伊達政宗。奥州にその名を轟かせた「独眼竜」の長男として生まれながら、なぜその生涯は東北の地を遠く離れた四国・伊予宇和島で完結したのか。伊達秀宗の人生は、この一つの大きな問いに集約される。彼の物語は、単なる一人の武将の立身出世伝ではない。それは、父である政宗というあまりに巨大な星の光と影の下で、そして豊臣から徳川へと時代の覇権が激しく移り変わる奔流の中で、自らの存在意義を求め続けた一人の人間の記録である 1 。
秀宗の生涯は、栄光と挫折、葛藤と決断の連続であった。豊臣秀吉の寵愛を受け、その名を授かるという栄光の絶頂を経験したかと思えば、徳川の世ではその経歴が仇となり、家督相続の道から外される。父の武功への恩賞として与えられた西国の十万石は、名誉であると同時に、政治の中枢からの隔離を意味した 3 。そして、ようやく手にした自らの国で、父の影と藩政の重圧に苦しみ、取り返しのつかない悲劇を引き起こしてしまう。
本報告書は、伊達秀宗という人物の生涯を、その誕生から死に至るまで、現存する史料を基に多角的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。彼の人生を丹念に追うことは、戦国という旧時代の価値観を持って生まれた者が、江戸という新たな秩序の中でいかに生きるかを模索した、移行期の栄光と悲劇、そして再生の物語を解き明かすことに他ならない。
伊達秀宗は、天正19年(1591年)9月25日、伊達政宗の長男として陸奥国柴田郡村田城にて生を受けた。幼名は兵五郎と名付けられた 5 。この時、父・政宗は豊臣秀吉による奥州仕置を経て、米沢から岩出山へと本拠を移したばかりであり、伊達家にとって激動の時代のことであった。
重要なのは、兵五郎が誕生した時点では、政宗の正室である愛姫(めごひめ)との間に男子がまだいなかったことである。このため、兵五郎は庶子(側室の子)でありながら、周囲からは「御曹司様」と呼ばれ、次期伊達家当主、すなわち家督相続者として目されていた 5 。彼の生涯における最初の、そして最も輝かしい地位は、この「世継ぎ」という立場であった。しかし、その足元は、彼が思う以上に脆いものであった。
秀宗の生涯を考察する上で、その出自の曖昧さは避けて通れない。彼の生母が誰であったかについては、史料によって記述が異なり、現在に至るまで確定していない。
主要な説は二つ存在する。一つは、仙台藩の公式記録である『伊達治家記録』などに散見される、側室の「新造の方(しんぞうのかた)」とする説である 1 。もう一つは、江戸幕府が編纂した大名諸家の系譜『寛政重修諸家譜』などが記す、「飯坂の局(いいさかのつぼね)」とする説である 6 。飯坂の局は飯坂氏の娘で、後に政宗の三男・宗清の養母になったとも伝えられている 9 。史料によっては「新造の方(飯坂局とも)」と併記されたり 1 、「異説あり」と注記されたりする例もあり 5 、その出自には当初から不確かさがつきまとっていた。
この生母に関する記録の不一致は、単なる歴史上の謎として片付けるべきではない。それは、秀宗の出自が伊達家中で絶対的なものではなかったことを強く示唆している。戦国から江戸初期の大名家において、世継ぎの母の出自やその実家の家格は、子の地位を安定させる上で極めて重要な政治的要素であった。母方の一族は、強力な後見人となり得るからである。記録が錯綜しているという事実そのものが、秀宗の母が、愛姫のような正室はもとより、それに準ずるような政治的に有力な家系の出身ではなかった可能性を物語っている。
したがって、秀宗は「御曹司」と呼ばれながらも、その地位は「正室に男子が誕生するまでの間」という、極めて時限的で脆弱な基盤の上に成り立っていたと解釈できる。この生まれながらにして抱えた不安定さこそが、彼の生涯を貫くテーマの序章であり、後の波乱に満ちた運命を予兆するものであった。
兵五郎(秀宗)の運命が大きく動き出すのは、文禄3年(1594年)、彼がわずか4歳の時であった。父・政宗に連れられて京に上り、天下人・豊臣秀吉に拝謁する。これは事実上の人質として差し出されることを意味し、以後、彼は秀吉の膝元である伏見城で養育されることとなった 5 。小田原征伐への参陣遅延などで秀吉の不興を買っていた政宗にとって、愛息を人質に出すことは、豊臣政権への恭順の意を示すための極めて重要な政治的行為であった。幼い秀宗は、この時から伊達家の外交の駒として、時代の奔流に身を投じることになる。
人質生活が始まって間もない文禄4年(1595年)7月、豊臣政権を揺るがす大事件が起こる。秀吉の甥であり関白であった豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ、切腹に追い込まれた「秀次事件」である。秀次と親密な関係にあった政宗もこの事件に連座し、謀反への関与を疑われた。秀吉は政宗に対し、隠居して家督を兵五郎に譲ること、そして伊達家の領地を伊予へ国替えすることを命じた 5 。これは伊達家にとってまさに絶体絶命の危機であった。
この窮地を救ったのが、徳川家康の取りなしであった。政宗は辛うじて許されたものの、秀吉は政宗への警戒を解かなかった。同年8月24日、政宗は在京の重臣19名の連署による起請文の提出を命じられる。その内容は、「もし政宗に逆意ある場合は、ただちに隠居させ、兵五郎を当主として立てる」というものであった 5 。この時、幼い秀宗の存在は、皮肉にも父の野心を抑制し、伊達家そのものを存続させるための担保として利用されたのである。
危機を乗り越えた翌年の文禄5年(1596年)5月9日、秀宗の人生は栄光の頂点を迎える。秀吉の猶子(ゆうし)、すなわち養子に準ずる特別な存在として認められ、その元服は秀吉自身の前で執り行われた。この時、秀吉から偏諱(一字)を授かり、秀吉の「秀」と、伊達家の通字である「宗」を合わせて「秀宗」と名乗ることになった 2 。
この待遇は異例中の異例であった。秀宗は従五位下侍従に叙位・任官され、豊臣の姓を授かるという破格の扱いを受けたのである 5 。秀吉は秀宗を実子・秀頼の遊び相手としてだけでなく、将来の秀頼を支える側近中の側近、いわば豊臣政権の親衛隊とも言うべき人材として育成しようと考えていた。秀吉のこの深い寵愛は、秀宗の立場を一時的に絶対的なものにしたが、同時に彼の将来に拭い去れない刻印を残すことにもなった。
秀吉からのこの厚遇は、秀宗にとって生涯で最も輝かしい栄誉であったに違いない。しかし、それは同時に、彼の運命を決定づける「呪縛」の始まりでもあった。豊臣政権下において彼の地位を保証する最大の強みであった「秀吉の猶子」という経歴は、時代の歯車が逆転した時、彼の立場を致命的に危うくする最大の弱点へと変貌するのである。関ヶ原の戦いを経て徳川が天下の覇権を握ると、豊臣家とこれほどまでに近しい人物を、天下取りの野望を隠さない政宗の後継者としておくことは、徳川幕府にとって到底容認できるものではなかった 3 。秀宗が伊達本家を継げなかった根本的な原因は、単に庶子であったという形式的な理由よりも、この「豊臣家との近さ」という、消すことのできない政治的履歴にこそあった。彼の栄光の絶頂期は、皮肉にも彼の将来の可能性を狭める決定的な要因を内包していたのである。
豊臣秀吉の死後、日本の政治情勢は急速に流動化する。慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と石田三成らを中心とする西軍が激突した関ヶ原の戦いが勃発した時、秀宗は大坂城下にいた。東軍の最有力大名の一人である伊達政宗の長男でありながら、豊臣秀頼の近習という極めて微妙な立場にあった彼は、西軍にとって扱いにくい存在であった。結果として、秀宗は西軍の首脳の一人である宇喜多秀家の屋敷に身柄を移され、事実上、対伊達家の人質として軟禁状態に置かれた 5 。
関ヶ原での東軍の勝利により、秀宗は辛くも難を逃れる。しかし、彼の立場は再び大きく変わることになる。慶長7年(1602年)、秀宗は新たな天下人となった家康に伏見城で拝謁し、今度は徳川家への忠誠の証として、人質として江戸で暮らすことを余儀なくされた 6 。彼の少年期は、豊臣家と徳川家という二つの巨大権力の間を渡り歩く、人質生活に終始したのである。
秀宗の運命を決定的に変えたのは、関ヶ原の戦いの前年、慶長4年(1599年)末の出来事であった。父・政宗の正室・愛姫が、大坂の伊達屋敷で待望の嫡男・虎菊丸(後の伊達忠宗)を出産したのである 8 。この瞬間から、庶長子である秀宗の伊達家における立場は、根底から揺らぎ始める。
そして慶長16年(1611年)、後継者問題は最終的な決着を見る。虎菊丸は江戸城において元服の儀を執り行い、時の将軍・徳川秀忠から直々に一字を賜って「忠宗」と名乗った 3 。将軍が名付け親となるこの儀式は、忠宗が伊達本家の正式な後継者であることを幕府が公認したことを天下に示すものであった。これにより、秀宗が仙台藩主の座を継ぐ道は、完全に断たれたのである。
家督相続の望みが絶たれた秀宗に対し、幕府は彼を徳川の支配体制に組み込むための布石を打つ。慶長14年(1609年)、秀宗は家康の命令により、徳川四天王の一人に数えられる譜代大名筆頭・井伊直政の娘である亀姫と婚約した 5 。これは、豊臣恩顧の秀宗を徳川譜代の重鎮と縁組させることで、彼を徳川の監視下に置き、その影響力を無力化しようとする巧みな政略結婚であった。
秀宗の継承権喪失の物語は、単に正室の子が生まれたという伊達家内の事情だけで語ることはできない。その背景には、豊臣と徳川という二人の天下人の政治的意図が色濃く反映されている。秀吉は、秀宗を「秀頼の家臣」として手元に置くことで、伊達家の次期当主を豊臣の直臣化し、奥州の雄を豊臣政権に深く組み込もうとした 12 。一方で、徳川家康と秀忠は、その「豊臣色」の強い秀宗が伊達家の当主となることを絶対に避けたかった。豊臣と近しい秀宗が当主となれば、父・政宗の野心と結びつき、将来的な脅威になりかねないからである 14 。代わりに、徳川将軍家が名付け親となった忠宗を後継者とすることで、伊達家に対する幕府の影響力を確固たるものにしようとしたのである。
結局のところ、秀宗の人生は、天下人の都合によって「後継者」に祭り上げられ、そして同じく天下人の都合によってその座から引きずり下ろされた、極めて受動的なものであった。彼自身の資質や能力とは無関係に、大局的な政治力学の駒としてその運命が決められていった。この長年にわたる無力感と鬱屈した思いは、彼の心に深い影を落とし、後の宇和島での悲劇の遠因となっていく。
家督相続の道を断たれた秀宗に、武将として自らの存在価値を示す機会が訪れる。慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣である。秀宗は父・政宗に従い、徳川方として参陣し、24歳にして初陣を飾った 1 。愛媛県の公式記録によれば、伊達軍は木津川口や今福・鴫野の戦いに参加し、秀宗も木津・今宮口などを攻めたと記されている 12 。
翌年の夏の陣では、伊達軍は道明寺の戦いなどで豊臣方と激戦を繰り広げた 21 。特に政宗は、味方である神保隊を巻き添えにするほどの凄まじい鉄砲射撃で後藤基次隊を壊滅させたという逸話が残るほど、この戦いに力を注いだ 21 。しかし、これらの戦闘において、秀宗個人がどのような武功を立てたかを具体的に示す記録は乏しい。彼の功績は、伊達軍の一員として参陣し、徳川方への忠誠を示したという点に集約される。
大坂冬の陣が和議によって一旦終結した後、慶長19年(1614年)12月28日、秀宗の運命を再び大きく動かす報せがもたらされる。二代将軍・徳川秀忠から、伊予国宇和郡に十万石の領地を与えられたのである 3 。これは、大坂の陣の論功行賞において、個人に与えられたものとしては最も石高の多い破格の恩賞であった 5 。この一見輝かしい恩賞の背景には、いくつかの理由が複雑に絡み合っていた。
第一に、表向きの理由として、父・政宗の大坂の陣での戦功と、秀宗自身の参陣という忠義に報いるためという名分があった 3 。
第二に、父・政宗による幕府への働きかけである。政宗は、家督を継ぐことのできない長男・秀宗のために、独立した大名家を立てることを以前から望んでいた。大坂の陣に先立ち、政宗は家康と秀忠に対し、秀宗に相応の知行を与えてくれるよう嘆願していたのである 3 。当初、この宇和島の地は政宗自身に与えられたものを、秀宗に譲るという形で実現した 3 。
しかし、最も重要なのは第三の理由、すなわち徳川幕府の深謀遠慮である。幕府の狙いは二つあった。一つは「伊達家分断策」である。東北に巨大な勢力を持つ外様大名・伊達家を、仙台の「東国の伊達」と宇和島の「西国の伊達」に物理的に分断し、その力を削ぐという狙いがあった 1 。もう一つは「危険人物の隔離」である。かつて豊臣秀吉の猶子となり、豊臣家と深い縁を持つ秀宗を、政治の中心地である江戸や、伊達家の本拠地である仙台から遠く離れた四国の僻地へ移すことで、将来的な不安要素を未然に取り除くという意図があった 2 。
幕府は、この処置を円滑に進めるため、巧みな政治的配慮を見せた。宇和島藩は、仙台藩の支藩(分家)という位置づけではなく、独立した「国持大名格」として新規に取り立てられたのである 3 。将軍秀忠は秀宗に対し、「西国の伊達、東国の伊達と相並ぶように」と声をかけたと伝えられる 1 。これは、政宗の面子を立て、秀宗本人にも高い格式を与えることで、この決定を受け入れやすくするための配慮であった。
結局のところ、宇和島十万石の拝領は、一見すると破格の恩賞でありながら、その内実は幕府の巧みな外様大名統制策であり、秀宗にとっては「栄転の体裁をとった事実上の左遷」であったと言える。十万石という石高と国持大名格というステータスは、紛れもなく名誉なことである。しかし、その封土は縁もゆかりもない四国の西端であり、明らかに伊達家の本拠地から引き離す意図が見て取れる。幕府は、政宗の要求を受け入れて秀宗に名誉を与えるという「アメ」と、彼を政治の中枢から遠ざけるという「ムチ」を同時に使い分けたのである。秀宗は、その生涯で再び、自らの意思ではなく巨大な政治権力の都合によって、その居場所を決められることになった。
元和元年(1615年)3月18日、伊達秀宗は板島丸串城(後の宇和島城)に入城し、宇和島藩十万石の初代藩主としての歩みを始めた 4 。しかし、その前途は多難であった。秀宗が入封する以前の宇和島は、戸田氏、藤堂氏、富田氏、そして幕府直轄領と、領主が目まぐるしく交代した影響で、領地は著しく疲弊し、民心も荒んでいた 24 。
藩政を立ち上げるにあたり、秀宗は父・政宗から創業資金として黄金三万両(一説には六万両)という巨額の借財をした 1 。さらに、藩を支える家臣団も、その多くは政宗が伊達家中から選抜した者たちであった。「伊達五十七騎」と呼ばれる精鋭を含む約1200名が、秀宗と共に仙台から宇和島へ移り住んだ 1 。これにより、宇和島藩は創設の当初から、財政的にも人的にも仙台藩、すなわち父・政宗の強い影響下に置かれることとなった。
政宗は、秀宗を補佐させるため、家臣の中から特に力量に優れた山家清兵衛公頼(やんべせいべえきんより)を総奉行に任命し、藩政の実務を委ねた 1 。清兵衛は藩の財政再建と民力の涵養に辣腕を振るい、その治績は大いに挙がったと伝えられている 27 。
しかし、清兵衛の有能さと、彼が政宗の代理人という立場であったことが、藩内に深刻な軋轢を生むことになる。対立の要因は複合的であった。第一に、深刻な財政問題である。政宗からの借金返済に加え、元和6年(1620年)には幕府から大坂城の石垣修復工事(御手伝普請)を命じられ、藩の財政は破綻寸前であった 24 。この費用を捻出するため、総奉行である清兵衛は藩士の知行削減(減給)を含む厳しい緊縮財政を断行せざるを得ず、多くの藩士の反感を買った 24 。
第二に、秀宗と清兵衛の個人的な関係である。清兵衛は、秀宗にとって父・政宗の意向を押し付けてくる「目付役」であり、自らの権威を脅かす煙たい存在であった 24 。そして第三に、藩内の派閥対立である。侍大将の桜田玄蕃をはじめとする反清兵衛派が、秀宗に対し「清兵衛に野心あり」といった讒言(事実を曲げて告げ口すること)を繰り返したことが、秀宗の疑心暗鬼を増幅させた 14 。
元和6年(1620年)6月30日の夜、ついに悲劇が起こる。秀宗は密命を下し、家臣に山家清兵衛を襲撃させ、暗殺したのである 6 。この凶行は清兵衛一人に留まらず、宇和島にいた彼の息子二人(次男・治部、三男・丹治)と、娘婿の塩谷内匠までもが殺害されるという、一族誅殺に近い凄惨な事件となった 28 。
この「和霊騒動」の後、宇和島領内では天災や不審な出来事が相次ぎ、人々はこれを非業の死を遂げた清兵衛の祟りだと恐れた。後に秀宗自身も清兵衛の冤罪を認め、その霊を鎮めるために神社が建立された。これが、現在も宇和島で篤い信仰を集める和霊神社の始まりである 28 。
山家清兵衛暗殺事件は、単なる家臣の粛清として片付けられるものではない。それは、父・政宗の強大な影響力と、藩の財政難という二重の圧力に押し潰されそうになっていた若き藩主・秀宗が、自らの権威と「藩主としての自立」を賭けて起こした、悲劇的な暴発であった。幼少期から人質として他者の意向に翻弄され続けた秀宗にとって、宇和島は初めて得た「自分の国」であったはずである。しかし、その国でさえ父の影がちらつき、思い通りの統治ができない。この長年の鬱屈が、清兵衛という父の代理人を排除する、という歪んだ形での「独立宣言」へと彼を駆り立てたのである。この事件は、宇和島藩というミクロな空間で発生しながらも、その根源には「偉大すぎる父を持った息子の葛藤」と、秀宗の生涯を貫く「他者に運命を決められてきたことへの反発」という、より大きな文脈が存在している。
山家清兵衛殺害という凶報は、遠く仙台の伊達政宗のもとにも届いた。自らが選び、全幅の信頼を置いていた重臣を、息子が独断で惨殺したという事実に、政宗は激怒した。政宗は直ちに秀宗を勘当。そればかりか、老中・土井利勝に対し、秀宗に与えた宇和島藩十万石を幕府へ返上したい、すなわち秀宗を改易(大名の身分剥奪)してほしいと申し出るという、前代未聞の事態にまで発展した 2 。これは、伊達家そのものの存続をも揺るがしかねない、秀宗の生涯における最大の危機であった。
この危機を救ったのは、幕府の冷静な判断であった。老中・土井利勝は、政宗の申し出をすぐには受け入れず、父子の間を取りなした 2 。幕府としても、一度与えた領地をこのような形で取り上げることは、他の大名への示しがつかないという判断があったのだろう。
事件から2年後、土井利勝の仲介により、政宗と秀宗はついに江戸で対面する機会を得た。この場で秀宗は、父に許しを請うだけでなく、それまで胸の内に溜め込んでいた積年の思いの丈を、全てぶちまけた。長男として生まれながら家督を継ぐことができなかった無念。幼い頃から続いた長い人質生活の辛酸。そして、父・政宗に対する複雑な恨みと苦悩。それは、一人の息子から父への、魂の叫びであった 2 。
秀宗の赤裸々な告白に、政宗は静かに耳を傾けた。そして、息子の苦悩を初めて深く理解した。この瞬間、父子の間にあった長年のわだかまりが氷解した。政宗は秀宗の勘当を解き、二人の関係は劇的に修復されたのである 2 。
和解後の父子関係は、以前とは比べ物にならないほど親密なものとなった。二人は頻繁に和歌を詠み交わし、政宗は自身が秘蔵していた名物茶器『唐物小茄子茶入』や、最高級の香木である伽羅の名香『柴舟』といった、金銭には代えがたい宝物を秀宗に贈った 2 。これらは、父から息子への深い愛情の証であり、宇和島伊達家に家宝として長く伝えられることとなる。
この勘当と和解に至る一連の出来事は、秀宗の人生における精神的なクライマックスであった。それまでの秀宗と政宗の関係は、どこか支配者と被支配者、あるいは庇護者と被庇護者という、一方的な権力勾配のあるものであった。清兵衛殺害という破壊的行動は、この関係性を一度完全に破壊した。しかし、その瓦礫の中から、秀宗は初めて父と一人の人間として対等に向き合い、本音をぶつけ、そして許されるという経験をした。これにより、二人の関係は権力に基づいたものではなく、互いの苦悩を理解し合う感情に基づいたものへと質的に変化したのである。
逆説的ではあるが、秀宗は人生最大の過ちを犯した結果として、生涯で最も得たかったもの、すなわち父からの真の理解と愛情を手に入れた。彼は、自らが引き起こした危機を通じて、ようやく「独眼竜の息子」という重圧から解放され、一人の「伊達秀宗」として父に認められたのである。
父・政宗との和解後、秀宗の藩主としての後半生は比較的穏やかなものとなった。しかし、藩が抱える根本的な問題が解決したわけではなかった。政宗から借り受けた巨額の借金の返済は続き、藩財政は依然として厳しかった 24 。このため、藩の自立には殖産興業が急務であった。後の宇和島藩では、和紙(泉貨紙)や木蝋の生産が藩の重要な財源となっていくが、その基礎が秀宗の治世でどの程度築かれたかについては、さらなる研究が待たれる 26 。
晩年の秀宗は病弱となりがちで、政治の実務は早くから長子の宗実や次男の宗時に任せていた。しかし、世継ぎと目された宗時は父に先立って亡くなるという不幸にも見舞われた 5 。
明暦3年(1657年)7月、秀宗は三男の宗利に家督を譲り、隠居する。その際、彼は一つの大きな決断を下した。遺言により、五男の宗純に対し、宇和島藩の領地の中から三万石を分け与え、新たな藩(伊予吉田藩)を立藩させたのである 6 。
この分知により、宇和島藩の石高は十万石から実質七万石へと減少。これにより、幕府の格式付けにおいて「国持大名」から一段下の「城主大名」へと転落することになってしまった。この決定は、宇和島藩の財政をさらに圧迫するとともに、本藩である宇和島藩と支藩である吉田藩との間に、長期にわたる領地の正統性をめぐる争いの火種を残すことになった 26 。
この晩年の分知という決断は、極めて象徴的である。それは、秀宗自身がかつて父・政宗にしてもらったこと、すなわち「家督を継げない息子に別の家を立てさせる」という行為の、まさに模倣であった。彼は、父から受けた配慮を、自らの息子にも施そうとしたのである。しかし、その結果として本藩の力を削ぎ、将来に禍根を残してしまった。この行動は、秀宗が父との和解を経て精神的な自立を果たしたかに見えながらも、その行動原理の根底には常に父・政宗の存在があり、その影響から最後まで逃れられなかったことを物語っている。彼は「西国の伊達」の祖となったが、その藩のあり方さえも、父が彼に与えたモデルに倣ったのである。
隠居の翌年、明暦4年(1658年)6月8日、伊達秀宗は江戸の藩邸にてその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年68であった 5 。
遺骸は海路で宇和島へ運ばれ、生前に秀宗が生母(諸説あり)を弔うために建立していた龍泉寺に葬られた。この寺は後に、秀宗の戒名「等覚寺殿拾遺義山常信大居士」にちなみ、等覚寺と改められた 5 。
秀宗の死に際し、その人柄を偲ばせる出来事が起こる。生前、側近として仕えていた宮崎八郎兵衛と高島太郎衛門は、秀宗が亡くなった翌9日に江戸で、神尾勘解由は18日に、そして渡辺藤左衛門は23日に宇和島で、それぞれ後を追って殉死したのである。この四人の忠臣は、主君の墓の両側に葬られた 6 。幕府が殉死を禁じる「殉死禁止令」を出すわずか5年前のことであり、秀宗が家臣から深く敬愛されていたことを示す最後の証となった。
なお、正室の亀姫(井伊直政の娘)は、秀宗に先立つこと28年、寛永7年(1630年)8月に亡くなり、宇和島の金剛山大隆寺に葬られている 6 。
伊達秀宗の生涯は、彼の意思を超えたところで、父・政宗、天下人・秀吉、そして徳川家康という三つの巨大な権力によって規定され、翻弄され続けたものであった。彼は、戦国の価値観が色濃く残る時代の「貴公子」として生を受けながら、徳川幕府の厳格な秩序の中では生きる場所を見出せず、遠い西国へと追いやられた。
宇和島で起こした山家清兵衛暗殺という悲劇は、彼の長年の鬱屈と、自らの手で運命を切り開こうとするもがきの、最も歪んだ形での表出であった。しかし、彼はその人生最大の危機を乗り越え、父・政宗との真の和解を果たし、精神的な再生を遂げた。そして最終的には、伊予宇和島十万石の大名の祖として家名を後世に伝え、明治維新まで続く宇和島伊達家の礎を築いたのである。
彼の人生は、時代の大きな転換期に、偉大すぎる父の影の下で生きた一人の人間の苦悩と再生を、鮮やかに映し出している。伊達秀宗の物語は、歴史の力学に翻弄されながらも、最後まで自らの足で立ち続けようとした人間の、稀有な証言として、我々に多くのことを語りかけてくる。
西暦(和暦) |
秀宗の年齢 |
伊達秀宗の動向・出来事 |
関連する国内外の動向 |
1591年(天正19年) |
0歳 |
9月25日、伊達政宗の長男として村田城で誕生。幼名・兵五郎。 |
政宗、岩出山城へ移る。 |
1594年(文禄3年) |
4歳 |
父・政宗に伴われ上洛。豊臣秀吉の人質として伏見城で養育される。 |
- |
1595年(文禄4年) |
5歳 |
- |
豊臣秀次事件。父・政宗も連座の危機に陥る。 |
1596年(文禄5年) |
6歳 |
5月9日、秀吉の猶子となり元服。「秀宗」と名乗る。従五位下侍従に叙任。 |
- |
1598年(慶長3年) |
8歳 |
- |
豊臣秀吉、死去。 |
1599年(慶長4年) |
9歳 |
- |
12月、異母弟・虎菊丸(後の忠宗)が誕生。 |
1600年(慶長5年) |
10歳 |
関ヶ原の戦い時、大坂で西軍の宇喜多秀家に預けられ人質となる。 |
関ヶ原の戦い。東軍勝利。 |
1602年(慶長7年) |
12歳 |
徳川家康に拝謁。徳川家の人質として江戸へ移る。 |
- |
1603年(慶長8年) |
13歳 |
- |
徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開府。 |
1609年(慶長14年) |
19歳 |
家康の命により、井伊直政の娘・亀姫と婚約。 |
- |
1611年(慶長16年) |
21歳 |
- |
弟・虎菊丸が元服し「忠宗」と名乗る。伊達本家の後継者が確定。 |
1614年(慶長19年) |
24歳 |
大坂冬の陣に父・政宗と共に参陣し、初陣を飾る。12月28日、伊予宇和島十万石を拝領。 |
大坂冬の陣。 |
1615年(元和元年) |
25歳 |
3月18日、宇和島城に入城。宇和島藩の初代藩主となる。 |
大坂夏の陣。豊臣家滅亡。元和偃武。 |
1620年(元和6年) |
30歳 |
6月30日、総奉行・山家清兵衛を殺害(和霊騒動)。父・政宗に勘当される。 |
幕府、大坂城の修復工事を諸大名に命じる。 |
1622年頃(元和8年頃) |
32歳頃 |
父・政宗と和解し、勘当を解かれる。 |
- |
1630年(寛永7年) |
40歳 |
正室・亀姫が死去。 |
- |
1636年(寛永13年) |
46歳 |
- |
5月24日、父・伊達政宗が死去。 |
1657年(明暦3年) |
67歳 |
7月、三男・宗利に家督を譲り隠居。五男・宗純に三万石を分知し、吉田藩を立藩。 |
明暦の大火。 |
1658年(明暦4年) |
68歳 |
6月8日、江戸藩邸にて死去。 |
弟・伊達忠宗も同年に死去。 |
1663年(寛文3年) |
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幕府、武家諸法度を改訂し「殉死の禁止」を明文化。 |