常陸国(現在の茨城県)にその根を張る佐竹氏は、清和源氏の一流、源義光を祖に持つ名門武家である。平安時代末期に常陸国久慈郡佐竹郷に土着して以来、鎌倉・室町時代を通じて常陸守護の地位を世襲し、関東の地に確固たる勢力を築き上げた 1 。戦国時代の到来と共に、日本各地の守護大名がそうであったように、佐竹氏もまた、より中央集権的な領国支配を目指す戦国大名へと変質を遂げていく。その過程は決して平坦なものではなく、特に室町時代後期には「山入の乱」に代表される激しい一族内紛を経験し、一時は宗家の存続すら危ぶまれる事態に陥った 4 。
この内紛の苦い経験を乗り越え、第15代当主・佐竹義舜、第16代・義篤の時代に至り、佐竹氏は常陸北中部を完全に掌握。続く第17代・義昭、そして「鬼義重」の異名で知られる第18代・義重の時代には、常陸統一を目前にし、南は小田原の後北条氏、北は奥州の伊達氏と覇を競う北関東随一の強豪大名へと飛躍を遂げる 3 。この急激な勢力拡大期において、広大化する領国を安定的に統治し、強力な家臣団を統制することは、佐竹氏にとって最重要課題であった。
この課題に応えるべく、佐竹氏が構築したのが「御一家(ごいっか)」と呼ばれる独自の統治システムであった。これは宗家当主の子弟を戦略的に分立させ、宗家の本拠地である太田城の東西南北に屋敷を構えさせたことに由来する、東家・西家・南家・北家の四つの有力な一門家(分家)を指す 1 。彼らは単なる血縁者というだけでなく、宗家当主の権威を分有する「分身的存在」として、領国統治の枢要を担った 4 。ある時は軍団を率いる将として、またある時は宗家の家政を代行する執政として機能し、佐竹氏の統治体制の根幹を形成したのである。この「御一家」制度は、かつて一族を分裂させた内向きのエネルギーを、領国拡大という外向きの力へと転換させるための、極めて戦略的な統治機構であった。権力を過度に集中させることなく、かといって分散による弱体化も招かないこの絶妙な権力委譲システムこそ、佐竹氏が強敵に囲まれながらも勢力を拡大できた原動力の一つと言える。
本報告書が主題とする佐竹義堅は、まさしくこの「御一家」筆頭格である東家の二代目当主であり、佐竹氏の飛躍期に家政を担った中心人物の一人である 7 。しかし、彼の生涯は一つの大きな軍事的失敗によってその功績が覆い隠され、史料も断片的である。本報告では、残された記録を丹念に読み解き、彼が置かれた歴史的文脈、特に関東の複雑な政治情勢と佐竹氏独自の統治システムの中に彼を位置づけることで、その知られざる実像に迫ることを目的とする。
佐竹義堅の生涯を理解する上で、その父であり、佐竹東家の創設者である佐竹政義の存在は欠かすことができない。政義は、佐竹宗家第14代当主・佐竹義治の五男として文明16年(1484年)に生を受けた 1 。当初は田口氏の養子となり、後に出家して周悦と号したが、兄の命により還俗し、政義と名乗ったという経歴を持つ 8 。
彼が「東家」の祖となったのは、宗家の居城である太田城の東方に居館を構え、「東殿(ひがしどの)」と称されたことに由来する 8 。これは単なる居住地の問題ではなく、宗家を守護する東方の要という政治的・軍事的な意味合いを持つものであった。政義は、同じく宗家から分立した兄の北家当主・佐竹義信と共に、甥にあたる第15代当主・義舜、そして大甥の第16代当主・義篤を補佐し、佐竹氏の政務の中枢で重きをなした 8 。
政義の政治的影響力の大きさは、彼の死がもたらした混乱からも窺い知ることができる。天文3年(1534年)に政義が51歳で死去すると、佐竹家中には「政務を統御できる人物が一時的に不在」という状況が生まれ、これが義篤とその実弟・佐竹義元との間での家督争い(部垂の乱)が勃発する一因となったとされている 8 。この事実は、政義が単なる一門の長老ではなく、家中の利害を調整し、宗家の政治的安定を担保する「安定装置」として不可欠な存在であったことを物語っている。佐竹東家は、その創設の時点から、宗家を支える「執政家」としての性格を色濃く帯びていたのである。その跡を継いだ義堅もまた、父と同様の重責を担うことを宿命づけられていた。
佐竹義堅は、この東家初代・政義の嫡男として生を受けた 7 。彼の生年は詳らかではないが、息子である佐竹義久が天文23年(1554年)に生まれていることから逆算すると 12 、享禄年間(1528年~1532年)頃の誕生と推定するのが妥当であろう。通称は九郎、あるいは源六郎と伝わり、官途は左近大夫将監であった 13 。
天文3年(1534年)、父・政義が死去すると、義堅は若くして佐竹東家の二代当主の座を継承した 1 。彼は、父が築き上げた佐竹一門の重鎮という地位と、宗家の家政を支えるという重い責務を、同時にその両肩に担うことになったのである。
佐竹義堅の歴史的立ち位置を、東家の連続性の中でより明確に理解するため、初代から五代までの当主の動向を以下にまとめる。
代 |
当主名 |
続柄 |
在任期間(推定) |
主要事績・備考 |
初代 |
佐竹政義 |
宗家14代・義治の五男 |
- 天文3年(1534) |
太田城の東に住し「東殿」と称される。甥の義篤を補佐し家政を担う 8 。 |
二代 |
佐竹義堅 |
政義の嫡男 |
天文3年(1534) - 永禄9年(1566) |
宗家17代・義昭の家政を執行。永禄9年、那須氏に敗れ降伏 7 。 |
三代 |
佐竹義喬 |
義堅の長男 |
永禄9年(1566) - 元亀3年(1572)頃 |
父の敗戦後に家督相続。「陸奥南方面の総指南役」を務める 15 。 |
四代 |
佐竹義久 |
義堅の次男 |
元亀3年(1572)頃 - 慶長6年(1601) |
兄・義喬の養子。豊臣政権下で活躍し、一門筆頭となる 12 。 |
五代 |
佐竹義賢 |
義久の嫡男 |
慶長6年(1601) - |
秋田転封に従う。 |
天文14年(1545年)、佐竹宗家第16代当主・義篤が没し、その子・義昭がわずか15歳で家督を相続した 17 。当主が若年であることは、家中の動揺や外部勢力の介入を招きかねない、戦国大名家にとって最大の危機の一つである。この危機を乗り切るため、佐竹氏が頼みとしたのが、義堅ら「御一家」による強力な補佐体制であった。
史料によれば、義堅は北家当主の佐竹義廉や南家当主の佐竹義里らと共に、交代で宗家の家政を執行したと記録されている 7 。これは、特定の人物への権力集中による専横を防ぎつつ、一門衆による合議制によって安定した領国経営を目指す、極めて洗練された統治システムであったことを示唆している。義堅の主な役割は「常陸国人の統制」であったとされ 7 、これは佐竹氏の支配下に入った在地領主(国人衆)を管理する、領国経営の根幹をなす極めて重要な職務であった。具体的には、彼らの所領を保障する知行安堵、戦時に動員する軍役の賦課、国人同士の所領争いの調停、そして何よりも謀反の監視といった、多岐にわたる内政・警察権の行使を意味していた。
弘治3年(1557年)に作成された「佐竹義昭奉加帳」には、家老格にあたる小田野刑部少輔や和田掃部助が奉行として名を連ねているが 18 、義堅はこれら譜代の家臣たちの上位に立ち、家臣団全体を統括する、事実上の執政として君臨していたと推測される。若き当主・義昭が、小田氏や結城氏、岩城氏といった周辺勢力との戦いや、越後の上杉謙信との同盟交渉など、対外的な軍事・外交活動に専念できたのは、義堅を中心とする一門衆が領国内を盤石に固めていたからに他ならない。ここには、戦国大名家における「軍事(外)」と「政務(内)」の効果的な役割分担体制が見て取れる。義昭の軍事的才能と、それを内政面で支える義堅の執政能力とが両輪となって、この時期の佐竹氏の飛躍を支えたのである。
佐竹義昭、そしてその後を継いだ義重の時代は、佐竹氏が常陸統一をほぼ成し遂げ、その勢威を下野南部や南陸奥にまで及ぼした最盛期にあたる 4 。この輝かしい勢力拡大の陰には、義堅ら一門衆による地道な内政運営があった。彼らは、義昭や義重が率いる本隊が国外へ出兵する際には、その後方支援、兵糧や武具の調達と輸送、そして占領地の統治といった、戦争遂行に不可欠な兵站と行政を一手に担ったと考えられる。義重が「鬼義重」と恐れられるほどの軍事的活躍を見せることができた背景には、義堅らによる安定した領国経営という強固な土台が存在したことは、疑いようのない事実である。
佐竹氏の執政として順調にキャリアを重ねてきた義堅であったが、その運命は永禄9年(1566年)、隣国・下野での一戦によって暗転する。この「治部内山(じぶないやま)の戦い」は、義堅の生涯における最大の、そして最後の見せ場となった。
合戦の直接的な引き金は、下野の名族・那須氏の内部対立であった。永禄3年(1560年)、那須氏当主・那須資胤は、白河結城氏・蘆名氏との小田倉での戦いで苦戦を強いられる 19 。資胤はこの苦戦の責任を問い、家臣の大関高増を厳しく叱責したことから、両者の間に深刻な亀裂が生じた 21 。不和はエスカレートし、資胤が高増の暗殺を計画するに至って、両者の対立はもはや修復不可能な段階に達した 23 。
身の危険を感じた大関高増は、主君である那須氏に叛旗を翻し、常陸の佐竹義重に救援を求めた 23 。これは、長年にわたり那須氏と覇を競ってきた佐竹氏にとって、敵の内紛に乗じて下野への影響力を一気に拡大するまたとない好機であった。義重はこの要請を快諾。さらに、那須氏と遺恨のあった宇都宮広綱も佐竹氏に加勢し、ここに佐竹・宇都宮連合軍が結成された 23 。この大軍の総大将として白羽の矢が立ったのが、一門の重鎮であり、執政として実績を積んできた佐竹義堅であった。
永禄9年(1566年)8月、佐竹義堅が率いる佐竹軍(約2,000)と宇都宮軍(約1,000)は那須領へと侵攻を開始した。緒戦において連合軍は、那須方の茂木氏や千本氏の城を次々と攻略し、破竹の勢いで那須氏の本拠・烏山城へと迫った 23 。この時点では、誰もが連合軍の圧勝を疑わなかったであろう。
しかし、下野国高瀬(現在の栃木県那須烏山市)から治部内山にかけての地域で那須軍本隊と激突した際、戦局を根底から覆す事件が発生する。佐竹軍の有力部将であった**大金豊前守(おおがねぶぜんのかみ)**が、戦闘の最中に突如として那須方へと寝返ったのである 25 。この予期せぬ裏切りは、優勢であった連合軍の指揮系統を完全に麻痺させた。大金氏の出自は必ずしも明確ではないが、「大金」という姓は常陸国内にその名が見られることから 26 、佐竹氏配下の国人領主であった可能性が高い。彼が那須氏の調略に応じた背景には、個人的な恩賞への期待のみならず、佐竹氏による中央集権的な支配強化に対する国人衆の潜在的な不満や、那須氏との地理的・血縁的な繋がりがあったことも十分に考えられる。いずれにせよ、この一人の武将の裏切りが、三千の軍勢の運命を決定づける致命的な一撃となった。
大金豊前守の寝返りをきっかけに、佐竹・宇都宮連合軍は総崩れとなった。総大将の義堅は、わずか二十数騎の手勢とともに那須軍の重囲に陥り、絶体絶命の窮地に立たされる 25 。もはやこれまでと覚悟した義堅は、那須方の武将・千本常陸守による降伏勧告を受け入れ、敵将・那須資胤の軍門に降るという、最大の屈辱を味わうことになった 7 。この故事により、治部内山は後世、「降参嶺(こうさんみね)」と呼ばれるようになったと伝えられている 7 。
この治部内山の戦いに関しては、史料上に一つの混乱が見られる。『那須記』などの後代に編纂された軍記物では、この戦いにおける佐竹軍の総大将を「東将監政義」と記しているのである 23 。しかし、佐竹東家初代の政義は、この合戦の32年前、天文3年(1534年)に既に死去しており 8 、永禄9年(1566年)の戦いに参加することは物理的に不可能である。
一方で、本報告の主役である佐竹義堅の官途は「左近大夫 将監 」であり 13 、彼が「東家」の当主であることから、「東将監」という呼称は彼にこそ最もふさわしい。このことから、軍記物に見られる「東将監政義」という名は、後世の編纂過程で生じた典型的な混同・誤記であると結論付けられる。すなわち、著名であった父・政義の名前と、実際に指揮を執った息子・義堅の官途「将監」が、時を経て一つに融合し、「東将監政義」という半ば架空の人物像が創出された可能性が極めて高い。この戦いを指揮し、そして敗北したのは、佐竹義堅本人であったと断定して間違いない。この史料批判的視点は、歴史の霧の中に埋もれた佐竹義堅個人の事績を正確に復元する上で、決定的に重要な意味を持つ。
複雑な合戦の構図を一覧化することで、戦いの流れと勝敗の要因を以下に整理する。
陣営 |
総大将 |
主要部将 |
兵力(推定) |
合戦の経過 |
佐竹・宇都宮連合軍 |
佐竹義堅 |
宇都宮広綱、小田野氏、和田氏など |
約3,000 |
緒戦で茂木城・千本城を攻略し優勢に進軍。 |
那須軍 |
那須資胤 |
千本常陸守、森田弾正、金丸下総守など |
1,000余 |
劣勢の中、本拠地近くで防戦。治部内山を決戦の場とする。 |
寝返り |
大金豊前守 |
(佐竹家臣) |
不明 |
戦闘の最中、突如那須方へ寝返り、連合軍の敗因となる。 |
結果 |
- |
- |
- |
佐竹・宇都宮連合軍の敗北。総大将・佐竹義堅は降伏。 |
永禄9年(1566年)の治部内山での降伏を最後に、佐竹義堅の名は歴史の表舞台から忽然と姿を消す。彼の生没年が共に不詳であること 7 、そしてその墓所や供養塔の所在が、常陸太田市や秋田の佐竹家菩提寺など、関連するいかなる場所においても確認できないこと 28 、これらの事実は、彼の晩年が公的な記録に残るようなものではなかったことを雄弁に物語っている。
総大将として大軍を率いながら敗北し、あまつさえ敵将に降伏するという行為は、武士の名誉が何よりも重んじられた戦国時代において、致命的な汚点であった。この大敗の責任を厳しく問われ、東家当主の座を追われ、政治の表舞台から完全に引退させられたと考えるのが最も自然な解釈であろう。義堅の「生没年不詳」は、単なる記録の欠落を意味するのではない。それは、戦国社会の厳格な結果責任の論理によってもたらされた、一種の「歴史的抹消」であった。佐竹氏の執政として輝かしいキャリアを築いた人物が、たった一度の敗戦によってその功績の全てを無に帰し、その後の人生が歴史から忘れ去られてしまった。彼の存在そのものが、戦国という時代の栄光と悲惨を、そしてその非情さを我々に伝えている。
佐竹義堅個人の物語は悲劇に終わったが、彼が率いた佐竹東家の歴史はそこで途絶えることはなかった。むしろ、彼の失脚は、皮肉にも東家の更なる発展の契機となる。
義堅の敗戦直後の永禄9年(1566年)、東家の家督を継いだのは長男の佐竹義喬であった 15 。注目すべきは、彼が父の汚名を返上するかのように、佐竹氏の勢力圏の北端、すなわち対伊達氏の最前線である「陸奥南方面の総指南役」という極めて重要な役職に任命されている点である 16 。これは、佐竹宗家が義堅個人の失敗と、東家という一門が持つ戦略的重要性とを明確に切り離して判断していたことを示している。
さらに、義喬に嫡子がいなかったため、元亀3年(1572年)頃に家督を継いだのが、義堅の次男・佐竹義久であった 12 。この義久こそ、父・義堅や兄・義喬を凌ぐ器量を持った、戦国武将として稀代の人物であった。彼は佐竹義重・義宣父子から絶大な信頼を寄せられ、外交面では武田氏との同盟(甲佐同盟)締結に尽力し、軍事面では陸奥方面の軍権を全面的に委任されるなど、一門の筆頭として八面六臂の活躍を見せた 12 。その名声は中央にも届き、豊臣秀吉と直接的な関係を築いて豊臣姓を下賜され、秀吉直轄地の代官を務めるなど、佐竹一門の中でも別格の地位を確立するに至る 12 。関ヶ原の戦いの後、佐竹家の存亡が風前の灯火となった際には、徳川家康との困難な交渉に臨み、本領安堵(結果的には減転封)を取り付けるという大役を果たしたのも、この義久であった 12 。
ここに、歴史の逆説を見出すことができる。もし父・義堅が治部内山の戦いで敗れることなく、当主の座に留まり続けていたならば、非凡な才能を持っていた次男・義久が、これほど早く、そして大きな権限を持って活躍する機会は訪れなかったかもしれない。義堅個人の悲劇と失脚が、結果として、より有能な次世代のリーダーを歴史の表舞台に押し上げ、佐竹東家、ひいては佐竹氏全体の発展に繋がったのである。これは、個人の能力と運命が、家の存続と繁栄というより大きな流れの中で複雑に絡み合う、戦国時代のダイナミズムを示す興味深い事例と言えよう。
佐竹義堅の生涯を総括する時、我々は彼を単なる「敗軍の将」として片付けるべきではない。彼は、常陸の名門・佐竹氏が戦国大名として最大の飛躍を遂げた重要な時期に、若き当主・佐竹義昭を支える「忠実な執政」として、領国の安定と家臣団の統制に多大な貢献をした人物である。彼の存在なくして、義昭や義重の華々しい軍事的成功はあり得なかったかもしれない。その意味で、義堅の功績は、佐竹氏の強固な「御一家」統治システムを象徴するものであった。
しかし、彼のキャリアは、永禄9年の治部内山での一度の敗北によって、無残にも断ち切られた。前半生の輝かしい功績と、後半生の完全な沈黙。この鮮やかなコントラストこそ、武勇や戦功が何よりも重視された戦国時代の武将の宿命を、最も色濃く反映している。
佐竹義堅の生涯は、彼自身の華々しい武勇伝によって語られることはない。彼の重要性は、彼を支えた譜代の家臣たち、彼が補佐した主君・義昭、そして彼の不名誉を乗り越えて飛躍した息子・義久といった、周囲の人物たちの記録を通して、間接的に浮かび上がってくる。彼は、自らが歴史の主役となることはなかった。しかし、佐竹氏の興隆という壮大な物語において、縁の下の力持ちとして、また後進に道を譲る悲劇の主人公として、不可欠な役割を演じた人物として再評価されるべきである。彼の記録に残らぬ静かな退場は、戦国という時代の非情さと、それでもなお続いていく「家」という組織の歴史の力強さの両方を、我々に静かに語りかけている。