最終更新日 2025-07-30

佐竹義信

佐竹義信は佐竹北家の祖。佐竹氏の内乱「山入一揆」終結に貢献し、久米城主として宗家の軍事・経済を支えた。甥義篤の後見人として「部垂の乱」初期対応に尽力。佐竹氏の安定と発展に不可欠な存在。

戦国期佐竹氏の安定を支えた「北殿」 ― 佐竹義信の生涯と功績

序章:佐竹北家の祖、義信を再評価する

本報告書は、戦国時代の武将・佐竹義信(さたけ よしのぶ、1476-1533)の生涯と功績を、現存する史料に基づき多角的に解明することを目的とします。佐竹義信は、一般的に「佐竹氏第14代当主・義治の四男であり、甥の義篤を補佐した人物」、そして「佐竹北家の祖」として知られています 1 。しかし、その知名度は、後年に関ヶ原の戦いを経て秋田へ転封となった、同名の佐竹義宣(さたけ よしのぶ、右京大夫)の陰に隠れがちであり、両者はしばしば混同されることもあります 2 。本稿では、これまで十分に光が当てられてこなかった義信(本稿で扱う人物)に焦点を定めます。彼が生きた時代は、佐竹氏が約100年に及ぶ深刻な内乱「山入一揆(やまいりいっき)」をようやく終結させ、戦国大名としての新たな権力基盤を確立しようともがいていた、極めて重要な過渡期にあたります。

この重要な時期における義信の役割を、単なる一族の重鎮という静的な評価に留めるのではなく、宗家の軍事的安定、経済的繁栄、そして政治的権威の確立に不可欠な「戦略的支柱」として再評価することを、本報告書の主眼とします。彼の生涯を追うことは、佐竹氏が内乱の時代をいかに乗り越え、戦国大名へと脱皮していったのか、その具体的なプロセスを解き明かす鍵となるでしょう。義信のキャリアは、佐竹氏が直面した二つの大きな内乱、すなわち彼の活動の原点となった「山入一揆」の終焉 5 と、彼の晩年から死後にかけて一族を再び揺るがした「部垂の乱(へたれのらん)」 7 の間に位置しており、この二つの争乱の性質を理解することが、彼の歴史的役割を正確に把握する上で不可欠となります。

第一章:誕生と時代背景 ―「佐竹百年戦争」の終焉

佐竹義信の生涯は、一族が長年の分裂から再統一へと向かう、まさに歴史の転換点から始まりました。彼の青年期までの動向は、佐竹氏が乗り越えた未曾有の危機と密接に結びついています。

義信の出自と佐竹宗家の苦難

佐竹義信は、文明8年(1476年)、常陸国の守護大名であった佐竹氏第14代当主・佐竹義治(よしはる)の四男として生を受けました 1 。母は、在地領主であった大山常金の娘と伝えられています 1

彼が生まれた頃の佐竹宗家は、「山入一揆」または「佐竹の乱」と呼ばれる、深刻かつ長期的な内乱の渦中にありました 5 。この内乱は、15世紀初頭の応永14年(1407年)、佐竹宗家に跡継ぎの男子がいなかったため、関東管領・上杉家から養子(後の第12代当主・佐竹義人)を迎えたことに端を発します 5 。清和源氏の血を引く佐竹家に、藤原姓である上杉家から当主を迎えることに対し、佐竹貞義の子・師義を祖とする有力な庶流・山入氏が強く反発したのです 5

この対立は、単なる一族内の家督争いに留まりませんでした。山入氏は室町幕府の直臣ともいえる京都扶持衆の家格を持ち、幕府の支援を受けていました。一方、佐竹宗家は幕府と対立することもあった鎌倉公方や関東管領を後ろ盾としたため、この内紛は幕府と鎌倉公方の代理戦争の様相を呈し、約100年にもわたって佐竹氏の領国を二分する泥沼の抗争へと発展しました 10 。義信の父・義治の代には、山入氏の攻勢によって本拠地である太田城を一時的に追われるなど、宗家はまさに存亡の危機に瀕していたのです 12

「中興の祖」義舜の登場と内乱の終結

父・義治の死後、家督を継いだのは義信の長兄にあたる佐竹義舜(よしきよ)でした。若き当主・義舜は、近隣の岩城氏などの支援を得て反撃に転じ、永正元年(1504年)、遂に本拠・太田城を奪還します。そして、山入氏義を捕らえて処刑し、100年近く続いた大内乱に終止符を打ちました 6 。この偉業により、義舜は後世「佐竹家中興の祖」と称えられることになります 6

義信のキャリアの起点 ― 久米城主への就任

義信自身のキャリアは、この内乱の過程で始まります。文明10年(1478年)、義信の兄(一説には異母兄)であり、久米城(現在の茨城県常陸太田市)の城主であった久米義武が、山入氏との戦いの中で戦死しました 1 。義武には男子がいなかったため、わずか3歳の義信がその養子として家督を継ぎ、久米城主となることが定められました 1

これは単なる家督相続以上の、極めて戦略的な意味合いを持つ人事でした。山入一揆という、有力な一門が外部勢力と結びついて宗家に反旗を翻した苦い経験は、当主・義舜に新たな統治体制の必要性を痛感させました。すなわち、第二の山入氏を生み出さないために、宗家の権力を強化し、重要な拠点を確実に掌握することです。その具体的な方策こそ、最も信頼のおける自身の弟たちを戦略的要衝に配置し、分家として独立させつつも宗家の厳格な統制下に置くことでした。義信を山入一揆の最前線であり、宗家防衛の要となる久米城に配置したことは、まさにその戦後統治構想の第一歩であり、義信の生涯の役割を決定づける出来事だったのです。

第二章:北方の守護者 ― 久米城主としての戦略的役割

佐竹義信が継承した久米城は、単なる居城ではありませんでした。それは、再統一を果たしたばかりの佐竹宗家の存続を支える、軍事・経済の両面で極めて重要な戦略拠点でした。義信はこの地で、「北殿」として宗家を守護する重責を担うことになります。

年代(西暦)

出来事

典拠

文明8年(1476年)

佐竹義治の四男として誕生。

1

文明10年(1478年)

兄・久米義武の戦死に伴い、養子として久米城主となる。

1

永正元年(1504年)

長兄・義舜が山入一揆を終結させ、太田城を奪還。

6

永正14年(1517年)

長兄・義舜が死去。甥・義篤が家督を継ぎ、弟・政義と共に後見人となる。

1

享禄2年(1529年)頃

義篤の実弟・義元が反乱を起こす(部垂の乱)。

8

天文2年(1533年)

7月12日、死去。享年58。

1

軍事拠点としての久米城

久米城が位置する場所は、佐竹氏の本拠・太田城の北方にあたります 1 。この立地は、地政学的に極めて重要でした。西には、滅亡したとはいえ旧山入氏の残存勢力が依然として脅威であり、北には常に佐竹領を窺う強敵・岩城氏が控えていました 17 。義信の配置は、これら二つの脅威から太田城を守るための「北の盾」としての役割を期待された、極めて戦略的なものであったと考えられます 17

近年の発掘調査や整備によって明らかになった久米城の縄張りは、この城が単なる地方の館ではなく、高度な防衛思想に基づいて設計された一大軍事要塞であったことを示しています 18 。城は、東の城(本城)、西の城、そして北と南の出城という、主に四つの広大な曲輪群で構成されています。これらは無数の堀切、土塁、そして斜面に段々に設けられた腰曲輪によって複雑かつ堅固に守られていました 18

特に、北の出城は、北方に約6kmの距離にある旧山入氏の拠点・山入城や、さらに北の岩城氏方面を強く意識した構造となっており、敵の動向を監視するための物見台が設けられています 20 。一方で、南の出城は、本拠・太田城との連携を想定し、二重堀切などを用いて厳重に守りを固めていました 20 。この広大かつ緻密な城郭構造は、久米城が平時における行政拠点というよりも、常に臨戦態勢にある軍事拠点であったことを明確に物語っています。

経済拠点としての久米城

久米城の重要性は、軍事面に留まりませんでした。義信が管理したこの地域は、佐竹氏の経済を支える生命線でもありました。

第一に、久米城は久慈川の流域に位置しています。この一帯は肥沃な土地が多く、農業生産率の高い穀倉地帯でした 17 。第二に、久慈川は物資を輸送するための大動脈であり、その水運を掌握することは、経済的にも戦略的にも極めて重要でした 17 。義信は久米城を拠点とすることで、この豊かな流域から生み出される経済的利益を確保し、宗家にもたらすという重要な役割を担っていたのです。

さらに決定的に重要なのが、金山経営の保護です。戦国時代の佐竹氏の強大な国力を支えた財政基盤の一つに、領内での積極的な金山開発がありました 23 。特に、久慈川上流域は砂金の産地として古くから知られ 24 、大子町の栃原金山に代表される金山群は、佐竹氏に莫大な富をもたらしました 25 。久米城は、これら金山地帯への入口を物理的に押さえ、その莫大な利権を外部の侵略から保護する戦略的要衝でもあったのです。後に豊臣政権下で、佐竹氏が上杉氏、伊達氏に次ぐ全国第三位の金の産出量を誇り、54万石の大名へと飛躍した背景には 26 、義信のような信頼のおける一門による、こうした経済拠点の堅固な守りがあったことは想像に難くありません。

このように、佐竹義信は単なる「北の守り手」ではなく、佐竹宗家の「軍事」と「経済」という二つの生命線を同時に掌握する、極めて重要な「戦略的拠点管理者」であったと結論付けられます。彼の存在は、佐竹氏が戦国大名として飛躍するための土台そのものであったと言えるでしょう。

第三章:宗家の後見人 ― 甥・義篤の補佐と内憂への対処

兄・義舜と共に内乱を乗り越えた義信のキャリア後半は、若き当主となった甥・佐竹義篤(よしあつ)の後見人としての活動が中心となります。しかしこの時期、佐竹氏は再び一族内の深刻な対立「部垂の乱」に見舞われ、義信はその渦中で生涯を終えることになります。

若き当主・義篤の登場と後見体制

永正14年(1517年)、佐竹氏を再興した「中興の祖」義舜が48歳で死去すると、その子である義篤が若くして家督を継承しました 1 。この時、当主の叔父にあたる義信は、自身の弟であり、後に佐竹東家の祖となる政義(まさよし)と共に後見人に就任し、若き義篤を補佐する体制が敷かれました 1 。これは、義舜が築き上げた安定を維持し、円滑な権力移譲を確実にするための重石としての役割を、一族の長老である義信に期待したものでした。

新たな内乱「部垂の乱」の勃発

しかし、義舜が確立した宗家の権威は、未だ盤石ではありませんでした。享禄2年(1529年)頃、義篤の実弟でありながら、一族の宇留野氏の養子となっていた宇留野義元(後の部垂義元)が、宗家に反旗を翻します 8 。彼は、佐竹氏の重臣・小貫俊通が守る部垂城(現在の常陸大宮市)を策略をもって奪取し、そこを拠点として自立的な動きを強めました 28

この「部垂の乱」は、山入一揆とはその性質を異にします。山入一揆が「養子問題」という血統の正統性をめぐる、ある種、旧来的な価値観に基づいた争いであったのに対し、部垂の乱は、当主の弟が実力で領地を拡大し、佐竹一族の小場氏や高久氏、さらには外部勢力である岩城氏や那須氏までも巻き込もうとする、より下剋上的な性格の強い内紛でした 8 。これは、戦国大名が領国を統一していく過程で必ず直面する、一族や国人衆をいかに「家臣化」し、宗家を頂点とする集権的な支配体制を構築するか、という課題の表れでした 29

後見人・義信の対応と死

後見人である義信は、この内乱の初期対応に奔走しました。山入一揆の苦難を身をもって知る重鎮として、また当主の叔父という立場から、彼は反乱勢力の拡大を抑え、一族内の動揺を鎮める調整役としての役割を果たしたと推測されます。

しかし、天文2年(1533年)7月12日、義信は内乱の完全な鎮圧を見届けることなく、58年の生涯に幕を閉じました 1 。法号は超巌と伝えられています 1

義信の死と乱の激化 ― 息子の戦死

義信の死後、佐竹北家の家督は長男の義住(よしずみ)が継ぎ、父の遺志を継いで本家の義篤を補佐し続けました 1 。しかし、一族の重石であった義信を失った影響は大きく、部垂の乱はこれを機にさらに激化の一途をたどります。そして天文8年(1539年)、義信の跡を継いだばかりの義住は、部垂での戦いにおいて戦死するという悲劇に見舞われました 7

この内乱が最終的に鎮圧されたのは、義信の死から7年後、そして息子の義住の死の翌年である天文9年(1540年)のことでした 28 。義篤はこの困難な内乱を乗り越えたことで宗家の権威を完全に確立し、佐竹氏は真の戦国大名へと脱皮していくことになります。

義信の生涯は、佐竹氏が「国衆連合体」から「集権的戦国大名」へと移行する、まさにその過渡期の困難を象徴しています。彼は山入一揆という「過去の課題」の克服に貢献し、部垂の乱という「新たな課題」に直面しました。そして、彼の死と息子の戦死は、その困難な移行期に佐竹氏が支払わなければならなかった、大きな代償であったと言えるでしょう。

第四章:佐竹北家の創設と後世への影響

佐竹義信の最大の功績は、単に甥の当主を補佐したという個人的な活動に留まらず、その後の佐竹氏の権力構造を数世紀にわたって支えることになる重要な分家「佐竹北家」を創設した点にあります。

「北殿」から「佐竹北家」へ ― 分家創設の意義

義信は、本拠・太田城の北方に位置する久米城に居を構えたことから、「北殿」と称されました 1 。彼の子孫は「佐竹北家」として、佐竹一門の中で特別な地位を確立していくことになります 17

この北家の創設は、単なる血族への領地分与ではありませんでした。第二章で詳述した通り、それは宗家の本拠地防衛と経済基盤の保護という、極めて重要な戦略的目的を持って計画されたものでした。山入一揆の教訓から、宗家は重要な拠点を信頼できる一門に掌握させる必要があり、その筆頭格として、当主の弟である義信に白羽の矢が立ったのです。

戦国大名佐竹氏の権力構造と一門三家

戦国大名としての地歩を固めていく中で、佐竹氏は義信が創設した北家、その弟・政義が創設した東家 27 、そして後に成立する南家 27 という、いわゆる「三家」を権力の中枢に据えました。これらの分家は、当主を直接補佐し、広大化する領国の統治を分担する役割を担いました。特に、領内の国衆や在地領主からの言上(意見や願い出)を宗家に取り次ぐなど、当主と領民の間の重要な仲介役としても機能したとされています 17 。近年の研究では、三家が当主の命令を下達し、逆に国衆たちの意見を上申するパイプ役として、佐竹氏の権力構造において不可欠な存在であったことが指摘されています 34

比較項目

佐竹北家

佐竹東家

佐竹南家

家祖

佐竹義信

佐竹政義

佐竹義里

成立時期

永正年間頃

永正年間頃

16世紀初頭

常陸時代の本拠

久米城(太田城北方)

太田城東方

太田城南方

主な役割(推定)

・宗家本拠の北方防衛 ・久慈川流域(穀倉地帯・水運)の掌握 ・金山地帯の保護

・宗家本拠の東方防衛 ・南奥方面への進出拠点

・宗家本拠の南方防衛

秋田移封後の家格

一門筆頭・引渡一番座

引渡二番座

引渡二番座

典拠

1

27

27

この比較表が示す通り、北家が担った役割の軍事的・経済的重要性は、他の分家と比較しても突出していました。宗家の安全と財源という、国家の存立に最も不可欠な要素を直接守護していたのです。この創設時に与えられた役割の重要性が、そのまま家格として固定化・制度化され、江戸時代に秋田へ移封された後も、北家が「一門筆頭」として最高の家格(引渡一番座)を維持し続けた根源的な理由であると考えられます 35

義信の血脈と北家のその後

義信の死後、北家の道のりは平坦ではありませんでした。家督を継いだ長男・義住は部垂の乱で戦死 7 。その後を継いだのは、義信の次男である義廉(よしかど)でした 7 。義廉は、兄の死という悲劇を乗り越え、東家の当主と共に次の宗家当主・佐竹義昭(義篤の子)を補佐し、特に外交面で優れた手腕を発揮したと伝えられています 36 。これは、北家が創設者・義信の代から一貫して、武力だけでなく政治・外交の面でも宗家を支える重要な存在であり続けたことを示しています。

この北家の血脈は、佐竹氏が関ヶ原の戦いの後に常陸国から出羽国秋田へ減転封された後も、途絶えることはありませんでした。北家は角館(現在の秋田県仙北市)に1万石の所領を与えられ、一門筆頭の家老として秋田藩の藩政を支え続けました 17 。その家系は明治時代に男爵に叙せられ 41 、現代においては、その子孫である佐竹敬久氏が秋田県知事を務めるに至っています 17 。佐竹義信が築いた礎は、数世紀の時を超えて、現代にまでその影響を残しているのです。

結論:乱世の安定を支えた「北殿」の功績

本報告書を通じて戦国武将・佐竹義信の生涯を再検証した結果、彼の歴史的功績は、単に「北家の祖」という一言で要約されるものではなく、より具体的かつ戦略的な以下の三点に集約されると結論付けられます。

第一に、彼は**「辺境の守護者」**でした。約100年続いた「山入一揆」の傷跡が生々しく残る中、宗家の本拠地・太田城の北方に拠点を構え、旧山入氏の残党や北の強敵・岩城氏といった外部の脅威から宗家を守り抜く物理的な「盾」となりました。彼が守った久米城の堅固な構造は、その役割の重要性を物語っています。

第二に、彼は**「経済基盤の保護者」**でした。佐竹氏の国力を支える財政の源泉、すなわち久慈川流域の豊かな穀倉地帯、水運の利、そして莫大な富を生み出す金山という経済的生命線を、その拠点から直接管理・保護しました。佐竹氏が戦国大名として飛躍するための経済的土台は、彼の堅実な管理なくしてはあり得ませんでした。

第三に、彼は**「権力継承の安定化」**に貢献しました。中興の祖である兄・義舜を補佐して内乱後の統治を支え、若き甥・義篤の後見人として、不安定な時期の権力移譲に尽力しました。彼自身の死後に一族の内紛「部垂の乱」が激化し、その息子が戦死したという事実は、逆説的に、彼が生前に果たしていた一族の「重石」としての役割がいかに重要であったかを証明しています。

佐竹義信は、華々しい合戦で武名を轟かせるタイプの武将ではありませんでした。しかし彼は、歴史の表舞台で活躍する著名な当主たちの陰で、一族の存続と発展に不可欠な、地味ながらも極めて重要な役割を黙々と果たし続けた人物です。内乱の教訓を胸に刻み、宗家を守り、経済を支え、次代を育てる。彼が創設し、その後の佐竹家の統治システムの要となった「北家」という礎があったからこそ、佐竹氏はその後の戦国乱世の荒波を乗り越え、近世大名として存続し得たのです。佐竹義信は、まさに乱世における「縁の下の力持ち」であり、その地道かつ決定的な功績は、日本戦国史の中でより高く評価されるべきであると結論付けます。

引用文献

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