最終更新日 2025-06-22

佐瀬種常

「佐瀬種常」の画像

蘆名家最後の忠臣、佐瀬種常の生涯と実像

序章:会津の落日に殉じた宿老

日本の戦国時代、数多の武将が歴史の舞台に登場し、そして消えていった。その多くは天下統一の野望に燃える英雄か、あるいは権謀術数の限りを尽くす梟雄として語られる。しかし、歴史の深奥には、滅びゆく主家に最後まで運命を共にし、己の信義を貫いた者たちが存在する。会津蘆名氏の宿老、佐瀬種常(させ たねつね)もまた、そのような武将の一人である。

彼の名は、主に二つの側面から歴史に刻まれている。一つは、領国経営における卓越した行政手腕である。天正十年(1582年)、彼は領内の物流と商業の活性化を目指し、市場の移転とそれに伴う都市計画を断行した 1 。これは、単なる武人にとどまらない、優れた経済感覚と統治能力の証左といえる。

もう一つは、主家の存亡を賭けた最後の戦いにおける、武人としての壮絶な忠義である。天正十七年(1589年)の摺上原の戦いにおいて、伊達政宗の圧倒的な軍勢を前に総崩れとなる蘆名軍の中、彼は若き養子と共に主君を逃すために踏みとどまり、その命を散らした 1

彼の死後、その忠義は忘れ去られることはなかった。200年以上の時を経て、江戸時代の会津藩は彼の墓碑を建立し、さらに金上盛備、佐瀬常雄と共に「三忠臣」として公式に顕彰した 4 。本報告書は、この佐瀬種常という人物の生涯を、出自、行政官としての功績、そして蘆名家最後の戦いにおける最期に至るまで、あらゆる角度から徹底的に調査・分析し、その歴史的実像を多角的に解き明かすことを目的とする。

第一章:佐瀬氏の出自と蘆名家臣団における台頭

第一節:佐瀬氏の源流 ― 桓武平氏千葉氏の系譜

会津の戦国史にその名を刻む佐瀬氏の出自は、古くは桓武平氏千葉氏の支流に遡ると伝えられている 6 。具体的には、上総権介常澄の四男であった円阿禅師が上総国山辺郡佐是村(現在の千葉県東金市周辺)に住み、その地名から佐是(佐瀬)を名乗ったことが始まりとされる 8 。この伝承を裏付けるように、会津の佐瀬氏は代々、千葉氏系統でしばしば用いられる「常」の字を通字としており、種常の名もこの伝統に連なるものである 8

会津の歴史において佐瀬氏の名が明確に現れるのは、文亀三年(1503年)に蘆名盛高の代官として活動した佐瀬平左衛門尉久常が最初である 7 。その後、天文年間(1532年~1555年)には佐瀬信濃守常和の名が見え、佐瀬大和守種常の時代に一族は最盛期を迎えたとされている 7 。これは、佐瀬氏が時間をかけて蘆名家中で着実に地位を築き上げ、重臣としての確固たる立場を確立していった過程を示している。

ここで明確に区別すべきは、江戸時代に『会津農書』を著したことで知られる篤農家・佐瀬与次右衛門の家系である 10 。与次右衛門の家系は、元は仁科氏であり、寛永二十年(1643年)に会津藩祖・保科正之が入封した際に、藩主の名を憚って「佐瀬」に改姓したものである 10 。したがって、本報告書で扱う千葉氏流の武家・佐瀬氏とは、その出自を全く異にする。この二つの「佐瀬氏」を混同することなく、戦国武将としての佐瀬種常の系譜を追うことが、その実像を正確に理解する上での必須の前提となる。

第二節:「蘆名四天の宿老」― 家臣団の頂点

佐瀬種常は、蘆名家の家政と軍事を司る最高幹部、「蘆名四天の宿老」または「蘆名四天王」と称される一角を占めていた 1 。この宿老は、佐瀬氏、富田氏、平田氏、松本氏の四家によって構成され、代々蘆名家の重臣を務める家柄であった 12

しかし、この宿老間の関係は、必ずしも一枚岩ではなかった。その複雑な人間関係は、蘆名家末期の混乱と衰退を象徴している。一つの側面として、宿老家同士の結束を固めるための婚姻政策があった。佐瀬種常は、同じく四天の宿老であった富田氏実(美作守)の子、常雄を養子として迎えている 4 。これは、佐瀬・富田両家の間に強固な縁戚関係を築き、家臣団の中核としての連携を強化しようとする意図があったと考えられる。

ところが、この縁戚関係は、主家の分裂という巨大な渦の前には無力であった。蘆名家滅亡の直接的な引き金となった摺上原の戦いにおいて、この矛盾は悲劇的な形で露呈する。養父である佐瀬種常は、主君のために命を懸けて奮戦し戦死した。その一方で、実父である富田氏実は、戦いを傍観した挙句に無断で戦線を離脱し、伊達方への内通すら疑われる行動を取ったと記録されている 13 。蘆名家が直面していた後継者問題は、家臣団を深刻に対立させ、宿老家同士の個人的な絆をも断ち切るほどの深い亀裂を生んでいたのである。この内部崩壊こそが、摺上原における敗北の、そして蘆名家滅亡の根源的な要因であった。この裏切りと対比されることで、佐瀬種常の忠義は一層際立つことになる。

表1:蘆名四天の宿老(蘆名義広時代)

家名

代表的人物

主な役割・拠点

摺上原の戦いと蘆名家滅亡時の動向

佐瀬氏

佐瀬種常

流通政策、商業振興。耶麻郡小田付館を拠点とした 7

養子・常雄と共に主君・義広を逃すために奮戦し、討死した 1

富田氏

富田氏実

軍事、外交。蘆名家中でも特に軍事面での活躍が目立つ 13

戦いを傍観し無断で戦線離脱。伊達方への内通説も存在する 13

平田氏

平田舜範

軍事。反乱鎮圧などに出陣した記録が残る 17

摺上原の戦いにおける具体的な動向は不明。

松本氏

松本氏輔

軍事。大沼郡船岡城を拠点とした 18

摺上原の戦い以前の天正二年(1574年)に田村氏との戦いで戦死している 18

第二章:領国経営者としての大和守種常

第一節:小田付六斎市の開設 ― 経済政策と都市計画

佐瀬種常の功績は、戦場での武勇だけに留まらない。彼は、領国の繁栄を見据えた優れた行政官でもあった。その代表的な事績が、天正十年(1582年)に断行された小田付(おたづき)における六斎市(ろくさいいち)の開設である 1

当時、市場は耶麻郡中田付村に開かれていたが、種常はこれを不便であるとし、小田付村への移転を主導した 1 。この事業は、単に市場の場所を移すというだけのものではなかった。記録によれば、種常は自ら「町割り」、すなわち近世的な都市計画を行い、新たな商業都市を創設したのである 2 。この町割りによって整備された小田付の町は、その後、酒や味噌、醤油などの醸造業が盛んになり、会津北方の交易の中心地として大いに発展した 20 。種常の政策が、長期的な視点に立った戦略的な経済振興策として見事に成功したことを物語っている。

この六斎市移転の背景には、より深い戦略的意図があったと考えられる。第一に、領内の物流と富を特定の拠点に集中させることで、経済を直接的に把握し、税収の安定化を図る「経済統制」の強化。第二に、新たに形成される町に商工業者層を集住させ、彼らの経済活動を保護することで、その支持を取り付け、領民の生活を安定させる「民政安定化」策。そして第三に、この新たな商業都市を、自身の居館である小田付館の城下町として整備することで、有事の際の兵站基地としての機能を高め、拠点そのものの「防衛力」を向上させるという、複合的な目的があったと推察される。この事業は、種常が武人であると同時に、近世的な都市計画の視点を持つ、極めて有能な領国経営者であったことを証明している。

第二節:居館と人物像 ― 権勢と風雅、そして批判

佐瀬種常の権勢の拠点は、耶麻郡小田付館(現在の福島県喜多方市)であった 7 。この館は、彼が町割りを行った小田付の町の中心に位置し、後に郷役所や代官所としても利用されるなど、地域の政治・経済の中心であり続けた 16 。一方、彼の養子となった佐瀬常雄は、耶麻郡大寺館(現在の福島県磐梯町)を居館としていた 4 。この二つの拠点の配置は、佐瀬一族が会津盆地の北部から猪苗代に通じる要衝を strategically 押さえていたことを示している。

しかし、彼の人物像は、単なる忠臣や有能な行政官という一面だけでは語れない。ある史料には、彼が個人的な趣味であった庭園造りのため、天寧寺河原から珍しい石を運び出す際に、領民に多大な課役を強いたことへの批判が記されている 1 。この史料は「大和守」と記されているのみで、種常本人であると断定することは困難であるが、もし事実であれば、彼の権勢が時に領民の負担となっていた可能性を示唆する。この記録は、種常の人物像に、権力者としての驕りや領民との間の緊張関係といった、より人間的な深みとリアリティを与える貴重なものである。

第三章:蘆名家の落日と摺上原の戦い

第一節:主家の動揺と伊達政宗の台頭

蘆名家の栄華は、十六代当主・盛氏の死後、急速に翳りを見せ始める。天正八年(1580年)に盛氏が没し、その跡を継いだ十八代当主・蘆名盛隆は、卓越した外交手腕で織田信長とも誼を通じるなど積極的な政策を展開したが、天正十二年(1584年)、寵愛していた近習の大庭三左衛門によって暗殺されるという悲劇的な最期を遂げた 26

盛隆の死後、跡を継いだのは生まれたばかりの遺児・亀王丸であったが、この幼き当主も天正十四年(1586年)にわずか3歳で夭逝してしまう 28 。これにより、蘆名家は当主不在という未曾有の危機に直面した。

この後継者問題は、家臣団を二つに引き裂いた。一方は、急速に勢力を拡大する伊達政宗の弟・小次郎を擁立し、伊達家との連携によって家の存続を図ろうとする派閥。もう一方は、長年の同盟相手である常陸の佐竹義重の子・義広を迎え入れ、反伊達連合の中核として独立を維持しようとする派閥であった 7 。佐瀬種常や金上盛備らは、後者の佐竹派を支持した。激しい内部対立の末、最終的に佐竹派が勝利し、蘆名義広が新たな当主として黒川城に入った。しかし、この決定は伊達派の家臣、特に猪苗代城主・猪苗代盛国らの強い反発を招き、彼らが伊達方へ内通する温床となった 28 。伊達政宗にとって、これは会津侵攻の絶好の口実を与えるものであり、佐瀬種常らは、内部に深刻な亀裂を抱えたまま、この国難に立ち向かわなければならないという、極めて困難な状況に置かれたのである。

第二節:摺上原の死闘 ― 忠臣の最期

天正十七年(1589年)六月五日(旧暦)、会津の命運を賭けた摺上原の戦いの火蓋が切られた 31 。蘆名軍は約1万6千、対する伊達軍は約2万3千と、兵力では伊達が優っていた 31 。蘆名軍の布陣において、佐瀬種常は重臣筆頭の金上盛備と共に第二陣を率いたとされる 1

合戦は午前六時頃に開始された 3 。当初、戦場の摺上原には西風が強く吹いており、追い風を受けた蘆名軍は優勢に戦いを進めた 3 。しかし、午後になると風向きが東風へと変わり、形勢は一気に逆転する 3 。さらに、かねてより内応していた猪苗代盛国が伊達軍の先鋒として味方に牙を剥き、退路である日橋川の橋を落として蘆名軍の混乱を誘った 31 。これにより、蘆名軍は統制を失い、総崩れとなった。

この絶望的な状況の中、佐瀬種常は退却の道を選ばなかった。彼は、まだ16歳(または17歳)であった養子・常雄と共に、主君・蘆名義広を無事に逃すための盾となるべく、敵中に踏みとどまった 1 。二人は最後まで奮戦を続けたが、衆寡敵せず、壮絶な討死を遂げた 1 。種常の最期の地は、磐梯町を流れる大谷川のほとりであったと伝えられている 4

この種常の死は、単なる戦闘における敗北の結果ではない。主君は血縁の薄い他家からの養子であり、家臣団は分裂し、同僚の宿老すら保身に走る中、彼はあえて死を選んだ。それは、彼が自らに課した「蘆名家宿老」としての公的な責務を、命を懸けて全うするという、武士としての倫理観と矜持の最終的な表明であった。彼の死は、旧来の主従関係に殉じるという、滅びゆく戦国武士の一つの理想像を体現したものであり、後世に「忠臣」として語り継がれる最大の理由となったのである。

第四章:忠臣としての記憶―後世の評価と顕彰

第一節:離散と再生 ― 蘆名家滅亡後の一族

摺上原の戦いでの敗北と主君・蘆名義広の逃走により、戦国大名としての蘆名家は事実上滅亡した。それに伴い、佐瀬一族もまた離散の運命を辿ることになる 4 。ある者は主君・義広に従って常陸国の佐竹氏を頼り、またある者は会津を支配することになった伊達家に仕え、あるいは武士の身分を捨てて会津の地に帰農するなど、その後の道は様々であった。

しかし、佐瀬氏の血脈は会津の地で途絶えることはなかった。江戸時代に入り、会津の領主が保科松平家となると、離散していた一族の中から再び会津藩に仕官する者が現れ、藩士として家名を再興した 4 。この事実は、佐瀬一族が会津の地と深い縁を保ち続け、その忠義の記憶が藩内で受け継がれていたことを示唆している。

第二節:墓碑と三忠碑 ― 江戸時代における再評価

佐瀬種常の忠義は、時を経て再評価され、物理的なかたちで顕彰されていく。彼の墓は、戦死した地に近い福島県耶麻郡磐梯町金屋上に現存しており、元々は村人たちがその壮絶な死を悼み、五輪塔を建てて冥福を祈ったのが始まりと伝えられている 1

そして文化二年(1805年)、種常の死から約200年後、会津藩は公式に「佐瀬大和守種常之碑」を建立し、墓守を置いた 4 。これは、藩が彼の忠義を公に認め、その記憶を後世に伝える意思を示した最初の重要な一歩であった。

この顕彰活動は、嘉永二年(1849年、嘉永三年(1850年)説もある)に頂点を迎える。時の会津藩主・松平容敬は、摺上原で討死した金上盛備、佐瀬種常、そしてその養子・佐瀬常雄の三名を「三忠臣」と称え、古戦場跡に「三忠碑」を建立したのである 4 。碑文は藩の儒学者・高津泰が選び、その書体は、忠義の臣として名高い唐代の書家・顔真卿の文字を集めて刻まれた 5

江戸時代も後期から末期に差し掛かるこの時期に、なぜ会津藩は200年以上も前の、しかも直接の主従関係にはない蘆名家の家臣を大々的に顕彰したのか。それは単なる歴史上の人物への敬意に留まるものではない。国内外で社会が不安定化し、武士の存在意義そのものが問われ始めた時代にあって、藩主への絶対的な忠誠を藩士たちに再確認させ、武士道精神を鼓舞するための、高度なイデオロギー政策であったと考えられる。絶望的な状況下でも主君のために命を捧げた佐瀬種常らの物語は、武士道が理想とする「忠」の姿そのものであった。松平容敬は、この物語を「三忠碑」というモニュメントとして領内に設置することで、藩士たちに「かくあるべし」という理想の武士像を永続的に提示したのである。佐瀬種常は、一人の歴史上の人物から、会津武士道の象徴へと昇華され、その記憶は後の戊辰戦争における会津藩の精神的土壌の一部を形成した可能性も否定できない。

結論:戦国武将・佐瀬種常の再評価

本報告書を通じて、佐瀬種常という人物の多層的な実像が明らかになった。彼は、単に摺上原の戦いで悲劇的な最期を遂げた一武将として記憶されるべき存在ではない。

第一に、彼は領国の経済基盤を理解し、小田付六斎市の開設という近世的な都市計画を断行した、優れた「行政官」であった。その政策は町の長期的な繁栄の礎となり、彼の先見性を示している。

第二に、主家が後継者問題で分裂し、同僚たちが保身や裏切りに走るという内部崩壊の状況下にあって、最後まで「蘆名家宿老」としての職責を全うし、忠義に殉じた稀有な「武人」であった。彼の死は、武士としての矜持を貫いた選択の結果であった。

そして第三に、彼の死後、その「忠義」の物語が、時代を超えて会津の地に生き続け、江戸後期の会津藩によって武士道精神の象徴として見出され、藩士教育のための「文化的記憶」として再生産・顕彰された人物であった。

これら「行政」「武勇」「記憶」という三つの側面から総合的に捉えることで、佐瀬種常という一人の戦国武将の、立体的で深い歴史的価値とその重要性が再評価されるべきである。彼は、会津の歴史において、落日の蘆名家に咲いた最後の徒花(あだばな)であり、その香りは時代を超えて人々の心を打ち続けているのである。

引用文献

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