本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した島津氏の家臣、入来院重時(いりきいん しげとき)という武将に焦点を当て、その出自、生涯、そして関ヶ原合戦における役割と最期について、現存する史料に基づき詳細に明らかにすることを目的とする。入来院重時に関しては、島津家臣であり、実父は島津以久、入来院重豊の養子となり島津義弘に属して活躍し、関ヶ原合戦後、撤退する義弘とはぐれて東軍に捕縛され討ち取られた、という概要が知られている。本報告書では、これらの基本的な情報に加え、重時が属した入来院氏の歴史的背景、島津宗家との複雑な関係、朝鮮出兵や庄内の乱といった具体的な事績、関ヶ原での詳細な動向、さらにはその死後の祭祀や墓所についても深く掘り下げていく。これにより、一人の武将の生涯を通じて、彼が生きた時代の社会構造や武家間の力学を浮き彫りにすることを目指す。
入来院重時の生涯を理解するためには、まず彼が属した入来院氏の歴史と、島津氏との関係性を把握する必要がある。
入来院氏は、その祖先を辿ると相模国(現在の神奈川県)の御家人であった渋谷氏に行き着く。鎌倉時代中期の当主であった渋谷光重は、宝治元年(1247年)に起こった宝治合戦(三浦氏の乱)における戦功により、恩賞として薩摩国(現在の鹿児島県西部)の北薩地方に広大な所領と地頭職を得た 1 。光重は長男・重直に相模国の本領を継がせ、二郎以下の五人の子らを薩摩へ下向させ、それぞれの所領を支配させた。このうち、光重の五男であった渋谷定心(さだむね、じょうしん)が薩摩国入来院(現在の鹿児島県薩摩川内市入来町一帯)を相続し、入来院氏を称したのがその始まりである 2 。
鎌倉時代から戦国時代にかけて、入来院氏は北薩摩における有力な国人領主として勢力を保持した。その過程で、薩摩の守護であり、次第に戦国大名として台頭する島津氏とは、時に激しく対立し、また時には協力・従属するという複雑な関係を繰り返した 2 。特に注目すべきは、入来院氏第11代当主・入来院重聡(しげさと)の娘が、島津氏中興の祖とされる島津貴久の正室となり、後に島津氏の版図を大きく広げる島津義久、義弘、歳久、家久(龍伯の弟)という四兄弟を産んだという事実である 2 。この婚姻関係は、入来院氏と島津宗家が単なる主従関係を超えた、極めて深い血縁で結ばれていたことを示しており、後の両者の関係性を理解する上で非常に重要な要素となる。
入来院氏の歴史を物語る上で欠かせないのが、「入来院文書」と呼ばれる古文書群である。これは入来院氏に代々相伝されてきたもので、鎌倉時代から続く在地領主の動向や所領支配の実態を知る上で極めて貴重な一次史料とされている。これらの文書は、早くにエール大学教授であった朝河貫一博士によって英訳・紹介され、日欧の封建制比較研究の素材として国際的にも高い評価を得た 5 。この事実は、入来院氏そのものが日本の地方史、さらには封建社会研究において重要な位置を占めていることを示している。
入来院氏は元々関東出身の渋谷氏という外部勢力でありながら、薩摩の地に根を下ろし、島津氏という強大な勢力と渡り合いながら、時には婚姻を通じてその中枢とも深く結びつくことで、独自の地位を築き上げた。このような歴史的背景は、後に入来院氏の当主となる重時の立場や行動を理解する上で不可欠な前提となる。
入来院重時の直接的な出自に目を向けると、彼の血筋は島津氏の有力な一門に連なる。重時の実父は島津以久(もちひさ)である。以久は、島津氏中興の祖・島津日新斎忠良の子である島津忠将(ただまさ)の嫡男として天文19年(1550年)に生まれた 8 。若くして父を合戦で失ったが、永禄8年(1565年)には大隅国帖佐郷(現在の鹿児島県姶良市)を与えられ、さらに大隅国の要衝である清水城(現在の鹿児島県霧島市)を襲封するなど、島津一門の武将として活躍した 8 。豊臣秀吉による九州平定後、天正19年(1591年)には種子島、屋久島、口永良部島を領することとなり種子島へ移った。そして、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、慶長8年(1603年)には、同合戦で戦死した島津豊久の旧領であった日向国佐土原(現在の宮崎県宮崎市佐土原町)3万石を与えられ、佐土原藩島津家の初代藩主となった人物である 9 。
一方、重時の養父となったのは、入来院氏の第14代当主であった入来院重豊(しげとよ)である。重豊には嗣子がいなかったため、島津以久の次男であった重時(幼名は伝わっていないが、後に又六、鎌三郎と称した)を養嗣子として迎え、入来院家の家督を継がせることとした 2 。
この養子縁組は、単に重豊に実子がいなかったという個人的な事情に留まらず、より大きな戦略的意味合いを含んでいたと考えられる。戦国時代において、有力な国人領主の家督継承に、宗家やその一門の有力者の子弟が養子として入ることは、両家の関係を強化し、勢力基盤を安定させ、さらには宗家側の実質的な影響力を拡大するための常套手段であった。入来院氏は、前述の通り島津宗家と深い血縁関係を持ちつつも、歴史的には一定の独立性を有してきた有力な在地領主である。島津氏本宗家、あるいは以久のような島津一門の有力者が、その子弟を養子として送り込むことで、入来院氏に対する影響力を確保し、より強固な主従関係、ひいては支配体制を構築しようとする意図があったと推察される。重時の実父が島津氏の血筋を引く以久であったことは、この養子縁組の正当性を高め、入来院家中の納得を得やすい要素でもあっただろう。
入来院重時の家族構成についても触れておきたい。重時の妻は、島津義久・義弘の弟であり、豊臣秀吉への徹底抗戦を主張し自害に追い込まれた島津歳久の娘であった。彼女は「湯之尾」と称され、初めは島津一門の島津忠隣(ただちか)に嫁いでいたが、忠隣が朝鮮出兵中に戦死したため、その後、重時と再婚したと記録されている 10 。この婚姻は、重時が島津宗家の主要な一翼を担う歳久家とも縁戚関係を結んだことを意味し、島津一門内における彼の立場をさらに強化するものであった。
しかし、重時には男子が生まれず、女子のみがいたとされている 10 。そのため、重時の死後、入来院氏の家督は、島津氏の庶流である薩州家(さっしゅうけ)の島津義虎(よしとら)の五男で、重時の娘婿となった人物が継ぐことになった。この人物が入来院重高(しげたか)である 10 。
重時の婚姻、そして彼の死後の家督継承のあり方は、入来院氏が島津氏の広範な一門ネットワークの中に深く組み込まれていく過程を象徴している。特に、後継者も島津氏の血を引く者から選ばれることで、入来院氏は島津氏の支配体制下でその家名を存続させていく道筋が確立されたと言える。これは、戦国時代の終焉から江戸時代初期にかけて、島津氏が領内支配を強化していく過程における、有力国人領主の処遇の一つの典型例を示すものと考えられる。
表1:入来院重時 主要関係者
関係 |
氏名 |
生没年(判明分) |
備考(出自、重時との関わりなど) |
典拠 |
実父 |
島津以久 |
天文19年(1550年)~慶長15年(1610年) |
島津忠将の子。佐土原藩島津家初代。 |
9 |
養父 |
入来院重豊 |
不明 |
入来院氏14代当主。重時に子がなく養嗣子とする。 |
2 |
妻 |
湯之尾 |
不明 |
島津歳久の娘。初め島津忠隣室、後に重時と再婚。 |
10 |
子 |
女子 |
不明 |
重時には男子なく、娘が入来院重高に嫁ぐ。 |
10 |
養子(婿養子・後継者) |
入来院重高 |
天正7年(1579年)~正保4年(1647年) |
島津義虎の五男。重時の娘婿となり入来院氏16代当主を継ぐ。 |
10 |
入来院重時は、天正元年(1573年)に島津以久の次男として生まれた 10 。入来院家の養子となった彼は、島津氏の家臣として、戦国末期から関ヶ原の戦いに至る激動の時代を駆け抜けた。
重時は、通称を又六、後に鎌三郎と称し、官位は弾正少弼(だんじょうしょうひつ)を名乗ったとされる 10 。彼の初陣がいつであったかは明確ではないが、天正15年(1587年)、豊臣秀吉が島津氏の九州統一を阻止すべく行った九州平定の際には、当時まだ15歳前後であったにもかかわらず、最後まで秀吉に抵抗した島津歳久や新納忠元(にいろ ただもと)らと共に、島津方として奮戦した記録が残っている 10 。この九州平定は島津氏にとって存亡の危機であり、若年の重時がこの重要な局面で、歳久や新納忠元といった島津家の重鎮たちと行動を共にしていたことは、彼の武門の人間としての気概、あるいは入来院家としての立場を示すものであったかもしれない。
重時の主君は、公式には当時の島津家当主であった島津義久とされている 10 。しかしながら、実際の軍事行動においては、義久の弟であり、数々の戦で勇名を馳せた島津義弘に従うことが多かったことが、後の慶長の役や関ヶ原合戦の記述からうかがえる。これは、当時の島津家において、義久が当主として政務全般を統括しつつも、軍事面では義弘がその実力を発揮し、多くの戦いを指揮していたという役割分担を反映していると考えられる。重時もまた、義弘麾下の有能な武将の一人として、そのキャリアを積んでいったのであろう。
豊臣秀吉による天下統一後、その矛先は海外に向けられ、文禄元年(1592年)から文禄・慶長の役(朝鮮出兵)が始まった。この戦役において、重時の動向は時期によって異なる。文禄の役(第一次朝鮮出兵、1592年~1593年)の際には、重時は日本国内に残留していた 10 。しかし、慶長の役(第二次朝鮮出兵、1597年~1598年)が始まると、島津義弘に従って朝鮮へ渡海した 10 。
慶長の役における重時の具体的な戦功を記した直接的な史料は見当たらないものの、彼が従軍した島津義弘は、この戦役において泗川(しせん)の戦いをはじめとする数々の戦闘で目覚ましい武功を挙げ、その名を内外に轟かせている 12 。重時もまた、これらの激戦に参加し、義弘の指揮下で戦った可能性が高い。ちなみに、後に重時の娘婿となり入来院家を継ぐことになる入来院重高(当時は島津姓を名乗っていた)も、慶長の役に従軍し、南原城(なんげんじょう、ナムォンソン)攻めや泗川の戦いで軍功を上げている 11 。
文禄の役では国内に留まり、慶長の役で渡海したという経緯の違いには、島津家内の兵力配分や、重時自身の立場(年齢や経験、あるいは養父重豊の状況など)の変化が影響していた可能性が考えられる。いずれにせよ、慶長の役への従軍は、重時にとって大規模な外征を経験する貴重な機会となり、武将としての知見や実戦経験を深める上で大きな意味を持ったであろう。島津義弘という当代屈指の勇将の下での戦いは、彼の武人としての評価を高め、後の関ヶ原の戦いにおける行動にも何らかの影響を与えた可能性がある。また、この時期の経験は、島津家中の他の武将たちとの人的な繋がりを形成する上でも重要であったと推察される。
朝鮮からの撤兵後、島津家内では大きな内紛が発生する。慶長4年(1599年)、島津氏の筆頭家老であった伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)が島津忠恒(後の初代薩摩藩主・島津家久)によって誅殺されたことをきっかけに、忠棟の子・伊集院忠真(ただざね)が日向国庄内(現在の宮崎県都城市)で反乱を起こした。これが「庄内の乱」である。
この内乱において、入来院重時は島津宗家方に属して行動した 10 。しかし、その一方で、反乱を起こした伊集院忠真方に、重時の家臣が加わっていたという複雑な事態が発生した 10 。これは、当時の主従関係の流動性や、国人領主としての家臣団掌握の難しさを反映している可能性があり、重時の家中統制や宗家に対する立場を危うくしかねない問題であった。
この件に関して、事態の収拾と徳川家康への釈明のために上京した島津忠恒に、重時も同行したと記録されている 10 。この時期、忠恒は島津家の家督継承者としての地位を固めつつあり、対外的にも重要な役割を担い始めていた。家康への釈明という極めて重要な任務に重時が同行したことは、彼が忠恒から一定の信頼を得ていたか、あるいは入来院家という家の立場上、その釈明の場に居合わせることが必要と判断されたことを示唆している。
庄内の乱における重時の動向は、彼が単なる一武将としてだけでなく、島津家内の複雑な政治状況や、中央政権との対外交渉にも関与する立場にあったことを示している。家臣の離反問題という困難に直面しながらも、主君である忠恒に随行して家康への釈明に赴いた経験は、彼にとって中央政権の動向を肌で感じる機会となり、その後の時勢認識にも影響を与えたかもしれない。
慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いとされる関ヶ原合戦が勃発する。入来院重時は、この歴史的な戦いに島津義弘の配下として参陣し、その短い生涯を閉じることとなる。
重時は、島津義弘が率いる部隊の一員として関ヶ原の戦場に赴いた 10 。島津軍は、石田三成を中心とする西軍に属して戦うことになった。しかし、その経緯は複雑であった。義弘は当初、徳川家康率いる東軍に味方する意向も持っていたとされるが、伏見城(京都府京都市伏見区)への入城を拒否されるなど、東軍方との連携がうまくいかなかった結果、やむなく西軍に与したという背景がある 14 。
さらに、国元である薩摩からの増援も思うように得られず、義弘が関ヶ原に率いることができた兵力は、一説には1500から3000程度と、他の大名に比べて少数であった 14 。加えて、西軍の首脳部との間で作戦上の意見の対立もあったとされ、島津軍は9月15日の合戦当日、戦闘序盤においては積極的な動きを見せず、戦場の西端に布陣したまま戦況を傍観していたと言われている 14 。
重時が従軍した島津義弘隊は、このように関ヶ原の戦局全体から見れば特異な立場に置かれていた。西軍の主要構成部隊の一つでありながら、戦闘への関与は限定的であり、戦局が西軍の総崩れという形で急速に不利に傾いた段階で、歴史に名高い壮絶な撤退戦を敢行することになる。重時もまた、この困難な状況下で主君・義弘と運命を共にすることになるのである。
慶長5年9月15日午後、関ヶ原の戦いは西軍の敗北が決定的となった。この絶望的な状況下で、島津義弘隊は敵である東軍の大軍の真っ只中を正面突破し、伊勢街道方面へ脱出するという、前代未聞の壮絶な撤退戦を敢行した。これが世に名高い「島津の退き口(島津の退口、しまづののきくち)」である 14 。
この決死の撤退戦において、島津軍は「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる戦法を用いた。これは、部隊の一部がその場に留まって死を覚悟で追撃軍と戦い、本隊が少しでも遠くへ逃げるための時間を稼ぐという、極めて壮絶な戦術であった。この捨て奸によって、義弘の甥である島津豊久や、家老の長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)をはじめとする多くの将兵が犠牲となり、義弘本隊の脱出を助けた 18 。
入来院重時も、この撤退戦の混乱の中で奮戦していたが、残念ながら島津義弘が率いる本隊とはぐれてしまったと伝えられている 10 。島津軍の撤退ルートは、関ヶ原から伊勢街道を南下し、やがて美濃・近江国境の鈴鹿山系に分け入り、五僧峠(ごそうとうげ)などの険しい山道を越えて近江国(現在の滋賀県)へと抜ける、困難を極める道程であった 18 。
重時が本隊とはぐれたのは、この「島津の退き口」が、敵の大軍の追撃を受けながら、地理不案内な夜間の山道を進むという、極めて過酷で混乱を極めた状況下で行われたためと考えられる。敵中を突破し、絶え間ない追撃を受けながら険しい山道を進む中で、部隊の統制を維持することは至難の業であり、部隊が分散し、個々の小集団がそれぞれ生き残りをかけて行動せざるを得ない状況に陥ったことが推測される。重時もまた、数少ない供回りと共に、本隊への復帰を目指すか、あるいは薩摩への帰還ルートを独自に探る中で、運命の時を迎えることとなる。
本隊とはぐれた入来院重時は、その後も薩摩への帰還を目指して逃避行を続けたものと思われるが、慶長5年9月23日(西暦1600年10月29日)、近江国(現在の滋賀県)において、ついに東軍の兵に発見されてしまう。この時、重時には主従7名 10 、あるいは僅か6人の残兵しか従っていなかったと記録されている 15 。寡兵ながらも敵軍と交戦し、奮戦の末に戦死、討ち取られた 10 。享年28歳であった。
利用者提供の情報では「捕縛され討ち取られた」とあるが、参照した史料の多くは「討ち死に」「戦死した」という表現を用いており、捕縛されてから処刑されたという明確な経緯は記されていない。戦闘の末に討たれたと解釈するのが自然であろう。最期の場所の具体的な地名までは特定されていないが、近江国内であったことは諸史料で一致している。
本隊復帰が叶わぬまま、あるいは薩摩への帰路を辿る中で、敵勢力圏である近江国において東軍の追手に遭遇し、数少ない手勢と共に最後まで抵抗し、武士として戦死を遂げた重時の姿が目に浮かぶようである。供回りの人数が極めて少なかったことは、それまでの逃避行がいかに壮絶なものであったかを物語っている。彼の死は、「島津の退き口」という壮大な撤退劇が生んだ多くの悲劇の一つとして、そして島津家の忠臣の最期として記憶されるべきであろう。
関ヶ原の戦いで非業の死を遂げた入来院重時であったが、その名は彼が当主を務めた入来院氏の歴史と共に、また信仰の対象として後世に伝えられていくこととなる。
入来院重時には男子がおらず、女子しかいなかったため 10 、彼の死後、入来院氏の家督は、島津氏の有力な庶流である薩州島津家の当主・島津義虎の五男であった島津忠富(ただとみ、後の入来院重高)が、重時の娘婿となる形で継承した 10 。
この入来院重高は、天正7年(1579年)生まれで、文禄・慶長の役では朝鮮に渡海して軍功を上げ、関ヶ原の戦いにおいても島津義弘に従って奮戦し、薩摩への退却時にも功績があったとされている 11 。まさに、義父である重時と同様に、島津家の武将として数々の戦歴を重ねた人物であった。
慶長10年(1605年)、重高は正式に入来院氏の家督を継ぎ、名を改めて入来院重国(しげくに)、後に重高と称した。そして、慶長18年(1613年)には入来院氏の旧領である入来(現在の鹿児島県薩摩川内市入来町)へ領地替えとなり、その地頭を務めた 11 。
重時の死後、入来院氏は島津一門の有能な武将であった重高を婿養子に迎えることで家名を保った。これは、島津氏による薩摩藩内の支配体制が確立していく中で、かつては北薩の有力な国人領主であった入来院氏が、島津氏の統制下に完全に組み込まれつつも、その家格と所領を(一部変動はあったものの)維持していくための方策であったと言える。重高自身も、入来院氏の新たな当主として家をよく治め、その後の入来院氏の基礎を築いた。
入来院重時の死は、その壮絶さ故か、後世の人々に強い印象を残した。重時の死後、その子(娘婿)である入来院重高の代に、重時の霊を崇めて「日吉明神(ひえみょうじん)」とし、当時入来院氏が領していた大隅国湯之尾(現在の鹿児島県伊佐市菱刈)の荒瀬という場所に祠を建てて手厚く祭祀を行ったと伝えられている 4 。
その後、入来院氏が入来の旧領地へ復帰した際に、この祠も現在の社地である薩摩川内市入来町副田へと遷座された 15 。しかし、遷座後も重時の霊威は鎮まることがなく、人々はその威光を非常に恐れ憚ったという。そのため、重高の孫にあたる入来院重頼(しげより)の代の承応4年(1655年)、薩摩藩主である島津太守の命により、諏訪神社の神主であった宇宿若狭守久廣(うすく わかさのかみ ひさひろ)が京都へ赴き、当時の神道界の権威であった神祇管領・卜部朝臣兼起(うらべのあそん かねゆき)に願い出て、「重来明神(しきねみょうじん)」という神号と、兼起自筆の神額を賜ったとされている 15 。
こうして、入来院重時は重来神社(しきねじんじゃ、地元では「しげきじんじゃ」とも呼ばれる 22 )の御祭神として正式に祀られることとなった。特に戦時中などは軍神として篤く信仰され、武運長久を祈る多くの参拝者が訪れたという 22 。
重時の祭祀の経緯は、単なる戦死者の慰霊に留まらず、その強力な霊威を鎮め、地域や家の守護神へと転化させようとする、日本古来の御霊信仰(ごりょうしんこう)の典型的な現れと見ることができる。非業の死を遂げた人物の霊は祟りをなすという考えから、その霊を手厚く祀ることで平穏を願う信仰形態である。「霊異が鎮まらなかった」という伝承は、重時の死が地域社会にとって衝撃的であり、その記憶が人々の心に強く残ったことを示唆している。当初は入来院一族による私的な祭祀(日吉明神)であったものが、藩主の公的な命令によって京都の権威ある神道家から神号を得て公的な祭祀へと格上げされた背景には、入来院氏とその祖先である重時への敬意を示すと同時に、領内の信仰を藩の統制下に置き、社会の安定を図ろうとする為政者の意図も含まれていた可能性がある。軍神としての信仰は、武勇に優れた武将であった重時のイメージと結びつき、時代ごとの社会状況に応じてその信仰のあり方が変化していったことを示している。
入来院氏の菩提寺(ぼだいじ、一族代々の墓があり、葬祭や追善供養を行う寺)は、龍游山寿昌寺(りゅうゆうざん じゅしょうじ)であった 20 。この寺は、宝治年間(1247年~1248年)に創建されたと伝えられ、当初は臨済宗であったが、後に曹洞宗に改宗し、入来院氏の庇護のもとで栄えた。しかし、明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐の中で廃寺となり、現在はその跡地が残るのみである。それでも、境内には入来院氏歴代領主のものとされる立派な石祠型の墓が19基も現存しており、往時の入来院氏の権勢を偲ばせている 22 。
この寿昌寺跡の墓地には、入来院氏第十五代当主として「入来院重時」とその夫婦の墓があり、墓石には慶長5年(1600年)没と刻まれている 20 。重時の墓は、寛永年間(1624年~1644年)頃に造られたと考えられ、入来院氏初代当主・入来院定心の夫婦墓(こちらは1666年に新たに造られたもの)などと共に、大切に守られている 20 。
菩提寺は、一族の死者を弔い、先祖代々の繋がりを確認し、家の永続を願う上で極めて重要な場であった。重時の墓が、初代当主の墓などと共に歴代の墓所内に整然と整備されていることは、彼が入来院氏の正当な当主として歴史の中に明確に位置づけられていることを示している。廃仏毀釈という宗教政策の大転換によって寺院そのものは失われてしまったが、墓所が残存し、現在も史跡として認識されていることは、地域における歴史的記憶の継承を意味する。重来神社における神格化された信仰とは別に、仏教的な追善供養の対象として、また一族の歴史を刻む場として、入来院重時の記憶は子孫や地域の人々によって守り伝えられてきたのである。廃仏毀釈という困難な時代を経てもなお、その存在が確認できることは、入来院氏が地域社会において有していた影響力の大きさを間接的に示していると言えよう。
入来院重時の生涯を史料から追うことで、彼が生きた時代とその中での彼の位置づけ、そして人物像についていくつかの考察が可能となる。
入来院重時は、島津氏の家臣団の中で、特に島津義弘配下の武将として、戦国時代の終焉から織豊政権期、そして関ヶ原の戦いに至るという、日本史における激動の時代を生きた人物である。彼はまた、入来院氏という北薩摩の有力な国人領主の当主として、強大な島津宗家との関係を維持しつつ、自家の存続と発展を図るという難しい立場にもあった。
彼の生涯は、島津氏の領土拡大とそれに伴う戦い、豊臣政権という中央集権化の波、そして徳川家康による新たな支配体制の確立へと向かう関ヶ原の戦いという、大きな歴史のうねりに翻弄された地方武将の一つの典型と見ることができる。重時が生きた時代は、まさに中世的な在地領主層が解体され、近世的な大名領国制へと移行していく過渡期であった。島津氏は、中央政権(豊臣氏、そして徳川氏)との間で時に緊張し、時に協調しながら、その巨大な版図を維持しようと努めた。関ヶ原の戦いは、そうした中で多くの武家の運命を左右する決定的な出来事であった。
重時の生涯と最期は、このような歴史の転換点において、地方の有力武将がどのように生き、そして時代の波に呑まれていったかを示す一例と言える。彼の行動は、島津家という大きな枠組みの中で規定されつつも、入来院家当主としての責任や、個人の武人としての矜持に突き動かされたものであったと考えられる。彼の死は、島津氏にとっては多くの有能な家臣を失った中の一つの痛手であったろうが、結果として島津氏は本領安堵を勝ち取り、近世大名として幕末まで存続することになる。その困難な過程で犠牲となった多くの家臣の一人として、入来院重時の存在は記憶されるべきである。
入来院重時自身の言葉や、その内面を詳細に伝える史料は残念ながら乏しい。しかし、彼の経歴や行動の軌跡、そして死後の扱われ方から、その人物像をある程度推測することは可能である。
まず、島津氏、特に島津義弘に対して忠実であり、その信頼も厚い武将であったと推測される。九州平定における若年での奮戦、慶長の役への従軍、そして関ヶ原の戦いでの義弘隊への参加と、島津氏にとって重要な局面で常に第一線に身を置いていた事実は、彼の武勇に優れ、かつ責任感の強い人物であったことを示唆している。
また、庄内の乱において、自らの家臣が反乱軍に加わるという不祥事が発生した際には、主君である島津忠恒に同行して徳川家康への釈明に赴くなど、家の立場を守り、困難な状況に対処するための政治的な行動も取っている。これは、単に武勇一辺倒の人物ではなく、家の安泰を考えて行動できるバランス感覚も持ち合わせていた可能性を示している。
そして何よりも、関ヶ原からの撤退戦において本隊とはぐれ、寡兵となりながらも近江国で最期まで戦い討ち死にしたという事実は、当時の武士としての価値観、すなわち主君への忠義を貫き、名誉を重んじて死地にも怯まないという精神を体現したものと言えるだろう。
彼の死後、その霊が祟りをなすと恐れられ、やがて軍神として重来神社に祀られたという事実は、その武勇や非業の死が、当時の人々に極めて強い印象を与え、畏敬の念を抱かせたことを物語っている。
総じて、入来院重時は、現存する断片的な史料からうかがえる範囲では、戦国武将としての典型的な美徳、すなわち忠義、武勇、責任感を備えた人物であったと評価できる。彼の生涯は、戦国乱世の終焉と近世の幕開けという時代の大きな転換期に生きた武士の、一つの生き様を示していると言えよう。関ヶ原での悲劇的な最期と、その後の神格化は、彼の武人としての生き様が後世の人々に強い感銘を与えた証左である。
表2:入来院重時 略年表
和暦(西暦) |
出来事 |
関連人物・事項 |
典拠 |
天正元年(1573年) |
島津以久の次男として誕生。 |
島津以久 |
10 |
時期不明 |
入来院重豊の養子となる。 |
入来院重豊 |
10 |
天正15年(1587年) |
豊臣秀吉の九州平定に際し、島津歳久らと共に奮戦。 |
島津歳久、新納忠元、豊臣秀吉 |
10 |
文禄元年~2年(1592年~1593年) |
文禄の役。日本に残留。 |
|
10 |
慶長2年~3年(1597年~1598年) |
慶長の役。島津義弘に従い朝鮮へ渡海。 |
島津義弘 |
10 |
慶長4年(1599年) |
庄内の乱。島津宗家方に属す。家臣が伊集院方に参加したため、島津忠恒に同行し徳川家康へ釈明のため上京。 |
伊集院忠真、島津忠恒、徳川家康 |
10 |
慶長5年9月15日(1600年10月21日) |
関ヶ原合戦。島津義弘隊に従軍。西軍敗北後、「島津の退き口」にて本隊とはぐれる。 |
島津義弘、石田三成 |
10 |
慶長5年9月23日(1600年10月29日) |
近江国にて東軍兵に発見され、主従7名(または6名)と共に討ち死に。享年28。 |
|
10 |
重時死後 |
娘婿の入来院重高が家督を継承。 |
入来院重高 |
10 |
重高の代 |
重時の霊が湯之尾に「日吉明神」として祀られる。 |
入来院重高 |
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承応4年(1655年) |
重高の孫・重頼の代、藩命により京都吉田家から「重来明神」の神号を得る。 |
入来院重頼 |
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本報告書では、戦国武将・入来院重時の出自からその生涯、そして関ヶ原の戦いにおける最期と死後の影響について、現存する史料に基づいて詳細な検討を行った。
重時は、島津氏の有力な一門である島津以久を実父に持ち、北薩摩の有力国人領主・入来院氏の養嗣子となった人物である。彼の生涯は、島津氏の家臣として、九州平定、文禄・慶長の役、庄内の乱といった歴史的な出来事に関与し、常に戦いの最前線に身を置くものであった。そして、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦において、主君・島津義弘に従い参陣し、西軍敗退後の壮絶な撤退戦「島津の退き口」の混乱の中で本隊とはぐれ、近江国で少数の家臣と共に討ち死するという悲劇的な最期を遂げた。
彼の死後、入来院氏の家督は娘婿の重高によって継承され、島津藩体制下で家名は存続した。また、重時の霊は故郷入来の地で「重来明神」として祀られ、軍神として後世の人々の信仰を集めることとなった。これは、彼の武勇と非業の死が、人々に強い印象を残したことの証左であろう。
入来院重時の存在は、島津氏の戦国末期から近世初頭にかけての歴史、入来院氏という在地領主の変遷、そして関ヶ原の戦いという日本史上の大きな転換点において、多くの武士たちが辿った運命の一端を象徴している。彼の生涯は、激動の時代を生きた一人の武将の生き様として、また、地方史における重要な足跡として、今後も記憶され、研究されるべき価値を持つと言えよう。本報告書が、入来院重時という人物への理解を深める一助となれば幸いである。