日本の歴史上、群雄が割拠し、旧来の権威が大きく揺らいだ戦国時代。この激動の時代において、地方の武士、いわゆる「国衆(くにしゅう)」たちが、いかにして自らの所領と一族の存続を図ったのかは、歴史学における重要な問いの一つです。本報告書は、その具体的な事例として、豊前国宇佐郡(現在の大分県宇佐市一帯)の在地領主であった佐田隆居(さだ たかおき)の生涯に焦点を当て、その行動原理と戦略を徹底的に分析するものです。
佐田隆居が生きた16世紀の豊前国は、西国の雄たる周防の大内氏と、九州に覇を唱える豊後の大友氏という二大勢力の力が直接的に衝突する、地政学的に極めて重要かつ不安定な地域でした 1 。このような環境下で、佐田氏のような在地領主は、常に巨大勢力の狭間で巧みな舵取りを要求されました。彼らはある時は大内氏の被官として、またある時は大友氏の家臣として、目まぐるしく変わる情勢に対応しながら、自らの独立性を維持し、地域の安定に貢献しました 4 。
佐田隆居の生涯を追うことは、単なる一武将の興亡史を語るに留まりません。それは、戦国という時代の本質、すなわち中央の権力闘争が地方社会に及ぼす影響、そしてその中で在地領主が自立と従属の間でいかにして生き残りを図ったかという、より普遍的なテーマを解き明かすための、貴重なケーススタディとなります。彼の決断の一つ一つは、常に「いかにして一族を存続させるか」という現実的な問いに対する答えであり、その行動原理を解明することは、戦国期日本の地方支配の実態を理解する上で不可欠な作業と言えるでしょう。本報告書では、現存する古文書「佐田文書」などの史料を基に、佐田隆居の多岐にわたる活動を時系列に沿って検証し、その歴史的意義を明らかにします。
表1:佐田隆居 関連年表
年代(西暦) |
佐田隆居および佐田氏の動向 |
関連する周辺勢力の動向 |
応永6年 (1399) |
宇都宮親景が佐田庄に入り、青山城を築城。佐田氏を称する 5 。 |
- |
天文元年 (1532) |
父・佐田朝景、大友義鑑の誘いを断り、居城を攻められる 3 。 |
大友義鑑が豊前へ侵攻。大内氏と対立。 |
天文20年 (1551) |
- |
大寧寺の変。大内義隆が陶晴賢に討たれる 4 。 |
弘治2年 (1556) |
大友宗麟の豊前侵攻を機に、大友氏へ帰順 4 。 |
大友宗麟(義鎮)が豊前へ本格的に侵攻を開始。 |
弘治3年 (1557) |
大内義長滅亡直後、大友家臣・臼杵鑑続を介して宇佐郡代職を安堵される 8 。 |
毛利元就の攻撃により大内義長が自害し、大内氏が滅亡。 |
永禄2年 (1559) |
門司城の戦いに参陣。「本丸一番乗り」の武功を挙げ、田原親賢より感状を受ける 4 。 |
大友氏と毛利氏が北九州の覇権を巡り、門司城で激突。 |
天正6年 (1578) |
- |
耳川の戦い。大友氏が島津氏に大敗し、勢力が大きく後退する 10 。 |
天正8年 (1580) |
反大友方の攻撃を受けた光岡城の赤尾氏を救援する 12 。 |
- |
天正11年 (1583) |
安心院麟生の反乱に対し、「本領安堵」を条件に交渉し、帰順させる 4 。 |
- |
天正15年 (1587) |
豊前国人一揆に与せず、静観 14 。城井氏滅亡後、大友氏を頼り豊後へ移る 15 。 |
豊臣秀吉が九州平定を完了。黒田孝高が豊前に入部し、豊前国人一揆が勃発。 |
文禄2年 (1593) |
主家・大友氏が改易される。佐田の地に戻り、黒田氏の客分となる 2 。 |
朝鮮出兵中の失態を理由に、豊臣秀吉が大友義統を改易。 |
慶長5年 (1600) |
- |
関ヶ原の戦い。戦後、黒田長政は筑前へ転封。細川忠興が豊前小倉藩主となる。 |
元和元年 (1615) |
子・鎮綱の代か、細川忠興に仕え、知行を与えられる 16 。 |
大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。 |
寛永9年 (1632) |
- |
細川氏が肥後熊本へ転封。佐田氏もこれに従い、熊本藩士となる 15 。 |
佐田隆居という人物の行動を理解するためには、まず彼が継承した「佐田氏」という一族の歴史的背景と、その権力の源泉を把握する必要がある。佐田氏の強みは、単なる一地方の武力集団に留まらない、複合的な要素によって形成されていた。
佐田氏の出自は、遠く下野国(現在の栃木県)に遡る。彼らは鎌倉時代以来の名門武家である宇都宮氏の庶流であり、特に豊前国において大きな勢力を誇った豊前宇都宮氏、すなわち城井(きい)氏の分家であった 4 。具体的な成立経緯としては、応永6年(1399年)、宇都宮一族の宇都宮親景が、本拠であった城井郷菅迫(現在の福岡県築上町)から豊前国宇佐郡佐田庄へと移り住み、その地名を姓として「佐田氏」を称したことに始まるとされる 5 。
この「名門・宇都宮氏の血を引く」という事実は、戦国時代の地方社会において極めて重要な意味を持った。それは、他の在地領主、すなわち国衆たちに対する一種の権威として機能し、佐田氏が宇佐郡衆の中核としてリーダーシップを発揮する上での正統性を与えるものであった。
佐田氏の権力基盤の中核を成していたのが、その本拠地である豊前国宇佐郡佐田庄(現在の大分県宇佐市安心院町佐田)である 19 。この地は、豊前国と豊後国の国境地帯に位置しており、二大勢力である大内氏と大友氏の動向を直接的に感じ取ることができる、地政学上の要衝であった 2 。
佐田氏は、この佐田庄の地頭として、在地支配を長年にわたって行ってきた。それは、単に土地を所有するだけでなく、地域の農業生産や商業活動を掌握し、そこに住まう人々を統治することを意味する。この安定した経済的・人的基盤こそが、佐田氏が独立した勢力として合戦に参加し、また外交交渉を行うための力の源泉となっていたのである。
佐田氏の軍事力を象徴するのが、居城であった佐田城、別名・青山城である 6 。この城は、標高約300メートルの「青山」と呼ばれる山を主体とし、そこから派生する複数の尾根筋に砦を配置した、東西1キロメートル、南北600メートルにも及ぶ広大な山城であった 15 。
発掘調査や現地調査によれば、青山城は単一の郭(くるわ)で構成されるのではなく、主郭部を中心に複数の砦群が有機的に連携する、極めて防御機能の高い構造を持っていたことが判明している 6 。急峻な斜面を利用した切岸(きりぎし)、敵の侵攻を阻むための土塁や空堀、さらには部分的に用いられた石垣など、当時の築城技術の粋を集めた遺構が今なお良好な状態で残されている 2 。特に、城の側面防御として多用された垂直に近い横堀は、この城の際立った特徴である 6 。
このように、佐田氏の力は、①「宇都宮氏庶流」という血統的権威、②「佐田庄」という経済的・地政学的基盤、そして③「青山城」という堅固な軍事拠点、という三つの要素が一体となって形成されていた。この「権威」「経済」「軍事力」の三位一体こそが、佐田隆居の代に、二大勢力の狭間で巧みな政治行動を展開し、一族の存続を可能にした根源的な力であったと分析できる。
佐田隆居のキャリアは、大内氏の被官として始まった。彼が務めた「宇佐郡代」という役職は、当時の大内氏による豊前支配の実態と、在地領主である佐田氏との関係性を理解する上で極めて重要である。
16世紀前半、豊前国は事実上、西国の雄・大内氏の支配下に置かれていた。大内氏は、守護代として杉氏を派遣しつつも、広大な領国を効率的に統治するため、各地の有力な国衆を「郡代」に任命し、現地の軍事・行政を委ねるという間接統治策を採っていた 1 。佐田氏は、宇都宮氏の同族という立場から、早くから大内氏に従属しており、その忠誠と在地における影響力を評価され、宇佐郡の郡代に任命されていたのである 2 。
この「郡代」という役職は、二つの側面を持っていたと考えられる。一つは、大内氏からすれば、佐田氏の在地における支配力を公的に追認し、自らの支配体制に組み込むことで、直接統治のコストをかけずに宇佐郡を掌握する手段であった。もう一つは、佐田氏からすれば、西国随一の権力である大内氏の権威を背景に、郡内における自らの支配の正当性を高め、他の国衆に対する優位性を確立する好機であった。このように、両者の利害が一致した結果が、在地領主である佐田氏の郡代就任であったと言える。
佐田氏が大内方として明確な立場にあったことは、隆居の父・佐田朝景(ともかげ)の時代の出来事からも窺える。天文元年(1532年)、豊後の大友義鑑が豊前への侵攻を本格化させた際、義鑑はまず佐田朝景に味方になるよう誘いをかけた。しかし、朝景はこれを拒絶。その結果、大友軍の攻撃を受け、居城の一つである菩提寺城を落とされるという事態に至っている 3 。この事件は、佐田氏が大内氏の郡代として、大友氏の勢力拡大に対する防波堤の役割を担っていたことを明確に示している。
佐田隆居は、このような大内氏と大友氏が緊張関係にある中で家督を継承し、父と同様に大内氏の家臣として活動を開始した 4 。彼の前半生は、大内氏の郡代として、宇佐郡の軍事を指揮し、大友氏の侵攻に備えるという、国境地帯の領主に課せられた重責を担う日々であったと推察される。この時期に培われた軍事経験と、二大勢力の間でバランスを取る政治感覚が、後の彼の行動の基礎を形成していくことになる。
戦国時代の武将にとって、主家の選択は一族の命運を左右する最も重要な決断であった。佐田隆居の生涯における最大の転機は、長年仕えた大内氏を見限り、宿敵であった大友氏へと帰順したことである。この決断は、彼の優れた政治的嗅覚と、激動の時代を生き抜くための現実主義的な戦略眼を如実に示している。
天文20年(1551年)、大内氏の家臣である陶晴賢が謀反を起こし、主君・大内義隆を長門国大寧寺で自害に追い込むという事件(大寧寺の変)が勃発した 4 。このクーデターにより、西国に君臨した大内氏の権威は失墜し、その広大な領国は深刻な動揺に見舞われた。
陶晴賢は、大友宗麟(義鎮)の弟・晴英を新たな当主として迎え、大内義長と名乗らせることで体制の維持を図った。しかし、中国地方で急速に台頭した毛利元就が、晴賢を厳島の戦いで破り、弘治3年(1557年)には大内義長をも自害に追い込んだことで、名門・大内氏は完全に滅亡した 8 。この過程で、大友宗麟は毛利元就と密約を結び、実の弟である義長を見殺しにしたとされている 8 。これにより、豊前・筑前における大内氏の支配は終焉を迎え、この地域は権力の空白地帯、すなわち「無政府状態」へと近づいていった 8 。
主家を失った豊前の国衆たちは、新たな庇護者を求め、それぞれが生き残りをかけた選択を迫られた。佐田隆居もその一人であった。彼は、大内氏滅亡という混乱を好機と捉え、豊前への本格的な支配に乗り出した大友宗麟に帰順するという道を選んだ 4 。
この決断の背景には、冷静な情勢分析があったと考えられる。もはや大内氏の再興は絶望的であり、地理的に隣接し、かつ九州で最も勢いのある大友氏に従うことが、一族の所領を安堵され、存続するための最も現実的な選択肢であった。
隆居の帰順が、単なる敗者の投降ではなかったことを示す象徴的な出来事が、大友氏側の対応である。大内義長が自害した直後の弘治3年(1557年)4月6日、大友家の最高幹部である加判衆の一人、臼杵鑑続(あきつぐ)は、佐田隆居に直接書状を送っている。その内容は、まず宇佐郡内の闕所地(旧大内方の没収地)について尋ね、その上で、隆居に**「引き続いて郡代の役目を命じる」**というものであった 8 。
この一連のやり取りは、極めて重要な意味を持つ。大友氏が豊前という新領土を実効支配するにあたり、旧体制下で郡代を務め、現地の情報と軍事・行政ネットワークを掌握している佐田隆居の存在が不可欠であると高く評価していたことの証左である。臼杵鑑続がまず「闕所地を尋ねる」という行為は、旧体制の情報を新体制が効率的に吸収しようとするプロセスであり、その上で「郡代職の継続」を認めたのは、隆居の能力と在地における影響力を丸ごと大友氏の支配機構に組み込むという、高度な政治判断であった。
佐田隆居は、自らが持つ戦略的価値を的確に認識し、権力移行の絶好のタイミングで新たな主君と実利的な関係を構築することに成功したのである。これは、彼の政治家としての手腕を示すと同時に、大友氏の国人統制策が、在地勢力を単に弾圧するのではなく、巧みに自らの権力構造に取り込んでいくという柔軟なものであったことを物語っている。
大友氏の家臣となった佐田隆居は、その期待に応え、豊前方面における大友軍の中核として目覚ましい武功を次々と挙げていく。彼の活躍は、対毛利氏という大大名同士の戦いの最前線と、大友氏の支配に反抗する在地国人衆の鎮圧という、二つの局面で見ることができる。これらの戦功は、彼個人の武勇だけでなく、彼が率いた「宇佐郡衆」という地域武士団の統率者としての能力を証明するものであった。
大友氏にとって、大内氏滅亡後の最大の脅威は、中国地方から北九州へと勢力を伸ばしてきた毛利元就であった。両者の争いは、関門海峡の要衝・門司城(現在の北九州市門司区)の争奪戦として火蓋が切られた。
永禄2年(1559年)、大友宗麟の命を受けた隆居は、田原親宏・田原親賢といった大友軍の主将たちと共に門司城攻撃に参加した 4 。一度は毛利方の援軍により後退を余儀なくされるも、同年9月26日、体勢を立て直した大友軍は再度総攻撃を敢行。この戦いで佐田隆居は目覚ましい働きを見せ、**「本丸一番乗り」**の功名を挙げた 4 。この功績により、彼は大将の田原親賢から直接、その武功を称える感状(感謝状)を授かっている。さらに、この戦いで毛利方の城督であった波多野興滋(はたの おきしげ)らを討ち取るという大きな戦果も挙げた 4 。興味深いことに、この門司城落城の事実は、毛利側の史料には記録されておらず、大友側の史料、特に隆居自身の子孫に伝わった「佐田文書」によって確認されるものである 4 。
大友氏の豊前支配は、常に在地国人衆の反抗に晒されていた。佐田隆居は、同じ国衆という立場でありながら、大友方の中核としてこれらの反乱鎮圧に奔走した。
佐田隆居の活躍は、彼が率いた「宇佐郡衆」の働きに支えられていた 29 。彼は大友氏の軍事システムの中で、宇佐郡の在地武士団を束ねる「同心主(寄親的存在)」として、現地の戦闘を指揮する現場司令官の役割を担っていたのである。
天正8年(1580年)には、反大友方の軍勢に攻められた宇佐郡光岡城の城主・赤尾統秀を救援し、これを撃退することに成功している。この救援活動の記録もまた、「佐田文書」の中に書状として残されており、彼が宇佐郡内の大友方勢力のまとめ役として、いかに重要な存在であったかを物語っている 12 。これらの軍功を通じて、佐田隆居は大友政権内での地位を確固たるものにしていったのである。
武勇のみが武将の能ではない。戦国時代を生き抜くためには、時に武器を置き、言葉をもって敵と対峙する交渉力、すなわち調略の才が不可欠であった。佐田隆居が単なる猛将ではなかったことを示す好例が、天正11年(1583年)に起きた安心院麟生(あじむ りんせい)の反乱への対応である。
この事件の背景には、大友氏の威勢の大きな揺らぎがあった。天正6年(1578年)、大友宗麟はキリスト教的理想郷の建設を夢見て日向国へ大軍を派遣するも、高城川(耳川)の戦いで薩摩の島津氏に歴史的な大敗を喫した 10 。この敗戦により、多くの有能な家臣を失った大友氏の軍事力は著しく低下。その権威の失墜は、これまで大友氏に従っていた九州各地の国人衆の離反を招く直接的な原因となった 10 。
このような不安定な情勢の中、天正11年(1583年)正月、豊前国宇佐郡の龍王城主であった安心院麟生(諱は公正)が、大友氏に対して反旗を翻した 4 。安心院氏もまた、佐田氏と同じく宇佐郡に勢力を持つ有力な国衆であり、かつては大内氏の家臣であった経歴を持つ 36 。彼の反乱は、弱体化した大友氏の支配から脱し、自立を図ろうとする、当時の国人衆の典型的な行動であったと言える。
この反乱に対し、鎮圧の任にあたったのが、同じ宇佐郡衆の中核である佐田隆居であった。しかし、彼の採った手段は武力による討伐ではなかった。大友氏の現状を鑑みれば、新たな内戦は国力をさらに疲弊させるだけであり、得策ではない。また、同じ地域の国人同士が争うことは、共倒れになりかねない危険をはらんでいた。
そこで隆居は、安心院麟生に対して巧みな交渉を持ちかけた。その条件とは、 「本領安堵」 、すなわち、反乱を収め、再び大友氏に帰順するならば、その所領の所有権を保証するというものであった 4 。この提案は、反乱を起こした国衆が最も望む「自らの土地の保証」に応えるものであり、麟生の面子を保ちつつ、実利を与える、極めて現実的な和睦条件であった 37 。
結果として、この交渉は成功し、安心院麟生は矛を収めて大友氏に帰順した。この一件は、佐田隆居が、地域の力関係や国人の心理を熟知し、武力と外交を巧みに使い分けることのできる、優れた政治感覚を持った人物であったことを証明している。彼は、弱体化した主家の代理として、無用な流血を避け、地域の損害を最小限に抑えながら秩序を回復するという、極めて高度な政治的手腕を発揮したのである。
戦国時代の終焉は、多くの武家にとって新たな試練の始まりであった。絶対的な権力者として豊臣秀吉が登場し、次いで徳川家康が天下を掌握していく過程で、旧来の主従関係は解体され、武士たちは新たな秩序の中での生き残りをかけて厳しい選択を迫られた。佐田氏も例外ではなく、主家・大友氏の没落という危機に直面しながらも、巧みな立ち回りによって一族を存続させることに成功する。その過程は、戦国武将が近世大名の家臣団へと再編されていく過渡期の典型的な姿を示している。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は自ら大軍を率いて九州を平定。戦後処理として、豊前国のうち6郡は秀吉の腹心である黒田孝高(如水)に与えられた 39 。この新たな支配者の到来は、長年その土地を治めてきた豊前の国人衆に大きな動揺を与えた。彼らが従来保持してきた広範な支配権は認められず、新領主の配下として俸禄を与えられる存在へと変えられたからである 14 。
この処遇に不満を抱いた豊前最大の国人領主・城井鎮房(宇都宮鎮房)が反乱の狼煙を上げると、それに呼応して豊前各地で大規模な国人一揆が勃発した 40 。しかし、この時、佐田氏は驚くべき決断を下す。城井氏と同じ宇都宮一族の分家でありながら、
この一揆には参加しなかった のである 14 。これは、豊臣秀吉という圧倒的な中央権力に抗うことの無益さを冷静に分析した、極めて現実的な政治判断であった。同族の結束よりも、一族の存続を優先したこの決断が、佐田氏のその後の運命を大きく左右することになる。
豊前国人一揆は黒田孝高・長政父子によって鎮圧され、首謀者であった城井鎮房は謀殺されて城井氏本家は滅亡した。この後、佐田氏(この頃には子の佐田鎮綱が家督を継いでいたと考えられる)は、旧主である大友氏を頼って豊後国へと移った 2 。
しかし、その大友氏も安泰ではなかった。文禄2年(1593年)、当主の大友義統が朝鮮出兵(文禄の役)における失態を問われ、秀吉によって改易されてしまう 42 。再び主家を失った佐田氏は、故地である佐田庄に戻り、かつての一揆で敵対しなかった経緯からか、豊前の領主である黒田氏の「客分」(客将)として迎えられた 2 。
さらに慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、黒田長政が戦功により筑前福岡へ加増転封となると、豊前国には新たに細川忠興が小倉藩主として入部した 43 。佐田氏はここでも時流を読み、新領主である細川氏に速やかに仕官し、家臣団に組み込まれることに成功する 2 。元和元年(1615年)には、細川忠興から正式に知行を与えられた記録が残っており、これにより近世大名の家臣としての地位を確立した 16 。
その後、寛永9年(1632年)に細川氏が肥後熊本藩へ転封となると、佐田氏もそれに従って肥後へ移住し、以後、熊本藩士として幕末まで家名を存続させた 15 。この一連の動きは、「主君への忠誠」という単一の価値観ではなく、「家」の存続を最優先する徹底した現実主義に貫かれている。佐田隆居が築いた実績と、その後継者たちの的確な情勢判断が、一族を滅亡の淵から救い、近世武士としての安定した地位へと導いたのである。
佐田隆居の生涯は、戦国時代という巨大な転換期を生きた一地方領主の、見事なまでの生存戦略の記録である。彼は、大内、大友、毛利、豊臣、黒田、そして細川と、めまぐるしく変わる上位権力に対し、ある時は武力で、ある時は交渉で、そしてある時は沈黙と従順をもって対峙し、その都度、一族にとって最善の道を選択し続けた。
佐田隆居は、戦国時代における「成功した国衆」の典型例として評価することができる。彼は、巨大勢力の論理にただ翻弄される客体ではなく、自らが持つ在地における影響力や軍事力、そして情報を武器に、主体的に交渉し、時代の変化に柔軟に対応することで未来を切り開いた。門司城の戦いで見せた武勇、安心院麟生の反乱を収めた交渉術、そして豊前国人一揆に与しなかった政治的判断力。これら全てが、彼が乱世を生き抜くために必要不可欠な資質を兼ね備えていたことを示している。
彼の生涯は、中央の英雄たちの華々しい物語の陰に隠れがちな、地方のダイナミックな歴史を解き明かす上で、極めて示唆に富んでいる。
隆居の跡を継いだ子・佐田鎮綱もまた、父の築いた基盤の上で重要な役割を果たした 4 。豊臣政権下での国人一揆への不参加や、主家改易後の巧みな立ち回りは、鎮綱の代の功績である可能性が高い 45 。父子が一体となって、戦国末期から近世初頭にかけての最も困難な時代を乗り切ったと見るべきであろう。
佐田氏が最終的に細川藩の家臣として、江戸時代を通じて「武士」という身分を維持し得たという事実は、佐田隆居の生涯にわたる奮闘が、子孫に安定した未来をもたらすという形で結実したことを意味する。これは、多くの国人領主が歴史の波に呑まれて消えていった中で、特筆すべき成果である。
肥後熊本へ移った佐田氏は、細川藩内で複数の家系に分かれながらも存続した 16 。そして、彼らが何よりも後世に残した最大の遺産が、一族の歴史そのものを記録した「佐田文書」(「宇都宮文書」とも呼ばれる)である 17 。
この古文書群には、大友宗麟や田原親賢といった戦国大名やその重臣から発給された感状や書状が数多く含まれており、本報告書で述べた佐田隆居の活躍の多くが、この一次史料によって裏付けられている。これは、佐田氏一族の動向のみならず、豊前国全体の、ひいては戦国期九州の国衆たちの実態を研究する上で、他に代えがたい極めて貴重な歴史的財産である。佐田隆居という一人の武将の物語は、この文書群を通じて、現代にまで克明に語り継がれているのである。