佐田彦四郎は毛利氏家臣・杉原盛重に仕えた忍者。上月城の戦いで活躍したとされるが、その実像は軍記物語『陰徳太平記』による脚色が多い。
本報告書は、戦国時代に毛利氏の家臣・杉原盛重に仕えたとされる忍者、佐田彦四郎(さだ ひこしろう)に関する現存する情報の断片を統合し、史実と伝承を弁別することで、その実像に迫ることを目的とする。彦四郎の名は、一部の歴史愛好家や戦国時代を題材とした創作物を通じて知られているが、その人物像は「狐狸の変化」と称された特異な能力や、上月城の戦いにおける活躍といった逸話に彩られ、伝説の霧に深く包まれている。本調査では、単なる逸話の紹介に留まらず、彼が生きた時代背景、主君である杉原盛重の動向、そして彦四郎の名を後世に伝えた最大の要因である軍記物語『陰徳太平記』の史料的性質を多角的に分析する。
佐田彦四郎に関する情報のほとんどは、江戸時代中期に成立した軍記物語『陰徳太平記』に依存しているのが現状である 1 。一次史料、すなわち同時代に書かれた書状や公的記録において、彼の名を直接確認することは極めて困難であり、その存在を確固たる史実として位置づけることには大きな壁が立ちはだかる。この情報源の著しい偏りは、彦四郎という人物を学術的に探求する上での最大の課題と言える。
この課題を克服するため、本報告書では以下のアプローチを採用する。第一に、彦四郎本人に関する直接的な記録の乏しさを補うため、彼が仕えた主君・杉原盛重という、実在が確かな歴史上の人物の生涯と軍事行動を徹底的に追跡する 3 。盛重が置かれた戦略的状況を理解することは、彼が彦四郎のような特殊技能を持つ人材を必要とした背景を浮き彫りにする。第二に、彦四郎が活躍したとされる播磨国や伯耆国といった地域の地理的・戦略的重要性を分析し、彼の伝説が生まれた歴史的文脈を探る。最後に、『陰徳太平記』の記述を鵜呑みにするのではなく、軍記物語というジャンルの特性を踏まえ、その記述内容を批判的に吟味する。これにより、史実の核と、後世に付加された文学的脚色とを分離し、伝説の向こう側にある佐田彦四郎の実像を可能な限り明らかにすることを目指す。
佐田彦四郎の人物像を理解するためには、彼がその生涯を捧げた主君・杉原盛重と、兄弟とされる甚五郎、小鼠との関係性を把握することが不可欠である。本章では、まず主君である盛重の経歴と毛利家中における役割を詳述し、彼が彦四郎ら忍びを必要とした背景を考察する。次いで、記録に残る佐田三兄弟の輪郭を明らかにする。
【表1:佐田彦四郎 関連人物・事項一覧】
分類 |
名称 |
概要 |
人物 |
佐田彦四郎 (さだ ひこしろう) |
本報告書の主題。杉原盛重に仕えた忍者。三兄弟の長兄。「狐狸の変化」と称された。 |
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佐田甚五郎 (さだ じんごろう) |
彦四郎の弟。兄と共に杉原盛重に仕えた 5 。 |
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佐田小鼠 (さだ こねずみ) |
彦四郎の末弟(または末弟子)。兄たちと共に杉原盛重に仕えた 5 。 |
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杉原盛重 (すぎはら もりしげ) |
佐田三兄弟の主君。毛利氏の家臣で、備後・伯耆の国境地帯を守った武将 4 。 |
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吉川元春 (きっかわ もとはる) |
毛利元就の次男。盛重の武勇を評価し、毛利家臣として取り立てた 4 。 |
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毛利元就 (もうり もとなり) |
中国地方の覇者。盛重が仕えた毛利家の当主 6 。 |
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羽柴秀吉 (はしば ひでよし) |
後の豊臣秀吉。上月城の戦いで毛利軍と対峙した織田方の将軍 5 。 |
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山中幸盛 (やまなか ゆきもり) |
尼子氏再興を目指した武将。盛重と伯耆国で激しく争った 4 。 |
地名 |
備後国・神辺城 |
盛重が初期に拠点とした城 4 。 |
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伯耆国・尾高城 |
盛重が尼子氏との最前線として与えられた城 4 。 |
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伯耆国・八橋城 |
盛重が晩年に拠点とし、病没した城 4 。 |
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播磨国・上月城 |
彦四郎が攪乱工作を行ったとされる戦いの舞台 5 。 |
用語 |
陰徳太平記 (いんとくたいへいき) |
彦四郎の逸話を記す主要な史料。江戸時代の軍記物語 1 。 |
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狐狸の変化 (こりのへんげ) |
彦四郎の卓越した変装術や攪乱術を指す異名 9 。 |
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世鬼衆 (せきしゅう) |
毛利氏が抱えていたとされる伊賀出身の忍者集団 11 。 |
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尼子氏 (あまごし) |
かつて中国地方に勢力を誇った大名。毛利氏に滅ぼされた後も、残党が抵抗を続けた 13 。 |
佐田彦四郎の主君であった杉原盛重(1533年~1582年)は、毛利氏の中国地方統一事業において、特に山陰方面の最前線で目覚ましい働きを見せた武将である。彼の出自については、備後国の名族・杉原氏の一族とされながらも 4 、下岩成の土豪・宗岡氏の出身であるという異説も存在し、その詳細は謎に包まれている 14 。確かなことは、彼が当初、備後国神辺城を拠点とする山名理興の家老であったこと、そして理興の死後、その武勇を毛利元就の次男・吉川元春に高く評価され、毛利氏の家臣として神辺城主の地位を継いだという事実である 4 。これは、盛重が名門の出というよりも、自らの実力で地位を切り拓いた叩き上げの武将であったことを強く示唆している。
毛利氏に仕えて以降の盛重の経歴は、まさに「最前線指揮官」そのものであった。当初は備後国において、旧主・山名氏が与していた尼子氏や、中国地方の覇権を争う大内氏との戦いに明け暮れた 8 。毛利氏の勢力が山陰へと拡大するに伴い、盛重はその最前線へと配置転換される。永禄7年(1564年)、彼は尼子氏に対する西伯耆の要衝・尾高城を与えられ、尼子家再興に執念を燃やす山中幸盛ら残党勢力と熾烈な攻防を繰り広げた 4 。永禄12年(1569年)には、一時的に幸盛に尾高城を奪われるという苦杯もなめている 4 。その後、さらに東の要衝である八橋城に移り、今度は織田信長の中国侵攻の尖兵となった南条元続らの勢力と対峙した 8 。天正9年(1581年)、織田軍による鳥取城攻略の衝撃が走る中、盛重は八橋城にて病没した 4 。
ここで注目すべきは、盛重が置かれた状況と、彼が佐田彦四郎のような特殊技能を持つ者たちを必要としたであろう因果関係である。盛重は、安泰な領地を世襲した領主ではなく、毛利宗家によって常に敵と隣接する最も危険な前線に配置された方面軍司令官であった。彼の任務は、山中幸盛に代表されるような、神出鬼没で執拗なゲリラ戦を展開する敵を鎮圧し、後には強大な織田軍の進攻を食い止めることであった。このような不安定で流動的な戦況下では、大規模な軍勢による会戦だけでは勝利を掴むことはできない。敵の動向を正確に探るための諜報、敵陣に流言を広めて内部崩壊を誘う謀略、そして電光石火の奇襲や夜討ちによる攪乱が、戦局を有利に導く上で決定的な意味を持つ。したがって、盛重が自らの直属部隊として、佐田三兄弟のような専門家集団を抱えていたという伝承は、単なる物語上の装飾ではなく、彼の軍事行動における戦略的必然性から生まれた、極めて合理的な帰結であったと考えられる。彦四郎の役割は、主君・盛重が直面した困難な課題に直接応える形で形成されたものだったのである。
佐田彦四郎は、単独で活動したわけではなく、弟の甚五郎、そして末弟(あるいは末弟子とも)の小鼠(子鼠とも表記される)と共に「佐田三兄弟」として、主君・杉原盛重に仕えたと記録されている 5 。彼らの活動拠点は、主君である盛重の経歴を追うことで、備後国神辺城周辺から、尼子氏との攻防の主戦場となった伯耆国尾高城、八橋城一帯に及んでいたと推測される。彼らは盛重の麾下にあって、諜報や夜討ちを得意とする特殊部隊として機能していたようである 15 。
彦四郎を象徴する異名が「狐狸の変化(こりのへんげ)」である 5 。この言葉は、彼が文字通り狐や狸に化ける超能力を持っていたという意味ではない。これは、彼の卓越した技能に対する畏怖を込めた比喩表現と解釈すべきである。日本の伝承において、狐や狸は人を化かす、あるいは巧みに姿を変える存在として古くから知られている 17 。このイメージを借りることで、彦四郎が敵の意表を突く変装術、潜入術、偽装工作、そして敵陣を混乱させる流言飛語や夜襲といった戦術に、常人離れした腕前を持っていたことを示しているのである。この異名は、彼の専門分野が、鎧兜をまとって槍を交える直接的な戦闘ではなく、情報を武器とし、敵の心理を突く非正規戦にあったことを何よりも雄弁に物語っている。
佐田彦四郎の名が、具体的な戦いと共に語られる唯一の事例が、天正六年(1578年)の播磨国・上月城を巡る攻防戦である。この戦いにおける彼の活動は、戦国時代の忍びが果たした役割の一端を垣間見せる貴重な記録と言える。
天正六年、織田信長による西国攻略は本格化し、その矛先は毛利氏が勢力圏とする中国地方に向けられていた。その最前線となったのが播磨国であり、中でも上月城は、織田方にとっても毛利方にとっても、互いの勢力圏の境界に位置する極めて重要な戦略拠点であった 5 。この城を確保することは、織田方にとっては中国攻めの足掛かりとなり、毛利方にとっては自領への侵攻を食い止める防波堤となる。このため、上月城の支配権を巡っては、織田軍の総大将・羽柴秀吉と、毛利軍の吉川元春・小早川隆景らが率いる大軍が対峙し、中国地方の覇権を賭けた一大決戦の様相を呈していた。佐田彦四郎が暗躍したとされるのは、この緊迫した戦線の只中であった。
この上月城の戦いにおいて、佐田彦四郎は杉原盛重の指揮下で、弟の甚五郎、小鼠、そして配下の下忍たちを率いて活動したと『陰徳太平記』などの軍記物は伝えている 5 。彼らの任務は、羽柴秀吉が率いる大軍の背後を攪乱することにあった。具体的には、夜陰に乗じて秀吉の陣営に忍び込み、偽の情報を流して兵士たちの間に不和や疑心暗鬼を生じさせ、あるいは要所に放火したり、夜襲をかけたりすることで、織田軍を内部から混乱に陥れたとされる。
ただし、この作戦で彦四郎が率いたとされる部隊の規模については、史料によって記述に食い違いが見られる。「二百人の下忍を率いて」という記述 5 がある一方で、「両名(甚五郎、小鼠)と下忍二十人を帯し」という記述も存在する 18 。この差異は、単なる誤記か、軍記物語にありがちな誇張表現の可能性が考えられる。あるいは、異なる時点での活動が混同されて伝わったのかもしれない。潜入や流言といった精密な工作活動には、20名程度の小規模な部隊の方が現実的であり、一方で200名という規模は、より大規模なゲリラ戦や後方攪乱を意図した部隊編成を想起させる。いずれにせよ、彦四郎が一定規模の特殊部隊を指揮し、敵陣に大きな心理的・物理的ダメージを与えたと認識されていたことは間違いない。
佐田彦四郎の活躍を理解するためには、彼を「忍者」という現代的なイメージの枠に押し込めるのではなく、戦国時代における「忍び」の多様な実像と比較検討する必要がある。当時の「忍び」とは、特定の流派に属する黒装束の暗殺者という単一のイメージではなく、諜報、偵察、潜入、窃盗、放火、夜襲、ゲリラ戦など、正規の戦闘以外の特殊技能を持つ専門家たちの総称であった 19 。彼らは、特定の家に代々仕える譜代の者もいれば、戦役ごとに金銭で雇われる傭兵的な性格を持つ者もおり、その形態は様々であった。
中国地方の覇者であった毛利氏は、謀略家として知られる毛利元就の代から情報戦を極めて重視していた 6 。毛利氏が抱えていた専門の忍者集団としては、伊賀出身者で構成されたとされる「世鬼衆(せきしゅう)」の存在が知られている 11 。彼らは元就に仕え、全国に派遣されて情報収集にあたったという。また、毛利氏の同盟者であり、その水軍力の中核を担った村上水軍も、単なる戦闘集団ではなく、瀬戸内海の広範な情報ネットワークを掌握し、海上からの奇襲や情報伝達といった重要な役割を担っていた 22 。
こうした毛利氏全体の情報戦略の中に、佐田彦四郎を位置づけてみると、興味深い構造が見えてくる。中央で管理され、毛利宗家の戦略的任務のために派遣される「世鬼衆」のような集団がいた一方で、佐田三兄弟は、特定の方面軍司令官である杉原盛重に直属する、より地域に密着した「家臣レベル」の部隊であった可能性が高い。この構造は、単一の諜報機関が存在したという近代的な見方よりも、封建的な主従関係が重層的に存在する戦国時代の軍事組織の実態をより正確に反映している。世鬼衆が毛利家全体の戦略を担う「中央軍」の特殊部隊だとすれば、佐田彦四郎らは、盛重が担当する備後・伯耆という特定の戦線の地理、方言、人間関係に精通した「地方軍」の特殊部隊であった。彼らは、その土地ならではの知識と技能を活かして、主君・盛重の目前の敵に対処する、極めて実践的な役割を担っていたのである。佐田彦四郎の物語は、戦国時代の諜報活動が、中央集権的ではない、こうした分散型の構造を持っていたことを示す貴重な事例と言えるだろう。
佐田彦四郎の具体的な活躍や人物像を伝えるほぼ唯一の文献が、江戸時代に成立した軍記物語『陰徳太平記』である。したがって、彦四郎の実像に迫るためには、この書物が持つ史料としての性格、すなわち「光」と「影」の部分を正しく理解することが不可欠となる。
【表2:『陰徳太平記』における佐田彦四郎の記述と史実性の評価】
『陰徳太平記』の記述 |
史実性の評価 |
典拠 |
上月城で下忍を率い攪乱 |
播磨での軍事活動自体は、主君・盛重の経歴と一致し、あり得ること。しかし、具体的な戦術や規模の詳細は、一次史料による裏付けがなく、物語的な脚色の可能性が高い。 |
5 |
「盗めぬものはなかった」との評価 |
彦四郎の卓越した潜入・窃盗能力を強調するための文学的表現。彼の技能の高さを象徴する逸話であり、文字通りの事実とは考えにくい。 |
1 |
弟子・佐山彦太郎の犬への変装失敗談 |
師匠の家に忍び込んだ彦太郎が犬の真似をするも、骨をかじる音の高さで見破られる話。忍者がいかに微細な観察力を持つべきかを説くための、教訓譚として創作された可能性が極めて高い。 |
1 |
弟子・丸山三九郎の気配を消す成功談 |
庭に忍び込んだ三九郎が、虫の音が止んだことで師匠に察知されたと悟り、即座に離脱したことを褒められる話。状況判断の速さと環境への同化の重要性を示す、理想の忍者像を描いた創作的逸話。 |
1 |
『陰徳太平記』は、江戸時代中期の享保年間(1716年~1736年)頃に、広島藩の儒学者・香川宣阿らによって編纂された、全81巻に及ぶ長大な軍記物語である 24 。毛利元就の登場からその孫・輝元の時代まで、毛利氏の興隆と中国地方の戦国史を主軸に描いている。この書物は、一次史料や古い記録を元にしている部分も多い一方で、物語としての面白さを追求するために、登場人物の英雄的活躍を誇張したり、教訓的な逸話を挿入したりといった文学的脚色が随所に施されている 25 。そのため、歴史学の世界では長らく、史実を忠実に伝えた史料というよりは、歴史小説に近い「俗書」として扱われる傾向があった 27 。
しかし近年では、その史料的価値が見直される動きもある 24 。『陰徳太平記』を全面的に否定するのではなく、そこに描かれた逸話や人物評価を通じて、江戸時代の人々が戦国時代をどのように認識し、どのような英雄像や価値観を抱いていたかを知るための貴重な資料と見なすことができるからである。とはいえ、個々の事件や人物に関する具体的な記述の真偽については、やはり同時代の一次史料との厳密な照合が不可欠であり、『陰徳太平記』の記述のみを根拠として歴史的事実を断定することは、極めて危険であると言わざるを得ない。
『陰徳太平記』に記された佐田彦四郎の逸話の中でも、特に象徴的なのが、二人の弟子(佐山彦太郎と丸山三九郎)の技量を試す物語である 1 。この逸話は、彦四郎の超人的な能力を際立たせると同時に、編纂者が考える「理想の忍者」とは何かを読者に説く、一種の教訓譚として構成されている。
一つ目の逸話では、弟子の佐山彦太郎が師匠である彦四郎の家に忍び込むが、気配を察知される。とっさに台所にあった魚の骨をかじり、犬のふりをしてごまかそうとするが、彦四郎は「その骨をかじる音は、犬にしては高すぎる」と一言で見破ってしまう 1 。この話は、忍者が持つべき驚異的な観察力と、五感の鋭敏さを強調している。二つ目の逸話では、もう一人の弟子、丸山三九郎が庭に忍び込む。その瞬間、それまで鳴いていた虫の声がぴたりと止んだ。三九郎は、この微細な環境の変化によって自らの侵入が師匠に悟られたと即座に判断し、深入りせずに姿を消す。後日、彦四郎はこの的確な状況判断を大いに褒めたという 1 。これは、周囲の環境と完全に同化し、わずかな異変から危険を察知する能力の重要性を説いている。
これらの逸話が史実である可能性は低い。むしろ、これらは彦四郎という人物を借りて、忍術の極意を物語形式で解説したものと見るべきである。しかし、ここから別の視点も浮かび上がってくる。なぜ『陰徳太平記』の編纂者は、一介の家臣に仕えるに過ぎない忍者について、これほど具体的で魅力的な物語を創作したのだろうか。その意図は、佐田彦四郎個人の歴史を記録することではなく、彼の上官、ひいては毛利家全体の威光を高めることにあったと考えられる。つまり、杉原盛重のような有能な武将が、これほどまでに超人的な技能を持つ忍者を配下に置いていたと描くことで、盛重自身の将器の大きさが際立つ。そして、そのような優れた家臣を抱える毛利氏がいかに強大で、人材に恵まれた一族であったか、という印象を読者に与えることができる。彦四郎の英雄譚は、毛利氏の治世を正当化し、その栄光を称えるという、『陰徳太平記』全体の大きな物語的・政治的機能の一部を担っていたのである。これらの逸話は、毛利家の支配を賛美するための、巧みに織り込まれたプロパガンダの一環と解釈することができる。
ユーザーからの初期情報として提示された「大山祇流(おおやまづみりゅう)の忍者」というキーワードは、佐田彦四郎の謎をさらに深める要素である。この流派名の起源を探ることは、彦四郎の伝承がどのように形成され、変容していったかを考察する上で重要な手がかりとなる。
まず結論から述べると、「大山祇流」という名称の忍者流派が、歴史的に実在したことを示す信頼性の高い史料は、現在のところ確認されていない。戦国時代の忍術を伝える伝書や、伊賀流・甲賀流といった著名な流派に関する研究文献の中に、この名は見出すことができない。したがって、これが伊賀や甲賀のように、特定の地域に根差し、体系化された技術を持つ忍者集団であった可能性は極めて低いと言わざるを得ない。この名称は、史実というよりは、後世に生まれた何らかの伝承に由来するものと考えられる。
「大山祇」という言葉から連想されるのは、二つの著名な信仰の地である。
一つは、伊予国(現在の愛媛県今治市大三島)に鎮座する大山祇神社である 29 。ここは全国の山祇神社の総本社であり、山の神であると同時に、瀬戸内海の海上交通の要衝に位置することから海の神、戦いの神としても古くから多くの武将の崇敬を集めてきた。毛利氏は天正年間に伊予へ出兵した記録があり 31 、また、毛利水軍の中核を担った村上水軍の拠点が伊予の島々であったことから 22 、毛利家とその家臣団にとって大山祇神社が馴染み深い存在であったことは間違いない。
もう一つは、佐田彦四郎の主君・杉原盛重がその活動の後半期に拠点とした伯耆国(現在の鳥取県西部)にそびえる、中国地方随一の霊峰・大山(だいせん)である。この「大山」は古くは「おおやま」とも読まれ、修験道の聖地として栄えた。盛重は尾高城主、八橋城主としてこの大山の麓一帯を支配し、大山寺に寺領を寄進するなど、この地と深い関わりを持っていた 4 。
史料に存在しない「大山祇流」という名称は、どのようにして生まれたのか。ここに、一つの仮説を提示したい。それは、地理的・言語的な混同によって生まれたという説である。
この仮説の論理展開は以下の通りである。
「大山(Ooyama)」と「大山祇(Ooyamazumi)」という、漢字表記と音感の類似性が、この混同を助長した可能性は高い。無名の「大山流」よりも、武神として名高い「大山祇」の名を冠した方が、物語の聞き手や読み手に対して、より神秘的で強力な忍者であるという印象を与えることができる。このように、「大山祇流」という呼称は、史実の流派名ではなく、伯耆国というローカルな活動の場を示す固有名詞が、後世の伝承の中で、より権威ある著名な神社の名へとすり替わっていった結果生まれた、一種の「伝説の産物」であると結論づけることができる。これは、地方の小さな伝承が、より大きな物語に取り込まれていく過程を示す典型的な一例と言えるだろう。
本報告書を通じて行ってきた多角的な調査の結果、戦国時代の忍者・佐田彦四郎の実像と、彼を巡る伝説の形成過程について、以下の結論を導き出すことができる。
第一に、佐田彦四郎の実在性について、彼は主君・杉原盛重に仕えた特殊技能を持つ武士として、実在した可能性が高いと判断される。しかし、その実像は『陰徳太平記』によって後世に大きく脚色された「伝説の忍者」そのものではない。彼は、超自然的な術を使う幻の存在ではなく、主君が直面する軍事的課題に応えるため、諜報、攪乱、ゲリラ戦といった非正規戦闘を遂行した、有能な現場指揮官であったと推測される。彼の異名「狐狸の変化」は、その卓越した技能と、敵を幻惑する戦術への畏怖が込められたものであり、彼の専門性を示唆している。彼の存在は、戦国大名の軍事組織が、正規の戦闘部隊だけでなく、多様な専門技能を持つ集団によって支えられていたことを示す好例である。
第二に、彼を巡る伝承の形成過程は、歴史的事実が軍記物語という媒体を通じていかに変容し、理想化されていくかを示す貴重な事例である。「大山祇流」という流派名の謎は、伯耆国「大山」という地域性が、伊予国「大山祇神社」というより広範な権威へと結びつけられていく過程を浮き彫りにした。また、『陰徳太平記』に描かれた弟子との逸話は、史実の記録というよりも、忍者のあるべき姿を説く教訓譚であり、ひいては毛利氏の威光を高めるための文学的装置として機能していた。
佐田彦四郎の物語は、戦国時代の周縁で生きた、無数の名もなき専門家たちの一つの姿を、後世の理想化されたレンズを通して我々に伝えている。史実としての彦四郎を探求する営みは、単に一人の人物の経歴を追うことに留まらない。それは、軍記物語という史料を批判的に読解する訓練であり、伝説が生まれる歴史的・文化的背景を理解する旅でもある。佐田彦四郎は、その生涯の確かな輪郭の大部分が歴史の闇に消え、その名声が文学の領域に属するという意味で、戦国時代の人物研究が内包する困難さと、それゆえの奥深い魅力を象徴する存在と言えるだろう。