最終更新日 2025-06-22

佐川信利

「佐川信利」の画像

平戸藩国家老 佐川主馬信利 ― 近世初期日本の国際関係を動かした知られざる巨人の実像

序章:なぜ今、佐川信利を再評価するのか

はじめに:歴史の片隅に埋もれた重要人物

日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての歴史を語る際、我々の視線は将軍や大名、あるいは著名な思想家といった人物に注がれがちである。しかし、歴史のダイナミズムは、しばしばそうした表舞台の人物だけでなく、彼らを支え、時には彼らを動かした実務家たちの手によって生み出される。肥前国平戸藩の国家老、佐川主馬信利(さがわ しゅめ のぶとし)は、まさにそのような人物の典型であった。彼の名は全国的な知名度こそ低いものの、その活動は一地方家臣の枠を大きく超え、近世初期日本の対外関係史において、比類なき重要な役割を果たしていた。本報告書は、現存する史料、特に一次史料を駆使し、この知られざる巨人の実像に迫り、その歴史的意義を再評価することを目的とする。

多面的な貌を持つ男:武士、外交官、貿易家、そして情報家

佐川信利について一般的に知られる情報は、「松浦家臣。朝鮮派兵では渡海。一時福島正則に属すが、正則の改易後は松浦家に戻る。外国商館との折衝や財政整理の断行など、内政や外交に辣腕を振るった」といった断片的なものである。しかし、これらのキーワードは、彼の多岐にわたる活動のごく一部を照らし出すに過ぎない。彼は武士として朝鮮の戦場を経験し、外交官としてオランダやイギリスの商館と渡り合い、貿易家として自ら朱印船を仕立てて海外へ乗り出し、さらには情報家として国家の最重要機密にさえ触れていた。彼の存在は、武功一辺倒であった戦国の価値観が、外交、経済、情報といったソフトパワーを重視する近世へと移行していく時代の転換点を象徴している。信利は、平戸藩という一地方組織に属しながら、その専門性と広範なネットワークを駆使して藩の、ひいては日本の対外関係を実質的に動かした、稀有な「国際派ミドルマネジメント」であったと位置づけることができる。本稿では、これらの活動を個別に追うだけでなく、それらが一人の人物の中でどのように統合され、相互に影響し合っていたのかを解き明かしていく。

本報告書の構成とアプローチ

本報告書では、まず信利の生涯と彼が生きた時代の大きな流れを把握するために関連年表を提示する。次いで、彼の出自と武人としての経験の蓄積を第一章で詳述する。第二章では、本報告の中核をなす外交官としての活動に焦点を当て、特に平戸イギリス商館長リチャード・コックスの日記を主要な史料として、その記述から信利の具体的な行動と役割を立体的に浮かび上がらせる。第三章では、経済人としての一面、すなわち朱印船貿易家としての活動と藩財政への貢献について考察する。第四章では、同時代人の評価や後世の記録から、その人物像と遺産を探る。そして終章において、彼の歴史的意義を総括し、今後の研究課題を提示する。

佐川信利 関連年表

年代(西暦)

国内外の主要な出来事

佐川信利の動向・関連事項

出典

1592年(文禄元年)

文禄の役(朝鮮出兵)開始

主君・松浦鎮信に従い朝鮮へ渡海。小西行長率いる一番隊に所属。

1

1597年(慶長2年)

慶長の役

(引き続き従軍か)

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い

この頃、一時的に福島正則に仕官した可能性。

1603年(慶長8年)

徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く

1609年(慶長14年)

オランダ船、平戸に来航。平戸オランダ商館設立

藩老としてオランダ商館の設立に尽力。

3

1613年(慶長18年)

イギリス船、平戸に来航。平戸イギリス商館設立

イギリス商館との交流を開始。

4

1614年(慶長19年)

禁教令が全国に発布

1615年(元和元年)

大坂夏の陣、豊臣氏滅亡

朱印船貿易家として活動。イギリス商館との交渉記録が日記に現れ始める。

5

1616年(元和2年)

徳川家康死去。貿易港を平戸・長崎に限定

コックスに対し、家康の死をいち早く伝える。

6

1617年(元和3年)

イギリス人と日本人の紛争を調停。

7

1619年(元和5年)

福島正則、改易

正則の改易に伴い、信利は完全に松浦家に帰参したとみられる。

8

1623年(元和9年)

イギリス商館、閉鎖

10

不詳

死去。平戸市内に親子墓所が現存。

11

第一章:黎明期 ― 武人としての出自と経験の蓄積

第一節:平戸藩の重臣・佐川氏

佐川信利の出自である佐川氏は、肥前国平戸の領主・松浦家の譜代の重臣であった。信利が名乗った「主馬(しゅめ)」という通称は、単なる呼び名ではなく、馬の管理を司る役職名に由来する官途名であり、藩内における佐川家の高い地位を物語っている 6 。リチャード・コックスの日記においても、彼は一貫して「主馬殿(Shume dono)」として記されており、この呼称が彼の公的な立場を示すものであったことがわかる 6

佐川家が代々藩政の中枢を担ってきたことは、現代に残る史跡からも窺い知ることができる。長崎県平戸市内には「平戸藩重臣 佐川主馬親子墓所」が現存しており、地元の歴史研究団体である平戸史談会によって定期的な清掃活動が行われている 11 。これは、佐川一族が単に文献上の存在であるだけでなく、地域社会においても永く記憶され、敬意を払われる存在であったことを示している。

第二節:文禄・慶長の役 ― 国際舞台への第一歩

信利のキャリアにおいて、最初の重要な転機となったのが、豊臣秀吉による朝鮮出兵、すなわち文禄・慶長の役であった。彼は主君である平戸藩主・松浦鎮信(法印)に従い、朝鮮半島へ渡海した 1 。松浦勢は、キリシタン大名として知られる小西行長が率いる一番隊に編制され、3,000の兵を率いて参陣した 2

この従軍は、信利にとって初めての海外経験であり、その後の彼の人生を方向づける決定的な原体験となった。異文化との直接的な接触、大規模な軍勢を動かすための兵站や渡海作戦の実務知識、そして何よりも国際紛争の凄惨な現実を目の当たりにした経験は、彼に国内だけの視点に留まらない、グローバルな視野と現実的な感覚を植え付けたに違いない。後に彼が示す卓越した外交手腕の根底には、この朝鮮での過酷な経験があったと考えられる。

第三節:謎多き雌伏の時 ― 福島正則への一時仕官

信利の経歴の中で、ひときわ異彩を放ち、かつ多くの謎に包まれているのが、安芸広島藩49万石の太守、福島正則への一時的な仕官である。利用者提供の情報にもあるこの事実は、彼のキャリアを理解する上で極めて重要であるが、残念ながらその正確な時期や背景を直接的に物語る史料は乏しい。

福島正則は、豊臣秀吉子飼いの猛将として知られ、関ヶ原の戦いでは東軍の主力として活躍し、戦後、安芸・備後二国を与えられた大大名であった。しかし、豊臣家への恩顧も忘れず、徳川幕府からは常に警戒の目で見られていた。そして元和5年(1619年)、居城である広島城を幕府に無断で修築したことを咎められ、改易処分となった 8 。信利が正則に仕えたのは、正則が広島城主であった慶長6年(1601年)から元和5年(1619年)までの期間内のことと考えられる。

しかし、なぜ松浦家の重臣である信利が、他家である福島家に仕える必要があったのか。単なる個人的な出奔や、より高い禄を求めての移籍とは考えにくい。この行動の裏には、当時の緊迫した政治情勢と、それに巧みに対応しようとする松浦家の戦略があったと推察される。関ヶ原の戦いが終わり、徳川の世が始まったとはいえ、大坂には豊臣秀頼が依然として存在し、天下の情勢は未だ流動的であった。多くの西国大名、特に豊臣恩顧の大名であった松浦家にとって、徳川と豊臣の双方に気を配り、自家の存続を図ることは至上命題であった。

このような状況下で、松浦家が腹心の家臣である信利を、豊臣恩顧の筆頭格である福島正則のもとへ「出向」させた可能性が考えられる。これは、中央の政治動向を探るための情報収集の拠点を確保すると同時に、万が一、豊臣方が勢力を盛り返した場合に備えるための「政治的保険」としての意味合いを持っていたのではないか。朝鮮での経験を持ち、胆力と知略に優れた信利は、この重要な任務を遂行する最適任者と見なされたのであろう。

その後、大坂の陣を経て徳川の支配体制が盤石となり、一方で平戸にはオランダ、イギリスの商館が相次いで設立され、国際貿易港としての重要性が飛躍的に高まった。信利が持つ海外経験と交渉能力は、もはや広島ではなく、平戸でこそ最大限に活かされる状況となった。彼が松浦家に復帰したのは、こうした国内外の情勢変化に対応するための、松浦家の戦略的な人事異動であったと考えられる。福島家での雌伏の期間は、信利に中央の政治力学を学ぶ貴重な機会を与え、その後の彼の外交活動の重要な礎となったのである。

第二章:外交の舞台 ― 国際港・平戸の舵取り

松浦家に復帰した信利は、その能力を遺憾なく発揮し、平戸藩の外交・貿易政策の事実上の責任者として活躍する。彼の主たる舞台となったのは、相次いで平戸に設立されたオランダ、そしてイギリスの商館であった。

第一節:平戸オランダ商館の設立と信利の役割

慶長14年(1609年)、オランダ船2隻が平戸に来航し、徳川家康から通商許可の朱印状を得て商館を建設した。この日本初のオランダ商館設立において、藩老であった佐川主馬助信利がその実現に大きく尽力したことが、後世の記録に明確に記されている 3 。これは、信利が藩の対外政策の初期段階から深く関与し、その舵取りを担っていたことを示す最初の証拠である。彼の交渉力と実務能力なくして、平戸が近世日本の西の玄関口として発展することはあり得なかったであろう。

第二節:『イギリス商館長日記』に見る外交官・信利

信利の具体的な活動を生き生きと伝えるのが、慶長18年(1613年)に設立された平戸イギリス商館の初代館長、リチャード・コックスが遺した詳細な日記である。この第一級の史料には、「主馬殿(Shume dono)」として信利が頻繁に登場し、彼の多面的な役割が記録されている 6

紛争調停者として

商館が置かれた平戸では、文化や習慣の異なる日本人とイギリス人との間で、様々な紛争が発生した。元和3年(1617年)に起きた、イギリス人とミゲル数之助という日本人との間のトラブルでは、信利が重要な調停役を果たした。当初、平戸藩は当事者同士で解決すべきという立場を取っていたが、コックスは信利を通じて「相手方がイギリス人を殺害する恐れがある」という深刻な事態を伝えた。これを受け信利は、問題を藩内で抱え込まず、幕府の管轄である京都で裁いてもらうことを提案するなど、極めて現実的かつ柔軟な対応を見せている 7 。これは、彼が単なる藩の役人ではなく、国際法的な紛争解決能力をも備えた調停者であったことを示している。

貿易の仲介者として

信利の活動は、平戸藩内の問題に留まらなかった。彼は、隣接する唐津藩の藩主・寺沢広高からの依頼を受け、木綿布などの商品をイギリス商館から購入する仲介も行っている 16 。これは、彼が藩の枠を超えた広域的な経済ネットワークの中心に位置し、各勢力間の貿易コーディネーターとしての役割を担っていたことを意味する。彼の信用と人脈が、地域全体の貿易を円滑に動かしていたのである。

第三節:情報家としての側面 ― 家康の死を巡る情報戦

信利の最も驚くべき側面は、情報家としての能力である。元和2年(1616年)6月16日、コックスの日記には衝撃的な記述がある。藩主・松浦隆信の帰国を祝う使者を派遣した際、コックスは信利にも挨拶の使者を送った。その返答として信利は、「大御所様(徳川家康)が26日前に駿府で死去したことは確実であり、自分はその埋葬の場所も見た」と、コックスの通訳に伝言させたのである 6

家康の死は、幕府が公式に発表するまで厳重に秘匿された国家の最重要機密であった。それを一介の藩の家臣である信利が、これほど正確に、かつ迅速に把握していたという事実は、彼が幕府中枢にまで通じる独自の情報網を構築していたことを強く示唆する。

この情報伝達は、単なる事実の通知ではなかった。それは、信利による高度な政治的・戦略的行動であったと分析できる。当時の最高権力者の死という機密情報を漏らすことは、信利自身にとっても大きな危険を伴う。そのリスクを冒してまでコックスに伝えた背景には、いくつかの狙いがあったと考えられる。第一に、他の誰よりも早く正確な情報を提供することで、イギリス商館にとって自分が不可欠な情報源であることを証明し、今後の交渉における優位性を確保すること。第二に、この情報によって商館は新将軍・秀忠の治世における政策変更にいち早く備えることができ、信利は商館に対して計り知れない「貸し」を作ることができる。そして第三に、イギリス商館の安定した活動は平戸藩の経済的利益に直結するため、権力移行期の混乱から商館を守り、交易を継続させることは藩益そのものであった。この一連の行動は、信利が情報のもつ戦略的価値を深く理解し、それを外交ツールとして巧みに駆使できる、卓越した政治感覚の持ち主であったことを証明している。彼は、平戸という地方の拠点から、国家レベルの情報戦に深く関与していたのである。

『イギリス商館長日記』における佐川信利の活動記録

日付(元和年間)

活動分類

具体的な内容

関連人物

出典

2年1月

貿易仲介

唐津藩主・寺沢広高の依頼で、イギリス商館から木綿布などを購入する仲介を行う。

寺沢広高

16

2年6月16日

情報提供

徳川家康の死去を、公式発表前にリチャード・コックスに伝える。

リチャード・コックス

6

3年4月

紛争調停

イギリス人と日本人ミゲル数之助との紛争に関し、コックスと協議。裁判の幕府移管を提案。

リチャード・コックス、ミゲル数之助

7

複数回

贈答・交流

イギリス商館と贈答品を交換。信利は獣皮などを受け取っている。

リチャード・コックス

15

不詳

私的交流

商館に借金を申し入れ、断られて機嫌を損ねるなど、人間味のある交流が記録されている。

リチャード・コックス

18

第三章:経済人としての顔 ― 朱印船貿易と藩財政

佐川信利の活動は、外交や情報収集に留まらなかった。彼は自ら経済活動の主体となり、藩の財政基盤を支える重要な役割を担っていた。

第一節:武士にして朱印船貿易家

信利の経歴において特筆すべきは、彼が徳川幕府から海外渡航・貿易の許可証である「朱印状」を交付された、数少ない武士の一人であったという事実である 5 。慶長・元和年間に発行された朱印状の所持者は、島津家や松浦家といった西国大名、あるいは角倉了以や末吉孫左衛門に代表される京都・堺・長崎の豪商たちがその大半を占めていた。その中にあって、一藩の家臣に過ぎない信利が、大名や大商人と並んで名を連ねていることは極めて異例である。これは、彼が単に藩主の名代として活動していただけでなく、一個の貿易家として独立した経済力と人脈、そして何よりも幕府から直接許可を得られるほどの信用を確立していたことを示している。

第二節:貿易利潤と藩財政への貢献

信利が「財政整理を断行した」という評価が後世に伝わっているが、その具体的な内容、例えば倹約令や家臣のリストラといった緊縮財政を主導したという直接的な史料は見当たらない。むしろ、彼が活躍した慶長・元和年間は、平戸がオランダ・イギリス両商館の拠点として空前の繁栄を謳歌した時代であった。平戸藩の財政が深刻な危機に陥るのは、信利の死後、寛永18年(1641年)に幕府の命令でオランダ商館が長崎の出島へ移転させられ、藩が貿易による莫大な利益を失ってからのことである 19

この事実から、信利の「財政整理」という功績を再解釈する必要がある。それは、赤字財政を立て直すといった「守りの改革」ではなく、貿易という新たな歳入源を積極的に活用し、藩の財政基盤そのものを構築・確立する「攻めの財政運営」であったと考えるのが妥当であろう。彼は、オランダ・イギリス両商館の設立と円滑な運営に尽力し、さらに自らも朱印船貿易の担い手となることで、藩に莫大な富をもたらした。彼の活動は、平戸藩の歳入構造を、従来の土地からの年貢収入中心の体制から、国際貿易に大きく依存する体制へと転換させる原動力となった。その意味で、信利は平戸藩財政のアーキテクト(設計者)であり、彼の辣腕こそが、藩の黄金時代を築き上げたと言っても過言ではない。

第四章:人物像と後世への遺産

佐川信利は、その死後も様々な形で記憶され、評価されてきた。同時代人の記録から後世の顕彰まで、彼の人物像は多角的に描き出されている。

第一節:同時代人コックスの目に映った信利

リチャード・コックスの日記は、信利の公的な活動だけでなく、その人間味あふれる側面も伝えている。二人の間では頻繁に贈答品の交換が行われており、商館からは獣皮などが信利に贈られている 15 。これは、儀礼的な関係を超えた、個人的な信頼関係の構築が重視されていたことを示唆する。

一方で、彼らの関係は常に円満だったわけではない。日記には、信利が商館に借金を申し入れたものの断られ、その結果「機嫌を損ねた(sulked)」という興味深い記述も存在する 18 。このようなエピソードは、彼らの交流が、利害と感情が交錯する生々しい人間関係であったことを物語っている。信利は、冷静な交渉人であると同時に、時には感情を表に出す、一人の人間であった。

第二節:「忠烈無双」の評価

後世、平戸の郷土史料である『平戸之光』において、信利は「忠烈無双佐川主馬助氏」という最大級の賛辞をもって顕彰されている 21 。この「忠烈」という言葉は、単に戦場での武勇や主君への盲目的な忠誠だけを意味するものではないだろう。信利が生きた時代は、もはや合戦での武功のみが武士の価値を決める時代ではなかった。

彼の「忠」は、激動の国際情勢の中で、外交、貿易、情報という新たな武器を駆使して主家・松浦家を守り、その存続と繁栄の礎を築いた総合的な功績に向けられたものと考えられる。彼の主戦場は、朝鮮の野ではなく、平戸の商館であり、江戸の政治の中枢であった。そこで発揮された知略と胆力こそが、「無双」と称えられるに値すると評価されたのである。

第三節:史跡としての記憶

信利とその一族が平戸の地で果たした役割の大きさは、今なお物理的な形で残されている。平戸市内に現存する「平戸藩重臣 佐川主馬親子墓所」は、その最も明確な証拠である 11 。この墓所が地域の歴史団体によって大切に維持管理されているという事実は、信利の記憶が単なる文献上の記録に留まらず、具体的な場所と結びつき、地域史の中で脈々と受け継がれていることを示している。

終章:歴史における佐川信利の再評価

総括:境界に生きた男

佐川信利は、戦国と江戸、武士と商人、日本と海外という、いくつもの「境界」に立ち、それらを繋ぎ、媒介することで自らの価値を創出した稀有な人物であった。彼の生涯は、近世初期の日本が、後に形成される「鎖国」という閉鎖的なイメージだけでは到底語り尽くせない、ダイナミックな国際関係の中にあったことを雄弁に物語っている。一地方藩の家臣というミクロな視点から、近世日本のグローバルヒストリーを再考する上で、佐川信利は欠くことのできない鍵となる人物である。彼は、時代の変化を敏感に察知し、旧来の価値観に囚われることなく、新たな知識と技術を貪欲に吸収し、それを実践の場で活かしていった。その姿は、現代に生きる我々にとっても多くの示唆を与えてくれる。

残された謎と今後の展望

本報告書は、現存する史料を基に佐川信利の実像に迫ることを試みたが、彼の生涯には依然として解明されていない謎が多く残されている。

  1. 正確な生没年: 彼の活躍は多くの史料で確認できるにもかかわらず、その正確な生没年は確定していない。特に、一部の資料に見られる生没年は土佐藩主山内氏のものであり、全くの別人であるため注意を要する 22 。今後の新たな史料、特に平戸藩のより詳細な家臣団記録などの発見が待たれる。
  2. 福島正則仕官の真相: 本稿では、当時の政治情勢からその背景を推察したが、これを直接的に裏付ける一次史料は見つかっていない。松浦家や福島家の文書の中に、この「人材交流」に関する記録が眠っている可能性は否定できず、今後の研究課題である。
  3. 朱印船貿易の具体的内容: 彼が朱印船貿易家として、具体的にどのような商品を、どの港との間で取引し、どれほどの利益を上げていたのか、その詳細な記録は未発見である。貿易の収支や航海の記録が発見されれば、彼の経済人としての側面がより明確になるだろう。

これらの謎の解明は、佐川信利という一人の人物の生涯を明らかにするに留まらず、近世初期における大名家の存続戦略、藩政運営の実態、そして日本の対外関係史の研究をさらに深化させることに繋がるであろう。本報告書が、その探求への一助となることを期待する。

引用文献

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  2. 文禄・慶長 : 日本軍の合戦・進軍 - 肥前名護屋城 http://hizen-nagoya.jp/bunroku_keicho/kassen.html
  3. 平戸系 三川内窯 - 鶴田 純久の章 https://turuta.jp/story/archives/62947
  4. The voyage of Captain John Saris to Japan, 1613 https://archive.org/download/captainjvoyageof00saririch/captainjvoyageof00saririch.pdf
  5. 日本のアジア交易の歴史序説 - 神奈川大学 学術機関リポジトリ https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp/record/2072/files/48-01.pdf
  6. リチャード・コックス日記(Diary of Richard Cocks)試訳(4)1616年6月から7月まで - CORE https://core.ac.uk/download/223198785.pdf
  7. 献呈の辞 - 日本大学通信教育部 https://www.dld.nihon-u.ac.jp/pdf/kiyo_28.pdf
  8. 福島氏の入国と改易/浅野氏の治世 - 広島城 https://hiroshimacastle.jp/history/history02/
  9. 福島正則の身を滅ぼした「自尊心」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/23546
  10. 日本関係海外史料 - 東京大学史料編纂所 | Historiographical Institute The University of Tokyo https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kaigai/
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