日本の戦国時代から江戸時代初期にかけては、数多の武将が歴史の表舞台に登場し、そして消えていった激動の時代である。その中で、「鬼玄蕃(おにげんば)」の異名で恐れられ、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いにその武勇を刻みつけて散った佐久間盛政は、敗者でありながらも華々しい武将として記憶されている。しかし、本報告書が光を当てるのは、その盛政の実弟、佐久間安政である。彼は、兄とは対照的に、敗北と流浪の苦難を乗り越え、巧みな処世術と不屈の精神で生き抜き、最終的には信濃飯山三万石の大名として家名を再興した人物である。
安政の生涯は、一族の崩壊という絶望的な状況から、いかにして再起を果たしたのかという問いを我々に投げかける。兄・盛政が戦場での「武」にその生涯を賭したのに対し、安政の軌跡は、政治的な交渉力、時勢を見極める先見性、そして何よりも時代の変化に適応する柔軟性という、いわば「知」と「適応力」の物語であった。彼の生き様は、戦国時代の単純な勝者と敗者の二元論では捉えきれない、武家の多様な生存戦略を示す貴重な事例である。本報告書では、安政の73年間の生涯を丹念に追い、彼がどのようにして時代の奔流を渡りきったのか、その実像を徹底的に解明することを目的とする。
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
仕えた主君 |
石高・役職 |
1555年(弘治元年) |
1歳 |
尾張国にて佐久間盛次の次男として誕生。 |
― |
― |
1574年(天正2年)頃 |
20歳 |
畠山家臣・保田知宗の婿養子となり、保田姓を名乗る。養父と共に織田信長に仕える。 |
畠山氏→織田信長 |
― |
1576年(天正4年) |
22歳 |
石山本願寺攻めに参加(佐久間信盛麾下)。 |
織田信長 |
― |
1583年(天正11年) |
29歳 |
賤ヶ岳の戦いで柴田方として参戦。兄・盛政、養父・知宗が戦死し、敗走。紀州へ落ち延びる 1 。 |
柴田勝家 |
― |
1584年(天正12年) |
30歳 |
小牧・長久手の戦いで徳川・織田連合軍に与し、岸和田城の中村一氏と交戦。 |
織田信雄 |
― |
1585年(天正13年) |
31歳 |
秀吉の紀州征伐後、家康の口利きで小田原北条氏に身を寄せる 1 。 |
北条氏政 |
― |
1590年(天正18年) |
36歳 |
小田原征伐で北条氏が滅亡。赦免され、蒲生氏郷の家臣となる 1 。 |
蒲生氏郷 |
― |
1595年(文禄4年) |
41歳 |
蒲生氏郷の死後、豊臣秀吉の直臣となり、近江高島郡等で7千石を領する。 |
豊臣秀吉 |
7千石 |
1600年(慶長5年) |
46歳 |
関ヶ原の戦いで東軍に属し戦功。8千石を加増され、合計1万5千石の大名となる。 |
徳川家康 |
1万5千石 |
1607年(慶長12年) |
53歳 |
5千石を加増され、2万石となる。 |
徳川家康 |
2万石 |
1615年(元和元年) |
61歳 |
大坂の陣で戦功。1万石を加増され、信濃飯山藩3万石の初代藩主となる。 |
徳川家康 |
3万石 |
1617年(元和3年) |
63歳 |
二代将軍・徳川秀忠の御伽衆に任ぜられる。 |
徳川秀忠 |
飯山藩主、御伽衆 |
1627年(寛永4年) |
73歳 |
江戸にて死去。 |
徳川秀忠 |
― |
佐久間氏は、桓武平氏三浦氏の血を引く名門の出であり、その祖は鎌倉幕府の有力御家人であった三浦義明の孫、佐久間家村に遡るとされる。尾張国御器所(現在の名古屋市昭和区御器所)を本拠とし、織田信長の父・信秀の代から織田家に仕える譜代の家臣であった。
織田家中における佐久間一族は、決して一枚岩ではなかった。信長の重臣筆頭として絶大な権勢を誇った佐久間信盛の家系と、安政が属する佐久間盛次の家系は、同族ではあるものの、比較的早い段階で分かれた遠縁の関係にあった。この一族内での微妙な力関係と距離感は、後に信盛が信長の勘気を被り追放された際に、安政の家系がその連座を免れる一因となった可能性も考えられる。
佐久間安政は、弘治元年(1555年)、織田家家臣・佐久間盛次の次男として尾張国で生を受けた。通称は当初「久六」、後に「久右衛門」と改めている。父・盛次は、織田信秀に臣従した佐久間盛重(久六)の家系に連なる武将であった。
安政の運命を大きく左右することになるのが、その母方の血縁である。母は、織田家中で「掛かれ柴田」と勇猛を謳われた宿老・柴田勝家の妹(あるいは姉)であった。これにより、安政ら兄弟は勝家の甥という極めて有利な立場を得ることになる。この血縁は、織田政権下での栄達への道を拓く強力な後ろ盾となった一方で、本能寺の変後の政争においては、彼らが否応なく勝家方に与する運命を決定づける、諸刃の剣でもあった。
安政には三人の兄弟がいた。長兄は、後に「鬼玄蕃」と恐れられる猛将・佐久間盛政。三男は、叔父・柴田勝家の養子となった柴田勝政。そして四男(末弟)が、安政と流浪の生涯を共にし、後に信濃長沼藩主となる佐久間勝之である。この四兄弟の結束とそれぞれの運命が、佐久間盛次家の物語を彩ることになる。
戦国時代の武家の次男坊の多くがそうであったように、家督を継ぐ立場にない安政もまた、他家への養子入りという道を歩む。彼は当初、紀伊・河内両国を支配した守護大名・畠山氏の家臣であった保田知宗(やすだともむね)の婿養子となり、「保田久六」を名乗った。
この養子縁組は、政治的な背景を持つものであった。元亀4年(1573年)、保田知宗の主君であった畠山秋高が、守護代の遊佐信教によって殺害されるという事件が起こる。主家を失った知宗は、新たな主君として織田信長に接近し、その際に恭順の証として娘を人質に差し出した。安政は、この娘の婿として保田家に迎えられたと考えられている。これは、安政個人の意思というよりも、織田家への帰属を望む保田家と、勢力拡大を図る佐久間家の利害が一致した結果であった。
主家の滅亡という流転を経験した安政は、養父・知宗と共に正式に織田信長の家臣となる。当初は一族の総領格である佐久間信盛の指揮下に入り、天正4年(1576年)からの石山本願寺攻めに参加した記録が残っている。同年、石山合戦の一環である三津寺攻めにおいて、養父・知宗の実子が討死するという悲劇に見舞われる。この後、安政が名実ともに保田家の後継者としての立場を固めたとみられる。このように、安政の青年期は、武家の次男としての典型的な道を歩みつつも、主家の没落という予期せぬ事態に翻弄される、波乱に満ちた幕開けであった。この経験は、特定の主家に殉じるのではなく、時勢を読んで有力な勢力に身を寄せるという、後の彼の「適応的」な生き方の原体験となったのかもしれない。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって織田信長が横死すると、織田家の巨大な権力構造は崩壊し、後継者の座を巡る激しい内部抗争が勃発した。信長の後継者を決定するために開かれた清洲会議を経て、筆頭家老であった叔父・柴田勝家と、信長の仇を討ち急速に台頭した羽柴秀吉との対立は、もはや避けられないものとなっていた。
安政にとって、進むべき道に迷いはなかった。母が勝家の姉妹であるという強固な血縁関係に基づき、彼は兄・盛政、弟・勝政、そして養父・保田知宗ら一族郎党を率いて、叔父である勝家の軍勢に馳せ参じた 1 。佐久間一族の運命は、勝家と一蓮托生となったのである。
天正11年(1583年)4月、両者の対立はついに近江国・賤ヶ岳での軍事衝突に至る。戦線が膠着する中、秀吉が美濃で挙兵した織田信孝を討伐するため一時的に前線を離れた。この機を好機と見たのが、安政の兄、「鬼玄蕃」佐久間盛政であった。盛政は、持久戦を説く勝家の制止を振り切り、秀吉軍が築いた砦群への大規模な奇襲攻撃、いわゆる「中入り」を敢行する。
この作戦において、安政は兄・盛政が率いる部隊の先鋒という重要な役割を担った。彼の部隊は、秀吉方の勇将・中川清秀が守る大岩山砦に殺到し、これを攻略 1 。激戦の末、清秀を討ち取るという大きな戦果を挙げた。緒戦における佐久間隊の奮戦は目覚ましく、柴田軍優位の報が戦場を駆け巡った。
しかし、この勝利が悲劇の序章となる。戦果に酔いしれた盛政は、好機と見てさらに攻勢を続けようとし、勝家からの再三にわたる撤退命令に従わなかった。この戦略的判断の誤りが、致命的な結果を招く。秀吉は、盛政の動きを察知するや、わずか半日で戦場に舞い戻るという驚異的な機動力(美濃大返し)を見せた。これにより、敵陣深くに突出していた佐久間隊は完全に敵中に孤立してしまったのである。
秀吉本軍の猛攻に晒された佐久間隊は、たちまち窮地に陥った。さらに、柴田方の有力武将であった前田利家が突如戦線を離脱したことで、柴田軍の士気は崩壊し、全軍が総崩れとなった。
この地獄のような乱戦の中で、安政は一族の支柱を次々と失っていく。養父の保田知宗は奮戦の末に討死 1 。兄・盛政は戦場からの離脱を図るも捕縛され、後に京の六条河原で斬首に処された。そして、一族の最大の庇護者であった叔父・柴田勝家も、居城である越前・北ノ庄城にて妻のお市の方と共に自刃し、柴田家は滅亡した。
安政の生還は、彼の立場が兄・盛政とは異なっていたことに起因する。戦略的判断を誤り、命令違反を犯した盛政は、秀吉にとって処刑すべき主犯格の一人であった。対照的に、安政の役割はあくまで兄の指揮下で戦う「戦術レベル」の実行者に過ぎず、敗戦の責任を直接問われる立場ではなかった。この立場の違いが、兄弟の生死を分けたのである。
全ての支えを失った安政は、末弟の勝之と共に辛うじて戦場を脱出する。彼らが向かったのは、養父・知宗の旧領があった紀州であった 1 。この敗戦は、安政に組織への依存の危うさを痛感させ、自らの判断と才覚で生き抜くという、現実的で自立した処世術を形成する決定的な契機となった。ここに、流浪の武将・佐久間安政の苦難に満ちた再起の道が始まったのである。
賤ヶ岳の敗戦後、紀州に落ち延びた安政と勝之兄弟にとって、再起の機会は意外にも早く訪れた。天正12年(1584年)、織田信長の次男・信雄と徳川家康が連合し、羽柴秀吉と対決する小牧・長久手の戦いが勃発したのである 1 。
安政兄弟は、迷わず家康・信雄方に与した。彼らは紀州の在地勢力である雑賀衆や根来寺の僧兵たちと連携し、秀吉方の和泉国岸和田城主・中村一氏の軍勢に対して、その後方を脅かすゲリラ的な戦闘を幾度となく仕掛けた 1 。これは、尾張・伊勢で秀吉本隊と対峙する家康の多方面作戦の一翼を担う重要な動きであった。
しかし、戦局は中央での和睦によって決着する。秀吉と信雄・家康の間で和議が成立すると、紀州の反秀吉勢力は後ろ盾を失った。秀吉はすかさず第二次紀州征伐を断行し、雑賀・根来衆を徹底的に掃討。安政兄弟は再び拠点を失い、窮地に立たされた 1 。
この絶体絶命の状況で安政を救ったのは、紀州での共闘を通じて築いた徳川家康との繋がりであった。家康は安政兄弟の武勇を評価し、その口利きによって、当時秀吉と対立していた関東の雄、小田原北条氏政のもとへ身を寄せることを斡旋した 1 。これは、家康が有能な武人を保護し、来るべき時に備えさせるという深謀遠慮の一環であったとも考えられる。この流浪の時期に、安政は最初の妻であった保田知宗の娘と離縁したとされる。これは、過去のしがらみを断ち切り、新たな道を模索する彼の決意の表れであったのかもしれない。
安政にとって三度目の試練が訪れる。天正18年(1590年)、天下統一の総仕上げとして、秀吉が20万を超える大軍で小田原を包囲したのである(小田原征伐)。圧倒的な兵力差の前に北条氏は滅亡し、安政兄弟はまたしても敗軍の将となった。
しばらく野に潜伏していた彼らに、思わぬところから救いの手が差し伸べられる。秀吉の直臣となっていた同族(叔父)の奥山盛昭が仲介に動き、秀吉から赦免を取り付けたのである 1 。秀吉もまた、安政兄弟の武勇を惜しんだのであろう。
赦免された安政は、保田姓から本来の佐久間姓に復し、秀吉が最も信頼を寄せる猛将の一人、蒲生氏郷の家臣として仕えることとなった 1 。この氏郷への仕官は、安政のキャリアにおける最大の転機となる。氏郷のもとで働くことは、反逆者であった安政が豊臣政権のヒエラルキーに軟着陸するための、いわば「浄化」の期間として機能した。
この仕官の際に、安政の人柄と氏郷の器の大きさを示す有名な逸話が残されている。安政が氏郷に挨拶する際、長年の戦場暮らしで畳の作法に不慣れだったのか、緊張のあまり畳の縁につまずいて転んでしまった。これを見た氏郷の小姓たちが思わず吹き出すと、氏郷は「この者たちは畳の上で奉公する者ではない。武勇に優れ、戦場で働き続けてきた証である。お前たちの中に、彼らに笑われないほどの武功を立てた者がいるのか」と一喝し、小姓たちを黙らせて安政の面目を保ったという。この出来事からも、安政が実直で武骨な人物であり、氏郷がその本質を見抜いていたことがうかがえる。安政は氏郷配下として、奥州の葛西大崎一揆の鎮圧などで早速武功を挙げ、その期待に応えた。
文禄4年(1595年)、主君の蒲生氏郷が40歳の若さで病没する。秀吉は、氏郷が抱えていた有能な家臣団を再編し、自らの直轄戦力として吸収した。
安政もこの機に秀吉の直参(直臣)へと取り立てられ、近江国高島郡などに7千石の所領を与えられた。賤ヶ岳の敗戦から12年、長きにわたる浪人・寄食生活を経て、安政はついに豊臣政権下で大名への確かな足がかりを掴んだのである。この時期、朝廷との交渉役である武家伝奏を務めた公家、勧修寺晴豊の娘を継室に迎えており 1 、彼の社会的地位が公家社会からも認められるほどに向上していたことを示している。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が没すると、その死によって抑えられていた諸大名間の対立が表面化し、天下は再び動乱の様相を呈した。豊臣政権内部では、五大老筆頭の徳川家康が急速に影響力を強め、これに石田三成ら奉行衆が反発。両者の対立は、天下分け目の決戦へと突き進んでいった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、佐久間安政は一切の迷いなく東軍(徳川方)に与した。この選択は、かつて紀州で窮地に陥った際に救いの手を差し伸べ、小田原北条氏への寄食を斡旋してくれた家康への恩義に報いる行動であった。安政にとって、秀吉は一度は敵対し、後に仕えた主君であったが、家康は苦境の時代における恩人であり、その関係性の違いが彼の去就を明確に決定づけたのである。
安政は弟の勝之と共に東軍に参陣し、本戦に臨んだ。『内府公軍記』などの記録によれば、安政の部隊は、織田有楽斎や茶人としても知られる古田重然らの部隊と共に、中山道の西、北国街道方面から進軍し、西軍の部隊と激戦を繰り広げたことが記されている。
この関ヶ原での戦功は、戦後、家康によって高く評価された。安政は8千石を加増され、これまでの所領と合わせて近江国高島郡内で合計1万5千石を領する大名となり、正式に諸侯の列に加わった。流浪の武将は、ついに自らの力で大名の地位を掴み取ったのである。
徳川の世が盤石になるにつれて、安政の地位もまた向上していった。慶長12年(1607年)にはさらに5千石を加増され、その所領は2万石に達した。
そして、徳川家による天下統一の総仕上げとなった大坂の陣(冬・夏)においても、安政は徳川方として参戦し、歴戦の武将としての経験を存分に発揮して戦功を挙げた。この最後の奉公が、彼をさらなる高みへと押し上げる。
元和元年(1615年)、大坂の陣での功績を賞され、安政は1万石の加増を受ける。これにより、彼の所領は合計3万石となり、信濃国飯山(現在の長野県飯山市)へ移封された。ここに信濃飯山藩が立藩し、佐久間安政は初代藩主として、その波乱に満ちた武将人生の集大成となる新たな一歩を踏み出したのである。
大名としての地位を確立した安政であったが、彼の価値は単なる武功に留まらなかった。元和3年(1617年)、安政は二代将軍・徳川秀忠の「御伽衆(おとぎしゅう)」(史料によっては談伴衆とも記される)の一人に抜擢されるという栄誉に浴した。
御伽衆とは、単なる将軍の話し相手や娯楽の相手ではない。戦国の生き残りである歴戦の武将や、学識豊かな人物が選ばれ、将軍の諮問に応じて過去の先例や諸国の情勢について進言する、極めて重要な側近・顧問としての役割を担っていた。
『武功雑記』という書物には、秀忠の御伽衆がそれぞれ専門分野を持っていたことが記されている。それによると、安政は「北國並奥州の事を存じたり」とあり、かつて叔父・柴田勝家のもとで北陸を転戦し、蒲生氏郷の配下として奥州の葛西大崎一揆を鎮圧した豊富な経験が、幕府から高く評価されていたことがわかる。
この御伽衆には、九州の情勢に通じた立花宗茂、四国に詳しい脇坂安治(『武功雑記』では脇坂中書となっているが、年代的に子の安元か)、上方を知る細川興元といった、いずれも豊臣恩顧の歴戦の大名たちが名を連ねていた。安政が彼らと肩を並べる存在として認められていたことは、徳川政権下における彼の特異な価値を物語っている。
安政のキャリアは、戦場での武功によって評価される戦国時代から、統治に必要な知識と経験が重視される近世へと、時代の価値観が転換していく過渡期の姿を象徴している。彼は、織田、柴田、北条、蒲生といった、滅び去った、あるいは大きく変質した諸勢力の内部を渡り歩いてきた「生きた歴史の証人」であった。彼の頭の中に蓄積された「過去の記憶」という情報資産こそが、新政権を安定させようとする秀忠にとって、何物にも代えがたい価値を持っていたのである。安政は、その武力のみならず、その記憶によってもまた、徳川家に仕えたと言えよう。
元和2年(1616年)、佐久間安政は3万石の初代藩主として信濃国飯山に入封した。時を同じくして、苦難を共にしてきた弟の佐久間勝之も、隣接する地に長沼藩1万8千石の藩主として入封し、兄弟そろって北信濃に拠点を構えることとなった。長年の流浪の末にたどり着いた安住の地であり、一族再興の象徴であった。
安政が入封する以前の飯山は、堀直寄という武将によって統治されていた。直寄は千曲川の治水工事や新田開発に積極的に取り組み、領国経営の基礎を築いていた人物である。安政の藩政は、この堀氏の政策を継承し、さらに発展させる形で始まったと考えられる。
藩主となった安政は、領国の安定と発展のため、精力的に藩政に取り組んだ。
第一に、 検地の実施 である。元和5年(1619年)頃から領内の検地(土地の測量と石高の再査定)に着手し、藩の財政基盤の正確な把握と、年貢収取体制の確立に努めた。これは、近世大名として領国を安定的に支配するための根幹をなす政策であった。
第二に、 城下町の整備と寺町の形成 である。安政の治績として特に注目されるのが、飯山城下の計画的な都市整備、とりわけ寺社の配置である。彼は、佐久間一族にゆかりのある寺院を、かつての本拠地であった近江などから積極的に飯山の地へ招致した。元和2年(1616年)には本光寺(日蓮宗)と常福寺(曹洞宗)、元和6年(1620年)には称念寺と光蓮寺(いずれも浄土真宗)などに寺地を与え、城下の西側の丘陵地帯に計画的に配置した。この安政による寺院の集積が、現在の飯山市が「雪国の小京都」あるいは「寺の町」と称される美しい景観の基礎を築いたのである。
この政策は、単なる都市計画に留まらない。安政は、元々飯山の地にあった大聖寺を佐久間家の菩提寺と定め、賤ヶ岳で散った兄・盛政や、戦乱で命を落とした一族の菩提を弔う場とした。また、叔父である佐久間安宗が開基したと伝わる慶宗寺も手厚く保護している。これらの治績は、新天地である飯山に佐久間家の根を張り、一族の鎮魂を願うという、彼の生涯を貫く強い「家」への意識の表れであった。
その他にも、寛永3年(1626年)には領内の村同士の境界争いを裁定するなど民政に意を尽くし、また同年には三代将軍・徳川家光の上洛に際して江戸の橋の警備という幕府の公役を勤め上げるなど、藩主としての責務を実直に果たした。
寛永4年(1627年)4月25日、佐久間安政は江戸の藩邸にて、73年の波乱に満ちた生涯を閉じた。
しかし、彼が命を懸けて再興した佐久間家の運命は、あまりにも儚いものであった。安政の跡を継いだ次男の安長は、寛永9年(1632年)に若くして死去。その跡を継いだ三代藩主の安次は、寛永15年(1638年)にわずか9歳で夭逝してしまった。
幼い安次に世継ぎがいるはずもなく、これにより佐久間安政が創始した飯山佐久間家は、わずか三代、約22年で無嗣断絶となり、幕府によって改易(所領没収)された。戦国の乱世を生き抜いた老練な武将の家も、平時の世における後継者の夭逝という不運の前には、脆くも途絶えてしまったのである。この結末は、安政個人の生涯の成功を際立たせると同時に、時代の移り変わりという大きな流れの非情さをも物語っている。
代 |
藩主名 |
続柄 |
在位期間 |
備考 |
初代 |
佐久間 安政(やすまさ) |
佐久間盛次の次男 |
1616年 - 1627年 |
寛永4年(1627年)死去、享年73。 |
二代 |
佐久間 安長(やすなが) |
安政の次男 |
1628年 - 1632年 |
寛永9年(1632年)死去、享年22。 |
三代 |
佐久間 安次(やすつぐ) |
安長の長男 |
1632年 - 1638年 |
寛永15年(1638年)死去、享年9。無嗣により改易。 |
佐久間安政の生涯は、兄・盛政のような華々しい武勇伝に彩られてはいない。盛政が「鬼玄蕃」としてその武名を轟かせ、敗れては潔く散るという戦国武将の典型を生きたのに対し、安政は敗北と流浪の苦難を耐え抜き、主君を次々と変えながらも、ついに一族の再興という大願を成就させた。彼の本質は、猪突猛進の「武」ではなく、時勢の潮流を冷静に読み解く判断力と、いかなる逆境にも屈せず適応していく柔軟な「知」、そして強靭な精神力にあったと言えよう。
しかし、彼が単なる器用な世渡り上手でなかったことは、蒲生氏郷への仕官の際の逸話が物語っている。彼はあくまで戦場働きで身を立ててきた武骨な人物であり、その実直さと確かな武勇があったからこそ、徳川家康や蒲生氏郷といった、人の本質を見抜く確かな目を持つ為政者たちにその価値を認められたのである。彼の生存戦略は、決して追従や卑屈によるものではなく、自らの価値を冷静に分析し、それを最も高く評価してくれる相手を見極める能力に支えられていた。
安政の73年の生涯を語る上で、末弟・勝之の存在は欠かすことができない。賤ヶ岳の敗走から紀州での潜伏、家康を介しての北条家への寄食、そして蒲生氏郷への仕官と、兄弟は常に一心同体で行動し、互いを支え合った 1 。徳川の世になってからも、安政は飯山藩、勝之は隣接する長沼藩の藩主となり、北信濃の地で共に大名としての道を歩んだ。晩年、安政が病によって上洛できない際には、勝之がその代役を務めるなど、二人の絆の深さは終生変わることがなかった。一族のほとんどが戦乱で命を落とす中、共に生き残り、共に大名へと駆け上がった彼らの関係は、戦国の過酷な時代における兄弟の絆を示す、稀有な事例として高く評価されるべきである。
安政が興した飯山佐久間家は三代で断絶したが、その血脈と家名は、意外な形で後世に大きな影響を与えることになる。幕末期に日本の進むべき道を説き、多くの志士に影響を与えた思想家、佐久間象山である。
一部の資料では、象山は「初代飯山藩主・佐久間安政の子孫系統」として簡潔に紹介されている。しかし、象山自身が記した『佐久間氏略譜』などのより詳細な家系記録を紐解くと、その系譜はより複雑な様相を呈する。それによれば、象山の直接の祖先は、安政の弟・勝之に仕えていた岩間氏という家臣であった。この岩間氏が安政の娘を娶って婿となり、その後の代で佐久間家の名跡を継いで信濃松代藩に仕えた、とされている。
この情報の錯綜は、単なる記録の誤りというよりも、江戸時代の武家社会における「家名」と「血統」の複雑な関係性を浮き彫りにしている。直接の男系子孫ではなくとも、婚姻や名跡継承によって「家」は存続していく。重要なのは、佐久間安政が生き残り、弟・勝之と共に徳川の世で家名を保ったからこそ、その家臣団や縁者の家系もまた存続し、形を変えながらも「佐久間」の名が松代の地で受け継がれていったという事実である。安政の粘り強い生存戦略がなければ、間接的にではあるが、日本の近代化を思想面から促した佐久間象山という人物が歴史の舞台に登場する土壌そのものが、失われていた可能性も否定できない。
佐久間安政の生涯は、敗北から学び、時代の変化に適応し、一族再興という責務を粘り強く果たした、一人の武将の現実的な物語である。彼の生き様は、戦国乱世の終焉と近世武家社会の成立という、日本史の大きな転換点を、個人の視点から鮮やかに映し出しており、我々に多くの示唆を与えてくれるのである。