佐久間勝之(さくま かつゆき、永禄11年/1568年 – 寛永11年/1634年)は、織田信長の天下布武から徳川幕府の盤石化に至る、日本史上最も劇的な時代転換期を生きた武将である 1 。彼の生涯は、主君を次々と変えながらも武功を重ねて生き抜いた「流転の武将」としての一面と、後世に「日本三大灯篭」として知られる巨大な石造物を寄進した「信仰と自己顕示の人物」としての一面を併せ持つ 2 。
「鬼玄蕃(おにげんば)」の異名で知られた猛将の兄・佐久間盛政が賤ヶ岳の戦いで露と消えたのとは対照的に、勝之は巧みに時流を読み解き、最終的に信濃長沼藩一万八千石の大名として家名を存続させることに成功した 1 。彼の処世術の本質はどこにあったのか。また、比較的小さな大名であった彼が、なぜこれほどまでに巨大なモニュメントを建立し得たのか。本報告書は、これらの問いを軸に、現存する史料を丹念に読み解きながら、佐久間勝之の生涯を多角的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。
佐久間氏のルーツは、桓武平氏三浦氏の流れを汲み、三浦義明の孫にあたる家村が安房国平群郡狭隈郷(現在の千葉県安房郡鋸南町)を領したことに始まるとされる 5 。その後、一族は尾張国に移り住み、戦国時代には織田氏に仕える有力な国人領主としてその地位を確立した 6 。
佐久間勝之は、この尾張佐久間氏の一族、佐久間盛次の四男として永禄11年(1568年)に生を受けた 2 。母は、織田家の宿老であり「かかれ柴田」と勇名を馳せた柴田勝家の姉であった 1 。この血縁は、勝之の初期の経歴に大きな影響を及ぼすことになる。彼には三人の兄がいた。長兄の盛政は「鬼玄蕃」と敵から恐れられた猛将であり、賤ヶ岳の戦いで柴田軍の先鋒として奮戦し、敗れて刑死した 5 。次兄の安政は、勝之と共に激動の時代を生き抜き、のちに信濃飯山藩主となる 2 。三兄の勝政は叔父である柴田勝家にその器量を愛され養子となったが、勝家と共に北ノ庄城で最期を遂げたと伝わる 5 。兄弟それぞれが辿った異なる運命は、当時の武将が置かれた過酷な状況を雄弁に物語っている。
勝之が属した佐久間家は分家筋であり、一族の宗家を率いていたのは、勝之の父・盛次の従兄弟にあたる佐久間信盛であった 5 。信盛は織田信長の筆頭家老として絶大な権勢を誇り、巧みな退き戦で「退き佐久間」と称揚されるほどの重鎮であった 5 。彼は織田軍団の中核を担い、その存在は佐久間一族全体の地位を保証するものであった 6 。
しかし天正8年(1580年)、その信盛が、石山本願寺攻めにおける不手際などを理由に、信長から19ヶ条にもわたる折檻状を突きつけられ、突如として織田家から追放されるという事件が起こる 10 。この出来事は、織田家における旧来の門閥主義から、実力本位の能力主義へと移行する時代の変化を象徴するものであった。
この一族の総領格であった信盛の失脚は、分家筋である勝之の将来にも暗い影を落としたに違いない。一族の威光という後ろ盾が失われ、織田家中にあって佐久間一族の立場が微妙になったことは想像に難くない 6 。勝之の父や兄たちは柴田勝家の与力として北陸戦線で活動を続けていたため、直ちに失脚したわけではなかったが 9 、一族の筆頭を失ったことによる不安定さは拭えなかったであろう。このような状況下で、勝之のような若武者にとっては、もはや一族の権威に頼ることはできず、自らの武功と才覚によってその価値を証明する以外に生き残る道はなかった。後の彼の経歴に見られる、主家が滅んでも次の仕官先を粘り強く見出すしたたかさや、徳川家に対して巨大な灯篭という目に見える形で忠誠を表明しようとする姿勢は、この「一族の安泰は決して絶対ではない」という青年期の強烈な原体験から生まれた、切実な生存戦略の表れであったと解釈することができよう。
佐久間勝之の武将としてのキャリアは、天正10年(1582年)の織田信忠を総大将とする甲州征伐、その中での信濃高遠城攻めから始まった。この初陣で彼は功名を挙げたとされる 2 。本能寺の変の後、織田家が分裂すると、彼はその血縁を頼り、叔父である柴田勝家の養子となった。その後、勝家の盟友であった佐々成政の娘を娶り、その婿養子となっている 2 。これらの縁組は、当時羽柴秀吉と対立していた柴田・佐々という北陸方面軍の有力者との連携を強化する政略的な意味合いが強かった。なお、『寛永諸家系図伝』には「佐々成政の養子で柴田勝家の婿」と記されており、養子と婿の関係が逆転しているが 2 、これは後世の編纂過程における混乱と考えられ、彼が両家と極めて密接な関係にあったという事実が重要である。
天正13年(1585年)、佐々成政が秀吉の圧倒的な軍事力の前に降伏すると、勝之は成政の娘と離縁し、兄・安政と共に秀吉の支配を離れ、関東の雄であった後北条氏に仕官する 2 。これは秀吉への反骨心を示すと同時に、新たな活路を求めた現実的な選択であった。この後北条氏に仕えていた時期、相模国小田原にて嫡男の勝年が誕生している 16 。
しかし、その安住の地も長くは続かなかった。天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐によって後北条氏は滅亡。勝之は再び主を失い、一時潜伏を余儀なくされる。しかし、彼の武勇を惜しんだ秀吉は、遠縁にあたる奥山盛昭の仲介を通じて彼を召し出し、罪を許して佐久間姓への復帰を認めた 2 。敵対した武将であっても、有能であれば登用する秀吉の人材観を示す一例である。
秀吉の配下に戻った勝之は、名将として知られる蒲生氏郷の与力(付属)として配属され、兄・安政と共に氏郷に従って奥州へと赴いた 2 。勝之は出羽国手ノ子の城(現在の山形県西置賜郡飯豊町)を預かることになる 2 。奥州仕置後の混乱の中で発生した葛西大崎一揆の鎮圧において、勝之・安政兄弟は大きな武功を挙げたと記録されている 2 。
この時期の勝之を語る上で欠かせないのが、『佐久間軍記』に記された逸話である。それによれば、一揆を裏で扇動していたと疑われる伊達政宗が、氏郷を酒席に招いて暗殺を企てた際、勝之がその殺気をいち早く察知し、機転を利かせて氏郷を座から退席させ、難を逃れさせたという 2 。
この逸話は、江戸時代初期に成立した軍記物である『佐久間軍記』を主な典拠としており 21 、伊達家の公式記録など他の一次史料で裏付けられるものではないため、その史実性には慎重な検討を要する 22 。しかし、この物語が持つ意味は大きい。秀吉からも高く評価された当代きっての名将・蒲生氏郷を救ったという逸話は、勝之の評価を大いに高める効果がある 17 。それは、彼を単なる武勇の士としてだけでなく、主君の危機を察知する洞察力とそれを回避させる機転、すなわち「智」と「忠義」を兼ね備えた理想的な武将として描き出すための、極めて効果的な物語装置として機能している。興味深いことに、『佐久間軍記』には、徳川家康の「神君伊賀越え」に勝之が偶然居合わせ、伊勢まで同行したという、これもまた他の史料では確認できない記述が見られる 20 。これもまた、勝之と徳川家の間に浅からぬ因縁があったことを演出し、後の厚遇を必然であったかのように見せるための物語的作為と見ることができる。これらの逸話は、史実として断定することはできないものの、佐久間家、あるいはその関係者が、家の由緒を後世に伝えるにあたり、始祖である勝之をいかに理想的な武将として顕彰しようとしたかの意志の表れとして、非常に興味深い史料と言えよう。
蒲生氏郷が文禄4年(1595年)に急逝すると、勝之は秀吉のもとに呼び戻され、伏見城で直接仕えることとなった 2 。この頃、秀吉から信濃国長沼城を与えられたという話も伝わるが、実際に知行が与えられることはなかったようである 2 。そして慶長3年(1598年)、天下人・豊臣秀吉がこの世を去る。その後継者である秀頼はまだ幼く、政権内部では五大老筆頭の徳川家康が急速にその影響力を強めていった。この権力の移行期において、勝之は家康の采配により近江国山路に3,000石を与えられた 14 。この時点で、彼の運命の舵は、大きく徳川家へと切られることになった。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、勝之は迷うことなく東軍に属した 1 。この戦いにおける彼の具体的な戦闘参加の記録は乏しいが、この人生を賭した選択が、後の大名への道を決定づけたことは間違いない。
関ヶ原の戦後、勝之は徳川家臣として着実にその地位を固めていく。慶長12年(1607年)、江戸城内への移転に際し、常陸国北条(現在の茨城県つくば市)に3,000石を加増され、既存の所領と合わせて合計1万石の大名に列せられた 14 。これが常陸北条藩の成立であり、勝之は城持ちではないが、一国一城の主となったのである 26 。
彼の武将としての最後の見せ場は、豊臣家との最終決戦である大坂の陣であった。慶長19年(1614年)の冬の陣、そして翌元和元年(1615年)の夏の陣に、勝之は徳川方として参陣した 1 。特に夏の陣では、豊臣方の将・竹田永翁を討ち取るという具体的な手柄を挙げたとされる 14 。江戸時代に編纂された大名家の系譜集『藩翰譜』には、この戦で首級10を挙げたと記されており、その奮戦ぶりが窺える 22 。
この大坂の陣における戦功が評価され、同年、勝之は信濃国川中島(水内郡)と近江国高島郡内に加増を受け、知行は合計1万8,000石となった。そして、信濃長沼藩へ転封となり、初代藩主の座に就いたのである 1 。奇しくも、兄の安政も同時期に信濃飯山藩主となっており、佐久間兄弟が揃って北信濃の要衝を抑えるという形で、徳川幕府の地方支配の一翼を担うことになった 29 。
元和2年(1616年)、佐久間勝之は信濃長沼藩の初代藩主として長沼城に入った。彼の所領は、信濃国水内郡の17か村(約1万2,500石)を中核に、近江国高島郡10か村、そして旧領である常陸国筑波郡2か村にまたがる、合計1万8,000石の分散した知行地であった 29 。藩庁が置かれた長沼城は、かつて武田信玄が上杉謙信との対決に備えて築城したと伝わる要害の地である 30 。
しかし、初代藩主としての勝之の具体的な治績、例えば検地の実施や新田開発、あるいは領民に対する法令の発布といった藩政に関する詳細な記録は、残念ながら現存する資料からはほとんど見出すことができない 16 。長沼の地が千曲川の左岸に位置する洪水常襲地帯であったことから 30 、治水事業は藩政における最重要課題の一つであったと強く推察されるが、佐久間氏の時代に行われた具体的な普請の記録は見当たらないのが現状である 34 。これは、後述する佐久間家の改易などによって、藩政に関する文書の多くが散逸してしまった可能性を示唆している。
藩主としての治績は不明な点が多い勝之だが、家の存続に対する配慮は周到であった。彼には二人の息子がいたが、嫡男の勝年(かつとし)は、父と共に大坂の陣などで戦功を挙げ、将来を嘱望されながらも、寛永7年(1630年)に父に先立ってこの世を去ってしまう 16 。
このため、寛永11年(1634年)に勝之が亡くなると、家督は次男の勝友(かつとも)が継承した 14 。勝友は藩主就任にあたり、重要な決断を下す。早世した兄・勝年の遺児である甥の勝盛(かつもり)に対し、遺領の中から5,000石を分与し、幕府の直臣である旗本として別家を立てさせたのである 14 。これは「長沼知行所」と呼ばれた。さらに、三代藩主となった勝友の子・勝豊も、自らの弟である勝興(かつおき)に3,000石を分与し、これもまた旗本(赤沼知行所)として分家させた 29 。
戦国時代とは異なり、武功による新たな領地獲得の機会が絶たれた江戸時代において、大名家の存続は、幕府との関係を良好に保ち、何よりも跡継ぎを絶やさないことに懸かっていた。嫡男・勝年の早世は、勝之にとって家の将来に対する大きな不安材料であったに違いない。彼の遺志を継いだと思われる勝友・勝豊が、相次いで甥や弟に分知し、複数の旗本家を創設した行為は、単なる財産分与ではなかった。それは、本家である長沼藩に万一の事態、すなわち嗣子断絶や改易といった危機が訪れたとしても、分家が旗本として存続していれば、「佐久間」の家名と血脈は幕臣として生き残ることができるという、極めて計算されたリスク分散戦略であった。実際に、長沼藩は後に改易の憂き目に遭うが、これらの分家筋の一部は幕臣として存続しており 6 、勝之らが描いたであろう存続戦略が、結果として功を奏したことを示している。
佐久間勝之の名を不朽のものとしているのは、戦場での武功以上に、彼が後世に残した比類なき文化的遺産である。彼はその晩年、名古屋の熱田神宮、京都の南禅寺、そして江戸の上野東照宮に、いずれも高さ6メートルを超える巨大な石灯籠を相次いで寄進した。これらは今日、「日本三大灯篭」と総称され、すべて一個人の寄進によるという点で他に例を見ない壮大な事業であった 3 。
それぞれの灯篭には、異なる寄進の背景と目的があった。
これら三つの灯篭に関する情報を以下にまとめる。
名称 |
所在地 |
寄進年 |
高さ |
寄進の背景・目的 |
特記事項 |
佐久間灯籠 |
名古屋市・熱田神宮 |
寛永7年 (1630年) |
約8.0m |
海難事故からの生還に対する感謝 22 |
日本三大灯篭の中で最大 53 。六角形の雄大な姿を持つ 51 。 |
佐久間灯籠 |
京都市・南禅寺 |
寛永5年 (1628年) |
約6.0m |
藤堂高虎による三門再建の落慶記念 4 |
「東洋一の灯籠」と称されることもある 59 。銘は以心崇伝筆と伝わる 22 。 |
お化け灯籠 |
東京都・上野東照宮 |
寛永8年 (1631年) |
約6.06m |
徳川家康を祀る東照宮への奉納。幕府への忠誠の証 4 |
巨大さ故の異名を持つ 47 。寄進資格(十万石以上)を巡る俗説が存在する 48 。 |
佐久間勝之による一連の灯篭寄進は、単なる篤い信仰心の発露としてのみ解釈することはできない。それは、彼の人生のステージが、戦場での武功によって自らを証明する「生存」の段階から、泰平の世において自らの存在と家格を永続的に「顕示」する段階へと移行したことを象徴する、極めて戦略的な行為であった。
彼のキャリア前半は、主家を渡り歩き、戦場で功を挙げるという、典型的な戦国武将の生き様そのものであった 2 。しかし、大坂の陣が終結し、世が泰平になると、武功を立てる機会は永遠に失われた。大名の価値は、もはや武勇よりも幕府への忠誠や藩の統治能力によって測られる時代が到来したのである。この時、勝之は一万八千石の外様大名であり、その石高は他の有力大名に比して見劣りするものであった 1 。
ここで彼は、自らの存在価値を示すための戦略を「武」から「文化・宗教」へと大きく転換させた。城の新規築城や大規模な軍役が厳しく制限される中で、彼は寺社への巨大な寄進という形で、自らの財力、篤い信仰心、そして幕府中枢との繋がりを天下に知らしめようとしたのである 4 。特に注目すべきは、藤堂高虎との関係である。高虎は築城の名手として、巨大な建造物によってその名を天下に轟かせた人物であった。その高虎が威信をかけて再建した南禅寺三門のすぐそばに、まるで対抗するかのような巨大灯籠を建立した行為は 4 、単なる追従ではなく、自らも高虎に比肩する存在であると示そうとする、勝之の負けず嫌いな性格と強い自己顕示欲の表れと解釈することができよう。
結果として、彼が興した藩は孫の代で改易という結末を迎えるが、「日本三大灯篭の寄進者」としてその名は400年近く経った現代にまで鮮やかに伝わっている。これは、彼の「顕示」の戦略が、藩の存続という点では果たせなかったものの、一個人の名を歴史に刻むという点においては、大いなる成功を収めたことを意味している。
寛永11年(1634年)、佐久間勝之は駿府城加番に任じられた 2 。駿府は、大御所・徳川家康が晩年を過ごした幕府の最重要拠点の一つであり、その城の守りを任されることは、彼が幕府から一定の信頼を得ていたことを示すものであった。しかし、これが彼の最後の役職となった。同年11月12日、勝之は在勤中の駿府にて、67年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。遺体は駿府の顕光院に葬られたと伝わる 2 。後に子孫によって江戸高輪の広岳院に墓所が移されたとも言われている 22 。
勝之が築いた信濃長沼藩は、次男・勝友、孫・勝豊へと継承された 6 。三代藩主・勝豊の時代には、領内検地を実施して表高一万石に対して三千石余りの増高を打ち出すなど、藩政の安定化に努めた様子が窺える 63 。しかし、佐久間家の治世は長くは続かなかった。
貞享2年(1685年)、勝豊の養子であった勝親(かつちか)が四代藩主となる 6 。そのわずか3年後の元禄元年(1688年)、五代将軍・徳川綱吉から将軍側近である側小姓に任命されるという栄誉を得たが、勝親はこれを病と称して辞退した。ところが、これが仮病であったことが発覚し、綱吉の逆鱗に触れることとなる。結果、佐久間家は「将軍への不敬」を理由に改易(除封)という最も厳しい処分を受け、長沼藩は73年の歴史に幕を閉じた 14 。
この長沼藩の改易は、単に藩主個人の資質の問題に帰するべきではない。佐久間家は、「鬼玄蕃」盛政に代表されるように、武勇を誇りとする戦国の遺風を色濃く残す家柄であった。一方、徳川綱吉の治世は、「生類憐みの令」に象徴されるように、将軍の権威が絶対化され、武断よりも文治や儀礼が重んじられる時代であった 64 。将軍の側仕えという名誉ある役目を、仮病を使ってまで辞退した勝親の行為は、綱吉の目には将軍の威光を軽んじる許しがたい「不敬」と映ったのである。これは、もはや個人の武勇や家柄だけでは通用しない、将軍への絶対的な恭順が求められる江戸時代中期の武家社会の厳しさを示す象徴的な事件であった。戦国の世を生き抜いた勝之が築いた藩も、時代の大きな潮流の変化には抗うことができなかったのである。
大名としての佐久間家は断絶したが、その血脈が途絶えたわけではない。勝之の先見の明ともいえる分家政策により、旗本として分立した家系は幕臣として存続した 6 。また、兄・盛政の娘が豊後岡藩主・中川秀成に嫁いだ縁から、勝之の娘も岡藩の家老と結婚するなど、他家との姻戚関係を通じてその血は受け継がれていった 6 。勝之が興した大名家はわずか73年で終わったが、彼が残した血と、そして何よりも巨大な石の遺産は、時代を超えて生き続けたのである。
佐久間勝之の生涯は、戦国乱世を生き抜くための「生存」の巧みさと、泰平の世で自らの名を刻むための「顕示」の意志という、二つの鮮やかなキーワードによって要約することができる。
彼は、兄・盛政のように戦場で華々しく散るという美学とは一線を画し、主君を変え、時には潜伏し、あらゆる縁故を頼りながらも、武将としての本分を全うし続けた。そのしたたかな処世術は、理想論では生き残れない激動の時代における、現実的な生存戦略の好例である。
そして、大名という地位を確立した後は、その財力と人脈を駆使して、他に類例のない巨大な石灯籠を建立するという大事業に乗り出した。これは、もはや武功では自己を表現できなくなった時代における、新たな自己実現の形であった。それは篤い信仰心の表れであると同時に、幕府への忠誠をアピールする政治的行為であり、そして何よりも「佐久間勝之」という一個人の存在を、朽ちることのない石に刻みつけようとする強烈な意志の表れであった。
結果として、彼が心血を注いで興した藩は、孫の代で潰えた。しかし、彼が人生の最終章で選択した「顕示」の戦略は、時代を超えて驚くべき成功を収めた。佐久間勝之の名は、彼が仕えたどの主君よりも、あるいは彼が治めたどの藩よりも永く、そして大きく、日本三大灯篭の寄進者として、400年後の我々の記憶にも鮮明に残り続けている。それは、一人の武将が自らの生きた証を後世に伝えようとした、壮大な試みの勝利の証左と言えるだろう。