日本の戦国時代、特に奥羽地方の歴史を語る上で、伊達政宗という名は圧倒的な輝きを放つ。しかし、その「独眼竜」の勇猛果敢な物語の影には、彼の野望と時代の奔流に翻弄され、数奇な運命を辿った一族の者たちが数多く存在する。本報告書で詳述する伊達盛重(だてもりしげ)は、まさにその象徴的な人物である。
伊達家第十五代当主・晴宗の子として生まれ、政宗の叔父という高貴な血筋を持ちながら 1 、その生涯は伊達家の武将としてよりも、むしろ伊達家から追われ、敵対勢力であった常陸の佐竹家に仕え、その重臣として終えた後半生によって特徴づけられる 2 。利用者様が提示された「病と称して岩出山城に出仕せず、叛意を疑われたため出奔」という逸話は [User Query]、彼の人生の転換点を的確に捉えているが、その背景には、単なる個人の叛意という言葉では片付けられない、伊達家の膨張戦略、国分氏という名門の乗っ取り、そして甥である政宗の苛烈な権力集中策が複雑に絡み合っていた。
本報告書は、伊達盛重という一人の武将の生涯を、生誕から死に至るまで徹底的に追跡するものである。国分氏継承の謎、政宗との確執の真相、そして佐竹家でいかにして新たな地位を築き上げたのかを、史料間の矛盾点を分析しつつ解き明かす。彼の物語は、英雄・政宗の輝かしい功績の裏面史であり、戦国という時代の非情な論理の中で、家と個人の間で引き裂かれながらも、したたかに生き抜こうとした一人の人間の軌跡を浮き彫りにするであろう。
伊達盛重の生涯は、伊達家の勢力拡大政策の駒として、隣接する国衆・国分氏へ送り込まれたことから本格的に動き出す。しかし、この入嗣は決して平穏なものではなく、当初から彼の前途には暗雲が立ち込めていた。
伊達盛重は、天文22年(1553年)、伊達家第十五代当主・伊達晴宗の男子として生を受けた 1 。母は「奥州一の美女」と謳われ、晴宗が岩城家への輿入れの行列を襲撃して娶ったとされる久保姫(岩城重隆の娘)である 1 。これにより、盛重は後に伊達家十七代当主となる政宗の父・輝宗を兄に持ち、政宗から見れば父方の叔父という極めて近しい血縁関係にあった 2 。
晴宗と久保姫の間には、岩城氏を継いだ長兄・親隆、伊達家を継いだ輝宗、留守氏を継いだ政景、石川氏を継いだ昭光など、多くの男子がいた 5 。彼らは父・晴宗の政略により、周辺の有力大名や国衆へ養子として送り込まれ、伊達家の影響力を盤石にするための重要な役割を担った 6 。盛重もまた、その一人であった。
ただし、盛重の出生順については史料によって記述が異なり、「五男」 2 、「六男」 5 、あるいは「十男」 8 といった記録が混在している。この情報の揺れは、兄たちに比べて彼の政治的重要性や期待度が当初は相対的に低かった可能性を示唆している。しかし、彼の姉妹の一人である宝寿院が常陸の雄・佐竹義重の正室となっていたことは 5 、後に彼の運命を大きく左右する重要な伏線となる。
天正5年(1577年)、25歳になった盛重(当時は政重)は、兄・輝宗の命により、陸奥国宮城郡南部(現在の仙台市周辺)に勢力を張る名門・国分氏の後継者として送り込まれた 1 。この入嗣の経緯は、伊達側と国分側の記録で大きく異なっており、事の真相を複雑なものにしている。
仙台藩の公式史書である『伊達治家記録』によれば、この年に国分氏当主・国分盛氏が跡継ぎなく死去したため、家臣の堀江掃部らが伊達家からの当主受け入れを画策し、それに応える形で盛重が入嗣した、と記されている 1 。これは、伊達家の介入が国分氏側の要請に基づく平和的なものであったと正当化する記述である。
しかし、この見解には大きな疑問符が付く。国分氏側に伝わる系図には、盛氏には国分盛顕という実子が存在したと記されており、盛顕の死後に盛重が家督を継いだことになっている 2 。さらに、盛重の入嗣が「代官」としての派遣であったという記録は、彼が当初から正式な当主として迎えられたわけではなかったことを示している 1 。輝宗は、反発する国分家臣に対し、「自分に次男が生まれれば、その子を国分の跡継ぎとする。盛重はそれまでの代官に過ぎない」と約束してまで、事を進めようとした 1 。
これらの史料間の矛盾を突き合わせると、伊達家による国分氏乗っ取りの実態が浮かび上がってくる。「跡継ぎがいない」という理由は、戦国時代において他家の領地を併合する際に頻繁に用いられた口実であった。実際には、伊達家の圧力によって、実子・盛顕がいたにもかかわらず、あるいはその死を好機として、強引に盛重を送り込んだと考えるのが自然であろう。輝宗の「代官」という言葉や将来の跡継ぎに関する約束は、国分家中の激しい抵抗を一時的に懐柔するための方便であった可能性が極めて高い。盛重は、伊達家の膨張戦略の尖兵として、極めて不安定な立場で国分氏の当主となったのである。
盛重の国分統治は、案の定、困難を極めた。国分氏の譜代家臣たちは、伊達家から送り込まれた若き当主を容易には受け入れず、家中は常に不穏な空気に包まれていた。輝宗は重臣の鬼庭良直を派遣して調停を試みたが、事態は好転しなかった 1 。
そして天正15年(1587年)、当主が甥の政宗に代わると、事態は決定的な局面を迎える。家臣の堀江長門守らが再び反抗の動きを見せると、政宗はこれを好機と捉えた 2 。彼は伊東重信らを派遣して形ばかりの調査を行った後、騒乱の責任は叔父・盛重の統治能力の欠如にあると断じ、国分領そのものを攻め滅ぼそうと計画する 2 。
この政宗の強硬な姿勢に対し、盛重は抗うすべを持たなかった。彼は国分領から退去し、政宗の居城である米沢城に赴いて謝罪した 2 。討伐は中止されたものの、この一件を以て国分氏の家臣団は政宗の直属家臣団「国分衆」として再編成され、盛重は領主としての実権を完全に剥奪された 2 。彼は名目上の当主として国分氏を名乗り続けることを許されたが、その統治基盤は完全に失われた。この頃、居城を小泉城(後の若林城の前身)から松森城へ移したと伝えられているが 2 、もはや彼は自らの領地を持たない、伊達家の一武将に過ぎなかったのである。
伊達家の駒として送り込まれた盛重は、その正当性の脆弱さゆえに国分家中を掌握できず、その統治の失敗を今度は甥の政宗に利用され、実権を奪われるという二重の苦難を味わうことになった。この出来事は、後の出奔へと繋がる物語の紛れもない原点であった。
西暦(和暦) |
盛重の年齢 |
出来事(盛重の動向、改名、役職、居城の変遷など) |
関連する歴史的事件(周辺情勢) |
典拠 |
1553年(天文22年) |
1歳 |
伊達晴宗の五男(六男説等あり)として誕生。幼名は彦九郎。 |
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1 |
1577年(天正5年) |
25歳 |
元服し「伊達政重」と名乗る。兄・輝宗の命で国分氏へ「代官」として入嗣。 |
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1 |
1578年(天正6年) |
26歳 |
国分盛顕が死去したとされ、正式に国分氏当主となるか。居城は小泉城。 |
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1 |
1585年(天正13年) |
33歳 |
人取橋の戦い に参陣し、甥・政宗の軍勢として奮戦。 |
伊達輝宗が二本松義継に拉致され死去。 |
12 |
1586-88年頃 |
34-36歳 |
「国分盛重」と改名。 |
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2 |
1587年(天正15年) |
35歳 |
国分家中の反乱が再燃。政宗に統治能力を問われ、討伐されかける。謝罪し、国分衆は政宗の直轄となる。実権を喪失。 |
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2 |
1590年(天正18年) |
38歳 |
豊臣秀吉の小田原征伐。政宗が参陣。 |
豊臣秀吉による奥州仕置。 |
14 |
1591年(天正19年) |
39歳 |
葛西大崎一揆 の鎮圧後、蒲生氏郷の安全を保障するための人質となる。 |
政宗に一揆扇動の嫌疑がかかる。 |
1 |
1591-92年頃 |
39-40歳 |
国分氏から伊達氏に復し、「伊達盛重」と名乗る。 |
政宗、居城を米沢から岩出山へ移す。 |
2 |
1595年(文禄4年) |
43歳 |
秀次事件に際し、政宗への忠誠を誓う連判起請文に「伊達彦九郎盛重」として5番目に署名。 |
豊臣秀次が謀反の疑いで切腹。 |
2 |
1596年 or 1599年 |
44歳 or 47歳 |
病と称し岩出山城への出仕を拒否。叛意を疑われ、政宗に討伐されかける。居城・松森城から 出奔 。 |
史料により年に揺れがある 13 。 |
13 |
1599年-1602年 |
47-50歳 |
姉・宝寿院の嫁ぎ先である常陸の佐竹義宣を頼り亡命。「伊達三河守」を名乗る。柿岡城を与えられたか。 |
関ヶ原の戦い(1600年)。 |
3 |
1602年(慶長7年) |
50歳 |
佐竹氏の秋田転封に従い、秋田へ移る。 横手城 の初代城代に任命され、1,000石を領す。 |
佐竹氏が常陸水戸から出羽秋田へ減転封。 |
2 |
1603年(慶長8年) |
51歳 |
横手城代を更迭される。 |
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22 |
1614年(慶長19年) |
62歳 |
大坂冬の陣 に従軍。今福の戦いで佐竹軍の先鋒として奮戦。 |
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2 |
1615年(元和元年) |
63歳 |
7月15日、死去。大坂夏の陣には病で不参加。墓所は秋田市の白馬寺。 |
大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。 |
1 |
国分領の実権を失った後も、盛重は伊達一門の重鎮として、甥である政宗の下で一定の役割を果たし続けた。しかし、絶対的な権威を確立しようとする若き当主と、かつての国主としての矜持を失いきれない叔父との間には、埋めがたい亀裂が静かに進行していた。
領主としての権力は失ったものの、盛重は伊達軍団の一翼を担う武将としての務めを果たしていた。その働きは、政宗のキャリアにおける重要な局面で確認することができる。
天正13年(1585年)の 人取橋の戦い は、父・輝宗を失ったばかりの若き政宗が、佐竹・蘆名連合軍の圧倒的な兵力に包囲され、絶体絶命の危機に陥った合戦である。この時、盛重は自ら300の兵を率いて参陣し、政宗を救うべく奮戦した 12 。これは、彼が単なる名目上の存在ではなく、伊達家の一員として命を懸けて戦う意志と能力を持っていたことを明確に示している。
さらに、天正18年(1590年)から翌年にかけて発生した 葛西大崎一揆 は、政宗の政治生命を揺るがす大事件であった。豊臣秀吉から一揆扇動の嫌疑をかけられた政宗は、鎮圧軍の総大将であった蒲生氏郷との和解が急務となった。氏郷は、伊達領内を安全に通行するための保証として、政宗の一門重臣である伊達成実か留守政景を人質として差し出すよう要求した 1 。しかし、両名とも出陣中であったため、政宗はその代わりとして叔父である盛重を人質として派遣したのである 1 。当初、氏郷はこの人選に不満を示したものの、最終的には盛重がその役目を果たした 24 。この事実は、盛重が伊達一門の中でも高い格式を持ち、対外的に伊達家を代表しうる人物として、政宗から信頼されていたことを物語っている。
豊臣政権下においても、彼の地位は保証されていた。文禄4年(1595年)、関白秀次謀反事件に連座の嫌疑をかけられた政宗が、家臣一同と共に秀吉へ提出した誓詞には、「伊達彦九郎盛重」の名が、他の一門衆と共に上位(5番目)に記されている 2 。これらの出来事は、盛重が少なくとも表向きは、伊達家中で重んじられる存在であったことを示している。
しかし、水面下では政宗との関係が悪化の一途を辿っていた。その亀裂が決定的に表面化したのが、慶長元年(1596年)または慶長4年(1599年)に起きた出奔事件である(発生年には史料により揺れがある)。
当時、政宗は奥州仕置によって与えられた新たな本拠地、岩出山城にいた 16 。政宗は叔父である盛重に対し、岩出山城への出仕を命じた。ところが、盛重は「病」を理由にこれを拒否したのである 13 。この行動は、主君の命令に対する明確な不服従であり、政宗の逆鱗に触れた。彼は盛重の行動の裏に「叛意あり」と断じ、ただちに討伐軍を差し向ける構えを見せた 3 。
この動きを察知した盛重は、もはや弁明の余地なしと判断したのだろう。彼は妻子や少数の家臣を伴い、居城としていた松森城を脱出。一路、南を目指した 3 。彼の亡命先は、かつて伊達家と奥羽の覇権を争った宿敵、常陸の佐竹義宣のもとであった 1 。
盛重の出奔は、政宗の視点から見れば「主命に背き、叛意を露わにした裏切り行為」と映る。しかし、盛重の置かれた状況を多角的に分析すると、その行動は謀反の企てというよりも、自らの命を守るための最後の手段、すなわち自己防衛的な行動であった可能性が濃厚となる。
第一に、当時の盛重には大規模な謀反を起こすだけの物理的な基盤が存在しなかった。天正15年(1587年)の時点で、彼の軍事力の源泉であった国分衆は政宗の直轄とされており、彼が独自に動かせる兵力は極めて限定的であった 2 。そのような状況で、奥州に覇を唱えつつある政宗に正面から反旗を翻すことは、あまりにも無謀である。
第二に、当時の伊達家中の空気を考慮する必要がある。政宗は葛西大崎一揆を経て、家中における自らの絶対的権力を確立するため、中央集権化を強力に推し進めていた。その過程で、少しでも意に沿わない、あるいは独立性の高い重臣は、たとえ一門であっても警戒の対象となった。従弟の伊達成実や重臣の鬼庭綱元といった功臣でさえ、政宗との確執から一時出奔する事態が起きている 25 。叔父である留守政景や石川昭光も、その処遇を巡って政宗との間に緊張関係が生じることがあった 27 。
この文脈の中に盛重を置くと、彼の立場は極めて危ういものであったことがわかる。彼は他の叔父たちと異なり、養子先の家中を完全に掌握できず、政宗にとって「統治に手間のかかる、利用価値の低い身内」と見なされていた可能性がある。政宗は敵対者には「撫で斬り」も辞さない非情な一面で知られていた 3 。盛重が「病」を口実に出仕を拒んだのは、岩出山城へ赴けば捕縛、あるいは殺害される危険性を現実のものとして察知したからではないか。
結論として、盛重の出奔は、政宗の苛烈な権力掌握術と、それに脅威を感じた一門の古老との間の力関係が破綻した結果であったと言える。それは、伊達家という巨大な権力構造の中で、自らの存在価値を失い、粛清の危機に瀕した者が選んだ、合理的な生存戦略だったのである。
伊達家から追われる身となった盛重であったが、その生涯はここで終わらなかった。彼は敵対勢力であった佐竹氏に身を寄せ、その家臣として第二の人生を歩み始める。それは、単なる亡命者のそれではなく、一人の武将として再びその価値を証明する道程であった。
盛重が亡命先に選んだのは、常陸国太田城を本拠とする佐竹氏であった。これは決して偶然ではない。当時の佐竹家当主・佐竹義宣の母は、盛重の姉にあたる宝寿院であった 1 。すなわち、義宣にとって盛重は母方の叔父であり、この極めて強力な血縁関係が、敵方からの亡命者という異例の事態を受け入れさせた最大の要因であった 2 。
佐竹氏にとって、盛重の亡命は政治的にも大きな意味を持っていた。奥羽の覇権を巡り伊達政宗と激しく対立していた佐竹氏にとって 32 、伊達一門の重鎮が自らを頼ってきたという事実は、伊達家の内部分裂を内外に示す格好の材料となった。盛重は佐竹家臣となった後も「伊達」の姓を名乗り続け、「伊達三河守盛重(あるいは盛宗)」と称したことが記録されている 3 。これは、彼の出自が佐竹家にとって利用価値の高いものであったことを示唆している。彼は客将として迎えられ、一説には常陸国柿岡城を与えられるなど、相応の処遇を受けた 20 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、佐竹義宣は西軍寄りの態度を取ったことが徳川家康の咎めるところとなり、慶長7年(1602年)、常陸水戸54万石から出羽国秋田20万石へと大幅な減転封を命じられた 34 。盛重もまた、新たな主君となった義宣に従い、常陸を離れて北の地、秋田へと移った 2 。
新天地において、盛重には重要な役割が与えられた。秋田藩(久保田藩)の南の玄関口であり、伊達領や最上領と境を接する軍事上の要衝・ 横手城 の初代城代に任命されたのである 21 。知行として1,000石を与えられ、ここに「秋田伊達家」が誕生した 2 。この人事は、盛重が伊達家の内情に通じ、対伊達・対最上の最前線を任せるに足る武将として、義宣から高く評価されていたことを物語っている。
しかし、彼の横手城代としての任期は短く、翌慶長8年(1603年)には更迭され、後任には須田盛秀が就いている 22 。その明確な理由は史料に残されていないが、藩政草創期における人事刷新の一環であったか、あるいは後に問題を起こす養子・宣宗の家中に何らかの統治上の課題があった可能性も考えられる。いずれにせよ、城代を解かれた後も、彼は佐竹一門に準ずる「親類衆」としての高い家格を保持し続けた 18 。
盛重の武将としての最後の輝きは、慶長19年(1614年)の 大坂冬の陣 であった。この時、62歳という老齢にありながら、主君・佐竹義宣に従って大坂へ出陣した 2 。
同年11月26日、大坂城の東方で行われた 鴫野・今福の戦い において、佐竹軍は徳川方として豊臣方の砦を攻撃した。この激戦において、盛重は佐竹軍の先鋒部隊を率いて奮戦したと伝えられている 2 。伊達家を追われた老将が、新天地でその武勇を天下に示す最後の機会であった。
翌年の大坂夏の陣には、病のために従軍することができなかった。そして元和元年(1615年)7月15日、豊臣家が滅亡し、世に元和偃武が告げられて間もなく、盛重は波乱に満ちた63年の生涯を閉じた 1 。その墓は、秋田市新屋の白馬寺に現存し、彼の第二の人生が秋田の地で完結したことを静かに物語っている 1 。
伊達盛重の死後、彼の血脈は二つの全く異なる道を歩むことになった。一つは、彼が築いた秋田藩の「秋田伊達家」。もう一つは、彼が出奔した際に伊達領に残り、後に仙台藩の重臣となった実子・古内重広の家系である。この二つの家の物語は、戦国から江戸へと移行する時代の武家の複雑な家族観と主従関係を鮮やかに映し出している。
盛重が興した秋田伊達家は、彼の実子ではなく、養子が継承した。これは、家を新主君である佐竹氏の体制下に完全に組み込むための政治的な判断であった。
盛重の養嗣子となったのは、佐竹一門である佐竹義久(中務大輔)の三男・ 伊達宣宗 である 1 。宣宗は主君・佐竹義宣から「宣」の一字を拝領するなど、佐竹家との強い結びつきを象徴する存在であった 38 。これにより、秋田伊達家は佐竹家の親類衆として「引渡二番坐」という高い家格を与えられ、藩内での地位を確立した 18 。
しかし、その道のりは平坦ではなかった。二代目の宣宗は、元和8年(1622年)、藩が禁じた邪宗門(大眼宗)の指導者の捕縛に失敗した責を問われて改易され、江戸へ出奔。これにより、秋田伊達家は一時断絶の危機に瀕した 38 。だが、後に宣宗の子・隆宗の代に家名の再興が許され、佐竹宗家から偏諱を受けながら、その家系は幕末まで続くこととなる 37 。父・盛重が築いた新天地での家名は、紆余曲折を経ながらも、確かに後世へと受け継がれていったのである。
一方、盛重の血を引くもう一つの流れは、皮肉にも彼が訣別した伊達家、仙台藩の中にあった。盛重が出奔した際、彼の末子であった平蔵(後の 古内重広 )はまだ幼かった 39 。父と運命を共にせず、山中に逃れた後、姉の嫁ぎ先であり、かつて国分氏の家臣であった古内実綱に引き取られ、その養子となった 1 。
父が「伊達家からの出奔者」であったのに対し、息子は「伊達家への忠臣」としてその生涯を歩む。成長した重広は、その優れた容姿と才覚、特に馬術の腕を伊達政宗に見出される 40 。政宗は、かつて袂を分かった叔父の子である重広を、自身の世子・忠宗(二代藩主)の側近、騎馬指南役として抜擢したのである 40 。
これは、政宗の非情さと合理性を併せ持った為政者としての一面を物語る。盛重個人は許さずとも、その血筋(自身の従甥にあたる)までは根絶やしにせず、有能であれば登用する。重広は父の「罪」が及ぶことなく、その期待に応えて忠宗の代には奉行(家老職)にまで昇進し、仙台藩初期の藩政を支える中枢人物として活躍した 42 。そして万治元年(1658年)、主君・忠宗が没すると、その後を追って殉死を遂げ、忠臣としてその生涯を全うしたのである 41 。
父子の別離は悲劇であったかもしれない。しかし、結果として盛重の血脈は、敵対した二つの大藩それぞれにおいて重臣家として存続するという、極めて稀有な結末を迎えた。これもまた、乱世を生き抜いた盛重の強かな生存戦略の一つの帰結と評価することもできるだろう。
伊達盛重の生涯を詳細に追っていくと、一般に流布するイメージ、特にゲームなどで描かれる「能力の低い一門武将」といった評価 30 が、いかに一面的であるかが明らかになる。この評価は、伊達家の視点から編纂された『伊達治家記録』など、彼の統治の失敗や出奔という結果のみを強調した史料に依拠する部分が大きい 2 。
しかし、本報告書で検証した通り、盛重は決して無能なだけの人物ではなかった。彼は伊達家の膨張政策の駒として困難な国分氏の統治を任され、甥・政宗の苛烈な権力集中策の過程で実権を奪われた。その後の出奔は、謀反ではなく、自らの命と一族を守るための合理的な判断であった。
彼の真価は、その後の後半生にこそ示されている。敵対勢力であった佐竹家において、彼は単なる亡命者としてではなく、血縁と自身の武将としての価値を最大限に活用し、対伊達の最前線である横手城代という要職を任されるほどの信頼を勝ち得た 21 。そして、60歳を超えてなお大坂の陣の先鋒として奮戦し、武人としての名誉を最後まで失わなかった 2 。
伊達盛重の生涯は、伊達政宗という英雄の物語の陰で、多くの国衆や一門の武将たちが経験したであろう運命の縮図である。彼は巨大な権力の奔流に翻弄されながらも、決して流されるだけではなかった。新天地を求めて活路を見出し、二つの藩に自らの血脈を残すことに成功した、したたかな「生存者」として再評価されるべきである。彼の軌跡を理解することは、戦国末期から江戸初期にかけての東北地方の複雑な政治力学と、そこに生きた人々の実像を、より深く、そして人間的に捉えるための重要な鍵となるであろう 3 。