佐多忠増(さた ただます)は、永禄5年(1562年)に生を受け、寛永18年(1641年)にその生涯を閉じた、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将である 1 。彼の生きた80年間は、日本史上でも類を見ない激動の時代であった。島津氏が薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げ、九州の覇権に手をかけた頂点の時代に武人としてのキャリアを開始し、豊臣秀吉による天下統一の奔流に飲み込まれ、そして徳川幕府による泰平の世の確立を見届けるまで、まさに歴史の転換点の中心を駆け抜けた。
利用者から示された「耳川の戦い」での活躍や「忍城攻め」への参陣といった事績は、彼の武勇と忠勤を象徴するものである。しかし、彼の生涯は単なる一勇将の戦功物語に留まるものではない。本報告書では、彼の出自である島津氏分家・佐多氏の家格、島津家独特の武功の誉れである「太刀初」の特質、中央政権との関わりの中で見せる時代の変化への適応、そして後世の史料における彼の姿という複数の視点から、佐多忠増という人物の歴史的実像に多角的に迫る。これにより、著名な事績をより深い歴史的文脈の中に位置づけ直し、一人の武士の生涯を通じて時代の変容を解き明かすことを目的とする。
表1:佐多忠増 略年譜
西暦(和暦) |
忠増の年齢 |
関連する出来事 |
忠増の役職・立場 |
主要な関連人物 |
典拠 |
1562年(永禄5年) |
1歳 |
誕生 |
佐多忠真の嫡男 |
佐多忠真 |
1 |
1576年(天正4年) |
15歳 |
伊東氏の高原城攻めで初陣を飾る |
島津家臣 |
島津義久 |
2 |
1578年(天正6年) |
17歳 |
耳川の戦いで「太刀初」の戦功を立てる |
島津家臣 |
島津義久、大友宗麟 |
2 |
1580年(天正8年) |
19歳 |
肥後国矢崎城攻めで二度の「太刀初」を記録 |
島津家臣 |
島津義久 |
2 |
1585年(天正13年) |
24歳 |
肥後国甲佐での戦いで「太刀初」となる |
島津家臣 |
島津義久 |
2 |
1586年(天正14年) |
25歳 |
戸次合戦で「太刀初」となる |
島津家臣 |
島津義久 |
2 |
1587年(天正15年) |
26歳 |
豊臣秀吉の九州平定、島津家が降伏 |
島津家臣 |
豊臣秀吉、島津義久 |
3 |
1590年(天正18年) |
29歳 |
小田原征伐に島津久保の供として従軍、忍城攻めに参加 |
島津久保の供 |
島津久保、石田三成 |
2 |
1592年-1598年(文禄・慶長の役) |
31-37歳 |
文禄・慶長の役に従軍 |
島津家臣 |
島津義弘 |
4 |
1604年(慶長9年) |
43歳 |
島津義久の国分新城移転に関し、使い役として上洛 |
島津義久の使い |
島津義久、賀茂在信 |
2 |
1609年(慶長14年) |
48歳 |
琉球攻めに出陣 |
島津家臣 |
島津家久(忠恒) |
2 |
1614年(慶長19年) |
53歳 |
大坂冬の陣に出陣 |
島津家臣 |
徳川家康、島津家久 |
2 |
1641年(寛永18年) |
80歳 |
死去 |
薩摩藩士 |
島津光久 |
2 |
佐多忠増の生涯と功績を理解する上で、彼の出自である佐多氏が島津家中でどのような位置を占めていたかを知ることは不可欠である。佐多氏は、島津宗家4代当主・忠宗の三男であった忠光を祖とする、由緒正しい島津氏の分家であった 5 。忠光が大隅国佐多郡(現在の鹿児島県南大隅町佐多)を領したことから、その地名を姓として「佐多氏」を称するようになった 5 。
その後、佐多氏は南北朝時代の勲功賞として薩摩国知覧院(現在の南九州市知覧町)を与えられ、ここを本拠地とした 5 。これにより、佐多氏は大隅国佐多と薩摩国知覧という二つの重要な所領を持つ有力な一族となり、近世に至るまで知覧郷の私領主としての地位を確立した 5 。薩摩藩の家臣団の階級制度において、佐多氏は藩主の一族である「御一門」に次ぐ「一所持」という高い家格に位置づけられていた 7 。一所持は、自らの領地(私領)を持ち、その中で一定の統治権を行使することが認められた上級家臣団であり、単なる家臣とは一線を画す存在であった。
佐多忠増が数々の合戦において「太刀初」という先陣の名誉ある役目を任された背景には、彼個人の武勇のみならず、この「島津一門の血を引く名家・佐多氏」という出自が大きく影響していたと考えられる。島津家という強固な主従関係と一族意識で結ばれた組織において、重要な戦局の口火を切る役目は、武勇に加え、血筋に裏打ちされた絶対的な信頼がなければ任されるものではなかった。忠増の武功は、彼が属する佐多一門の威光を高め、同時に、佐多氏という家格が彼の活躍の場を保証するという、相互補完的な関係にあったと分析できる。
佐多忠増は、島津氏が三州統一に向けて勢力を拡大していた永禄5年(1562年)に生を受けた 1 。父は佐多忠真、母は伊地知重康の娘である 2 。伊地知氏は大隅の有力な国人領主であり、島津家は婚姻関係を通じてこうした在地勢力との結びつきを強め、支配体制を盤石なものにしていた。忠増の誕生もまた、そうした島津家臣団内部のネットワークを象徴するものであった。
彼の通称は又六といい、後に官途名として宮内少輔、越後守を称した 2 。子には忠利がいたことが記録されている 2 。彼は島津義久、義弘、家久(忠恒)、そして光久という4代の当主に仕え、戦国の世から江戸時代初期の泰平の世まで、島津家の家臣としてその生涯を全うしたのである 2 。
佐多忠増の武功を語る上で最も象徴的なのが、幾度となく務めた「太刀初(たちはじめ)」の役割である。これは、島津家の合戦において「一番乗り」や「一番槍」を意味する独特の呼称であり、全軍の先陣を切って敵陣に斬り込む、極めて名誉な役目であった 2 。
「太刀初」は、単に個人的な武勇を誇示する行為ではない。それは合戦の口火を切ることであり、その成否が全軍の士気に直接影響を与えるため、大将からの深い信頼がなければ任されない重責であった。また、この功績は公式な誉れとして認定され、個人の武功を家臣団全体に可視化する機能を持っていた。忠増がこの誉れを繰り返し獲得したという事実は、彼の武勇が島津家中で公式に認められた「ブランド」となり、彼個人のみならず、佐多一門全体の栄誉として後世に語り継がれる基盤を形成した。薩摩藩の公式記録である『本藩人物誌』において、彼の「太刀初」の功績が繰り返し強調されているのは、彼が「理想的な薩摩武士」の象徴として認識されていたことの証左である 2 。
佐多忠増の武人としてのキャリアは、天正4年(1576年)、日向の伊東氏が支配する高原城への攻撃で始まった。この時、忠増は15歳であった 2 。この初陣からわずか2年後の天正6年(1578年)、九州の勢力図を大きく塗り替えることになった耳川の戦いが勃発する。島津義久率いる島津軍と、キリシタン大名・大友宗麟率いる大友軍が日向国高城川原で激突したこの合戦で、17歳の忠増は「太刀初」を務めるという大役を果たし、見事に戦功を挙げた 2 。この一戦は、彼の武名を島津家中に轟かせる最初の大きな舞台となった。
彼の勇猛さはとどまることを知らず、天正8年(1580年)の肥後国矢崎城攻めでは、さらに驚異的な活躍を見せる。この日の戦闘は一日に四度も行われる激戦であったが、忠増はそのうち二度も「太刀初」を務めたと記録されている 2 。その後も、島津氏が九州統一へと突き進む中で、天正13年(1585年)の肥後国甲佐での戦い、そして翌天正14年(1586年)10月の戸次合戦(※長宗我部信親らが討死した戸次川の戦いとは別の合戦)においても、忠増は「太刀初」の栄誉を担い、その役目を果たし続けた 2 。これらの戦功は、島津氏の版図拡大において、彼が常に最前線で戦う中核的な武将であったことを物語っている。
天正12年(1584年)、島津家久が肥前の龍造寺隆信を破った沖田畷の戦いは、島津の戦史を飾る輝かしい勝利の一つである 10 。この戦いにおいて、一部の二次資料では「新納忠増」という人物が「太刀始め」を為したと記されている 4 。しかし、佐多忠増の基本史料である『本藩人物誌』にはこの戦いに関する彼の記述が見られないため、この功績が佐多忠増のものであるかについては慎重な検討を要する。後述するように、同時代に「忠増」という名を持つ武勇に優れた武将が複数存在したため、記録の混同が生じている可能性も否定できない。
天正15年(1587年)、破竹の勢いで九州統一を進めていた島津氏の前に、天下人・豊臣秀吉の大軍が立ちはだかった。20万ともいわれる豊臣軍の圧倒的な物量の前に、島津義久は降伏を決断する 3 。この九州平定は、独立した戦国大名であった島津氏が、豊臣政権下に組み込まれる歴史的な転換点であった。佐多忠増もまた、島津家臣の一人としてこの激動の渦中に身を置き、主家の決定に従った。
臣従の証として、忠増は主君・島津義久の降伏後の初上洛や、義久の世子・島津久保が豊臣軍の一員として小田原征伐へ出陣する際に供奉している 2 。これは、島津家が豊臣大名として天下の公儀に従うことを内外に示す、重要な政治的行動であった。
小田原征伐の一環として、豊臣軍は北条氏の支城である武蔵国・忍城の攻略にもあたった。この攻城軍に、遠く薩摩から派遣された島津勢の一員として佐多忠増も加わっていた 2 。忍城攻めは、大将を務めた石田三成が城の周囲に長大な堤を築き水攻めを行ったことで知られるが、城兵の抵抗と堤の決壊により、攻略は難航した 13 。
この時、忠増に関する興味深い逸話が残されている。攻城軍の総大将であった石田三成が、遠征してきた忠増の軍労を労い、兵糧米や酒肴などを贈ったという記録である 2 。この出来事は、単なる一逸話に留まらない。九州の地方武将である忠増が、豊臣政権の中枢を担う石田三成と直接的な接点を持ったことを示す、貴重な記録である。三成からの贈物は、遠征軍の士気を維持し、豊臣政権の威光と恩徳を示すための政治的な配慮であった。一方、忠増にとっては、これまで経験してきた島津の戦とは異なる、巨大な兵站と組織に支えられた「天下人の戦」を肌で感じる機会となり、彼の視野に大きな影響を与えた可能性が考えられる。この邂逅は、島津家が豊臣大名として中央政権の軍事行動に組み込まれていく過程を象徴する出来事として位置づけることができる。
豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が始まると、島津家は四番隊に編成され、島津義弘を大将として朝鮮半島へ渡った 15 。佐多忠増もこの役に従軍したことが複数の資料で確認できる 4 。薩摩藩の史料『鹿児島県史料』には、忠増が島津義弘に供奉して朝鮮の陣に数年間在陣した旨が記されており、彼の武人としてのキャリアが国内に留まらなかったことを示している 17 。
また、『見聴雑事録』という史料には「新納忠増高麗渡海之日記」という記録の存在が示唆されており、これが佐多忠増のものであれば、彼の朝鮮での具体的な活動を知る上で極めて貴重な一次史料となるが、残念ながらその現存や詳細な内容は確認されていない 18 。
佐多忠増の生涯、特に後半生を考察する上で、同時代に活躍した「新納忠増(にいろ ただます)」という武将との混同を避けることは、史料を正確に読み解く上で極めて重要である。一部の記録では、沖田畷の戦いや関ヶ原の戦いで活躍し、大隅国山田の地頭を務めた「新納忠増」という人物が登場する 4 。
しかし、史料を精査すると両者は別人であることが明白となる。第一に、新納忠増は慶長9年(1604年)に死去したと記録されているのに対し 17 、佐多忠増はそれから37年後の寛永18年(1641年)に没している 2 。第二に、地頭職も新納忠増が山田であったのに対し、佐多忠増は敷根、百次、串良であった 2 。この没年と地頭職の明確な相違から、両者は同名の別人であると結論付けられる。武勇に優れた同名の武将が同時代に存在したため、後世の記録において混同が生じたものと推察される。したがって、本報告書ではこれらの事績を明確に区別し、佐多忠増の確かな足跡のみを追うこととする。
関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来すると、武士の役割は戦場での戦闘から、領地を治める行政官へと大きく変化していった。佐多忠増もこの時代の流れに適応し、薩摩国敷根(現在の鹿児島県霧島市国分敷根)、百次(薩摩川内市百次町)、大隅国串良(鹿屋市串良町)といった地域の地頭を歴任した 2 。
彼が単なる武辺者ではなかったことを示す逸話として、慶長9年(1604年)の出来事が挙げられる。この年、隠居していた主君・島津義久が居城を国分新城へ移すにあたり、忠増はその移転の吉凶を占うため、陰陽博士である賀茂在信のもとへ上洛する使い役を務めている 2 。これは、彼が武勇だけでなく、主君の側近くにあって儀礼や交渉といった重要な任務を任される、信頼の厚い家臣であったことを示している。
泰平の世が訪れても、佐多忠増の武人としての役割が終わることはなかった。慶長14年(1609年)、薩摩藩による琉球攻めが行われると、当時48歳であった忠増もこれに出陣している 2 。この際には、彼の一族である佐多(知覧)久信が忠増に従軍したという記録も残っており、一門を率いての参陣であったことが窺える 20 。
さらに5年後の慶長19年(1614年)、豊臣家の最後の抵抗となった大坂冬の陣が勃発すると、53歳の忠増は再び戦場へと赴いた 2 。大坂の陣の頃には、すでに関ヶ原以降に生まれた戦を知らない世代の武士も増え始めていた。その中で、数多の修羅場をくぐり抜けてきた忠増のような歴戦の勇士の存在は、軍の実戦における判断や士気の維持において、極めて貴重なものであったに違いない。彼の生涯は、その本質が最後まで「武人」であり続けたことを証明している。
数々の戦乱を生き抜き、4代の主に仕えた佐多忠増は、徳川幕府による治世が盤石となった寛永18年(1641年)7月21日、80歳でその生涯を閉じた 2 。具体的な死因に関する記録は見当たらないが、戦国の動乱を乗り越え、当時としては驚異的な長寿を全うしたことから、天寿を全うしたと考えるのが自然であろう。彼の戒名は「星悟常覚」と伝えられている 2 。
佐多忠増の生涯と功績を現代に伝える最も重要な史料は、江戸時代に薩摩藩が公式に編纂した家臣の人物伝である『本藩人物誌』である 2 。この史料は、藩士たちの功績を記録し、後世の模範とすることを目的に作られたものである。その中に、忠増の武功、とりわけ「太刀初」の誉れが詳細かつ繰り返し記録されているという事実は、彼が薩摩藩において「武の模範」として公式に認められ、その武勇が永く語り継がれるべきものと評価されていたことを明確に示している。
佐多氏の宗家は、本拠地を知覧に置いていたことから「知覧島津氏」とも呼ばれる。その菩提寺は知覧にあった曹洞宗の西福寺であったが、明治時代の廃仏毀釈により廃寺となった。現在、その跡地は「島津墓地」として南九州市の史跡に指定されており、佐多氏(知覧島津氏)歴代当主とその一族の墓が残されている 23 。しかし、現存する資料からは、佐多忠増個人の墓所がこの島津墓地にあるのか、あるいは最後の地頭職であった串良など別の場所にあるのかを特定することはできない。この点は、今後の研究によって解明が期待される課題である。
佐多氏の宗家は、江戸時代中期に藩主・島津光久の子が養子に入り、島津姓を名乗ることを許され、名実ともに島津一門として「知覧島津家」を称し、幕末まで続いた 7 。佐多忠増の家系は、この知覧島津家の分家筋として、薩摩藩士の道を歩み続けたと考えられる。
佐多忠増の生涯は、単なる一武将の武勇伝に終わらない。彼は、島津氏が九州の覇権を争った戦国乱世の最盛期において、その先鋒として比類なき武勇を示した、まさしく「戦国武将」そのものであった。彼の幾度にもわたる「太刀初」の功績は、薩摩武士の勇猛果敢な精神を体現するものであった。
同時に彼は、豊臣政権による天下統一、そして徳川幕府の成立という、時代の大きなうねりにも巧みに適応した。主家の臣従という苦渋の決断に従い、中央政権の軍役に服し(忍城攻め)、江戸初期には地頭として領地を治め、主君の使い役を務めるなど、新たな時代の「近世武士」としての役割も忠実に果たした。
島津義久から光久まで4代の主に仕え、80年の長寿を全うした彼の人生は、戦国時代の武勇と、泰平の世における忠勤という、二つの異なる価値観を両立させた、まさに時代の「移行期」そのものを体現している。佐多忠増という一人の人間の生き様を追うことは、戦国から近世へと至る武士社会のダイナミックな変容を理解するための、極めて貴重な歴史的事例であると言えよう。