢力が頂点に達したことを象徴する出来事の一つであり、島津氏にとっては大きな打撃となりました。
しかし、この伊東氏による飫肥城支配も長くは続きませんでした。伊東氏の勢力にかげりが見え始めると、島津氏は再び飫肥城奪還に向けて動き出し、後の「日向崩れ」の過程で、飫肥城は再び島津氏の手に落ちることになります。飫肥城の戦略的重要性は、両氏にとってこの地が絶対に譲れない拠点であったことを物語っています。伊東氏による飫肥城奪取は、島津氏にとって大きな屈辱であり、後の反撃への強い動機付けとなった可能性があります。また、幼い祐兵を城主としたことは、義祐による後継者育成の意図があったのかもしれませんが、実質的には義祐自身が後見し、権力を集中させていた当時の伊東氏の権力構造を反映しているとも言えるでしょう。
元亀3年(1572年)5月、日向国真幸院木崎原(現在の宮崎県えびの市木崎)において、伊東義祐率いる伊東軍と、島津義弘率いる島津軍との間で激しい戦闘が繰り広げられました。この木崎原の戦いは、伊東氏の運命を大きく左右する決定的な戦いとなります 7 。
戦いの背景には、当時薩摩・大隅をほぼ手中に収め、日向への進出をうかがっていた島津氏と、日向中部から北部にかけて勢力を拡大していた伊東氏との間の緊張関係の高まりがありました。伊東義祐は、島津氏の勢力拡大を阻止し、さらに日向国内における伊東氏の覇権を確立するため、島津氏の重要拠点の一つである飯野城(現在のえびの市飯野)の攻略を計画しました。この計画には、肥後国の相良氏も伊東軍と連合して参陣する予定でしたが、島津義弘の謀略により相良軍は撤退したとされています 14 。
伊東軍は、総大将伊東祐安(すけやす)のもと、伊東新次郎、伊東又次郎らを将とする3,000余りの大軍(一説にはそれ以上)を動員しました 14 。これに対し、飯野城を守る島津義弘の兵力はわずか300余り(一説には130余りとも 19 )と、圧倒的な兵力差がありました。伊東軍はまず加久藤城(かくとうじょう)を攻撃しますが、城兵の頑強な抵抗と島津方の援軍により攻略に失敗し、木崎原へと後退します 19 。
島津義弘は、この寡兵の状況を逆手に取り、巧みな伏兵戦術と偽りの退却を駆使して伊東軍を誘い込み、奇襲をかけました。油断していた伊東軍は混乱に陥り、伊東祐安をはじめ、伊東新次郎、伊東又次郎、米良筑後守(めらちくごのかみ)といった多くの有力武将が討ち死にし、伊東軍は大敗を喫しました 19 。この戦いにおける伊東軍の戦死者は500名以上(一説には810名とも 14 )にのぼったとされ、一方で島津軍も兵力の大半を失うほどの激戦であったと伝えられています 14 。兵力で圧倒的に優位にありながら大敗したこの戦いは、しばしば「九州の桶狭間」と称されます 14 。
表2:木崎原の戦いにおける両軍の兵力と損害(推定)
軍勢 |
兵力(推定) |
主要な戦死武将(伊東軍) |
総戦死者数(推定) |
出典例 |
伊東軍 |
約3,000名 |
伊東祐安、伊東新次郎、伊東又次郎、米良筑後守など多数 |
約500~810名 |
14 |
島津軍 |
約300名 |
(詳細不明だが多数) |
約160~257名 |
14 |
木崎原の戦いにおける伊東氏の大敗は、単に一戦闘の敗北に留まらず、その後の伊東氏の運命に決定的な影響を与えました。まず、伊東祐安をはじめとする多くの経験豊富な重臣や有力武将を一度に失ったことは、伊東氏の軍事力および統治能力の著しい低下を招きました。これは、単なる兵力の減少以上に、指揮系統の麻痺や、長年にわたり伊東氏を支えてきた指導者層の喪失を意味し、組織としての弱体化は避けられませんでした。
さらに、この敗戦は伊東義祐の権威を大きく失墜させ、家中の動揺を引き起こしました。それまで拡大一方であった伊東氏の勢いに初めて大きな影が落とされ、家臣たちの間には義祐の軍事指導力や情報収集能力に対する不信感が芽生え始めた可能性があります。これが、後の家臣離反や「日向崩れ」へと繋がる遠因となったと考えられます。伊東氏の衰退は、この木崎原の戦いを境として、急速に進んでいくことになります 7 。
木崎原の戦いにおける壊滅的な敗北は、伊東義祐の権威を著しく低下させ、伊東家中には深刻な動揺が広がりました。これまで義祐の強力な指導力のもとに結束していた家臣団の間にも、将来への不安や義祐自身への不満が徐々に表面化し始め、伊東氏の結束は急速に緩んでいきました。このような状況下で、島津氏による調略も活発化し、伊東氏の家臣の離反が相次ぐようになります。
その中でも特に決定的な影響を与えたのが、天正5年(1577年)、伊東氏の対島津防衛の最前線の一つであった野尻城(のじりじょう、現在の宮崎県小林市野尻町)の城主・福永丹波守祐友(ふくながたんばのかみすけとも)の島津方への寝返りでした 20 。福永丹波守は、伊東氏の譜代の家臣であり、その離反は伊東氏にとって大きな衝撃でした。離反の直接的な原因としては、野尻城の兵糧が不足した際に、義祐に対して支援を要請したものの、本拠地である都於郡城で長期間待たされ続けたことへの不満があったと伝えられています 20 。また、この時期の伊東義祐が京都文化への傾倒を深め、奢侈な生活を送っていたことや 11 、中央政庁との関係構築に注力するあまり、辺境の防衛を担う現場の将士への配慮が欠けていた可能性も、こうした不満の背景にあったのかもしれません。
福永丹波守の離反は、単なる一個人の不満に起因するものではなく、木崎原の戦い以降の伊東義祐政権が抱えていた構造的な問題を反映していると見ることができます。義祐の求心力の低下、家臣団統制の緩み、そしてそれを見逃さなかった島津氏による巧みな調略が複合的に作用した結果と言えるでしょう。一つの重要な城が寝返ったことは、ドミノ倒しのように他の支城の放棄や家臣の離反を誘発し、伊東氏の支配体制は短期間のうちに急速な崩壊へと向かいました。この一連の領国喪失の過程は、「伊東崩れ」または「日向崩れ」と呼ばれています。
福永丹波守の寝返りを好機と捉えた島津義久は、本格的な日向侵攻作戦を開始しました。伊東方の諸城は次々と島津軍の手に落ち、あるいは戦わずして開城する城も現れました。伊東義祐は、かつて「伊東四十八城」と誇った広大な領国を維持することができなくなり、天正5年(1577年)末には、本拠地としていた佐土原城(あるいは都於郡城)をも追われ、日向国からの逃亡を余儀なくされました 4 。
この「日向崩れ」により、伊東氏は戦国大名としての地位を事実上失い、義祐をはじめとする一族郎党は流浪の身となりました。最盛期には日向一国に覇を唱えた伊東氏が、木崎原の戦いからわずか数年のうちに、これほどまでに急速かつ完全に崩壊した背景には、木崎原での主力部隊の壊滅による軍事力の著しい低下、それに伴う家臣団の内部崩壊、そして島津氏の周到かつ効果的な軍事・調略戦略があったと考えられます。「伊東四十八城」という広範な支城網は、平時には広大な領国支配の象徴でしたが、一度中心的な統制が失われると、逆に各個撃破されやすい脆弱性を露呈した結果となりました。
日向国を追われた伊東義祐とその一行(次男の伊東祐兵らを含む)は、当時九州北部に広大な勢力を有し、伊東氏とは縁戚関係にもあった豊後国(現在の大分県)の大友宗麟を頼って亡命しました 5 。大友氏と伊東氏は、島津氏という共通の敵を持つという点でも利害が一致しており、義祐にとって大友宗麟は頼るべき唯一の存在でした。
大友宗麟は、亡命してきた伊東義祐を保護し、その旧領回復を支援することを約束します。そして、天正6年(1578年)、宗麟は数万とも言われる大軍を日向国へ派遣し、島津氏との全面対決に踏み切りました。しかし、この大友氏による日向出兵の背景には、単に伊東氏への同情や支援という側面だけでなく、宗麟自身の複雑な思惑があったと指摘されています。宗麟は熱心なキリスト教徒であり、日向国をキリスト教の理想郷(キリシタン王国)にしようという壮大な野望を抱いていたとされ 12 、伊東氏の旧領回復はそのための大義名分であったという見方があります。また、日向国を勢力下に置くことは、大友氏にとって九州南部への影響力拡大という政治的・軍事的利益ももたらすものでした。
このように、伊東義祐の亡命は、大友宗麟にとって日向への勢力拡大と自身の野望を実現するための絶好の機会と映った可能性があります。宗麟の支援は、純粋な同情心からというよりも、自身の政治的・宗教的野心と深く結びついていたと考えられ、伊東氏は結果的に大友氏の壮大な戦略に利用される形で、再び戦乱の渦中に巻き込まれていくことになります。実際、大友家臣団の中には、この日向出兵に対して、島津氏との全面衝突を危惧し、反対する意見も少なからず存在したと伝えられています 21 。
天正6年(1578年)11月、大友宗麟が派遣した大軍は、日向国高城川(現在の宮崎県木城町を流れる小丸川)周辺で、島津義久率いる島津軍と激突しました。この戦いは「耳川の戦い」(高城川の戦いとも呼ばれる)として知られ、九州の戦国史における最大級の合戦の一つです 5 。伊東祐兵ら伊東勢も、大友軍の一部としてこの戦いに加わりましたが、数で勝るはずの大友・伊東連合軍は、島津軍の巧みな伏兵戦術や釣り野伏せといった戦術の前に統制を失い、壊滅的な大敗を喫しました 25 。
この耳川の戦いにおける大敗は、大友氏にとって致命的な打撃となりました。田原親賢(たわら ちかかた)、佐伯惟教(さいき これのり)といった多くの有力武将を失い、その勢力は急速に衰退へと向かいます。伊東氏にとっては、大友氏の支援による日向回復という最後の望みが完全に絶たれたに等しく、その立場はますます苦しいものとなりました 16 。
敗戦後、伊東義祐と祐兵らは、もはや豊後国にも安住の地を見出すことができず、大友領内での肩身は狭くなりました。そのため、彼らは海を渡って伊予国(現在の愛媛県)の道後へ逃れ、河野氏の一族である大内栄運(信孝)を頼ったとされています 16 。しかし、そこでの生活も困窮を極めたと伝えられており、伊東氏の流浪の日々はなおも続くことになったのです。耳川の戦いは、九州の勢力図を島津氏優位へと決定的に塗り替えた戦いであり、伊東氏の運命は、より大きな勢力間の争いに翻弄される形で、一層厳しいものとなっていきました。
耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗を喫した後、伊東義祐とその一行は豊後国での立場を失い、さらなる流浪を余儀なくされました。義祐は、次男の伊東祐兵や少数の家臣と共に、海路で伊予国(現在の愛媛県)へ渡り、河野氏の一族である大内信孝(栄運)を頼ったとされています 16 。しかし、異郷での生活は困窮を極め、かつての家臣であった河崎祐長が酒造りをして生計を立てていたという逸話も残るほどでした 16 。
このような苦難の中で、伊東祐兵は、かつて伊東家に世話になった山伏・三部快永(みつべ かいえい)や、同族である伊東掃部助(いとう かもんのすけ、伊東祐時)の仲介を得て、天正10年(1582年)正月、当時畿内で勢力を拡大しつつあった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕える機会を得ます 16 。祐兵はその後、山崎の戦いなどで武功を挙げ、秀吉のもとで徐々に頭角を現していくことになります。
一方、父である伊東義祐は、祐兵が秀吉に仕えた後も、なお流浪の身であったのか、あるいは祐兵のもとに身を寄せていたのか、その詳細な動向は必ずしも明らかではありません。しかし、かつて日向一国に覇を唱えた栄光の日々とは程遠い、失意の晩年であったことは想像に難くありません。そして、天正13年(1585年)8月5日、伊東義祐は客死したと伝えられています 1 。享年74歳(満73歳)でした。その最期の地については諸説ありますが、日向回復の夢も叶わぬまま、異郷の土となったことは確かです。最盛期には「日向の龍」とまで称された大名が、最後は困窮のうちに生涯を終えるという結末は、戦国時代の過酷さと無常観を象徴していると言えるでしょう。
伊東義祐の人物像を評価するにあたっては、彼の治世における功績と限界、そして武将としての一面と文化人としての一面を多角的に考察する必要があります。
武将として の義祐は、その治世初期から中期にかけて、巧みな戦略と軍事行動によって伊東氏の領土を最大限に拡大し、日向国における確固たる地位を築き上げました。飫肥城の攻略や北原氏領の併合などは、その手腕を示す代表的な事例です。「伊東四十八城」体制を構築し、広大な領国を統治したことは、彼の統率力と組織運営能力の高さを示していると言えるでしょう。しかし、その一方で、治世後半における島津氏との抗争では、木崎原の戦いでの油断や戦術的未熟さによる大敗、そしてその後の「日向崩れ」における家臣団の離反や領国崩壊への対応には、戦略・戦術面での限界や、危機管理能力の欠如、家臣団統制の甘さが見られたと言わざるを得ません。
文化人として の義祐は、京都文化に深い造詣を持ち、和歌を詠むなど 12 、洗練された文化的側面も持ち合わせていました。本拠地である佐土原に京都風の都市計画を施し、金柏寺を建立したことなどは 11 、その文化的な志向の現れです。こうした文化的活動は、伊東氏の権威を高め、領国に先進的な文化をもたらすという側面があった一方で、過度な奢侈に繋がり、伊東氏の財政を圧迫し、また質実剛健を重んじるべき武士の気風を損ねたとして、家臣の離反を招く一因になったという批判も存在します 13 。伊東氏の家臣であった落合兼朝が記したとされる軍記物『日向記』などの史料 3 を通じた評価も、こうした功罪両面を反映しており、一面的に断じることは困難です。
総合的に評価 するならば、伊東義祐は、室町幕府の権威がまだ一定程度残存し、伝統的な価値観が重視された戦国時代前期から中期にかけては、中央との結びつきや文化的な素養を背景に領国を拡大し、成功を収めた大名であったと言えます。しかし、より実力主義が徹底され、下剋上が常態化する戦国時代後期に入ると、島津氏のような新興勢力の台頭や、時代の変化の潮流に十分に対応しきれなかった面が露呈したのではないでしょうか。彼の「驕り」とされる側面 27 は、長期にわたる政権担当や成功体験からくる慢心であったとも考えられ、これが危機管理能力の低下や家臣団との意思疎通の齟齬を招いたのかもしれません。彼の生涯は、栄華と没落が常に隣り合わせであった戦国時代の武将の典型例として、多くの示唆を与えてくれます。
父・伊東義祐と共に日向を追われ、流浪の苦難を味わった次男の伊東祐兵(いとう すけたか、幼名:虎熊丸)は、父の死後も伊東家再興の道を模索し続けました。天正10年(1582年)、祐兵は伊東掃部助らの仲介により羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えることとなり、これが伊東氏にとって大きな転機となります 16 。祐兵は、秀吉の下で山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いに従軍し、武功を挙げて徐々にその信頼を得ていきました 16 。
天正14年(1586年)から翌年にかけて行われた豊臣秀吉による九州平定においては、祐兵は日向国の地理や情勢に明るいことから先導役として抜擢され、黒田孝高(官兵衛)や豊臣秀長に従って軍功を重ねました 16 。九州平定後、秀吉はその功績を賞し、祐兵に対してかつての伊東氏の所領であった日向国飫肥(現在の宮崎県日南市)を中心とする2万8千石(後に加増され最終的には約5万石)の地を与え、大名としての復帰を許しました 5 。これにより、伊東祐兵は飫肥藩の初代藩主となり、伊東氏は約10年ぶりに日向の地に返り咲いたのです。この劇的な家名再興を成し遂げた祐兵は、伊東氏の歴史において「中興の祖」と称えられています 16 。
飫肥藩伊東氏は、その後江戸時代を通じて280年以上にわたり飫肥の地を治め、明治維新を迎えます。維新後は華族に列せられ、子爵の爵位を授けられました 4 。伊東祐兵の成功は、父・義祐の晩年の失敗とは実に対照的です。祐兵は、父の時代の伝統的な権威に固執することなく、織豊政権という新たな時代の潮流を的確に捉え、新たな天下人である秀吉に仕えるという現実的かつ柔軟な選択をすることで、家名を再興し、その後の繁栄の礎を築きました。これは、戦国時代から近世へと移行する激動の時代における、武家の巧みな生き残り戦略の一典型と言えるでしょう。義祐の時代の苦難と失敗が、祐兵にとっては反面教師となり、より現実的で強靭な精神力と判断力を養わせたのかもしれません。
伊東義祐の治世とその後の伊東氏の歴史において、特筆すべき国際的な出来事として、天正遣欧少年使節の派遣が挙げられます。この使節の正使としてローマへ赴き、教皇グレゴリウス13世に謁見した伊東マンショ(本名:伊東祐益(すけます))は、伊東義祐の孫(義祐の嫡男・義益の子)であると一般的に認識されていますが、史料によっては義祐の縁者とする記述も見られます 7 。都於郡城は、伊東マンショの生誕地とも伝えられています 7 。
伊東マンショが天正遣欧少年使節の正使に選ばれた背景には、伊東氏と豊後国の大友宗麟との関係や、当時の九州におけるキリスト教布教の状況が深く関わっています。伊東義祐の嫡男・義益の室は、大友宗麟の姪(妹の子)であり 31 、この縁戚関係を通じて、伊東氏は大友氏の庇護下にあった時期にキリスト教と接触する機会を得ました。特に、日向を追われて豊後に滞在していた時期に、多くの伊東一族がキリスト教の洗礼を受けたとされています 32 。ヴァリニャーノ神父が使節派遣を計画した際、当初は別の大友氏縁者が候補でしたが、都合によりマンショが代役に立てられたという経緯も伝えられています 31 。
伊東氏一族から天正遣欧少年使節の正使が輩出されたことは、伊東氏が戦国時代の日本とヨーロッパとの交流という、世界史的な出来事にも名を残したことを意味します。これは、伊東義祐の時代に培われた大友氏との関係や、その後の流浪の過程で経験したキリスト教との接触が、間接的ながらも影響を与えた結果と言えるでしょう。
伊東義祐は、日向国において一時的に強大な勢力を築き上げ、伊東氏の歴史上、最大の版図と権勢を誇った人物です。その治世は、戦国大名の領国経営、中央政権との関係、地方における文化の様相など、戦国時代史を研究する上で多様なテーマを提供する興味深い事例と言えます。
しかし、その栄華は長続きせず、宿敵である島津氏との熾烈な抗争の末に敗れ、領国を失い流浪の身となった悲劇の武将としても記憶されています。特に木崎原の戦いでの大敗と、その後の「日向崩れ」は、戦国時代の厳しさと無常を象徴する出来事として語り継がれています。
一方で、義祐の死後、その子である伊東祐兵が豊臣秀吉の下で目覚ましい活躍を見せ、かつての旧領である飫肥に大名として復帰し、江戸時代を通じて存続する飫肥藩の礎を築いたことは、伊東氏の歴史における劇的な展開です。これは、戦国時代の社会の流動性と、個人の才覚や時勢への適応がいかに重要であったかを示す好例と言えるでしょう。伊東義祐の生涯とその後の伊東氏の運命は、戦国時代という激動の時代を生きた武家一族の栄枯盛衰の物語として、今日にも多くの示唆を与えてくれます。
伊東義祐は、日向伊東氏の歴史において、最も華々しい時代を築き上げた人物として評価される一方で、その急激な没落を招いた当主としても記憶されています。彼の功績としては、まず伊東氏の版図を最大限に拡大し、日向国の大半を勢力下に置いた点が挙げられます。「伊東四十八城」と称される支城網を整備し、広大な領国を統治する体制を確立しました。また、中央政権である室町幕府との関係を深め、従三位という高位に叙されるなど、伊東氏の家格と権威を大いに高めました。京都文化への傾倒は、領国に先進的な文化をもたらすという側面も持っていました。
しかし、その治世には明確な限界も存在しました。宿敵である島津氏との抗争においては、木崎原の戦いでの戦術的な大敗が、その後の伊東氏衰退の決定的な転換点となりました。この敗戦は、義祐自身の戦略眼の限界や、情報収集・分析能力の不足を露呈した可能性があります。さらに、敗戦後の家臣団の動揺や離反を抑えきれず、「日向崩れ」と呼ばれる急速な領国崩壊を招いたことは、彼の家臣団統制能力や危機管理能力に疑問符を付けざるを得ません。また、京都文化への過度な傾倒や奢侈な生活が、伊東氏の財政を圧迫し、家臣の人心離反を招いた一因となったという批判も根強くあります。
伊東義祐の生涯は、中央の権威が揺らぎ、実力主義が支配する戦国時代において、地方権力がいかにして興隆し、また内外の様々な要因によっていかに脆くも崩壊しうるかを示す、典型的な事例として捉えることができます。彼の物語は、室町幕府の権威を背景に勢力を伸長させた伝統的な守護代クラスの大名が、戦国後期のより厳しい実力競争の時代に適応できずに没落していく過程を鮮明に描き出しています。
その一方で、義祐の子・祐兵が新たな天下人である豊臣秀吉に仕えることで家名を再興し、近世大名として存続させた事実は、戦国時代の社会の流動性と、個人の才覚や時勢への適応がいかに重要であったかを示しています。伊東義祐の栄光と挫折、そしてその子孫による再起の物語は、単なる一地方大名の興亡史に留まらず、リーダーシップのあり方、時代の変化への対応の重要性、そして栄枯盛衰の無常といった、現代にも通じる普遍的な教訓を含んでいると言えるでしょう。
また、本報告の主要な対象である日向伊東氏以外にも、例えば薩摩藩士として島津氏に仕えた伊東氏の家系 5 や、備中岡田藩主となった伊東氏 5 など、伊東姓を名乗る家系が各地に存在したことは、伊東一族の広がりと多様性を示すものであり、日向伊東氏の歴史的文脈をより豊かに理解するための一助となります。伊東義祐という一人の武将の生涯を深く掘り下げることは、戦国時代という複雑で魅力的な時代を多角的に理解する上で、依然として大きな意義を持つと言えます。