本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、南奥州(現在の福島県中通り地方)を舞台に活躍した武将、保土原行藤(ほどはら ぎょうとう/ゆきふじ)の生涯を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とします。行藤は、須賀川二階堂氏の一門筆頭という重臣の立場にありながら、主家が伊達政宗によって滅ぼされる際、政宗に内応し、その後の伊達家臣団において重要な地位を占めた人物として知られています 1 。
彼の生涯は、しばしば主家を裏切った「内応者」という側面から語られがちです。しかし、その決断の背景には、滅亡の危機に瀕した主家の内部対立、そして急速に勢力を拡大する伊達政宗という存在を前にした、当時の武将としての冷徹な政治判断がありました。本報告書では、単にその内応の事実を追うだけでなく、彼の出自、二階堂家臣としての武功、伊達家臣として発揮した武勇と文化的素養、そして彼が後世に遺したものを包括的に検証します。これにより、「裏切り者」という一面的な評価を超え、激動の時代を智勇と風雅をもって生き抜いた、一人の武将の実像を浮き彫りにしていきます。
なお、行藤の名は史料によって「ゆきふじ」あるいは「ぎょうとう」という二通りの読みが伝えられていますが 1 、本報告書ではより一般的に用いられる呼称の一つである「ぎょうとう」を主として採用し、彼が出家後に名乗った号である「江南斎(こうなんさい)」も適宜併記することとします。
年代(西暦) |
主な出来事 |
関連資料 |
天文7年(1538年) |
誕生。父は保土原行有(兵部大輔) |
1 |
永禄3年(1560年) |
二階堂氏の援軍として白河結城氏との戦いで武功を挙げる |
3 |
天正9年(1581年) |
主君・二階堂盛義が死去。未亡人の大乗院が城主となり、家中の路線対立が深刻化する |
3 |
天正17年(1589年) |
伊達政宗の須賀川攻めに際し、政宗に内応。須賀川城攻めの先陣を務める。主家・須賀川二階堂氏が滅亡 |
1 |
天正17年(1589年)以降 |
矢田野義正が籠る大里城攻めなど、伊達家の武将として各地を転戦する |
3 |
文禄・慶長の役(1592年-1598年) |
伊達軍の一員として朝鮮に出兵 |
3 |
大坂の陣(1614年-1615年) |
大坂冬の陣・夏の陣に従軍し、功を挙げる |
3 |
時期不詳 |
伊達家において「準一家」の家格を与えられ、329石の知行を得る |
3 |
元和6年1月7日(1620年2月10日) |
83歳で死去 |
1 |
保土原行藤の生涯を理解するためには、まず彼が仕えた主家である須賀川二階堂氏と、その中で保土原一族が占めていた特異な地位について深く知る必要があります。
二階堂氏は、その祖を藤原南家工藤氏の流れに汲む名門です 8 。鎌倉時代には、源頼朝に仕え、幕府の行政・財政を司る最重要機関である政所の長官(執事)を代々務めるなど、中央政権の中枢で活躍した官僚一族でした 11 。この鎌倉幕府における高い家格は、後年、彼らが南奥州の地で勢力を築く上での大きな権威の源泉となりました。
彼らが須賀川の地に根を下ろすのは、15世紀半ばのことです。室町時代、文安元年(1444年)頃、一族の二階堂為氏が鎌倉から須賀川に下向し、当時この地を治めていた同族の代官・二階堂治部大輔を討伐して須賀川城を掌握しました 8 。この出来事を契機に、二階堂氏は鎌倉の中央官僚から、奥州の地に領地を持つ戦国大名へとその性格を大きく変えていくことになります。
戦国時代に入ると、須賀川二階堂氏は、西の蘆名氏、南の佐竹氏、そして北の伊達氏といった周辺の強大な勢力と、時には同盟を結び、時には激しく争いながら、現在の福島県中通り地方に確固たる勢力圏を築き上げました 8 。
保土原氏は、この須賀川二階堂氏から分かれた庶流一族です。後世に編纂された『二階堂浜尾系図』などの系譜資料によれば、須賀川二階堂氏の祖とされる二階堂盛藤の次男・藤顕が、陸奥国岩瀬郡保土原(現在の福島県須賀川市保土原)の地を与えられ、その地名を自らの姓としたのが始まりであると伝えられています 3 。一族の本貫地は須賀川市南西部に位置する保土原地区であり、同地には現在も一族の居館跡とみられる遺構が残されています 15 。
ただし、注意すべき点として、始祖とされる二階堂盛藤という人物は、同時代の一次史料ではその存在が確認できず、あくまで後世の系図上に見られる人物であるという指摘もあります 15 。これは、戦国大名が自らの家の権威を高めるために系譜を整えていく過程で、創作された部分が含まれている可能性を示唆しており、史料を批判的に検討する視点が求められます。
しかし、その出自の正確性はさておき、保土原氏が二階堂家中で極めて高い地位にあったことは間違いありません。彼らは単なる家臣ではなく、主君の近親者によって構成される「一門」と呼ばれる特別な家臣集団に属していました。さらにその中でも「一門筆頭」と称される、まさに庶流のトップというべき立場にあったのです 14 。
この事実は、保土原行藤という人物を理解する上で決定的に重要です。彼が単なる一介の家臣ではなく、主家の血を引き、その政策決定に大きな影響力を持つ「一門筆頭」であったからこそ、後の二階堂家中の路線対立は、単なる家臣団の意見の相違にとどまらない、統治機構そのものを揺るがす深刻な内部亀裂へと発展しました。そして、彼の「内応」という決断は、末端の家臣の離反とは全く次元の異なる、一門を代表しての重大な政治的行動として捉える必要があるのです。
保土原行藤は、名門の出自に安住するだけの人物ではありませんでした。二階堂家臣として、武勇に優れ、また政治の渦中では自らの信念を貫く、気骨ある武将としての一面を見せています。
行藤が歴史の表舞台にその名を現すのは、永禄三年(1560年)のことです。この年、主家である二階堂氏は、隣接する白河結城氏と激しく対立していました。二階堂方の家臣・須田盛秀の調略によって白河方から寝返った武将を討伐するため、結城晴綱が軍勢を派遣した際、行藤は二階堂方の援軍として出陣しました 3 。
この戦いにおいて、行藤は目覚ましい活躍を見せます。彼は結城軍を散々に打ち破り、敵の先陣を務めた白石刑部大輔を討ち死にさせ、大将であった新小萱篤綱にも重傷を負わせて撤退に追い込むという大功を挙げたのです 3 。この戦功は、行藤が単に家柄の良い貴公子ではなく、実戦を指揮する能力に長けた有能な武将であることを家中に強く印象付けました。この時に得た武名と信頼が、後年、彼が親伊達派の領袖として家中で一定の求心力を持ち得た基盤の一つとなったことは想像に難くありません。
行藤が壮年期を迎えた頃、主家である須賀川二階堂氏は、その屋台骨を揺るがす大きな危機に見舞われます。天正九年(1581年)、当主であった二階堂盛義が死去。さらに、その跡を継いだ次男の行親も、天正十年(1582年)あるいは天正十三年(1585年)にわずか10代で早世してしまったのです 3 。
相次ぐ当主の死により、二階堂氏は強力なリーダーシップを失いました。この非常事態を受け、須賀川城主の座には盛義の未亡人であり、伊達政宗の伯母にあたる大乗院(阿南の方)が就き、家老の須田盛秀が城代として実質的に政務を代行する体制へと移行しました 3 。
しかし、この新たな統治体制は、家中に深刻な亀裂を生じさせることになります。当時の南奥州では、伊達政宗が急速に勢力を拡大しており、二階堂氏の外交方針は大きな岐路に立たされていました。この状況下で、家中は二つの派閥に分裂します。一つは、城代の須田盛秀を中心とし、長年の同盟関係にあった南の佐竹氏との連携を強化して伊達氏に対抗しようとする「親佐竹派」。もう一つが、保土原行藤を領袖とし、もはや伊達氏の勢いは止められないと判断し、伊達氏と和睦することで家の存続を図るべきだと主張する「親伊達派」でした 3 。
行藤の親伊達路線は、単なる個人的な考えや縁故に基づくものではなく、地政学的な現実を直視した、極めて合理的な政治判断であった可能性が高いと考えられます。二階堂氏の領地である岩瀬郡は、西から圧力を強める伊達氏と、南から支援する佐竹氏の勢力圏が衝突する最前線でした。特に行藤が率いたとされる「岩瀬西部衆」は、地理的に伊達領と接しており、その軍事的脅威を最も直接的に感じていた集団でした 11 。彼らにとって、遠方の佐竹氏との同盟という「過去の資産」に固執する須田盛秀ら主流派の方針は、現実離れして見えたことでしょう。
天正十七年(1589年)、伊達政宗が会津の蘆名氏を「摺上原の戦い」で滅ぼすと 11 、二階堂氏は軍事的に完全に孤立します。この絶望的な状況下で、行藤の選択は、主家と共に滅びるという「忠義」よりも、一族と領民を生き残らせるという「現実」を優先する、戦国時代の領主としての冷徹な、しかし必然的な決断へと向かっていったのです。
勢力 |
分類 |
主要人物 |
立場・動機 |
攻城側 |
伊達軍 |
伊達政宗 |
南奥州の完全統一を目指し、抵抗を続ける二階堂氏の攻略を図る。 |
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伊達成実、片倉景綱など |
政宗を支える重臣として、須賀川城攻略に従軍。 |
籠城側 |
主流派(親佐竹派) |
大乗院(阿南の方) |
城主。伊達政宗の伯母だが、夫・盛義の遺志を継ぎ、伊達への従属を断固拒否。 |
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須田盛秀 |
城代。二階堂家の実権を掌握し、佐竹氏との同盟を基軸に伊達氏への徹底抗戦を主張。 |
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岩瀬東部衆、河東衆など |
須田盛秀に従い、城の守りを固める。 |
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内応派(親伊達派) |
保土原行藤(江南斎) |
一門筆頭。伊達氏との実力差を認識し、和睦による家の存続を主張。政宗の調略に応じ内応。 |
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守谷俊重 |
二階堂四天王の一人。行藤と同様に政宗に内応し、城内の長禄寺に放火したとされる。 |
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岩瀬西部衆 |
行藤に従い、伊達方に寝返る。 |
援軍 |
佐竹・岩城連合軍 |
佐竹義宣、岩城常隆など |
二階堂氏の同盟勢力として援軍を派遣するも、伊達軍の勢いを止められず。 |
天正十七年(1589年)、保土原行藤は、自らの一族と主家の運命を左右する、生涯で最も重大な決断を下します。
会津の蘆名氏を滅ぼし、南奥州の覇権をほぼ手中に収めた伊達政宗にとって、最後まで抵抗を続ける須賀川二階堂氏は、まさに目の上の瘤でした。政宗は、武力で城を攻め落とす前に、巧みな調略を用いて内部からの切り崩しを図ります。その最大の標的とされたのが、親伊達派の領袖であり、一門筆頭という高い地位を持つ保土原行藤でした 19 。
政宗の戦略は、単なる軍事侵攻にとどまりませんでした。彼はまず、最大のライバルであった蘆名氏を排除し、須賀川城を完全に孤立させました。その上で、城内の深刻な路線対立を利用し、無用な兵力の損耗を避けるという、極めて合理的な手段を選んだのです。行藤という「一門筆頭」を味方に引き入れることは、単に籠城側の兵力を削ぐだけでなく、攻撃の正当性を一部確保し、城兵の士気を根底から覆すという、絶大な心理的効果をもたらしました。
主家滅亡がもはや不可避であると判断した行藤は、政宗からの誘いに応じ、内応を決意します。これは、主君への忠義を重んじる武士の倫理と、一族の存続という領主としての責務との間で、後者を選び取った苦渋の、そして現実的な決断でした。
天正十七年十月二十六日(西暦1589年12月3日)、伊達政宗率いる大軍が須賀川城に総攻撃を開始しました 6 。この戦いの経過は、『伊達治家記録』や、二階堂氏の興亡を描いた軍記物『藤葉栄衰記』などに記されています 11 。
この時、保土原行藤は、伊達軍の先鋒という異例の役割を担っていました 1 。須賀川城攻防図によれば、彼は政宗の本陣すぐ側に布陣しており、城の弱点や内部事情を政宗に伝えるなど、軍事顧問的な役割も果たしたと推測されます 12 。行藤の内応は、同じく内応した重臣・守谷俊重による城内への放火を誘発したとも言われ、城の守りを内部から崩壊させる決定的な要因となりました。堅固を誇った須賀川城も、内外からの攻撃には耐えきれず、激戦の末にその日のうちに落城。これにより、鎌倉時代から続いた名門・須賀川二階堂氏は、歴史の舞台から姿を消したのです。
行藤のこの行動は、後世、様々な評価を受けることになります。主家を滅亡に導いた「裏切り者」という厳しい評価がある一方で、時代の大きな流れを冷静に読み、自らの一族を滅亡の淵から救った「現実主義者」という評価も可能です。彼の決断は、伊達政宗の南奥州統一戦略における「最後のピース」を埋める、極めて重要な一幕でした。行藤の内応がなければ、須賀川城の攻略はさらに多くの血を流す、より困難な戦いとなっていたことは間違いありません。彼の行動は、個人の忠義を超えた、戦国時代という時代の論理が生んだ必然の帰結であったとも言えるでしょう。
主家を失った保土原行藤の後半生は、新たな主君・伊達政宗の下で、その武勇と文化的才能を遺憾なく発揮する舞台となりました。
行藤は、内応の功により名誉職を与えられただけの隠居の身ではありませんでした。須賀川城落城後も、伊達家の有能な武将として第一線で活躍し続けます。彼はすぐさま、須賀川近郊で抵抗を続けていた矢田野義正が籠る大里城攻めに参加 1 。その後、豊臣秀吉の天下統一事業の一環であった文禄・慶長の役(朝鮮出兵)、そして徳川の世を決定づけた大坂の陣(冬・夏)にも、伊達軍の一員として従軍し、数々の功績を挙げています 3 。これらの戦歴は、彼が伊達家中において、実戦部隊を率いる指揮官として高く評価され、信頼され続けていたことを明確に示しています。
行藤が伊達家で得た地位は、その功績にふさわしい、極めて高いものでした。彼は、仙台藩の厳格な家格制度において、「準一家」という特別な待遇に列せられています 1 。
仙台藩の家臣団は、藩主の一族である「一門」を頂点に、譜代の重臣である「一家」、そして行藤が列せられた「準一家」、さらにその下に「一族」「宿老」と続く、明確なピラミッド構造を成していました 24 。このうち「準一家」は、葛西氏や葦名氏といった旧戦国大名の後裔や、行藤のように主家の没落に伴い伊達家に臣従した有力な武将に与えられる家格であり、その待遇は「一家」に準ずるものでした 23 。これは、行藤の内応という功績と、彼が元々二階堂氏の一門筆頭であったという出自がいかに高く評価されたかを示す、何よりの証拠です。
彼に与えられた知行は329石でした 3 。石高の絶対額だけを見れば、数千石、数万石の大身とは言えませんが、仙台藩の家格制度の中で「準一家」という名誉ある地位と合わせて考えれば、これは破格の待遇であったと評価できます。
家格 |
定義・特徴 |
主な家(例) |
保土原家 の位置づけ |
一門 |
藩主・伊達家の分家や親族。藩政の最高位に位置する。 |
亘理伊達家、水沢伊達家など |
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一家 |
譜代の家臣の中でも特に功績のあった家。一門に次ぐ家格。 |
片倉家、石母田家、大条家など |
- |
準一家 |
旧大名家や、他家から臣従した有力武将の家。一家に準ずる待遇。 |
葛西家、葦名家、 保土原家 など |
行藤の内応の功績と出自が高く評価され、この家格に列せられた。 |
一族 |
伊達家譜代の有力家臣。 |
茂庭家、遠藤家、大内家など |
- |
宿老 |
藩政の実務を担う重臣。 |
- |
- |
行藤が政宗から深く敬われた理由は、その武功だけではありませんでした。彼は和歌や茶道に深く通じた、当代一流の文化人でもあり、「江南斎(こうなんさい)」と号して風雅の道を探求していました 1 。
この文化的素養は、新たな主君である伊達政宗との関係を築く上で、極めて重要な役割を果たしました。政宗自身もまた、和歌や能、茶の湯をこよなく愛する文化人であり、家臣にも武勇だけでなく高い教養を求めるルネサンス的な君主でした 28 。行藤の「風雅数寄」の才能は、まさに政宗の求める家臣像と合致しており、二人の間では和歌を詠んで贈り合ったり、書状のやり取りが盛んに行われたりしたと伝えられています 1 。
戦国時代において、茶の湯や和歌といった教養は、単なる個人の趣味や慰めではありませんでした。それは、主君との人間的な信頼関係を深め、家臣団の中での発言力を高め、自らの政治的地位を安定させるための、洗練されたコミュニケーションツールでもあったのです 29 。行藤と政宗の関係は、単なる主従という枠を超え、文化的な共感を基盤とした、ある種の「パートナーシップ」に近いものであったと推察されます。行藤は、「内応者」という出自がもたらすであろう潜在的なハンディキャップを、その卓越した文化的スキルによって見事に克服し、新たな主君の下で誰からも認められる確固たる地位を築き上げたのです。これは、戦国後期から江戸初期にかけての武将の、新たな生き残りモデルを示す好例と言えるでしょう。
83年の生涯を閉じた後も、保土原行藤の名は、彼ゆかりの地や、彼が存続させた一族の歴史の中に生き続けています。
行藤の居館と伝えられる場所は、現在の須賀川市内に二箇所存在します。
一つは、須賀川城の城下、現在の須賀川市立博物館が建つ丘陵地にあったとされる「保土原館」です 12 。ここは須賀川城の防衛施設の一環として、重臣である行藤に与えられた武家屋敷であったと考えられます 14 。須賀川城攻防戦の際には、政宗に内応した行藤がこの館を拠点とした可能性も指摘されています。現在、館跡には遺構はほとんど残っていませんが、博物館の脇に石碑が建てられ、往時を偲ばせています 17 。
もう一つは、行藤ら保土原一族の本貫地である、須賀川市保土原地区にあったとされる館です 15 。こちらは一族の私的な本拠地としての性格が強かったと考えられ、現在も館跡とみられる地形や堀跡の一部が確認できます 15 。
また、この保土原地区には、曹洞宗の寺院である茂林院(もりんいん)が現存します 33 。この寺院は保土原氏の菩提寺であった可能性が研究者によって指摘されており 15 、行藤とその一族の信仰の拠り所であったと考えられます。行藤自身の墓所の所在は明確ではありませんが、この茂林院は彼の一族の歴史を今に伝える重要な場所と言えるでしょう。
保土原行藤の最大の功績は、自らの一族、すなわち「家」を存続させたことにあると言えます。彼の決断により、保土原家は主家と運命を共にすることなく、新たな時代を生き延びました。
行藤の跡は、子である保土原重行が継ぎ 3 、保土原家は仙台藩士として幕末まで存続しました 1 。その系譜は、仙台藩が編纂した公式の家臣録である『仙台藩家臣録』や『伊達世臣家譜』といった史料の中に、準一家の家格を持つ家として明確に記録されています 7 。これらの史料によれば、保土原家は志田郡新沼村(現在の宮城県大崎市周辺)に在郷屋敷を与えられ、329石の知行を代々受け継いでいきました 7 。
この事実は、行藤が天正十七年(1589年)に下した決断が、結果として、戦国武将の最大の責務の一つである「家の存続」という目的を完全に達成したことを物語っています。最後まで主家に忠義を尽くした須田盛秀ら多くの二階堂家臣が、落城後に離散し、あるいは他家に身を寄せて苦難の道を歩んだのとは対照的です 8 。行藤の「裏切り」は、倫理的には議論の余地があるかもしれませんが、一族を仙台藩という新たな、より強大な枠組みの中で繁栄させるという形で、戦略的な成功を収めたのです。
本報告書を通じて、保土原行藤の生涯を多角的に検証してきました。その結果、彼を単に主家を裏切った「内応者」という一面的なレッテルで評価することは、歴史の複雑な実像を見誤ることに繋がると結論付けられます。
保土原行藤は、まず、激動の時代を生き抜くために、自らが置かれた地政学的な状況を冷静に分析し、極めて合理的かつ現実的な政治判断を下すことのできた、有能な地方領主でした。彼の親伊達路線への転換は、個人的な野心からというよりも、伊達氏の圧倒的な軍事力を前にして、主家と共に玉砕する道を選ぶか、あるいは新たな秩序の中で一族の存続を図るかという、究極の選択に対する彼なりの回答でした。その決断は、結果として彼の「家」を存続させ、子孫を仙台藩の名誉ある地位へと導きました。
さらに、行藤は単なる武人や策略家ではありませんでした。彼は、確かな武功を立てる一方で、和歌や茶道といった高度な文化的素養を身につけ、それを新たな主君である伊達政宗との間に強固な信頼関係を築くための重要な手段として活用しました。その姿は、武勇と教養の双方を重んじる、織田・豊臣政権下で理想とされた「文武両道」の武将像を、東北の地で体現した人物であったと言えます。
保土原行藤の生涯は、忠義、現実主義、そして文化の力が複雑に絡み合いながら、一個人の、そして一族の運命を形作っていった、戦国時代から江戸時代初期への転換期を象徴する、極めて示唆に富んだ事例です。彼の生き様は、乱世における武士の多様な価値観と生存戦略を理解する上で、今後も重要な研究対象であり続けるでしょう。