日本の戦国時代、数多の武将が歴史の舞台で興亡を繰り返した。その中にあって、常陸国(現在の茨城県)の雄、佐竹氏の一門に、特異な立場を築き上げた人物がいた。佐竹義久(さたけ よしひさ)である。彼は、佐竹宗家を支える一門の重鎮として武功と外交手腕を発揮する一方で、天下人たる豊臣秀吉から直接に所領を与えられ、独立大名としての側面をも併せ持つという、極めて稀有な二重の立場にあった 1 。
佐竹義久の生涯は、単なる一武将の伝記に留まらない。それは、戦国大名が中央の統一政権へと組み込まれていく過程で、その内部構造、すなわち宗家と一門、家臣団の関係がいかに変容し、また、いかなる緊張関係を内包したかを解き明かすための、絶好の事例研究である。宗家への忠誠と、中央政権への奉公。この二つのベクトルが交錯する中で、義久はいかにして自らの地位を確立し、佐竹氏の命運を左右するほどの存在となったのか。そして、その特異な立場は、彼の生涯、とりわけその劇的な最期に、いかなる影響を及ぼしたのか。
本報告書は、現存する史料を丹念に読み解き、佐竹義久の出自からその死に至るまでの具体的な事績を明らかにするとともに、彼が置かれた複雑な政治的力学を分析する。これにより、戦国末期から近世初期へと移行する激動の時代にあって、彼が果たした枢要な役割とその歴史的評価を確立することを目的とする。
佐竹義久は、天文23年(1554年)に生を受け、慶長6年11月28日(1601年12月22日)にその生涯を閉じた 2 。父は、佐竹氏の有力な分家である佐竹東家の当主、佐竹義堅(よしかた)である 3 。
佐竹東家は、宗家の本拠である常陸太田城の東方に居を構えたことからその名があり、佐竹氏の権力構造を支える「佐竹三家」(北家、南家、東家)の一つに数えられた 6 。この三家は、宗家の家政を補佐し、一族の結束を固めることで、佐竹氏の安定と勢力拡大の基盤をなす重要な存在であった 7 。戦国期佐竹氏は、こうした一門衆による連合的な統治体制を特徴としており、東家はその一翼を担う名門であった。
義久は義堅の次男として生まれた 2 。当初、家督は兄の義喬(よしたか)が継承したため、義久は分家して酒出(さかいで)氏を名乗っていたとされる 3 。しかし、元亀2年(1571年)頃、兄・義喬に嗣子がいなかったことから、その名跡を継承し、佐竹東家の第4代当主となった 3 。これにより、彼は「東義久」とも称されるようになる 1 。
兄の家を弟が継ぐというこの相続形態は、家名の断絶を防ぎ、一門の結束を維持するため、戦国時代の武家社会では合理的な選択としてしばしば見られた。次男であった義久が当主に選ばれたという事実は、彼が単なる血縁者としてだけでなく、若くして一門を率いるに足る器量を父・義堅や一族から期待されていた可能性を強く示唆している。この家督継承が、彼の華々しい活動の出発点となったのである。
カテゴリ |
人物名 |
佐竹義久との関係 |
佐竹一門 |
佐竹義堅 |
父、佐竹東家当主 3 |
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佐竹義喬 |
兄、佐竹東家先代当主 3 |
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佐竹義重 |
宗家当主(18代)、主君 3 |
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佐竹義宣 |
宗家当主(19代)、主君 2 |
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小場義宗 |
宗家当主・義重の弟、義久の義父の兄弟 4 |
豊臣政権 |
豊臣秀吉 |
天下人、義久の直接の主君 1 |
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石田三成 |
五奉行、義久との外交上の主要窓口 3 |
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嶋左近 |
石田三成の腹心、義久への書状を発給 13 |
徳川政権 |
徳川家康 |
関ヶ原の戦い後の交渉相手 1 |
周辺大名 |
伊達政宗 |
対立関係にあった奥州の雄 10 |
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上杉景勝 |
佐竹氏の同盟相手 15 |
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北条氏政・氏直 |
関東の覇権を争った宿敵 15 |
家族 |
小野崎義昌の娘 |
正室 1 |
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佐竹義賢 |
嫡男、佐竹東家5代当主 1 |
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伊達宣宗 |
三男、伊達盛重の養子となる 4 |
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小野崎宣政 |
四男、小野崎氏を継承 4 |
佐竹東家当主となった義久は、宗家の当主である佐竹義重、そしてその子・義宣の二代にわたって重臣として仕え、軍事・外交の両面でその非凡な才能を発揮した。
佐竹氏の勢力拡大において、北の伊達氏や蘆名氏と境を接する南陸奥(現在の福島県南部)方面は、常に最前線であった。義久は一族の重鎮として宗家から絶大な信頼を寄せられ、この南陸奥方面における軍事指揮権を全面的に委任されていた 1 。
この権限は、単に一軍を率いる指揮官に留まるものではなかった。外交交渉や、現地の国衆(在地領主)の統制、知行の安堵など、方面軍司令官とも言うべき広範な裁量権を含んでいた 20 。義久は陸奥国高野郡の赤館城(福島県棚倉町)を拠点とし、寺山城や羽黒城といった要衝に宗家の家臣を配置した 22 。そして、彼らを通じて現地の領主層に「指南」を行うという、巧みな支配体制を構築したのである 7 。
ここでいう「指南」とは、単なる軍事的な指導や助言を意味しない。それは、佐竹宗家の権威を代行し、政治的な指導や領主間の紛争調停を行う、極めて高度な統治行為であった。佐竹氏が直接支配地ではない地域に影響力を浸透させるための、この巧みな「間接統治」システムの中核を担ったのが、佐竹義久その人であった。彼の南陸奥における活動は、戦国大名が「地域権力」として、高い自立性を保持する国衆をいかにして統合していったかを示す、東国における典型的な事例と言える。
義久は、方面司令官として後方で采配を振るうだけでなく、自ら戦陣に臨んで数々の武功を挙げた。
天正12年(1584年)に勃発した 沼尻の合戦 は、佐竹・宇都宮連合軍と、関東の覇権を争う北条氏直の大軍が下野国沼尻(現在の栃木県栃木市)で対峙した大規模な合戦である。この戦いにおいて義久は、1,000挺以上ともいわれる精強な鉄砲隊を率いて参陣したと記録されている 3 。連合軍全体では8,000挺もの鉄砲を動員したとの説もあり 24 、これが事実であれば、織田信長が用いたことで有名な長篠の戦いの鉄砲数を凌駕する規模となる。このことは、佐竹氏が領内の金山経営などを背景に、当代最新の兵器を大量に運用できるほどの経済力と先進的な軍備を誇っていたことを示している。
翌天正13年(1585年)の 人取橋の戦い では、台頭著しい伊達政宗と雌雄を決するべく、佐竹・蘆名連合軍の中核として奮戦した。この戦いにおける高倉城攻めでは、当初、寡兵の伊達勢の奇襲を受けて一時後退を余儀なくされたものの、義久は冷静に部隊を立て直し、巧みな迂回策によって伊達勢の側面を突き、逆襲に転じた。その勢いは伊達政宗の本陣にまで迫るほどであったという 26 。
これらの戦功は、義久が優れた戦略眼と戦術指揮能力を兼ね備えた武将であったことを証明している。彼が自らの名で配下の武将に感状を発給している史料も確認されており 27 、方面軍司令官としての権威が確立していたことがうかがえる。
義久の才能は、軍事面に限定されるものではなかった。天正7年(1579年)、宿敵である相模の北条氏に対抗するため、甲斐の武田氏との同盟(甲佐同盟)締結に携わっている 1 。この事実は、彼が比較的早い段階から、佐竹氏の存亡を左右する対外戦略の枢機に関与していたことを示している。彼の真骨頂である外交手腕が本格的に発揮されるのは、この後、中央政権との交渉においてであった。
佐竹氏が戦国大名としてその勢力を保ち、さらには常陸統一を成し遂げる上で、中央の豊臣政権との関係構築は死活問題であった。この重要な役割を担ったのが、佐竹義久であった。
天正11年(1583年)頃より、義久は羽柴秀吉、そしてその側近である石田三成らと親交を結び始めた 3 。やがて彼は、佐竹氏が中央政権と意思疎通を図るための、事実上、唯一無二の公式な窓口となった。
その関係性の深さを象徴するのが、天正18年(1590年)の小田原征伐である。佐竹氏の参陣は、豊臣政権側の石田三成と、佐竹側の義久との間の周到な折衝によって実現したことが、複数の史料から明らかになっている 12 。小田原へ向かう当主・佐竹義宣に同行した義久に対し、三成は「(秀吉への)進物等が見苦しくては、貴殿の主君(義宣)のお為になりませんぞ」と、献上品に関する具体的な助言を記した書状を送っている 28 。天下人の側近が、一地方大名の重臣にこれほどまでに細やかな配慮を示すことは異例であり、両者の間に極めて密な信頼関係が構築されていたことを物語っている。
さらに、小田原征伐後の奥州仕置の過程では、三成の腹心として名高い嶋左近が、宇都宮に在陣中、義久に直接書状を送っている。その内容は、常陸国内における検地の実施方法や兵糧米の徴収といった統治の具体策、さらには秀吉の勘気に触れて佐竹氏預かりとなっていた織田信雄の処遇に関する指示など、極めて実務的かつ政治的なものであった 13 。
これらの事実が示すのは、義久が単に「三成と親しい」という次元の存在ではなかったということである。彼は、豊臣政権の東国統治における「実務担当窓口」であり、政権の意志は、三成や左近から義久個人を通じて佐竹氏全体へと伝達されていた。この強固なパイプがあったからこそ、佐竹氏は秀吉の絶対的な権威を背景に、常陸国内で長年抵抗を続けてきた在地領主たち(いわゆる南方三十三館)の討伐を「公儀の事業」として正当化し、悲願であった常陸統一を達成することができたのである 30 。佐竹義久という存在は、佐竹氏の歴史的飛躍に不可欠な触媒であったのだ。
豊臣政権における義久の功績と重要性は、破格の処遇となって現れた。小田原征伐後の論功行賞において、義久は主君である佐竹義宣を介さず、豊臣秀吉から直接、常陸国の鹿島郡・真壁郡などに6万石という広大な所領を与えられたのである 1 。
加えて、1,000石の太閤蔵入地(豊臣氏直轄領)の代官にも任じられ 1 、天正19年(1591年)には豊臣姓を下賜されるに至った 1 。これは、義久が佐竹氏の一門でありながら、同時に秀吉に直接仕える「豊臣直臣」として、独立した大名と同等の処遇を受けたことを意味する。
このような処遇は、秀吉による巧みな大名統制策の一環であった。上杉氏における直江兼続、毛利氏における小早川隆景の事例と同様に 3 、有力大名の家中から枢要な人物を「一本釣り」し、直接恩顧を与えることで、宗家の力を相対的に削ぎ、大名家内部に中央政権への求心力を植え付ける狙いがあった。この政策の結果、義久は「佐竹東家の当主」という立場と「豊臣直臣」という二つの顔を持つことになった。この構造は、彼に絶大な権威をもたらす一方で、主君である佐竹義宣との間に、目には見えない潜在的な緊張関係を生み出す要因ともなったのである。
義久の能力は、内政面でも発揮された。天正19年(1591年)、佐竹氏が本拠を長年の太田城から水戸城へ移転した際、義久はこの新たな本拠地の整備拡張を行う普請奉行に任命されている 3 。軍事・外交のみならず、大規模な土木事業を差配する能力をも信頼されていた証左である。
また、豊臣政権への軍役も忠実に果たした。文禄2年(1593年)、文禄の役(朝鮮出兵)において、当主義宣の名代として佐竹勢1,440人を率いて朝鮮へ渡海。小西行長の軍に属し、熊川城の普請などに従事した 1 。この軍役遂行により、彼は豊臣政権内での評価をさらに確固たるものにした。
慶長3年(1598年)の秀吉の死は、日本の政治情勢を一変させ、佐竹氏を存亡の危機へと追い込んだ。この未曾有の国難において、義久は再びその真価を発揮することになる。
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立が頂点に達し、関ヶ原の戦いが勃発すると、佐竹家中は激しく揺れた。その地理的・政治的位置から、佐竹氏は東軍の家康と西軍の上杉景勝・石田三成の間に挟まれる形となったのである。
当主・佐竹義宣は、三成との個人的な親交や、父の代からの同盟相手である上杉景勝との密約もあり、心情的に西軍への加担に傾いていた 15 。一方、隠居の身であった父・義重は、天下の形勢が既に家康に有利であることを見抜き、佐竹家の安泰のためには東軍に付くべきだと強く主張した 15 。この父子の深刻な意見対立により、佐竹氏は家中をまとめることができず、どちらにも明確に味方しないという「中立的」あるいは「曖昧な」態度に終始してしまった 35 。
この家中対立の中、義久はどのような立場を取ったのか。彼は三成と親交があったものの、当初から上杉・石田方に与することには賛成ではなかったと伝えられている 38 。彼の立場は、個人的な情誼よりも、宗家の存続と天下の形勢を冷静に見極めようとする、極めて現実主義的なものであったと推察される。
関ヶ原の戦いがわずか一日で東軍の圧勝に終わると、佐竹氏の曖昧な態度は家康の猜疑を招き、54万石の領地は没収、家は改易という絶体絶命の危機に瀕した。この国家存亡の窮地にあって、家康との交渉役という重責を担うべく、白羽の矢が立ったのが佐竹義久であった 1 。
義久は上洛し、天下人となった家康と直接交渉に臨んだ。交渉の具体的な内容は詳らかではないが、結果として彼は佐竹本家の本領安堵(常陸領の維持)の内諾を取り付けたとされる 1 。佐竹家の存亡を賭けたこの局面で、最終的な交渉を託されたのが当主義宣でも、老練な父義重でもなく、義久であったという事実。この一点に、彼の生涯における政治的重要性が見事に集約されている。彼がこれまで築き上げてきた外交手腕と、豊臣直臣として家康側からも交渉相手として認められるだけの政治的地位が、佐竹家を救う最後の切り札となったのである。
家康との交渉を成功させ、佐竹家の未来に一条の光をもたらしたかに見えた義久であったが、その運命はあまりにも唐突に暗転する。
家康との交渉を終え、佐竹家の存続に道筋をつけた直後の慶長6年(1601年)11月28日、佐竹義久は滞在先で急死した。享年48歳、まさに働き盛りであった 1 。法名は節叟賢忠と伝わる 4 。
彼の死因については、単純な病死であったとする説 1 と、何者かによる暗殺であったとする説 1 が、当時から根強く伝えられている。
確たる証拠が残されているわけではないため 4 、真相を断定することは困難である。しかし、暗殺説が生まれる背景には、極めて説得力のある政治的状況が存在した。
第一に、 徳川家康の思惑 である。後世の記録には、「家康が『東義久が存命の間は、佐竹家の転封はしない』と約束した」という逸話が残されている 39 。この逸話が事実、あるいは当時そう信じられていたとすれば、義久の存在そのものが、佐竹氏の常陸領有を保証する「楔(くさび)」となっていたことになる。家康にとって、関東の喉元に位置する54万石の佐竹氏を、江戸から遠く離れた北の要衝・秋田へ移封することは、徳川政権の安泰を図る上で極めて重要な戦略であった。この戦略を実行する上で、義久の存在は大きな障害であった。彼の死は、家康がこの障害を取り除くことを意味した。
第二に、 佐竹家中の対立 である。豊臣直臣として6万石を領し、家康との困難な交渉をも成功させた義久の権威は、宗家当主である義宣のそれを凌駕しかねないほどに高まっていた可能性がある。義宣やその側近たちが、家康によって義久が佐竹本家の当主に据え替えられることを危惧し、先手を打って彼を排除した、という筋書きも十分に考えられる 4 。
義久の死は、単なる一個人の死ではなかった。それは、佐竹氏の運命を決定づけた「政治的事件」であったと言える。彼の死の直後、慶長7年(1602年)5月、あたかも障害が取り除かれたかのように、佐竹氏に出羽秋田20万石への転封が命じられた 3 。このあまりにも都合の良い展開は、彼の存在が佐竹氏の常陸維持における「最後の砦」であったことを逆説的に証明している。暗殺説は、この政治力学から生まれた必然的な推論であり、歴史的仮説として極めて高い蓋然性を持つものと評価すべきである。
義久の死後、彼が築いた家と血脈は、新たな時代の中でそれぞれの道を歩んだ。
佐竹義久の生涯は、武勇と知略が交錯する戦国乱世の最終局面を、鮮やかに、そして劇的に駆け抜けたものであった。彼は、卓越した軍事指揮官であると同時に、変化する時代を読み解く鋭い政治感覚を備えた稀代の外交官であった。
特に、豊臣政権の中枢、とりわけ石田三成との間に築いた強固なパイプは、佐竹氏の常陸統一と54万石という大大名への飛躍に、決定的な役割を果たした。しかし、その結果として得た「豊臣直臣」という特異な立場は、諸刃の剣でもあった。それは彼に絶大な権威をもたらした反面、佐竹家中に潜在的な亀裂を生み、自らの悲劇的な最期を招く遠因となったことは想像に難くない。
彼の死によって、佐竹氏は400年以上にわたって根を下ろした本拠地・常陸を失い、北国秋田への転封を余儀なくされた。しかし、彼が命を賭して行った戦後交渉がなければ、佐竹家そのものが歴史の舞台から姿を消していた可能性もまた、否定できない。
一門の繁栄と宗家の存続という、時に相反する命題を一身に背負いながら、乱世の終焉を見届けた佐竹義久。その栄光と悲劇に満ちた生涯は、近世大名への移行期における武家の生き様と、そこに潜む権力闘争の非情さを、我々に鮮烈に物語っている。彼の存在なくして、佐竹氏の近世史は語れない。佐竹義久は、まさしく時代の枢機を担った、記憶されるべき武将である。