戦国乱世の九州、その南東部に位置する豊後国(現在の大分県)に、平安の昔よりその名を刻む一族がいた。佐伯氏――。古代豪族・大神氏の血を引き、豊後水道の制海権を握る海洋領主として、独自の勢力を保ち続けた名門である。本報告書が光を当てる佐伯惟定(さえき これさだ)は、この由緒ある一族の歴史的終焉と、それに続く近世武家社会への移行期を、その一身をもって体現した武将である。
彼の生涯は、主家・大友氏の没落という激動の渦中で幕を開ける。九州制覇を目論む島津氏の圧倒的な軍勢に対し、孤城・栂牟礼城に拠って敢然と立ち向かい、その武名を天下に轟かせた。しかし、時代の奔流は彼の故郷を安住の地とすることを許さず、主家の改易と共に所領を失う。だが、惟定の物語はそこで終わらない。浪々の身から、当代随一の築城の名手にして実力主義者・藤堂高虎に見出され、その家臣団の中核として新たな道を切り拓いていく。
佐伯惟定の軌跡は、単なる一地方武将の興亡史に留まらない。それは、中世的な独立性を有した国人領主が、いかにして近世大名の家臣団へと組み込まれていったかという、戦国から江戸へと至る時代の大きな構造転換を映し出す貴重な縮図である。本報告書は、断片的な史料を丹念に繋ぎ合わせ、彼の出自、武功、主家改易後の動向、そして人物像に至るまでを徹底的に掘り下げることで、乱世を駆け抜け、見事に家名を未来へと繋いだ一人の武将の実像に迫るものである。
年代(西暦) |
惟定の年齢 |
主要な出来事 |
石高・俸禄 |
永禄12年(1569) |
1歳 |
豊後国にて、佐伯惟真の二男として誕生 1 。 |
- |
天正6年(1578) |
10歳 |
耳川の戦いで祖父・惟教、父・惟真が戦死。家督を相続し、栂牟礼城主となる 3 。 |
不明(佐伯荘) |
天正14年(1586) |
18歳 |
豊薩合戦。島津家久の降伏勧告を拒絶。堅田合戦で島津軍を撃破 4 。 |
不明(佐伯荘) |
天正15年(1587) |
19歳 |
豊臣秀吉の九州平定に従軍。秀吉より感状を与えられる。戦後、所領を安堵される 4 。 |
不明(佐伯荘) |
文禄2年(1593) |
25歳 |
主家・大友氏が改易。所領を失い浪人となる。豊臣秀保の客将となる 3 。 |
- |
文禄4年(1595) |
27歳 |
秀保没後、藤堂高虎に客将として招かれ、五百人扶持を与えられる 2 。 |
五百人扶持 |
文禄5年(1596) |
28歳 |
高虎の伊予宇和島入封に従い、新知2,000石を与えられる。国府城代となる 2 。 |
2,000石 |
慶長5年(1600) |
32歳 |
関ヶ原の戦い。伊予板島城の留守居役を務める 2 。 |
2,000石 |
慶長13年(1608) |
40歳 |
高虎の伊勢津藩への転封に従う 2 。 |
2,000石 |
慶長19年(1614) |
46歳 |
大坂冬の陣に従軍。右先鋒の合備を務める 4 。 |
4,000石前後 |
元和元年(1615) |
47歳 |
大坂夏の陣に従軍。先鋒壊滅後、左先鋒を務める。戦功により加増 4 。 |
4,500石 |
元和4年(1618) |
50歳 |
6月9日、伊勢国津にて死去 1 。 |
4,500石 |
佐伯惟定の人物像を理解する上で、彼が背負っていた一族の歴史的背景を無視することはできない。佐伯氏は、豊後の古代豪族である大神氏を祖とする、大神姓臼杵氏の支族であった 7 。これは、鎌倉時代に守護として入部した大友氏よりも古くからこの地に根を張る、由緒正しい家柄であることを意味する。この「大神氏の末裔」という血統は、一族の強烈な自負心と独立性の源泉となっていた。
さらに佐伯氏の特質を決定づけたのが、その本拠地の地政学的な重要性である。彼らの所領であった佐伯荘は、九州と四国を結ぶ海上交通の要衝、豊後水道に面していた。この地理的優位性を活かし、佐伯氏は古くから水軍を擁し、海上の交通と交易を支配する海洋領主としての性格を強く有していた 9 。彼らの経済力と軍事力の基盤は、土地からの収益のみならず、海からもたらされる富と情報にあったのである。
この「大神氏の末裔」という血統的プライドと、「海洋領主」という地政学的独立性。この二重のアイデンティティこそ、佐伯氏の行動原理を解き明かす鍵となる。彼らは大友家の家臣という立場にありながら、他の譜代家臣とは一線を画す独自の権力基盤を有していた。それゆえに、主家に対して従順な姿勢を見せる一方で、時には激しく反発し、独自の判断で行動することを可能にしたのである。惟定の生涯に見られる一見矛盾した行動も、この特有の歴史的背景から読み解くことができる。
鎌倉時代、源頼朝によって豊後守護に任じられた大友氏が入国すると、在地領主であった佐伯氏はその傘下に入った 6 。以降、佐伯氏は大友家の家臣団に組み込まれることとなる。しかし、その関係は常に平穏なものではなかった。
大友家臣団の中では、同族である臼杵氏や戸次氏などが養子縁組を通じて次第に大友氏に同化していく中にあって、佐伯氏は大神氏以来の血統を頑なに守り、独自の勢力を保持し続けた 7 。この独立志向は、戦国時代に入り、当主への権力集中を進める大友氏の政策と必然的に衝突することになる。
その象徴的な事件が、惟定の曽祖父にあたる第10代当主・佐伯惟治の反乱である。惟治は大永7年(1527年)、主君・大友義鑑から謀反の疑いをかけられ、2万余の大軍に居城・栂牟礼城を包囲された。この時は籠城戦の末に落城を免れたものの、後に謀略によって城を追われ、日向国で非業の最期を遂げている 3 。さらに、惟定の祖父である第12代当主・佐伯惟教も、主君・大友義鎮(宗麟)との確執から、一族を率いて伊予国へ十数年にわたり亡命するという事態を引き起こしている 3 。
これらの出来事は、佐伯氏にとって主家・大友氏が必ずしも絶対的な庇護者ではないという、苦い教訓となった。この過去の弾圧の歴史こそが、後に惟定が下す決断の伏線となる。すなわち、大友家が崩壊の危機に瀕した際、多くの家臣がより強大な島津氏に靡くという合理的な選択をする中で、惟定が徹底抗戦を貫いた背景には、単なる主家への忠義心だけでは説明がつかない。むしろ、もはや頼りにならない主家に代わり、「佐伯家の当主として、自らの力で領地と一族を守り抜く」という、歴代当主が果たせなかった宿願が、彼の行動を強く動機づけたと解釈できる。それは、過去の苦い経験が彼を主家への依存から解き放ち、自立した防衛戦へと駆り立てた、逆説的な帰結であったのかもしれない。
佐伯氏と大友氏の関係が微妙な緊張をはらむ中、大友家の命運を大きく揺るがす戦いが勃発する。天正6年(1578年)、キリシタン大名として知られる大友宗麟は、日向の伊東氏救援を名目に、島津氏との決戦に臨んだ。世に言う「耳川の戦い」である。
この戦いで、大友軍は島津軍の巧みな戦術の前に壊滅的な大敗を喫する。この時、大友軍の先陣を務めていたのが、伊予から帰参し、再び大友家の中核を担っていた佐伯惟教であった。惟教は、息子であり惟定の父である惟真、そして同じく息子(惟定の叔父)の鎮忠と共に奮戦するも、親子三代にわたる武将たちがことごとくこの日向の地で討死するという、佐伯家にとって未曾有の悲劇に見舞われた 3 。
この悲劇的な敗戦により、佐伯惟定はわずか10歳にして、一族の命運を双肩に担うこととなった 1 。父と祖父、そして多くの家臣を一度に失うという過酷な状況下での家督相続は、彼の心に島津氏に対する消しがたい遺恨を刻み込むと同時に、若き当主としての強靭な精神力を育む揺り籠となったのである。
耳川の戦いで大友氏を破った島津氏は、九州統一の野望を現実のものとするべく、その勢力を急速に拡大していった。そして天正14年(1586年)、遂に大友氏の本国・豊後への大々的な侵攻を開始する。島津義久は、弟の島津義弘が率いる軍勢を肥後口から、同じく弟の島津家久が率いる軍勢を日向口から進発させ、二方面から府内(現在の大分市)を目指す挟撃作戦を展開した 16 。
この島津の圧倒的な攻勢の前に、大友家臣団は脆くも崩れ去った。長年の大友支配に不満を抱いていた国人領主たちは、次々と島津方に内応、あるいは降伏し、豊後の諸城は戦わずして開城する有様であった。特に、日向との国境を守るべき要衝・朝日嶽城の城主であった柴田紹安が島津に寝返ったことは、大友方にとって致命的な打撃となった 18 。これにより、家久軍はほとんど抵抗を受けることなく豊後南部に侵入し、佐伯氏の領地へと迫ったのである。
島津家久は、佐伯氏の本拠・栂牟礼城に使僧・玄西堂を派遣し、降伏を勧告した。島津の勢いを恐れる家臣団は降伏論に傾き、評議は紛糾した。この絶体絶命の状況で、若き当主・惟定の背中を押したのは、彼の母であった。彼女は評議の場に現れ、「父祖の仇である島津に降るとは何事か。戦って負けるならば自害あるのみ」と家臣らを厳しく叱咤激励したという 5 。この母の言葉により、佐伯家中の意思は一気に徹底抗戦へと傾いた。
惟定の決意は、その後の行動に明確に示される。彼は島津からの使者一行19名を、もてなしを装って樫野村(あるいは番匠河原)に誘き出し、全員を斬殺したのである 5 。これは、交渉の余地なき断固たる敵対の意思を島津方に突きつける、鮮烈な宣言であった。
この大胆な決断の背景には、一人の客将の存在があった。日向伊東氏の旧臣で、軍略に長けた山田匡徳(宗昌)である 4 。島津氏との戦いを熟知した匡徳を参謀に据えたことが、その後の戦いの行方を大きく左右することになる。惟定の勝利は、単なる彼の決断力や勇気によるものだけではない。外部から招聘した専門家の軍略を全面的に信頼し、採用した結果であった。このことは、血縁や譜代の序列に固執せず、実力と実績を重視する惟定の将器の現れと言える。彼のこの実力主義的な側面は、後に同じく実力主義者である藤堂高虎に高く評価され、重用される素地となった。彼の成功は、個人の武勇のみならず、優れた人材を見抜き、その能力を最大限に活用する指揮官としての資質に支えられていたのである。
使者を殺害された島津家久は、土持親信、新名親秀らを将とする約2,000の軍勢を栂牟礼城へと差し向けた。天正14年(1586年)11月4日、島津軍は堅田(かたた)方面へと進軍を開始する 5 。
これに対し、佐伯惟定は軍師・山田匡徳の献策に従い、堅固な栂牟礼城での籠城策を採らなかった。兵力で劣る佐伯軍にとって、籠城は兵糧と水の枯渇を招くだけの愚策であると判断し、地の利を活かした野戦に打って出ることを決断したのである 18 。惟定が動員した兵力は約800であったと伝えられる 5 。
佐伯軍は中山峠に本陣を構え、堅田村を決戦の地と定めた。先陣に佐伯惟末と高畑伊予守、第二陣に佐伯惟澄と高畑新右衛門尉らを配置し、島津軍を待ち構えた 22 。戦端は、佐伯勢が前衛拠点である八幡山に進出して開かれた。島津軍がこれに応戦すると、佐伯軍は巧みに後退し、敵を汐月川(大越川)まで誘い込む。ここで両軍は激しく衝突した。
佐伯軍は地の利を活かし、伏兵を駆使して島津軍を翻弄した。高畑伊予守は敵将・新名治右衛門尉を討ち取り、その馬印を奪って掲げることで、身を隠していた敵兵を誘き出して多数を討ち取ったという 5 。さらに、島津軍が体勢を立て直すために府坂峠へ後退を始めると、佐伯軍はこれを執拗に追撃。峠を越えた先の岸河内にあらかじめ伏せていた部隊が退却する島津軍を襲撃し、壊滅的な打撃を与えた 5 。
この堅田合戦は、午後5時頃まで続き、兵力で半分以下であった佐伯軍の圧倒的な勝利に終わった 5 。この勝利は、島津軍の豊後侵攻計画に大きな狂いを生じさせ、佐伯惟定の名を九州に轟かせることとなった。
堅田合戦での勝利に満足することなく、惟定は積極的な反攻作戦、すなわちゲリラ戦を展開し、島津軍の後方を執拗に脅かした。
これらの神出鬼没な活動は、同じく岡城で奮戦していた志賀親次と呼応し、島津軍の兵站線を脅かし、その進軍を大いに妨害した 19 。
そして天正15年(1587年)、大友宗麟の要請に応えた豊臣秀吉が、遂に九州平定に乗り出す。弟の豊臣秀長が率いる10万の大軍が日向路から豊後に進軍すると、惟定はこれに合流。3月17日には、府内から日向へ撤退する島津義弘・家久兄弟の軍を、日豊国境の梓峠で追撃し、大打撃を与える戦功を挙げた 1 。
九州平定後、秀吉は惟定の獅子奮迅の働きを高く評価し、「其方事、為検使至佐伯被差置候之処、今度薩摩之逆徒乱入已来、惟定以同城、別而粉骨之次第度々雖申候、猶以令感心候(其方が検使として佐伯に置かれていたところ、この度の薩摩勢の侵攻以来、惟定が城を以て格別の働きをしたことは度々報告で聞いているが、実に感心である)」という内容を含む感状を与えた 4 。この豊臣秀吉直々の感状は、惟定の武名を全国的なものとし、彼の後のキャリアを切り拓く上で極めて重要な礎となったのである。
豊薩合戦での功により、佐伯惟定は豊臣秀吉から所領を安堵され、豊後の領主としての地位を維持した。しかし、その安寧は長くは続かなかった。主家である大友氏の運命が、彼の将来に暗い影を落とすことになる。
天正18年(1590年)に天下を統一した秀吉は、次なる目標として大陸への出兵、すなわち文禄・慶長の役を計画する。九州の諸大名は、その先鋒として朝鮮半島へ渡ることを命じられた。大友義統も例外ではなく、惟定ら家臣を率いて渡海した 6 。
しかし、文禄2年(1593年)、戦況は思わしくなく、明の援軍を得た朝鮮軍の反撃に遭う。平壌で苦戦する小西行長の軍勢から後方に布陣していた義統に救援要請が届くが、義統は敵の大軍が接近しているとの報に恐れをなし、あろうことか持ち場を放棄して逃亡するという、将にあるまじき失態を犯してしまう 25 。
この敵前逃亡の報は秀吉を激怒させた。結果、鎌倉時代から約400年続いた豊後の名門・大友氏は改易処分となり、義統は毛利輝元預かりの身となった 6 。主家の突然の滅亡により、その家臣であった惟定もまた、先祖代々の本領である豊後佐伯を失い、一日にして浪人の身へと転落したのである 3 。
故郷を失った惟定が次に頼ったのは、秀吉の甥であり、大和郡山城主であった豊臣秀保であった 2 。秀保は、九州平定軍の総大将を務めた豊臣秀長の養子であり、惟定とはその頃からの縁があったものと推測される。
しかし、文禄4年(1595年)、頼みとしていた秀保がわずか17歳で病死。大和豊臣家は無嗣断絶となり、惟定は再び後ろ盾を失う。この窮地において彼に手を差し伸べたのが、秀保の筆頭家老であり、当代随一の実力者として頭角を現しつつあった藤堂高虎であった 2 。
高虎が惟定を客将として招聘した背景には、単なる旧主の縁故者を救済するという温情だけではない、極めて戦略的な意図があったと考えられる。両者の出会いは、天正15年(1587年)の九州平定の際に遡る。この時、高虎は秀長軍の先鋒として、惟定はその案内役として行動を共にしており、互いの器量や能力を認識する機会があった 14 。高虎にとって、惟定は非常に魅力的な人材であった。第一に、豊薩合戦において、兵力で勝る島津軍を智略と地の利を活かして打ち破った確かな軍事指揮官としての実績。第二に、佐伯氏が代々率いてきた水軍に関する知見。高虎が新たに入封した伊予宇和島は、まさに豊後水道を挟んで佐伯の対岸に位置し、海上の防衛と制海権の確保が領国経営の生命線であった 10 。そして第三に、惟定が一軍を率いて独立した作戦行動を成功させた、方面軍司令官としての能力である。
高虎は、自身の家臣団を血縁や譜代にこだわらず、実力本位で登用することで知られる。彼にとって惟定は、「豊後の名家の当主」としてではなく、「海軍の知識を持つ、実績ある方面指揮官」という、即戦力として極めて価値の高い存在であった。この高虎の慧眼こそが、惟定に再起の機会を与え、二人の間に強固な主従関係を築かせる礎となったのである。
藤堂高虎に仕えた惟定は、その期待に応え、めざましい活躍を見せる。彼のキャリアは、高虎の栄達と共に飛躍的に向上していった。
この大坂の陣での戦功により、惟定は500石を加増され、最終的な知行は4,500石に達した 1 。これは、藤堂藩の家臣の中でも最高クラスの待遇であり、彼が名実ともに津藩の重臣として確固たる地位を築いたことを示している。
佐伯惟定は、どのような人物だったのか。史料から浮かび上がるその姿は、多角的で魅力的である。
第一に、彼は 武勇と智略を兼ね備えた指揮官 であった。豊薩合戦において、兵力で圧倒的に勝る島津軍を相手に一歩も引かなかった勇猛さは、戦国武将としての気骨を十分に示している。しかし、彼の真価は単なる猪武者ではなかった点にある。客将・山田匡徳の献策を柔軟に受け入れ、籠城という常道ではなく野戦を選択した判断力、そして堅田合戦勝利後もゲリラ戦を展開して敵の後方を攪乱し続けた智略は、彼が優れた戦術眼を持っていたことを物語っている。
第二に、 個人的な武芸にも秀でていた 可能性が高い。藤堂家臣となってからの記録ではあるが、惟定は柳生新陰流の達人として知られる柳生松右衛門(大野松右衛門)から印可状を与えられていたとされる 31 。これは、彼が一軍の将であると同時に、一人の武人としても高い技量を持っていたことを示唆している。
第三に、彼の行動は 忠義と現実主義の絶妙な均衡 の上に成り立っていた。滅びゆく大友家に対し、多くの家臣が裏切る中で最後まで抵抗を続けた姿は、忠臣としての一面を強く印象付ける。しかし、主家が改易されるや、感傷に浸ることなく速やかに新たな主君・藤堂高虎を見出し、その下で最大限の能力を発揮して家名を存続させた。これは、主君個人のみならず、自らの一族郎党を守り、家を存続させることこそが武士の最大の務めであるという、戦国武将特有のリアリズムと、当主としての強い責任感の現れであったと言えよう。
佐伯惟定の名を、武功とは異なる形で後世に伝えているのが、大名物として名高い茶入「佐伯肩衝(さえきかたつき)」の存在である。この漢作唐物の茶入は、室町幕府13代将軍・足利義輝が所持していたものを、大友宗麟が拝領。その後、家臣の臼杵紹冊を経て、何らかの経緯で島津昌久の手に渡っていた 33 。
この名物が「佐伯」の名を冠するに至ったのは、豊薩合戦の折である。堅田合戦で敗走した島津軍が遺棄した荷物の中から、惟定がこれを発見、入手したことに由来する 33 。
この茶入の来歴は、そのまま戦国末期から江戸初期にかけての権力の変遷を象徴している。足利将軍家、九州探題大友家、そして九州の覇権を握らんとした島津家と、当代の権力者の手を渡り歩いた。惟定がこれを手にしたことは、彼の局地的な勝利が歴史的な名物の上に刻印されたことを意味し、彼の武名を文化的な価値として定着させる役割を果たした。
その後、茶入は惟定から徳川家康に献上され、家康から藤堂高虎に下賜された 34 。高虎は慶長4年(1599年)、この茶入を惟定に返礼として譲渡しようとしたのか、あるいは買い取ったのか、金子十五枚と共に500石の加増を行っている記録が残る 33 。最終的に茶入は再び徳川将軍家のものとなり、本庄家、田村家を経て、現在は奈良市の寧楽美術館に所蔵されている 33 。惟定がこの文化的至宝の歴史に名を連ねたことは、彼が単なる地方武将ではなく、当代一流の文化人が集う「茶の湯」の世界にも接続する存在であったことを物語っている。
佐伯惟定は、自らの武功と才覚で家名を存続させただけでなく、その血脈もまた、様々な形で後世へと繋がっている。
特筆すべきは、惟定の祖である大神氏にまつわる 祖母嶽大明神の蛇神信仰 である。『平家物語』にも記されるこの伝説は、祖母山の岩窟に住む大蛇(祖母嶽大明神の化身)と人間の娘の間に生まれた子が、大神氏の始祖・大神惟基であるというものである 36 。この神話的な権威は佐伯氏にも受け継がれており、『栂牟礼実録』には、惟定の体には三枚の蛇の鱗があったと記されている 39 。彼はこの信仰を深く身につけており、藤堂家臣として伊勢津に移った後も、故郷の祖母嶽大明神を勧請し、「佐伯の宮」として祀った 14 。
また、惟定の兄弟や子孫も、それぞれの道を歩んだ。
このように、惟定自身が藤堂家中で家名を確立しただけでなく、その兄弟の血脈もまた、異なる土地で、あるいは異なる分野で、日本の歴史に確かな足跡を残していったのである。
大坂の陣での武功により、藤堂家中で不動の地位を築いた佐伯惟定であったが、その生涯は元和4年(1618年)6月9日、伊勢国津の地で終わりを迎える。享年50 1 。戦国の動乱を生き抜き、新時代の礎が築かれるのを見届けた上での死であった。
彼の墓所については、明確な史料に乏しいものの、有力な手がかりが存在する。「佐治(伯)惟定の葵を尋ねて 三重県津市の天王寺をさぐる」と題された研究資料があることから 42 、三重県津市に現存する天王寺が、惟定の菩提寺もしくは墓所の最有力候補と考えられる。また、藤堂家の菩提寺は同じく津市にある寒松院であり 43 、藩の重臣であった惟定がこの寺院に葬られた、あるいは分骨された可能性も否定できない。いずれにせよ、彼がその生涯を閉じたのは、故郷の豊後佐伯ではなく、新たな主君のもとで築き上げた第二の故郷、伊勢津であった。
佐伯惟定の生涯は、まさに激動の時代そのものであった。古代豪族の末裔としての誇りを胸に、父祖を失った悲劇の中から立ち上がり、九州の覇権を争う島津氏の猛攻を、智勇をもって打ち破った。その武名は、天下人・豊臣秀吉の耳にまで達し、彼の将来を約束するかに見えた。しかし、主家・大友氏のあまりにも呆気ない滅亡は、彼から故郷と所領を奪い、一転して浪々の身へと突き落とす。
だが、惟定の真価が発揮されたのは、むしろこの逆境においてであった。彼は過去に固執することなく、新たな時代の潮流を読み、実力主義の将・藤堂高虎という最高の主君を見出す。そして、その家臣団の中核として、築城、政務、そして大坂の陣という天下分け目の決戦に至るまで、あらゆる局面でその能力を遺憾なく発揮し、最終的には4,500石の大身として家名を再興させた。
彼は、豊後水道を支配した「最後の海洋領主」であり、同時に、近世大名・藤堂家の礎を築いた「最初の重臣」の一人でもあった。その血脈からは幕末の偉人・緒方洪庵が生まれ、その名は名物茶入「佐伯肩衝」と共に茶の湯の歴史に刻まれている。佐伯惟定は、自らの家と一族の存続という武士としての責務を、激動の時代を駆け抜けることで見事に果たした、稀有な成功者であったと言えるだろう。彼の生涯は、滅びゆく中世の残照と、生まれ来る近世の曙光が交錯する、戦国という時代の複雑さと力強さを、今に伝えている。