日本の戦国時代、下野国(現在の栃木県)にその勢力を張った名門・佐野氏。その歴史の中でも、佐野秀綱(さの ひでつな)という武将は、後代の佐野昌綱が上杉謙信の猛攻を幾度となく退けた華々しい活躍の陰に隠れ、その実像が十分に語られてきたとは言い難い。しかし、秀綱こそは、関東の政治秩序が根底から揺らぎ始めた戦国乱世の初期において、佐野氏がその後の激動を生き抜くための礎を築いた、極めて重要な「過渡期の領主」であった。
本報告書は、佐野氏第12代当主・佐野秀綱の生涯と功績について、既知の断片的な情報に留まらず、包括的かつ徹底的な調査に基づき、その歴史的評価を再構築することを目的とする。具体的には、第一部で秀綱の出自と彼が置かれた時代背景を、第二部で領主としての具体的な事績を、そして第三部で彼が直面した外交上の課題を多角的に分析する。系図の錯綜、領国経営の理念、居城の要塞化、そして激動する関東情勢の中での外交戦略といった側面から秀綱の実像に迫ることで、彼が単なる中継ぎの当主ではなく、次代の飛躍を準備した先見性のある統治者であったことを明らかにする。
佐野氏の権威と誇りの源泉は、遠く平安時代中期の武将・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に遡る。秀郷は「俵藤太(たわらのとうた)」の通称でも知られ、近江三上山の百足(むかで)退治伝説などで民衆に親しまれているが、その最大の功績は天慶3年(940年)に平将門の乱を平定したことにある 1 。この功により、秀郷は下野守に任じられ、その子孫は下野国に深く根を下ろすこととなった。
佐野氏は、この秀郷の末裔を称する藤姓足利氏の庶流であり、足利有綱の子・基綱が下野国安蘇郡佐野庄に土着し、地名を姓としたことに始まるとされる 3 。源姓足利氏とは系統を異にするこの藤姓足利氏の一族という出自は、佐野氏が単なる在地の一豪族(国人)ではなく、関東の高度な政治秩序の中に組み込まれた由緒ある家柄であることを示している 3 。この「秀郷流」という武門の名誉は、鎌倉時代を通じて御家人としての地位を維持し、室町時代に至るまで、佐野氏が関東における名族として存在感を示すための重要な基盤となった 5 。
室町時代後期、関東では鎌倉公方と関東管領の対立から享徳の乱(1454年〜)が勃発し、長い戦乱の時代に突入する。この動乱の中で佐野氏は、当初、古河に本拠を移した古河公方・足利成氏方に属していたが、戦況の変化に応じて幕府・上杉方へ転じるなど、複雑な情勢の中で巧みな立ち回りを強いられてきた 3 。秀綱が歴史の表舞台に登場する頃の佐野氏は、このような名門としての矜持と、激動の時代を生き抜くための現実的な判断力とを兼ね備えた一族だったのである。
佐野秀綱は、公式な系図上では佐野氏の第12代当主とされ、父は佐野盛綱、子は泰綱(やすつな)と記録されている 7 。通称は小太郎、官位は従五位下・越前守を称した 7 。その家督相続は、父・盛綱の死後、大永7年(1527年)頃と考えられている 7 。
しかし、秀綱の生涯、特にその後継者とされる泰綱との関係については、諸系図の間に深刻な矛盾が存在し、単純な父子相続であったとは断定しがたい状況にある。まず、秀綱自身の生没年にも複数の説が見られる。生年は文明4年(1472年)とされる一方 7 、没年には天文15年(1546年)8月13日説と天文17年(1548年)8月説が並立している 7 。また、享年についても57歳説と75歳説があり、生年自体にも揺らぎがあった可能性が示唆される 10 。
最大の謎は、子とされる泰綱との年齢関係である。泰綱の生年は、ある系図では長享2年(1488年)とされ 11 、また別の史料では1482年生まれで享年79歳であったとも記されている 10 。仮に秀綱が1472年生まれだとすると、泰綱は父であるはずの秀綱よりわずか16歳年下、あるいは10歳も年上ということになり、実の親子関係としては極めて不自然である。この矛盾は近世の編纂物においても認識されており、『佐野記』などを参照したある記録では「このあたりの系図にある年齢は滅茶苦茶で、ここ何代かの当主の続柄や生まれた年号は確定ができない」「重要な系図は紛失してしまって、残っていない」とまで指摘されている 10 。
【表1】佐野氏系図(秀綱周辺)の諸説比較
人物 |
史料・典拠 |
関係性 |
生年 |
没年 |
官位・通称 |
佐野秀綱 |
『田原族譜』 7 |
盛綱の子、泰綱の父 |
文明4年 (1472) |
天文15年 (1546) |
越前守、小太郎 |
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『系図纂要』 10 |
季綱の子、盛綱の弟? |
1490年? (享年57歳) |
1546年? |
左近将監、越前守 |
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複数史料 9 |
盛綱の子 |
(不明) |
天文17年 (1548) |
越前守 |
佐野泰綱 |
『田原族譜』 11 |
秀綱の嫡男 |
長享2年 (1488) |
永禄3年 (1560) |
修理亮、小太郎 |
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『佐野記』等 10 |
秀綱の嫡男? |
1482年? (享年79歳) |
1560年 |
修理亮、小太郎 |
|
『系図纂要』 10 |
(不明) |
(不明) |
(不明、42歳没と誤記) |
(不明) |
この系図の混乱は、単なる記録の誤りとして片付けられるべきではない。むしろ、戦国初期における国人領主層の家督継承が、血縁だけでなく一族内の力関係や政治的判断によって左右される、流動的なものであったことを示す貴重な証左と捉えるべきである。嫡流が途絶えたり、政治的理由から分家や他家から養子を迎えたりすることは、この時代の武家社会では常であった。泰綱は秀綱の実子ではなく、弟、あるいは有力な一族の者で、家督を継承するために養子となった可能性が極めて高い。その際に、家の正当性を対外的に示すために実の親子関係を装う形で系図が整理・改竄され、結果として後世に修復不可能な矛盾が生じたと考えられる。この混乱自体が、佐野氏の家督が必ずしも安泰ではなく、まさに「下剋上」前夜の国人領主が抱える典型的な内部事情を物語っているのである。
秀綱が家督を継いだ大永年間(1521年〜1528年)の関東は、旧来の権威が失墜し、新たな勢力が勃興する、まさに権力構造の転換期にあった。
第一に、関東の最高権威であった古河公方家が内紛によって著しくその力を削がれていた。秀綱の家督相続に先立つ永正の乱(1506年〜)では、古河公方・足利政氏とその子・高基が対立し、関東の諸将を二分する大規模な争乱となった 13 。佐野氏は、この乱において政氏方に与したとされ、その勝敗は自家の存立に直結する問題であった 13 。この内紛は古河公方の権威を失墜させ、関東の政治的中心が不在となる状況を招いた。
第二に、古河公方を補佐する関東管領を世襲してきた上杉氏もまた、山内上杉氏と扇谷上杉氏に分裂して長年にわたる抗争を繰り広げ、その勢力は衰退の一途をたどっていた 14 。両上杉氏の争いは関東の国人たちを巻き込み、地域社会の疲弊を招いた。
そして第三に、これらの旧勢力の衰退に乗じて、伊勢宗瑞(北条早雲)を祖とする後北条氏が伊豆・相模から急速に勢力を拡大していた 16 。その子・氏綱の代には武蔵国へと進出し、大永4年(1524年)には扇谷上杉氏の拠点である江戸城を攻略するに至る 17 。後北条氏は、旧来の公方-管領体制という秩序の外から現れた新興勢力であり、関東の国人領主たちにとって最大の脅威となりつつあった 12 。
このような状況下で家督を継いだ佐野秀綱は、権威の拠り所であった古河公方が弱体化し、伝統的な同盟相手である上杉氏も頼りにならず、一方で新興の後北条氏が領国に迫るという、極めて困難な情勢の中で、佐野氏の存続を賭けた舵取りを迫られていたのである。
佐野秀綱の生涯と、彼が生きた時代の関東における主要な出来事を把握するため、以下に年表をまとめる。
西暦 |
和暦 |
佐野秀綱の動向および佐野氏関連の出来事 |
関東および周辺の主要な出来事 |
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1472 |
文明4 |
佐野秀綱、生誕 (『田原族譜』説) 7 。 |
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1488 |
長享2 |
佐野泰綱、生誕(『田原族譜』説) 11 。 |
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1506 |
永正3 |
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古河公方家で内紛(永正の乱)が勃発 13 。 |
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1509 |
永正6 |
佐野泰綱、連歌師・宗長を唐沢山麓の館に招き、連歌会を催す 8 。 |
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1521 |
大永元 |
岩崎氏の退去に伴い、清水城が秀綱の居城の一つとなる 20 。 |
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1524 |
大永4 |
佐野泰綱、扇谷上杉朝興の要請に応じ、後北条氏綱との戦いのため出陣 10 。 |
後北条氏綱が江戸城を攻略 17 。 |
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1527 |
大永7 |
父・盛綱が死去。 秀綱が家督を相続 (推定) 7 。 |
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大永年間 |
1521-1528 |
唐沢山城の大規模な修築・拡大に着手 7 。 |
『秀綱家訓』を制定 (推定) 8 。 |
天命村に観音寺を建立 7 。 |
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1546 |
天文15 |
佐野秀綱、死去 (8月13日、『田原族譜』説) 7 。 |
河越夜戦。後北条氏が上杉連合軍に大勝し、関東の覇権を確立 22 。 |
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1548 |
天文17 |
佐野秀綱、死去(8月、『下野国誌』説) 7 。 |
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1560 |
永禄3 |
佐野泰綱、死去。豊綱の子・昌綱が家督を継ぐ 11 。 |
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佐野秀綱の最大の功績として、後世にまで語り継がれているのが、居城である唐沢山城の大規模な修築と拡大である 7 。この事業は、単なる城の改修に留まらず、佐野氏の軍事思想と統治体制の転換を示す画期的なものであった。
唐沢山城の築城については、伝承では藤原秀郷によるとされるが 25 、近年の考古学調査や文献史学の研究では、関東で享徳の乱が始まった15世紀半ば、秀綱の父・盛綱の代から本格的な築城が始まったとする説が有力視されている 6 。秀綱の代に行われた改修は、これをさらに推し進め、城を戦国時代の過酷な攻城戦に耐えうる巨大要塞へと変貌させるものであった。この背景には、前述した関東の動乱の激化、特に後北条氏という新たな軍事的脅威の出現があったことは間違いない。
『唐沢山城跡調査報告書』などの考古学的成果によれば、唐沢山城は標高242メートルの山全体を要塞化した広大な縄張りを誇る 25 。自然の急峻な地形を巧みに利用しつつ、本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪(くるわ)に加え、食い違い虎口(こぐち)、枡形(ますがた)、堀切(ほりきり)、土塁(どるい)といった防御施設が随所に設けられていた 28 。特に、城の石垣には、周辺の葛生コンプレックスと呼ばれる地層から産出する硬質なチャート(角岩)が多用されており、これは築城における合理的な資材選択と高い技術水準を示している 30 。
秀綱による改修は、山上の防御施設だけでなく、山麓の根小屋(ねごや)地区の整備にも及んだと考えられる。根小屋は城主や重臣たちの平時の居館が置かれる政治・経済の中心地であり、同時に城の防衛線を構成する重要な区域であった 29 。秀綱は、一族や家臣団をこの根小屋や領内の要所に配置することで、領国支配の強化と防衛体制の確立を一体的に進めたのである 10 。
この唐沢山城の要塞化は、佐野氏の戦略思想における大きな転換点を意味する。それまでの佐野氏の拠点は、平地に築かれた清水城のような館が中心であった可能性が考古学的に指摘されている 20 。平城が領国経営には便利な一方、防御能力に限界があるのに対し、籠城戦を前提とした巨大山城の整備は、外部勢力の権威に依存するのではなく、自らの軍事力で領国を防衛するという強い意志の表れであった。これは、室町的な秩序が崩壊し、自力救済が原則となる戦国時代への移行を象Cする行動であり、秀綱による唐沢山城の要塞化は、佐野氏が旧来の権威に頼る名門国人から、自立した軍事力を持つ戦国領主へと脱皮を図る、物理的な「独立宣言」に他ならなかった。そして、この秀綱の先見性こそが、半世紀後に佐野昌綱が上杉謙信による10度にも及ぶと言われる猛攻を凌ぎきる、最大の要因となったのである 32 。
佐野秀綱は、武将としての側面だけでなく、一族と領国を統べる統治者としての明確な理念を持っていた。その思想を最も雄弁に物語るのが、彼が子・泰綱、あるいは一族に向けて発したとされる『秀綱家訓』である 8 。この家訓は、戦国初期の国人領主が、いかにして一族を結束させ、乱世を乗り切ろうとしたかを示す貴重な史料である。
【表3】『秀綱家訓』十二箇条の概要と解釈
条文の要約 |
解釈と目的 |
1. 母のいうことをよく聞け。 |
家中の序列、特に当主の母(大方)の権威を尊重させ、婚姻関係を通じて結ばれた一族全体の結束を維持する。 |
2. 一生懸命に奉公せよ。 |
当主への絶対的な忠誠を求め、家臣団の奉公意識を徹底させる。 |
3. 無駄な寄合をするな。 |
家臣団内での派閥形成や徒党を組むことを禁じ、当主への権力集中を図る。 |
4. 衣服は贅沢にするな。 |
質素倹約を奨励し、戦時財政に備える。武士としての本分から逸脱した華美な生活を戒める。 |
5. (未読一条あり) |
(内容不明) |
6. 裁判や処罰は厳重にしろ。 |
領内の法秩序を厳格に維持し、当主の裁定権の絶対性を示す。 |
7. 無駄な浪費をするな。 |
財政基盤の安定化を目的とし、個人的な浪費を厳しく禁じる。 |
8. 馬は肥やして、自分はやせるほど働け。 |
武士の最も重要な任務である軍事力の維持を最優先する価値観を示す。馬の手入れを怠らず、常に戦に備えることを命じる。 |
9. 狂言(冗談)にも偽りをいってはならない。 |
武士としての信義を重んじ、言行一致を求める。 |
10. 持具足(武具)は質素を心掛けよ。 |
華美な装飾よりも実用性を重んじ、武具の本質的な役割を忘れないように戒める。 |
11. 他人と簡単に寄合うな。 |
第3条と同様、当主に無断での私的な同盟や交際を禁じ、情報漏洩や謀反の芽を摘む。 |
12. 不平・不満は、申し立ててはならない。 |
当主の決定に対する絶対服従を要求し、家中の異論を封じる。 |
出典: 8 に基づき作成。
この家訓全体を貫いているのは、質実剛健の奨励、当主への権力集中、そして一族の団結という三つの柱である。特に、家臣の自立的な動きを厳しく制限する条項が目立つことは、当時の佐野氏の統治体制がまだ脆弱であり、国人領主たちの連合体としての性格を色濃く残していたことを示唆している 34 。秀綱は、彼らを完全に支配するだけの絶対的な権力機構をまだ持たず、こうした「訓戒」という形で統制を図らざるを得なかったのである。この家訓は、秀綱が戦国大名としての集権的支配を目指しつつも、その権力基盤がまだ国人たちの連合に依存しているという、過渡期特有のジレンマを映し出している。それは、強力な支配機構を確立する途上にあった領主が取り得る、現実的な統治手段であったと言えよう。
佐野秀綱の人物像は、武辺一辺倒ではなく、信仰心や文化への理解も持ち合わせていたことがうかがえる。その代表的な事例が、大永年間(1521年〜1528年)に天命村(現在の佐野市天明町)に観音寺を建立したという記録である 7 。この寺院建立は、秀綱個人の信仰心の表れであると同時に、領主として領内の宗教的中心を掌握し、民心を安定させようとする統治政策の一環であったと考えられる。
秀綱自身が文化活動を行った直接的な記録は乏しいものの、佐野氏全体が文化的な営みを重視する家風を持っていたことは、後継者である泰綱の逸話から明らかである。泰綱は永正6年(1509年)、当時関東を旅していた当代一流の連歌師・宗長を唐沢山麓の館に招き、連歌会を催している 8 。この時、秀綱の父・盛綱も同席しており、佐野氏が中央の文化人と積極的に交流し、その先進的な文化を享受していたことがわかる。秀綱もまた、この家風を受け継ぎ、武家としての嗜みとしての文化活動に理解を示していたと推測される。
さらに、佐野の地が誇る伝統工芸である天明鋳物との関わりも見逃せない。天明鋳物の起源は平安時代に遡り、藤原秀郷の命で武具を鋳造したのが始まりと伝えられている 25 。戦国時代においても、武具や仏具の需要は極めて高く、秀綱も領内の重要な産業として、これらの鋳物師(いもじ)集団を保護・育成していた可能性が高い。唐沢山城の防備固めや観音寺の建立といった事業は、天明鋳物師たちの技術力に支えられていたとも考えられ、秀綱の統治が地域の文化や産業と密接に結びついていたことを示唆している。
秀綱が家督を継いだ大永年間、佐野氏の外交戦略の基本は、旧来の権威である古河公方に仕えつつ 9 、新興勢力である後北条氏の脅威に対抗することにあった。その具体的な行動が、扇谷上杉氏との連携である。
決定的かつ唯一の史料として残るのが、大永4年(1524年)の佐野氏の軍事行動である。この年、後北条氏綱は扇谷上杉朝興の居城である江戸城を攻略し、朝興は武蔵国の川越城への撤退を余儀なくされた 17 。この危機に際し、朝興は関東の諸将に救援を要請。これに応じたのが、佐野氏であった。佐野泰綱(当時はまだ家督相続前だが、一族の有力者として軍事行動を主導)は、同年5月6日、軍勢を率いて本拠の佐野から渡良瀬川北岸の嶋田(現在の足利市)まで出陣したことが記録されている 10 。
この出陣は、当時の佐野氏が明確に反北条・親上杉の立場を取っていたことを示している。佐野氏は、同じく扇谷上杉方に与していた上野国の新田金山城主・横瀬氏(後の由良氏)とも密に連絡を取り合っており、北関東における反北条連合の一翼を担う、重要な存在であった 10 。
この外交的選択は、当時の関東の国人領主が取り得た、合理的かつ伝統的な戦略であったと言える。佐野氏のような旧来の名門国人にとって、出自の定かでない後北条氏の急激な台頭は、自らの既得権益と伝統的秩序を脅かすものであった。そこで、同じく後北条氏に圧迫されていた扇谷上杉氏と手を結び、旧勢力同士の連携によって新興勢力を封じ込めようと図ったのである。これは単なる場当たり的な同盟ではなく、関東の旧秩序を維持しようとする、秀綱の明確な外交方針の表れであった。
秀綱が主導した旧勢力連携による後北条氏の封じ込め戦略は、ある歴史的事件によって根本から覆されることになる。天文15年(1546年)に勃発した河越夜戦である。この戦いで、後北条氏康は、山内上杉憲政・扇谷上杉朝定、そして古河公方・足利晴氏からなる8万の大連合軍を、わずか8千の兵で奇襲し、壊滅させた 22 。この戦いで佐野氏の同盟相手であった扇谷上杉氏は当主・朝定が討死して事実上滅亡、山内上杉憲政も上野国から越後国への逃亡を余儀なくされ、関東における後北条氏の覇権が決定的なものとなった 23 。
ここで注目すべきは、この関東の勢力図を塗り替えた歴史的な戦いと、佐野秀綱の死の時期が密接に関連していることである。秀綱の没年として伝わる天文15年(1546年)は、まさに河越夜戦の年と一致する 7 。この符合は単なる偶然とは考え難い。確たる史料はないものの、いくつかの可能性が想定される。一つは、秀綱自身が連合軍の一員として河越に出陣し、戦死、あるいはその時の戦傷が元で死亡したという可能性。もう一つは、自らが主導した外交戦略が完全に破綻したことで家中での求心力を失い、失意のうちに病死したか、あるいは親北条派による失脚や暗殺といった政変に巻き込まれた可能性である。
いずれにせよ、秀綱の死と河越夜戦の衝撃的な結果は、佐野氏に対北条政策の根本的な転換を迫るものであった。秀綱の死は、佐野氏がよって立っていた古河公方と両上杉氏が主導する旧来の政治的世界の終焉を意味していた。後継者である泰綱、そしてその子の昌綱の代には、関東の新たな覇者となった後北条氏と、越後から関東に進出する上杉謙信という二大勢力の狭間で、従属と離反を繰り返す、より複雑で現実的な外交を展開していくことになるのである 24 。佐野秀綱の死は、関東の戦国史において一つの時代が終わり、新たな時代が始まったことを告げる、象徴的な出来事であった。
佐野秀綱は、その子・昌綱や孫・宗綱のように、上杉謙信や後北条氏といった戦国時代の巨星と直接渡り合った華々しい武功伝承には乏しい。しかし、彼の治世こそが、佐野氏がその後の激しい戦国乱世を生き抜き、関東有数の国人領主としての地位を保ち続けるための、決定的かつ不可欠な基盤を築いた時代であったと評価できる。
秀綱の功績は、内政と軍事の両面にわたる。内政面では、『秀綱家訓』を通じて、ともすれば分裂しがちな国人領主連合体としての性格を残す一族・家臣団に対し、当主への忠誠と団結、そして質実剛健の精神を説き、集権的な支配体制への移行を試みた。これは、佐野氏をより強固な意思決定能力を持つ戦闘集団へと変貌させるための、重要な布石であった。
軍事面では、唐沢山城を「関東一の山城」と称されるほどの難攻不落の要塞へと大改修した。この先見性に富んだ投資は、佐野氏の存立を保証する最大の物理的資産となった。彼が築いた堅固な城郭なくして、次代の昌綱が上杉謙信の度重なる攻撃を防ぎきることは不可能であったろう。
秀綱は、室町時代以来の旧秩序が崩壊しつつあることを敏感に察知し、来るべき「自力救済」の時代に備えた領主であった。彼の政策は、内政(家訓による人心の結束)と軍事(築城による物理的防衛)の両輪から、次世代のために堅固な礎を築くという明確な意図に基づいていた。
結論として、佐野秀綱は、旧時代の価値観の中で育ちながらも、新時代の到来を予見し、その荒波に備えて着実に準備を進めた、先見性と実行力を兼ね備えた「過渡期の優れた領主」として、歴史上高く評価されるべきである。彼の地道かつ着実な努力と投資がなければ、戦国期における佐野氏の活躍と存続は語れない。秀綱の生涯は、乱世を生きる領主の真の力量が、華々しい戦功のみならず、未来を見据えた堅実な国づくりにあることを我々に教えてくれる。