戦国時代の日本列島が群雄割拠の様相を呈していた16世紀中葉、東国に関東の覇権をめぐる熾烈な争いが繰り広げられていた。その渦中にあって、常陸国(現在の茨城県)を拠点に、一躍北関東の雄へと飛躍を遂げた一族がいた。清和源氏の流れを汲む名門、佐竹氏である。その佐竹氏の歴史において、第17代当主・佐竹義昭(さたけ よしあき)は、傑出した息子・義重の「序章」として語られることが多い。しかし、彼の治世は、佐竹氏が戦国大名として真の覚醒を遂げるための、極めて重要かつ劇的な転換期であった。本報告書は、佐竹義昭という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げ、彼の軍事、外交、内政、そして人物像を多角的に分析することで、彼が築いた功績の歴史的意義を再評価することを目的とする。
佐竹義昭は享禄4年(1531年)、第16代当主・佐竹義篤の次男として生を受けた 1 。彼が天文14年(1545年)に15歳で家督を継承した時、佐竹氏は一見すると安定した状況にあるように見えた。父・義篤の代に、一族を二分し約100年にも及んだ内紛「山入の乱」がようやく終結 2 。さらに義篤は、自らの実弟である宇留野義元との家督争い、いわゆる「部垂(へたれ)の乱」をも武力で鎮圧していた 4 。これにより、義昭が当主となった時点で、佐竹氏は長年の内紛を収拾し、常陸北部に確固たる支配権を確立した戦国大名へと成長を遂げているかのように思われた 1 。
しかし、その「安定」は極めて脆弱なものであった。特に、血で血を洗う骨肉の争いであった部垂の乱は、佐竹氏の家臣団に深刻な亀裂と遺恨を残していた。義元方に与した一族や国人たちの不満は、領国の内に燻り続けていたのである。義昭の治世は、この内なる火種を抱えながら、南の北条氏、北の伊達氏といった強大な外部勢力との熾烈な生存競争に臨むという、極めて困難な状況から始まった。彼の行った一連の積極的な対外政策は、単なる領土的野心の発露としてのみ捉えるべきではない。それは、共通の外敵を設けることで家臣団の結束を促し、内紛で疲弊した佐竹宗家の権威を回復させ、そして周辺勢力が自家の内政に干渉する隙を与えないという、内憂の克服を第一義とする高度な政治戦略であった。義昭の時代は、内紛後の権力再構築と対外膨張政策が同時並行で進められた、佐竹氏の歴史における決定的な過渡期だったのである。
義昭の治世は、わずか20年という短い期間であったが、その間に佐竹氏の勢力圏は常陸国内にとどまらず、北関東から南奥州にまで劇的な拡大を遂げた。その原動力となったのは、軍事力と外交戦略を巧みに交錯させる、彼の卓越した手腕であった。
家督を継いだ義昭がまず直面したのは、常陸国内の覇権をめぐる他の国人領主たちとの争いであった。彼は巧みな合従連衡を駆使し、ライバルを次々と打ち破り、あるいは懐柔していく。
常陸中部から南部にかけて勢力を誇った小田氏は、佐竹氏にとって長年のライバルであった。義昭と小田氏の関係は、協力と対立の間で目まぐるしく変化する。当初、義昭は小田政治と共同戦線を張り、佐竹氏に反抗的であった江戸忠通を攻撃し、勝利を収めている 1 。この時点では、両者は共通の敵に対して協力する関係にあった。
しかし、小田氏治の代になると、両者の関係は常陸の覇権を巡る決定的な対立へと移行する 8 。氏治は、関東に強大な勢力を築きつつあった相模の後北条氏康と手を結び、佐竹氏に対抗する道を選んだ 1 。この動きに対し、義昭は断固たる態度で臨む。永禄7年(1564年)、義昭は越後の上杉謙信、そして自らの影響下にあった下野の宇都宮広綱と連合軍を結成し、小田領へと侵攻した。この「小田城の戦い」において、義昭は氏治の本拠地である小田城を攻め落とし、氏治を土浦城へと敗走させる決定的な勝利を収めた 1 。この一戦は、佐竹氏が常陸南部へと勢力を拡大する上で極めて重要な転換点となった。
興味深いことに、宿敵関係にありながら、義昭は氏治の武将としての才覚を高く評価していたと伝えられている 9 。上杉謙信に宛てた書状の中で、氏治を「右大将家(源頼朝)以来、名望のある豪家であり、氏治もまた普通に優れた才覚がある」と評しているのである 10 。これは、義昭が単なる感情に流されず、敵将を冷静に分析する優れた観察眼を持っていたことを示唆している。
常陸府中(現在の石岡市)を拠点とする大掾氏は、常陸南部の有力国人であった。義昭は、この大掾氏に対して、武力だけでなく婚姻政策を巧みに用いてその支配権を掌握するという、見事な手腕を見せる。
まず義昭は、継室として大掾慶幹の娘を迎えた 1 。この婚姻によって築かれた縁戚関係を足掛かりに、彼は大掾氏の家督相続問題に巧みに介入する。そして永禄7年(1564年)、ついに府中城に入ると、自らの実弟である小野崎義昌を大掾貞国の後継として送り込み、「大掾昌幹」と名乗らせて家督を継がせた 11 。これにより、大掾氏は事実上、佐竹氏の支配下に組み込まれることとなった。武力衝突を最小限に抑え、外交と閨閥戦略によって有力国人を傘下に収めたこの一連の動きは、義昭の政治家・戦略家としての非凡な才能を如実に物語っている。
義昭の戦略的視野は、常陸国内にとどまらなかった。彼は北関東、そして南奥州へと積極的に勢力を拡大し、佐竹氏を関東の一地方勢力から、東国有数の大名へと押し上げていく。
常陸の北に位置する南陸奥(現在の福島県南部)は、義昭が次なる目標として見据えた地域であった。永禄3年(1560年)、義昭は陸奥南部の有力者である白河結城氏の当主・白河晴綱を攻め、その拠点の一つである寺山城(福島県棚倉町)を攻略した 1 。この勝利により、佐竹氏は南陸奥における影響力を一気に高めることに成功する。この南への進出は、後に息子・義重の代に本格化する伊達政宗との熾烈な抗争の、重要な伏線となった 3 。
下野国(現在の栃木県)に対しても、義昭は巧みな介入を行った。弘治3年(1557年)、家臣の壬生綱雄によって本拠の宇都宮城を追われていた当主・宇都宮広綱から支援を求められると、義昭はこれに応じ、軍事力をもって広綱の宇都宮城復帰を成功させた 11 。
さらに義昭は、この恩義を最大限に活用する。自らの娘(後の南呂院)を広綱に嫁がせ、宇都宮氏を単なる同盟者ではなく、佐竹氏の影響下にある強力な与党へと変えたのである 1 。この佐竹・宇都宮同盟は、後述する対北条氏戦略において極めて重要な役割を果たすこととなる。また、永禄6年(1563年)には、下野のもう一つの有力勢力である那須氏の内紛にも介入し、那須資胤との戦いで勝利を収め、その影響力をさらに強固なものとした 1 。
義昭の外交手腕は、敵対勢力だけでなく、潜在的な脅威となりうる周辺勢力に対しても発揮された。永禄元年(1558年)、常陸の東に位置する岩城重隆が領内に侵攻してきた際には、これを小里の戦いで撃退した 1 。しかし、義昭は力で屈服させるだけでは終わらない。彼の正室が岩城氏の娘であったことを理由に、戦後の交渉を有利に進め、強固な和睦関係を再構築したのである 1 。武力と婚姻関係を巧みに使い分けることで、自家の安全保障を確実なものとしていった。
これらの軍事・外交行動は、一見すると多方面への場当たり的な拡大政策に見えるかもしれない。しかし、その根底には、関東の情勢を支配していた一つの巨大な存在、すなわち相模の後北条氏の存在があった。義昭の一連の動きは、この強大な敵に対抗するための、壮大かつ緻密な戦略の一環として理解することができる。彼は、北条氏と敵対する越後の上杉謙信と同盟を結び 1 、北条方についた小田氏を叩き 10 、宇都宮氏を味方につけて下野国防衛の壁とし 14 、大掾氏や白河結城氏を支配下に置くことで自らの背後を固めた 11 。これら全ての布石は、後北条氏の北進を阻み、関東における佐竹氏の生存圏を確立するためのものであった。義昭は、北関東から南奥州にまたがる広大な「反北条連合」の、事実上の設計者だったのである。
義昭の功績は、対外的な勢力拡大に留まらない。彼は領国内の統治においても優れた手腕を発揮し、佐竹氏の権力基盤を盤石なものへと固めていった。特に、経済基盤の確立と、内紛後の家臣団の再編・掌握は、彼の治世を特徴づける重要な成果である。
戦国大名がその強大な軍事力を維持するためには、安定した経済基盤が不可欠であった。義昭もまた、領国経営、特に財源の確保に力を注いだ。
佐竹氏の領国、特に常陸北部の山間地帯は古くからの産金の地として知られており、これが佐竹氏の強大な経済力を支える柱の一つであった 16 。常陸太田市や常陸大宮市周辺に点在した金山は、佐竹氏にとってまさに「金のなる木」だったのである 18 。
戦国期の鉱山経営には、大名が直接管理する「直山(じきやま)」と、専門の技術者集団である山師に経営を請け負わせ、運上金(税)を納めさせる「請山(うけやま)」という二つの形態があった。佐竹氏においてもこの二つの方法が採られていたことが知られているが 19 、義昭の時代には既にこれらの経営体制が確立され、領内の金山から得られる豊富な資金が、彼の積極的な軍事行動や外交工作を財政的に支えていたと考えられる。この経済力なくして、彼の代における佐竹氏の飛躍はあり得なかったであろう。
義昭は、領内の寺社の造営や修復といった宗教事業を巧みに利用し、領国支配の道具として活用した。その手法を具体的に示すのが、「奉加帳(ほうがちょう)」と「棟札(むなふだ)」の存在である 20 。
奉加帳とは、寺社の修復などの際に寄進を募るための名簿であり、棟札は建物の建立や修理の由来、年月日、願主、大工名などを記して棟木に打ち付けた板のことである。義昭はこれらの作成に積極的に関与した。これは単なる敬虔な信仰心の発露というよりも、むしろ高度な統治技術であった。奉加帳に寄進者の名前と金額を記録させることで、家臣や領民の経済力と忠誠心を把握することができた 20 。また、自らが大檀那(最大の寄進者)として棟札に名を刻むことで、寺社を保護する領主としての権威を示し、領民の求心力を高める効果があった。義昭は、人々の信仰心という目に見えない力を、領国支配という極めて現実的な目的のために巧みに利用したのである。
義昭の治世における最大の課題は、父の代に起こった「部垂の乱」によって生じた家臣団の深刻な亀裂を修復し、宗家を中心とした強固な支配体制を再構築することであった。その過程を解き明かす上で、極めて重要な一次史料が存在する。それが『佐竹義昭奉加帳』である。
この奉加帳は、弘治3年(1557年)3月に、常陸大宮市に鎮座する甲(かぶと)神社の修復に際して作成された寄進者名簿である 22 。甲神社は、奇しくも部垂の乱の中心地であった部垂地域にあり、地域の鎮守として人々の信仰を集めていた 24 。この事業の奉行を務めたのは、家老格の重臣である小田野刑部少輔と和田掃部助(後の和田昭為)であり、帳面には178名に及ぶ家臣の名が寄進額とともに記されている 22 。
この奉加帳に名を連ねる家臣の顔ぶれを分析すると、義昭の巧みな政治的意図が浮かび上がってくる。寄進者の中には、佐竹一族である大山氏や宇留野氏、譜代の家臣である人見氏といった宗家の中核をなす者たちの名が見える 22 。しかし、それ以上に注目すべきは、名を連ねた178名の大多数が、かつて宗家に敵対した「部垂・小場の両家に由緒の深い」家臣たちであったという事実である 22 。
これは単なる偶然ではない。部垂の乱から17年後、義昭はあえて旧敵対勢力の精神的支柱であった甲神社の大修理を、自らが主導して行ったのである 24 。そして、彼らに寄進(奉加)をさせた。この一連の行為は、過去の罪を赦し、和解の手を差し伸べるという象徴的な意味を持つと同時に、旧敵対勢力に対して、佐竹宗家を中心とする新たな秩序への服従を誓わせる、一種の踏み絵としての機能を持っていた。
つまり、この『佐竹義昭奉加帳』は、単なる寄進の記録ではない。それは、内紛の傷跡を乗り越え、過去の敵味方の区別なく、義昭という新たな当主の下に再編成された「新生佐竹家臣団」の結束を内外に宣言する、政治的マニフェストだったのである。武力による鎮圧に終わらず、宗教的権威と巧みな政治演出を用いて、内側から真の領国統一を成し遂げようとした義昭の、政治家としての非凡な資質がここに見て取れる。この事業を支えた和田昭為のような側近は、義昭の時代から既に権力の中枢で活躍しており、彼の統治を支える重要な存在であった 27 。
佐竹義昭は、激動の関東を生き抜き、佐竹氏の未来を切り拓いた。彼の人物像を浮き彫りにするいくつかの重要な逸話と、彼の早すぎる死が残した遺産を検証することで、その歴史的評価を試みる。
16世紀半ばの関東は、旧来の権威であった古河公方や関東管領が衰退し、新興勢力である後北条氏が急速に台頭する、まさに下剋上の時代であった。この混乱の中で、義昭は自家の存続と発展を賭けた重大な選択を迫られる。
天文15年(1546年)、河越夜戦で後北条氏康に歴史的な大敗を喫した関東管領・上杉憲政は、常陸で勢力を伸ばす義昭を頼り、驚くべき提案を持ちかけた。それは、関東管領の職と権威の象徴である山内上杉氏の家名を譲る代わりに、自らを保護してほしいというものであった 1 。
佐竹氏の第12代当主・義人は山内上杉氏からの養子であり、両家には血縁的なつながりがあったため、この提案は全くの突飛なものではなかった 1 。関東管領という職は、関東の諸将を束ねる大義名分となりうる、極めて魅力的なものであったはずである。しかし、義昭はこの破格の提案を毅然として拒絶した。その理由として、佐竹氏が清和源氏義光流という名門の血筋であることへの誇り、そして他家の家名を継ぐことへの抵抗感があったとされている 1 。この逸話は、義昭が目先の権威に惑わされることなく、自家の伝統と独立性を何よりも重んじる、強い自負心を持った人物であったことを雄弁に物語っている。
関東管領職は拒否したものの、義昭は現実的な戦略家でもあった。憲政の跡を継いで関東管領となった越後の長尾景虎、後の上杉謙信とは、利害の一致から速やかに同盟関係を結んだ 1 。これは、関東の覇権をめぐって佐竹氏の最大の脅威となっていた後北条氏に対抗するための、必然的な選択であった 14 。
義昭は謙信の関東出兵(越山)に度々参陣し 13 、永禄7年(1564年)の小田城攻めでは連合軍の中核として活躍するなど 12 、反北条連合の主軸として関東の政治・軍事両面で重要な役割を果たした。彼の治世は、終始、この巨大な敵である後北条氏との対峙を前提として展開されたのであり、彼の全ての行動は、この対決の構図の中で理解されなければならない。
義昭は、佐竹氏を北関東の強者に押し上げるという偉業を成し遂げたが、その治世はあまりにも短く、突然の終焉を迎える。
永禄5年(1562年)、義昭はわずか32歳の若さで家督を長男の義重に譲り、隠居した 1 。しかし、実権は手放さず、常陸府中城にあって領国支配の実質的な最高指導者として君臨し続けた 1 。この早期隠居の明確な理由は不明であるが、そのわずか3年後の永禄8年(1565年)11月3日、常陸統一を目前にしながら35歳という若さで急逝したことから、生来病弱であった可能性が指摘されている 1 。
義昭の突然の死は、佐竹氏にとって大きな痛手であったに違いない。しかし、彼が残した遺産は、その損失を補って余りあるほど偉大なものであった。
第一に、彼は「鬼義重」「坂東太郎」と後世に称される、戦国時代屈指の猛将である息子・佐竹義重へと、盤石な権力基盤を引き継いだことである 8 。義昭が内紛を収拾し、家臣団を再編し、強力な同盟網を構築し、そして経済基盤を固めていなければ、義重の代における華々しい活躍はあり得なかった。義重の武勇伝は、まさしく義昭が築いた土台の上に花開いたものであった。
第二に、彼の巧みな閨閥戦略が、彼の死後も長期にわたって佐竹氏に利益をもたらし続けたことである。その好例が、宇都宮広綱に嫁いだ娘・南呂院の存在である 14 。広綱の死後、宇都宮家が家督争いで揺れると、南呂院は幼い跡継ぎの後見役として実質的な当主となり、その卓越した政治手腕で家中の混乱を収拾し、北条氏の圧力から宇都宮家を守り抜いた 14 。これは、義昭の打った一手がいかに長期的かつ戦略的な視野に基づいていたかを示す証左と言えよう。
以下の表は、義昭の治世における主要な軍事・外交行動をまとめたものである。彼の行動がいかに多岐にわたり、かつ戦略的に連動していたかがわかる。
表1:佐竹義昭の主要な合戦と外交関係年表
年代 (西暦/和暦) |
主要な出来事(合戦/外交) |
関連勢力・人物 |
結果・意義 |
典拠 |
1545年 (天文14年) |
父・義篤の死により家督相続 |
佐竹義篤 |
佐竹氏第17代当主となる。内紛後の不安定な状況下での船出。 |
1 |
1546年 (天文15年) |
上杉憲政からの関東管領職譲渡の打診 |
上杉憲政 |
佐竹氏の家名への誇りからこれを拒絶。自家の独立性を重視。 |
1 |
1547年頃 |
江戸忠通との戦い |
江戸忠通、小田政治 |
小田氏と共同で勝利。常陸国内での影響力を示す。 |
1 |
1557年 (弘治3年) |
宇都宮氏の内紛に介入 |
宇都宮広綱、壬生綱雄 |
広綱の宇都宮城復帰を支援。後の同盟関係の布石。 |
1 |
1557年 (弘治3年) |
甲神社への奉加帳作成 |
家臣178名、和田昭為 |
部垂の乱後の家臣団再編と掌握を象徴する事業。 |
22 |
1558年 (永禄元年) |
岩城重隆の侵攻と和睦 |
岩城重隆 |
撃退後、正室が岩城氏出身であることを理由に有利な和睦を締結。 |
1 |
1560年 (永禄3年) |
白河・結城氏との戦い |
結城晴朝、白河晴綱 |
結城氏を破り、白河氏の寺山城を攻略。南陸奥への進出を果たす。 |
1 |
1562年 (永禄5年) |
隠居、義重へ家督委譲 |
佐竹義重 |
32歳で隠居するも、府中城から実権を握り続ける。 |
1 |
1562年 (永禄5年) |
上杉輝虎(謙信)と同盟 |
上杉謙信 |
対北条氏を念頭に、小山城を共同で攻撃。 |
1 |
1563年 (永禄6年) |
那須氏との戦い |
那須資胤 |
勝利し、下野国への影響力をさらに強める。 |
1 |
1564年 (永禄7年) |
小田城の戦い |
小田氏治、上杉謙信、北条氏康 |
上杉・宇都宮と連合し、北条方と結んだ小田氏を破り小田城を奪取。 |
11 |
1564年 (永禄7年) |
大掾氏の掌握 |
大掾慶幹、大掾昌幹 |
継室との縁を利用し家督に介入、実弟を当主とし事実上傘下に収める。 |
11 |
1565年 (永禄8年) |
死去 |
- |
享年35。常陸統一を目前にして急逝。 |
1 |
佐竹義昭は、その死があまりにも早かったこと、そして息子・義重の武名があまりにも高かったことから、歴史上、過小評価されてきたきらいがある。彼はしばしば「常陸統一を目前に倒れた悲劇の武将」、あるいは「鬼義重の父」という枕詞で語られてきた。
しかし、本報告書で詳述したように、彼の20年間の治世は、決して「未完の序曲」ではなかった。それは、佐竹氏という一族が戦国の荒波を乗り越え、次代でさらなる飛躍を遂げるための確固たる基盤を築き上げるという、明確な目的意識に貫かれた「完成された戦略」の実行過程であった。
内紛後の混乱を、宗教的権威と政治的演出を駆使して収拾した内政手腕。金山経営に代表される、経済的基盤の確立。婚姻と同盟を縦横に駆使し、強大な後北条氏に対抗するための広域的な連合体を形成した外交戦略。そして、その盤石な基盤の上で着実に領土を拡大していった軍事行動。これら全てが、彼の卓越した能力を示している。
武力一辺倒ではない、多様な手段を組み合わせて権力を構築し、拡大していくその手法は、戦国時代中期における地域権力者がいかにして生き残り、発展していったかを示す、極めて優れた事例である。佐竹義昭の治世は、佐竹氏800年の歴史の中でも最も重要かつ劇的な転換期の一つであり、その功績は、息子・義重の武勇伝とは異なる次元で、今こそ高く評価されるべきであろう。彼こそは、まさしく常陸の覇者への礎を築いた、稀代の戦略家であった。