日本の戦国時代史を彩る数多の武将の中で、保科正直(ほしな まさなお)の名は、武田信玄や上杉謙信、織田信長といった天下に名を轟かせた英雄たちの影に隠れがちである。彼の生涯には、合戦における華々しい武勇伝や、奇抜な逸話は少ない。しかし、彼の真価は、戦国乱世の終焉から徳川幕藩体制の確立へと至る、日本史の巨大な転換点を巧みに生き抜き、一族を近世大名へと飛躍させたその卓越した「生存戦略」にある。信濃の国衆という、常に大国の狭間で存亡の危機に立たされる立場から出発し、主家の滅亡、権力の真空地帯での流転という幾多の苦難を乗り越え、ついには徳川家康の譜代大名としての地位を確立した彼の生涯は、地方勢力がいかにして新たな時代に適応し、その血脈を未来へと繋いだかを示す、極めて示唆に富んだ事例である 1 。
本報告書は、これまで断片的に語られることの多かった保科正直に関する史料や記録を統合し、多角的に分析することを目的とする。武田家臣としての出自から、主家滅亡後の苦闘、そして徳川家臣としての栄達に至る彼の生涯を、当時の政治情勢を背景に時系列で丹念に再構築する。さらに、彼の下した重大な決断の裏にある葛藤、家族との関係、そして彼が築いた基盤が、後の会津松平家初代藩主・保科正之の登場にいかに決定的な役割を果たしたかを論じることで、単なる一武将に留まらない、保科正直という人物の歴史的実像とその重要性に深く迫るものである。
保科氏は、信濃国伊那郡高遠(現在の長野県伊那市高遠町)を拠点とした国衆であった 1 。その源流は信濃国高井郡保科(現在の長野市若穂保科)に遡るとされ、戦国時代には高遠を本拠とする高遠氏の家臣であった 1 。しかし、正直の父である保科正俊(まさとし)の代に、甲斐の武田信玄による信濃侵攻が本格化すると、その情勢は大きく変化する。当初は武田氏に抵抗していたものの、天文21年(1552年)頃に降伏し、武田家の直臣となった 5 。
父・正俊は、単なる地方の武将ではなかった。彼は特に槍術に秀でており、その武勇は「逃げ弾正」の高坂昌信、「攻め弾正」の真田幸隆と並び、「槍弾正(やりだんじょう)」と称されるほどであった 5 。武田氏の信濃先方衆として120騎を率い、下伊那や北信濃への侵攻作戦で活躍した正俊の武名は、保科家が武田家臣団の中で確かな地位を築く礎となった 5 。正直は、この「槍弾正」と謳われた猛将の子として、武門の誉れを背負って生を受けたのである。
さらに、保科家は武田家臣団の中枢とも繋がりを構築していた。武田家の譜代家老であり、上野箕輪城代を務めた内藤昌秀に実子がいなかったため、正直の実弟である千次郎がその養子となり、後に内藤昌月(まさあき)と名乗った 1 。これにより、保科家は単なる外様の国衆ではなく、譜代家老家とも姻戚関係を持つ有力な一族として、その存在感を高めていた。
この時代の保科家の立場を考察すると、父・正俊の世代が武田信玄という傑出した指導者の下で勢力を拡大する「攻め」の時代に武功を立てて家の地位を築いたのに対し、息子の正直は全く異なる局面からその武将としてのキャリアをスタートさせることになる。父が築いた武名と家格という遺産を継承しつつも、彼が直面したのは、武田家の栄光が翳りを見せ始める、困難な時代であった。
保科正直が歴史の表舞台に確かな足跡を残し始めるのは、武田家の勢いに陰りが見え始めた武田勝頼の時代である。彼の史料上の初見は、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に歴史的な大敗を喫した直後のことである。同年8月10日付で、勝頼は父・正俊に対し伊那郡の防衛に関する指示を下しており、この中で正直は父と共に大島城の守備を命じられている 1 。これは、武田家の領国が西から脅かされる中で、正直が国境防衛の第一線という重要な役割を担っていたことを示している。父の世代が武田の先鋒として領土を切り拓いたのとは対照的に、正直のキャリアは、衰退する主家を支える「守り」の戦いから始まったのである。
そして天正10年(1582年)2月、織田信長は満を持して甲州征伐を開始する。織田信忠を総大将とする織田・徳川連合軍の圧倒的な兵力が信濃に侵攻すると、飯田城を守備していた正直は、その攻勢の前に城を支えきれず、坂西織部亮らと共に高遠城へと逃亡した 1 。
高遠城では、城主である織田信長の五男・仁科盛信と共に籠城するが、その運命は絶望的であった。小笠原信嶺を通じて降伏を申し入れたものの、織田軍の総攻撃が開始されたために交渉は間に合わず、落城を前に城を退去したと記録されている(『信長公記』『甲乱記』) 1 。主家への忠義を尽くそうとする一方で、現実的な生き残りの道を探る、極限状況下での苦悩がうかがえる。この時の、忠義と現実の間で揺れ動いた経験は、後の彼の冷静かつ現実的な判断力を形成する上で、大きな影響を与えたと考えられる。
高遠城を脱出した正直は、上野箕輪城にいる弟・内藤昌月を頼って落ち延びた 1 。そして同年3月、主君・武田勝頼が天目山で自害し、名門・武田氏は滅亡する。これにより、正直は仕えるべき主君を失い、彼の人生は「武田家臣」から、激動の世を自らの力で渡り歩かねばならない「浪人」へと、大きく転落することになったのである。
武田家の滅亡は、信濃・甲斐・上野に巨大な権力の真空地帯を生み出した。主君を失った正直は、弟・昌月と共に、織田信長から関東管領として旧武田領の統治を任された滝川一益に服属する 1 。この際、一益が本能寺の変後に伊勢へ帰還しようとする際には、忠誠の証として嫡男の正光(まさみつ)を人質として差し出している 1 。家臣の機転により正光は無事に戻ったと伝わるが、この逸話は、当時の正直の立場の脆弱さと、一族を存続させるための必死の努力を物語っている。
しかし、天正10年(1582年)6月の本能寺の変は、再び状況を一変させる。織田信長が横死し、滝川一益が神流川の戦いで後北条氏に敗れて関東から撤退すると、正直は次なる庇護者として後北条氏に帰属した 1 。この時、彼は正室であった跡部勝忠の娘を人質として小田原に送っている 1 。武田、滝川、そして北条へと、短期間のうちに主君を変えざるを得なかった彼の行動は、当時の信濃国衆が、周辺の大勢力の間でいかに翻弄され、生き残りのために綱渡りを強いられていたかを示す好例である。
北条氏の配下に入った正直は、弟・昌月と共に北条軍の別働隊として行動し、かつての拠点であった高遠城を奪還することに成功する 1 。これにより、彼は北条氏の力を借りる形で、一時的にせよ自らの本拠地を取り戻した。
本能寺の変後の混乱は、甲斐・信濃の旧武田領を巡る、徳川家康、後北条氏直、越後の上杉景勝による三つ巴の争奪戦、すなわち「天正壬午の乱」を引き起こした。当初、正直は高遠城主として北条方に与し、この大乱に参加していた 9 。
しかし、戦局は徳川優位に進む。天正10年(1582年)8月12日、甲斐における黒駒合戦で徳川軍が北条軍に勝利すると、正直は時勢の趨勢を冷静に見極め、重大な決断を下す。依田信蕃(よだのぶしげ)や木曾義昌といった他の信濃国衆と同様に、北条方から離反し、徳川家康の下へと転じたのである 1 。
この決断は、単なる日和見主義的な寝返りではなかった。それは、一族の未来を賭けた、そして極めて大きな犠牲を伴う苦渋の選択であった。正直の転身に激怒した北条氏直は、報復として、小田原に人質として送られていた彼の正室・跡部氏を処刑するという凶行に及んだ 1 。妻の命というあまりにも大きな代償は、彼の決断が、個人的な情や過去の義理を超えて、何よりも「保科家」という共同体の存続と将来性を最優先した結果であったことを痛切に物語っている。
この一連の行動は、戦国時代における「忠義」の概念を考える上で非常に重要である。特定の主君への不変の奉仕という観点から見れば、彼の行動は裏切りと映るかもしれない。しかし、自らの一族を存続させ、発展させることを第一の責務とする当時の武家の当主として、彼の選択は最も合理的かつ現実的なものであった。そして、徳川家康もまた、これを単なる裏切りとは見なさなかった。むしろ、大きな犠牲を払ってまで自らの将来を徳川に託した「忠誠の表明」と受け止め、正直を高く評価することになる。彼の行動原理は、近世的な主君への絶対的忠誠ではなく、一族の存続を至上命題とする、戦国武将としての「家への忠義」に根差していたのである。
徳川家康は、妻を犠牲にしてまで帰属してきた正直の覚悟を認め、その忠誠に応えた。天正10年(1582年)10月24日付で、家康は正直に伊那半郡の領有を正式に認める朱印状を与えた 1 。これにより、彼の地位は確固たるものとなり、保科家は滅亡の淵から再生への道を歩み始めた。
家康という強力な後ろ盾を得た正直は、直ちに自らの地盤固めに着手する。まず高遠城内に残留していた親北条勢力を駆逐して城内を完全に掌握。次いで同年11月には、依然として後北条方であった同郡の箕輪城主・藤沢頼親を攻めて自刃に追い込み、その所領を併合した 1 。これにより、正直は高遠城を中心とする上伊那郡一帯の支配権を確立した。
さらに彼の活動は上伊那に留まらなかった。11月から翌天正11年(1583年)1月にかけて、諏訪頼忠と共に、未だ北条方であった筑摩郡(現在の松本市周辺)の小笠原貞慶を攻撃。これには徳川軍の鳥居元忠や井伊直政も加勢し、最終的に貞慶を徳川方に帰属させることに成功した 1 。この一連の軍事行動は、正直が単に家康の庇護下に入っただけでなく、信濃における徳川勢力の拡大に能動的に貢献する、信頼に足る将であったことを示している。
天正壬午の乱を乗り越え、徳川家臣として確かな地位を得た正直の人生は、天正12年(1584年)に大きな転機を迎える。この年、彼は徳川家康の異父妹であり、久松俊勝の娘である多劫姫(たけひめ)を後妻として迎えたのである 1 。この婚姻により、正直は単なる家臣から家康の義弟という準一門の特別な立場となり、徳川家中に揺るぎない足場を築くことに成功した。
この関係強化を象徴するように、正直は家康の本拠地である三河国山崎(現在の愛知県安城市)に知行地と居館を与えられた 12 。現在、その跡地は正法寺となっており、周囲より一段高い地形に往時の面影を留めている 15 。これは、彼が信濃の国衆という地域的な存在に留まらず、家康の股肱の臣として、その本拠地防衛の一翼を担う存在と見なされたことを意味する。
徳川家の重臣となった正直は、その後も各地の戦いに従軍し、武功を重ねていく。同年8月に小牧・長久手の戦いが勃発すると、豊臣秀吉方に寝返った木曾義昌を討伐するため、木曽谷へと派遣された。この戦い自体は妻籠城の山村良勝の抵抗にあって敗退を喫したが、正直は殿(しんがり)の重責を果たし、味方の撤退を成功させている 1 。
翌天正13年(1585年)、徳川から離反した真田昌幸を討伐する第一次上田合戦では、鳥居元忠、大久保忠世ら徳川の主力を構成する一員として出陣した 17 。徳川軍はこの戦いで真田昌幸の巧みな戦術の前に苦杯を嘗めることになるが、正直が徳川軍の中核として動員されていた事実は、彼への信頼の厚さを物語っている。
この上田合戦の最中、信濃では保科家の武勇を象徴する出来事が起こった。「鉾持除(ほこもちよけ)の戦い」である。正直が高遠城を留守にしている隙を突き、かねてより対立していた松本の小笠原貞慶が約5000の兵を率いて侵攻してきた 19 。高遠城の留守部隊は約100名という寡兵であり、絶体絶命の危機であった。しかし、この時、城に隠居していた正直の父、御年78歳の保科正俊が自ら指揮を執った。正俊は付近の農民300人を動員すると、険しい鉾持桟道に差し掛かった小笠原軍を奇策で迎撃。山の上から大岩や大木を落として敵を分断・混乱させ、そこへ鉄砲を撃ち込むという戦術で、50倍近い兵力差を覆して大勝を収めたのである 5 。この知らせを聞いた家康は、老将・正俊の戦功を大いに称え、その武勇の証として、正直に名刀「包永」を贈ったと伝えられている 22 。
この逸話は、非常に象徴的である。老将・正俊が戦国時代的な個人の武勇と奇策で局地的な勝利を収める一方で、息子の正直は、徳川という巨大な軍事・政治機構の一員として、大大名間の組織的な合戦に参加している。これは、保科家が徳川体制に組み込まれる中で、求められる役割が旧来の「武」から、主君の戦略を遂行する「政」を含む、より近代的な武将のそれへと変化していく過程を物語っている。正直は、この時代の変化に見事に適応した人物であった。
正直の役割は、軍事面に留まらなかった。天正17年(1589年)、天下人となった豊臣秀吉が京都に方広寺大仏殿を造営するにあたり、家康の命を受けて富士山での材木伐採という大規模な土木事業の奉行を務めている 23 。これは、彼が軍事指揮官としてだけでなく、行政官としても高い能力を持つと評価されていた証左である。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げである小田原征伐に参加 17 。戦後、家康が江戸を中心とする関東に移封されると、正直もこれに従い、下総国多胡(現在の千葉県多古町)に一万石の所領を与えられ、ついに大名に列した 2 。信濃の国衆から始まった彼の人生は、ここに近世大名としての地位を確立するという、一つの到達点を迎えた。
彼の忠勤はその後も続く。天正19年(1591年)には、奥州で発生した九戸政実の乱の鎮圧にも従軍しており 23 、豊臣政権下における徳川軍の主要な一員として、日本の再統一事業に最後まで貢献したのである。
保科正直の生涯を語る上で、その家族と、彼が築いた広範な姻戚関係は欠かすことができない。彼の人生には二人の正室がいた。
一人目は、武田家臣・跡部勝忠の娘である 1 。彼女は、正直が北条氏から徳川氏へ転じるという政治的決断の渦中で、人質として非業の死を遂げた悲劇の女性であった 1 。彼女との間には、保科家の家督を継ぐことになる嫡男・正光が生まれている 2 。
二人目の妻が、徳川家康の異父妹である多劫姫である。彼女との婚姻は、保科家を徳川一門に連なる特別な家へと押し上げた。正直と多劫姫の間には多くの子女が生まれ、彼らは保科家の安泰と発展に極めて重要な役割を果たしていくことになる 4 。
正直は、多劫姫との間に生まれた子供たちを通じて、巧みな婚姻政策を展開した。それは、保科家の地位を盤石にするための、長期的な戦略であった。
三男の保科正貞は、後に別家を立てて上総飯野藩一万七千石の藩主となり、保科家の血脈を拡大させた 2 。四男の北条氏重は、叔父にあたる北条氏規の養子となり、下総岩富藩主を継いだ 4 。
特に重要なのは、娘たちの嫁ぎ先である。長女の栄姫(大涼院)は、伯父である家康の養女という形で、関ヶ原の戦いで大功を立てた福岡藩初代藩主・黒田長政の継室となった 4 。三女の貞松院も同様に家康の養女として、但馬出石藩主・小出吉英に嫁いだ 4 。これらの婚姻により、保科家は徳川家との血縁を背景に、九州や山陰の有力な外様大名とも強い繋がりを持つことになり、その政治的ネットワークを全国規模に広げたのである。
以下の表は、正直を中心とした保科家の主要な系譜と姻戚関係をまとめたものである。これを見れば、彼がいかに戦略的に血縁の網を張り巡らせ、一族の安全保障を確立していったかが一目瞭然となる。
【表1】保科正直の系譜と主要な姻戚関係
関係 |
氏名 |
続柄・備考 |
父 |
保科正俊 |
通称「槍弾正」。武田家臣 5 。 |
弟 |
内藤昌月 |
武田家臣・内藤昌秀の養子 1 。 |
本人 |
保科正直 |
官位:弾正忠、越前守 4 。 |
正室 |
跡部勝忠の娘 |
北条氏の人質となり、処刑される 1 。 |
継室 |
多劫姫 |
徳川家康の異父妹。久松俊勝の娘 4 。 |
嫡男(正室の子) |
保科正光 |
初代高遠藩主。保科正之の養父。妻は真田昌幸の娘 2 。 |
次男(側室の子) |
保科正重 |
4 。 |
三男(継室の子) |
保科正貞 |
上総飯野藩の祖 2 。 |
四男(継室の子) |
北条氏重 |
叔父・北条氏規の養子となり、下総岩富藩主 4 。 |
長女(継室の子) |
栄姫(大涼院) |
徳川家康の養女として、福岡藩主・黒田長政の継室となる 4 。 |
次女(継室の子) |
娘 |
安部信盛の室となる 4 。 |
三女(継室の子) |
貞松院 |
徳川家康の養女として、出石藩主・小出吉英の正室となる 4 。 |
四女(継室の子) |
娘 |
加藤明成の室となる 4 。 |
保科正直が後世に残した最大の遺産は、領地や家格そのものよりも、彼の息子・正光が成し遂げた、ある歴史的偉業への道筋をつけたことにある。
正直の跡を継いだ嫡男・正光は、父の築いた基盤の上で、さらに徳川家の信頼を深めていった。関ヶ原の戦いでは浜松城の守備を務め、その功績により、戦後、保科家にとって因縁の地である信濃高遠に二万五千石で復帰し、高遠藩の初代藩主となった 2 。彼は清廉実直な人柄で知られ、二代将軍・徳川秀忠や幕府の老中たちからも厚い信頼を寄せられていた 7 。
この絶対的な信頼があったからこそ、正光は幕府の最重要機密に関わる任務を託される。それは、将軍秀忠が侍女・お静に産ませた庶子、すなわち御落胤であり、後の三代将軍・家光の異母弟にあたる幸松丸(こうまつまる)の養育であった 2 。この幸松丸こそ、後に江戸時代屈指の名君と称えられ、会津松平家の祖となる保科正之である。
この歴史的連鎖をたどると、保科正直の生涯が持つ真の重要性が浮かび上がってくる。
第一に、正直が武田家滅亡という存亡の危機を乗り越え、徳川家への帰属という正しい選択をしたこと。
第二に、徳川家臣として忠勤に励み、家康の義弟となることで、一族の地位を盤石にしたこと。
第三に、その息子・正光が、父が築いた信頼と地位をさらに高め、将軍家から「御落胤を安心して預けられる、信頼篤き家」と見なされるに至ったこと。
この二代にわたる地道な努力と信頼の積み重ねがなければ、保科家が将軍家の血筋を預かるという破格の栄誉を得ることは決してなかったであろう。保科正直の生涯は、彼自身が意図したかどうかにかかわらず、結果として、江戸幕府の安定に巨大な貢献を果たす名君・保科正之を世に送り出すための、全ての土台を準備したと言えるのである。1582年の、妻の死を伴うあの苦渋の決断がなければ、1650年代の徳川幕府の政治は、全く異なる様相を呈していたかもしれない。彼の行動の波紋は、彼自身の生涯を遥かに超え、日本の歴史にまで及んでいたのである。
下総多胡の大名となった正直は、まもなく家督を嫡男の正光に譲り、隠居の身となった 17 。彼は関東の地には留まらず、自らの原点である信濃高遠へと戻った 34 。そして慶長6年(1601年)9月29日、かつて父・正俊が武勇を示し、自らも徳川家臣としての第一歩を記した高遠城にて、60年の波乱に満ちた生涯を閉じた 23 。
彼の亡骸は、高遠にある臨済宗の寺院・建福寺に葬られた。この寺は武田家や保科家の菩提寺であり、正直の墓は、父・正俊から受け継いだ家督をさらに発展させた息子・正光の墓と並んで、今も静かに佇んでいる 35 。後に会津藩主となった保科正之の子孫たちは、この高遠の墓所を始祖の地として尊崇し、元禄3年(1690年)には会津藩三代藩主・松平正容(まさかた)によって墓石が再建された 35 。これは、正直が後世の会津松平家から、その繁栄の礎を築いた偉大な先祖として敬われていたことを明確に示している。
保科正直の人物像を総括すると、彼は父・正俊のような、戦場で名を馳せるタイプの武将ではなかった。しかし、彼は激動の時代を生き抜くために不可欠な、より重要な資質を備えていた。それは、常に大局を見据え、感情や旧来の義理に流されることなく、一族の存続と発展という当主としての最大の責務を果たすための、冷静な判断力と政治的嗅覚である。時には妻の命という非情な代償を払う決断を下しながらも、彼はその責務を全うした、優れた現実主義者であり、卓越した戦略家であった。
歴史的に見れば、保科正直は戦国時代から江戸時代への移行期を象徴する人物の一人と言える。彼の生涯は、地方の国衆が、大国の動向を読み、血縁と忠誠を巧みに利用して中央政権に組み込まれ、近世大名として生き残っていくための処世術の、まさに縮図である。そして何よりも、彼が築き上げた信頼と家格という礎なくして、名君・保科正之の登場と、その後の会津松平家の繁栄はあり得なかった。その意味において、保科正直は、江戸幕府の安定に間接的ながらも極めて重大な貢献をした「創業者」として、歴史の中で改めて高く評価されるべき武将である。